イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「最澄瞑想」読了

2017年11月30日 | 2017読書
梅原猛 「最澄瞑想」読了

昭和61年、梅原毅がNHKの「市民大学」という番組で語った内容を書籍化したものだ。

最澄というと、その後の鎌倉時代に生まれ、現代でも日本の仏教の中心にある宗派の始祖は全員延暦寺で学んだ僧たちである。そこは空海とはかなり異なる。天台宗というと密教のイメージがあるけれども、元々は法華経を主な経典としており、密教は当時の政権と付き合うためにどうしても加持祈祷の技術が必要であったことから取り入れられたものだったそうだ。学究肌の最澄はその密教ももっと極めたいと空海に弟子入りまでしたのだ。比叡山が密教の寺と思われるのも密教を専門に勉強した僧が比叡山を拠点に広めたからである。

そう、最澄も自分の理想を極めるためには当時の政府、すなわち時の天皇、桓武天皇に気に入られる必要があった。仏教を極めるということとそういうドロドロとした生臭いこととは対極にあるはずで、さらに奈良の仏教界とのあつれきなどもあり亡くなる直前まで相当な苦労をしたそうだ。空海はそういうところはうまく乗り越えてさっさと高野山に籠って自分の思想を極めたのだからすこし最澄の上を行っていたと言えるのかもしれない。
しかし、その後の日本の思想に大きな影響を及ぼしたのは最澄の方だ。最澄は非常に弟子思いであったらしく、その心が多様な思想を産み人々に受け入れられた。そういうところでは空海のはるかに上を行っていたのかもしれない。
どちらがどうかということは凡人の語ることではないけれども、個人的には空海の生き方の方に憧れるものがある。(僕が和歌山県民であるという理由もあるだろうけれども・・・)

ただ、組織、集団といういう意味では最澄のほうがいい上司なのではないだろうか。少なくとも僕の友人のボスとは大違いだそうだ。
これから先は僕の友人の話であるが、つい最近、来月の営業方針を説明する会議の席でいきなりボスが、「君のところはちゃんとやっているのか!!?」と険悪な表情で質問をしてきたそうだ。彼は何のことだかさっぱりわからずに困惑したそうなのだが、ボスの隣の子ボスの説明では、どうもわが社の従業員の些細なミスで親会社からクレームが入ったことでボスの機嫌が悪く、彼の部門でもそんなミスの発生する可能性はないのかということだったようだ。その後ボスは、彼の説明には上の空で通常なら説明が終わったあとでなんだかどうでもよいようなことを嫌味たっぷりで質問を浴びせてくるのだが、突然子ボスに向かって、「俺は謝りに行かなければならないのか?」と話し始めた。かれは、「は?」と自分に何か返答を求められたのかと再び困惑していると、「もう、出て行っていいで。」とお言葉。その前に、彼の直属の上司も、「会議はええから出て行ってミスの再発防止策を考えろ。」と会議室を出て行かされた。彼は、この会議は月々の営業方針を決める大切なもので、会社の方針に合致しているかどうかの確認と修正をおこなう大切なものだと考えていたのだが、ボスには別にどうでもいい会議だったようだ。それでも後から、「俺はそんなことは望んでない!!」ときっと言い始めるのだから困ったものらしい。
上司といい、子ボスといい、なんと可哀想なことか。それでも真摯に仕えなければならないのだから。

本当にくだらないことが原因だったらしい。ボスの過剰反応と親会社に対するメンツだけのことのようだが、これでわかったことは、彼のボスは部下に対する信頼や愛情がまったくなく、自分のメンツだけが大事な人であるということだ。おまけになんとチキンなことだろう。まあ、常々の言葉で、「誰が悪いねん?」という言葉が物語っているから今さら驚くことではないと彼は言っていたが・・・。彼はもうひとつ、今まで色んなくだらない上司を見てきたが、最上位にランクされるボスではないかと言っていた。
今夜はそんな一見バラバラに見える組織の忘年会が催されるそうだが、みんなどんな顔をして語らうのだろうか?それでもポーカーフェイスで他愛のない話で盛り上がるのだろうか。彼はそんな席を大人の態度で乗り切れるのだろうか。僕には絶対に無理だ。そんな人と貴重なプライベートな時間を無駄にしたくない。

できれば最澄のような心で空海のような生き方を望みたいものだ。
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水軒沖釣行

