イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「釣魚をめぐる博物誌」読了

2018年10月30日 | 2018読書
長辻象平 「釣魚をめぐる博物誌」読了

魚と釣りに関する薀蓄がぎっしりと詰まっている。
著者は江戸から明治、昭和初期にかけての釣り文化に詳しい釣魚史研究家であり、魚類生態学というものを大学で学んでいたそうだ。

本書は、海の魚、川の魚、あまり食卓や話題(釣りの世界では)に上らない脇役の魚たち、そして怪奇談から古今東西の話題、そのこぼれ話。そんな章立てで編集されている。

へ~。と思ったり、なるほど!と思ったりしたことをいくつか。
・フグの毒はテトロドキシンという名前だけれども、テトロドは「4」という意味(テトラポッドのテトラと同じ)でオドンは「歯」トキシンは「毒」という意味。上下あわせて4枚の歯を持っている魚から分離された毒なのでこんな名前がついたそうだ。
「007 ロシアより愛をこめて」でジェームズボンドが瀕死の重傷を負わされるのが日本のフグから採った毒だったらしい。

・鮎という字は中国ではナマズのことを指すけれども、これは日本に入ってきたときに間違えたというのは知られた話だが、鮎の字を取られたナマズはどうして鯰という字が当てられたか。鮎の音読みは“ネン”だそうだ。そういえば粘液という字のつくりの部分は鮎と同じだ。で、鯰のつくりの部分も“ネン”と読める文字を当てて鯰になったとか。

・魚の訓読みは“さかな”だけれども、常用漢字としては昭和48年になってはじめて採用されたそうだ。それまでは“うお”もしくは“ぎょ”としか記載されていなかった。もともとの“さかな”は肴であるが、この文字の意味はお酒のおつまみに供される食材のこと。魚を使ったものが多かったのでいつしか魚も“さかな”と世ばれろ用になった。だから正しくは“さかなつり”ではなく“うおつり”なのだが、ここでふと思い直した。僕の場合、食べたくて魚を釣りに行ってるのだから、やっぱりここは“さかなつり”でいいのではないかと。キャッチアンドリリースの人たちはこれからは“うおつり”に行くと言ってもらいたい。(まあ、この人たちはそうは言わずに、フィッシングというのだろうね。)

・釣りと怪談話とはかなり縁があるそうだ。人気のない暗い場所でそれもひとりでという場面が多いから自ずとそうなってくる。また、水辺というのは死と隣り合わせの場所でもある。四谷怪談、牡丹灯篭などにも魚釣りの場面が出てくるらしい。
そしてこの本には和歌山市が舞台の怪談も紹介されている。場所は雑賀崎から田ノ浦にかけてのとある岩場での出来事。鈴木周徳という男がよく釣れる秘密の場所を見つけたということで夜な夜な釣りに出かけていた。しかしながらある夜は水を頭からかぶったようにずぶ濡れで帰ってきたけれどもどうしてそんなことになったのか当の本人は覚えていない。そしてとうとう、喉首をかき切られた状態で死体となって発見された。自殺のようだが、持っていた匕首は鞘に納められ、少し血がついていた。はて、自分で首を切ってそのあと鞘に納めたかという話になったが、発見された場所というのが、怖い出来事が起こると悪い噂のあるところで誰も近寄らなかったという場所だった。人が近寄らないから魚がよく釣れたというのだが、雑賀崎から田ノ浦ってしょっちゅう行ったり来たりをしているが、はたしてどの場所なのだろうか・・。

・忠臣蔵の話。あだ討ちに成功した赤穂浪士はその後、切腹するまで預かり先の大名屋敷ではヒーロー扱いで丁重なもてなしをされた。出てくる料理も豪華なものばかりだったらしいのだが、大石内蔵助はそれまでの1年間に食べ続けたイワシと黒い米が懐かしいと嘆いていたらしい。窮乏のなかで本懐をとげたというところだ。
 そして、吉良側の人には釣り好きのひとがいたそうだ。「何羨録」という本は日本最古の釣りの指南書と言われているそうだが、これを書いたのは津軽采女4千石の旗本であった。
采女の正妻は吉良上野介の次女であったことから、討ち入りの翌日には吉良邸に駆けつけたらしい。もともと暇な旗本であったうえに、吉良側だとなると、「世評的に出世の道が途絶えた」ということで余計に釣りにのめりこんだという説もあったそうだ。なんともうらやましい。この本は享保年間に書かれたということなので、そんな心境の中で書いたということになる。また、この人はあの、生類憐みの令を出していた五代将軍徳川綱吉の秘書官役という側小姓であったというのが驚きだ。そんな立場でも釣りが好きという一本芯が通っているところがかっこいいではないか。
序文にはこんな言葉が残っているそうだ。

「嗚呼、釣徒の楽しみは一に釣糸の外なり。
利名は軽く一に釣艇の内なり。
生涯淡括、しずかに無心、しばしば塵世を避くる。
すなわち仁者は静を、智者は水を楽しむ。
あにその他に有らんか」

口語訳では以下のとおり。

釣り人の楽しみはやはり“釣果”に尽きるだろう。
社会的名誉は重要ではない。いま、自分の世界はこの釣り船の中が全てであり、完結している。
だが生きていくとそれだけで、どうしてもなにかと煩わしい。難しいもので。
だから自分は時々、そんなことは忘れることにしている。
つまり
仁(慈悲や憐憫)の心を持つ者は心静かであることを楽しみ、
智恵のある者は水(釣り)に楽しむのだ。
これほどの楽しみがあるだろうか。

釣りはこうでなければ・・。

とまだまだたくさんの話のネタが山盛りなのだ。
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