イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「家は生態系―あなたは20万種の生き物と暮らしている」読了

2023年12月26日 | 2023読書
ロブ・ダン/著 今西康子/訳 「家は生態系―あなたは20万種の生き物と暮らしている」読了

僕の奥さんがこの本を読んでしまったらきっと卒倒してしまうだろう。そして、家の中を歩くとき、つま先立ちで歩くどころか、超能力があるのならきっと肉体を浮遊させて歩くところだ。
しかし、それでも彼女は幾多の生物の呪縛からは逃れられないのだというお話である。

家の周りの生態系(=生物たち)に初めて科学的な目を向けた人というのはアントーニ・ファン・レーウェンフックという人だったそうだ。「歴史上はじめて顕微鏡により微生物を観察した人」として知られている。それから100年あまり、誰も家の周りに潜んでいる生物たちを顧みる人はいなかった。そんな中、著者たちの研究グループのほかいくつかのグループがそれに注目し始めたという。
その結果というと、おそらく数百程度と考えられていた生物種が20万種を超える生物が発見されたのである。
屋内環境生物の研究のほとんどは害虫や病原体に関するものだったので継続的に大規模な調査を行ったのは著者たちのグループが初めてあった。どうしてこんなに身近な環境が調査されてこなかったのか。それは研究者たちの偏見にあったのではないかと著者は考えている。生物の研究のフィールドは、例えばコスタリカのような熱帯地域でしかできないという近視眼的な考えや、同じく潜在的経済価値をもった生物はきっとこんな身近な場所にはいないという思い込みからなのだと学会の見識の狭さを嘆いている。

20万種の生物のうち、ほぼすべてと言えるのは細菌や菌類で、肉眼で見える生物でも大半は節足動物である。脊椎動物は数十種から数百種というところだそうだ。
この本にはそれらの生物は人間の生活にどういった影響を及ぼしているのかが書かれている。しかし、こういった調査が始まったのはつい最近(この本が本国で出版されたのは2018年だ。)のことであり、まだまだ仮説の域を出ない部分もあるようだが、それでもなかなか衝撃的な事実が書かれている。

第1章は細菌の世界についてというところから始まるが、これはいちばん最後に書くとして、まずは節足動物の世界はどうなっているかということを書いてゆきたいと思う。
節足動物に限らず、家に棲む生物たちの大半は人間に危害を与えるものではないと考えられている。無害か、むしろ益虫と考えられるもののほうが多い。クモなどはその最たるもので、伝染病を媒介する虫を捕らえてくれるのである。人間も過去からその特性を利用してきた。アフリカの一部地域では集団性のあるクモの巣の塊を家の中で飼っていたりもしたそうである。
また、人の経済活動の役に立つ生物があるかもしれないという。家に棲む生物というのは、少なからず家を食べている(=分解している)のであり、その能力を利用することで大量のゴミを効率よく分解したり、その分解物から経済的に役に立つ物質を取り出すことができるかもしれないというのである。
この本では、カマドウマが例として挙げられている。カマドウマは体内にリグニンを分解する細菌を宿している。リグニンというのは植物の細胞壁を構成する物質のひとつだが、自然界では分解されにくい物質で強いアルカリ性を示す。製紙の過程で出てくる物質でゴミにしかならないものだったそうで、焼却処分するしかなかったのが、この細菌を使うと効率よく処分できる可能性がある。また、これを分解することによって樹脂や燃料などに変換できる可能性もあるそうだ。
そのほか、チャタテムシという昆虫にはセルロースを分解できる酵素を持っていることがわかった。これはバイオ燃料の生産に役立たせることができるかもしれないということだ。

そういったこともすごいことだが、この本の圧巻といえる部分は家に棲む細菌たちの働きだ。
家の中には20万種を超える生物が棲んでいるというのであるが、先にも書いた通り、そのうちの4分の3は細菌、4分の1が真菌、そのわずかの残りが節足動物、植物などである。
それはあたかも家全体が細菌や真菌でコーティングされているかのようであり、人体も同じである。消化管を含めて体外と言われる部分にはどっさりと細菌が付着している。
これは家だけでなく、ISSの中でも同じである。人が住むところには必ず細菌がいる。特にISSでは人間由来の細菌(人間の体に付着している細菌類)が多いのであまり想像したくない臭いがするらしい。プラスチックと生ごみ、体臭の臭いが混じり合った臭いというが、いったいどんな臭さなのだろう。
壁や床だけではなく、当然のごとく水道管、ガスボイラー、風呂釜、シャワーヘッドなどには特にたくさんの細菌が棲んでいる。こういうところのねばねばは全部細菌のコロニーだ。水を出すたびにそれらが飛び出てくる。水道水といえども無菌ではない。時すでに遅しで水道水だけでなくペットボトルの水にでも細菌は混ざっているという。
まあ、それだけどこにでも細菌は潜んでいるというのである。
しかし、それらすべての細菌が有害かというと、そうではなくてほとんどの細菌はまったく無害か逆に有益であるというのである。
細菌の有益性には3つのパターンがあるという。ひとつは免疫力を高める働き、ひとつは有害な細菌の増殖を排除する働き、ひとつは免疫の暴走を抑止する働きだ。
免疫力を高めるというのはいちばんよくわかる。普段からたくさんの異物に遭遇することで免疫細胞たちを鍛えることができるのである。
有害な細菌の増殖を排除する働きというのは、無害な細菌が繁殖していれば、そこはすでに占拠されているので、有害な細菌がやってきて餌を探してもそれらに喰われてしまっているのである。目に見える生物に当てはめても同じで、隠れ場所を探してもすでに別の生物が潜んでいてたたき出されてしまうのである。
これは生態系が多様であればあるほどその効果が生まれる。病院などはその多様性を撲滅すべく殺菌、滅菌に勤しむものだから、一度悪玉菌が侵入してしまうと院内感染が爆発することになる。
歴史的には、1960年代、黄色ブドウ球菌ファージ型80/81という病原菌対策として、502A型という黄色ブドウ球菌を事前に接種させるなどをして効果を得たことがあったけれども数例の事故によってとん挫し、世界の医療機関はまったく逆の道を進むことになったらしい。
免疫の暴走を抑止する働きについてはエビデンスはないものの、喘息やアレルギーその他の免疫異常の疾患というのは公衆衛生のシステムやインフラが整っている地域ほどその発生頻度が高いという事実がある。そういう事実から、様々な細菌に暴露することが免疫の暴走を食い止めるための何かの役にたっているというのである。
確かにそう思えるという事実が僕のそばにもあった。僕の友人のひとりは駅の裏の豪邸に住んでいるがその友人は長く大腸性潰瘍を患っていた。相当裕福なのには違いないが、食生活はそうと貧しいようだ。貧しいというのにはかなり語弊があって、僕に比べれば相当高級な食材を食べているに違いない。まず、業務スーパーで売っている食いものなんて食べたことがないだろう。しかし、10年ほど前、自然薯を採ってきた話をしたとき、そんなものを食ったことがないというので少しだけ分けてあげたものの、それを煮て食べたというのである。新鮮なサバをあげたと気にも、「ウチの家ではだれも魚をさばくことができない。」という。あのサバはひょっとしてゴミ箱に直送されたのではないかと心配をしたものだ。
自分で取ってくる食材を食べない生活というのは普通なら普通の生き方だと考えるべきなのかもしれないが、様々な細菌に暴露したほうがいいという意味では僕の食生活のほうがはるかに健全だと言いたいのである。