2017年11月29日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 8:22干潮
釣果:ボウズ

今日はローテーション通りで小船を駆ってコウイカへ。

雲が多くて空が明るくなってきたのは午前6時半になったころだった。暗いうちは沖に出たくないので沖の一文字と新々波止が交差するポイントからスタート。しばらく流してもアタリがない。そしてついでに流れもない。
これはダメだと新々波止の赤灯台の沖まで移動。ここは少し流れがある。なんとなくアタリのようなものがあり、合わせてみるとかすかに手ごたえはあったが空振り。皮膚が少しだけカンナにまつわりついてきた。
やっぱりイカはいるようだ。しかしまた沈黙してしまった。

もう一度最初のポイントに移動し、新々波止の際を丹念に沖まで探ってみたけれどもやっぱりアタリがない。2時間あまり流し続けたけれどもアタリはなくその時点で忍耐力も途切れてしまった。

風も穏やかで波もなく、紀ノ川方面からはたくさんの船が加太を目指して行った。家に帰ってもいつもの煙突からの煙はまっすぐ上に立ち上っている。

 

僕も加太に向かえばよかったのだろうか・・・。
戦略を間違えた・・・。


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小島~加太沖釣行

2017年11月27日 | 2017釣り
場所:加太沖
条件:長潮 5:43干潮
潮流:7:15 下り1.9ノット最強 10:25転流
釣果:真鯛 57センチ サバ 各1匹 カワハギ 小さいやつ 3匹

今日は腰痛の治療に通っている3ヶ月に1回の整形外科の受診の日なので、早朝だけコウイカを釣って予約の時間に滑り込もうとしていたのであるが、天気がすこぶる良くて加太まで行けそうだと思うともう我慢ができない。
大体、診察に行っても、2分ほどむにゃむにゃ話をするだけで、治療らしきものをしてくれることもない。要は湿布薬といざというときのための痛み止めをもらうために医者に会いに行くようなものだ。そんなに考え始めるとなんだか貴重ないい天気の日を無駄にしたくないと思っても当然ではないか。



今日は朝のうちは下り潮。非武装ポイントからスタートだ。
朝、港に行ってみると、隣のN氏も出撃の準備をしていた。彼らより少し早い目に出発したが、やっぱり田倉崎を越えるころには後ろから一気に追い抜かされてしまった。僕はオーバーヒート寸前のガンシップ。彼らは銀河一早いミレニアム・ファルコン号だ。(スターウォーズと風の谷のナウシカを観たことがない人はすみません・・・。)
帝国軍は地ノ島の北側に集結しているけれどもN氏たちは小島沖を目指しているらしい。最近の釣果を比較すると彼らの方がはるかに成果を上げている。今日も彼らの後を追いかけて勉強だ。最澄だって7つも年下の空海に密教の教えを請うたではないか。何事を教えてもらうにも年が上とか下とかそんなことは問題ではない。



水深50メートル付近を流していると上層に反応が出てきてアタリが出た。オモリを持ち上げるようなアタリだったのでこれな間違いなくハマチだと思ったらサバであった。これは貴重な1匹だ。50センチはある。真鯛よりもこっちの方が美味しい。今夜は久々にきずしを食べられる。
午前8時半を回った頃から、どうも潮が流れなくなっているのではないかと感じ始めた。北風に押されているだけで潮は動いていないようなのだ。それではと地ノ瀬戸のすぐ北へ移動。ここならまだ潮は動いていると予想したのだが、それが的中した。間もなく強烈なアタリが出た。これはかなり大きい。枝素は3.5号、無理はできない。ドラグを調整しながらゆっくり引き上げてみると最後は久々の大きさの真鯛がドカッと浮いてきた。

その後はアタリがなくなり、本当に潮が止まってしまう前にカワハギ狙いに変更。
ここでも風が強くてすぐに船が流されてしまう。しかし、今日は枝素を5センチにしているのでアタリはかなり取りやすい。薄造りで肝和えと目論んだが小さなカワハギが3匹で終了。
再び上り潮を狙って第一テッパンポイントに移動したが、この2匹で満足してしまい集中力がなくなって午前11時に終了。

釣り上げたサバは片身でこんなに大きなきずしが出来上がった。美味しかった。



記録:

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水軒沖釣行

2017年11月23日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 9:22満潮
釣果:コウイカ 3匹、タチウオ 2匹、サゴシ 1匹、マルアジ 1匹

