イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「深海学 深海底希少金属と死んだクジラの教え」読了

2022年09月30日 | 2022読書
ヘレン・スケールズ/著 林裕美子/訳 「深海学―深海底希少金属と死んだクジラの教え」読了

この本は、深海にまつわる様々な事どもを網羅している。
深海に棲む生物、人間との関わり、ビジネス、レアメタルの鉱山としての深海。そういったことが書かれている。まさに『深海学』だが、ちなみに原書の題名は「The Brilliant Abyss」。「輝ける深海」というくらいの意味になるのかもしれないが、後半はその輝きに迫りくる影についても言及されている。

キャリーマリスの本ではないが、宇宙に比べるとはるかに近く、直接的な資源開発になるかもしれないのにその調査やなぞの解明は進んでいない。アメリカでの研究費は、2019年で54億ドルであったのに対して、NASAの研究費は215億ドルだったそうだ。しかも、その54億ドルには海洋だけではなく、河川、大気についての研究費も含まれているという。
この本を読んでいると、もっと研究費を出してやれよと思ってしまう。

深海の定義とはこうらしい。海面表層から200メートルを超えるとわずかな青い光だけしか残らないことで物理的な状態が変化する。ここから深海が始まる。
海の深さは平均すると3000メートルくらいの深さになるが、およそ1000メートルより深い部分には太陽光はまったく届かない。深海は深さによって区分され、水深200メートルから1000メートルまでの藍色の薄暗がりの領域を中深層と呼ぶ。そこから4000メートルまでを漸深層と呼び、水温が摂氏4度で安定する。4000メートルから6000メートルまでは深海層と呼ばれる。
海底には泥が堆積しており、その厚さは1キロメートル。場所によっては10キロメートルにもなる。それは風化した岩石の粒子と海面にいる微小浮遊生物の死骸が降り積もったものである。
これだけでも驚異的な数字が並んでいる。

そんな深海を、そこに棲む生物、地球の気象に与える影響、海洋資源、鉱物資源獲得の場について、それぞれ章を分けて書かれている。

第1部は深海に棲む生物について。
ここでは何を食べているかということで大きく三つの生物たちに分けている。ひとつは海に沈んだ生き物の死骸をあてにしている生物。ひとつはマリンスノーを主食にする生物。最後は化学合成された食物を食べる生物たちである。

浅い海に暮らす生物が死に、その場所が深海の上部ならその死骸は深海に向けて沈んでゆく。腐敗が進むとガスが発生して浮かび上がってきそうなものだが、その前に深海に到達すると、強烈な水圧のせいでガスが膨らむことなく深海底まで沈んでゆくそうだ。
大きなクジラなどが沈んでゆくとそれは一部の深海生物にとってまたとない食料になる。40トンのクジラの死骸は生物たちにとって、1ヘクタールの海底を100年か200年かけて探し回るほどの餌の量に匹敵するくらいの価値があるらしい。
最初に死骸に群がるのは魚や甲殻類。次に集まるのは巻貝、カニ、ゴカイ類などで、最初の集団が食べ残した肉の断片を片付ける。
そして骨だけになったクジラは最後に、ホネクイハナムシという多毛類によって食べつくされる。1匹のクジラは数年にわたってひとつの生態系を形作るのである。乱獲によってクジラの頭数が減ってくると、こういった生物の生態系も脅かされることになる。
ホネハナクイムシというのは約8000万年前から存在していたと考えられる。これは地質年代では白亜紀にあたるが、その頃、彼らは恐竜の死骸を食べていたことになる。実際、プレシオサウルスの化石にはホネクイハナムシが開けたと思われる穴が見つかっている。



マリンスノーというのは、『動物や、植物プランクトン、原生生物などの死骸、糞便、砂、その他のさまざまな有機物や無機物で構成されているもの』である。デトリタスとも呼ばれる。そして、この優雅な言葉は日本人学者によって名付けられたそうだ。
要はゴミなのであるが、マリンスノーを食料にしている生物はまさに奇妙、異形、不可思議、普段に見る生物とは似ても似つかない形の生物ばかりだ。羽のあるゴカイや、マリンスノーをひっかけるための食指をもった有櫛動はクラゲにそっくりだがクラゲではないそうだ。そして彼らは物何かに似ていると思ったらカンブリア紀の生物たちだ。口絵の写真を見てみると本当にそっくりだ。ハルキゲニアのトゲやウィワクシアのカラフルな構造色を思わせる。生物の起源は深海にあるという説もあるが、こんな生物を見ているときっと確かに生物が生まれたのは深海であり、そのなかの一部が海面まで浮き上がり太陽エネルギーを利用できる藻類などの植物が生まれたのではないかと思えてくる。ただ、現代のハルキゲニアたちは大きさが数十センチから大きいものでは数メートルという大きさで、数センチしかなかった当時とは相当巨大化している、
なんとなくだが、生物が何もない地球で、植物が最初に生まれて酸素が放出され、それを呼吸に使った動物が生まれたと思いがちだが、まったく逆であったのかもしれないと思ってしまうのである。
実際、熱水噴出孔で見られる微生物とまったく同じ構造の化石が17億7000万年前の化石として発見されていたり、熱水噴出孔の内壁にある微小な孔が生きた細胞の鋳型になったという考えもあるそうだ。

化学合成されたものを食べる生物も熱水噴出孔周辺に生きる生物だ。代表的な「雪男ガニ」は体の表面に糸状のバクテリアを繁殖させそれを食料として生きている。そのバクテリアは熱水噴出孔から排出されるメタンや硫化水素から有機物を合成しているのである。
ほかにも、金属の鎧をまとった巻貝、ウロコフネタマガイの発見はニュースになったことを覚えているが、これも外敵から身を守るために金属を纏ったのではなく、この巻貝も、体内に取り込んだ化学合成バクテリアから食物を得ているのだが、その食物を合成する過程で有害な硫黄を発生し、それを体外に排出することで水中の鉄分と化合し硫化鉄となり、一部は黄鉄鉱となり黒い艶のある鱗を作るのである。



まだまだある。
8000メートルの超深海で生きる魚にマリアナクサウオという魚がいる。



これくらいの水深になると、生き物の分子はひしゃげられ生きるために必要な機能を発揮できなくなるという。トリメチルアミンオキシドという物質を体内にため込んで水圧に対抗するのだそうだが、それでも8200メートルが限界だと考えられている。なんでそんな過酷な世界を生きる場所に選んだのだろうと思ってしまう。また、海山周辺ではその斜面に沸き上がる海流によって深海の養分が巻き上げられ、また海流によって地盤がむき出しになるため、様々な生物がその地盤を足掛かりにして様々な生物が暮らしている。たとえばサンゴもその地盤に根付く生物だ。彼らはマリンスノーを食べる。浅海のサンゴは体の中に褐虫藻を宿してそれからエネルギーを得るのだが、光が届かない深海ではそれができない。それは珍しいものではなく、これまで知られている約5000種のサンゴのうち、3300種以上は深海に生息するサンゴだという。

