イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「僕たちはガンダムのジムである」読了

2017年12月28日 | 2017読書
常見陽平 「僕たちはガンダムのジムである」読了

筆者は元リクルート社員で「労働社会学」という学問の講師や労働に関するコメンテーターなどもやっている人だそうだ。
今年の流行語にもなった、働き方改革の真っ只中にいる人のようでもある。

タイトルが面白くて読んでみた。タイトルにある、「ジム」というのは機動戦士ガンダムに出てくるロボット兵器で、主人公が搭乗するガンダムは連邦軍のプロトタイプなので機能的にも優れているしその主人公も最終的にはエスパー並みの能力を発揮して連邦軍を勝利に導く。対して、「ジム」はガンダムをベースに量産型として製造されたもので搭乗者も一般兵であり兵器としての能力もガンダムに比べるとかなり劣っている。物語の中ではやたらと数は出てくるものの大して活躍することも無く、赤い彗星のシャアにはボコボコにされるという役回りを演じている。仮面ライダーでいうとショッカーの戦闘員という感じだ。

日本のサラリーマンは、過酷な就職戦線を勝ち残り(この本の初版は2012年の出版なので、まだ就職氷河期の時代を引きずっているころだ。)その自信から一度は自分はガンダムであるという錯覚に陥り、夢を見るけれども大半は主役でもなくエスパーでもない、その他大勢の「ジム」であると言っている。だから、ジムはジムらしい世の中の渡り方をするべきだ。そういう内容の本である。

ひとの人生をガンダムになぞらえるとうのも奇をてらいすぎているとは思うのだが、そこは新書の悲しさ。もっと若い人、自分はガンダムでありたいと思いながらも現実はジムであると認識せざるおえない人たちが読むべき本ではあった。
すでに自分はジムであり、悩み終わったおじさんサラリーマンには郷愁でしかない。もっとも僕はジムよりもっと弱そうな、ミジンコがデザインの元ではないかと思える「ボール」という兵器程度であったのだが・・・。

僕がそう悟ったのはいつごろだっただろうか、大きな転機は上司が亡くなったことだった。このブログにの何度か書いたけれども、いつも一緒に釣りに行っていた上司が癌で入院してから半年ほどであっけなく亡くなった。最後の釣行の時には、最近背中が痛いので病院へ行かなければと言っていてそのまま入院して退院することはなかった。まだ若くて50歳にはなっていなかった。父親ほども歳が離れていない人で身近にいた人が亡くなるというのはショックだった。人は死ぬのだという当たり前のことをはじめて思い知った。その頃、職場ではたくさんのトラブルを抱え込み、毎週日曜日に新聞に入るアイデムをよく眺めていたものだ。その反面、死ぬということを目の当たりにしてやりたいことをやれずに、それもそのバイアスが会社であるのならそんなアホらしいことはない。まずは自分のやりたいことをやらなければもったいない。
その後、自分より先に昇進してゆく同期を見ながら、やっぱり自分はダメだなと思いながら、リストラの陰に怯え、それも50歳を越えると今度は開き直ってくる。休日も出勤して仕事をしている彼らを見ていると僕にはとてもじゃないけど真似ができない。
著者は社畜という言葉をこの本の中でよく使っているけれども、僕は社畜にもなれなかったということだ。まあ、それでもここまで首にならずに来ることができたし、多分、社畜にもなっていない。これから先は一体どうなっていくのかはわからない。まず、これ以上の昇進はあるはずもなく、また、昇進させられて休みが無くなるのはご免だ。役員と面と向かう度胸も能力もない。今の状態で余力を残して流してゆくのが得策でもある。
それを許してくれてきたこの会社にもある意味感謝をしなければならない。
その分、給料は限りなく安いわけではあるけれども・・・。
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「R帝国」読了

