イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2019年01月30日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:長潮 3:55満潮 7:44干潮
潮流:6:05転流 8:55 下り1.4ノット最強 11:41転流
釣果:真鯛1匹 サゴシ 1匹

今日は潮が悪いけれども天気はすこぶる良い。



 

今月の前半は休日の前後の天気がよくてピンポイントで休日が強い冬型の気圧配置であったけれども、一昨日と今日は連続で穏やかな天気になった。
ただ、こんな日は放射冷却とやらで朝はあいかわらず驚異的な寒さだ。今日の午前6時の和歌山市の気温は0.9℃。これはもう、海の上では体感温度は氷点下だ。寒さが少しづつつのってきた年明けから、この冬もやっぱり足の指先にしもやけが現れてきた。980円の長靴では防寒効果がまったくないようだ。ただ、これがかさぶたになってポロっと剥がれ落ちると春になる。それを待つ楽しみもあるというものだ。





潮流の時刻を見ると、ロスタイムを含めて今日の勝負は午前9時半までだろう。
下りの潮なので非武装ポイントを目指して田倉崎を北上すると帝国軍軍港前からかなりの反応が出ている。そして地の瀬戸の手前あたりに少しだが船が集まっていた。完全に帝国軍の勢力圏内だが、同盟軍の船も混ざっていたので敵の活性も低いとみてここで釣りを開始。時刻は午前7時。
今日もプロトタイプの仕掛けでスタート。
すると間もなくかなり上層で魚がヒット。わりとすんなり上がってきたのはサゴシであった。すでに時合にはいっているであろう時刻だ。それから30分くらいしてからだろうか、次のアタリで上がってきたのはそこそこ大きな真鯛だ。
タイムリミットまではまだ時間がある。あと1匹が欲しいと地の瀬戸の上下を行ったり来たりしてみるもその後はまったくアタリがない。
午前9時半になったのでカワハギ狙いに変更。前の休みに近所のスーパーを覗くとアサリが半額で売っていたので買っておいたのだ。帝国軍軍港前から田倉崎にかけて船を流してみるけれどもたまにアタリがあってもササノハベラしか掛かってこない。一気に場所を移して北港釣り公園の沖に移動してみた。



去年の台風以来閉鎖されているのでひょっとして魚の楽園になっているのではないかと気になっていたのだ。護岸ギリギリで仕掛けを下してみるがすぐに根掛かりをしてしまった。
すでに獲物はあるのであっさりとあきらめて帰港。(アサリがエサだけにアッサリと・・)

家に帰ると昼食の時間のはずだがなぜだか僕以外の家族が外出しようとしている。どうも母親の具合が悪いらしい。2年前にも軽い脳梗塞を起こしていたので再びかとあわてて近所の医師のところに行くところであった。早めに帰ってきてよかった。僕も道具も洗わずに着替えだけしてすぐにあとを追いかけた。医院では詳しくはわからないのでそのまま医大病院へ。



結局、救急外来でも詳しくはわからないので明日また脳神経外科で検査をしなければならない。まあ、家に帰らしてくれたのだからあまり大したことはないのだろう。

昨夜は帰宅が遅かったので夕食を食べなかった。朝はいつものスーパーで買った半額のパンをひとつ。お昼はそういうことで食べそこね、約30時間ぶりにまともな食事をしてやっと一息。
今日も慌ただしい1日であった。

100均をウロウロしてまたまた新しいグッズを見つけた。安めの防寒着では腕から浸み込む寒さもかなりひどいもので、なんとかいい方法はないものかと思っていたのだ。これは風を通さなくて空気の層を作ってくれるのでちょっとは快適な気がする。脛あてにアームカバーとどんどんみすぼらしいコスチュームになっていくけれども、船の上ではひとりなのでまあ、なんでもいいや。安くて快適なら。



次は何を探そうかしら・・。
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水軒沖釣行

2019年01月28日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 5:07干潮 11:32満潮
釣果:コウイカ 2匹 コチ 1匹

今年は希に見る暖冬で、僕の仕事場は四苦八苦なのだが、ここ数日、グッと気温が下がってきた。なかなか朝起きるのが億劫なのだけれども冬型の気圧配置が緩みそうだとなると行かねばならない。何といってももう、20日近くも船での釣りに出ていない。



今日の獲物はコウイカだ。

今日の和歌山市の午前6時の気温は1.4℃。う~ん、やっぱり寒い。三輪車で港に到着したときにはすでに手の指の感覚は完全に麻痺してしまっていた。
不機嫌なエンジンをなだめすかしながら沖を目指すとこの時間帯はほぼ無風状態だ。これで大分体感温度が違う。



