イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「そして、バトンは渡された」読了

2019年07月17日 | 2019読書
瀬尾まいこ 「そして、バトンは渡された」読了

この本は、今年の本屋大賞を受賞した作品だ。4月の初めごろに貸し出しの予約をしてやっと順番が回ってきた。

テーマは「家族とは・・」という感じだろうか。主人公は幼少のころ、母親の死をきっかけにして両親が合わせて5人も入れ替わるという経験をする。
しかし、そこには悲壮感というものは漂ってはこない。
主人公も周りの人たちもすべてよき人という設定だ。いうなれば「朝ドラ」の乗りである。
まあ、こんなにうまくすべてが運んでいくというということはありえないのではないかというのが素直な感想になってしまう。
文学とは「不条理」と「独白」だと思っている僕にとってはそんな感想になってしまう。
だから、なんだか、ケーキ屋さんが使うヘラのようなもので表面だけをす~っと切り取って、それを壊れないように慎重にトレイの上に置いたようなイメージなのである。

おそらくは“血縁”というものを排除したその先での家族の姿はどんなものだろうかという、「なつぞら」と同じテーマを追いかけているのだろう。
なっちゃんのセリフに、「なんでも言い合える家族なんだ。」というのがあったけれども、本当にそうなのだろうか、「人は心の中で思っていないことは言わない。」そうだ。人類補完計画が実現していないこの世界では家族といっても個々の人間だ。その一言で相手が何を考えているのかがわかってしまう。そしてそれが人の本質を非難するような言葉であったとするならそれでもすべてを許すことができるであろうか。

この物語の登場人物たちは言いたいことを言っているように見えて、じつはそれぞれが相手の気持ちを傷つけることに対して慎重になりながら言葉を選んでいる。「本質に触れずにうまく暮らしている。」と言われればそれまでだけれどもこの本は逆説的に家族にはそれが必要なのであると語っているような気がしたのである。

最後には大団円を迎えるわけだけれども、はたしてこの物語がテレビドラマになったとしたら、やっぱり主人公は広瀬すずに決まりで、最後に父親になる人はやっぱり若い頃の内村光良に違いないと思ってしまうのでこれは限りなく朝ドラっぽいのである。
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「人生複線の思想― ひとつでは多すぎる」読了

2019年07月11日 | 2019読書
外山滋比古 「人生複線の思想― ひとつでは多すぎる」読了

本好きがいよいよ読む者がなくなってくると、電話帳を読みなじめるという。本好きというような偉そうなことは言えないけれども、ぼくも手持無沙汰になったときなど活字がないとたまらなく寂しくなる。
この本も、目当てにしていた本の貸し出し予約の順番が近づいてきたのでそのつなぎにという感じで借りたものだ。

著者は「思考の整理学」という本の著者だ。

「新潮45」などに掲載されていたエッセイをまとめたもので、その内容は英文学者としての英語教育についての一言、戦時中、敵国語としての英語を勉強することの困難さ、年齢を重ねてからの様々なことに対する思いと多岐にわたっている。

特に、経験を積むことの意味、朝の効用についての独特の見解にはなるほどこういう考えもたしかにあるなと思わせられる。
「経験は最高の教師なり。」というけれども、お手盛りの経験ではダメなのだ。そう思っていたはずなのに自分経験不足の面があったことを、はたと気付かされる。
「朝の仕事は良質で見事な仕上がりであることが多い。」良質で見事な仕上がりではないにしても朝は気持ちがいい。僕の休日はいつも早いが、なにも釣りに行きたいがためだけではない。早朝というのは何かどこか日常とは異なる感覚があるのだ。けっして24時間営業のスーパーのパンが半額になっているからうれしいのではない。

タイトルにもなっている、「ひとつでは多すぎる。」そのあとには「ひとつでは元も子もなくなる。」と続くそうだ。逆説的に解釈すると、ひとつのことに執着していると失うものも多いということだろうけれども、これは本当に正しいのか、この意味のとおりなのか、それこそもっと歳を経ないとわからない。釣りの世界では、あれこれやっちゃうとどっちつかずになってしまう。僕は確かにそれに陥っている。しかし、寿命が長くなっているこのご時世、ひとつのことにこだわるには長すぎる。それは最後の最後にやっとわかることなのかもしれない。それを心に留めながら白秋から玄冬を生きてゆくということが必要なのだろう。

当時の「思考の整理学」感想を読み直してみると、勤務場所が近くなったら改めて読み直してみようと書いている。出たり入ったりで2回目の勤務になったのだから、蔵書のパッキンの中から探し出してもう一度読み直してみようかしらと思うのだ。
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「生物模倣―自然界に学ぶイノベーションの現場から」読了

2019年07月08日 | 2019読書
アミーナ・カーン/著 松浦 俊輔/訳 「生物模倣―自然界に学ぶイノベーションの現場から」読了

バイオミミクリー」「バイオインスピレーション」(生体模倣)という考えは、生物のからだの構造や行動を人間の生活に取り入れようという工学のことをいう。

思い浮かぶのは、液晶がイカの体表の色の変化の模倣。王将の餃子のたれのパックのビニールがまっすぐ手で切れるのもイカの体の構造の模倣。(そういう意味ではイカはすごい。この本の最初の章でも、コウイカの体表の変化速度と周りの景色に同化するレベルの高さから、それを参考にして高度な迷彩服の開発をしているらしいということが書かれている。)
新幹線の先頭車両はカワセミの嘴だったりあったりする。
しかし、この本はその先、分子レベルや社会性といった部分の模倣の可能性について書かれている。