今日の休みも天気が悪い。
どうしてこうも休みごとに天気が悪いのだろう。日頃の行いが悪いのだろうか・・。
しかし、予報では夜明け過ぎに雨が上がるらしい。そしてその後わずかな時間ではあるけれどもあまり風が吹かないようだ。今日はその間隙を突いての出撃だ。
たしかに、予報通り午前5時半には雨が上がった。午前6時に出港。まずは仕掛けを物置に片付ける前に最後のタチウオ仕掛けを引っぱってみる。キリンクレーンの手前から流してゆくと仕掛けを下しきる前にアタリが出た。
おお、こんなに寒くてもタチウオが釣れるんだと思って仕掛けを回収するとサゴシであった。その後もアタリが続くがハリに乗らない。コウイカのポイントに向かいながら仕掛けを引っぱり続ける間にタチウオが2匹とマルアジが1匹。
しかし、こんな大きなテンヤにマルアジが食ってくるとは驚きだ。多分初めての出来事ではないだろうか。

すっかり辺りが明るくなったのでコウイカのポイントへ移動。風は少しづつ強くなってきた感じだが底は取れている。
しかし、夕べから降り続いた雨が上がった直後で風の波が立っているうら寂しい風景に心が折れそうになる。果たして釣れるのだろうか・・・。



3回目くらいの移動の後だったろうか、けっこうはっきりしたアタリが出た。なかなか大きな型だ。アタリのあった場所は新々波止と沖の一文字の交差する地点だ。やはりこの場所は裏切らない。
その後もこの辺りを行ったり来たりしてなんとか3匹を確保。
風はどんどん強くなってきて仕掛けが底に落ち着かなくなり、さらに波も高くなってきた。小船ではここまでが限界だ。



早々にあきらめて午前8時に終了。


数は少ないが型はまあまあだったので叔父さんの家に1匹だけ放り込んで帰宅。
誰もいなかったので帰宅してから電話を入れると、鬼柚子が黄色くなったから採りに来いとのこと。



驚くほどの大きさの柚子だが、マーマレードを作るとけっこういけるのだ。



中身はほとんど白い綿なのでこんなサイズを3個刻んで小瓶に4つほどになってしまった。

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「本日釣り日和―釣行大全 日本篇」読了

2017年11月22日 | 2017読書
夢枕獏 「本日釣り日和―釣行大全 日本篇」読了

夢枕獏というと、有名かどうかは知らないが、釣りをする人なら多分、「う~ん」と唸ってしまうこんな箴言がある。「幸福(しあわせ)な家庭に幸福な釣りはない。幸福な釣りに幸福な家庭はない。」これは著者の友人のカメラマンの結婚式に出席していた来賓の言葉だったそうだ。多分、初めてこの箴言が活字になった最初の本であったようだ。

エッセイのほとんどはアユ釣りに関するものだ。僕はアユ釣りはまったくしたことがない。昔、紀ノ川でルアーを投げていてスレで1匹釣り上げたことがあるだけだが、誰に聞いてもこの釣りは面白いらしい。0.0・号という細い糸を使い急流の中で泳がせるオトリに襲いかかってくるアユの突然のアタリはものすごいらしい。夏の間は船に乗り続けないとすぐに船底にフジツボが湧いてくるのでアユを釣りに行くほどの余裕がない。多分、船を持っていなかったらひょっとしたら僕もアユ釣りにのめり込んでいたのかもしれない。食べてもすこぶる美味しい魚だ。

たとえ経験のない釣りに関する文章でもそこは魚釣り、いたるところに共感でいる部分がある。上記の箴言もしかり、「びしばし」と魚がかかるような場面にも出くわしたい。しかし、“びしばし”掛かるというのはどんな状況なのだろうか・・・。
「仕事が終わったらそのままの恰好で釣りに出かけられるような、という発想が服を決める基準となっている・・。」「最良の仕事の日よりも最悪の釣りの日の方が、まだマシである。」すべてしっくりくる。
仕事より、釣り。まあ、多忙を極める作家の言葉だから重みがあって、仕事ができないサラリーマンがそれを言えば、ただのバカである。
コメント (2)
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「御松茸騒動」読了