まずは作業船が入って来る前の時間を狙って新々波止と沖の一文字の交差点付近からスタート。すると、仕掛けを下してから5分ほどでヒットした。午前7時。
かなりの大型だ。相当引く。最初はモンゴウイカかと思ったほどだ。すぐにアタリがあったので今日はひょっとして大漁なのかと思いきや、それからアタリがない。新々波止に沿って沖に向かって移動をしてゆくけれどもアタリがない。
午前8時半ごろ、新々波止の一番地方の切れ目跡の沖に入ったときに久々にアタリがあった。これも大きい。これだけ大きければ、叔父さんの家に持って行っても大丈夫だろうと思うととりあえずホッとした。あとはゲソの天ぷらを目指してもう1匹と思い残り15分頑張ろうと仕掛けを入れると三度アタリ。今日は3ヶ月に1回の整形外科への受診の日なのだ。叔父さんの家に持って行くとなると、ひょっとして野菜がもらえるかもしれないという収穫の時間も考慮すると午前8時45分がタイムリミットなのだ。
今度も大きい。よしよしとリールを巻いているとどうもイカではなさそうだ。水面下に見えたのはコチだ。今年はコチが多いのか、これで今シーズン3匹目だ。これはこれで美味しいのである。かえしのない鉤なので糸を緩めることができない。一気に船の中に引き上げるとスッテの鉤はこのとおり・・。よくぞ最後まで頑張ってくれたものだ。



今日も叔父さんの家で野菜を山のように持たせてもらい、病院へギリギリインタイムで滑り込み。

 

今日も慌ただしい1日だ。



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「鯖 サバが好き! 旨すぎる国民的青魚のすべて」読了

2019年01月21日 | 2019読書
全日本さば連合会(全さば連)/監修、池田陽子 (サバジェンヌ)/著 「鯖 サバが好き! 旨すぎる国民的青魚のすべて」読了

タイトルが面白そうだったので手に取ってみたけれども、以前に読んだ、「サバの文化誌」のような内容を期待していたのだが、全編にわたってサバ料理の出る店やブランドサバの紹介など、カタログ紙のような内容で少々がっかりしてしまった。
監修している、「全日本さば連合会」という団体のメンバーを見てみると、確かにグラフィックデザイナーや広告代理店の社員などマスコミ、広告関係の人たちばかりだ。食文化や歴史、宗教などの研究者のような人たちはまったくかかわっていないのだから僕の期待が外れるのも仕方がない。
せめて珍しい料理法のレシピでも出てこないかとページをめくったけれどもこの本に関係する人たちは自分の手を使うのではなく、お金を払って出来上がったものを食べるだけの人たちだったようだ。
まあ、よく考えれば、食材としてのサバは鮮度の維持が大変だ。新鮮なものを手に入れて料理をしようとすると、自ら釣りに出るか漁港で待ち構えているかしかないのだからそれも仕方のないことか。だからサバ缶しか出てこないのだ。僕の期待の方が大きすぎたようだ。

ただひとつ良い点を上げるとするならば、中身があまりないあまり、すぐに読みきることができたことだ。この本は1月19日の帰宅の電車の中から読み始めたのであるが、この日、JRではまたまた人身事故が発生した。僕の乗った電車が和歌山県との県境まであと10分ほどというところだっただろうか、前を走る列車が人身事故を起こしたというアナウンスが流れてきた。



今週は14日に次いで2回目だ。ひとがひとを呼ぶのか、こういうことは連鎖する。年末なんかとくに多くなるような気がするのだが、年を越えてのこの時期、連鎖というのはあまり記憶がない。どちらにしても迷惑千万で、アンガーマネージメントというのは大切だとは思うけれども湧き上がってくる怒りと落胆をコントロールしてそれをあっさり手放すことができない。誰かに文句を言おうにも言っても仕方がないとわかってはいるのだが・・・。
地下鉄の駅に到着するのがあと30秒早ければ僕はもう1本早いJRに乗ることができてこの事故が起こる前に現場を通り過ぎることができていたと思うとその怒りが余計に増幅してくるのだ。

ここまで来てしまっていると振替輸送を利用するのにはまた天王寺方面へ戻らねばならない。相当時間をロスするけれども、前回は待とうと決めてよけいに帰宅が遅くなってしまったことを考えて遠回りを決めたのだけれども、それが裏目に出てしまったかどうか、結局、帰宅まで合計約4時間もかかってしまった。



その間に1冊全部読みきってしまってまだ時間が余ってしまった。
僕もサバをこよなく愛する人間のひとり、だからこそもっと読み応えのある内容を期待したかった。
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「江戸前魚食大全 日本人がとてつもなくうまい魚料理にたどりつくまで」読了

2019年01月20日 | 2019読書
冨岡一成 「江戸前魚食大全 日本人がとてつもなくうまい魚料理にたどりつくまで」読了

来年は東京オリンピックというのでテレビも新聞も東京ばかりがとりあげられている。NHKスペシャルも「東京ミラクル」、正月の特番ドラマも「家康、江戸を建てる」だ。
なんで東京ばかりやねんと思いながら僕も東京の魚食文化の歴史についての本を読んでみた。