結論からいうと、この地球上に生物というものが現れてからその99パーセントは絶滅している。それを考えると、バイオミミクリーというものが完璧なものであるとは言えない。ということだそうだ。
しかし、抜群のエネルギー効率ということでは生体模倣というものは遠い将来に向かって大きな価値を生むことは間違いがない。
ここでいうエネルギーとは熱量としてのエネルギーだけではなく、社会生活を営むうえでの作業効率というものも含まれる。印象に残ったのはシロアリの社会構造、そして植物の光合成(人工の葉の開発)というものだ。

シロアリの行動は個別の知能によって統合さているものではなく、だからといって女王アリが何かの指令を出しているわけではない。しかし、全体としては社会としての機能を維持している。これは単純なシロアリの反射行動が重なることで知能を持っているかのごとくの振る舞いをする。イワシの群れがまるでひとつの生き物のように動くというのも同じである。それをアルゴリズム化することで効率よく働けるロボットを作ろうという研究があるそうだ。

人工の葉はまさにエネルギー問題の解決。最終的には無機物(半導体)を使って炭化水素を合成しようというらしいけれども、人工光合成というのは確か大阪市大で研究しているというニュースを見たことがあるけれども今のところまったく役には立たないそうだ。そういう意味では確かにこの本は“現場”を取材している。

そう考えるとこの本に載っているバイオミミクリーはまだまだ端緒に差しかかったところなのだろうけれども、はたしてそれが実現した社会とはどんな世界なのだろうか。人間は蟻塚のような巨大なビルの中で何者かに操られるようにして生きているのだろうか。それが人間らしく生きていると言えるのだろうか。
人間は自らの寿命を伸ばすためにエネルギーを浪費しているというのは、「生物学的文明論」に書かれていたことだけれども、それでは効率だけを追い求める生き方は人間らしい生き方とは言えないということになる。もっというと、人間自体も自然界の中で生きている。それが生きのびるための行動の結果寿命を伸ばし、他から見ると効率的ではないエネルギーの使い方をしていると言われても、それは何と比べてなのかとなってくる。

だから僕は蟻塚のような巨大なビルの中であくせく働きたくはない。まあ、アリの巣のアリの2割は怠けているという研究もあるそうなのでその時は4割の方でいきたいと思うのだ。


そのバイオミミクリーは先に書いた通り、99パーセントの生物種が絶滅しているということからその進化は最適なものではなかった。この本には、進化には目的があるのではなく、今を生きるための「間に合わせ」があるだけだという。これはいい答えだと思う。先のことを思うから無駄なエネルギーを使っていると思ってしまう。今が間に合っていればそれでい。それ以上あくせくしない。そんな生き方ができれば一番いいように思う。
現実はそうとう難しいと思うのだが・・・。
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「京都 影の権力者たち」読了

2019年06月29日 | 2019読書
読売新聞京都総局 「京都 影の権力者たち」読了

この本は、いつも山菜採りでお世話になっている森に暮らすひまじんさんが新聞記者をされていたときに書かれた本だそうだ。複数の執筆者が書いているようで、きっとひまじんさんが指揮か監修をされたという感じだろうか。
「はじめに」の部分はひまじんさんの署名がされているが、その文体は、「森に暮らすひまじん日記」そのものだ。もう、これはひまじんさんが執筆したのに違いがない。

京都には、「白足袋にはさからうな。」という格言があるそうだ。白足袋を履いて仕事をする人たち、この本に出てくる京都の仏教界、花街、茶道、公家、伝統産業の旦那衆ことを指し、この人たちを敵に回しては絶対にことがうまく運ばないという意味らしい。聞くだけでも格式があり、一般人がうかがい知ることができないようなそんな世界を取材したノンフィクションになっている。
なんだかそういった世界は既得権を守り、どこからどうやってきたのかわからないお金があっちへ行ったり、こっちへ来たりするような、ある意味魑魅魍魎が跋扈しているような世界と思いがちである。確かにこの本でも仏教界や茶道界のお金の流れや花街と旦那衆と言われるひとたちとのかかわりが書かれているけれども、逆に、こういった数百年も続くような伝統、それも文化の極みにあるような世界をそれだけ長く保ち続けるためにはそれなりの費用がかかるのは間違いがないのであり、そういうところを人々はやっかみ半分でいろいろ言いたがる。
人々は覗き見が好きだから、えてしてその裏の部分を、もしくは裏の部分として見たがる。しかしそれを守るためにそこにいる人々がどれだけの情熱をつぎ込んでいるかという表の部分は見たくない。それは心の中で自分と比較したとき、そのエネルギーの無さにあまりにも自分がみじめになるからだ。物理の世界でも文化の世界でもエントロピーの法則が成り立つということを一般人はわからないのだ。