2017年12月25日 | 2017読書
中村文則 「R帝国」読了

筆者は「教団X」という小説の作者だ。本書も人気があるらしく、図書館で9月に貸し出し予約をしてやっと順番が回ってきた。僕の後にも4人の貸出待ちの人がいる。

内容は極端な監視社会になり、国民の思想までもコントロールされてしまっている「R帝国」が舞台のデストピア小説である。

あらすじを書いてしまうとこれから読もうとする人に申し訳ないので書かないで置くが、小説ほども極端ではないにしろ、多分、これからほとんどの国が向かっていくかもしれない状況を予測しているかのようである。

現実の世界ではその芽はいたるところで小さく芽吹いているようだ。世界はグローバル化への道を突き進んではいるけれども、その実、ナショナリズム、個人の利益などどんどん反対方向に向かっていっているような気がする。ヘイトスピーチや従軍慰安婦問題なんかもその一端かもしれない。アメリカをはじめとするナショナリズムの台頭。スコットランドやカタルーニャの独立問題。数えてゆくといくらでも出てくる。

小説ではこれらもすべて仕組まれたものであるという設定で進められてゆく。対立する国として「Y宗国」「C帝国」「B国」などが出てきてテロの仕掛け合いをするけれどもそれさえも裏でそれぞれの国が糸を引いている。現実の世界でもそうなのだろうか。実はそうやって世界は均衡を保ち、テロが起こって人が死ぬことで利益を得る人たちがいるのだろうか。

そうではなくとも、この小説のなかにもこんな内容を話す登場人物が出てくる。
すでにこの国でも虐げられたどこかの国の人たちの犠牲があって成り立っている。しかし国民はそれを認めたくない。罪悪感を鎮める情報が欲しいのだ。

今のマスコミもそうではないだろうか。弱いものをとことん叩き潰す。それで人々は溜飲を下す。それが誰かが意図しておこなっているとしたら恐ろしい。

一見、きれいな国に見えてもベリッと一皮剥けばそういうドロドロしたものが渦巻いている。それを飲み込むのが政府というものだ。政治家が汚いのではない。その政治家や社会に癒されている民衆が汚いのだ。
それを否応なしに見せつけ、警鐘を鳴らそうとしているのがこの小説であるような気がする。

ただひとつの希望があるとすれば、著者がそれぞれの国をアルファベットで表しているということではないだろうか。自分が所属している国や組織はアルファベットのような記号でしかない。ただの記号でしかないのだ。人の生き方というのは記号に左右されものではない。されてはいけないのだというメッセージと受け止めたい。
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「酒談義」読了

2017年12月20日 | 2017読書
吉田健一 「酒談義」読了

吉田健一という小説家を知っている人はかなり少ないのではないだろうか。この人のことを知らなくてもこの人の父親はそこそこの年齢の人なら必ず知っているのではないだろうか。吉田茂元首相である。ちなみに曾祖父は大久保利通らしい。

もちろん、僕も詳しいわけではまったくないが、何かの釣りの本(だったと思う)を読んでいたときに、この人の「海坊主」という短編が紹介されていたことで覚えていた。その後、この短編を立ち読みで読んだことがあるけれども、不思議な文章を書く人だと思った。

これも何かの書評で読んだのだと思うが、やたらと長い文章書く人だということが不思議な文章という印象を持った原因でもある。まあ、うみぼうすがのそっと2階の座敷にやってきて酒を呑んで何のことも無くまた帰っていくというストーリー自体も不思議ではあったが・・・。

本書は著者が酒について書いた文章を集めたものだ。別に薀蓄を語るわけでもなく、自分の酒へのこだわりをひけらかすわけでもなく、こんなシチュエーションで飲んだお酒は美味しかったとか、昔の飲み屋のはしごの仕方だとか、そんなことがその独特の文章で書かれている。その文体ゆえに少し霞がかかり、なんだか確かにしらふで読んでいるのだがほろ酔い気分になってしまっていうようなそんな読後感である。
多分、著者もほろ酔い気分でこれらの文章を書いていたのだろう。