魚の流通といえば築地の中央卸売市場だが、あそこは関東大震災のときに日本橋にあった魚河岸が移転してきたものだ。その魚河岸の発祥というのが、将軍家に魚を献上していたご用達の網元たちが残った魚を売りさばくために立ち上げた市場であった。そして、その御用達という人たちは徳川家康が摂津だから大阪市北部あたりの佃という在所から呼び寄せた漁師たちであったそうだ。

食材としての魚と言うのは管理が大変だ。人口が少ないときには江戸湾内で漁獲で十分まかなえてはいたけれどもそうも行かなくなってくると、房総や相模からも流通させなくてはならなくなってくる。本来、貨物の流通は治安取り締まりのために、中継地点を設けて江戸市中に直接入らないように管理されていたそうだが、魚ではそうも行かないので特別な鑑札をもって一気に魚河岸まで運んでいたそうだ。それを「通し馬」制度というのだが、それでも鮮度は落ちる。とくに脂の多い魚は足が速い。マグロは下魚であったというのは鮮度が保てないという理由であった。そして、魚の保存のために生まれたのが塩蔵や干物、佃煮の文化なのである。
市場が大きくなって仲買業者が増えてくると新規参入も増えてくる。そこで威勢を放ったのは大和屋助五郎という奈良出身の仲買商であった。助五郎は真鯛を生かしたままストックして必要なときに必要なだけ将軍家に献上できるシステムを作ったことでのし上がってきたそうだ。
漁獲のいろいろな方法を関東に伝えたのは紀州をはじめとした関西の漁師たちという話は有名だが、この真鯛の蓄養についても、沖で上げた真鯛の空気抜きを発明したのも紀州の漁師だったそうである。助五郎もそういう人たちのひとりである。

そこはもう、お上の威光を背にした特権組と外部から入ってきた新興勢力とのせめぎ合いと覇権争いの世界であった。
時代は下って明治からは軍事目的のため、それからの高度成長を支ええるための海浜の埋め立てによって江戸前の漁業は成り立たなくなり、昭和37年12月に東京湾の漁業権はすべて放棄されたそうだ。


江戸では鮨、うなぎ、天ぷらなど様々な食文化が花開いてゆくわけだけれども、うなぎの蒲焼というのは、「江戸前」という言葉の発祥となったほど、最初は高級料理(というか、こだわりの強い)料理であったが、鮨や、天ぷら、懐石料理というのは振売や屋台といったところで庶民が食べる気軽な食べ物であったものがどんどん格式が高くなっていった。今でも蒲焼の専門店に行くとそこそこ格式が高いのだろうがほとんどのお店は座敷まではなかなか用意をしていないだろう。そう考えると、うなぎは上から下へ降りてきて、鮨や天ぷらは下から上に上っていった料理のようである。

漁法しかり、魚河岸のシステムを作り上げた人々にしろ、そのほとんどが京や大阪の上方が由来になっていることがよくわかる。料理にしても、鮨の起源は琵琶湖だし、うなぎを開いて食べる方法も関西からだ、天ぷらも上方から駆け落ちしてきた大阪商人利助と芸妓が京で流行っていた料理を屋台で始めた料理が最初だそうだ。
江戸ではそれに磨きをかけてまた改良を加えて自らの独自の文化にして仕立ててきたのだが、たまたまこの本は魚にまつわる話で、恐らくは農業にしても芸術にしてもその他諸々もとは外部、特に上方の影響を色濃く受けていそうだ。そしていつの間にかオリジナルの方をはるかに追い越してしまっている。
じゃあ、そこがどうして江戸だったのか。幕府が開かれたのが江戸であったというのはその大きな理由だろうけれども、政治の中心と経済の中心が別の都市になっている国はたくさんある。
歴史にはまったく疎いのでまったくの想像であるけれども、徳川家康は秀吉に遠ざけられて江戸に転封された。その頃は江戸の町というのはほぼ荒地しかなかったそうだ。(と正月時代劇では言っていた。)こういう人が大逆転して天下を取ったという例は多分世界中見ても希なのではないだろうか。
正月時代劇では、市村正親が、「ここを日の本一の都市にしてみせる!」と言っていたのだが、その根底には、自分をこんな辺鄙なところへ追いやった秀吉、それに加えて京や大阪への恨みがあったのは間違いがないだろう。多分、その執念が江戸を巨大化させ、日本のすべてのものを吸い寄せるブラックホールにしてしまったのではないかと思うのだ。

何かにつけて、東京一極集中ということが話題になるけれども、きっとそれは関西の文化圏から弾き飛ばされた家康の怨念とあきらめ、なんのことはない、すべての下地はこっちにあるんだと言って少しだけ溜飲を下げてみるのが負けたほうの生き方なのだろうと思うのだ。
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青岸退散

2019年01月17日 | Weblog
1月3日の天気よりもマシではないかと船を出してみたけれどもやはり冬型の気圧配置には打ち勝つことができなかった。
一文字の切れ目から出るのはちょっと危険かと思い、青岸から加太を目指そうとしたけれども、白灯台を越える前にすでに風と波が強くなってきた。