第2部は深海に依存する人間社会についてだ。
海洋大循環という深海の流れがある。これは海面を波立たせて水を動かす風の力と、塩分濃度の高い冷たい水が深海に沈み込む動きによって引き起こされる。この沈み込む流れはグリーンランドの脇を通ってラブラドル海に注ぎ、大西洋の中央を南下して南極大陸まで流れ込み、再び主だった海洋の深海に流れ込んでゆき、赤道近くで温められ再び北極方向へ流れてゆく。
この流れが局地的な温度上昇を全地球に分散させてゆく働きをしている。しかし、この循環の一部が地球温暖化のせいで動かなくなり始めているという。北極の氷が解けることで海水の塩分濃度が薄くなり深海に沈み込む海流が弱くなったことが原因だ。大西洋から赤道に向かう流れは20世紀の半ばから15%も減っているという観測結果がある。その結果、この100年の間に6分の1の確率でこの流れが止まり、ヨーロッパ全体を激しく冷え込ませることになる。
また、マリンスノーは炭素固定にも貢献している。植物プランクトンが浅海で光合成をして二酸化炭素を有機物に固定して深海に沈んでゆく。その養分のひとつになるのはマッコウクジラの糞だそうだ。深海でイカなどを食べるマッコウクジラは1頭当たりおよそ50トンの鉄分を深海から運び上げそれが植物プランクトンの養分になる。その結果、大気中から年に40万トンの炭素を取り除くと考えられている。ここにも地球の大循環があるのである。
しかしこれも、商業捕鯨が行われていた頃には循環が大幅に縮小したと考えられている。
マリンスノーやクジラの糞で固定される炭素の量は年におよそ50億~150億トンになると考えられている。2019年の世界の温室効果ガスの排出量を炭素換算すると91億4000万トンだが、それに匹敵するくらいの炭素を吸収してくれていることになる。環境はどんどん悪くなっていくのだろうが、最低でもこのレベルは維持できるように環境を守ってもらいたものだと思う。
気候だけではなく、医学についても深海は大きな貢献をしてくれている。それは医薬品の分野だ。深海の海綿やサンゴからは抗がん剤やHIVウイルスを死滅させる成分が発見されている。捕食者に襲われても動くことができない動物は、複雑な化学物質を分泌することで護身用に使っている。おまけに、動かないということは研究者にとって採集しやすいというメリットがある。圧倒的な水圧、低温、光が届かない、餌が少ないという極限の環境は、そうではない環境に生きる生物よりもはるかに複雑な分子構造の物質を作り出す可能性がある。これからも新しい成分の発見は続いてゆくと考えられている。

第3部は、深海底のビジネスについて、漁業資源と鉱物資源について書かれている。
漁業資源の代表として、オレンジラフィーという魚が取り上げられている。



この魚は18メートルから1800メートルの深海で獲れる魚だそうだが、深海魚にしては意外と美味しく、日本でもヒウチダイと言う名前で流通していて、キンメダイのような味がするそうだ。この魚から得られる油脂は化粧品としても使われているそうだ。
1970年代の初めころから底引き網で大量に獲られるようになり、規制もされていなかったので乱獲が続き、1990年代の半ばにはどの場所でも急激に漁獲量が減り、2000年の最初にはほとんどの場所で漁が終了したという。
そして、鉱物資源でもマンガン団塊や海底熱水鉱床、海山に集まる堆積物から得られるレアメタルが注目されているが、この漁業資源と鉱物資源に共通するのは、再生されるまでに途方もない時間が必要であるということだ。オレンジラフィーは産卵可能まで成熟するまで20年から40年もかかるという。鉱物資源においてはマンガン団塊がゴルフボールの大きさになるまでには1000万年の歳月がかかるというし、海山に堆積する鉱物は指の太さの厚みに堆積するまでに数百万年も必要だという。
どちらも一度取ってしまうとなかなか元通りにならないということと、漁獲や採掘の過程で破壊される環境についても大きな懸念があるという。マンガン団塊を足場とする生物が死滅したり、底引き網が海底に棲むサンゴや海綿を殺してしまう懸念があり、その環境が回復するには浅海とは比べものにはならないほどの時間がかかるのである。また、熱水噴出孔は剥ぎ取られた後、そこからどんな有害物質が排出されるのかということはまったくわかっていない。
幸運にも、新海域というのは、ほとんどが公海上にあり、南極大陸と同じく、無差別な開発はいまのところおこなわれてはいない。しかし、国際海底機構という国際機構は当初では2020年に採鉱法の公表に予定で、これが公表されると、本格的な採鉱が始まるところであった。(これはコロナ禍によって遅れている。)
資源開発だけでではなく、ゴミ捨て場としても使われてきた。化学兵器の残骸や下水汚物が深海に捨てられてきた。また、アポロ13号が月に置いてくるはずであった放射性同位体熱電気転換器はプルトニウム238を格納したままトンガ海溝の超深海のどこかに沈んでいる。誰の目にもふれないからという安直な理由で廃棄されてきたものだが、今後、それらが人類にどのような影響を及ぼすかはほとんどわかっていない。

第4部では、そういった無法ともいえる深海の利用について警鐘を鳴らしている。
深海のレアメタルは、クリーンエネルギーを推進するためには欠かせないものである。日本は消費量の60%を中国から輸入しているということを考えると経済安全保障の面では領海内の深海からそれを採掘できるとすれば申し分ないのだろうが、安定的な供給と地上での鉱山開発が環境に与える悪影響に比べると深海での採掘は環境に悪影響を及ぼさないというが本当だろうかという問題提起をしている。
著者は、深海開発は絶対悪であるとは断言していないが、もっと研究を深めたうえで開発を進めなければならないのではないかと訴える。また、資源の再利用やレアメタルを必要としない機器の開発で深海に頼らない成長もできるのではないかとも言う。
それはもっともだ。生活を豊かにするためと考えられている開発が、自分たちの住む唯一の環境が破壊されては本末転倒だ。しかし、人間の欲望はかぎりがなく、早晩深海にも魔の手が伸びるというのも確実なのではないかと思うと悲しくなるのである。

この本の口絵にはこの世のものとも思えないような美しく奇妙な生物の写真がたくさん掲載されている。こういった貴重な生物を危機に陥れてまで人は幸福と便利を追求しなければならないのかということはやはり考えなければならないのだと思うのだ。

最後に、ご法度かもしれないが、その口絵のページを残しておこうと思う。これを見るだけでもこの本を読む価値があると思うのだ。

      
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加太沖釣行

2022年09月24日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:大潮 5:08満潮
潮流:5:53 上り1.4ノット最強 8:44転流
釣果:マアジ 8匹 クチ1匹

釣果記録の前に昨日の燻製作りから。
昨日の雨の日、予定通り仕込んでおいたタチウオを燻したのだが、その主役となる燻製箱が雨除けに作ったはずのカバーから雨水がしたたり落ちてもっと濡れてしまっていた。
箱の内側も少し濡れてしまったが素材の乾燥はすでにかなり進んでいるので延期するわけにはいかない。



上蓋は何度かの雨に当たってすでに歪みが出ているが、濡れている前蓋はボルトで止めているのでなんとか気密性を保っていそうなので燻す作業を強行した。
いつもの通り七輪で豆炭をいこして箱を乗せると箱の湿気が一気に出てきて素材が蒸し焼き状態になってしまった。
前回、煙があまり出なかったので改良した部分はきちんと機能してたくさんの煙が出てくれるのだが、最初の湿気のせいか、あまり色は付かなった。まあ、味のほうはいつもの通り、手前みそだがなかなかの出来だ。



次の雨に備えるためカバーの改造をしてこの日の作業をすべて終了


そして雨が上がった翌日、まだ台風15号は温帯低気圧に変わったとはいえ日本近海を移動している。しかし、夕べの家の付近の風はまったくの無風状態で、これなら船を出せるのではないかという感じであった。一応、釣りに行く準備をして、朝起きてみるとやっぱり風はない。これで決定。そのまま港に向かった。港に到着しても風はなく、渡船屋も普通に営業している。
さらに確信は高まり、急いで台風用のもやいを解いて出港。
港を出たすぐのところで定番の写真を撮ろうとすると、今まで見たことがない青い光線が見えた。