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「空海密教の宇宙―その哲学を読み解く」読了

2017年12月19日 | 2017読書
宮坂宥勝 「空海密教の宇宙―その哲学を読み解く」読了

本書は、真言密教思想や哲学を、両界曼荼羅を通して解説したものだ。
曼荼羅とは、物質的、思想的両面から宇宙、世界の広さを表したものである。なぜ、そう言うものを明示しなければならなかったか、それは自分の今いる場所、座標といってもいいかもしれないが、それがわかると自分が進むべき方向がわかるからではないだろうかと僕は考えた。自分の居場所と世界の広さを比較することで自分がどこまで大きくなれるかということが判断できる。言い換えると、世界を狭く認識してしまうとそこまでしか大きくなれない。半径10キロの世界しか知らないとそれなりの人間にしかなれないということだ。

だから曼荼羅を理解するということは宇宙と同じ大きさにまでなれるということだ。修行をするというのはきっとそういうことなのだろう。
真言密教の本尊、大日如来は宇宙そのものである。そして人の心には必ず仏心(大日如来)が隠れているけれども、人々がそれに気付かないのは様々な曇りのようなものに隠されているからである。そんな秘密にされた心の奥底をあらわにするために修行に励むということが、密教が密教という名前であるという理由のひとつでもある。

しかし、ヨーロッパの宗教には創造主が必ずいて世界を創造するわけで、それは唯物的な思想であるのに対して、仏教は観念的な思想であるので創造主がいない。すなわち形のあるものは創られなかったと考える。せっかく世界の広さがわかれば自分の立ち位置がわかるというのにその世界に形がないとその世界がわからないというので曼荼羅が作られたのだ。
そして、そこには様々なものが包含されている。清濁すべてだ。愛欲もあればそれを焼き尽くす劫火もある。
これはたしかに宇宙だ。そして生きることのすべても表されていると思う。浄土思想は死んでから極楽にいくためのことだけを考えるし、禅宗は欲望を捨てることで人生を楽に生きる方法を考える。しかし、密教は今をどうやって、何もかもに折り合いをつけてどうやって充実して生きるかという、他の仏教にはない現実的な思想であるように思う。

しかし、煩悩が渦巻く世界で自分の中の秘密の仏性を見つけ出すということは至難の技に違いない。
師がよく使った言葉に、「釣り師は心に傷があるから釣りにでかける。しかし彼は、その傷が何であるかわからない。」というものがあるが、これの意味がやっとわかった気がする。
これは釣り人自身が自分の仏性に気付かない様を言い表しているのだ。心の傷を修復できる唯一のものが仏心なのだろう。そして釣りに行くこと自体が修行であると言っているのに違いない。

それが的を射ていると考えた理由のひとつは、金剛界曼荼羅の真ん中の枠、ここは「成身会」というそうだが、千人の菩薩様が並んでいる四角の東西南北には釣り鉤、釣り糸、鎖、鈴を象徴した菩薩様がお座りなのだ。もちろん、魚を釣っているわけではなくて、迷える衆上を鉤で引っ掛け、紐でたぐり寄せ、鎖で縛り、鈴でその喜びを表しているというのだけれども、それの手段が魚釣りの道具というのはなんとも運命的ではないか。
ぼくの今年の釣行回数は60回に近づこうとしているけれども、仏性の陽炎も自分の中に見つけることができない。いったいどれだけの釣行を繰り返せばいいのだろうか・・・。

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「おれたちを跨ぐな! わしらは怪しい雑魚釣り隊 」読了

2017年12月10日 | 2017読書
椎名誠 「おれたちを跨ぐな! わしらは怪しい雑魚釣り隊 」読了

この、「怪しい雑魚釣り隊」は2015年で結成10周年を迎えたそうだ。いまから30年ほど前、ちょうど就職したころ、日曜日の早朝だったと思うが、「わしらは怪しい探検隊」というテレビ番組があって、それが文庫本と連動していて内容も面白くてそれから著者の本を読み始めた。「リンさんチャーハン」というキャンプで食べると恐ろしく美味しいチャーハンが出てきて、それを一所懸命家で再現してみたけれどもちっとも美味しくなかった。