この本のタイトルは出版社の方が考えたそうだ。多分、一般の耳目を集めるため、裏側から見ました的な、「影の権力者」ということになったように思えるが、ひまじんさん側からの提案された、「〇〇生態学」というタイトルは、きっとその伝統を守るために情熱を傾け、時代の変化に対応しながら一所懸命に生きている人々の姿をたたえたものであったのではなかったのではないかと思うのである。

そして、それは自分たちの世界を守るだけでなく、京都の町全体を守ることであったということが共産党について書かれた最後の章に現れているのではないだろうか。共産党も、外から見ればどうも近寄りがたい活動をしているように見えるけれども、自分たちの町を自分たちの町らしく守っているのだという意味では白足袋の人たちと同じ気持ちではないのだろうかと思うのである。様々な人々がひとつの町(生態系)を作り上げている。だから“生態学”なのであろう。


まあ、会社も同じようなもので、全体を動かしている人たちというのはやはりそれなりの“格”を持った人たちのように思う。(僕の働いている会社だけかもしれないが・・)品があるとまでは言わないが、僕のようにびくびくしながら生きてはいないというか、それは育ちなのか生まれ持った性格なのか、一種何かにじみ出るような余裕がある人たちのように思う。ぶっちゃけ、聞けば名家の出身という人が多い。他の企業でもそういう人が上にいれば同じような“格”同士ではないと事は進んでいかないのだろう。すべての人がそうではないのだろうけれども、そんな中に入り込める平民はごくわずかで、大多数はそんな”格”を持った人たちで占められている。それを集めるのがコネというのなら、はやりそれが十分条件で、自分がやるんだという情熱が必要条件であるのだなとあらためて思うのだ。僕はどう見てもその両方の条件を持ち合わせていないわけで、会社の中に埋もれてゆくしかないのである。


僕もわずか三行だけれども、自分の書いた文章が本になったことがある。朝日新聞の書評欄に載った文章を集めて本になるときに一緒に載せてくれたのだ。一応、著作権の確認があったり、出来上がった本が送られてきたりして、なんちゃって作家気分を味わせてもらったけれども、自分がかかわった本が出版されるというのはどんな心持ちなのだろうか。
あこがれるな~。
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「ミズノ先生の仏像のみかた」読了

2019年06月24日 | 2019読書
水野敬三郎 「ミズノ先生の仏像のみかた」読了

本書は、どの仏様がどんな姿をしているか、どんな持ち物を持っているかということの解説ではなく、時代の変遷とともに変化した表情、作成法、使われた素材というものをインタビュー形式で解説している。著者は、仏像美術史学者という肩書を持っている人だそうだ。

美術品として仏像の様式は、鎌倉時代の運慶や快慶のころから以降は大きな変化がないそうだ。たしかに、江戸時代の仏像で、「これはすごい。」というものを聞いたことがなく、奈良や京都の仏像が紹介されることが多いのは、その後はあまり大きな変革というものがなかったからだということがわかった。話題に乗せようとしても大きなトピックスになるものがなかったということだから僕みたいな知識がまったくないものには触れる機会がなかったのは当然だ。

日本で造られた仏像で最古のものは法隆寺にある釈迦三尊像であるのだが、お顔を拝見している(写真でだけだが・・)とどうもアンバランスな感じがしていた。これは僕の思い過ごしではなく、仏像のデザインがガンダーラから東に伝わっていく過程でそれぞれの国の人々の顔の特徴を取り入れながら少しずつ表情が変わってきたのだが、それが日本に伝わったとき、鼻梁のはっきりした形やガンダーラ風のアルカイックスマイルの口元の表情が残ったけれども、目は日本人っぽく造られたというのがあのお顔だそうだ。西洋人は二重瞼の人がほとんどだが、日本人は一重まぶたの人が多い。法隆寺の仏様も一重まぶただそうだがそういうところにどうもその原因があるようだ。それでもやはりその荘厳さになんのほころびもないのだ。
その後、日本の国では様々な時代背景を経て定朝様ひとつの完成を見せることになる。丸みを帯びた輪郭とふっくらとした体つきは平和な時代と極楽浄土の世界を体現した。
時代は武士の時代になり、質実剛健さが加わる。そして密教では憤怒の像が加わりここで日本の仏像のデザインは固定され、のちの時代は円空仏のようなものを除いてはほぼすべてどの時代かのデザインを踏襲するようになる。
おおまかだが、こんな歴史があるそうだ。

その中で、定朝の時代の前、世の中の災いは怨霊や呪詛、疫神の仕業であり、そういう恐ろしい存在を鎮めるために厳しい表情の仏様が現れる。

僕は定朝よりもそんな表情の仏様に魅かれる。やはり仏様には世の中を厳しい目でみていただいてそして僕をそんな世界から救い出してほしいのだ・・・。
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「窓際OL 会社はいつもてんやわんや 」読了

2019年06月13日 | 2019読書
斎藤由香 「窓際OL 会社はいつもてんやわんや 」読了

しかし、この人が窓際というのなら、世の中のかなりのサラリーマンが窓際ということになるのではないだろうか。この人が窓際なら、僕なんか窓の下だ。それも屋外の・・・。そういう場所というのは上の窓からゴミしか落ちてこないのだ・・。

