イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「人口戦略法案」読了

2022年12月30日 | 2022読書
山崎史郎 「人口戦略法案」読了

日本の人口減少というのは密かな大問題となっているそうだ。1967年に1億人を突破し、2008年の1億2808万人をピークに人口が減り始めた。人口問題研究所というところが5年ごとに発表する「将来推計人口」の中位推計では、2053年には1億人を切り、2060年には9284万人、2090年には6668万人、2110年には6000万人を切り5343万人になると推計されている。こんな未来の話は僕にはまった関係がないと思っていたがそうでもなさそうだ。
僕にとって関りがあるのは、僕の年金を払ってくれるひとがいったいどれくらい残っているのかという問題だが、単純に、僕の上の世代のひとたちが寿命を迎えると人口比率としては僕を支えてくれる人が多くなってくるはずだからそのまま人生を逃げ切れるかと思っていたが、社会人生活も逃げ切りに失敗したように前途は多難のようである。
2010年10月1日現在、28.8%の高齢化率(65歳以上人口比率)は下がるどころか増えるいっぽうで、2053年には38%を超え、2110年までそのままの比率を維持するという。2053年というと僕は90歳。ひょっとしたらしぶとくまだ生きているかもしれない。そんなときになって年金がもらえないとなって野垂れ死にするのはちょっと困る。

つい最近、ワイドショーか報道番組で元厚生労働省官僚が人口減少をテーマにした小説を書いているということが紹介されていて、一度読んでみようと予約をしてみた。
書架から出されてきた本は電話帳のようなボリュームがあり、本編537ページの大作だった。さすがに何千ページもの資料を作っては読みこなす官僚が書いたものだが僕も登山のように少しずつ読み進もうと思う。

本の構成は、小説仕立てだ。人口減少問題というのは様々な要素が複雑に絡み合うため、論文形式よりも小説の登場人物に様々な立場から語ってもらったほうがよくわかるだろうということでこのような形での出版となったらしい。小説家としてはかなり素人らしく、企業の研修で見せられる退屈なビデオのようなストーリー展開ではあるが、その内容は確かに濃密であった。

物語は、現役官僚がこの問題に危機感を覚えたことから始まる。内閣に働きかけ、政策として人口減少に歯止めをかけるべく制度を作り上げてゆくというもので、そのストーリーの中に様々なデータが盛り込まれている。そこに提示されるデータは生々しく、提言は本当に実現するのかというのはともかく、なるほどといえるものであり、政策やそれを遂行する法案というのはこういう過程を経て出来上がっていくのだなということがよくわかる。
日本の人口減少の原因となったものは何か。現状の制度問題点は。他国の現状は。成功した国は何をしたか。そしてそれらを参考にした日本のための制度とは一体どういうものなのか・・・。さすがの500ページだから情報は盛り沢山だ。
しかし、この本を読んでいると、制度という器を作ったとしても、日本人の心理がすでに人口減少を食い止めることができなくなっているのではないか。逆にいうと、こういう人たちはそういった日本人の心理をほとんど理解していないのではないかと思えてくるのである。
まあ、それを知ってしまってはどんな行動も起こせなくなってしまうのではないかとも思えるのでそれはきっと知らないということのほうが正しいとも思うのであるが・・。
その、僕なりに考えた理由は後ほど書こうと思う。

先に書いた人口推計や高齢化率ももちろんこの本に書かれていたものだが、まず、日本がそんな人口減少局面に至った理由はこうだ。

それは1868年の明治維新から始まる。日本が近代国家として船出を始めると、人口増加率は1%を超え、1920年代後半には1.5%を超えていた。日露戦争以降は人口規模と経済力によって日本は“大国”とみなされるようになる。その後も自国の力と地位を向上させるべく、1941年には「産めよ、殖やせよ。」のスローガンのもと、第二次世界大戦によって大きな人的損失を蒙ったにもかかわらず1945年時点の人口7200万人というのは世界最大級であったという。
終戦後、日本の出生率は4を超え、1949年には年間出生数が269万7000人と最多を記録した。これが第一次ベビーブームである。
この急激なベビーブームと海外からの引き上げによって、人口が急増したため、当時の政府は人口増加の抑制を緊急課題と考え、1953年には人口問題審議会が設置され、人口政策が審議された。当時、人口増加を抑制する方策として考えられたのが、「受胎調整」と「移民」である。ここでいう移民とは海外への移住ということである。
「受胎調整」のほうは官民あげての産児制限運動として強力に展開された。1948年には優生保護法が制定され、助産婦などが「受胎調整実地指導員」となって集団指導や個別訪問による個人指導を行ったという。いまではこれは明らかに基本的人権の侵害ではないかと思えるような活動だ。
こういった活動がある意味奏功し、出生数は1949年から1950年にかけて一気に36万人も減り、1957年には出生率が2.04にまで低下した。
日本が目指したのは「静止人口」という、出生数と死亡数が均衡する人口増加率がゼロの状態であり、1957年から1974年の間は1966年の「ひのえうま」の例外を除き出生数は「2」前後と安定的に推移し、静止人口が実現したとみられた。

しかし、1974年に人口審議会が決定した2回目の人口白書では、天然資源の輸入に頼る日本が、「増加が予想される人口をいかにして扶養すべきかということが多大の関心をひくようになった」とし、「出生抑制にいっそうの努力を注ぐべきである」と提言した。
これは、第二次ベビーブームの到来やオイルショックによる経済低迷がその背景にあるのだが、加えて、1975年の国連の「世界人口会議」において、「家族計画の優等生」とみられていた日本の発信力が期待されたということが影響したという。誰かがカッコつけたかったからというのが今の日本の人口減少につながっているというのはあまりにも日本的で滑稽でもあるのである。
1980年代になると、晩婚化が進み、出生率は下がり続けたものの、それは出産の先送りにすぎず、「キャッチアップ」という効果で理解され人口減少に対する懸念は示されることはなかった。戦前の「産めよ、殖やせよ」という出産奨励に対する忌まわしい記憶が出生については公が関わるべきではないという社会的な風潮があったことと、当時はすでに高齢者対策にかかりきりであったという事情もあった。
期待された第三次ベビーブームは1990年代後半から2010年代前半であったが、金融システムによる経済危機やリーマンショックでそのブームはおこらなかった。そして、2005年には出生率は過去最低の1.26まで落ち込むことになる。
総括すると、1970年代半ばまでは政府の「作為」によって、80年代にかけては政府の「不作為」が反映されているといえる。そして、人口減少はいったん動き出すと止まらなくなるのである。

他国ではどうかというと、例えば、スウェーデン、フランス、イギリス、アメリカでは、1970年頃には概ね2の近辺にあった出生率は女性労働参加率が高まるにつれ、いったん下がったけれども、2017年時点では1.8あたりに回復している。スウェーデンでは長期的な公的な雇用と出産の両立支援、アメリカでは民間企業主導柔軟な働き方の影響で女性の子育てと賃労働の両立がしやすくなったと考えられている。フランスでも「育児親手当」が1985年に導入されたことがキャッチアップを可能とした。

日本での支援策はどうかというと、育児休業の制度化は1991年、育児給付制度の導入は1995年であった。そして、現在でも十分な両立支援が行われているとはいえない。
僕も知らなかったのだが、こういった支援は雇用保険で賄われていたということだ。まあ、たいして気にしたこともなかったのだが、同僚で育児休業している人たちはなんらかの公的保障を受けていると思っていた。雇用保険が賄っているのだから、非正規の人たちやもちろん専業主婦などもその対象外であったのだ。

この小説の主人公である厚生労働省出身の内閣府参事官はそういったことを憂い、新たな人口減少対策である「子ども保険」という制度を立案する。
育児休業手当や児童手当を就業中の人たちだけでなく、妊娠を機に退職した人や専業主婦にまで幅広く支給することで子供を産みやすく、育てやすい環境を作ろうというものだ。
その総額は10.2兆円。財源は2000年に始まった介護保険と同じ社会保険方式である。国民拠出、企業拠出、公費で賄われると想定している。社会保険方式というのは、確実に財源を確保できるという意味で政策を実行しやすいというメリットがあるそうだ。
それに加えて、政策には不妊治療、結婚支援を合わせた三本柱が子その全容である。
不妊治療は晩婚化、高齢出産への対応だということだ。人間には妊娠適齢期というものがあって、女性では25歳~32歳だと言われている。そういったことを広く知らしめてライフプランを立てるように促す事業と、不妊治療を受けやすくする事業である。
体外受精などはすでに公的助成を受けられるそうだが、2018年に生まれた子供のうち、体外受精による出生数は5万6979人で16人に一人に相当する。クラスの二人は体外受精で生まれていると聞くと、そんな時代なのかと驚いてしまう。
結婚支援についても、男女の出会いの機会が少ないという調査結果から導入された。
若者の東京一極集中で、若年女性の3分の1が東京で暮らしているという事実と、その東京都の出生率が全国最低であるという事実から、出産、育児の環境が比較的整っている地方への分散、もしくは生まれた土地でそのまま生活を続けてゆける環境づくりである。
これは地方創生にもつながる政策でもある。