朝の光線というと、青い光は拡散してしまってオレンジ色だけが残るのだが、この部分的な青い光は一体なんなのだろう。ここだけ青い光が拡散しないというメカニズムは一体なんなのだろうか・・。

めったに見ない光を見たからだろうか、田倉崎を越えたあたりから風が強くなってきた。



やっぱり台風直後に出てきたのが悪かったか・・。これがチヌ釣りだと台風のあとは絶好のチャンスなのだが加太の釣りでは強い風はアダになる。そういえば、紀ノ川からの濁りもすごかった。これの影響もアダになりそうだ。



あまりにも風が強いので田倉崎から離れないようにして釣りを開始。



同じように思っている人たちなのだろうか、4、5隻の船が浮かんでいる。しかし、この船もすぐにどこかに行ってしまった。ほかに釣れる場所の情報をつかんでいる可能性があるとみて辺りを眺めると、ここから近い場所では菊新丸さんに教えてもらったところに小さな船団ができている。
ちょっと風と波が心配だがボウズで帰るわけにもいかないので思い切って移動を決めた。



そしてそれが当たりだった。仕掛けを降ろして間もなくアタリがあった。まずまずの型のマアジだ。
そしてすぐに次のアタリ。最初の悪い予感に反して今日はひょっとしてウホウホなのじゃないかと思ってみたが、そんなに甘くはない。その後はポツポツとしかアタリが来ない。魚の活性が低いのか、喰ってくるのは一番下の鉤でしかも誘いをかけるとアタリが来ない。魚は相当ひっそりとしているようだ。

なかなか風は治まらず潮流が緩くなってくると北風に押されて上り潮にも関わらず船は南に流れてゆく。
ほかの船は潮を追いかけ北上を始めたが僕はここまで。船足が遅くなり燃料も食いまくっている。これ以上遠くに行くのは経済的に問題だ。
夕食のおかずにするには十分なので午前8時に終了。

帰りの道中も紀ノ川からの雨水に押されて船速が落ち、加えて、塩分濃度が薄いのか、心なしか浮力も落ちて船の喫水が上がっているような気がする。



だから水の抵抗が増している。エンジンの回転数と速度を見比べてみると、3割近く速度が落ちている。
港に戻って燃料の残をちぇっくすると、ゲージはポリタン1本半分くらい減っている。今日の道程なら1本くらいのもののはずだ。
来月半ばには上架をお願いしているが、それまではちょっと遠征を控えたほうがよいのかもしれない・・。

今日の釣りの課題はもうひとつある。サビキの鉤の更新だ。今使っている鉤は、よく釣れるが錆びやすいのと大物が掛かるとすぐに曲がってしまう。曲がりに強くしかも錆にも強い鉤はないものかと釣具屋を物色し、大アジ用と書かれた鉤を買ってきた。テスト用に従来の鉤と新しい鉤を交互に取り付けた仕掛けを作ってみた。



結果はというと、明らかに従来の鉤のほうに軍配が上がった。新しい鉤は軸が太いのでサビキの動きが悪いのかもしれない。せっかく買ったが、また新しい鉤を探すか、錆びと曲がりやすさを我慢して従来の鉤を使い続けるか、もう少し実験を重ねて決めてみたいと思う。

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「マリス博士の奇想天外な人生」読了

2022年09月21日 | 2022読書
キャリー マリス/著 福岡伸一/訳 「マリス博士の奇想天外な人生」読了

PCR検査というと、現在では世界中で知らない人はいないのではないだろうか。僕がPCR検査というものを初めて知ったのはこの本だった。コロナウイルスが世間を騒がせるほんの数か月前のことだった。
著者であるキャリー マリスはこのPCR検査、ポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)を発明した科学者だ。そして、1993年、ノーベル化学賞を受賞する。
この本の面白いところは、大体、こういう自伝的なものは、どういった困難を克服してこの偉業を成し遂げたかというような、文系の素人ではちょっと理解が及ばない話となるのだが、そういう部分はわずかだ。
ノーベル賞を受賞した科学者は受賞講演をするのが慣わしで、その講演内容は大体が、受賞の対象となった研究や内容目的を解説するもので、大体が難解な話で聴衆は誰一人として理解できないにかかわらず、全員が拍手するという奇妙なもので、それを素直に奇妙と思っている著者は、その講演の冒頭で、『これから、ポリメラーゼ連鎖反応を発明するということがどういうことなのか、お話してみようと思います。それを普通の言葉で説明することは簡単にできません。ここにおられる大多数の方々にとって、それは面白い話にはならないでしょう。ですから私は専門的な説明はいたしません。かわりに、発明にいたる経緯と、発明によって可能になったことを皆さんに知ってもらいたいと思います。なじみのないお話になると思いますが、細かいことは問題ではありません、ご安心ください。細かいことは抜きにして、PCRを発明したときの雰囲気の一端でも感じていただければよいと思います。』と語るのだが、この本も同じようなスタンスで、専門的な部分はほとんどなく、著者の生き方、世界の見方が書かれている。

その著者の生き方だが、タイトルのとおり、奇想天外というか、その奇行が当時も耳目を集めたようだ。淡い記憶の中で、サーファーがノーベル賞を受賞したというニュースがあったということを思い出したが、PCRのヒントを思いついたのは同僚で恋人であった人とドライブの途中であったとか、その女性とはそのヒントがなかなか現実のものにならかったことに合わせて別れを迎え、それにもめげずたくさんの女性遍歴を繰り返し、授賞式には、前妻とその間にできた子供たちと当時付き合っていたガールフレンドを引き連れて参加したなどのエピソードや、LSDを常習していたなど、普通の人がこれをやっていると間違いなく逮捕寸前か世の中から排除されかねないようなことが書かれている。研究内容もすごいのだろうが、私生活もなんともすごい。

発明についての記述はこの部分だけだ。『まず、短いオリゴヌクレオチドを合成する。それを使って、長いDNA鎖上のある特定の地点に結合させる。しかし、長いDNA鎖上には少しだけ違うがよく似た場所が30億ヌクレオチドのヒトゲノムの中には1000ヵ所くらいはある。その程度の精度ではダメなので、その上でもうひとつのオリゴヌクレオチドを使ってもう一度選抜をかける。一番目のオリゴヌクレオチドでまず1000ヵ所をピックアップし、一番目のオリゴヌクレオチドが結合する場所の下流に、二番目のオリゴヌクレオチドが結合するように設計しておけばその二番目のオリゴヌクレオチドが正解をひとつだけ選び出す。そのあとはDNAが自分自身をコピーする能力を利用してやれば二つのオリゴヌクレオチドの間に挟まれたDNAは指数関数的に増幅してゆく。』
確かに、普通の言葉で書かれてもまったく理解ができない。
このアイデアがひらめいたとき、キャリー マリスはホンダシビックの助手席に恋人のジェニファーを乗せていたそうだが、その瞬間、下りカーブの路肩に乗り上げ、ダッシュボードの中から封筒と鉛筆を取り出し書き留めたという。急いで書いたので鉛筆の芯を折ってしまいようやくボールペンを見つけて計算を続けた。
その考えはあまりにも簡単だったためたくさんの分子生物学者に意見を求めたがこのような方法がかつて試みられたという事実を知っているものはいなかったという。唯一、友人でベンチャー企業の起業家だけが興味を示してくれ、独立してパテントを取るように勧めたけれども当時勤めていたシータス社のもとで発表したのだが、この会社はこの研究で3億ドルの稼ぎをしたという。