さらに家に棲む生物たちはひとの性格形成までにも影響を与えているという。
この本では、トキソプラズマ原虫について書かれている。この原虫は、猫科の動物を最終宿主として世代交代をする生物だ。ネズミを媒介者としてライフサイクルを形成していて、最終宿主の猫の身体に入るためにネズミの脳に影響を及ぼして活動的な状態にすることで猫の目の前に現れる確率を上げて食われやすくしている。
人間にも感染して脳の中に入り込んで重篤な症状を引き起こすこともあるらしい。
重篤な状態にならなくても、自分の性格が少しおかしいと感じた研究者がいた。その研究者は、戦場で恐怖を感じなかったり、交通事故を恐れないような行動をしたり、反政府的な発言が自分の命の危機を招いてしまうような環境でも発言することに不安を感じなかったそうだ。
自分自身でも不可解と思える行動はきっと何かに感染しているのではないかと考えて血液検査をしたところ、トキソプラズマ抗体が陽性であったということがわかった。
この研究者はさらに同僚の研究者たちも検査をしてみると、陰性だった同僚の教授たちのうち、3分の1は学科長、福学部長、学部長という要職に就いていた。これは、トキソプラズマに感染していなければ冷静沈着に物事を考える傾向になりリーダー的な役割を任せられるからだと考えられるというのだ。逆に、トキソプラズマ原虫への暴露歴のある人は交通事故の起こしやすさが2.5倍になるという調査もある。暴露歴があるひとは危険を冒す傾向が強いという結論になるのだ。
まあ、これにも確たるエビデンスはない。トキソプラズマ原虫が誘導する性格は女性ではその傾向が現れないというところからも少し説得力に欠けるし、僕の友人の大腸性潰瘍も彼だけがその病気になっただけで彼の家族もそうであるということがない。
すべては確率の問題であるのかもしれないと思いながらも、いやいやそうとも言い切れないぞという思いもしてくる。生物多様性が重要だということはきっと間違いがないとは思う。ただ、自分のひと嫌いも性格の悪さも、ヒトギライ原虫とセイカクワルイゾ細菌に感染してしまっているからだと思うとなんとなく諦めがつくというものだ。

現在の家屋というのは密閉断熱というのが基本だそうだ。この性能がよければよいほど所得控除が高かったりもするらしい。
著者の理論からすると、こういう家屋は生物多様性の乏しさの極みだということになる。もう、僕には関係のない話だが、これか先の人たちはどんな病気を患いどんな性格になっていくのかと心配にはなってきたりもするのである。

なかなか面白い本であった。
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「おいしいごはんが食べられますように」読了

2023年12月16日 | 2023読書
高瀬隼子 高瀬隼子 「おいしいごはんが食べられますように」読了

この本は、第167回芥川賞受賞作である。そしてこの著者は、「ちゃんと生きてゆく」ということにかなり疑問を抱いているようだ。
「ちゃんと生きてゆく」というのは、「世間体がよい」とか、「みんなそうしている」とかいうようなものだろうが、そんなことが必要なのかということに疑問を持っているようなのだ。
著者は以前に読んだ、「水たまりで息をする」でも、風呂に入るという、まあ、ちゃんと生きていれば普通にすることを止めてしまった夫と、その妻との物語であったので、テーマとしてはよく似ている。

今回の物語は、「ちゃんとたべること」に意味を見出せない男が主人公だ。パッケージのデザイン会社の支店に勤める独身者である。忙しさもあるけれども、自宅での食事はカップ麺ばかりで外食でも食べるものにはまったくこだわりはない。むしろ、生きてゆくための栄養が錠剤で摂れるならそれが一番よいと思っている。
主人公に絡んでくるのはふたりの同僚の女性である。ひとりは実家暮らしでちゃんと食べている人の代表だ。毎食は手作りで、成り行きで肉体関係を結び恋人関係になった主人公にも夕食を作り、会社へも手作りのケーキを差し入れるような人物である。しかし、仕事にはそれほどのちゃんとという意識はなく、身体が弱いというような理由をつけては同僚よりも早く帰るし、後輩のもうひとりの女性よりも仕事ができない。それでもなぜだか他の同僚に守ってあげねばと思わせてしまうような雰囲気を醸し出している。そして、主人公が付き合ってきた女性というのはみんなこんな感じでもあった。
主人公は女性の作る食事にも違和感を感じる。セックスが終わったあと、眠っている女性の横でカップ麺にお湯を入れるのである。

もうひとりの女性は真逆の性格である。福岡から上京し、仕事もできるしひとりで生きてゆくという気概がある。だから、先の同僚には嫌悪感を抱いている。そういう気持ちも露骨に表面に出してしまう。食べることに関しては主人公と同じような考え方とは言いながら順番を待たねばならない人気のランチの店にも行くし、都心の有名店にも赴く。

大口の受注が入り、忙しくなる中、支社の中で小さな事件が起こる。
夜9時にも終わらない残業の途中、恋人であろうひとが作ったタルトを見ながら、労力がかかっている。どうしてそんなことをするんだろうと考え、それが端からばかげたみたいだと結論付けるためだけの思考だと分かった主人公はタルトを手のひらで押しつぶしゴミ箱に捨ててしまう。
それに気づいたふたり目の女性はそのタルトをひとり目の女性のデスクに置く。そういうことが何回か続き事務所の社員たちに知られてしまう。それが原因でふたり目の女性は退職、主人公は人事異動で別の支社に移ることになった。

ちゃんと生きるということに肯定的な人は一定数いることは間違いがないだろう。しかし、僕にはそれは人の目を気にして生きるとこであるという風に見えてしまう。会社できれいな資料を作るのも、なんとなく仕事に熱心ですという風を装うのもすべて人の目を気にしてのことだ。人の目を気にするというよりも世間体というものだろうか。だから内心は面倒だとしか思えない。面倒というのは常のことで、魚釣りでさえたくさんの道具を持って行くのは面倒だと思っている。まあ、魚釣りについては何事もシンプルなほど釣れるということもあるのであるが・・。
しかし、そういうことは表には出さないでおこうと思ってもきちんと出てしまうものだ。だから会社側からは嫌われるのは当然だ。しかし、長らく勤めた会社はチョロかった。最後は化けの皮が剥がれたとはいえ、適当に流してもここまでやってこられたのだから。
冷静に見るとこれは相当嫌なやつだということができる。ふたり目の女性がひとり目の女性を見る目線とでも言えるだろうか。
しかし、そういったふりを誰にもバレずにできる人は他人には好かれる。主人公も嫌悪しながらも最初の女性に惹かれてゆく。ラストシーンは、事件が原因で退職を決意したふたり目の女性と人事異動が決まった主人公の送別会に差し入れられた手作りのケーキの出来栄えを褒めながらも歯の裏と表と歯茎の間までクリームを塗り込みながらケーキでいっぱいになった口の中で罵倒する主人公の言葉にひとり目の女性が笑顔で聞き返すという、破滅的な行動とそれを褒められたと勘違いした幸福そうなその顔に容赦なくかわいいと感じてしまうのである。