大体、日本の人口減少というのは、きっと、日本人にエロさが無くなってしまったからだと思っていたけれども、それだけではなくこういった社会的、政治的事情もあったのだということがこの本を通してわかったのである。
そのエロさという部分で、器を作ってもすでに日本人の心理が追いつかないのではないかと思うのである。日本が世界の中で抜きんでているアイドルやアニメというような一種偶像崇拝的なコンテンツが、玩物喪志という現象を引き起こして現実の生殖活動に向かえなくなっているのではないかと思うからである。結局、人間も生物である。生殖活動が滞ると子孫を残すことができないのである。
韓国でも人口減少は深刻らしく、かの国でも僕の能力では見分けがつかないほど同じような顔のアイドルが目白押しである。そういった物たちに毒されているということも人口減少のひとつの要員ではないかと思うのである。すなわち、エロさが無くなったのである・・。

それはさておき、小説のほうは、総理大臣が2020年代のどこか未来にこの法案を急いで通そうとする。
その理由は、先に書いたように、第二次ベビーブームの子供たち、すなわち、第三次ベビーブームを担うはずであった1990年代前半に生まれた若者が妊娠適齢期を超えてしまおうとしているといくことだ。おりしもコロナショックの最中、結婚する人口も出産する人口も極端に減ってしまっている。このボリュームの人口で出産率が激減してしまうともう、出生率が多少上がったとしても人口減少の流れを食い止めることができないと考えたからである。もう、待ったなしの状況であると総理は考えたのだ。
このままの推移で日本の人口が減少してゆくと、2100年には高齢化率が4割近くになるというのも先に書いたが、それが、9000万人、約1億人の人口を保つことができれば27%くらいまでに抑えられるという。6000万人の人口で小国として幸せに生きればいいではないかという議論もあるが、そもそも地政学的に日本が小国になってしまっては隣国との関係を保つこともできないのであるが、それより深刻なのが高齢化率なのである。
移民でそれを補うという考えもあるが、同じく2100年に1億人の人口を維持するためには日本人口の20%を外国人で埋め合わせをしなければならなくなりそうだ。もともと単一民族で成り立ってきた日本では生理的にも受け入れることは難しいだろう。だから子供保険が必要だと主張するのである。
しかし、この法案は衆議院を通過したものの、参議院では廃案となってしまう。総理の体調不良、そして、これから先、日本人すべてにこの問題を深刻に受け止めてもらうためにあえて廃案に持って行ったのだというところは政治家や官僚というひとたちはこういうことまで考えて動いているのかと思うと生々しく思う部分であった。

2022年の暮れを迎える今、現実の日本ではそれよりも防衛費を5年間で43兆円確保するのだということだけが話題になっている。小説の中でも法案を通す前に国民負担に理解を求めるためできるだけ早く発表するのだというくだりがあるが、この防衛費も同じような流れで早い目に発表されたとニュースでは流れていたが今の日本では出生率よりも防衛費のほうが大切なようだ。もちろん、子供がたくさん生まれても国が滅びていれば元も子もないとは思うのではある。
昨日の新聞を見ていたら、首都圏から地方への若者の移住を促すのだとか、出産一時金が42万円から50万円になるのだと書かれていたが、小説にでてくるような包括的な政策ではないような気がした。
元官僚である著者は、現役時代からこういう危機感を抱いておりそれを改めて世に訴えたというが、いまだそんな法案が検討されているというようなニュースも聞かない。小説のデータからすると、今からでもすでに遅きに失しているというのに・・。

人生の入り口と出口に手厚い保障をしようという考えはありがたいものではあるが、小説の法案では、「子ども保険」に必要な財源を確保するための成人ひとり当たりの平均の保険料は月額3600円、年間では約4万3000円・・。介護保険も払い続けるとなるとこれは相当な出費である。
将来、年金制度を支える子供を増やすための費用なのだからすべては国民に還元されるものであるというものの、介護保険は将来貰えるからとあきらめはつくが、直接的には二度と子供を育てることなどない僕にとってはかなり受け入れ難い案である。
それに加えて、介護保険は介護ビジネスというものが付随してくるのでこれを利用して儲けてやろうという人たちの後押しがあるが、子ども保険案ではほとんどが現金給付だ。だれも儲けないのだから業界の後押しもないだろう。
票にもカネにもならないことには誰も見向きはしないというのが現実なのだろうか。
そう思うと、1990年代前半生まれの若者の出産適齢期をやり過ごしてもなお、人口減少問題はほったらかしになっているのに違いない。
きっと僕の老後も逃げ切れない状況になっていきそうである。逃げ切ろうとするならば、僕の人生を70代前半で終わらせるしか方法がなさそうである・・。

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「大人のソロキャンプ入門」読了

2022年12月21日 | 2022読書
ヒロシ 「大人のソロキャンプ入門」読了

“ソロキャンプ入門”というよりも、ヒロシのキャンプ観を伝えているような本である。
年末年始は図書館も休館になるのでいつもよりもたくさんの本を借りるのだが、せっかくだから釣り関係の本で目新しいものがないかと書架を見ていたら、最近は釣り関係の本が減り、キャンプ関係の本が増えているのでそっちのほうに目が行く。この本が出版されたことは知っていたが、いつの間にか蔵書されていた。
ヒロシのキャンプスタイルには共感するものがあるので迷わず借りることにした。
本の構成はキャンプ初心者の編集者との会話形式となっている。流行に乗り遅れまいと急いで作ったという感じだ。ヒロシも忙しくなって執筆どころでないのだろう、簡単に作れる方法を選んでしまったようだ。

だから、今まで読んだ本のようなヒロシらしさはあまり出ていなかったような気がする。
最もよくヒロシらしさが出ていたのは冒頭の部分だった。
もともと芸人仲間たちとグループでキャンプを始めたというのがヒロシのキャンプライフのスタートだったそうだが、そんな中、後輩芸人から、「焼きそばないんっすか?」といわれたことにプツンと切れて、「俺はいったい、何のためにキャンプをやっているだろうか?」と自問をはじめたという。さらに話は飛躍し、友人を誘ってのキャンプの悲惨さに移ってゆく。友人を誘ってキャンプに行くとこんなことが起こる。
まず、自分は海の見えるキャンプ場に行きたいと思っているのに友人はだだっ広い原っぱのあるキャンプ場でフリスビーをやりたいと言う。声の小さいあなたは反論できずにその行きたくもないキャンプ場を予約する羽目に陥る。
当日、気分が乗らなくても言い出しっぺだから行くしかない。あなたはキャンプ道具一式を準備し、フリスビー男を迎えにゆく。車の中ではよくわからないアイドル歌手の音楽が流れ、肝心の選曲をした友人は助手席で寝てしまう。
キャンプ場に到着すると、お昼には無水カレーを作らされ、友人はキャンプの華である焚火を始めたものの、結局火を着けることができない。あなたはその尻拭いをしなければならない。食事をしながら、別の友人にはボーナスが80万円しかなかったなどと自慢なのか何なのかわからない話を聞かされる。
そこまでは我慢することができても、彼らは食事もほどほどにすぐ近くでキャンプをしていた女の子三人組にちょっかいを出しに行く。話の輪の中に入る勇気もないあなたは残った料理を頬張りながら焚火に夢中なフリをするしかない・・。
そして彼らはあなたが持ってきた4人用テントに戻ってくることはなかった・・。
結局、「他人のおもてなし」となるのであるというのだ。