2017年11月21日 | 2017読書
朝井まかて 「御松茸騒動」読了

主人公は今でいう、「意識高い系」というタイプの若者である。父親が早世したため若くして家督を継ぎ、尾張藩江戸屋敷で用人手代見習いをしている。
自分は藩のいつかは藩政の中枢を担うにふさわしい人間になるに決まっていると思っている。その意識の高さが煙たがれ、尾張藩の御松茸同心に左遷されるところから物語は始まる。
この時代、ほんとうにこんな役職があったのかどうかは知らないが、物語の中では御松茸同心というのは閑職であり、一度配属されると二度と日の目を見られないというそんな設定になっている。
そんな境遇の中でひとつの書物を中心にして父親の思い、主君への思い、現場で松茸の管理をしている人々の思いが絡み合い不作が続いてきた赤松林を再生して行くというストーリーだ。今、けっこう話題になっているそうなのでこのブログを読んでくれている人のなかでも読んでみようと考えている人もおられるかもしれないのであまりあらすじについては書かないでおきたい。

この物語の主題になっている柱のひとつは、その、“主君への思い”であると思う。かつて蟄居させられた主君の領民への思いが大きな動きとなって松林の再生へとつながってゆくのだが、そこには主君の領民への思いにも大きなものがある。そこのところ、僕のとある友人の愚痴としてこんな話を聞いた。
親会社からUターンしてきた彼の会社のS務という人はとにかく自分をすばらしい人物だと自画自賛し周りの人たちを卑下したがる。そうだ。いつもの口癖は、あきれた表情で、「もう、そんなことは止めようや・・。そんなことばっかりやってたら会社潰れてまうで。」である。そうだ。
とにかく社員のことをバカにしているとしか思えないような言葉にしか理解ができない。そうだ。
そして、最近、この人の威を借りているようなラスプーチンが現れた。らしい。教育担当という肩書きで社内研修みたいなことをやっているのだが、この人も輪をかけるように人をバカにしたような話し方をする。そうだ。業界の雄とだれもが認める会社の元社員なので、この会社の社員はそこに比べると、(もしくは自分と比べると・・)、「センスがない。」「やる気がない。」「取引先からバカにされているのに気付いていない。」などなど、うまく人の気持ちを萎えさせてくれるように講釈をしてくれる。そうだ。
ひょっとしたら、そういうきつい言葉を投げかけることで奮起を促してくれているのかもしれないが、彼にはどうもそうとは思えない。大本営からも、「あの人がまた言っている・・・。」と半ばあきらめ調子で言ってくるし、すべての人が、「あの人が言っているのだから絶対やらねば!」みたいに思っているとは思えない。ラスプーチンにしてみても、そんなすばらしい会社を辞める事情があったであろう人にバカにされたくないし、それでもこの会社が好きなんですと言われても嘘をついているふうにしか見えない。らしい。大体、大志をもって辞めたのならそんなバカばっかりの集まりの会社に嘱託で就職しないだろう。それともバカばっかりの中だったら俺もなんとかやれるという感じなのだろうか?まあ、みんな立派になりましたって言ってしまうと自分の職がなくなるみたいな事情もあるのかもしれないが・・・。と彼は思っている。

S務さんにしてみても、なぜだか彼はこの人の親会社時代を知っているのだけれども、そこでも自分を超能力者張りのすごい人だと自慢をしていた。そうだ。「俺の勘は鋭いんだ~!」とか「子会社のOOは大嫌いだ」とかを平気で言うし、意味もなく近寄ってきて、「なあ、俺、これからどうしたらいい?これからどうなると思う?」と、今思えば将来の自分を自慢したくて仕方がないような質問をしてくるし、Uターンしてきてからも社内ですれ違ったときに、「俺がこんな形で戻ってくるとは夢にも思ってなかっやろう。」というような、なんだかこんな状況がうれしくてたまらないというような雰囲気だ。一管理職に自慢をしてみても何の意味もないと思うのだが。自慢されたこっちの身にもなってくれと思う。と言っていた。
今のボスにしてみても、会議のたびに、「誰が悪いんや?」、「どうしてできないの?」ばかりしか言わない。この人はどの方向を目指したいのかを教えてもらったことがない。これらの方々からは部下への愛情というものを感じたことがなく、むしろストレス発散の対象とされているとしか思えない。そうだ。こんなS務の下ではみんなストレスが溜まるんだろうね~。
まあ、まったく仕事のできない人間の歯ぎしりのようなものだが、周りの人はよくそれでもこの人たちについて行けるものだと感心してしまう。そうだ。