三人の人物は、ひとりの人間の中でクルクル回る感情を分離したもののように思える。人の悩みのひとつはこの矛盾なのかもしれない。そして、「人の目を気にする」ということはまさにアドラーがいう人間関係の悩みにほかならない。

ふたり目の女性が会社を去る前、こんなことを言う。『私たちは助け合う能力をなくしていっていると思うんですよね。昔、多分持っていたものを、手放していっている。その方が生きやすいから。成長として。誰かと食べるごはんより、一人で食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで。力強く生きていくために、みんなで食べるごはんがおいしいって感じる能力は、必要じゃない気がして』
この本のタイトルにも通じるセリフだが、著者が考える「おいしいごはん」とはこういったごはんだろうと思った。
僕も同感である。



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「人工知能」読了

2023年12月12日 | 2023読書
幸田真音 「人工知能」読了

人工知能は本当に身近になってきている。チャットGTPの能力はすごそうだし、僕の車にもどうやら人工知能らしきものが搭載されているようだ。加えて最近、ヤマト運輸に集荷を頼んだら、多分相手はAIなのだろう、僕がしゃべる住所を文字データに変換しているようで、オペレーターを介さずに本当に集荷の配達がやってきたのにも驚いた。人工知能はすでに僕たちの生活に浸透しているのは間違いない。

この本は2019年の出版だが、そんな近未来を見据えたか、人工知能をテーマにした小説だ。
プロローグでは経済産業省製造産業局局長を招いたレベル4の自動運転車の試運転のデモンストレーションで起こった事故で始まる。その事故は、自動運転車があたかもこの局長を襲うかのように突然スピードをあげて突進したことが原因であった。
この部分だけ読むと、意識を持ってしまったAIの暴走とそれを阻止しようとする科学者もしくはホワイトハッカーとの戦いを描いたものかと思うのだが、そうではない。
中盤までは主人公の成長譚とお仕事物語というような形で進んでゆく。主人公は埼玉県のはずれに住む4人兄弟の末っ子である。将来の展望は何もなく、やりたいことをやりながら怠惰な生活を送っていたのだが、自分がまきこんでしまった事故で、兄を不治の病に陥れてしまったことが主人公の生き方を変えることになる。
怠惰な生き方から抜け出すべく一念発起して私立の名門校を受験し、さらに大学を目指すことにしたのである。名門大学の付属高校ではあったものの、生来の怠惰で無鉄砲な生き方は高校時代も続き、エスカレーター式での進学は望めず、やむなく受験したのが受験科目が少ないという理由だけで受験した情報科学科が新設された大学であった。そこで出会ったコンピューターサイエンスや情報処理分野、さらに人工知能についての学問に魅了されてゆく。
そんなに波乱に富みながらうまいこと人生が運ぶとも思わないがそこは小説の主人公だということにしておこう。

その後も波乱に満ちながらカナダ留学を経て、多分、シャープがモデルらしい電気機器メーカーに就職するも、リストラと上司との反目が原因で半年で退社をする羽目に陥る。そんな中に声をかけられたのがかつての大学の恩師であった教授が設立したベンチャー企業であった。
そこでも主人公らしく活躍し業績を伸ばしてゆく。
入社3年目になった頃、物語が動き始める。ベンチャー企業の社長がマンションの管理組合の理事長と副理事長という関係でたまたま知り合ったことから、理事長からプロローグで起こった事故についての調査協力を依頼があった。組合長は警視庁の元警視総監だったのである。
この時点で、同じような事件がすでに2回起こっていた。社長と主人公が捜査協力を始める直前に3件目の事件が起きた。その犠牲者は経産省の副政務官である、主人公の同僚の叔父であった。この同僚も、小説らしく政界の大物の孫という設定である。
その後、いよいよ主人公も特命捜査対策室のメンバーと一緒に事件の謎の解明に加わるのだが、前の2件と3件目の事故は違う自動車メーカーの試乗車であった。事件の共通点は見いだせなかったが動運転車のAIシステムは同じ会社のものが使われていた。主人公はこのAIが何者かによって洗脳されているのではないかと考え、プログラムの解析を始める。
糸口がつかめない中、かつての電気機器メーカー時代の同僚から久しぶりに連絡が入る。退職後、主人公と同じようのAIの研究の道に入り直し、アメリカ留学を経て博士号を取ったという。専攻はイメージリコグニションという、AIに画像を認識させる技術であった。2度目に連絡があったとき、切羽詰まった表情をした同僚から渡されたUSBメモリーには大量の人物画像が保存されていた。
これが事件解決の決め手となる。この事故を仕組んだ犯人は主人公の元同僚であった。博士号を取ったというのは嘘で、父親の突然の死によって留学先からは半年で戻ることになり、ヘッドハンターに声をかけられて入社した会社は裏社会ともつながりがあるような会社であった。おまけに、その会社の社長は自分たちを辞職に追いやった電気機器メーカーを買収した外資系メーカーの役員の身内であった。
犯人はその会社で、日本のAI開発の遅れを知り、その原因が法律やインフラの整備の遅れからであり、その元凶が経済産業省の官僚たちであると考え、孫請けで自動運転車のシステムに画像を記憶させていた中に経産省の官僚たちの顔を覚えさせ、高速道路の侵入矢印と誤認させることで試乗車を突っ込ませたというのである。
その動機とは、自らが日本のAI開発をとりまく現状に警鐘を鳴らすことで同じリストラ組でありながら成功をした元同僚に対する嫉妬心を解消し見返してやりたいという思いからであった。

自分がそんな見られ方をしていたというショックと、そんな友人をなんとか救いたいという思いから心も体も疲弊してしまう主人公であったが、叔父の跡を継いで政治家になろうと決意した同僚のからのエストニアへの視察旅行への同行と言う申し出によって元気づけられる。
エストニアと言う国は国家をあげてAIを駆使した電子政府づくりをしている最先端の国だという。主人公は、AIを使いこなす夢をはき違えて犯罪者となってしまった元同僚に代わってAIを駆使した新しい日本の生きる道に思いを馳せるのであった。

と、いうような内容だ。

伏線の回収の仕方や、主人公の生きてきた道をこれほど多く書いてしまうと物語としてはなんだかアンバランスなのではないかと思ったりもする。

ただ、著者が問題提起したいことというのは日本が抱えている重大な問題だとも思う。
AI以前に、半導体製造の競争でも、日本の政治の指導の仕方の失敗によって海外に後れを取ってしまっている。電気自動車でもそんな雰囲気だ。