これから先は著者の面白おかしいエピソードが続く。しかし、それはきっと面白おかしいだけではなく、著者は相当俯瞰的に世界を見ていたのではないかと思えるところもある。確かにそれは世間一般から見るとそれはおかしいのではないかという考えかもしれないが、確かにそう言われてみればそうかもしれないという説得力がある。
その顕著な意見が、科学は等身大でなければならないという考えと、物事の本質を見直すべきであるという考えだ。
科学は等身大でなければならないという部分では、たとえば、宇宙論や量子力学の研究に対して、そういう研究は人間の営みに対してどれほどの貢献をしているのかというのである。国は何十億ドルもかけて巨大な装置を作り、有能な研究者を投下しているが、研究者は単に面白いからやっているだけであると断言する。
僕なんかは、そういった研究は、人はどこから来てどこへ行くのかという本能的な探求心の発露や、遠い将来、人類が宇宙に進出するための準備だと思っているのだが、言われてみればもっと近い将来にやってくるかもしれない小惑星の天体の衝突に備えるための観測や対策にもっとお金と知識を注ぎ込むほうが良いのではないかと思ったりもする。また、地球の温暖化への対応や自然災害への対処などはもっと等身大な問題として知識のある人たちには考えてもらいたいというのも確かである。台風や大雨のたびに話題になる、深層崩壊といのもそのメカニズムやその危険のある場所を特定する方法も確立されていないという。
物事の本質を見直すべきであるという部分では、オゾン問題、悪玉コレステロール、健康食材など、世間では当然それが正しいと思っていることは本当に科学的に証明されているのか、また、逆に、まったく科学的ではない占星術は本当に科学的ではないのか、はたまた、著者自身の実体験から、宇宙人は本当に存在して実際地球にやってきているのではないか、LSDなどの違法とされる薬物は本当に人体に有害なのか、そういったものに対しては自分自身でリテラシーを持たねばならないと言っている。
また、様々な危機をあおるような行動は誰かを利するために意図的になされているのではかいかと疑うべきであるというのである。世界が複雑化したことで、政府の役割のほとんどは、きわめて専門的な技術領域に分散し、素人がつねに監視することがまったく不可能になってしまったというのである。その陰で誰かが自分の私利私欲のために蠢いているというのである。
僕もそういった部分については確かにそのように思っていて、様々な利権と既得権益を守るためにいろいろな人がいろいろな不安を煽るようなことを企てて無駄なお金を支払わせようとしているに違いないと考えている。コロナウイルスのことでも、不安を煽ることで病床の確保やワクチン接種、休業補償に関わる費用で儲け倒しているひとがいるのも事実のように思う。
もっというと、車検制度なんかも、工学的には今の自動車は2年に1回の点検をしなくても故障なんかすることもないはずだ。少なくとも日本の車はもっと性能がいいのにそんな制度を維持し続けるのは自動車整備業界を儲けさせるための何ものでもないと誰もが思っているはずだ。著者の言葉を借りると、車の状態の本質は自分で見極めればよいということだ。
特に、エイズに関することと、地球温暖化については手厳しい意見を書いている。
エイズについては、その原因とされるHIVウイルスと関連性には絶対的な確証がないといい、地球温暖化については地球が現在まで繰り返してきた気候変動の一部に過ぎないという。
この本は約20年前に書かれたものであるが、その後、こういった問題の原因が本当に解明されているのかどうかを僕は知らないが、著者の主張に説得力が感じられないのは、自分で合成した薬物を大量に摂取したことでトリップしすぎたというようなことが書かれていると、宇宙人は本当に存在し、実際に誘拐されたと言われても、違法薬物は体に悪影響を及ぼすことはないと言われてもやっぱりそれは本当ではないだろうと思ってしまうのである。しかし、その薬のおかげで世紀の大発明であるPCRを発明したのであれば薬さまさまとなるのであるから著者のいうことももっともであると思ったりもするのである。
しかし、それも含めて自分自身で考えろというのであれば確かに著者のいうことは正しいと思えてくるので、タイトルのとおり、奇想天外であり、この人のように自分を信じて自由な生き方をしてみたいと思えてくるのである。
本文の最後はこう締めくくられている。『人類ができることと言えば、現在こうして生きていられることを幸運と感じ、地球上で生起している数限りない事象を前にして謙虚たること、そういった思いとともに缶ビールを空けることくらいである。リラックスしようではないか。地球上にいることをよしとしようではないか。最初は何事にも混乱があるだろう。でも、それゆえに何度も何度も学びなおす契機が訪れるのであり、自分にぴったりとした生き方を見つけられるようにもなるのである。』
まさに諦観の極みというような文章である。当然だが、この人はただの薬物中毒者ではないと思えるのである。

この本の訳者は福岡伸一である。アメリカで研究生活を送っていたとき、まさに著者の研究のセンセーションを体験したそうだ。そして、少し遅れてこの革命的な発明をした人物についての、この本に書かれているようなさまざまな噂が広まってきたという。
原題は、「Dancing Naked in the Mind Field」というそうだ。「心の原野を裸で踊る」というような意味だそうだが、ほとんど無名で、ほとんど論文の発表もしていない研究者が、『天上からやってきたミネルバがマリスの頭上で一瞬微笑んだ』結果、ノーベル賞を受賞することになったのだと訳者のあとがきで書いている。僕はふと、キャリー マリスという人は本当に宇宙人に誘拐され、この革命的な発明を授けられたのではないかと思ったりしてしまった。

福岡伸一というひとは科学エッセイでは一番面白い文章を書く人ではないかと僕は思っているのだが、この本の面白さは著者の奔放な生き方はもとより、きっとこの人の文章力にもよっているのではないかと思ったのである。
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「食べるとはどういうことか」読了と台風14号

2022年09月19日 | 2022読書
佐藤洋一郎 「食べるとはどういうことか」読了

なかなか微妙な本だ。タイトルはなんとも哲学的なものだがそのいくらかの内容は過去に読んだ本にも書かれていたようなものだった。端的にいうと、「現代の食の危機」というものに言及している本だ。食の多様性が薄れ、画一化された食。生産と消費の距離があまりにもかけ離れた世界。著者はそこに危機感を訴える。ただ、それだけではなく、味覚についてや観光と食文化、食料の保存の歴史など学術的なことも書かれている。そうかと思うと、人文科学は自然科学に比べて世間ではないがしろにされているというような愚痴も書かれていて論旨があちこちに行っている気がするので微妙なのだ。もちろん、こういったすべてのことが「現代の食の危機」につながってゆくのだといわれればそうかもしれないが・・。そんな本だが、次の予約がはいっており、来週には返却しなければならないので先に読んでいた本を途中でやめて急いで読み始めた。

世界で生産される穀類は4億トンほどだそうだ。世界の人口を70億人(すでに80億人にまでなっているそうだが。)とすると、一人当たり330キログラム程の配分がある。カロリーに換算すると1日2900キロカロリーだそうだ。成人ひとり当たりの1日の必須カロリーは2000~2400キロカロリーと言われているので今のところはこの地球上の人口を十分養っていくことができる計算だ。しかし、世界では8億人の人が飢餓の危機に瀕しているという。
これは、「食の分業化」が原因だ。食材を作る人、加工する人、食べる人が分かれてしまうことだが、これが進むことでおカネを持っている先進国に食材が集まり、食べきれないものは廃棄されてゆく。また、大量に同規格の食材を流通させるために規格外の食材も廃棄される。
そして、この本は2022年の春までに書かれたものなので取り上げられてはいないが、ひとたび世界のどこかで戦争が起こると世界中の食糧事情が危機に陥る。ウクライナの戦争では、世界はこんなに脆弱なのかと驚いた。
今の世の中で、自分で食べるものを自分で取ってきて自分で料理をして自分で食べる人という、食のすべてを自分で賄うという人はほぼ皆無だ。調理は自分でやったとしても食材はお店で買うしかない。それも流通しやすいように食材の種類は絞られ、選ぶ余地は少ない。品種改良は生産力を伸ばしたが、一方で品種の多様性を損なった。そしてそのことが土地ごとの食の多様性多様性や食文化を薄れてさせてゆく。
そういったことに著者は危機感を抱くわけだが、特定の場所に人口が集中し、都市化が進んだ現代ではどうすることもできない。
僕も何度か書いてみたことがあるが、その最たるものがコンビニの総菜だろう。「こんなに丁寧に家庭の味を再現しました。」みたいなコピーでサバの塩焼きなんかを売っているが、それのどこが家庭の味なのか。家庭で作らなかったら家庭の味ではないのではないか、それを家庭の味だと勘違いしている日本国民はどこかおかしいのではないかといつも思うのである。