それにひきかえ、ひとりでキャンプに行くことを想像してみると、行き先、持ち物、食材、すべてにおいて選択は自分次第だ。そこには圧倒的な自由があるというのである。

ここまで読みながら、これは僕の釣りスタイルにも通じるところがあると思った。
もちろん、釣り仲間を招いて船を出すのは嫌いではない。多少は気を遣うけれども、グループキャンプと違い、船長はある程度の権力を持っているからポイント選びから出港、撤退も船長の考えが優先される。その判断で客人に魚を釣ってもらえれば自分が釣り上げるよりもはるかにうれしいというのは間違いがない。
しかし、ひとりで釣りに出るときにはそういった気遣いはなく、釣れなくてもいいし、いつ帰ってもよい。その気軽さでつい、ひとりで船を出すことになる。
きっとそういう部分に共感を得るのだと思い至ったのである。

そこから先の部分というのは、「ヒロシのぼっちキャンプ」を観ているのとおなじシーンが続いてゆく。
このテレビ番組を見始めてそろそろ2年くらいにはなるだろうか。半分くらいは過去の再放送が混ざりながら放送されているのだが、同じものでも何度も観てしまう。
最新のシリーズは少し趣が変わり、訪問先のぶらぶら散歩みたいなものが加わってきた。「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」が終了し、そのテイストを取り入れているようである。今週は和歌山県のキャンプ場を訪ねているらしい。先週の予告編には「ホテル川久」へ曲がる角にある、貝殻やサンゴを売っている怪しいお店が映っていた。食材の調達はきっと白浜にいくつかある緑のテントのスーパーだろうと想像しているのだが、録画した番組を観るのが楽しみだ。

そして、最後の部分で、ヒロシは自分のキャンプスタイルの神髄とは「侘び寂び」であると語る。高価なギアを集めてキャンプをするのではなく、安いものでも自分の気に入ったものを年季がはいるまで使い続ける。ちょっとした工夫やかっこつけを楽しむ。サイトは盆栽のようであるように・・。
そしてそれはエロさにつながるのであるというのがヒロシらしい。
まあ、これはヒロシだからかっこいいのであって、本当に貧乏な僕がやっていると、それはただの“侘びしい錆”でしかないなと思ってしまうのである。
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「スーパーヒーローのなり方 ( 非日常実用講座 12 )」読了

2022年12月20日 | 2022読書
非日常研究会 「スーパーヒーローのなり方 ( 非日常実用講座 12 )」読了

この本はあかん。
「前田建設・・」の本を検索しているときに見つけた本で、タイトルが面白いと思って借りてみたが、これは宝島社かワニブックスのような本だった。

赤影、ランボー、レインボーマン、バットマン、ジェダイナイト・・。空想世界のスーパーヒーローにはこう努力するとなれるというような内容なのだが、それはただスーパーヒーローたちの破天荒さをただただ茶化しているというだけだった。まえがきには、女の子にもてるために男子はスーパーヒーローを目指すのだと書かれているのだから空想科学の世界観とはかなりかけ離れているとしか思えない。
スーパーヒーローになるためにはこんな法的な制約があったり、こんな資格が必要とか、肉体的にはこんな強化が必要だとか、多少アカデミックなものかと思っていたが、それは皆無だった。タイトルの日本語もなんだかおかしいし・・。
「空想科学読本」シリーズもとり挙げているヒーローを茶化している部分もあるが、それを数値化してその驚異的な能力をリスペクトしていたのだからかなり違う。
出版年度は1998年、おそらくターゲットは当時の僕の世代前後だと思うのだが、それなりに受け入れらたのだろうか。34歳の僕だったらもっと面白いと思ったのかもしれないが・・。


わざわざ公立の図書館に蔵書するほどのものではなかろうと思うような内容だった。
このシリーズは10冊以上出版されているようだが、蔵書はこの1冊のみ。これかこれで図書館としては賢明な選択であったと思う。
と、いうのが短い感想だ・・。
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「前田建設ファンタジー営業部」読了

2022年12月18日 | 2022読書
前田建設工業株式会社 「前田建設ファンタジー営業部」読了

水木一郎が亡くったというので読み始めたわけではないが、偶然にもマジンガーZ関連の本であった。

とある土曜日の午後、何気なくテレビを見ていたら、そんなもの造れないだろうと思えるような巨大建造物の建設見積もりを作るような番組を放送していた。(僕が見た時には太平洋を横断する列車用のトンネルの建設費用であった。)えらく古いネタをやっているなと思ってみていたが、こんどはBSのチャンネルを回していると、「前田建設ファンタジー営業部」という映画を放送していた。ああ、古いと思ったのはこの映画の記憶があったからだとわかった。元々、空想科学の世界は興味がある分野であるので、せっかくだから再放送があれば観てみようと思いネットで検索してみるとこの本が見つかった。たくさんのシリーズが出版されているようだが図書館での蔵書はこの1冊だけであった。

著者は実際に存在するゼネコンである。準大手ゼネコン4位だそうだ。その会社が、一般にはなじみが薄いゼネコンの業務内容を広く周知させるため、また、「ゼネコン汚職事件」などから流布しているゼネコンに対するネガティブなイメージを払拭するべく立ち上げた企画が「ファンタジー営業部」というものであったということだ。
これが、大手だと、月面都市や1000メートルを超える立体都市の構想ということになるのであろうが、準大手だと空想科学の世界のそれを求めるようだ。
設定としては、空想科学世界の登場人物から前田建設が開発した“空想世界対話装置”を通して巨大施設の建設発注があり、工法や見積もりを考えるというものである。その初回がマジンガーZの格納庫だったというものである。ここでちょっと突っ込みたいのだが、空想世界ではすでにマジンガーZの格納庫は存在しているのに、それの建設発注があるというのはまったく矛盾しているのではないかと思うのである。まあ、そんなことをいちいち言っていてはこんな本は読めない。

空想科学の世界というと、柳田理科雄の空想科学読本シリーズだが、それとはかなり趣が違っている。柳田理科雄のシリーズは物理や化学の知識を駆使して空想科学のとんでもない世界を数値で表そうというものだが、先に書いた通り、この本は企業PR、業界PRという面が強く出ている感じである。どちらかというと、お仕事BOOKというものだ。だから、建設の見積もりから施工への流れや業界用語の説明がたくさん盛り込まれている。そういった説明をマジンガーZの格納庫の建設見積を作る過程で説明をしている。

格納庫を作る過程の大きなセクションは、立坑の掘削(穴を掘る)、掘削面を固める、マジンガーZを浮上させるジャッキや格納庫の蓋などの機械設備の設置の3段階に分かれている。
前田建設工業はダムなどの土木工事が得意な企業なので掘ったり固めたりという工事の部分についてはかなり詳細な説明を盛り込んでいる。
そのサイズは、12メートル×32メートルの矩形で深さは50メートル。
その中に25メートルの上下動が可能なジャッキを設置し、プールの底を兼ねているスライド式の蓋を取り付ける。



工法についてここで説明を書いても面白くもないので、読んでいるうちにこれは面白いと思った専門用語だけを少し書いておく。
〇土建屋さんが「ユンボ」と言っているショベルカーだが、正式には「バックホウ」というらしい。
〇穴を掘ると掘った分だけの土砂が出るが、それは「ズリ」と呼ばれていて、これの処分費用が掘るときの費用よりも高くつくという。だから建設会社は敷地の中に山を作るとか、凸凹のところを埋めて平坦にしてしまうとかしてできるだけ他所に持って行かないように工夫をしている。
掘り出した土砂は圧縮されていたものが解放されるので堆積が増える。その比率のことを「ふけ率」といい、土質によってその率は変化する。
〇工賃の計算には「歩掛(ぶがかり)」というものがあって、単価が決められている。そしてそれは月毎に変化するので「物価本」というものがあって、毎月そんな本が出版されているそうだ。電話帳並みの厚さがあるという。

しかし、いちばん驚いたのは、格納庫のカモフラージュとして設置されていた施設が、汚水処理場であったということだ。



僕はずっとプールだと思っていた。永井豪はどうしてそんな夢のない施設を設定したのか、ひょっとして遠い将来、誰かが本当にこれを建設するための見積もりを作るということを想定していて、そんなときにはプールよりも汚水処理場だろうと考えたのだろうか。もしそうなら永井豪は鋭い先見性を持っていたのだろうなと尊敬の念を覚えてしまう。