この、「雑魚釣り隊」はその延長線上にあるらしく、やっぱり大人の男たちが旧式、もしくは普通ならそこには持っていかないようなごく普通の道具をたずさえ、食料は魚を釣ってまかなうというキャンプを著者が記録したものだ。
ずっと前、2012年ころにこの本の2作目を読み、これはその6冊目の本になるそうだ。著者が書く文章はやはり歳を経るうちに見事に枯れてきたというか、ものすごくしんみりした文体に変わってきたような気がしていたが、このシリーズでは昭和軽薄体と言われた往年のおもしろおかしい臨場感たっぷりの文体が健在であるというところがうれしい。

著者は隊員たちのことを、愛情を込めて“バカ隊員”などと呼んでいるものの、本当のバカならこんなことはできない。仕事ができる人ほど遊びもとことん遊びつくせる。あの、サラリーマン転覆隊も同じではあるけれども、「雑魚釣り隊」にも一線で活躍しているであろう編集者、IT企業家、法曹家、ミュージシャン、きっと活躍はしていなくても仕事に対する自信と誇りはかならず胸に持っているという人たちに違いない。そうでなければ椎名誠という人とも対峙できないであろうし、外から見ればばかばかしいと思えるようなことを真剣にはできないのである。

「釣り師は心に傷があるから釣りに出てゆく。しかしその傷がどんなものであるかを知らない。」というのは師の言葉であるが、僕にはどうも傷ではなくて何かに対する、それでも何に対してなのかがわからないものに対する後ろめたさがつきまといとことんバカになって突き進めない。サッと海に出てサッと帰ってくるのが精一杯だ。だからこんな人たちを見ると無性にうらやましくなる。
椎名誠は今年で御年73歳。仕事とは言え、確かに普通のジジイがやっているようなことではないような気がする。僕もそんな歳になってもそういうことが楽しそうだと思える心だけは持ち続けたいと思うのだ。

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「本日釣り日和―釣行大全 海外篇 」読了

2017年12月05日 | 2017読書
夢枕獏 「本日釣り日和―釣行大全 海外篇 」読了

前回読んだ本の続編だ。単行本出版時は1冊だったものを日本編と海外編に分けて文庫化されたそうで、あとがきもこっちにだけ書かれている。

モンゴルやニュージーランドでマス釣り。そして著者が一番のメインにしているアユ釣りをニュージーランド、中国大陸で試みている。
マスは釣れてもアユというのはそうそう楽ではないようだ。台湾にはいるときいたことがあるけれども、ニュージーランドや中国大陸までいたというのは驚きだ。ただ釣果となると厳しいようで、まあ、作家は釣れても釣れなくても文章は書けるから、どうでもいいじゃないか。

僕も釣りが好きで、今年も釣行回数が50回を超えてしまったほどだが、遠くへ釣りに行きたいとは思わない。最近はとくにそうで、磯釣りも今年はとうとう枯木灘を目指すことなく初島で済ませてしまった。
泊りがけで離島を目指して超大物を狙うというのは豪快で格好がいいが、はなっから行く気さえおこらない。そんな世界を垣間見たことがないから想像できないのか、昔から何をするのも億劫な性格だったからなのかそれさえも自分ではわからない。ただ、お金と時間がないというのも間違いがないことであるが、本当に釣りが好きならそれを職業にして、テレビに出てくる怪魚ハンターみたいな人を目指せばいいじゃないかと言われると何も言い返す言葉がない。
「人は移動した距離で器の大きさがわかる。」という言葉があるけれども、世界を股にかけて釣りをする著者はさすがだ。
ほぼ半径10キロメートルで生活を済ませてしまっている僕はやっぱり器が小さいということだ・・・。