これは無理だと即退散を決意して港に引き返してしまった。結局エンジンは2000回転も回ることなく航行時間もわずか20分ほど。
帰り道はちょうど通勤ラッシュ。まったく何をしに来たやら・・。まあ、これはよかったというのは、この前の休みに舵の心棒にグリスを塗っていた効果を確認できたことくらいだろうか。



帰り道、いつものスーパーでアイスクリームを買いこんで、家に帰ってから定期的に通っている歯医者さんへ行って今日は終了。



ボウズの比率が上がらないように、今日は釣行日としてはカウントをしないでおこう・・・。
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大引釣行

2019年01月15日 | 2019釣り
場所:大引 アシカの親
条件:長潮 5:49干潮 12:36満潮
釣果:ボウズ

先週の連休に行けなかった冬の磯釣りに出かけてきた。
しかし、今回もアクシデントから始まった。できるだけ早く帰宅してゆっくり睡眠をとってから出発しようと思っていたのになんともJRは今日も人身事故で運転見合わせ・・。駅についた時点であと30分ほどで運転再開というアナウンスがあったので振替輸送を使わずに待っていたらそれから1時間も駅で待たされてしまった。警察が現場検証をやり直しているってどういうことだ。飛び込む人もいろいろ事情があるのかもしれないけれども、困りものだ・・・



それでもあきらめずに今日は大引へ釣行。前回大引に行ったのはいつだっただろうかと過去のブログの記録を探してみても出て来ない。それより以前は手帳に記録を付けていたのを思い出し探してみると、2003年9月16日が大引への釣行の最後であった。じつに15年半ぶりの釣行だ。15年前というけれども、船頭はなんだか当時のままの顔をしている。田辺の渡船屋の船頭もそうだが、あの仕事をしている人たちは歳をとらないのだろうか・・。

そんなことはどうでもいいのだが、今日は昼過ぎから雨の予報だ。それまでに何とか釣果を得ようと頑張ったがあえなくボウズ。
せっかく準一級の磯に乗ったがだめだった。



朝のうちは風も穏やかで潮もゆっくりながら流れていてなんだか釣れそうな感じだったけれども、

 

午前9時を過ぎた頃には東からの風がかなり強くなってきた。そして電車は遅れるけれども雨の降り始めは予定より早くなってしまった。午前10時半にはポツポツしはじめた。
今日は同じ磯にもう一人釣り人が乗っていたのだが、全然アタリがないというので早々と磯変わりをしていったのであとは僕ひとり、多分常連であろう釣り人が釣っていた場所だからきっといいポイントだろうと考えて釣り座を変更。そこから2回ほどフリーにしたリールから道糸が引き出されていくアタリがあったけれども鉤には乗らず。雨は強くなってくるし、今日は気温が少し高いとはいえ雨に濡れると寒くてしかたがない。とりあえず午後2時までは頑張ろうと仕掛けを打ち返しているとやっと鉤に乗るアタリが出た。そこそこ大きかったので期待をしていたが、上がってきたのは残念ながらシマフグだ。



これ、食べると美味しいけれどもさすがに素人には手に負えない。僕の鉤の他にもう一本鉤が刺さっていたのでそれも取り除いて放流してあげた。なんだか、動物の手当てをしてあげて放してあげたあとでご利益がやって来たみたいな童話があったなと、きっとあのシマフグは大きなグレを連れて帰って来てくれるだろうと思ったけれども、そんなに世の中は甘くない。ちょっと早い目に迎えの船がやってきて今日は終了。
ほかの磯ではそこそこの釣果があがっていた。まあ、場所の選択というのもあるけれども、どちらにしても下手なものはしかたがない。それを甘んじて受け止めなければならない・・。

今日の釣行を大引に決めた理由は近くで済ましてしまおうというのともうひとつの理由があった。それは醤油を買うためだ。御坊には堀川屋野村という醤油蔵がある。発酵学者の小泉武夫が絶賛し、「美味しんぼ」にも取り上げられたことがある蔵だ。この醤油はさっぱりした味で刺身の味を妨げないので魚の味を最大限引き出してくれる。だから僕も20年来常備してきたのだが、これを置いてくれていた市内のスーパーが倒産して手に入れにくくなった。高速道路が田辺までつながる前は地道を走って高速に乗る前によくここに買いに来ていたのだがそれ以来これもまた10年ぶりの訪問だ。



大引からは由良峠を越えて御坊に入るのだが、このルートも懐かしい。それはまだ社会人になって間なしのころ、今は亡き当時の上司とこの道をよく走った。その頃は高速道路が湯浅までしか通じておらず、田辺の磯までは水越峠と由良峠を越えて印南~南部~田辺へと向かっていた。釣りに行くときの前の日は必ず週末の模様替えで残業してからになる。上司は奈良市に住んでいたので家に帰って寝ないで和歌山までやってくる。それから僕の車に乗りかえて田辺に向かうのだが、船が出るまではかなりの時間がある。小さいけれどもものすごく馬力のある人でずっと寝ないのだ。で、道中の暇つぶしになにをやるかといえば、峠の途中の無人ドライブインで2時間近くテレビゲームをやるのだ。