見積もりの結果は意外とお安く、72億円、工期は6年5ヶ月。



地方ヒャッカテンにおける某高級ブランドショップの設置費用が僕の記憶では2億4千万円だったことを思えば意外以上の安さだと思えてくる。
オチとしては、兆円単位の金額が見積もられてそこにツッコミを入れるというのが妥当な流れだと思うが、流石に企業PRの面を持つ著作としてはかなり現実的であったのだ。

読みながら思ったのは、モノ作りの面白さだ。その面白さというのはこういうことを空想することだと思った。そしてそれを実際に創り出せればその喜びはなおさらである。
僕も何かを作るということが大好きで、完成形を想像し、製作工程、材料費、効率的な作り方を考えることを楽しむことが多い。
時々、どうしてそういう職業を選ばなかったのかと今になって悔やむこともあるのだが、結局、何に対しても不平や文句を言うことしかできない自分には、楽しいことは職とはせずにあくまで楽しみとして楽しむ方がやっぱりよかったのではないかとも思うのである。

本を読み終わってわかったのだが、古いと思った記憶はこの本の内容が「ほんわかテレビ」で取材されていて、模型としてつくられた格納庫がテレビで映っていたことだった。
20年ほど前の放送だったようだが、僕自身も会社で何か面白いことはできないかといつも考えているような頃だったのだろう、こんなことをやっている会社があるのだと強い印象が残っていたのだと思う。そんな頃のサラリーマン生活が一番面白かったのだと思うのである。
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「流浪地球」読了

2022年12月15日 | 2022読書
劉慈欣/著 大森望、古市雅子/訳 「流浪地球」読了

「三体」の著者が書いた6編のSF短編集である。
別に中国人が書いたSFのファンではないが、図書館で見つかるSFというとなぜか中国人の書いたものしかない。この本も新刊書の書架に並んでいたものだ。
欧米のSFというと、早川書店のSF文庫が有名だが、管内のどこかにはあるようだ。しかし、わざわざその書架までは探しに行くほどSFが好きだというわけではないのでチャイニーズSFを読むことになる。これらの本は「中国文学」の書架に並んでいるので僕がうろつくルート上にあるというわけだ。
なので、欧米のSFと比較して論じるということはできないが、著者のSFというのは、現代科学の延長線上にあるということと、物語の時間軸が数百年、数千年と相当長いということだというのが特徴なのだろうと思う。

地球が惑星規模で滅亡の危機に陥ったとき、人類は持てる科学技術を応用し、途方もなく巨大なシステムを数百年の歳月を費やして建設、稼働させるというようなものや、数千年の時間を費やしてやっと到達できる隣の恒星系への旅立ちの物語なのである。
一見、荒唐無稽と思えるが、ひょっとしてそんな時代が訪れる、もしくは、今でもやろうと思えばやってしまえるのではないかと思えてくるプロットが興味をそそる部分でもある。

この本の6編うち、表題作を含めた3編は地球の滅亡を回避するための人類の努力と葛藤の物語。1編は途方もない距離を旅して隣の恒星系のさらに先を目指そうとする男の物語。1編は到来した異文明との遭遇。1編はコンピューターウイルスが引き起こすちょっとコミカルな物語となっている。
それぞれのあらすじを書いておくと、
「流浪地球」
太陽内部の核融合スピードが加速しすぎ、3世紀後にはヘリウムフラッシュという激しい爆発を起こすということを知った地球で、これを回避するために地球ごと隣の恒星系であるプロキシマ・ケンタウリを目指すという物語である。
そのために開発されたのが地球エンジンと呼ばれる、一万二千基の重元素核融合エンジンだ。その熱と加速に力により地球の環境は荒廃し、政治的には連合政府という統一国家が生まれているがその旅に対して疑問と反旗を翻す人々がいる。
反対運動の最中、とうとうヘリウムフラッシュが地球を襲い、地球人は太陽系での存続をあきらめプロキシマ・ケンタウリを目指さす。

「ミクロ紀元」
太陽の重力崩壊により、1万8千年後、巨大フレアが地球を襲うことを察知した地球人は新たな移住先を求めて〈先駆者〉と呼ばれる12隻の恒星間宇宙船を送り出す。
宇宙船時間の23年後、それは地球上では2万5千年後となるのであるが、唯一生き残った先駆者が地球に戻ってきた。そこにはもとあった地球文明は存在せず、2万5千年の間に地球人が生き残るために生み出したミクロ文明が創られていた。
唯ひとり生き残った〈先駆者〉のクルーはその文明を守るため、搭載していたマクロ世代(もとの地球文明)の生物を復活させるための胚細胞を全滅させる。

「呑食者」
地球をエイリアンが襲う。その宇宙船は外径5万キロ、内径3万キロという、地球をすっぽり包み込むことができるサイズのタイヤのような形状だ。このエイリアンは標的の惑星をその中に包み込み、すべての資源を奪いとる。
地球もその標的になる。地球人はそれに対抗すべく、1万基の熱核爆弾により月を衝突させて宇宙船を破壊しようとする。
しかし、それには失敗し、その作戦の過程でエイリアンの正体がかつて地球上で繁栄した恐竜の末裔であることを知る。
地球の資源は奪い去られ、人類はエイリアンの食料として家畜となるが、戦いを挑んだ軍人たちは英雄としてエイリアンたちに迎え入れられる機会を与えられる。しかし、彼らはそれを断り、地球に残る道を選ぶ。唯一残された蟻と植物と共に地球の復活のために自らの体を蟻たちの栄養源として捧げるのである。

「呪い5.0」
ひとりの女性が失恋?した相手を呪うために作ったコンピューターウイルス、これはただ恨みの言葉を一度きりディスプレイに表示させるだけのまったく無害なものであったがその後、様々な人たちが手を加えてゆくなかで特定の条件を満たした人たちを攻撃するようになる。そして、最後から2番目にウイルスを改変させたのはこの本の著者である劉慈欣だ。「*(アスタリスク)」を使って攻撃対象を広げ、山西省太原の市民を攻撃するように改変したウイルスは街を焼きはらう。さらに何者かによって「*」の範囲を広げた5.0バージョンに改変されたウイルスは全世界の都市を攻撃し始める。
僕のイニシャルは「M.M.」だが、この「MM」というのは、中国のスラングではかわいい女の子という意味があるということをこの短編で初めて知った。

「中国太陽」
主人公は盲流と呼ばれる小学校しか出ていない農村出身の出稼ぎ労働者だ。偶然知り合った男は固体物理学の教授でナノミラーフィルムの特許を持っていた。私財を投じて製品化しようとしたが失敗し、主人公と同じく社会の底辺でもがいていたが、中国の国家プロジェクトである砂漠の緑化や気候改変のための宇宙空間からの反射鏡の材料に採用される。
超高層ビルのガラスの清掃員となっていた主人公はその男性に誘われ、宇宙降雨間での反射鏡の清掃員として採用される。人類で初めての宇宙空間での労働者となったのである。
無重力空間で療養をしていたスティーヴン・ホーキンスとの交流を経ることで、反射鏡を改造した光圧力を利用した宇宙船の建造を提案し、それに自ら乗り込み、恒星間の宇宙探検に出発する。

「山」
異星文明が地球にやってくる。その文明は、地球とはまったく環境が異なり、地球世界でいう空間が岩石で満たされている世界であった。巨大な宇宙船の引力で海面がせり上がり9千100メートルの山となる。
事情があり、山から遠ざかり海洋調査船に登場していた元登山家はその山に泳いで登ろうと決意する。
そしてその頂上で異星文明とコンタクトを果たす。
そこで教えられた知的生命体の本能とは・・。


先にも書いたが、物語のほとんどは途方もない巨大施設と長い時間軸の中で繰り広げられる。宇宙と対峙するためにはそれほどの規模が必要であるということだろうが、はたしてこんなことが現実に起こりうるか・・?もちろん、起こらないからSFなのであろうが、欧米のSFでもこういったありそうでなさそうな大ぶろしきを広げるものであろうか。いっそのこと、もっと荒唐無稽なプロットでもいいのではないかと思ったりもしてしまう。
しかし、「山」の中で、著者は異星文明人にこう語らせる。『登山とは、知的生命の本能だ。知的生命なら、だれでもみな、より高い場所に立ち、より遠くを見たいと願うものだが、その欲求は、生存に必要なものではない。たとえばおまえだ。もし生き延びたいなら、山から遠く離れるはずだ。しかし、おまえは登ってきた。高みへ登りたいという欲求を進化が知的生命に与えたのには深い意味がある。しかしその理由は、われわれにもまだわからない。山はいたるところにある。われわれはまだ、山のふもとにいる。』
まさにこの精神で書かれたのがこれらのSFであると見えてくる。別の見方をしてみれば、この精神があれば、これらの建造物や冒険、宇宙への進出は現実のものとなるのだと著者は確信しているのかもしれない。