「日本社会は性善説のもとに成り立っているが、それを逆手にとって中国企業などは技術やデータを平気で横流しをしている。油断しているうちにとんでもない先を走っているのだ。」
というのが著者の最も伝えたいことであったのだと思う。
うかうかしていたらAIの分野でも他国に後れを取ってしまうぞという警鐘なのだろう。
人口が減少し、おまけに高齢化が進む中、医学を含めた科学技術をいかに進歩させるかということは切実な問題だ。規制をしたがる官僚や責任を取りたくない政治家こそ諸悪の根源なのかもしれない・・。
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「未完の天才南方熊楠」読了

2023年12月05日 | 2023読書
志村真幸 「未完の天才南方熊楠」読了

土曜日は風が強くて釣りには出かけられず、日曜日はなんとか行けそうだと思って早く寝たら、日付が変わるころにスマホの音で目が覚めた。なんだ?と思ったら津波注意報が出たという。外からもサイレンや防災無線の音が聞こえてくる。フィリピンのミンダナオ島で地震があったらしい。



1メートルの予想というのはけっこう危機感を感じる値だ。もう一度寝るか、午前3時(和歌山港は午前3時半)の予想到達時刻に様子を見に行くか思案をしながらこの原稿を書き始めた。しかしその前に、僕のお腹に津波警報がやってきた。最近の傾向だが、何日かに一度、真夜中に便意をもよおす。一度トイレに行くとそれから1時間ほどは何度も行く羽目になる。今夜もその状態に陥ったのである。
結局、それからも眠ることができず、午前3時に家を出たのだが、大山鳴動して鼠一匹、特に何の問題もなくやり過ごすことができたのである。




久々に見つけた南方熊楠に関する本は、熊楠が残した業績を、「未完」というキーワードで分析している。
著者は南方熊楠顕彰会理事という肩書も持っている学者だそうだが、熊楠は人類史上最もたくさん文字を書いた人だと言われている通り、膨大な量のメモや資料を残し、すべてを目録として整理しきれていないのが現状だそうである。
それだけたくさんの研究なり調査なりをしていた熊楠だが、何を成し遂げたかというと確かにわからない。
植物学に始まり、民俗学、環境保護、海外雑誌への投稿など、その活動は多岐に渡る。語学は研究の手段だったのだろうけれども、これにも相当傾倒していたそうだ。抜き書きという出版物の書写も途中でやめてしまったものも多数あるということで、それぞれを「未完」に終わらせてしまったのはなぜだろうかと考察をしているのだが、熊楠の心の奥までには到達しきれていないのだろうなという感想だった。
確実にこういう理由で未完になったのだろうというものはある。例えば、抜き書きの作業だが、時代を経るにつれて印刷技術が進歩することで本自体の入手が容易になったのだというのはもっともだ。歳で目が悪くなってきてもいたそうだが。
海外雑誌への投稿については自然科学系の学問が細分化し、雑誌自体も博物学的なものから自然科学の専門雑誌へと変わり、古典文献の引用が中心で実験データを持たない熊楠にとっては場違いなものになっていき、期待もされなくなってきたそうだ。
こういったことを見ていくと、熊楠も時代の変化についてゆけなかった、もしくはついて行きたくなかったというのではないかと思えてくる。それに加え、人嫌いというものが加わって未完にせざるを得なかったということになるのかもしれないと僕は考えた。

民俗学は柳田国男との確執、環境保護活動については父親の父祖の地にあった大山神社の合祀を阻止できなかったことへの落胆からだということだが、それも結局、その運動の中心的人物であった従弟との確執であったような気がする。
また、晩年は田辺からほとんど出ることがなかったというのもきっと人嫌いというものがあったのだろうと思う。大学の教員としての誘いもあったそうだがそれも断り、わずか数日のことであっただろう、天皇からの招待にも応じなかったというのだから徹底しすぎているというものだ。最晩年はキノコ(菌類)の研究をしていたそうだがこれは全国の分布を調べなければならないものの、それもやらなかったという。人に頼ったり人を使うということが苦手だったのだろう。こういうところは牧野富太郎とはかなり違うのである。

田辺を出なかったということにはもうひとつ理由があったそうだ。それは当時から始まった郵便制度だそうだ。日本は1877年に万国郵便連合というものに加盟し、安価で外国にまで郵便を届けることができるようになった。雑誌の購入もそれへの投稿も田辺という田舎から簡単にできるし、書物の購入もできる。文献を当たって研究を続けていた熊楠にとっては田辺で十分事足りたということだ。今でいえば、インターネットとSNSを駆使して田舎暮らしをしているというようなものだから、最先端の生き方をしていたといえる。さすが熊楠だ。

人嫌いはイコール、自己肯定感の弱さでもあると僕は僕自身のことを考えながら思うのであるが、熊楠も、外から見られていた偉大さと自分自身が考える自分像には相当なギャップがあったに違いない。何かを成し遂げたいと思う気持ちも、自分はそれができるという自己肯定感がなければ無理だろう。
著作が少ないのも、「こんなの本にしても誰も買わないだろう」というあきらめがあったのかもしれない。学問をするというのは自己満足で十分だと思ったのかしれないということだろう。
まあ、僕がそう思っているだけで熊楠の真意は凡人が計り知れるわけがないが・・。


65歳前後には雑誌の購入や投稿も止め、少しずつ研究分野の幅を狭めてゆき、最後は邦文の論考と自分が診た夢の研究にだけ意欲を燃やしていたという。長く海外に暮らし、晩年まで外国と接点を持っていた熊楠も、日本人とは何かということと、自分は一体何者であったかということが最後に残った疑問であったということだろうか。

どちらにしても、後世の人たちにたくさんの謎を残して逝くことができたというのは、熊楠にとってはしてやったりというところなのかもしれない。

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「魚にも自分がわかる」読了

2023年12月02日 | 2023読書
幸田正典 「魚にも自分がわかる」読了

以前、「魚は痛みを感じるか?」という本を読んで、これは僕にとっては切実な問題だと感じたことがあるが、この本も僕にとっては切実な問題を提起している。

生物にとって、「自分がわかる(自己意識がある)」ということは、意識があり、自我があるということを意味する。普通ならそういう意識というものを持っているのは人間やサルくらいだろうと思ってしまうが、脊椎動物の中では最も原始的であると思われている魚類もそういった意識を持っている(かもしれない)というのである。著者は様々な実験を通してそれを証明しようとしている。