しかし、夢枕獏というと相当なベストセラー作家だが、その文体は椎名誠と野田知佑を足して2で割って開高健をまぶしたような・・・。要するにどこかで読んだことのある感じの文章だ。リスペクトしてわざとそうしているのか、著者の本はこれしか読んだことがないけれどもそこがちょっと残念だ。

されど、はやり人気作家。う~んとうなされる箴言をいくつか・・。
「いや、きみのその顔を、私は見たことがあるよ」
   これは魚をやっと釣り上げたときの感覚はみんな同じであるということ。

「竿を出している限りにおいて、釣り人は風景にかかわっている。」
   30センチのイワナが今まさに自分の鉤にかかって竿をしぼり上げている瞬間というのは、けっして、ささやかな事件ではないのである。

「釣り人は、常に、希望と絶望というふたつの淵の間に立ってキャスティングをする。」

「はっきり書いておけば、人間には二種類しかいない。釣り人と釣り人でない人の二種類である。」

そして、アメリカではボウズのことをスカンクという。
僕もこれからはかっこよく、ボウズのことをスカンクと言うことにしよう。
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「流れ施餓鬼」読了

2017年12月04日 | 2017読書
宇江敏勝 「流れ施餓鬼」読了

この本は著者が、同人誌「VIKING」へ投稿した短編を1冊の本にまとめたものだ。僕がこの本を手にしようと思ったのは、熊野地方を舞台に書かれたものだということはもちろんであるけれども、この同人誌は師が若い頃に参加していたものだったということも大きな理由だ。古くに投稿されたものをまとめたものかと思ったが、この同人誌、まだ続いているそうで、すでに800号を超えているそうだ。これはこれですごいことだ。

物語は、明治の終わり頃から終戦直後までの時代、「川」に寄り添って生きていた人々を淡々と描いている。その舞台となる川は日置川と熊野川である。
小説なのか、聞き書きなのか、それとも著者の回想録に思えるようなものもある。どの短編にも共通することは、川に寄り添って生きることに嫌悪するでもなく都会を目指すこともなく本当に淡々と生きていた人々を描いている。
主人公たちの職業は、団平舟と呼ばれる船を使って上流と下流を行き来する運送業や、渡し舟、女性たちは小さな商いをしている。
時代は進み、少しずつ陸上の運送に取って替わられようとしながらもかたくなに川での生活を守り続けている。しかし、この人たちはそれを時代に乗り遅れていると卑下するでもなくそれを当たり前のように生活を続けている。それどころか、そこに小さな希望さえも見つけようとしているのだ。
著者もそんな生き方をしていた人たちがこの熊野の地域に確かにいたのだということをはっきりと残さなければならないとこれらの物語を綴っているのだと思う。
自然に逆らうでもなく、自然に翻弄されることもあるけれどもそれも当たり前のこととして受け入れる。新宮というと、木材産業で繁栄を誇った町だから河口あたりではこの当時から都会的というか世俗的な世界ができていたと思うけれども、そこからわずか2,30キロメートル離れた上流では江戸の時代とあまり変わらないような生活が続いていたようだ。

都市の生活と田舎の生活。僕はどちらかというと田舎の生活にあこがれる。ロダンは、「都会は意思の墓場です。人の住むところではありません。」と言ったそうだ。「前年対比」、「対策」、「お客様は神様」・・・。都会の生活というのは自分で切り開く能力がなければそんな言葉が常に付きまとう。粘度の高い水の中を掻き進んでいるような感じだ。走っても走っても前に進まないのでエビみたいに後ろ向きにお尻を突き出して流れに逆らっている夢をよく見る。

