湯川豊 「安楽椅子の釣り師」読了
安楽椅子の釣り師=アームチェアフィッシャーマンとは、何かの事情、例えば、天気が悪い、怪我、病気をしている、お金がないなどなどで釣りに行くことができない釣り師が家で釣具を前にしながらいままでの様々な思い出に心をめぐらせて時間を過ごす人のことを言う。
この本はそんな人たちがアームチェアに腰掛けながら読むためのアンソロジーである。
多分、司書が抜き忘れたのであろう、前の人の貸出票がそのままはさまれていた。日付を見ると、ちょうど1年前。確かに去年のこの時期、台風が連続して日本に接近していた。おそらくその釣り師殿は本当に家の中でアームチェアフィッシャーマンとなっていたようだ。
夏に読む本というわけではないだろうが、いくつかの文章は幻談めいた内容になっている。山深い渓流に分け入った釣り師が出会う様々な霊なのかもののけなのかどうも判別がつかない、そんなものが登場する。
釣りの文学というと、現代ではどうなのだろうか。知識と情報が豊富でないからなのだろうが、それほど秀逸というようなものに出会うことが無いような気がする。今では紀行文かギミックを駆使したハードボイルドかアクションもの、ハウツーものにしかならないような気がする。
山の奥はGPSで特定され、海の底は魚探で丸裸だ。ウエアは郷愁を誘うことなども思いもよらないカラフルさでしかも快適だ。道具もよほどのことがない限り折れたり切れたりということがない。そういう意味では幻想や山の奥深さ、海の底の深遠さ、そんなものを表現するにはあまりにも世の中が明るくなりすぎたということだろうか。
最近はフィッシングという言葉の接頭語として”スポーツ”なる言葉がくっつくようになった。釣りは運動として楽しむものになったらしい。まず、釣りという言葉が“フィッシング”という言葉に置き換わったということも時代の大きな流れだ。
師はよくエッセイやインタビューの中で、「釣り師は心に傷があるから釣りに出てゆく。しかしその傷がどんなものであるかを知らない。」という一節を使った。今ではそういう感覚もなくなってしまい、釣り番組を見ていても魚をヒットさせたあとでバカ笑いをしながら魚とのやり取りをしている。なぜだかそれに違和感を感じる。魚釣りというのはもっと厳粛であるべきものではないのだろうか。そして釣られた相手に敬意を表してきちんと食べさせていただく。それでなければならないと思う。
この本のほぼすべてはそんな古きよき時代の釣りの香りが残っている。僕の釣りもまったくもって、”スポーツ”とは程遠いものではないかと思っている。和歌山でいう、”おいやんスタイル”だ。だからこれらの物語にもフムフムとうなずくことができる。
いまどきそれでいいのかどうかはわからないけれどもまあ、それしかできないので仕方がない。
去年この本を借りた人も、僕と同じおいやんスタイルの釣り人であったのだろうか・・・。
安楽椅子の釣り師=アームチェアフィッシャーマンとは、何かの事情、例えば、天気が悪い、怪我、病気をしている、お金がないなどなどで釣りに行くことができない釣り師が家で釣具を前にしながらいままでの様々な思い出に心をめぐらせて時間を過ごす人のことを言う。
この本はそんな人たちがアームチェアに腰掛けながら読むためのアンソロジーである。
多分、司書が抜き忘れたのであろう、前の人の貸出票がそのままはさまれていた。日付を見ると、ちょうど1年前。確かに去年のこの時期、台風が連続して日本に接近していた。おそらくその釣り師殿は本当に家の中でアームチェアフィッシャーマンとなっていたようだ。
夏に読む本というわけではないだろうが、いくつかの文章は幻談めいた内容になっている。山深い渓流に分け入った釣り師が出会う様々な霊なのかもののけなのかどうも判別がつかない、そんなものが登場する。
釣りの文学というと、現代ではどうなのだろうか。知識と情報が豊富でないからなのだろうが、それほど秀逸というようなものに出会うことが無いような気がする。今では紀行文かギミックを駆使したハードボイルドかアクションもの、ハウツーものにしかならないような気がする。
山の奥はGPSで特定され、海の底は魚探で丸裸だ。ウエアは郷愁を誘うことなども思いもよらないカラフルさでしかも快適だ。道具もよほどのことがない限り折れたり切れたりということがない。そういう意味では幻想や山の奥深さ、海の底の深遠さ、そんなものを表現するにはあまりにも世の中が明るくなりすぎたということだろうか。
最近はフィッシングという言葉の接頭語として”スポーツ”なる言葉がくっつくようになった。釣りは運動として楽しむものになったらしい。まず、釣りという言葉が“フィッシング”という言葉に置き換わったということも時代の大きな流れだ。
師はよくエッセイやインタビューの中で、「釣り師は心に傷があるから釣りに出てゆく。しかしその傷がどんなものであるかを知らない。」という一節を使った。今ではそういう感覚もなくなってしまい、釣り番組を見ていても魚をヒットさせたあとでバカ笑いをしながら魚とのやり取りをしている。なぜだかそれに違和感を感じる。魚釣りというのはもっと厳粛であるべきものではないのだろうか。そして釣られた相手に敬意を表してきちんと食べさせていただく。それでなければならないと思う。
この本のほぼすべてはそんな古きよき時代の釣りの香りが残っている。僕の釣りもまったくもって、”スポーツ”とは程遠いものではないかと思っている。和歌山でいう、”おいやんスタイル”だ。だからこれらの物語にもフムフムとうなずくことができる。
いまどきそれでいいのかどうかはわからないけれどもまあ、それしかできないので仕方がない。
去年この本を借りた人も、僕と同じおいやんスタイルの釣り人であったのだろうか・・・。