ただ、経済的な面からみてみるとどうだろうか。これだけの投資に見合うだけのリターンを得ることはできるのだろうか。地球の存亡をかけた投資だといっても、極限まで環境を破壊し、ただ生き延びるためだけに世界のGDPの数百年分でも足らない投資を人類はすることができるのだろうか。
昨日の新聞記事に、はじめて核融合で入力したエネルギーよりも大きなエネルギーを得ることができたという記事が出ていたが、35億ドルを投入してやっとヤカン数杯分の水を沸かす程度のエネルギーを得た程度だったそうだ。



宇宙開発というと初期はもっと割に合わない投資になるだろう。地球外からいろいろな資源を持ってきて開発するというのが当面の目標となるのだろうがはたして投資に見合うほどの利益を得ることができるのだろうか。それとも、投資を繰り返してゆくことで地球圏の経済規模は膨らんでいくのだろうか。
それはきっとこの核融合実験が商業ベースに乗るのかどうか、その成否にかかっているのではないかと読み終えた日の新聞記事を見ながら思うのである。

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「海とヒトの関係学 ①日本人が魚を食べ続けるために」読了

2022年12月09日 | 2022読書
秋道智彌 角南篤/編著 「海とヒトの関係学 ①日本人が魚を食べ続けるために」読了

この本は、「海とヒトの関係学」という一連のシリーズである。人類が海洋の生態系や環境に凌駕するインパクトを与えているということを鑑み、海洋をめぐって起こっている様々な問題、それは環境汚染であったり国家間、地域間、国内紛争なのであるが、そういった様々な問題を現場に精通した研究者、行政、NPO関係者、企業経営者などがそれぞれの専門分野に対して現状やその解決策を論じているというものである。
その第1弾が「魚食」についてである。

この本の最初は、「私たちはいつまで魚が食べられるか」という問いかけから始まる。
一応、魚釣りが好きで、自分で食べるくらいの魚はなんとか釣って帰ってきている僕にとっては愚問とも思える問いかけであるが、そうでもなさそうである。
「SDGs」の14番目の目標は、「海の豊かさを守ろう」というものらしいが、海洋汚染や乱獲によって、このまま放っておくと本当に魚は幻の食材になってしまうかもしれないというのである。まあ、僕が死んでから相当時間が経ったかなり未来のお話であるのかもしれないが・・。
しかし、魚がいなくなる前に、貧乏人は魚が食べられないという時代はもっと早くにやってくるかもしれない。
農林水産省の食料需給表によると国民一人当たりの年間魚介類消費量は2001年の40.2キロをピークに2006年には24.6キロにまで落ち込んでいる。そして、厚生労働省の国民栄養調査、国民健康栄養調査によると、2011年に日本の国民一人当たりの消費量は肉類の消費量を追い越したそうだ。
また、日本の漁業、養殖業生産量は、1984年に1282万トンであったものが2017年には430万トンにまで減ってしまっている。
どうしてこうなったかというと、水産白書によると価格の上昇、魚介類の品質の悪化、調理が面倒、ゴミ捨てが困難、料理時の臭いと煙が挙げられている。そして年齢層が低くなるほどその傾向は高くなり、魚離れは未来に向けて間違いなく進行してしまうと考えられているのである。
しかし、世界を見ると、まったく逆の傾向にあり、国際連合食糧農業機関(FAO)が示した年間一人当たり魚介消費量は2004年に63.2キロで1位であった日本は2013年には48.9キロで7位になってしまった。
海外での魚介類の需要増のため、2006年頃から水産分野での国際市場において、日本は他国に対して買い負けの傾向が強くなってきていて、輸入環境の悪化によりますます魚が食べにくくなってきているという。
ホタテやアワビ、タチウオは海外での価格のほうが上回っているのでどんどん輸出に回ってしまっているというし、ビンナガマグロはツナ缶の原料になる主力の魚だが、これも海外のツナ缶のほうが価格が高くなったのでどんどん輸出に回っているらしい。
まあ、これは魚に限ったものではなく、デフレの日本では何もかもそうなっているのだろう。きっと今の日本人は輸出できないほど品質の悪いものばかりを食べたり身につけたりしながら生活しているに違いない。
そして、国際的な魚食に関するものといえば、国家間のけん制の仕掛け合いというものにも使われているらしい。捕鯨問題やマグロ問題というのは有名な話だが、条約における締約国会議(COP)の場では、ナマコやタツノオトシゴやサメに対する規制が提案されてきたという。これらはすべて、中華料理や漢方薬の材料だ。これらが絶滅の危機や違法な漁獲、サメについてはヒレだけ切って生きたまま捨てているというような話を読むと、規制されてもしかりとも思うけれども、どこか、中国に対するけん制活動にも見えてくるのである。

しかし、家庭での魚介類の消費は減っているものの、外食での魚介類消費は減っていないという。ということは、日本人はいまだに魚を食べたいという感情に陰りはないということだ。
では、何がその感情を妨げているのか・・。
確かに、水産白書に書かれている問題はなんだか勘違いしているように思う。普通に考えると魚を料理する際には当たり前のことであるが、「調理が面倒」、「ゴミ捨てが困難」などということが僕のひと世代前の人たちには当たり前のことが当たり前で無くなってしまったということが一番の問題であるというのはなんだか滑稽だ。僕も親戚や友人に魚を持っていくときにはきちんと捌いてゴミが残らないようにして持っていくのだが、その理由は、大体のひとが魚を捌けないのだ。もらう方はうれしいのだろうが、釣りから帰ってきて疲れた体で一所懸命に魚を捌いてさらに個別に届けている僕は一体何のためにこんなことをしているのだろうと思ったりしてしまう。魚を丸で持っていけるのは野菜を貰える叔父さんの家だけだ。一体、日本人の生活の何がそうさせてしまったのかその根本の原因を追究せねばこの本に書いているような魚食の復権などありえないのではないかと思うのである。昨今、出刃と柳刃を持っている家なんて少数派のようなのである。そこからなんとかしなければならないのではないだろうか。
僕が個人的に思うのは、よく切れる包丁で魚を捌くというのはある意味楽しく、その包丁をメンテナンスするというのも楽しいものである。と、そういうことを思いめぐらせていると、これは男性がもっと魚に面と向かって取り組まねばこの問題は解決できないのではないかと感じてきた。道具にこだわるというのはやはり男の方に分がある。その男も、昨今は料理男子というのも多くなっているが、親の世代が魚を捌く姿を見ていないと自分もやる気がおこらないしそもそも、どうやるのかということもわからないというのが現実なのだと思う。
それに加えて、鮮度も問題だろう。まあ、僕も高級なスーパーや百貨店で買い物をするわけではないのでこれは必然だと思うが、店頭に並んでいる魚の鮮度というと釣りをする人間から見るとほぼ腐っているのではないかと思えるほどである。一度、ガシラ釣りのエサにと思って買ったサバの切り身は、もう、エサにもならないのではないかというほどであり、本当にこれを食べている人間がいるのかと思えるものであった。ちょっと食材に詳しい人なら買う気は起きないだろうし、それが魚離れに直結しているのだろうと考えてしまう。
肉というと、牛、豚、鶏、ごくたまに羊くらいが関の山だろうが、魚には数倍の種類がある。それぞれに味も食感も違うのだから無限の料理のバリエーションがある。それを楽しむ機会がほとんどないというのはなんとももったいない。