そのゲーセンも潰れてしまって久しいようだ。



時の流れは残酷だ・・・。


帰り道は御坊から高速度道路を使うのであるが、今の車は貨物のくせにオートクルーズという機能がついている。



ハンドルのボタンを押すとその時の速度をアクセルを放してもずっと維持してくれる。そして親切なことに渋滞が始まると自動的に速度を落としてくれる。前の車は排気量も大きかったので気が付くとすぐに制限速度を超えてしまうほどだったので高速道路の運転は楽なものだったけれども、今度の車まったくの非力な車なので逆に気が付くとすぐに制限速度を下回ってしまう。そんななかでこの機能は便利この上ない。
ちょっと釣行が楽になりそうだ。

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「仕事と日本人」読了

2019年01月12日 | 2019読書
武田晴人 「仕事と日本人」読了

この本の最後近く、まとめのような部分に、現代の経済学は労働の捉え方というのは、「労働」という奴隷の時間を耐え忍んで、「余暇」という人間的な時間を暮らすことである。というのが定説であると書いている。
多くの人が薄々感じながら、もしくは実感しながらもきっとそれをそう思わないようにしようとしてきたものが露骨に書かれてしまっている。という感じだ。
そしてこの本の前半はどうして日本人が「労働」に対してネガティブな印象を持ってしまったかということが説明されている。

労働という言葉がいつごろか使われ始めたか、それは以外と新しく、1888年頃だそうだ。そして、現在のように、電車なり車に乗って仕事場に行き決まった時間に仕事を始めて決まった時間(いつまでも仕事をして決まった時間に帰らない人も多いが・・)に家に帰るという労働パターンが庶民にまで(城勤めの武士などはすでにそうであったが、)広がったというのもそれほど古いことでないらしい。
労働とは、「骨折り」というイメージから、仕方なくやっているイメージでできれば忌避したいものであると認識される。そしてマルクス経済学では労働者はその労苦の引き換えとして生活の糧を得るとしているから余計にそのイメージが大きくなる。しかし日本人は“勤勉”と言う名の元に余暇とのバランスを省みず長時間労働に励んできたというのが近代日本の歩んできた道だった。

本来、余暇と労働というのは、労働時間が短く余暇の時間が長いほど人間にとっては効用は大きくなるはずなのである。労働に費やして消費が増えることによる効用と余暇で得ることができる効用との均衡点が最善であるけれども、日本人はそれを超えてまで労働してきた。それはまるで余暇をおカネで買い取れるがごとくであった。
明治初期のような労働哀歌のような世界ではなくなったけれども、相変わらず労働者は時間と効率に縛れてがんじがらめになってしまった。

というのが前半の話で、後半では労働に費やす時間の問題に多くの部分を割いている。日本人は諸外国に比べると非常に労働時間が長いと言われているけれども、どうしてそうなったかということを近代の歴史の中で見ている。
ウチの会社もそうであるようだけれども、会社に長く居るひとの方が仕事ができる人というのがなんだか一般的な認識のようである。こうなってしまった大きな原因は、アメリカのように、個人の仕事の範疇が明確にされていないからなのである。確かに、自分はどこまでやっておけばいいのかというのがよくわからない。僕はそれを逆手にとって知らんふりを決め込むのであるけれども・・。
そしてもうひとつの大きな原因が日本特有の終身雇用制度であるという。簡単に社員を解雇できないので残業がその調整弁になったということだ。

時間という資源は限られている。会社から見ると資源だが、個人の側から見てもそれはお金では買えない貴重な資産であるといえる。給料というものは寿命とお金を交換するものであるとも言い換えることができるのではないだろうか。この、“交換”という概念ができあがったのも近代である。それまではひとつの仕事でどれだけのお金をもらうかというプロジェクト的な働き方であったけれども、定時に出社して定時に帰るという制度が出来上がると、働くということが時間とお金を交換するという行為になってしまった。
そしてそこから生まれてくるのが仕事をする意義、もしくはやりがい、そういった精神的な部分と生きるための糧を得るという行為が分離してしまった。
また、「賃金」というとそういうプロジェクトが完成した対価として受け取るものように見えるが、それが「給料」になると文字通り、“料を給わる”という労働者が見下されているような意味合いがさらにネガティブな印象を強くした。
そういう意味では時間が経ったこともわからずに仕事に没頭できる人という、萬平さんのようなひとというのが本来の仕事をしている人であると言えるのだろう。

著者はその「労働」という奴隷の時間を耐え忍ぶのではなく、かつてそうであったであろう、やりがいや他の人の役に立っているという満足感、そして自己実現、そういうものを取り戻さねばならないと説く。それを、“労働の主になる”という言葉で表現している。
現代の労働のすべては労働力とお金の等価交換(等価ではないかもしれないが・・)であって、お金にならない労働は労働と呼べなくなっているけれども、“労働の主”となることによって、等価交換を超えた働き方があるのではないかと結んでいる。
しかし、まあ、それでも、給料をもらわないことにはお米が買えないんじゃないかという問題は残ることになるのではないかとも思うが、それについての言及は最後までなかった。