冒頭から驚きの事実が書かれている。
学校時代に習った、脊椎動物の脳の発達というのは、魚が持っている原始的な領域、すなわち、生命維持に必要な部分や反射を担う部分に、進化が進むにつれ感情や意識をつかさどる部分が付け足されて最終的に人間の大脳皮質というようなもの至ったということであったが、著者によると、魚の脳もすでに小脳や大脳という区分けができる形になっていて、脳から出ている神経系の本数(眼を動かしたり、身体の各部分を動かす神経)も人間と同じ12本を持っているというのである。12本のうち、眼を動かす神経が4系統もあるというのも驚きではある。それほど眼というものは生物が生き延びるために重要なものであるらしい。
人間との違いはその大きさが違うだけであるというのである。だから、この本で展開されている魚の自己意識は人間が現在持っている自己意識の起源になっているに違いないと著者は考えている。

自己意識には、大きく三つのレベルがあるとされている。そのレベルとは、①外見的自己意識、②内面的自己意識、③内生的自己意識である。
① の外見的自己意識とは、自分の手足、体などが、自分の身体であることがわかっている状態。
② の内面的自己意識とは、自分というイメージ(心的表像)を持ち、そのイメージと照らして自己認識している状態。これは、自分自身を見つめる自己意識であるともいえる。
③ の内省的自己意識とは、自分が内面的自己意識をしていることを、わかっている、自覚し意識している状態である。この状態はヒトにはあるが他の動物での検証事例はほとんどない。
と定義されているが、著者は少なくとも、魚には②の、内面的自己意識は間違いなくあり、ひょっとして③の内省的自己意識までも持っているのではないかと考え、様々な実験を通してそれを証明しようとしている。

その実験内容とはこんなものだ。
まず、自分がわかる前に、他魚を他魚として認識しているかということを検証する。
この時の実験台は、プルチャーというシクリッドの仲間を使っている。
プルチャーの生活を観察していると、陸上で暮らすウシやヒツジ、サル類という脊椎動物に引けを取らない複雑な社会生活を持つことがわかってきた。陸上の脊椎動物たちはその社会生活を維持するために顔で相手個体を識別しているが、同じように社会生活を持つ魚は相手個体の識別はどうやっておこなわれているのかというところから実験が始まった。
小魚は相手が危険かどうかを判断するとき、大きな目や大きな口を持った相手は危険だと判断して逃げる傾向があるというこいとが分かっているのでプルチャーもきっと陸上哺乳類と同じように相手の顔を認識しているという仮定のもとに実験は組み立てられた。
プルチャーは集団で生活をしているが、個々は縄張りを持って生活をしている。隣同士の魚たちはお互いに縄張りを侵さずに境界を守って生活している。こういう関係を「dear enemy関係(親愛なる敵関係)」というそうだが、これに対して、未知の個体には激しく攻撃をするそうだ。そこで、隣人同士として飼い慣らした個体を実験台にして、顔だけを他者に置き換えたものやその逆の写真を作って見せてみると、顔は隣人で体は他者のものにはあまり攻撃を加えないが顔を他者に置き換えたものに対しては激しく攻撃を加えるということがわかった。
ということは、プルチャーは間違いなく相手が何者であるかということを、顔を見て判断していることになるということがわかった。

次に、いよいよ本題の魚は「自分のことがわかる」のかという実験である。これには、「鏡像自己認知実験」と「マークテスト」という方法が使われた。使う実験台はホンソメワケベラである。
類人猿でもその他の脊椎動物でも、鏡を見せると最初は威嚇行動をとるが、その後は、普段やらないような行動を映すことで鏡像が自分だということを認識し始めるという。
マークテストというのは、チンパンジーなどの霊長類に鏡を見せて自己認識するのかどうかということを実験するテストだった。対象のおでこに赤いマークを付けた状態で鏡を見せた時、自己認識していればそのマークに疑問を持ってそれを触るはずだというのである。最初に赤いマークを使ったというので「ルージュテスト」などと呼ばれることもあるそうだ。実際、チンパンジーやゾウ、カササギなどの鳥までもが自己認識の行動をするということがわかった。
では魚はどうだろうかという実験をするとき、手のない魚にどうやってマークを触らせるかということが問題になった。そこで著者が思いついたのがホンソメワケベラだった。
この魚は、他種や同種の魚の体表に付いた寄生虫を食べるという性質があり、寄生虫やそのような模様に敏感に反応するであろうと考えたのである。それと、この魚は熱帯魚屋さんで安く買える魚だから実験費用も安く上がるらしい。

実験は、ホンソメワケベラのお腹に茶色の染料を注射して鏡を見せるというものだ。
結果は著者の予想通り、鏡を見たホンソメワケベラは水槽の中にある石でそのシミをこそげ落とそうとする行動をしたそうだ。それもほぼ100%の確率であった。
さらにちゃんとシミが落ちたかどうかを確認する動作まですることもあるという。
その自己意識をする方法だが、人間では「顔心象」という方法が取られるという。他人を識別するときでも、心の中にその人の心象がありそれと対照を照合することでこの人は誰々だということを認識するのだが、自分自身の心象を作ることで自分を認識する。ホンソメワケベラもこれをやっていると仮定し、これを著者は「自己顔心象認識仮説」と呼びさらに実験をおこなう。
プルチャーのときと同じように顔と胴体を差し替えた合成写真を作り実験台に見せるという実験だ。合成写真が他人に見えたら攻撃するはずだが、やはりホンソメワケベラは自分の顔が合成された写真には攻撃をしないという結果が出た。
やはりホンソメワケベラは自分の顔がわかるのである。

著者はこのホンソメワケベラのこういった結果をふまえて学会の権威を批判もしている。
人間以外の鏡像自己認識という研究は、1970年ごろにゴードン・G・ギャラップという行動生物学者が初めておこなったそうだ。著者たちが論文を科学雑誌に発表しようとしたとき、その時の査閲で激しい批判をしたひとりがこのゴードン・G・ギャラップというひとだったそうだ。1941年生まれの学者だそうだが、こういった世代の人たちは、デカルトの動物機械論という考えが根底にあり、自己意識を持つ生物はせいぜい類人猿までであるという既成概念に縛られているというのである。
この人がおこなったマークテストでは、チンパンジーでは40%、インドゾウでは30%、カササギで40%程度の合格率だったそうであるが、それに比べるとそれより下等とされるホンソメワケベラが100%近い合格率となると学会の権威を背負っている学者たちは困ってしまうのである。
しかし、著者は、この低い合格率こそが学会の闇の部分だという。ゴードン・G・ギャラップの実験はルージュテストと言われる通り、赤いマークを使っていた。チンパンジーにとってはおでこを赤く塗られようが青く塗られようがまったく生命の危険はない。対して、著者たちがおこなった実験では、寄生虫に似せた色を使うことによって魚本人に、これを放っておくことはできないと思わせることができたのである。
著者曰く、こんなことは少し考えると簡単にわかるはずのことであるが、50年間、誰もそれをやろうとはしなかった。チンパンジーでも、アブやハチの写真を貼ってやったら結果はまた違ったものになったであろうと著者は考えている。
意識を持つのは霊長類以上(以上と書いている僕もきっとその一員なのかもしれないが・・)だと決めつけた人には従い媚びるしかないのが権威の世界なのである。
ちなみに、「魚は痛みを感じるか?」の著者はこの結果を絶賛してくれたそうだ。