もちろん、やむを得ず外食をすることもあるだろう。外食の起源は旅先での食事だと言われているそうだ。それも文化のひとつである。中国や東南アジアでの屋台などは一度は食べてみたいと思うのであるが、日常の生活でそれしか選択肢を持たなくなってしまっては本末転倒だ。
せめて自分の食べることは自分でよく考えて食べなさいというのが著者の思いのようだ。

そういったことを、食の歴史、加工、保存、味覚、嗅覚など様々な方面から書いているのだが、やっぱりちょっと微妙だ。しかし、著者が一番主張したいことは、冒頭の、「はじめに」の部分に集約されているように思う。
宇宙ステーションのクルーがハンバーガーを食べているシーンを見て、『ハイテクの塊のような空間である宇宙ステーションで活動する宇宙飛行士たちでさえ、生命維持のためには食べ続けなければならないことを雄弁に物語っている。』と書いている。どこにいても人間は食べることからは逃れられないのであり、それが世界中で様々な食文化を生んできた。
「食べることは生きること」というサブタイトルがついていたのは何年か前の朝の連続テレビ小説だったが、まさにそれである。それを大切にしなさいということだ。

著者は植物遺伝学の科学者だそうだ。食の未来を見据える科学者は人類の機械化についても言及している。まったくSF的ではあるが、人体のサイボーグ化についてだ。それはいろいろな部分で進みつつある。それに食がどう関係するかというと、食物の人工物化である。1万年ほど前は完全な自然物であった食材は、農耕、遊牧を経て半人工物と言えるものとなった。そして現在では食品添加物、冷凍食品など高度に加工されたものになっている。その行きつく先は、ロボットと化した身体をもつ人間が、水のほかは栄養剤のようなピル状のものだけを食べるような世界なのだろうかと懸念する。これは大げさだとは思うが、著者は、そのような社会は嫌だと考える人が減ってきたと感じている。それの象徴のひとつがコンビニで夕食を買う人々だろうと僕も思う。食べる楽しみ、美味しく食べる、味わって食べるといった食の価値を、改めて問い直す時期が来ているのではないかというのである。
確かに、食べることにまったくこだわりがなく、あったとしても自分で作ることをせず、外食、もしくは中食で満足しているひとはかなり多いのかもれないが、いくらかの食材を自分で確保し、またはそれを取った人、育てた人の顔がわかるものを自分で料理して食べることを少しでもやっている僕はそういった食にこだわりのない人たちよりも幸せなのかもしれないと思う本であった。


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このブログを書いている今日は台風14号が日本を縦断している。朝から和歌山市内をウロウロしてきたのだが、その時点では中心はいまだ九州だがものすごい風が吹いている。車高が2メートル近くある僕の車はときおりハンドルを取られ、ビニール傘は秒殺でボロボロになってしまった。



それでも海に出ている人はいる。大きな波を狙ってサーファーが大挙していた。ちょうど祝日と台風の日が重なったからだろうが、こんな日に海に入っていくのは怖くはないのだろうか。女性のサーファーもいた。



雑賀崎灯台、いつもの観測スポットと廻ってきたが、カメラを構える腕は風に翻弄され、まともにシャッターを切れない。



いつもの観測スポットは防波堤が嵩上げされ、こっちに乗り越えてくるような大きな波は見えなかった。これはこれで安全なのかもしれないが、オーディエンスとしてはちょっと物足りないのである。



船のほうは今のところ無事である。



しかし、干潮時刻にしては潮位が高い。家に帰って調べてみると、予測潮位より50センチほど高く推移している。夕刻が満潮になるのでちょっと心配だ。



ひととおりパトロールを終え、「わかやま〇しぇ」へ。今日は一般向けに販売会をしているらしい。平日は客がいなくて店番のおじさんたちとよもやま話などをするのだが、荒れ模様の日ではあるが今日は忙しくレジで客さばきをしている。



今日の買い物はコロッケ各種と5キロ入りのパスタだ。
300円と書いていたので思わず買ってみたが、これを食べきるのに一体何年かかるのだろうと買ってみてから気がついたのである。



そうこうしているうちに風はますます強くなってきた。いつもなら気にはしながらも心底は心配をしないのだが、今回の台風はちょっとまずいかもしれないとおびえているのである。別の意味でちむどんどんしている・・。

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紀ノ川河口釣行

2022年09月17日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 4:21干潮 11:08満潮
釣果:タチウオ 14匹

先々週も台風が接近していたが、今日も台風14号が接近中だ。しかも今度は大きいようだ。かつ、九州に上陸して中国地方から近畿地方に抜ける予報だ。昨日からやきもきしながら進路情報を眺めている。夕べの予報では針路はかなり南下してきていたがこのブログを書いている段階では少し北に戻ってきた。だが、規模が大きいだけにやはり心配だ。



南海フェリーも今朝は入港して出港していったが、明日は早々と欠航が決まっているらしい。



本格的な影響が出始めるのは早くても今日の午後からのはずなので朝は行けるだろうと今日もタチウオ釣りにでかけた。毎回タチウオで食べ飽きそうだが、今日の目的は燻製の材料確保だ。10匹釣れれば燻製の材料になる。

台風の影響を心配してか、渡船屋は休業している。車が1台止まっていて、よく見るとタチウオ名人のユウイッチャンさんだ。おお、今日もきっと釣れるぞと思ったら、逆に、釣れてるか?と聞かれてしまった。話を聞いてみると、今年は全然行ってなくて今日が2回目だという。「8月の2週目くらいから釣れ始めてたで。」というと、「そうか~。全然知らんかったわ。」ということだっだ。
出港は午前4時45分。



少しずつ夜明けが遅くなってきた。ついでに船の足も遅くなってきた。今日は小船で出たのだがまったく滑走しなくなってしまっている。今年の夏は暑かったけれども、水温も高かったのかフジツボの成長も著しいようだ。

うねりが気になるので仕掛けは港内奥深いところから流し始めた。すでにうねりが出ていたら港内だけで釣ろうと思っていた。
雲も多く、明るくなるのが遅いからなのかアタリはまったくない。やっとアタリが出たのは青岸の灯台を越えたところだった。
台風が来ているからか、今日はタチウオを狙っている船は少ない。といってもやはり自由に仕掛けを流す余裕はない。土日はやっぱり嫌いだ。それが原因ではないだろうが、アタリは相変わらず少なく、一度に食いつく魚の数も少ない。型も小さいので、アタリがあったのかどうかわからない感じだ。特に、満ち潮の流れに乗っているときは経験のない人ではおそらく魚が掛かっているかどうかを判別できないだろうと思う。
辺りがすっかり明るくなってアタリがなくなったが、なんとか燻製にするだけの数は釣れたようだ。