ネットで読んだコラムに、『若き「ぱぱ社長」の悩み』というものがあった。簡単にまとめると、自分で自分の口を養っている独立自営の父親のもとで育った子供たちは会社のためすべてをささげようという筋金入りのサラリーマンの生活になじめないという。
懇親会や歓送迎会といった非公式の社内行事のいちいちに苛立ちをおぼえ、「どうして給料も出ないのに上司やら部下やらと同席しないとならないのか」、「自腹で説教されるとか信じられない」といい、上司や部下との家族ぐるみの付き合いや、冠婚葬祭にともなうしきたりやタブーといった勤め人の「常識」がわからないというのだ。

これ、なんだか僕にも当てはまるような気がするのだ。僕の父親は社長でもなんでもなく普通のサラリーマンであったけれども、僕の祖父、父親の父親は少なくともサラリーマンではなかった。漁師と箪笥職人の兼業で暮らしていたらしい。らしいというのは僕がものごころついたころにはすでにリタイアをしていたし、どうも漁師と箪笥職人の兼業というのもなんだかピンと来ない。本当にそんな生き方があるのかというのが今でも思うところなのであるが、少なくとも時間と効率に縛られたような生活をしていなかったのは事実だ。そしてそれを見てきたであろう父親も僕が見ていてもまあ、サラリーマン生活にはなじめないような人だった。あまり人付き合いはよくなかったし、釣りが大好きでそれを中心に生活が回っていて、分業というよりもなんでもとりあえず自分でやってしまいたい人であった。
そしてそれを見ていた僕も同じような人生観を持ってしまったようだ。自分でもあきれるくらいよく似ていると思うようになった。
休日でもいそいそと出勤し、いつまでも家に帰らない先輩や同僚に対して、あそこまでよくもやれるものだと尊敬と軽蔑のアンビバレントな感情をずっと抱いていた。

僕はそれに輪をかけてサラリーマン、それも営業職に向かない決定的な弱点がある。地頭が悪いのだ。それは記憶力の無さにつながっている。人の名前と顔を覚えられない。これも人付き合いのよくなかった父親譲りのものなのだろうかとうらめしくなるときがある。

こんなことを書いているのも、今年の春にはもう役職停年になってしまう年齢になってしまった。
おそらくは今年の春には今の職場は別のところに異動になるのだと思う。よくもまあ、30年間もそれを隠して(隠せていたかどうかは疑問だが・・)リストラもされずに乗り切れたものだと思う。僕の芝居が上手かったのか、それともあまりにも会社が能天気でそういうことに目をつむっていてくれたのか、どちらかであったのだと思う。
この本の前半のように、悲しいかな僕も働くということに対しては生きがいではなく、ネガティブな印象を持ち続けることしかできなかった。とくに管理職になってからは一層そういう気持ちが強くなったような気がする。
ただ、そんながん細胞か寄生虫のような人間を生かし続けてくれた会社にはやっぱり感謝をしなければならないんだろうなとは思うのである。(するのは感謝だけなのだか。)
そしてその後の生き方みたいなものも考え始めなければならない頃でもあるのだが、この本の結びのように、今度こそ“労働の主”となって、社会貢献や自己実現につなげたいと思うけれども、結局、地頭の悪さとそれをなんとか努力でカバーしようという勤勉さもないようでは最後まで残り少ない寿命を切り売りして糊口をしのいでいくだけになるのが関の山だと思うと、これから先もなんだか情けない。結局、そんな結論になってしまった。
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水軒沖釣行

2019年01月10日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 9:14満潮
釣果:コウイカ 2匹 ホウボウ マゴチ各1匹

昨日も休みを取っていた。わが社は優しい会社で、半期で2日、リフレッシュ休暇というものを取れる。まあ、もらえると言っても、有給休暇を取るだけのことなのだが、これも働き方改革の一環で有給休暇を取りやすくしようという方針で設けられた。それでもあまり取る人はいないけれども、この時期、磯釣りに行きたいと考えて2連休にしてみた。しかし、昨日は相当強い冬型の気圧配置。とてもじゃないけれども釣りに行ける日ではなかった。ところが心の左端っこのほうでは少しホッとしている自分が潜んでいる。磯での釣りというと、たくさんの荷物を車に積んでと長距離の移動をしなければならない。帰宅も遅くなり、万が一釣果があるとそれも捌かねばならず、洗い物も多い。高速代、エサ代、渡船代かかる費用もバカにならない。そんなことを考えると二の足を踏んでしまうのだ。船の釣りだと荷物も帰ってからの洗い物も格段に少ない。今日は竿1本と発泡スチロールの小さな箱がひとつだけだ。じゃあ、磯釣りに行かなければいいじゃないかというものだが、そこはそれ、やっぱりあの竿先をひったくていくグレのアタリも面白い。
だから、2連休すれば次の日も楽だと考えたのだが、天の神にはそんな不勤勉で邪な心を見抜かれてしまっていた。ちゃんと会社に行きなさいという啓示だったのかもしれない。