日高川に釣りに行っていた頃、支流の入り口に数件民家が集まっていた場所があり、そこから奥に進んでいくとまたポツリと家が建っている。
庭に小さな畑があり、いろいろな野菜を植えている。車もあり、当然ながら電気もあったテレビもある。でも都会の生活に比べると寂しくもあり不便でもあるだろう。
あこがれるだけで実際やってみるととてもじゃないが無理だとなってしまうのか、それとも意外としっくりやっていってしまうのか。まあ、この歳で移住しようと考えることができるわけでもない。しかし、外から見ているとなんともうらやましい生活だと思ってしまう。
できることなら今の場所でそんな生活ができないものかと願ってしまうのは贅沢なのだろうか。野菜を作りながら漁師をやっているなんていうのが一番よさそうだ。しかしなぁ、釣りは仕事にできるほど上手くはないし、トウガラシは叔父さんに作ってもらって収穫しかできないからやっぱりだめだろうとやっぱり悲しくなる。

著者は同じような本をかなりの冊数出版しているようだ。これから読み進めてゆくのが楽しみだ。



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「最澄瞑想」読了

2017年11月30日 | 2017読書
梅原猛 「最澄瞑想」読了

昭和61年、梅原毅がNHKの「市民大学」という番組で語った内容を書籍化したものだ。

最澄というと、その後の鎌倉時代に生まれ、現代でも日本の仏教の中心にある宗派の始祖は全員延暦寺で学んだ僧たちである。そこは空海とはかなり異なる。天台宗というと密教のイメージがあるけれども、元々は法華経を主な経典としており、密教は当時の政権と付き合うためにどうしても加持祈祷の技術が必要であったことから取り入れられたものだったそうだ。学究肌の最澄はその密教ももっと極めたいと空海に弟子入りまでしたのだ。比叡山が密教の寺と思われるのも密教を専門に勉強した僧が比叡山を拠点に広めたからである。

そう、最澄も自分の理想を極めるためには当時の政府、すなわち時の天皇、桓武天皇に気に入られる必要があった。仏教を極めるということとそういうドロドロとした生臭いこととは対極にあるはずで、さらに奈良の仏教界とのあつれきなどもあり亡くなる直前まで相当な苦労をしたそうだ。空海はそういうところはうまく乗り越えてさっさと高野山に籠って自分の思想を極めたのだからすこし最澄の上を行っていたと言えるのかもしれない。
しかし、その後の日本の思想に大きな影響を及ぼしたのは最澄の方だ。最澄は非常に弟子思いであったらしく、その心が多様な思想を産み人々に受け入れられた。そういうところでは空海のはるかに上を行っていたのかもしれない。
どちらがどうかということは凡人の語ることではないけれども、個人的には空海の生き方の方に憧れるものがある。(僕が和歌山県民であるという理由もあるだろうけれども・・・)

ただ、組織、集団といういう意味では最澄のほうがいい上司なのではないだろうか。少なくとも僕の友人のボスとは大違いだそうだ。
これから先は僕の友人の話であるが、つい最近、来月の営業方針を説明する会議の席でいきなりボスが、「君のところはちゃんとやっているのか!!?」と険悪な表情で質問をしてきたそうだ。彼は何のことだかさっぱりわからずに困惑したそうなのだが、ボスの隣の子ボスの説明では、どうもわが社の従業員の些細なミスで親会社からクレームが入ったことでボスの機嫌が悪く、彼の部門でもそんなミスの発生する可能性はないのかということだったようだ。その後ボスは、彼の説明には上の空で通常なら説明が終わったあとでなんだかどうでもよいようなことを嫌味たっぷりで質問を浴びせてくるのだが、突然子ボスに向かって、「俺は謝りに行かなければならないのか?」と話し始めた。かれは、「は?」と自分に何か返答を求められたのかと再び困惑していると、「もう、出て行っていいで。」とお言葉。その前に、彼の直属の上司も、「会議はええから出て行ってミスの再発防止策を考えろ。」と会議室を出て行かされた。彼は、この会議は月々の営業方針を決める大切なもので、会社の方針に合致しているかどうかの確認と修正をおこなう大切なものだと考えていたのだが、ボスには別にどうでもいい会議だったようだ。それでも後から、「俺はそんなことは望んでない!!」ときっと言い始めるのだから困ったものらしい。
上司といい、子ボスといい、なんと可哀想なことか。それでも真摯に仕えなければならないのだから。