サントリーという超々一流企業の広報に在籍しているひとで窓際あつかいされている人というのはいないだろう。広報という部署は大概の会社は総務部門の一部門であるから会社の中枢であり会社の中でも限りなく役員たちに近い職場だ。この本にもそんな役員のことが面白おかしく書かれている。それだけを見ても窓際であるはずがない。職務上、有名タレントや作家と交流し、おまけにこんな本まで出版してしまうのだから“窓際”という冠にシンパシーを感じて読んでいるこっちが白けてしまうのだ。

著者は北杜夫の娘である。ということは斉藤茂吉の孫ということだから超サラブレッドだ。この本は当時(2005年ごろ)の週刊新潮に連載されていたものを1冊にまとめたものだそうだ。このころ、健康食品の拡販に力を入れていたサントリーが著者の知名度を使って今でいうステルスマーケティングを展開するために彼女を使ったというところが本音のところではないだろうか。「マカ」というサプリメントを持って企業や官庁のそれもかなり中枢の人々に直接接触して配るにはヒラ社員のほうが都合がよかったということだろう。配りに来る人が北杜夫の娘で斉藤茂吉の孫だとなると、「そうですか~。」となるというものだ。広告上手のサントリーのやりそうなことだ。

しかし、サントリーという会社はエリートというか、サラブレッドというか、すごい人たちと言っても過言ではない人たちが働いているようだ。著者は北杜夫の娘だが、この本の登場人物には宮本武蔵の末裔という人もいる。東大、京大はざらで首席卒業かもしくは大学院卒ばかりが登場する。

ここからは僕の友人の話だが、歴史がある会社というのはえてしてそうなのか、都市伝説のようにコネというものが会社の中に存在する。そんなものはうわさ話にすぎず、やっぱり仕事のできる人が偉くなるに決まっていると思っていたそうだが、あるとき、その当時の上司が「今度異動してくる人はこんな人。」とカルテのようなものを見せてくれたそうだ。
人事権を持っているわけではない彼はそんなものをその時まで見たことがなく、自分にもこんなデータがあるのかと過去の失敗や悪事も書かれているのかと恐怖したと同時に、「紹介者」という欄があったことに驚いたそうだ。この欄が人事にどれだけの威力を発揮しているのかわからないけれども、「コネがあると出世する。」という命題が真実であるとするならば、コネというのは会社の中では十分条件に限りなく近いものであるのだと肩をうなだれてしまったと言っていた。

ならばサントリーでもそうなのかと思うけれども、サラブレッドとなるとまた意味が違ってくるような気がする。ある才能が発揮されるためには遺伝子のスイッチが入ることが必要なのだそうだ。そして、そのスイッチが入るためには育つ環境が非常に重要である。とこの前のNHKスペシャルでやっていた。だから、歌舞伎役者の子供が歌舞伎が上手かったり、政治家の子供が政治家になって総理大臣になるというのもあながちコネや人脈だけではないらしいのである。
だとすると、文学者の子供はやはり文才があり、ビジネスエリートの子供は優秀なビジネスマンになるということか・・。そしていい会社にはそういう人たちが続々集まってきてさらに会社は繁栄する。そういえば、就職活動をしていた30年前の当時でも、サントリーにはよほどのことがないかぎり就職はできないと聞いたことがある。能力もしかりだが、きっとそういう家柄みたいなものがものをいう会社ではあるのだろう。非上場の会社だからそれはもっと顕著だったのかもしれない。この本にはサントリーと社屋が近いフジテレビの話もよく出てくるが、この会社には遠藤周作や宇津井健の子供が働いていたそうだ。庶民が働いてはいけない会社、もしくはそういうものが十分条件である会社というのは意外とたくさんあるのかもしれない。貴族の社会というものは現代でもちゃんと存在しているのかもしれないということだ。
そんなことも思いながら読んでいるとますますシラケテしまった。

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「朝ドラには働く女子の本音が詰まってる」読了

2019年06月08日 | 2019読書
矢部万紀子 「朝ドラには働く女子の本音が詰まってる」読了

タイトルに、「朝ドラ」と入っていると読まないわけにはいかない。
ただ、書かれている内容はあくまでも著者の個人的な感想ばかりで、時代や世相の移り変わりがどのようにドラマに影響を与えたかみたいな文化的、社会的な側面はほぼ皆無。著者も書いているが、友人との飲み会での会話のようだ。松本人志の「遺書」や「松本」の編集者だそうだが、個人的な感想で本を1冊出版してしまうというのはなんとも大胆に思える。タイトルは、「働く女子の本音が詰まってる」だが、これでは著者の本音しか詰まっていないような気がする。
その感想を読んでいくとなんとなくこの人の好みがわかってくる。どうも好きなのはヒロ、インが結婚や恋愛で苦悩する場面と、イケメンの脇役たちだ。だから、「カーネーション」と五代様と嘉納様の評価が高い。逆にヒロインがたくさんの幸運に恵まれて幸せになってゆくストーリーには手厳しい。きっと著者の人生は山あり谷ありだったのだと想像する。