結局、昨日は十日ゑびすにお参りして午後からはタチウオ用の竿作りで終わってしまった。

 

えべっさんも人件費の高騰なのかそれとも原材料の高騰なのか、毎年買う小さな熊手の値段が500円から700円に一気に4割増額になっていた。ご利益も4割上がればいいけれども、差額の200円は誰かの懐に収まってしまうだけなのだろう。

そして今日、もとも2連戦を考えていた通り、コウイカを狙っていつものポイントへ行ってみた。しかし寒い。ものすごく寒い。風あまりないけれどももう、気温自体が低い。アメダスのデータでは午前7時の気温は0.4度だったそうだ。
それでもいつものポイントに仕掛けを下すと10分ほどでイカが掛かった。おお、やっぱりいるではないかと一安心。その後すぐ、絶対にイカではないアタリがあり上がってきたのはホウボウ。スッテでも食ってくるのは驚きだ。そしてよくぞハリ外れしなかったものだ。今日のポイントは新々波止の元も切れ目の一番地方に近いところだった。なるべくその場所を意識して船を流すと強烈なアタリが出た。これもイカではない。それもかなりの引きだ。しかしかえしのないスッテではドラグを緩めることができない。幹糸は4号。まあ、これで仕掛けが切れてしまえばすぐに帰れるというものだ・・。だからひたすらリールを巻く。これがよかったのか水面に現れたのは50センチはありそうなマゴチだった。タモの用意もないので一気に船の中に引き上げる。その後2匹目のコウイカ。これはかなり大きかった。それから1回だけイカパンチがあったけれども鉤には乗らず。午前9時を回って寒さがどんどん体に染みてきた。
今日は高気圧が日本列島を覆っているはずだが低い雲が空一面に垂れ込めている。



少しでも日差しがあれば大分寒さも違うのだが、時間が経っても全然暖かくなってこない。それに加えて魚を締めたり、台風でデッキブラシやイカを活かしておくバケツが流されたままなので一面の墨を洗い流すたびに手が濡れる。手袋も濡れてしまった。そんなことをしているのでもう、指先の感覚が無くなってしまっている。



アタリもなくなってきて午前9時20分でギブアップ。






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加太沖釣行

2019年01月07日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:大潮 7:38満潮
潮流:8:11 上り3.4ノット最強 12:00転流
釣果:真鯛 2匹 チヌ 1匹


本当なら初釣りは1月3日の予定であった。しかし、この日はとりあえず港まで行ったけれども北風が強くて出港を断念した。
隣に係留しているN氏は強行していて、ちゃんと獲物を手にしていたようだが、僕には無理だ。あの風の中どうしても出港する気にはなれなかった。



例年なら1月2日と3日は出勤して4日に休みをもらって初釣りというパターンなのだが、今の職場では4日に屋上にあるお稲荷さんへのお参りがあるので休めないのだ。



去年は5日に休みを取ったが、今年は資料作りでそれもかなわず早い目の休もうと3日となった。
そして、そんな出勤の日にかぎって天気は上々で釣り日和なのだ。
なんと恨めしいお稲荷さんだろう。罰当たりだが恨めしい。
しかし、そこでふと考えた。お稲荷さんの祠っていたるところにあって、今年の初詣にもいくつかの祠に手を合わせたけれども、あれって、ひとつひとつの祠にひと柱ずつお稲荷さんが鎮座しているものなのだろうか?それとも、あの祠というのは、お稲荷さんにとっては神様の世界からの通用口のような、ネットワークの情報端末のようなものでひと柱のお稲荷さんがいたるところの祠を巡回しているものなのだろうか?
もし、ひと柱ずつ鎮座しているのなら屋上のお稲荷さんに悪態をついてもほかのお稲荷さんが、「まぁ、まぁ」と言ってそこは丸く納めて(くれるかどうかわからないが・・)くれるだろうけれども、これが一体だけの神様となると、僕は強大な神様を敵に回したことになる。これはまずいぞ。来月のお参りのときにあやまっておかねばならない。

しかし、これがお稲荷さんなら白い狐ってたくさんいそうなものだが、天照大神となると、これは固有名詞っぽいのでどうなるのだろう。神様はひとりで伊勢神宮からその他いたるところを行ったり来たりしているものなのだろうか?高天原から降臨(されたのは孫君だけれども)されたころは日本の人口なんていってもたかが100万人ほどだっただろうけれども今では1億2000万人もいるし、日本に住んでいる外国人も入れいるともっと多くなる。それぞれの願いをひとりで引き受けなくてはならなくなるちょっと厳しいのではないだろうか・・。このご時勢、ご利益をいただくのも宝くじ並みというようになってしまったのだろうか。どうりで不運が続くわけだ・・。