こういう話を読んでいると、魚は相当賢いということは間違いがないということになってくる。対して、人間の僕はどうだろうか・・。人間の脳の中で、文字を認識する部分は顔を認識する部分と同じだそうだ。それはどうしてかというと、文字は発明されてからはまだ5000年ほどしか経っておらず、脳の方が進化に追いつけずにいるので顔を認識する部分が代役をしているのだそうである。歳のせいでもなく、まったく漢字を覚えられないのは、その顔を覚える部分に欠損があるのに違いないという結論に思い至るのである。僕はそのせいでどれだけ損をしてきたことだろうか。会社というところで生きてゆくには人を覚えるということが絶対的な必要条件なのである。だから、ヒトという種の中では相当下等な部類に位置づけられてしまうのも仕方がないのである。
これでは魚との知恵比べに負けてしまうのも仕方がないのである。
こんなポンコツとして生まれてきたのは仕方がないとして、もっと問題なのは、魚の内省的自己意識とはどの程度の自己意識なのかというところである。ひょっとして「死」をも認識しているとしたらちょっと怖くなる。僕が釣った魚を〆ているとき、僕の顔を見ながら、「ああ、こいつはもうすぐ僕を殺すのだ。そして家に帰って僕を食ってしまうんだ・・。とんでもないやつだ。絶対化けて出てやるからな~。」などと思っているとしたらかなり怖い。

イカは脊椎動物ではないけれども、鏡面自己認識の実験では自己認識をするということが確認されているそうだ。僕は経験がないが、イカは人の顔をめがけて墨を吐くというのも納得ができると同時に、イカを釣り上げた時には「おいおい、これから何をするつもりやねん!!!」などと言いながらスッテにしがみついているのかと思うとこれまた恐ろしくなる。
ガシラなんかは、家に帰っても生きていることがある。かわいそうだと思いながらもエラに包丁を突っ込むであるが、もう、残酷の極みにほかならない。
これから先、魚を釣ることを躊躇してしまいそうだ。

この本の中に出てくる自己意識を持った魚はすべて鏡を見たことがある魚といえるのだが、願わくば、鏡を見ることによって魚は自己意識を目覚めさせるのであって、鏡を見たことがない魚はその意識をまだ覚醒していないのだと思いたい。そして、加太の海の底には鏡が落ちていないことを祈りたいのである。

これからは、僕は魚を釣ることが下手なのではなく、釣るのがかわいそうだから意図して釣らないのだという言い訳がまっとうなものだと言えるようになるのである。

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「失踪願望。 コロナふらふら格闘編」読了

2023年11月22日 | 2023読書
椎名誠 「失踪願望。 コロナふらふら格闘編」読了

日記文学という感じだろうか。集英社の「集英社学芸の森」というウエブサイトに連載されていたものをまとめたそうだ。(一部書下ろしもある)
始まりは2021年4月。終わりは2022年6月。つい最近のことである。サブタイトルのとおり、コロナ禍の真っただ中。東京、大阪、京都、兵庫の4都府県で3度目の緊急事態宣言が出されたときだ。僕の歴史では女帝に悩まされていた頃だ。
半径10㌔からは出ることがない僕個人の生活が一変してしまったということはなかったはずなのだが、世間の人々は行動制限のために行きたいところにも行けず、食べたいものも食べられなくなってしまったという最後の大規模な規制が始まり徐々に元の生活に戻りつつあった期間でもある。

最近の椎名誠の著作を読んでいるともう書き切ったという感があるように思うのでこういった日記文学で日常の事実を著者の思いを絡めて書き進むというのはいいことなのかもしれない。著者自身の回想はいつもの通りだがそれを今の時代とオーバーラップなり逆に対比をさせたりしながら書いてゆくというのは新しい発想だと思う。まあ、それでもやっぱりこの人はすでに書き切っているという感は否めないのだが・・。椎名誠の本はおそらく足かけ40年以上に渡って読んできたと思うのだが、そういう経験からもそう思う。
また、この本には下段に当時のニュースが記されている。たった2年前のことだが、記憶のかなたの境目で、ああ、こんなことがあったなと僕以外の人たちが経験した激動の期間を思い出すことになった。著者自身がコロナウイルスに感染していたということは知らなかったが・・。

この本は、そのテーマをメインタイトルどおり「失踪願望」という言葉に置いていたという。
著者のようにたくさんの人に囲まれて、ある意味自分がやりたいことをやり切ってきたと思える人が「失踪」したいと思うのだろうかと思うのだが、そこは何かを創り出そうとする人と、無気力なサラリーマンとの違いなのだろうなと思ったりもする。
いや、椎名誠の「失踪願望」とはまだまだこれから新しい世界へ向かって行きたいという野望なのかもしれないとも思ったのである。




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「数学にはこんなマーベラスな役立て方や楽しみ方があるという話をあの人やこの人にディープに聞いてみた本 2 」読了

2023年11月19日 | 2023読書

数学セミナー編集部 「数学にはこんなマーベラスな役立て方や楽しみ方があるという話をあの人やこの人にディープに聞いてみた本 2 」読了

この本には同じタイトルの本が3巻ある。その2巻目だ。残念ながら図書館の蔵書には2巻までしかない。3巻目が蔵書されるのを期待したい。

第2巻に出てくる人たちの職業は、ゲームクリエイター、建築家、劇団の主宰者、サッカー選手、コンサルティング会社の経営者、造形美術家、木工職人、プロ棋士だ。
第1巻に出てきた人たちもそうであったのだろうが、この本に登場する人たちも、自分がやりたいことには数学が必要であったから数学をやっていたということだ。学生時代から数学が得意で、自分が見つけた道がそれに役立ったひともあれば、自分が見つけた道がたまたま数学的であり、さらに勉強を進めることでその道を究めることができたということだが、
それに加えて、その根底にあるのが情熱だといえる。情熱的なひとが論理的な考えを持っていると数学ができるようになるのかもしれない。必要は発明の母であるということに似ているのかもしれない。
感情的に生きている僕などはやっぱりもとから数学の素養がなかったということがわかってしまった。だからこそミスタースポックのような冷静で論理的な人物に強い憧れがにじみ出てしまうのだ。
おそらく、そういう人は何をしてもその道を究めることができるに違いない。魚釣りを通して知り合った人たちのなかには学校の先生をしていた人や理科系の仕事をしている人たちがいるが、そういう人は確かに上手だ。魚釣りにも論理的な思考は確かに大切で、運と勘と迷信だけに頼っていては上手くなれるはずはないのだ。

1巻目もそうだったが、数学に関係してはいるが、数学をしていた人ではないひとがひとりだけ2巻目にも登場している。こういった人を意図的に登場させているのだろうが、今回は書店員だった。偶然の人事異動で数学書の棚を担当しただけであったらしいが、やはりこの人も情熱を持って品ぞろえをして、自分なりに数学を理解し人脈をつくりイベントで盛り上げる。
僕も数学的な思考ができたのなら、もう少し仕事でも芽が出たのかもしれないが、これも人間としての限界なのだろう。仕方がない・・。