本当にくだらないことが原因だったらしい。ボスの過剰反応と親会社に対するメンツだけのことのようだが、これでわかったことは、彼のボスは部下に対する信頼や愛情がまったくなく、自分のメンツだけが大事な人であるということだ。おまけになんとチキンなことだろう。まあ、常々の言葉で、「誰が悪いねん?」という言葉が物語っているから今さら驚くことではないと彼は言っていたが・・・。彼はもうひとつ、今まで色んなくだらない上司を見てきたが、最上位にランクされるボスではないかと言っていた。
今夜はそんな一見バラバラに見える組織の忘年会が催されるそうだが、みんなどんな顔をして語らうのだろうか?それでもポーカーフェイスで他愛のない話で盛り上がるのだろうか。彼はそんな席を大人の態度で乗り切れるのだろうか。僕には絶対に無理だ。そんな人と貴重なプライベートな時間を無駄にしたくない。

できれば最澄のような心で空海のような生き方を望みたいものだ。
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「本日釣り日和―釣行大全 日本篇」読了

2017年11月22日 | 2017読書
夢枕獏 「本日釣り日和―釣行大全 日本篇」読了

夢枕獏というと、有名かどうかは知らないが、釣りをする人なら多分、「う~ん」と唸ってしまうこんな箴言がある。「幸福(しあわせ)な家庭に幸福な釣りはない。幸福な釣りに幸福な家庭はない。」これは著者の友人のカメラマンの結婚式に出席していた来賓の言葉だったそうだ。多分、初めてこの箴言が活字になった最初の本であったようだ。

エッセイのほとんどはアユ釣りに関するものだ。僕はアユ釣りはまったくしたことがない。昔、紀ノ川でルアーを投げていてスレで1匹釣り上げたことがあるだけだが、誰に聞いてもこの釣りは面白いらしい。0.0・号という細い糸を使い急流の中で泳がせるオトリに襲いかかってくるアユの突然のアタリはものすごいらしい。夏の間は船に乗り続けないとすぐに船底にフジツボが湧いてくるのでアユを釣りに行くほどの余裕がない。多分、船を持っていなかったらひょっとしたら僕もアユ釣りにのめり込んでいたのかもしれない。食べてもすこぶる美味しい魚だ。

たとえ経験のない釣りに関する文章でもそこは魚釣り、いたるところに共感でいる部分がある。上記の箴言もしかり、「びしばし」と魚がかかるような場面にも出くわしたい。しかし、“びしばし”掛かるというのはどんな状況なのだろうか・・・。
「仕事が終わったらそのままの恰好で釣りに出かけられるような、という発想が服を決める基準となっている・・。」「最良の仕事の日よりも最悪の釣りの日の方が、まだマシである。」すべてしっくりくる。
仕事より、釣り。まあ、多忙を極める作家の言葉だから重みがあって、仕事ができないサラリーマンがそれを言えば、ただのバカである。
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「御松茸騒動」読了

2017年11月21日 | 2017読書
朝井まかて 「御松茸騒動」読了

主人公は今でいう、「意識高い系」というタイプの若者である。父親が早世したため若くして家督を継ぎ、尾張藩江戸屋敷で用人手代見習いをしている。
自分は藩のいつかは藩政の中枢を担うにふさわしい人間になるに決まっていると思っている。その意識の高さが煙たがれ、尾張藩の御松茸同心に左遷されるところから物語は始まる。
この時代、ほんとうにこんな役職があったのかどうかは知らないが、物語の中では御松茸同心というのは閑職であり、一度配属されると二度と日の目を見られないというそんな設定になっている。
そんな境遇の中でひとつの書物を中心にして父親の思い、主君への思い、現場で松茸の管理をしている人々の思いが絡み合い不作が続いてきた赤松林を再生して行くというストーリーだ。今、けっこう話題になっているそうなのでこのブログを読んでくれている人のなかでも読んでみようと考えている人もおられるかもしれないのであまりあらすじについては書かないでおきたい。