ヨタ話はこれくらいにして、そういうことでやっと新年7日目にしてやっと初釣りに出ることができた。
3日とはうって変わって、無風快晴。新日鉄住金のダクトからの水蒸気も真っすぐ上がっている。おまけに気温がものすごく低いものだから、その蒸気も派手なものだ。



しかしながら潮の時間が心配だ。8:11に最強を迎えるので今日はほぼロスタイムの中で釣りを続けなければならない。今日の予定はとりあえずテッパンポイントから始めて潮が緩むにつれて銅板ポイント→大和堆ポイントと移動しようと考えている。

テッパンポイントに入って間もなくアタリが出た。小さいながら真鯛だ(まあ、カスゴサイズだが・・)とりあえず初釣りでボウズを逃れることができた。午前7時半ごろ。まさに一番釣れる時間に喰ってきた。



しかしその後はアタリが出ない。最強時刻を過ぎてしまったので銅板ポイントへ。



ここでもアタリがない。午前9時過ぎに大和堆ポイントへ。



う~ん、誰もいない・・。これは針路を間違ったかと思うも、ここからまた友ヶ島周辺に戻ると時間をロスしすぎる。幸いなことに魚探には魚の反応がある。とりあえず10時までは頑張ろうとするがアタリがない。と、もう帰ろうかと思う頃にまたアタリが出た。少し大きめの真鯛。もうほとんど潮の流れが無くなっているのだが時折アタリがある。

今回も新しい工夫をビニールに加えてみた。黒いマジックで目玉を描いてみたのだ。5本の鉤のうち3本にこの目玉描きこみビニールを取りつけたのだが、確かにすべてのアタリはこの目玉入りであった。目玉なしのビニールは長さと色が違ったので確実に効果があったかどうかわからないけれどもこれも当分続けてみようと思う。


 
そんな中でちょっと大きめの魚がアタり、仕掛けまで手をかける直前バラしてしまった。これは痛い・・。まさしく痛恨だ。これで戦力レベルがグッと下がってしまった。あと一流しして終わろうと船の位置を変えて釣りを始めるとまたアタリがあった。これも大きい。これを取れれば家に帰れると慎重に引き上げるとチヌであった。これはめずらしい。まだ卵が大きくなっていない寒の時期のチヌは美味しい。また、肝の刺身も美味しいらしいので慎重に取り出した。これも楽しみだ。

午前11時を回って本当に潮の流れがなくなってしまったので今日はこれで終了。この状況なら下りの潮が動き始めるのを待つとまたアタリが出始めるとも思うのだが、そこまでは粘る必要もあるまい。今年もお昼ごはんを家で食べるというペースは守り続けるつもりだ。
なにはともあれ、ボウズでなくてよかった・・。
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「あるいて行くとぶつかるんだ」読了

2019年01月05日 | 2019読書
椎名誠 「あるいて行くとぶつかるんだ」読了



椎名誠も御年74歳。この本も以前に読んだ本同様、かつての回想録が多い。
ずっとセコンドに立ったままのロッキーか、はたまた椅子に座って葉巻をくわえているだけのシュワルツネッカー、はたまた胴回りが太くなりすぎて太極拳にしかみえないスティーブン・セガールようで少し寂しい気はするし、怪しい雑魚釣り隊でも陣幕の内側で采配を振るっているだけのような気もするが、往年の昭和軽薄体はまだまだ健在だ。
年末年始は図書館も休業するのでいつもよりたくさんの本を借りようとした中の1冊ではあったが、せっかくの新年だから重っ苦しい内容よりもいいのではないだろうか。

椎名誠の旅のスタイルは徒党を組んで無人島や山奥で焚き火宴会をするというのがオーソドックスなパターンであるのだが、どうして人はあんなに無人島とか焚き火というものに憧れと興奮を抱くのだろうか。かくいう僕もそのひとりなのである。焚き火も大宴会も実際はやったことがないのであるけれども、いつでも焚き火ができるように僕のショルダーバッグの中にはマグネシウム合金でできた着火棒を忍ばせている。しかしながら結局は大晦日に録画した「無人島0円生活」を見るのが関の山なのだ。それが情けない・・。

僕が読んできた本のなかでも椎名誠はヨーロッパとアメリカ合衆国以外のところはほぼすべて旅をしているのでないだろうか。そして日本のいたるところ。一体地球を何週しているのだろうか。それだけたくさんの旅をしていればどれだけ回想録を書いたとしても尽きることはないのだろう。半径10キロで生活をしていると1日半で回想録が終わってしまうのであとが暇でしかたがない。大違いだ。しかしながら、回想録も面白いけれども、僕は椎名誠の私小説はもっとすばらしいと思う。アマゾンを見てみても新刊は出版されていないようだが、なんだかそっちのほうをがんばってもらいたいと思うのは偉そうな望みだろうか・・?

ああ、焚き火がしたい・・。
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