海の様子を見がてら禁断の仕掛けを流すため新々波止の南側に出てみたが少しのうねりがあるくらいでまだ台風の気配は感じられない。

   

雑賀崎の漁船は大挙して避難してきているが、なんとか無事に過ぎ去ってもらいたいものだ。



港に戻り、僕も迎撃準備。



やることはいつもと変わらないが、スパンカーを縛る紐を増やし、隣の船とのロープもひとつ増やしておいた。デッキの上で飛ばされそうなものもスカッパーの中に入れておいた。
あとは神のみぞ知るというところだ。

家でも台風の迎撃準備。燻製箱は敷地の中の半外の場所に置いているのだが、父親が作った建付けの悪い作りなので風向きによっては雨が吹き込んでくる。合板で作っているのであまり雨が当たると剥がれてきそうなのでトタン板でカバーを作った。
港からの帰りに近所のホームセンターに寄って買ったのだが、もともと長さ90センチの物を買おうと思っていたら、180センチのものが処分価格で出ていたので思わず買ったのはいいけれども、バイクで運ぶにはどうも大きすぎる。どうしたものかと思っても持って帰らないわけにはいかないので、半分視界がない状態で家まで運ぶことになった。どうやって運んだかは文章では表しづらい。



魚をさばいて即席でカバーを作成。効果のほうはどうだろうか。効果がわからないくらいに雨風が大したことがなければいいのだがと願っている。

 
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「逆境を楽しむ力 心の琴線にアプローチする岩出式「人を動かす心理術」の極意」読了

2022年09月12日 | 2022読書
岩出雅之 「逆境を楽しむ力 心の琴線にアプローチする岩出式「人を動かす心理術」の極意」読了

今さら組織論を読んでも何の意味もないのだが、逆境ではなくても辺境にいるのは間違いがなく、そこで耐え抜く方法でも見つけてみようかと読んでみた。

著者や帝京大学ラグビー部の監督をしていた人だそうだ。和歌山県出身だということも、とりあえず読んでみようかと思った動機である。

逆境とはあまり関係がないが、組織を機能的に動かすには、「心理的安全性」と「野心的目標」というものが重要だそうだ。「心理的安全性」とは、「組織内で誰もが、拒絶されたり罰せられたりする心配をせずに忌憚のない意見を述べられる状態のこと。」をいい、野心的な目標を協働するのに有益であると考えられている。
心理的安全性が高くても野心的な目標がなければただの仲良しグループになってしまい、逆だとギスギスした組織になる。

考えてみると、いままでの職場で、心理的安全性というものを感じたことがなかった。特に直近の職場はいつも誰かが誰かの悪口を言っているというようなところだった。悪口を言っている連中の中には僕も含まれているわけだが、そういう自分が嫌でひとり黙ってしまう。働かないおじさんは人と口を利かないというが本当だなと思ったものだ。
野心的目標はどうだろう。衰退産業である業界で前年プラスの売り上げ予算を渡されても最初からあきらめるしかない。そんなことを30年以上も続けてきた。そしてそういうことが体中に染みついてしまったように思う。

「利他の精神」「自己実現」「内発的動機」「セルフエフィカシー」「成長マインドセット」・・、様々な前向きな言葉が盛られているが、僕にとっては過去の言葉であり、これか先もまったく縁のない言葉だ。そういった言葉にずっと縁がなかったのは、きっと職場環境がそうさせたのだろうと思ったりもしたのだが、著者の経験を読んでみるとそうでもなさそうだ。著者は順風満帆に強豪チームの監督になったのではなかったそうだ。実家の破産を経験し、高校ラグビー部の監督になれたのは大学を卒業して10年経ってからだそうだ。そんな境遇にもめげず、やっと大学ラグビー部の監督となり、大学ラグビー選手権で10回の優勝をするまでになった。
ずっと前向きに生きられるというのは、それはもう、DNAしかないのではないのかと思った。そう考えられる人はそう考えられるし、そう考えられない人は死ぬまでそんな気持ちにはなれない。事実、僕がそうだ。

『世の中に不満を持ったりする人の多くは、他人との比較や組織との関係性がうまくいかないことに端を発しています。まずは自分ではコントロールできない他社や世間、組織ではなく、自分自身のことをちゃんと整えていくことに専念してほしい。現在と過去を振り返り、未来の目標に照らしながら、失敗した自分を覆し、整えて肯定化していく。』それだけでまったく違った人生になるはずだというが、そんなようには絶対に思うことはできない。自分のふがいなさをすべて他人のせいにしようとは思わないが、ここでなければこうはならなかったのではないなとは思ってしまう。

そう思ってしまうことがやはりDNAなのだ。だからこれからもあきらめて生きるしかないと、そう思うしかないとしか思えない本であった。


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紀ノ川河口~加太沖釣行

2022年09月11日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:大潮 6:24満潮
潮流:4:06転流 7:03 上り1.5ノット最強 9:58転流
釣果:タチウオ11匹 ハマチ1匹 ツバス1匹 アジ1匹


昨日は中秋の名月だった。だから今朝の月も中秋の名月なのだ。ちょうど雲が切れていたので満月がきれいに見える。空は相当明るく、周りの星はまったく見えず、木星だけが月の上に見えている。



土日休日になって2週目の釣行。とにかくどこに行っても人が多くてうんざりする。ドラッグストアでもスーパーマーケットでもレジには行列ができていて、港の駐車場には渡船屋の客の車があふれ、紀ノ川河口にもタチウオを狙う船がひしめいている。



自由に仕掛けを流せないのは釣果に直接影響するのでこれは困ったものだ。休日数では前の会社に比べて10日ほど多いのだが、その有効性ははるかに比べ物にならない。釣行回数も減りそうだ。さすがに二日連続で釣りに行くというのはかなり体力的につらいものがある。まあ、この部分については今までがちょっと行き過ぎていた感もあるので少し調整局面に入ってもよいのだろうとも思う。しかし、総合的に考えるとやはり休日は平日に限る。
親会社に出向していた12、3年前、同じように土日祝休日の期間があったが、あの時は船も1隻でしかも買い換える前だったので行動範囲が限られていたからそれでちょうどよかった。今とはまったく環境が異なっていたのだ。

船の速度はかなり遅くなってきたが、今日は久しぶりに加太に行こうと思っている。まずは保険のつもりで紀ノ川河口でタチウオを釣ってから加太にマアジ中心狙いという計画を立てた。
先に書いたように、あの狭い海域におそらく20隻くらいの船が集まっていたのではないだろうか。思うところに仕掛けをながせない。船をUターンさせようにもその隙間がないのだ。しかし、今年は魚が多い。幸いなことにどこでもアタる。出足は悪かったがアタリ始めるとどんどんアタってくる。相当強い引きなのだが魚が大きいのではなく常に複数の魚が掛かってくるからだ。ということで今日も型が小さい。ちょっとましな型の魚だけを取り込んで10匹ほどになったので加太に向かう。本気で釣れば今日も20匹は軽く超えそうな勢いだった。


向かうポイントは燃料の消費のことを考えて四国ポイント周辺のみにしておこうと考えている。ここから少し離れたところには去年菊新丸に教えてもらったイサキも釣れるというポイントがあるのでそこに向かうことにした。



さっそくサビキ仕掛けを降ろすといきなりアタリが出た。それほど大きくはないがマアジだった。これは今日はもう、ウホウホなのじゃないかと思ったがそんなに甘くはない。その後はアタリがなく過ごしていると大きなアタリが出た。ドラグが滑って糸がどんどん出てゆく。これは間違いなくバラすパターンだ。使っている鉤は大きい魚が掛かるとことごとく曲がってきた鉤だ。もったいないので使い切るまで使おうと思っているので曲がっても仕方がないとあきらめている。おまけにハリスは3.5号、鉤が曲がらなくてもハリスが切れる恐れも十分ある。そういったリスクを感じながら50メートまで引き出された道糸を回収する。2本の鉤が掛かっていたのが幸いしたのか、うまく取り込むことができた。
サイズは60センチほどだろうか。まずまずの型だ。