この物語の主題になっている柱のひとつは、その、“主君への思い”であると思う。かつて蟄居させられた主君の領民への思いが大きな動きとなって松林の再生へとつながってゆくのだが、そこには主君の領民への思いにも大きなものがある。そこのところ、僕のとある友人の愚痴としてこんな話を聞いた。
親会社からUターンしてきた彼の会社のS務という人はとにかく自分をすばらしい人物だと自画自賛し周りの人たちを卑下したがる。そうだ。いつもの口癖は、あきれた表情で、「もう、そんなことは止めようや・・。そんなことばっかりやってたら会社潰れてまうで。」である。そうだ。
とにかく社員のことをバカにしているとしか思えないような言葉にしか理解ができない。そうだ。
そして、最近、この人の威を借りているようなラスプーチンが現れた。らしい。教育担当という肩書きで社内研修みたいなことをやっているのだが、この人も輪をかけるように人をバカにしたような話し方をする。そうだ。業界の雄とだれもが認める会社の元社員なので、この会社の社員はそこに比べると、(もしくは自分と比べると・・)、「センスがない。」「やる気がない。」「取引先からバカにされているのに気付いていない。」などなど、うまく人の気持ちを萎えさせてくれるように講釈をしてくれる。そうだ。
ひょっとしたら、そういうきつい言葉を投げかけることで奮起を促してくれているのかもしれないが、彼にはどうもそうとは思えない。大本営からも、「あの人がまた言っている・・・。」と半ばあきらめ調子で言ってくるし、すべての人が、「あの人が言っているのだから絶対やらねば!」みたいに思っているとは思えない。ラスプーチンにしてみても、そんなすばらしい会社を辞める事情があったであろう人にバカにされたくないし、それでもこの会社が好きなんですと言われても嘘をついているふうにしか見えない。らしい。大体、大志をもって辞めたのならそんなバカばっかりの集まりの会社に嘱託で就職しないだろう。それともバカばっかりの中だったら俺もなんとかやれるという感じなのだろうか?まあ、みんな立派になりましたって言ってしまうと自分の職がなくなるみたいな事情もあるのかもしれないが・・・。と彼は思っている。

S務さんにしてみても、なぜだか彼はこの人の親会社時代を知っているのだけれども、そこでも自分を超能力者張りのすごい人だと自慢をしていた。そうだ。「俺の勘は鋭いんだ~!」とか「子会社のOOは大嫌いだ」とかを平気で言うし、意味もなく近寄ってきて、「なあ、俺、これからどうしたらいい?これからどうなると思う?」と、今思えば将来の自分を自慢したくて仕方がないような質問をしてくるし、Uターンしてきてからも社内ですれ違ったときに、「俺がこんな形で戻ってくるとは夢にも思ってなかっやろう。」というような、なんだかこんな状況がうれしくてたまらないというような雰囲気だ。一管理職に自慢をしてみても何の意味もないと思うのだが。自慢されたこっちの身にもなってくれと思う。と言っていた。
今のボスにしてみても、会議のたびに、「誰が悪いんや?」、「どうしてできないの?」ばかりしか言わない。この人はどの方向を目指したいのかを教えてもらったことがない。これらの方々からは部下への愛情というものを感じたことがなく、むしろストレス発散の対象とされているとしか思えない。そうだ。こんなS務の下ではみんなストレスが溜まるんだろうね~。
まあ、まったく仕事のできない人間の歯ぎしりのようなものだが、周りの人はよくそれでもこの人たちについて行けるものだと感心してしまう。そうだ。

主人公は、最初は嫌っていた山の仕事に再び戻ってゆくのだが、組織の中心に居なくてもいい、何か矜持を持てる仕事を見つけられた人はきっと幸せだと思う。それに加えてそれを支え、支えられる仲間がいればもっと幸せなのだと思い知らされる1冊であった。

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