主人公は、最初は嫌っていた山の仕事に再び戻ってゆくのだが、組織の中心に居なくてもいい、何か矜持を持てる仕事を見つけられた人はきっと幸せだと思う。それに加えてそれを支え、支えられる仲間がいればもっと幸せなのだと思い知らされる1冊であった。

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小島沖~洲本~小島沖釣行

2017年11月17日 | 2017釣り
場所:小島沖~洲本~小島沖
条件:大潮5:39満潮 11:24干潮
潮流:5:55 上り2.7ノット最強 9:30転流 12:15 下り2.4ノット最強
釣果:タチウオ 1匹 マアジ 37センチ1匹

ここ数日、グッと気温が下がってきている。今日も朝はかなり寒いが冬型の気圧配置が緩んで絶好の釣り日和だ。
朝日はくっきり、でも陸地に近い所では気嵐が出ていた。

 

今日の戦術は前回の小島沖でどう見てもタチウオを釣っている遊漁船があったのでそれを確認することと下り潮での真鯛狙いの2本立てである。

午前6時過ぎに出港。流木をひっかけたことが原因で船の振動が激しい。しかし舵は修理してもらったおかげで人差し指1本で操縦できるようになった。
松本零士原作の「宇宙海賊 キャプテンハーロック」では戦闘状態に突入するとハーロックが艦橋から上部甲板に総舵輪ごと飛び出て舵輪をクルクルっと回して操縦していた。空気がないところでハーロックは大丈夫なのだろうかとか舵輪だけで左右の操縦は可能だが上下運動はどうするのだという疑問はさておいて、今や僕の愛艇もクルクルっと操縦できるほどになっている。

小島沖へ一目散に向かったものの、前回遭遇した場所がわからない。



前の航跡を辿ってみたけれども80メートルを超えるような水深の場所を見つけることができない。
そうこうしているうちに洲本方面に向かうであろう船が数隻現れた。僕も時間が惜しいのでこれは洲本沖で一勝負しようと方針を変換。しかし、まだ上り潮が早くて船がどんどん流される。
なんとか船の姿勢を保ちながらアタリを捉えたが、このままここにいても大して釣果は上がらないだろうと思い、30分ほどで洲本を後にして再び小島沖へ移動。
ちょうど潮止まりの頃。まあ、ゆっくりアタリを待とうではないかと構えていると不意にアタリがあった。残念ながらハリス切れ。重みが乗らないままでハリスが切れたのでサゴシかタチウオだろうか。ひょっとしたらここら辺りがタチウオのポイントであったのかもしれない。

少し浅い所にできている船団に合流しようと移動する。どうもこの辺りというのは帝国軍の領域と大阪の諸国連合の非武装地帯か、はたまた休戦ゾーンか、帝国軍、自由連合、大阪諸国連合入り乱れていて僕も帝国軍からの威嚇攻撃を受けることもない。なかなかいいポイントだ。これからこのポイントを非武装ポイントと呼ぶことにしよう。



この場所でまたアタリ。なんだか重いだけの引きでガシラかなにかだと思ったが大きなマアジであった。今日はなんだかもうこれで十分な気分になってしまった。
下り潮がはっきりしてきてもアタリがない。水の中はスラッジがたくさん漂っている。こんな日はあまり釣れた記憶がない。この場所でもダメだろう考え、陸に近いところや前回よりも北上をしてみるけれどもやっぱりアタリがない。
洲本までの移動でも大分燃料を使ったので早い目に切り上げ11時半に終了。

マアジのほうはお腹の中に脂がぎっしり詰まっていた。初島のチヌといい、今年の冬の魚は味がすこぶるいい。
今日の釣果はショボい限りだが年末まで数回、釣行できると思うがもっと美味しい魚を釣りたいものだ。

記録:
航跡


天気図



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初島釣行

2017年11月15日 | 2017釣り
場所:初島 大磯
条件:中潮 4:16満潮 10:09干潮
釣果:チヌ 43センチ以下 2匹 アイゴ、木っ端グレ 各1匹