再び沈黙の時が過ぎ、また大きなアタリ。今度も道糸がどんどん出てゆく。しかし、ほとんどリールを巻くことなく今度は幹糸から切れてしまった。残念。
けっこう大きな魚がいるようなので5号のサビキに変更。しかし、これがアダになったか、時合が過ぎたかまったくアタリがなくなった。

その頃になると暑さが増してきた。一昨日、一昨昨日はもう秋だなという感じの気温だったが、昨日からまた暑さが増してきた。立秋を過ぎても暑さが続くことを「秋暑」というらしいが、まったくその通りだ。汗が噴き出してきて目に染みる。これはたまらない。午前9時ごろまでは釣りをしようと思っていたが、午前8時を終了の基準時間に設定しなおした。

残り1時間足らずは高仕掛けに切り替え。このポイントは北に流されてゆくとテッパンポイントにたどり着く。そのまま流されてアタリがなければ則終了と思っていると、そんなときにかぎってアタリがある。上がってきたのはツバスだ。アタリがあればやめるわけにはいかない。もう少し続けることにする。
確かにアタリはあるが鉤には乗らない。ここらあたりが潮時と午前8時40分に終了。


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「ファーストスター 宇宙最初の星の光」読了

2022年09月09日 | 2022読書
エマ・チャップマン/著 熊谷玲美/訳 「ファーストスター 宇宙最初の星の光」読了

NHKBSで、「コズミックフロント」という番組が放送されている。けっこう凝ったCGが登場するので面白かった。「面白かった。」という過去形なのは、最近は、宇宙の番組なのになぜだか恐竜の話が出てきたり、地球の地質学の話が多くなったり、再放送ばかりになってしまって今では全く見なくなってしまったからだ。
放送当初はビッグバンの謎であったり、恒星の寿命、超新星爆発、銀河の生まれ方など、宇宙規模の壮大な話が多く、それがきれいなCGで解説されていた。
そんなトピックスの中に、この本のタイトルになっている「ファーストスター」も取り上げられていたことがあった。ファーストスターというのは、ビッグバンから始まった宇宙の歴史の中で最初に生まれた星のことだ。星は永遠に輝き続けるものではない。星も生まれては死んでゆく。星はその死んだ残骸からまた生まれてくる。じゃ、星がまったくなかった最初の星はどうやって生まれたか、ファーストスターが生まれた時の宇宙の環境はどんなものであったか、そしてその時代の光景を発見することはできるのか。そういった謎を研究しているのが著者である。しかし、その痕跡なり事実はいまだ正確には観測されていない。

ファーストスターが生まれたのは宇宙が始まって2億年ごろだったと言われている。その星がどんなものであったかということを知るにはその当時の宇宙を知る必要がある。だから、この本は宇宙の始まり、すなわちビッグバンの直後から始まる。
ビッグバンの直前、おそらく無限大に小さくて無限大に質量が高かった時というのは今の宇宙での物理法則が適用されないので知ることはできない。しかし、その直後からは研究で明らかにされている。ビッグバンは空間だけではなく時間の始まりでもあるのだが、直後の膨張速度は指数関数的であり、1秒後には100兆×1兆倍という大きさにまで広がったと言われている。インフレーション膨張期と呼ばれている。
この時から約38万年間、物質はプラズマ状態にあり、物質と同時に生まれた光子(光)はそのプラズマに邪魔されてまっすぐ進むことができなかった。38万年後、やっと光がまっすぐ進むことができるようになり、その時に観測者がいれば、景色を見ることができるようになった。これを「宇宙の晴れあがり」と呼ぶ。
物質はどうであったかというと、ビッグバンから3分46秒後に水素とヘリウムの原子核までが合成される。それより大きな原子核は飛び回っている光子が邪魔をするので大きくなれない。ヘリウム4の原子核が約25%、水素の原子核が約75%、0.01%の重水素の原子核、少量のリチウムとヘリウム3の原子核がその構成比率であったとされる。
そんな世界で生まれた最初の星は、金属を全く含まず、質量は太陽の100倍から1000倍の大きさがあったという。なぜこんなに大きな星になってしまうかというと、「ジーンズ質量」というものが決定をしている。
宇宙に漂っているガスが集まって収縮(星が生まれる)するとき、高温のガスよりも低温のガスのほうが少ない量で収縮できる。初期の宇宙は温度が高かったため、大量のガスを必要とし、星も大きくなる。この、ガスの温度と星が生まれるのに必要なガスの量の関係が「ジーンズ質量」なのである。
不思議なのは、星ができるきっかけを作るには、ガスの温度を下げてジーンズ質量を下げてやる必要があるのだが、それは高温の星ができるためには星を冷やす必要があるということである。そして、その役割をしているのが光子である。星が光子を発する、すなわち光り輝くということがエネルギーを運び去り、温度を下げるという効果を生む。なんとも不思議だ。
もうひとつ不思議というか、なんだかよくわからないものに、「オルバースのパラドックス」といものがある。これは、宇宙が有限であるということの証明なのだそうだが、こんな理屈だ。「宇宙の恒星の分布がほぼ一様で、恒星の大きさも平均的に場所によらないと仮定すると、空は全体が太陽面のように明るく光輝くはず」というのだが、なんとなくわかりそうで何となく騙されているような感じがする理屈なのだ。

話はもとに戻り、こんな巨大な星の寿命は短い。その寿命は数百万年くらいだったのではないかと考えられている。そして、その残骸から次の世代の星が生まれるまでには1000万年から1億年という、宇宙のスケールではごく短い時間しか要しなかったという。
その数百万年の間に、ファーストスターの中では水素原子核やヘリウム原子核の核融合によってさまざまな金属(天体物理学では酸素や炭素も金属として取り扱われるらしいので、様々な元素といったほうがよい、)が生まれる。その星が爆発することによって様々な元素を含む次世代の恒星が生まれ、我々人類が生まれる素になっていくのである。

著者たちはそういう現象の痕跡を探す努力をしているのだが、そのために、鉄を含まない星の探索をしている。鉄のスペクトルというのが見つけやすく、それがない星がファーストスターの候補といえる。
宇宙が始まってわずかな時間しか経っていないときに生まれた星をどうやって見つけるのか。おまけにその星は生まれてから宇宙の歴史の中ではわずかな時間といえる期間しか輝かない。それにはふたつの方法がある。
ひとつは、ファーストスターの中で長寿な星をみつけること。もうひとつははるか遠くの空域を調査することである。

ファーストスターにも長寿な星があると考えられている。その質量は太陽の数百倍以上と言われているが、その大きさにはばらつきがある。たとえば、ファーストスターの質量が太陽の0.8倍くらいだと百億年以上は輝き続けることができる。しかし、こういった星は暗いので銀河系の近くでそんな星がないかどうかを探すのだ。銀河系の本体は若い星が多いが、その周辺、ハローと呼ばれる空域には古い星が存在している。そんな中から鉄のスペクトルが出ない星を探す。しかし、なかなかそういった星は見つかっていないらしい。
はるか遠くの空域では矮小銀河の中にある星が候補にあがる。銀河系やアンドロメダ銀河はきれいな渦巻き型をしているが、これはいくつもの銀河が繰り返して合体した末に出来上がったものだ。その元になった銀河のひとつが矮小銀河である。だから、今、観測することができる矮小銀河は、そういった合体を免れた銀河で、その中に存在する星々も古く、ファーストスターの生き残りが存在するかもしれないというのである。
今年の初めに稼働し始めたジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡はまさに光学的(といっても人間の目には見えない赤外線を見るのだが。)にファーストスターを探そうという望遠鏡なのである。