2巻目を読みながら、そういえば、対数関数というのもさっぱりわからなかったとか、必要条件と十分条件という言葉を僕はこのブログでよく使っているけれども実はその違いをよくは理解していないんだよな・・。とかそういうことをしみじみ恥ずかしく思い浮かべていたのである。


読み終わって三日後、この本に紹介されていた円周率の本が届いた。



円周率が100万桁に渡って書かれているだけの本だが、2017年までに2万八千部も売れているらしい。値段も税抜き314円というのが面白い。



間違いなく読むことはないのだが、僕が死んだあと、遺品整理をするであろう家族に対して、何でこんな本を買ったのかと謎を残しておくのは面白いし、混んだ電車の中でこの本を広げて読んでいると気持ち悪がられて僕の周りに空間ができるかもしれないという用途にも使える。

円周の計算式は、直径×π(円周率)だが、そのπの値が無限に続く無理数であるのならば図形としての円はどうして書けるのかなどと考えてしまう。厳密にいうと、線自体が幅を持つ図形のようなものだから円として書けるというのもあるのだろうが、電子顕微鏡レベルで書き始めと書き終わりの境目を見た時、そこはどうなっているのだろうかと考えてしまう。
そんな細かなことを考えている僕の人生の円は、やっぱり閉じることはないのだろうとも思うのである。
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「数学にはこんなマーベラスな役立て方や楽しみ方があるという話をあの人やこの人にディープに聞いてみた本(1 )」読了

2023年11月15日 | 2023読書
数学セミナー編集部 「数学にはこんなマーベラスな役立て方や楽しみ方があるという話をあの人やこの人にディープに聞いてみた本(1 )」読了

数学の本だが、縦書きになっていたので借りてみた。
受験生時代、数学はからっきしダメだった。多分、嫌いではなかった。文科系の受験生だったが共通一次試験では必須であったし、経済系の学部を受験しようとすると二次試験にも数学の試験があったので当然僕も数学の勉強をしていた。
二次試験に出題される問題の答えはほとんどが「0」とか「1」になった。その答えを導くために、A4の解答用紙いっぱいに数式を書くのだが、これがうまく0とか1になるとその時は気持ちがよかった。演習問題の20問に1問程度しかこういう出来事はおこらなかったが、そういったときにはつかえていたウ〇コが一気に放出されたような快感があった。だから嫌いではなかった(ように思う)。ただ、数学ができなかっただけなのである。
微分や積分はとりあえずこうやっておけばいいという程度で、因数分解はなんとかこなせる程度というのが文科系の数学だったが、それでも数列や行列、確率などとなってくるとまったくわからなかった。問題を解くときは運と勘に頼るしかなかった。
それでも、あの当時、僕でも調子がよかったら解答用紙いっぱいに数式を書いていたのだと思うと、今では驚きでしかない。

だから、数学ができる人がうらやましくて仕方がなく、到底そういう人にはなれないと思い、ましてやそれを職業に生かすとか、それをもとに何かを創るということなど想像もできなかった。
この本は、「数学セミナー」という雑誌に連載されていたインタビュー記事をまとめたものだそうだ。
数学はこんなところにまで使われているのだというようなことがそれに携わる人たちのインタビューと共に紹介されている。数式というものはまったくといっていいくらい出てこないのでインタビューを受けているひとの人生録という感じに仕上がっている。

学校の先生というのはまあ、それを教える人というのだから数学をやっているというのはわかるが、デザイナー、漫画家、小説家、木工職人、気象学、折り紙、音楽。こんな職業にまで数学が活かされているらしい。気象予報などといのうは方程式の塊だそうだ。
この本に登場するデザイナーというのは、東京オリンピックのエンブレムをデザインした人だが、あのエンブレムはひし形を組み合わせた幾何学模様になっているそうで、ペンローズタイリングというものの一種だそうである。
3種類のひし形の各辺の中点を結んだ長方形の集まりがあのエンブレムなのだそうだ。



漫画や小説などというと創作の世界だから数学を題材に取り上げるというのはわかるが、当然ながら数学を知らないと創作もできないのであるからこういう人も二刀流というのであろう。
また、Perfumeのパフォーマンスの音楽や映像にも数学が欠かせないそうで、今のシンセサイザーというのは数学的素養がないとまったく音が作れないという。こうなってくると数学はOSのような基盤であるといえる。
そんなものを駆使できる人というのがうらやましすぎる。僕にもそんな素養があればまったく違った人生を歩めたのかもしれないと思うと、悲しい生き方をしてきたと思ってしまうのである。

数学を学んだ人たちではないが、数式を書物にするための版組をしている会社の社員のインタビューも掲載されていた。分数や積分の記号などを1行の中に組み込むというのは機械化をされた今でも熟練の技が必要だそうだ。こういう人たちがいるから数学を勉強することができるのだろうが、せっかく頑張って作ってくれた版組も僕には何の響きも与えてくれなかったのである。

申し訳ない・・。
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「量子テレポーテーションのゆくえ: 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで」読了

2023年11月10日 | 2023読書
アントン・ツァイリンガー /著 大栗 博司 /著,・監修 田沢 恭子/訳 「量子テレポーテーションのゆくえ: 相対性理論から「情報」と「現実」の未来まで」読了

著者は去年のノーベル物理学賞を受賞した人のひとりだそうだ。『物質を構成する原子や電子のふるまいについて説明する理論、「量子力学」の分野で、「量子もつれ」という特殊な現象が起きることを理論や実験を通して示し、量子情報科学という新しい分野の開拓につながる大きな貢献をした。』というのが授賞理由だそうだ。

この時点でさっぱりわからないのだが、SFの世界に出てくるこの手の話ならよくわかる。「三体」の中では、この理論を利用して4光年離れたアルファケンタウリになる惑星と地球との交信に使っていた。「スタートレック」では転送装置がこの理論を使って作動されている(らしい)。

この本では、この、量子テレポーテーション(量子もつれ)について、なぜそういう現象が起こるのかということではなく、そういう現象が起こっていることをどうして知ることができるようになったのかということを書いている(ように思う)。
実際にこういう実験が過去に行われ、こういう理解から量子もつれがおこっているということが証明されるのだという説明が200ページ以上にわたって続くのだが、それがさっぱりわからない。
ある大学生のカップルがその実験に参加するという形式をとっていて、実は一般人にわかりやすく説明してくれているはずなのだが、それがさっぱりわからないのである。
その実験はこんな内容だ。
量子の状態を観測できる検出器が両端にあり、その中間には量子もつれを起こした一組の光子を両方の検出器に送り出すことができる発生器がある。
両方の検出器で観測された状態が同じ結果ならば、量子もつれが実際に起こっていると確認できるというのである。
量子もつれを起こした粒子は双子のようなものなのだから両方で同じ状態が観測されるのはあたり前だと考えてはいけない。その性質が現れるのは観測された瞬間で、それまでは様々(ある意味、無限)の状態が重ね合わさっているのである。
で、それを観測するためには光の偏光具合を見るというのだが、それくらいのところからもっとわからなくなってくる。ベルの不等式の破れ、局所実在論、隠れた変数理論・・。
一応は一般向けの読み物となっているので、一般人にも理解ができるはずなのだがそれでもさっぱりわからない。だから感想文はここで終わってしまうのである。
      