まあ、ドラマなんて自分勝手に解釈して観ればいいし、それをとやかく言うつもりもないのでこれはこれでよしとしよう。

著者の分析では、ドラマの脚本家が言いたいことというのは、それぞれの脇役のセリフに現れているという。たしかに、朝ドラのヒロインは「明るく、元気に、さわやかに。」がほぼ絶対条件で動かしがたいものがある。となると、いかに脇役にそれを言わせるかということが脚本家の腕の見せ所ということになる。実在の人物の立志伝では流れが決まっていてヒロインの意思の強さや力強さで押し切ることもできるのだろうが、完全オリジナルの物語ではやはりそこが大切である。「ひよっこ」では宗男叔父さんがそういう役回りであったし、あまちゃんではやっぱり夏さんであろう、あの、たぶん大失敗であった「まれ」でも紺谷弥太郎の、「漆は嘘をつくげ。輪島塗は特に何遍も何遍も漆をっちゃ塗り重ねていくがや本物やけど、手抜きしてとりあえず上からきれいに塗ってしもうたら、ぱっと見はわからん。騙す思うたら騙せるけん。ほやからこそ、騙したらダメねん。見えんでも嘘をっちゃついたらダメや。」というセリフにはうなされる。「ごちそうさん」にはそんなにすごい脇役がいたという印象はないけれども、テーマが、「食べることは生きること」なのだからだれも文句をいうことができまい。
いま放送中の、「なつぞら」ではその役割を泰樹さんと天陽君が担っているような気がする。放送開始からの2週間の泰樹さんのセリフの数々は歴史に残ると言っても過言ではないのだろうか。しかしその後の泰樹さんの扱いはなんだか狂言回しのようで少し悲しい。これからの挽回を期待したい。
天陽君はやはりなつとの別れの時のセリフだろう。
「俺にとっての広い世界は、ベニヤ板だ。そこが俺のキャンバスだ。 何もなく広すぎて、自分の無力を感じるけれど、そこで生きる自分の価値は、他のどんな価値にも流されない。」
加えて今週、展覧会で入賞した時のスピーチだ。「僕の絵だけは何も変わらないつもり、社会の価値観とは関係ない、ただの絵を描いていきたい。」これはまさに人はこう生きるべきだという脚本家の主張だろう。
しかし、出演者みんなが美男美女だからどうも現実感に乏しい。いくら北海道が広いといってもあれだけいっぺんに集まっているわけはなかろう。天陽君のかぶっている防寒用の帽子の柄はデザインかと思ったけれども、貧乏な家庭の設定を思うとあれはきっとツギ当てなのだ。しかしながら、天陽君があまりにもハンサムだからそうは見えないのだ。富士子さんも、それは酪農家の奥さんにも美人はいるだろうけれども、そういう奥さんにかぎって、「私は酪農なんて嫌いよ、絶対に家業のお手伝いなんかやらないわ。」というスタンスのはずなのだ。家族と一緒に乳搾りはやらないのだ・・。

まあ、そんなことはどうでもいい。著者は最後に、そのヒロインたちにも必ず共通して示しているものがあるという。それは、「堂々とせよ。」であるという。ヒロインたちはすべてが人生のなかで成功をおさめているわけではないけれども、必ず「堂々と」生きている。それは世間の目を気にすることなく、自分の価値観を貫いているということだ。これは天陽君のセリフにもつながるところであり、なつが東京で派手な洋服を着続けているところもそんな一端を示しているのかもしれない。もっとも、なつのあの服装は、「それでも都会の絵の具には染まっていないのよ。」という逆説的な意味を持たせている側面のほうが強いような気もするのであるが・・。その証拠に、咲太郎が寝起きでリーゼントの前髪が普通に垂れていたのも、いきがってはいるけれども、内面はそうではないのだという表現なのだと思う。
そして、「朝ドラの話にのれる男子は女子のお友だち。」であるという法則が展開される。その、「堂々とせよ。」に共感できる男性であるかどうかということが、女子と仲良くなれるかどうかのリトマス試験紙だと著者は言うのだが、どうもそれには共感ができるようなできないような・・・。

やっぱり最終的には、著者の本音しか詰まっていないような気がするのであった。
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「会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語」読了

2019年06月03日 | 2019読書
田中靖浩 「会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語」読了

出向しているころに、財務諸表を読めるようにならねばといくつかの本を読んでみたがやっぱりダメだった。さすがにあともな会計の教科書を読まずに、いわゆる、「3分で理解できます!」っぽいタイトルのものばかり読んでいてはそれもいたしかたがない。頭のできもわるいのだからなおさらだ。
会社の研修でも丸二日勉強したけれども、それが去年の夏ごろだったのでもうすでに脳みそが硬化してしまっているのだからやっぱり理解できなかった。

実務でも投資回収の計算なんかをやるのだが、これが売り上げ見通しをまったく嘘っぽく設定するので嫌になっていた。それと、ファイナンスというものはすべてのものを貨幣価値に換算して経営の判断にするというなんの人情味もない考え方にもなんだかしっくりいかない感じがしていた。
こういうことがわからないからオワコンになってしまったのか、それとも会社に対しては面従腹背の姿勢でいたことがバレバレだったからなのか、どちらにしてももう、オワコンになってしまってそんな仕事をすることもないのだが、ピタッと左右が合う美しさというか、合理的な形というか、そういうものには感心していた。