今日は2年ぶりのフカセ釣りだ。2年もやっていないのならもうやらなくてもいいだろうというのはそのとおりで、道具がどんどん劣化してしまっていて神様は限りなく僕にフカセ釣りをやらしたがらないようだ。
3日ほど前、事前に出発の準備をしようと磯バッグを物置から引っ張り出してみたらストラップやモールがすべて劣化してしまっていてその部分が黒い粉に変身してしまっていた。もう、使えるものではない。帽子も後ろのベルトが割れてしまっている。ウキケースも表面がネチネチして、ハリスのケースに癒着してしまっていた。竿のグリップはすでに2年前からネチネチしている。おまけに普段履いている靴も底がはがれてしまった。
これらの道具はフカセ釣りを本格的に始めた15年ほど前から使っているものだ。ある種の樹脂は加水分解してボロボロになってゆくものだからそれを使った製品は劣化してゆくのは仕方がない。特に長く使わずに置いておくと余計に劣化が早くなる。だから僕の道具も劣化してしまうのは仕方がないけれども、それがいっぺんにやってくると何か違うことを想像してしまう。そういえば去年の今頃は紀州釣り用のバッカンが劣化してボロボロなっていた。どんどん僕の釣り具が劣化してゆく・・。
昭和ひとけたや二けた前半のおいやんたちがよく使っていた、いわゆる「メーカーもん」ではないのでよけいに劣化がはげしいのかもしれない。

 

そして今日の行先は初島。多分本格的にフカセ釣りができる北限だと思う。船の釣りに慣れてしまうとたくさんの荷物を持って遠距離を釣行するのがしんどくなる。それならもうやらなくてもいいだろうというのはそのとおりだがそれでも磯釣りは面白いのだ。だからなんとしても行きたくなるのだ。

場所は大磯。今年の夏に隣のかっこいい船に乗せてもらって沖から眺めた磯だ。



上の画像のちょうど右あたりの磯である。初島では一番実績のある磯らしい。



朝のうちは陸の方に向かって潮が流れている。一緒に乗った釣り人がチヌを釣り上げた。おお、魚はいるのだ!!。そして僕にも木っ端グレが釣れた。その後はエサ取りが猛威を振るい始めた。これでは釣りにならないので少し場所を移して流れている方向と反対方向の磯の際を流してみると強烈なアタリがあってチヌが釣れた。このアタリが味わいたいのでフカセ釣りがやめられないのだ。
この場所もすぐにエサ取りが増えてきたので今度は沖ノ島との間の水道を流してみた。



潮の流れは徐々に緩くなってきたがここでアイゴが釣れた。お昼前になり潮は沖向きに変わった。そこで、先にチヌを釣った場所に移動。すぐにアタリが出てチヌをもう1匹追加。うまく勘が働いた。
午後の迎えは午後2時と午後4時。一緒に乗った釣り人は午後2時に帰るというので僕も一緒に磯上がりとした。今日の客は僕たち二人だけ。別々に帰るというと渡船屋さんに申し訳ない。

ここは組合方式で松林渡船と南村渡船の2軒で運営しているらしいが、待合はそれぞれの渡船屋にある。僕は松林渡船の待合に入ったのだが、ここの大将はしゃべりは達者だが、どうだろう、御年80歳近いのではないだろうか、お歳のせいか、歩き方がよちよち歩きだ・・。今日の待合、どう見てもただの近所のおいやんがふたり。競馬がどうの、パチンコがどうのおよそ釣りには関係のない話をひとりでしゃべっている。水軒渡船もそうだが、なんともギラギラしていないところがいい雰囲気だ。そして、この人が船を運転するのかと思っていたら組合方式なので船頭は別にいると聞いて少しホッとしたわけだが、帰りの船はこの大将が運転してきた。スロットルレバーを握っている右手はプルプル震えている。大丈夫かいな?と思っていたがさすがにプロだ。桟橋に横付けする操作は最後に船尾をスライドさせてピタリと止まった。いつもちからさんに、「うまくできないね~」と言われている技だ。歳は取ってもさすがだ。僕のほうが恥ずかしい・・・。

使えなくなった磯バッグだが、これも釣り人口が減りつつあるからだろうか、それとも日本経済がデフレを脱却したのだろうか、急いで巡回した市内の釣具屋では、「メーカーもん」しか売っていない。15年くらい前はバーゲン時期になると2000円も出せばなんとか使える磯バッグが売られていたものだ。今日はいつものクーラーボックスを持って行ったが、真冬の紀南ではやはり磯バッグ必要だ。
今、しぶとく磯釣りを楽しんでいる人はマーケティング用語でいうところの、「イノベーター」というたぐいの人だろう。自分の好きなことにはお金を使うことをいとわない。お店もそんな人をターゲットにして安いものを置かない。僕は魚釣りは普通の人以上に大好きだが、イノベーターではない。どれだけお金を使わずに魚釣りを楽しめるかということを信条としている。自分で作れるものは自分で作り、竿とリール以外(グリップはネチネチしているとはいえ、僕が今日使った竿とリールは合わせて購入価格で15万円くらいはするものだ。ただ、後生大事にそれを使い続けているといのもマイノリティという証拠ではある・・。)はボロボロでもよいと思っている人種はマーケティングの中では限りなくマイノリティであるらしい。それは世間の流れに掉さす誇りある態度ではあると思うのではあるのだが・・・。