これだけで終わっては感想文が短すぎるのでこの本に書かれていた面白そうなエピソードを残しておく。
アルベルト・アインシュタインがノーベル賞を受賞したのは相対性理論ではなく「光量子仮説」というものであったが、なぜ、世界で最も有名な相対性理論でなかったかという理由について書かれていた。それは、ノーベル賞の選考委員のなかにふたり、この理論が好きじゃなかった人がいたという理由だったそうである。しかし、こんなに有名な科学者がノーベル賞をもらっていないというのはノーベル賞の権威にかかわるというので別の受賞理由を付けて賞を与えたというのである。だから、受賞理由というのが、『理論物理学への貢献に対し、とりわけ光電効果の法則の発見に対し』というへんてこなことになったというのである。
純粋に理論だけが評価されるのが自然科学の世界だと思っていたが、そこには好き嫌いがあるというのが人間の世界というものかとあきれるというか、アホらしくなると思えてくる。こうなってくると、文学賞なんてもっと好き嫌いがあって、村上春樹はきっと選考委員にオベンチャラをやっていないのではないに違いない。どんな時代になっても権威とはくだらないのである。

そのアインシュタインは、こういった量子の不思議な性質のことを、「不気味な遠隔作用」と呼んだそうだが、その不思議な性質を否定するため、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンという物理学者と共同で論文を発表している。それは1935年のことだそうだが、そんな昔にすでにこんな小さな世界のことが解明されていたというのが驚きである。しかし、本当にそうなのかということが実験で確かめられたのは40年以上もあとになってからだそうだ。相対性理論と量子論には相容れない部分があるそうで、量子論の不思議な世界が本当に存在すると証明したのが、先に書いたベルの不等式の破れ、局所実在論、隠れた変数理論というものだそうだ。
う~ん、わからない。

「スタートレック」は1966年から放送が始まったそうだが、だから、その当時にはすでに量子論は知られていたので、「転送装置」は、作れないということはすでに分かっていた。転送する対称(人間や物)のその時点の量子レベルまでの状態を確定し、そのデータを受信器に送りそこにある物質を使ってデータ通りに作り直すというのがそのメカニズムであるが、不確定性原理によってその状態というものが確定できないというのがその理由である。
そこで、このシリーズの技術アドバイザーが考え出したのが「ハイゼンベルク補正器」なるものを考え出した。もちろんこれは架空の補正器でその仕組みはわからないが、タイム誌の記者にその働きを問われたマイケル・オクダは、「じつによく働くよ。おかげさまで。」と答えたという。かっこいい回答だ。その人が日系人だったというのもなんだかうれしかったりする。
しかし、データをコピーされて送信されても、コピーしてもらった本人はそこに残っているということになるから、それはそれでちょっとまずいのではないだろうか・・。

そして、もっとも興味を引かれるのが、観測することではじめて状態が決まるということは、世界を決めるのは観測者である人間であるといえることである。世界は客観的ではなく主観的であるといっているようにも見えるが、著者も語っている通り、これはなんだか哲学的な話になってくる。
実在を追い求めた哲学が自然科学を創り出したのであるが、その自然科学の帰結のひとつが哲学であったというのはウロボロスの蛇を見ているようなのである。

やっぱりわからない・・。
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『地球に住めなくなる日: 「気候崩壊」の避けられない真実』読了

2023年10月29日 | 2023読書
デイビッド・ウォレス・ウェルズ/著 藤井 留美/訳 『地球に住めなくなる日: 「気候崩壊」の避けられない真実』読了

この本は図書館では自然科学の書架に並んでいたが、中身は社会科学のようなものだった。

地球温暖化という言葉が世間に知られ始めたのは31年前、国連で定められた「気候変動枠組条約」なのでその頃からだろうか。今年の夏も暑くて暑くて連日30度を軽く超えていたけれども、確かに、僕が小学生だったころには夏に気温が30度を超えると大ニュースという感じであったように思う。今では気温が30度を超えるのはあたり前になっているのを思うと確かに地球は、少なくとも日本は間違いなく温かくなっているのだと実感する。
加えて今年の夏は潮位が高かった。大潮近くなると水位はいつも港の護岸を越えていた。
ひょっとして北極海の氷が溶け始めているのではないかと思ってしまったりしたのである。

 

「気候変動枠組条約」で決定した「京都議定書」を受けた「パリ条約」では、『世界の平均気温上昇を産業革命前と比較して、2℃より充分低く抑え、1.5℃に抑える努力を追求すること』と決められたが、温暖化の原因となる二酸化炭素は目に見えない。どこで誰がどれだけ出しているかということも定かではないように思える。排出量を証券化して取引をしようなどという試みもあるようだがそんなことができるのだろうかと思える。
また、二酸化炭素の排出量が地球温暖化の本当の原因かどうかわからないというトランプ前大統領のような人もいる。

この本には地球温暖化が進むと、飢餓、都市の水没、山火事、感染症の蔓延、経済崩壊などが起こると書かれている。アメリカで出版されたのは2019年らしいのでコロナウイルスやハワイの山火事という事件が起こる前だが、なんとなくそれを予言しているようなところもある。
しかし、世界の経済発展はエネルギーを消費することのみで支えられている。いくらIT技術が進歩しようとそれは貢献していないらしい。産業革命当時から変わったことといえばエネルギー源が石炭から石油に変わっただけなのである。
右肩上がりの経済発展を望もうと思えば現時点ではひたすら石油を燃やすことしかない。
夢の核融合エネルギーも現状では35億ドルを投入してやっとヤカン数杯分の水を沸かす程度というのが現状だからやっぱり石油が頼りだ。ガンダムの世界のようにヘリウム3を木星から運んで核融合炉を稼働させるなどというのは夢のまた夢なのである。
グリーンエネルギーと呼ばれるものがあるが、多分これは現状維持かもしくは若干の経済後退を我慢しなければならないのだろうと僕は思っている。
それでは株価が上がらないので困る人がいっぱい出てくる。例えば、政治をやっている人たちも、「生活レベルが落ちるかもしれないけれども地球温暖化を食い止めて見せる。」と言って当選できる政治家はひとりもいないだろう。
投票する人がそう望まないだろうし、自分が生きている間はそんなにひどくはならないだろうと思っているのが大多数だろう。
僕もそのひとりだ。いくら長生きしてもあと20年だ。温暖化で地球に住めなくなる前に年金と貯金が無くなるほうが早いかもしれないのである。

だから、僕にとっての避けられない真実というのは、この本を読んでも僕の生活態度は変わることはないということなのである。

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