そういう点では、この本に書かれている、日本の各地でおこなわれている様々な施策には期待を覚える。
マグロの完全養殖というのは近畿大学が成功させたということで有名な話だが、民間企業でも温泉水を使ったトラフグの養殖をやっているところもあり、その生産地は日本全国に広がっているそうだ。
町おこしも魚食をきっかけにしておこなわれている。この本では福井県のサバ、大分県臼杵市のクログチなどがこの本には取り上げられている。また、食育や、MSC認証(水産資源や海洋環境に配慮し適切に管理された、持続可能な漁業に対する認証:海のエコラベル)、ASC認証(環境と社会への影響を最小限にした責任ある養殖の水産物である証)という国際認証制度なども紹介されているが、このあたりになってくると、なんだか、利権と交付金目当ての臭いもしてくる。
志はよくわかるし、和歌山市にもいくつかの漁港があり、様々な取り組みをやっていて、そういう話を聞くと、活気も感じるし、僕もそういった活動に参加をさせてもらえないものだろうかと思ったりもするのだが、外から参加をさせてもらえるほど甘いものではなく、交付金をがっつりもらって、結局はハコだけ作ったみたいなところで足踏みしているところもあるらしい。まあ、何でも100%成功するわけでなく、その中のひとつでも大きく育てばそれでいいのかもしれないとは思う。
この本も、笹川平和財団というところが編集協力をしているようだが、公的なおカネが入っているのかもしれない。

繰り返しになるかもしれないけれども、こういった施策を一所懸命にやっている人たちはなんとか日本の魚食を守ろうと奮闘しているのだろうが、すでに親の世代が魚を料理することも食べることを知らず、新鮮な魚を買おうとするとお肉に比べるとはるかに高価になってしまっている現状ではますます崩壊していく未来しかないのではないだろうか。
幸か不幸か、我が家は魚を自分でさばいて食べるのが当たり前の暮らしをしてきた。だから、魚食の生活は十分足りていると思うのでそれでいいのだと思っている。ただ、地元に根ざした伝統的な魚食をしているかというとそれは残念ながら根無し草と言わざるを得ない。そこは残念だと思うのだ。水軒の集落でもあそこ独特の魚の食べ方というものがきっとあったと思う。それを知ることができなかったというのはやはり永遠に片手落ちということになるので、僕の魚食は安泰だと思っているとそれは大きな勘違いなのである・・。

最後に漁獲圧というものについて。
『漁撈の努力量は、漁船数、漁具数、操業時間などで表すことができる。漁獲努力量が増加すると、漁獲量は一定量増加する。一方、資源の個体数や加入率(魚が成長して資源として利用できるよう(=加算される)ようになる比率)に変化が起こる。漁獲圧は対象資源への影響を表すさいに使う。』
というのがその定義であるが、魚釣り程度のものでそんな圧力はないだろうと思っていたが、今年は現実にそういったことが起こるのだということを実感した。
もっとも大きかったのはアマダイだ。夏前に近場で釣れるということが広まるとそれを狙う船がプレジャーボート、遊漁船問わず大挙押し寄せひと月程度でほとんど釣れなくなってしまった。加太沖や洲本沖のタチウオも今年は大物が釣れなかったらしい。それはここ数年続いていることだ。先週の洲本沖はそこに陸地が生まれたのではないかと思うほど密集した船団ができていた。



カワハギも30センチに迫るような大きなものはお目にかかることができなかった。(これは腕と運のほうが影響しているのかもしれないが・・)
これらはすべてここ最近急増しているプレジャーボートの漁獲圧にほかならないのではないかと思えるのである。
たかが一艘でも、それが大量にあつまるとこんなことになってしまう。

僕が年末の真鯛をゲットできなくても、それは腕のせいではなく、漁獲圧のためなのである・・。

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「淀川八景」読了

2022年12月01日 | 2022読書
藤野恵美 「淀川八景」読了

この本は「釣り」というキーワードで図書館の蔵書を検索していてヒットした中の1冊であった。その内容は釣りとはまったく関係がなく、淀川の河川敷を物語の舞台にした8編の短編集である。その中の1編に、「ザリガニ釣りの少年」というタイトルの短編があり、それがキーワードにヒットしたのだろうと思う。
著者は主に児童文学の分野で活躍している作家だそうだが、この本についてはほとんどそういった趣はなく、ウイキペディアの解説のとおり、相当幅広いジャンルをカバーできる作家のようだ。これは単なる偶然にすぎないが、僕の今の勤務地である堺市の出身だそうだ。
児童文学というと、大きな夢と前向きな大志を抱いた少年少女が未来に向かって努力するというような物語を想像するが、この本はもちろん児童文学でもなく、前向きどころか、むしろ主人公たちは内向きで、小さな人間関係に小さな悩みを抱える。
「人と人は分かり合えない。」という、おそらくは誰でもがもっている解決できない問題をテーマにしているような気がする。

8編の物語は、夫婦、家族、友人、または道すがらの他人、それぞれがお互いを分かり合えないことが物語を生む。主人公たちはそれぞれの物語に登場する相手の心がわからないのである。そしてその小さな行き違いに悩む。時には自分自身の心の内もわからなくなることさえもあるのである。
家庭内での母親の暴力から妹を置き去りにして逃げた自分自身が実はその妹の心の支えになっていたこと。父親が再婚した女性との少しぎくしゃくした交流。婚活に焦りながらも本当は誰のために焦っていたのかを知ってしまった自分。淀川沿いを歩いて遡るうちに気付く子供を流産した妻の心の内。思いを寄せていたのは別の同級生であったのだと気づいてしまった映画好きの高校生。いじめられながらももっと違うところにもっと大切なものを持っていることに驚く主人公の小学生。
そんな予想もしなかったことに驚いたり気付いたりする主人公たちなのである。そしてそれはほんの少しのカタルシスでもある。

しかし、その物語には大したドラマチックなものはない。しかし、それもドラマなのである。ハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもなく、主人公たちはこれらの物語が語り終わられた後もそれほど変わらない日常を続けてゆく。それはまた、現実に生きる自分たちにも重なる。それは、分かり合えない人間関係に悩むのがむしろ当たり前なのだと言っているようである。
それはいつも他人の目を気にしてしまうという意味では自信に満ちた生きかたではないのかもしれない。しかし、そっちのほうが普通の生き方なのですよと著者は励ましてくれているようにも思える。

日本のワールドカップはいよいよ瀬戸際の戦いとなっているが、それでも選手たちは自分を、またはチームメイトを信じてポジティブすぎるほどのモチベーションを保っているようだ。しかし、そういった人たち以外のほぼすべての人たちは大きな野望も自己実現も求めることなく不安のなかで生きてゆく。人生とはきっとそういうものなのかもしれないとこの本を読みながら思うのである。

著者はその物語の舞台として出身地に近い大和川ではなく淀川を選んだのか、それはきっと目まぐるしく姿を変えてゆく大都会の端にありながら、そこだけは何ごともなかったかのように佇んでいる風景が、主人公たちのドラマチックではないけれども相変わらず流れてゆく日常に重なって見えたのかもしれない。
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「酔っぱらいの歴史」読了

2022年11月29日 | 2022読書
マーク・フォーサイズ/著 篠儀直子/訳 「酔っぱらいの歴史」読了

年に1回、図書館が長期で休館する。この間はいつもよりたくさんの冊数を借りておかねばならない。
大体の本は新聞やネットでタイトルを探して借りるのだが、冊数をたくさん借りるときや、読みたい本がない時などは書架の間をウロウロしながら面白そうなタイトルを物色したりする。そういったときはある意味、至福のときでもある。
そんなとき、食や酒には興味があるのでそういったワードが入っているタイトルにはつい目がいってしまう。この本もそのようにして見つけた本だ。

この本はよくあるような酒の起源の話ではなくて、飲酒=“酔っぱらう”という行為の歴史が書かれている。遠い昔から世界中の人々はそれぞれ場所で酔っぱらってきたのである。
酔っぱらうということがいろいろなところで歴史を動かしてきた。そういった事実?を拾って集めたというのがこの本である。「?」と書いた理由は後ほど・・。