年に1回行くか行かないかのために大きな投資をするか、それともこのままフェードアウトするか、それとも田辺の釣具屋ではまだデフレ現象が続いてくれていることを願って物色してみるか、僕の人生もちょっとした曲がり角に差し掛かっているのかもしれない・・・。
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「魚は痛みを感じるか? 」読了

2017年11月14日 | 2017読書
ヴィクトリア・ブレイスウェイト/著  高橋 洋/訳 「魚は痛みを感じるか? 」読了

これは切実な問題だ。僕も魚に対してはかなりひどいことをしている。著者はイギリス人でキャッチ&リリースの国だから痛みを覚えるといっても唇に釣り針が掛かったくらいのことを思っているのだろうが、美味しい魚を食べたくて釣りに出る僕はもっとすごいことをしてしまっている。
目の後ろに鉤やナイフを差し込んでぐりぐりするし、うきぶくろに空気が溜まった真鯛はお尻から管を突っ込んで、それは多分腸壁を突き破ってしまっているはずだ。
タチウオはコンクリートブロックに頭をぶつけて失神させてしまい、エソはほぼ生きたまま腹を剥いて頭を落としてしまう・・・。
人間だったら拷問以上のことをしてしまっている。もし、魚が痛みを感じているというのならこれはえらいことなのかもしれない・・・。

著者の解説を順に追って要約していくと、魚には “侵害受容”と言われる、傷害を受けた時に反応する能力よりももっと高度な伝達系があるという。その刺激は間違いなく脳にまで達している。
痛みや苦しみを感じるかどうかというのは魚が“意識”を持っているかどうかで決まる。意識には3つのカテゴリーがあり、ひとつは「アクセス意識」、ひとつは「現象意識」、そして「自己意識」。それらをすべて兼ね備えていれば、情動的であり痛みや苦しみを感じていると定義される。僕にとっては悲しいかな、魚はこの3つのカテゴリーを持っているらしい。
「アクセス意識」とは客観的な認識力、例えば自分の記憶に基づいて周りの状況などを認識できる力である。魚はエサが常にある位置や岩場の位置をかなり正確に認識しているそうだ。実験ではある種のハゼは隣の水溜りの位置を認識して敵の追跡から逃れているという結果が出ているそうだ。また、相手は自分より強いか弱いかということをかなり長い間記憶することができるというような実験結果もあるらしい。
「現象意識」とはそれを主観的に認識する力。客観的に認識したものを、例えばこれは安全だとか、危険だとか、そんなことを分析して認識できることである。魚の脳には構造上、人間の前頭葉に当たる部分が存在し、ドーパミンという物質(快感や安心感のもとになる)を受容できる細胞も存在しているらしい。
「自己意識」とは自分の行動について考え、起こりうる様々なシナリオを想像し、検討して自分の行動様式を修正できる能力である。これについては共同で狩りをする魚、この本ではハタとウツボが紹介されているが、戦利品の分け方で自己意識を持っているような振る舞いをすることがあるそうだ。
こういう事実を総合すると魚は傷みを感じているということになる。

魚だけでなく、イカやタコ、海老などの甲殻類についても同じような見解があり、イカを締めるときに眉間にピックを差し込むなどというのは相当な暴挙なってしまうことになる。
実際、カナダやイギリスでは実験に使われる魚や無脊椎動物にまで規制を広げるような法的整備までなされている国もある。
しかし、ひれがボロボロになった水槽の魚を見ていてもそこをかばうようなそぶりを見せないし、当然ながら生け簀の中に納まった獲物は怯えた顔をしていない。確かに体表の色や模様がちょっと変わることがあるが、それが恐怖や痛みを表現しているということになるのだろうか・・・。
そもそもいくら魚やイカが高度な知能を持っているとはいえ、さすがに言葉を話すわけではないから、「痛い!」とか「怖い!」とい言葉をどうやって理解しているのかがどうも理解できない。まあ、そう言ってしまうと犬や猫も言葉を持っていないだろうということになってしまう。