これらは光学的にファーストスターを探そうという考えだが、もうひとつ、電波でファーストスターを探そうという考えもある。これは、ファーストスターが生まれた頃に発せられた電波、正確には、当時に合成された水素が出す電波を電波望遠鏡(正確には複数の電波望遠鏡を組み合わせた電波干渉計というもの)で見つけようというものだ。
この分野の研究が著者の研究領域だそうだが、その研究はまだまだこれからの分野だそうだ。
原題は「First Light」というが、まさに宇宙が発した最初の光を見つける日はそう遠くないのかもしれない。


しかし、そこにファーストスターや最初の光がみつかったとしてもそこに行くこともできないし、おそらく近づくことさえもできない。それが何か新しいものを生み出すわけでもない。それでも莫大な資金をつぎ込んで見つけようとする原動力というのは一体何なのだろうかと、こういう本を読むたびに思う。
自分たちは一体何者なのだろうか、この宇宙に生きている意味とはなんだろうかという、ただそれだけを知りたいということだろうが、そういった欲望というか渇望がもたらした力が解明する事実には感嘆させられるのである。
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紀ノ川河口釣行

2022年09月03日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 3:41干潮
釣果:タチウオ 26匹


サラリーマン生活もあと1年半で終わりというときにまたまた出向を告げられたというのは以前に書いたが、新しい会社に移って今日が初めての釣行だ。言ってみれば、リストラされて再就職したようなもので、しかも、今までの仕事とは何の関係もないところにたまたま拾われたというようなものだ。給料が今までと変わらないということだけが救いである。

新しい職場といっても何か今までの経験を活かせるというものではなく、おまけに大して重要な仕事でもなさそうだ。単なる雑用である。
この歳になってまったく知らない世界に自分の意志に反して連れてこられて、周りはおそらく人種的にも今までいた業界と比べるとまったく思考の違う人たちばかりのように思うが小さな組織の10人のメンバー全員、今のところクセが強くてかなわないという感じではなさそうだ。
僕の奥さんはその業界で働いていたのだが、結婚式の時の招待客の姿を見て、あなたの会社の人たちにはみんな髪の毛があるといって感動していたのを思い出す。

しかし、パソコンに触れることなく1日を過ごすというのは何年ぶりのことだろう。Windows95が発売されて間もなくパソコンを触り始めたのだから、おそらく26、7年前のことではないのだろうか。ある意味、新鮮といえば新鮮だがこれはこれで淋しい。いうなれば、知的労働の機会を剥奪されていると言っているようなもののように思える。とにかく1年半を我慢すればまた別の生き方をすることができるかもしれない。人は歳をとってくると時間の経過を早く感じるものだ。そう思って過ごすしかない。

ついでといってはなんだが、この職場は信託銀行なので老後の資産運用の勉強はさせてもらえるかもしれない。運用するほどの退職金はもらえないだろうが、なけなしのおカネで死ぬまで生き永らえる方法を教えてもらえることができるかもしれない。

時事ネタではないが、会社という組織はある意味カルト教団のようなところだ。トップが教祖でその要求と思想がどんなに理不尽でも整合性がなくてもそれには全力で従わねば切り捨てられる。残念ながら、僕はどうもそういう状況には馴染めなかったということだろうなと思っている。もちろん、そういう要求に答えられるほどの能力がなかったというのも事実であるが・・。

しかし、わが社(もと居た会社のほう)のいいかげんさには驚いた。まず、有給休暇の取り方がわからない。僕は一応、出向先では新入社員ということになっていて、もらえる有給休暇が少ないのだが、もと居た会社で持っている分は取っていいということになっているものの、出向先では有給休暇以外に様々な休暇制度があり、それを取ったうえでさらに有給休暇を取れるのか、それもと有給休暇で賄うのかがわからない。
時間外手当はもっとひどい。出向先では僕の労働に対して時間外手当が支払われるらしいのだが、もと居た会社では僕は管理職の待遇なので時間外は出ないと言われ、少しぐらいのサービス残業は我慢しなさいとも言われている。その、“少しぐらい”という曖昧さは一体何なのだろうか・・少しぐらいが月100時間になっても少しぐらいで済まされるのだろうか・・・。そんな疑問が浮かび上がる。
こっちの会社にそういったことを伝えると、こっちは支払っているのであとはあなたともと居た会社との問題だと思いますよと言われるし、あなたと人事で出勤状況の報告書というものはないのですか?人材を受け入れているほかの企業ではきちんと報告書を作っていますよ。と逆に質問される始末だ。今まで家族を含めて養ってもらってきた会社ではあるが、外に出てみると、あの会社はこんなにいい加減で適当な会社だったのかということが身に染みて感じる。
管理職待遇なので自由裁量の中で働くというのが建前だが、この環境のどこに自由裁量があるというのだ。確かにこんな環境に身を置かざるを得ない状態に追いやられたのも自分の責任ではあるのだろうが、せっかく僕の労働の対価として支払われた賃金が会社にかすめ取られるというのにはどうも納得がいかない。
同業他社のこいうった部分の対応の厳格さを見ていると、業績が悪いのは業界が衰退しているというのが原因ではなく、会社の構造自体にあったのであるという確信が持てた。

そんなことを思いながら港に向かった。


台風11号が近づいているので遠くには行きたくないので今日も紀ノ川河口にタチウオを釣りに行くことにした。しかし、この台風。まるで生物のように不思議な動きをしている。



無生物がこんなに急激で複雑な動きをするものだろうか。高気圧のヘリに沿って動いているというがまったく不思議だ。
天気は荒れ気味なのかと思ったが東の空には冬の大三角形がくっきり見えている。シリウスもその青白さが際立っている。



対して西の空では雲の中で雷が光っている。なんだか変な天気だ。しかし、今日は土曜日。それぞれの係留場所から船が続々と出港して行く。

北風が思いのほか強く、港内も波立っている。こんな日は釣れるのだろうかと訝しんでいたが、今日も南海フェリーが入港してきたことを合図にアタリが出始めた。引きは強いが魚が大きいのではなく掛かっている数が多いからだ。これから先、仕掛けを流すたびにほぼすべての鉤に魚が掛かっているという状態が続いた。
魚はいくらでも掛かるが、型はかなり小さくなってしまっている。小さいものは指2本ほどだ。前回までの釣行では全然見ることがなかったサイズだ。おそらく3分の一は放流してしまっただろう。
そしてやっぱり、フェリーが出港していくとアタリは遠のいてゆく。今日の場合はまだアタリは続いていたがこんなに小さなタチウオを釣り続けても仕方がないだろうと考えて終了とした。

海の様子を見てみようと新々波止の南に回ってみると、少しのうねりはあるもののいたって穏やかだ。



禁断の仕掛けをもってくればよかったと悔やまれる。
そんなことを思いながら港に戻ると雑賀崎の底引き船も避難を始めていた。やはり今度の台風はこの辺りにもかなり影響を及ぼすのだろうか・・。



午前6時に港に戻り、台風に備えてロープを増やし、締め直して今日の僕の1日は終了。

 

新しい仕事はまったく何の責任もないとはいえ、僕がいないと始まらない仕事でもある。電車が遅れたり不通になったりすると10人のメンバーにかなりの迷惑をかけてしまう。雨風は我慢するから電車だけは止まらないでくれと願うばかりだ・・。

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