イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

『世界はシンプルなほど正しい~「オッカムの剃刀」はいかに今日の科学をつくったか』読了

2024年05月01日 | 2024読書
ジョンジョー・マクファデン/著 水谷 淳/訳 『世界はシンプルなほど正しい~「オッカムの剃刀」はいかに今日の科学をつくったか』読了


科学読み物を読んでいると、「オッカムの剃刀」という言葉がよく出てくる。
“オッカム”という記憶しやすい語呂と”剃刀“というあまり科学とは関係のない単語の組み合わせが僕のボロボロの海馬の中に残り続けている。
そして、著者のプロフィールを読んでみて、以前にもこの人の著作を読んでいたことを知った。やはり僕の海馬はボロボロである・・。

「オッカムの剃刀」というのは、科学的な論考をするとき、それは単純なほど正しいということを表した箴言だ。
その意味だけでしか知ることはなかったが、きっとこの言葉が生まれたエピソードというものがあるはずで、この本にはそのことが書いているのだと思って読み始めた。

本編は458ページあるが、すべてがオッカムの剃刀について書かれている訳ではない。オッカムの剃刀というコンセプトを使って近代科学を作り上げた歴代の科学者たちの科学史という構成になっている。

まず、オッカムという人だが、この人についてのあまり詳しい記録は残っていないそうだ。1288年頃、ロンドンから馬に乗って南西に1日ほど進んだところにあるオッカム村で生まれ、ウイリアムという名前であった。オッカムで生まれたウイリアムで、オッカム・ウイリアムと名乗ることになる。
オッカムに関して具体的にわかっている最初の記録は11歳頃にフランシスコ会に入れられたということで、このことがオッカム・ウイリアムの運命を決める。
このフランシスコ会であるが、「清貧と学問」がモットーであり、オッカ・ウイリアムもその素性が優秀であったためオックスフォード大学で神学を学ぶことになる。その中で、「神学は科学であるか」という疑問にぶち当たる。当時の世界観というのは、世界のすべては神様が創り出したものであり、宇宙を含めた世界の摂理は神の意志によって成り立っているというものであったが、果たして本当のそうなのかと思ったのである。
神が創り出したものはそのひとつひとつが独立して存在しているものなのである。
そういういう考え方は、「存在論」と呼ばれ、スコラ派という哲学者や神学者が提唱していたものだ。現在に存在するものは何かの意味を持って存在していて、その意味を司っているのが神なのであるというのである。
それに反したオッカム・ウイリアムらの考え方は「唯名論(ゆいめいろん)」と言われる。なかなかよくわからない概念で、ウイキペディアの説明をそのままコピーすると、『普遍は個物から人間の理性が抽象したもので,個物をさす名にすぎないという考え。』となる。
僕なりに存在論と唯名論の違いを解釈すると、仮面ライダーにははいろいろなショッカーの怪人が登場したが彼らはひとりしか存在しない(たまに復活してふたり目ということがあるが・・)のでコウモリ男という存在はただ1体存在するということになるが、戦闘員はいっぱいいるので特定の戦闘員がいるというものではなく、戦闘員という名前だけがあるのだという違いがあると考えた。
別の例えで考えると、プロトタイプのレーシングカー(これもスペアでいくつも製造されるといえば製造されるが・・)が存在論的で、僕が乗っているN-VANなどは唯名論的であるといえるのではないだろうか・・。

存在論で代表的な科学者や哲学者はアリストテレス、プラトンやプトレマイオスだ。この人たちは存在するものすべてに意味を持たせてしまうということと、地球が世界の中心であるという地動説を信じる人たちなので世界の構造を考えるときにはとにかく複雑になってしまう。
星たちはそれぞれの天球の上を動いていると考えるのだが、プトレマイオスが考えた天球は80個ほどが重なったものであったそうだ。こんな複雑な構造は神様しか作れないということになる。エーテル、フロギストン、インペトゥスなどなど、神がこの世界に与えたものが世界を動かしている。

そういう複雑さに対してそれは本当なのだろうかとオッカム・ウイリアムは疑問を持つことになるのである。
神の存在を疑ったということでオッカムたちは時のローマ教皇・ヨハネス22世と対立し迫害を受けることになる。その後、同じくローマ教皇と対立する神聖ローマ帝国のルードヴィヒ四世の庇護を受けミュンヘンでペストに罹患して生涯を終えたそうだ。

この本の中盤以降の大部分はオッカムの思想を受け継いだ近代科学者たちの業績の紹介という科学史の部分で紹介されている科学者たちというのは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、ガリレオ・ガリレイ、ロバート・ボイル、ロバート・フック、アイザック・ニュートン、アントワーヌ・ラヴォアジエ、チャールズ・ダーウィン、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、グレゴール・ヨハン・メンデル、アルベルト・アインシュタイン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、マックス・プランク、ジェームズ・クラーク・マクスウェルたちだ。
この人たちの業績で宇宙の構造の源はクォークと重力に単純化され、生物は自然淘汰によって生きながらえてきたということに単純化された。
こういう部分はいろいろな本で読んできたので割愛するのだが、きっと、オッカ・ウイリアムがこの世に存在していなくてもこれらの科学者たちは世界を単純化させ真の世界の構造を解明していたのだろうが、なんでもその嚆矢となるというのはすごいことであったのだろうとは思う。
そして最も唸ってしまったのが、オッカ・ウイリアムを含めてこの科学者たちの行動は「神への挑戦」であったのではなかったのかということだ。初期の科学者たちは教会の顔色をうかがい迫害を恐れまたは実際に迫害を受けながら、世界は神が創り出したものではないのだということを証明するという辛い人生を送るのであるが、そんな科学者たちはきっとオッカ・ウイリアムの言葉があったからこそそれを支えにしてその苦境を生き抜くことができたのだとも思えるのである。そういうことからでもオッカ・ウイリアムという人の偉大さを思い知るのである。

しかし、著者が言うには、オッカム・ウイリアム以前の考え方、例えばプトレマイオスの宇宙モデルというのはこれはこれで現在でもきちんと宇宙の動きを説明できるという。
と、いうことはひょっとしたら神という存在が本当にいて、宇宙の成り立ちには実際に介在したのかも知れないと考えられるし、量子論が導くひも理論や多重宇宙論というものに対して素人が感じることは複雑そのものだ。こんな複雑さはやはり神にしか創れないとも思える。また、よく、“奇跡的”な出来事などということが起こるが、これも単なる確率の問題というわりにはこれはじつは必然でそれは神が導いた必然であるのではないかと思えてくるのである。

まだまだ、存在論と唯名論の対決、すなわち神と確率の闘いはいまだ終わっていないような気もするとこの本を読みながら思うのである。

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