この本は会計学というようなものを抜きにして、中世のイタリアで生まれた会計というものがどういう必要性があって生まれ、どうやって発展してきたかを当時の歴史や文化を織り交ぜながら解説している。

歴史としてはこんな流れで会計というものは進化してきた。
会計の歴史のスタートは15世紀のイタリア、フィレンツェ。金融業を営む人々がその記録を付け始めたのが最初だ。そんな人たちのことを“バンコ”と読んだ。今の“BANK”の語源となったそうだ。そして簿記が始まる。これはルネッサンスの立役者でもあったメディチ家が遠方の支店を管理するために生まれた。メディチ家も金融業で財をなしたけれどもその会社運営方法は今でいう持ち株会社のような方法であり、各支店の管理をするための方法であった。

メディチ家の資本は自前で準備されたものだが、少し時代が進むと仲間内で資金を出し合って事業をおこなうようになった。投資とは配当を期待しておこなうものだが、年に1回は決算をして配当をする。そのために簿記が生まれた。1年後に残った資産と生まれた利益をはっきりさせるのだ。一緒に(=com)パン(=pan)を食べる人たちという意味で、“カンパニー”という言葉が生まれた。
さらにオランダではその規模が大きくなってくる。東洋との貿易で大きな利益を生み出すようになってくるのだがその資本を集めるために見ず知らずの他人(ストレンジャー)からも資金を集めた。東インド会社、(VOC)だ。そしてその株主たちに決算の情報を説明するために複式簿記を取り入れた。貸借対照表の登場だ。そんなストレンジャーに決算を報告(アカウント)するから会計のことを“アカウンティング”という。

そして産業革命のイギリスへ舞台は移る。産業革命の一端を担ったのは鉄道であるが、初期投資が大変だ。普通に収支を計算してゆくと最初は投資が回収できないので赤字が続く。それでは最初に投資した人たちに配当が回らないというので減価償却という考えが導入された。
それまでは会社の過去の実態を記録していた会計がアメリカに渡り会社の将来の姿(どれだけ利益を上げられるか。)という管理会計が生まれた。原価計算であったり、損益分岐点の計算というようなものだ。
メディチ家から後はずっと投資家のために会計というものがあったけれども、管理会計が導入されたことでメディチ家の時代=自分たちのための会計に再び戻るということになった。
さらに時代は進み、M&Aと情報がお金を生む時代になり、企業価値というものは何かということが考え直された。最初に書いた、ファイナンスという分野だ。すべてのものに値段をつけ、それがある将来の時点にどれくらいの価値を持つかということを考えて事業や企業に投資をする。


この本は、そういった会計の歴史を当時の文化とリンクさせながらたどっている。”バンコ”の時代、キリスト教の世界では金融業は日陰の職業であった。利息というのは時間の経過の中で生まれるもので、その時間というのは神のものである。その神のものを利用してお金を稼ぐのは悪だと言われた。レオナルドダヴィンチの父親もそういった職業のひとりであった。そしてキリスト教支配の時代、芸術も宗教画が中心であったが、株主というものが力を持ち始めたオランダの時代では肖像画が多くなる。レンブラントという画家が代表的らしいが、その注文者はその投資家たちであった。
産業革命を経て科学技術が発展すると写実的な画風は写真に奪われ印象的な絵が好まれるようになる。ターナーという画家が有名だそうだ。
アメリカ編ではデキシーからジャズ、R&B、ビートルズへの変遷を会計の歴史になぞらえているが、ビートルズやエルビス・プレスリーは将来を予測する管理会計、ファイナンスの発展の中の、将来に価値を生み出すたとえとして登場する。
ビートルズは著作権をメンバーが持っているのではなく、当時のレコード会社が持っていて、著作権料は本人たちに入ってこなかったそうだ。ということで、資本のような扱いになる。マイケル・ジャクソンがその権利を5300万ドルで買ったのはファイナンスの考えのとおり、今の5300万ドルと将来に渡って生み出す著作権料を比較すると、将来の価値の方が上回るという考えからだと書かれている。


しかしながら、僕は研修や教科書を読んでもこれがどうやって実務に生かせるのかということが今一つよくわからなかった。よくわからなかったからオワコンになってしまったのだけれども、なんとか実務に生かしてやろうという熱意もなかった。悲しいかな、それほどの興味を仕事の中に見いだせなかった。興味があれば、もっと、もっとと自分の範疇を超えていろいろなことを理解したいと思い、ネットワークを広げて仕事の幅を広げて認められていくのだろうけれどもそういうこともなかった。なんとか時間内でやらねばならないことをうっちゃり続けるのがやっとだ。わざわざ休みの日にまで出て行って机に座りたいとも思わなかった。わが社も働き方改革が叫ばれているこれども僕はその前後であまり変わったということがない。体力も劣っていた。最近は特にそう思う。トライし続けないと、チャンスは絶対に巡ってこないというのはよくわかるしかし、気持ちというのはフィジカル的に鍛えた体力があってこそ湧き上がるものなのである。