お酒の起源というと、酩酊状態を通して神様とのコンタクトをするため、すなわち、宗教的儀式をおこなうためであったと思われがちだが、著者はそういった一面もあるのだろうが、それは後から生まれたもので、元々の起源は、単に酔っぱらいたいからであったと考えている。
そもそもアルコールを人間が摂取しはじめたのは腐った果物を食べたことから始まる。それは人として意識をもつずっと前からのことに違いない。だから宗教的儀式も酔っぱらいたいがための後付けにすぎなかったのではないだろうか。人は酔っぱらいたい、だから酒がいっぱいあると人は集まってくる。ひとが集まってくると布教がしやすい。布教をしやすくするために教会にお酒を用意する。酔っぱらえるのなら信心もしてみようか・・。そういった流れがあったのかもしれないと読めてくるのである。
宗教だけでなく、政治の駆け引き、権力闘争も酔っぱらう中でおこなわれてきた。とにかく人はいつも酔っていたいのだから。
ギリシャ時代やエジプトの時代のように、国家の構造がそれほど複雑ではない時代は酔っぱらいながら政治をやってもたいして市民の迷惑にはならなかった。
しかし、時代が現代になり、例えば、オランダで生まれたジンはイギリスに入り、下層階級の人たちにたくさん飲まれるようになったとき、酔っぱらって法を守らない貧困者に困った為政者たちがおこなった政策がこういった人たちを別の大陸に棄民することであり、そうして生まれたのがアメリカとオーストラリアだった。
アメリカでは飲酒が嫌いというか、サルーンと呼ばれた酒場が嫌いな婦人たちによって禁酒法が生まれ(た。とこの本には書かれていた。)、偶然かどうかはわからないが、禁酒法が施行されていた間に世界恐慌が起こり、その世界恐慌が禁酒法を終わらせたと同時に女性の地位が向上したという。
ロシアではニコライ二世が禁酒の方針を出したことが原因で(と、この本には書かれていた。)ロシア革命が起こり、共産主義国家のソビエト連邦が生まれた。しかし、その共産主義もペレストロイカの影響でインフレが進みアルコールの価格も暴騰したことがその共産主義の終焉の引き金になった。(と、この本には書かれていた。)
また、スターリンは恐怖政治の武器として酒を使ったという。政治局のメンバーを毎晩夕食に招き、酒をいっぱい飲ませて口を軽くさせて相手が何を考えているかを探ったという。近代においてもお酒は権力闘争に使われていたということだ。

そういえば、文明を持つまえから酒が大好きであった人類はそれなのにたびたび酒を禁じてきた。禁酒法しかり、ロシアでの数々の禁酒の政策であった。オーストラリアでも当初は飲酒が禁じられていたという。ドライな地域というのは実は多かった。しかし、そういった政策は長くは続かなかった。
その最たるものがイスラム教であろう。しかし、コーランにはワインは祝福されたものの飲み物であると書かれていたという。
しかし、時代を経るにつれ酒を禁忌するようになる。『あなたがた信仰するものよ!強い酒、賭け事、偶像、占い矢は、悪魔の手による業に過ぎない。それらを退け、よきことを成しなさい。』というように変わっていく。これは、ムハンマドの信徒たちのあいだで酔いが原因の喧嘩が絶えないようになってきたからだという。
コーランには、『酔っているときは祈るな』とも書かれているそうだが、それほどかなりの時間当時の人は酔っていたことになる。が、混じられているにもかかわらず、その後の時代にも様々な飲酒の記録が残っている。一般人は薬ということにして、またスルタンたち権力者は自宅の奥のほうで酒を飲み続けた。(らしい。)ワールドカップを開催しているかの国においても、外国人ががぶがぶやっているのを横目で見ながら現地の人たちが我慢し続けることができるわけもなく、何かと言い訳をしながら飲んでいるに違いない。規則は破られるためにある。

そのほか、各国の飲酒の歴史、それは禁止と解放の繰り返しでもあるのだが、おそらくは正史とされているようなものとはかなりかけ離れているように見える。もちろん、これはまったくのウソではないのだろうが、それはきっとその歴史の記録をどう読んだかという違いなのだろう。はすかいに読むとこうも読めるという感じだ。別の書き方をすると、それは“信用できない”となる。それは、エピローグの最後の文章にも表れている。『----それは未来でもある。現在からはるか先のいつか、チンパンジーが醸造所を乗っ取り、ゾウが蒸留所を占拠し、パブが恋わずらいのミバエで満席になった日には、人類は地球上で最後の一杯をくいっと飲み干し、千鳥足で宇宙船へ転がり込んで、この小さな岩のボールをあとにすることだろう。素晴らしい旅になるだろう。大気を突き破って地球を離れていくわれわれを神々が応援してくれるだろう。-----どこへ向かうのか私は知っている。いて座B₂Nだ。それは2万6000光年も先にある分子雲だから、旅を始めた者たちがたどり着くことはないだろう。幅は150光年、質量は太陽の300万倍。想像できないほど巨大な、自然発生した宇宙アルコールの雲だ。そしてそこにおいて我々は、無の底でとうとう、なぜなら人間であるがゆえに、宇宙的規模で酔っぱらうのである。』
まあ、こういったお話を他人にするときには、相手も自分も酔っぱらっていることを確かめてからにしなさいということだ。
ただ、こういったちょっと知的で、本当ともウソともわからない話をすることができる人というのは最も尊敬できる人でもあるのだとも思えるのである。そして、酒場での会話というものはこういったウイットに富んだものが最上であるとも思うのである。
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「迷わず書ける記者式文章術:プロが実践する4つのパターン」読了

2022年11月23日 | 2022読書
松林薫 「迷わず書ける記者式文章術:プロが実践する4つのパターン」読了

僕がブログを書き始めたきっかけというのは、以前にも書いたことがあるが、釣りの記録と読書の記録の忘備録としてであった。釣りについてはいつごろどんな釣り方で何を釣ったかというのは次の年の釣りに多少なりとも役に立っている。また、読書の記録というのは、以前に読んだことがある本なのにそれを知らずに最後まで読んでやっとそのことに気付くというようなことがないようにということと、高校時代に書いた読書感想文があまりのひどさに赤面ものであったというトラウマをなんとか克服したいという思いであった。


もう、1000回以上もブログを書いているが、いつもなかなか考えがまとまらず、何かを書くということは何かを伝えたいという思いが少なからずあるはずなのだが、釣りでも読書の記録でも「これを伝えたい。」ということがはっきり書けない。
例えば11月12日のブログ。トピックスとしてはイソメを買うのを忘れたこととラインで指を切ったことだが前半と後半を読み比べてみると、「こいつはどちらを強調したかったのかがわからない。」ということになってしまったと自分でわかるのである。
10月1日の釣りでは、ジギングであんなに大きな魚を釣ったのは初めてで、その強烈なアタリと引きは自分の中では感動ものであったのだが、あとから読み返してみるとそういうところがまったくない・・。
もっとこう、自分が読み返してもわくわくするような文章を書きたいと思いながら図書館の中を歩いていると、「小説の書き方」のような本を見かけるが、小説並みのブログを書く能力はないということはわかっているなか、この本を見つけた。

著者は元日本経済新聞の記者だったそうだ。その経験を基にして文章を相手にわかりやすく、しかも素早く効率的に書けるという方法を解説している。
その方法のひとつは、タイトルのとおり、4つの文章構成のパターンを駆使するということで、その手法がメインになっている。
その他、一文当たりの文字数、読ませどころの設定法などが書かれている。
一番のポイントである4つのパターンはこういうものだ。
① 逆三角形
  重要なことから順に説明していく方法。ニュース記事やプレスリリースなどに使われる。
② 三部構成
  序論、本論、結論の三つのパートに分ける方法。見解とその根拠を示す必要がある論説や解説を書くときに適している。
③ 起承転結
  冒頭で読み手の気を引き、最後まで飽きさせないことを目的とした展開のしかた。コラムなどの短めの「読み物」を書くのに適している。
④ 起承展転結
  起承転結の応用で、ルポルタージュなどの長めの「読み物」に使われる。

新聞記事ではこういう文章構成を基本に、一文当たり40~60文字で書いていくそうだ。逆三角形パターンでは重要な部分ほど先に登場するので必要ならば後ろの部分をカットして記事の長さを自由に調整できるという。三部構成や起承転結パターンでは序論や、本論、起、承、などのパートをモジュール化することで複数の記者でひとつの記事を仕上げるという離れ業さえおこなっているそうだ。
朝のあわただしい時間に読むものだから、ほとんど読み飛ばすか、ただ眺めているだけになってしまっているが、そんな高度なシステムで作られている新聞はもっと尊敬しながら読まねばならないと改めて反省するのである・・。
読ませどころの設定としては、①知らなかった知識を得る。②予想や常識を覆される。③別々の要素がつながる。ということが大切だそうだ。読み手にとって、「新しいことを知る。」、「新しい視点を得る。」ということが面白い文章になるそうだ。
釣行記だけでは面白くはないと、帝国軍が登場したり、ばら積み船を宇宙戦艦ヤマトに見立てたりしているのだが、これが新しい視点といえるのかどうかはわからないものの、何かのアクセントにはなっているのではないかと思っている。しかし、これらもすでに何度も使っているネタなので新しいネタを組み込んでいきたいのだがそういったものも見つけていかねばならない。