著者は特に養殖業について密度や環境についての配慮が必要と言っているが、釣りについても、特にキャッチ&リリースについて、何度も痛みを味あわせる行為については疑問を呈している。それならいっそのことなるべく苦しませないように一気に殺してしまう、「クリーンキル」のほうを認めている。ドイツやスイスでは一定の大きさの魚のリリースを禁止する法律があるそうだ。それなら僕のやっていることはキャッチ&リリースよりも魚の福祉に従っているということになるけれども、血だらけになったデッキを見ているとやっぱり相当残酷なことをやっているなと我ながらたじたじとなってしまう。
だからと言って著者が魚釣りを非難しているわけではない。大きな魚の繁殖力や、過剰な放流による問題なども合わせてもっと熟慮が必要であるとしている。

そうかと言って、明日から魚釣りを辞めますなんて言うこともできないので魚を締めるときはなるべく苦しませないように一息に、睨まれていると怖いので指で目に蓋をするくらいはしてみようか・・。
そして、命を奪うからにはきちんと美味しくいただくようにしたいものだ。

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舵の修理と庭木の剪定と悪天候

2017年11月11日 | Weblog
このひと月、休みのたびに天気が悪い。10月の4連休は全滅だったし、今日も雨は降っていないけれども北西の風が強く吹いている。一昨々日の休みは風はなかったものの、朝から雨が降っていた。次の休みもまた雨が降るらしい・・・。
とりあえずそれでも港には行ってみる。
昨日、やっと船の舵を診てもらえることができたのだ。僕はステムポンプが寿命を迎えしまったと思っていたが、梶棒の周辺のどこかが錆びついてしまっているとのことだった。いつも修理をお願いしているタカシさんからの電話では一度梶棒を抜かないといけないので工場のそばの岸壁まで船を運んで来いとのことで、これは大事だと思っていたら、10分ほど後に再び電話があり、なんか軽くなってきたから一度感触を見てくれとのこと、どこをどうしてくれたのかがわからないのだが、ものすごく軽くなっていた。中古で買った船だがその当初よりも軽くなっている。これでスパンカーを立てた時でも椅子に座ったまま片手で舵輪を回すことができる。



重い時の写真と見比べてもどこが変わったのかがわからない。これはもう、タカシさんマジックというほかはない。

タカシさんは今年、御年77歳だそうだ。ご本人は引退をしたくて仕方がないそうだが、修理の依頼が引きも切らないので辞められないのだそうだ。だから今回の修理も依頼をしてからひと月後になってしまった。僕だけではなく、みんな修理の依頼は工場に電話をするのではなく、直接タカシさんの携帯に電話をする。この人の腕を見込んでのことだが、こんな歳までたくさんの人たちに必要とされているというのは羨ましいとしか言いようがない。だから修理がこんなに遅れても誰も文句を言わない。ご本人は体力的にも相当きついと思うがあと10年は頑張ってもらいたいところだ。

午後は庭の植木の選定作業。
毎年、植木屋さんに頼んで剪定をしてもらってはいるが、それがもったいない。ウチの家族は僕を含めて庭の木を眺めてまったりするものなど誰一人としていない。そんなものに1万5千円もかけるのは無駄だ。いっそのことすべて伐採してハーブでも植えておいた方がいいのではないかと思うのだが、40年ほど前というとそれがどんな家であろうとも庭らしきものがあった。それにどれだけの意味やステイタスがあったかどうかは別にして庭には木が植わっていた。多分ウチと一緒で庭を見て癒されている人などほとんどいなかっただろうけれでどもやっぱり庭があった。高齢化が進んで、ウチの近所でも剪定をしないので森のようになった庭の家が少なからずある。しかしまあ、無駄ではあるのだが、それに疑問を持たなかった時代のほうが暮らしやすかったのではないかと思いながら述べ3日をかけてバッサリやってやった。



もう、無茶苦茶な切り方だが誰も真剣に見ることもないのだからどうでもいい。特に松は叔父さんが言うように、素人が切ってはいけないというのは本当だ。切れば切るほど変な形になっていく。おまけに松は切っちゃうとあまり枝が伸びて来るものではないので不格好なままになってしまうし、知らない間に枝が枯れてしまっていたりする。
ただ、光が入ってなんとなく庭が明るくなった。これからも森化しないようにだけのために伐採し続けるだけだ・・・。
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