そう思うと、たとえ今と違った職業を選んでいたとしても結果は同じようなものになっていたのだと思う。男は職業を選び間違えると一生不幸になるというけれども、そう意味では結果が同じだと思うと悲しいかな、悔いが残ったということさえおこがましい。

それももう今までの話だ。そんなことを憂いても、人生とは二回やり直さなければならないものではない。だから次はこうすべきだと反省しなければならないこともあるまい。それだけが救いだ。

面白い本であった。
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「昆虫考古学」読了

2019年05月29日 | 2019読書
小畑弘己 「昆虫考古学」読了

昆虫が歴史を語ってくれても僕には何の関係もなく、それを知ったからといって僕の生活がどうこうなるかというものでもないが、タイトルがなんだか推理小説っぽくって面白そうだから読んでみた。

昆虫を使った考古学というのは、遺跡から発掘される昆虫の化石や死骸からその当時に人々はどんな生活をしていたか、そしてその生活様式はどんな伝搬のしかたをしてきたかというのを探り当てようとするものだそうだ。ここでいう昆虫というのは、穀物に取りつく害虫や、死骸に群がるスカベンジャーを指している。もっとも人の生活の近くの生きている昆虫たちだ。

昆虫というのは、約100万年の間ほとんど進化をしていないらしく、そうなると当然人間の歴史の期間中は現世界の昆虫相と変わっていないことになる。だから、現代の昆虫の分布と比較すると当時の気候や、人間が食べていたもの、生活様式までを知る手がかりになるということだ。そして面白いのが、昆虫そのものの化石や死骸ではなく、土器などに残る圧着痕がそれを知る最大の手掛かりになるということだ。昆虫の死骸や化石そのものは後の時代にもぐりこんだ可能性があるので確固たる資料にならなくて、土器を作ったときに土にへばりついて圧着された跡を調べてその昆虫が何であったかを探ると間違いなくその時代にその場所で生きていた昆虫であるということが証明できる。う~ん、なんとも奥が深い。

その痕跡を調べると、その地域で何を食べていたかもわかる。この本にはコクゾウムシという昆虫がよく出てくる。この虫は主に食べているもので大きさが変わる。具体的にはドングリを食べるよりもクリを食べる方が大きくなる。
土器の圧着痕の大きさを調べることによって、九州~西日本ではドングリが、東日本~東北ではクリが食べられていたことがわかるそうだ。

また、ヒトが死んだあと、経過時間によって群がる虫の種類が異なるらしい。その痕跡を調べることでどんな葬儀が行われていたかということもわかるそうだ。
ハエは人が死んでから10分後には集まってくる。数日後には蛆が湧き、その後は蛆などを食べる甲虫や蜂がやってくる。これらの虫は土中では活動できないのでどんな虫が死体に付いていかかで死後いつごろ埋葬されたがわかる。ハエや小さな蛆だけがみつかればすぐに埋葬され手厚い葬儀は行われなかったことになり、蜂や甲虫が湧いていれば長い間殯の行事が続いていたことになる。

しかし、土をこねている最中に虫が気にならないというのは、昔の人たちというのは、よほど虫が気にならないか、気にすると生活ができないほど大量に虫がいたかのどちらかということだろうか。ちなみに縄文時代ウンコの化石からも昆虫の痕跡が頻繁に出るそうで、意図してか偶然かどうかはわからないけれども口の中に入っていたそうだ。
現代の人々が聞いたら悲鳴を上げるような生活ということになるのだろうけれどもこうやって害虫とも付き合って生きてゆくというのがひょっとして普通の生活なのかもしれない。髪の毛にもシラミがうじゃうじゃいたであろうし、ダニにも食われ、お腹の中にも回虫がいたであろう。しかし、アレルギーの原因というのは一説ではこういう害虫があまりにも人間の廻りから無くなってしまったからであるという。この本は考古学について書かれた本であるけれども、なぜか最後は、病原菌を運ぶムシは避けるべきであるが、無菌、無害中の生活もほどほどがいいようである。と結ばれている。
太古を振り返って今の世界を見直せということなのだろう。

ただ、この時代の人々も害虫に手をこまねいてばかりいたわけではない。害虫駆除のために様々なものを使った。日本ではサンショウ、ヨーロッパではオリーブオイル、ミント、クミン、コリアンダーなどなど。今でいうハーブだ。これらは現代の食生活を豊かにするものだ。
これは、太古を振り返って先人の知恵に感謝をしなさいということなのだろう。
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「CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見」読了

2019年05月21日 | 2019読書
ジェニファー・ダウドナ、サミュエル・スターンバーグ/著 櫻井 祐子/訳 「CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見」読了


前に読んだ、「合成生物学の衝撃」という本に載っていたその合成生物を創りだすきっかけになった技術が、「CRISPRcas9」という遺伝子を編集するための技術だ。この本は、その技術を開発した科学者のひとりが書いたものだ。
僕は「合成生物の衝撃」を読みながら、一体、目に見えないような小さな分子をどうやって自由自在に入れ替えたり、組み立てたりしているのだろうという興味をもって読み始めたのだが、そんな研究室の風景が描かれているのではなく、この画期的な技術が社会にどれほどのインパクトを与えるか。そういったことを期待と危機感を込めて書いている。