もともと、自分のために書いているとはいえ、ネット上にアップしているということで、こんな駄文を読んでくれている人たちもいるわけで、少しは笑ってもらったり、ときにはうなってもらったりもしてもらいたい。
新聞記事風の文章は簡潔にしかもきちんと伝えるべきことを伝えることができると思うが、そういう意味ではもう少し読み物としての要素も取り入れたいと思ったりもしている。一応、これでも、遠い過去だが、ちょっとした感想文を新聞に取り上げてもらったこともある。



師は自分の文章術について、読者の心に響くような一元半句さえあればよいということを語っていた。この記事の感想文にも、およそ釣りにはまったく関連性がない“ハシゴ”というような言葉を意識して使ってみたことが採用してもらえた要因かと自分では思っているが、毎回書くたびにそういった一元半句を求めているのだがそれがなかなかうまくはいかないのである。

毎日始発で出勤するようになり、ブログを書く時間がどんどん少なくなってきて、もっと短時間で目標の3000文字を書きたいと思っている。この本を読んで実践することでその能力が身に付くだろうか・・。
一応、このブログも起承転結パターンを意識して書いてみたが、うまく書けているかどうかはわからないし、目標の3000文字には程遠い文字数で今回も終わってしまった。
僕の文章修業はまだまだ続きそうである・・・。

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「世界を変えた100のシンボル 上」読了

2022年11月17日 | 2022読書
コリン・ソルター /著 甲斐理恵子/訳 「世界を変えた100のシンボル 上」読了

この本のカバーの裏にはこんな言葉が書かれている。
『このマークはなぜこういう形なのか、どのように生まれたのか?よく知られた記号、サイン、シンボルを整理し、それらの起源や作られた経緯などを詳しく見てゆく。
アイデアの源泉となるヴィジュアル・レファレンス。』
たしかに世の中にはマークやシンボルというものがあふれているように思う。マークというと、道を走ると交通標識、駅にいくとピクトグラム、パソコンの画面にもいっぱい出てくる。文字で書けよ!!とも思うが、こういった記号のおかけで、貿易や海外旅行を阻んでいた地形や言語の壁はなくなったとこの本には書かれている。確かにコツさえわかれば言葉はわからなくても記号ならここには何があるとか、ここでは何をしなければならないかということがわかることもある。
また、「シンボル」でいうと、それを使う目的というのは、物事の解説、方向の指示、特徴の説明、そして明確な警告を混乱なく伝えることである。シンボルの解釈を間違えたら、命を落とすことにもなりかねず、自分たちがどんな場所や集団に属しているか、どこへ行こうとしているか、そこに到着したら何をすべきか、もしくはしてはいけないかを知る手がかりなのである。

ヒトというのは、唯一、実体のない虚構の存在を信じることができる生物だそうだ。そうすることで集団を維持、発展させてきたという。太古からは神話、貨幣、国家というようなものが信じられ、その延長線上にシンボルというものがあるのであろうと思った。
様々なシンボルが人を束ね、人を区別してきた。

上巻のこの本には100のシンボルのうち半分の50が取り上げられている。
印象に残ったもののひとつは十字だ。十字といって思い浮かぶのはキリスト教のシンボルとスイスの国旗であるが、この十字というマークはキリストが生まれるはるか前かヒトが使っていたスンボルダそうだ。確かに簡単に描けるというとこの上ないほど簡単に描ける。
だから文字というものを知らなかったころの人類もお手軽に描けたのだろう。
それはエジプト時代のアンク十字という象形文字から始まる。



なんとも十字には見えないがこれも十字だそうだ。ファラオに与えられた魔よけの意味があったらしい。
本家と思われる、キリスト教が十字をシンボルとしたのは紀元4世紀ごろというのだからキリストが磔にされてから相当後のことだったらしい。主とあがめる人が処刑されたものをシンボルとするというのには当初、抵抗があったという。
そのほか、十字のバリエーションにはロレーヌ十字という横に2本線が入った十字や8個の頂点をもつマルタ十字というものもある。

 

これはどう見ても十字とは言えなさそうだが、やはり起源は簡単な十字のマークだそうだ。
これらもすべてキリスト教が起源になっている。特にそれぞれの時代の十字軍やキリスト教系の騎士団がシンボルとした。

そして、もうひとつの十字というと赤十字だが、これはもともと永世中立国であるスイスの国旗からヒントを得て赤と白を逆転させて考案されたものらしいが、これはきっとキリスト教の思想が含まれているというのでイスラム国家からは不満が出て、今では赤十字と赤い三日月(赤新月)がセットで描かれたシンボルを使うこともあるそうだ。



こんなことは初めて知った。ここにも分断と結束の狭間が見え隠れしている感じだ。

また、最近よく見る、Bluetoothの記号だが、これは「ルーン文字」という、聞いたこともない北欧の文字が起源だそうだ。この文字はナイフや斧で木、石、金属に彫られてきたものらしいが、短い直線が彫りやすかったのと、木目に沿って横線を彫ると木が割れやすくなるのでそれがないという特徴がある。確かにBluetoothの記号には横線がない。



くだんのマークは、デンマーク王であった、ハラルド・ブルートゥースの頭文字を組み合わせたものらしい。なんでそれがデバイスの接続のシンボルになったのかというのは、この人がデンマークを統一したというところから来ているらしいが、別にデンマークでなくてもよかったのではないかと・・。
ちなみに僕のパソコンのBluetooth機能は突然ダウンし、それ以来このマークは僕のシンボルから脱落してしまった・・。。

「プリムソル・ライン」というのも面白い。



これがシンボルといえるのかどうかはわからないが、大型船には貨物を乗せた時に喫水の限界を示すラインが引かれているらしい。今まで撮りためた画像では確認できなかったが、舷側にこんなマークが書かれているということだ。
無茶苦茶な積載で船の運航の危険がないように監視するためにかかれているのだが、これはプリムソルという人物の必死の努力によって乗務員たちの安全を守った証だそうだ。
この画像を探している最中に、こんなマークを見つけた。



これは、「この船はバウバルバス構造になっている。」というマークだそうで、これも接近する小型船に対する衝突防止のためのマークだそうだ。何気なく見ているマークにもすべて意味があるということなのである。

だから、そういった意味のあるシンボルやマークがないとリアリティに欠けるというのがスターウォーズを観ているとなんだかよくわかる。スターウォーズという映画は、世界中の神話や歴史の故事を研究してストーリーが創られたというが、帝国側にも反乱軍側にもそれぞれの属性を示すシンボルというものが見当たらない。唯一垣間見えるシンボルもなんだかよくわからなくて、少なくとも地球上の歴史の中で感じられる宗教やイデオロギーとはまったくの無関係のように見える。



確かに、これを何かを連想させるようなデザインにしてしまうと世界のどこかでは映画を売ることができないという事態になってしまうのだろうが、それがかえってリアリティを失くし、ファンタジーになってしまっている。ここにも分断と結束の狭間が見え隠れしている感じだ。

それほどまでにシンボルというものは必要不可欠であると同時に恐ろしくもある。
日本人も家紋というものに縛られてきた。お家のために生きるというのがお上になんでも従うという国民性を作ってしまった。
下巻ではそういったものもとり挙げられているのだろうか。

小さい頃から、こういった「シンボル」の元に集うというのが苦手だった。制服しかり、草野球でもおそろいの帽子を被るのが嫌で仕方がなく、就職してから職場で無理やり作らされたユニフォームにも辟易していた。どうも集団に属するということに窮屈感を感じるのだ。かといって自分で何もかも完結できるほどの能力も心の太さもない。そうなってくると僕は人間としての基本的な本能に欠けていると思えてくるのである・・。
やはり仲間は欲しいしその仲間は頼りになるし僕も頼りにされたい。SNSの仲間たちとともに海上でお互い識別できるようにフラッグとステッカーを作ったが僕はほとんど掲示をすることはない。



これに限っては集団に属するのが嫌なのではなく、それを掲示することによって、帝国軍に自分を識別されてしまうことが恐ろしいからなのである。心の中にはシンボルを持っているのである・・。
だからこれでも若い頃に比べると少しは人間としての本能を回復しつつあるのではないかと思っているのである。
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