「CRISPRcas9」という技術だが、アホな頭で理解できるところまでで書くとこうなる。
細菌のDNAにはCRISPRという回文のように塩基が並んだ場所がたくさんある。かつて細菌が取り込んだウイルスのDNAの配列の一部を取り込んだものである。ウイルスが侵入するとこのCRISPRからcrRNAというものに塩基の配列が転写され、それとDNAの配列を切ることができるタンパク質、cas9がセットになって、ウイルスのDNA配列の中でcrRNAとぴったり合う場所にくっついてその場所でDNAの鎖を切ってしまうことでウイルスをやっつける。それは細菌がもつ免疫の働きをするもののひとつなのである。
この技術はそれを使って、回文に当たるところを人工的に作り出し、cas9とセットにして細胞核に送り込み任意の場所で切り取る。ベクターというウイルスに乗せた新たな遺伝子をその切れたところに挿入することで染色体の中に新しい遺伝子を埋め込むことができるというものだ。
人間を含めて、DNAの配列=ゲノムは解読されているので狙った場所のDNA配列を作り出せればその場所を正確に切り取れるというものだ。2012年に発表されたこの技術はそれまでにあった遺伝子組み換え技術に比べてはるかに正確で安価にできるというものである。
たぶんかなり間違っているので信用しないでほしい。

今でも遺伝子組み換え作物というものは作られているけれども、ピンポイントで遺伝子を組み換えることができる技術によってさらに精度が高いものが作られるようになるはずだ。2010年代の終わりまでには市場に出回るということなのでもう間もなくだ。マッスル真鯛というのも和歌山で作られているらしいが、それももうすぐ商品化されるのだろうか。あれはちょっと食べたくない。と、いうように、著者たちは、すでにこの新しい技術に対しての批判や嫌悪が始まっているという。遺伝子を操作するということに関してはそれまでの遺伝子組み換え作物と何ら変わりがないというのに、その先に垣間見える行き過ぎた世界がそうさせるのだと考えている。だからこそきちんとした説明と啓蒙が必要であると考えているのだ。
これからはさらに医療の現場にも使われてゆく。様々な遺伝病では、体の中にCRISPRcas9を投入することでその疾患部分を治すことが簡単にできるようになる。究極は、人間の遺伝子を持ったブタを作り、移植できる臓器を作りだそうというのだから恐ろしくもなる。医療もどこまで許されるのかというところだろう。
そして、さらに人間の受精卵のDNA改変に話が及ぶ。デザイナーベイビーというやつだ。人間が生まれる前に希望の遺伝子を入れ替えて望みの体を作る。これが先天的な遺伝病を治療する目的ならば許されると考えることもできるであろうが、一般的な人間の能力を超えるような特質を獲得するための改変ははたしてしてしまっていいものだろうか。ここでは一般人の能力を超えた兵士を生み出すというようなことを例として挙げている。
著者たちはそういうことに非常な危機感を覚え、この本を書き上げた。まずは、ヒト胚に対しての技術の使用を全面的に禁止すべきだと訴えている。
善にも悪にも使われうる技術は一般社会に広く知らしめて社会の力で善の方へ向けた発展をしなければならないと訴えているのだ。原子力技術のようになってはいけないと。

しかし、それを誰が善と決めるのか、悪と決めるのか。ある人はそれを望むしある人はそれを望まない。民主主義というのはそういうものだ。そんななかでじわじわと著者たちがいうあらぬ方向に向いていくに違いない。ついこの前、テレビで、中国がクローン犬を作っているというニュースをやっていたけれども、ものすごく小さな箪笥一個分ほどのスペースでそれがおこなわれていた。ものすごく簡単な設備のように思えた。こんなところでいろいろなことがやれてしまうなら。誰がどんなところで何をするかわからない。
そんななかで人間の尊厳はどう保たれるのか。生物は環境の変化に合わせて進化するというけれども、人間がこの100年間で変えてしまったしまった環境に人間が追いつけているのかどうかというと疑問だ。自然の摂理が追い付けないからこういう技術で自らの進化をうながしているとしたら、それも自然の摂理のひとつと言えるかもしれない。かなりいびつのように思えるが・・。まして、これから本当に宇宙に飛び出していかねばならない時代になれば、放射線に強いとか、小さな重力の中でも耐えられる肉体に変わっていく必要があると言う人もいる。しかし、それが自然の一部である“人間”と言えるのだろうか・・。

簡単にできる技術だとはいえ、それなりにコストはかかる。この前のニュースでは白血病の治療薬が3千万円だそうだ。(この薬も遺伝子組み換えの技術を使っているそうだ。)こういうものを含めて、自分が望む体を得ることができる富裕層とそれを外から眺める貧困層。いまでも二極化ということが言われているけれどもそれがもっと格差となってゆく。そんな中ですべての人が満足のいく答えというものが本当に出てくるのだろうか。

まあ、僕が生きる時代にはそんな答えを出さねばならないという事態にもならずに大きな争いを見ることもないだろう。しかし、願わくば、僕の遺伝子に変更を加えてくれるというのなら、もっと記憶力をよくしてもらって、天陽クンみたいなイケメンにはしてもらえないだろうか・・。ついでに鼻血が出ない血管も欲しいものだ・・。

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