イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

紀ノ川河口釣行

2023年01月29日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 4:46干潮 11:17満潮
釣果:ボウズ

先週釣ったチヌがことのほか美味しかったのでもう一度食べてみたいと思って紀ノ川河口を目指したがそんなに甘くはなかった。チヌは比較的低温には強いと言われるが今週の中頃に降った大雪(和歌山にしては・・)の雪解け水が流入していたと思われる状況ではまったくアタリはなかった。大体、水温が低すぎるのか、投入したアオイソメがすぐに死んでしまっているのだ。これでは魚が動いたとしても食指を動かさないだろう。
加えて、満潮に向かう時刻ということと、より強く吹き始めた西風に吹かれて川の流れが上流に向かうような状況だ。
アタリがあればお昼前まで頑張ろうと思ったが、忍耐力も午前9時半に途切れてしまった。

朝はもっと寒いと思っていたが、意外とそうでもなかった。とは言っても和歌山市の午前7時の気温は1.6度。十分寒いがここ数日の寒さに比べるとなんてことはない。大きい船のデッキの上に置いているバケツの水も凍っていない。
道中の住宅に植えられている梅も花を開き始めている。



しかし春は値上げの春でもある。毎回買っているウーロン茶が10円も値上がりしていた・・。



少しばかりの温かさと引き換えに、港に到着してみると風が吹いている。それも西からの風のようだ。小船にしようか大きいほうで行こうかと悩んでいたので、これは大きいほうかなと思いながら悩んでいると時折風が緩くなるときがある。アンカリングのことを考えると小船のほうが楽なので思い切って小船で出港。



やはり青岸の灯台を越える辺りでは行きも帰りもどんぶらこ状態だ。



微速前進でなんとか乗り切り河口大橋を越えたくらいからやっと滑走状態を保てるようになってきた。
前回アタリがあった辺りで碇を降ろして仕掛けを投入するがアタリがないのは上記の通り。



風は治まってくるのかと思いきやますます強くなってきて満ち潮に加えて船を上流に流してまうのも上記のとおりだ。

そんな感じで500円のエサ代と3リットルほどのガソリンを無駄使いしてしまったのである。
唯一の救いといえば、早朝のランニング練習をしているらしい中学生が、ゴカイの自販機の前に立っている僕のような人間にも挨拶をしてくれたということだ。この寒さの中、ほっこりする出来事でもあった。



スポーツマンは礼儀が正しいというか、先生の指導なのか、僕のようなクズに挨拶をしても何の得にもならないと思うのに・・・。
これも日曜日ならではの光景に違いがないのである。

こんな日には船を出しているもの好きは誰もいない。それでも魚はきっといるはずだ。天気のよい日を選んでもう一度挑戦をしてみたいと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ピザの歴史 (「食」の図書館)」読了

2023年01月25日 | 2023読書
キャロル ヘルストスキー/著 田口 未和/訳 「ピザの歴史 (「食」の図書館)」読了

最近、再びピザづくりを始めた。もう、5、6年作るのをやめていたけれども、冷凍ピザ生地を格安で手に入れることができるようになったことがきっかけだ。
本の内容を書く前に、僕のピザの歴史を書いてみようと思う。
ピザを初めて食べたのはいったいいつだったのかというのを思い出してみると、多分、大学に入ってから友人に連れて行ってもらった、道頓堀にあった「シェーキーズ」という専門店であったのではないかと思う。ピザというものの存在は知っていたが少なくとも本格的なピザを食べたのはあの時がきっと初めてであったはずである。
大体、イタリア料理などというものはそれまで、喫茶店で食べるイタリアンとナポリタンくらいしかなかったと思う。バブルの頃になってイタ飯などという言葉が生まれてポピュラーなものになったものだと僕は思っている。「ちむどんどん」の舞台になった「アッラ・フォンターナ」は当時では相当特殊なレストランであったと思うくらいである。

そして、これももう、20年以上前のことだったと思う。「チューボーですよ!」という料理番組があって、そこで堺正章がピザを生地から作っていたのを観たことで僕にもできるのではないかと考えて作ってみたのが最初だった。
番組の内容を参考に、ドライイーストと強力粉をこねて発酵させると程よい生地ができた。当時はオーブンを使って焼いていたので出来上がりは生地がパリッと焼けず、時間も1枚焼くのに30分近くかかった。それでも父親には、「お前、料理上手いな。」と僕の生涯で唯一父親に褒めてもらえることにもなった。
そのためにはオーブンの庫内に合わせた鉄板を切り出したりもした。それから進化し、もっと温度を上げることができるピザ窯を購入しパリパリに生地を焼くことができるようになった。切り分けたピザを持った時、グニャっと曲がることもなく、かじったときには本当にパリッと音がした時には、僕のピザが完成したと感激をしたものだ。




以来、外食や市販のピザというものを食べたことがなく、「僕のピザ」と言いながら、これが本当にピザといっていいものかどうかという疑問は残ったままであるのも事実だ。

メニューもたくさん考えた。必ず作るピザは具だくさんのトマトソースのピザとポテマヨピザだ。
トマトソースはそれだけで食べ応えがあるように玉ねぎのみじん切りを大量にほうり込む。
ポテマヨピザは、茹でたジャガイモの千切りとスライス玉ねぎとベーコンをトッピングしてマヨネーズとチーズをふりかける。焼き上がりの2分前に生卵を真ん中に乗せてその後、卵をつぶしてピザの全体に広げる。卵が半熟になりなんともまろやかな味になるのだ。




これは僕がまったくのオリジナルとしていろいろ改良を加えながら作り上げたものだが、この本によると「ローマ風」として似たピザが紹介されていたので僕の方針もあながち間違いではなかったようだ。
そのほかにも、照り焼きピザや明太マヨネーズピザというのも作っていた。ものすごく手前みそだが我ながらすべて美味しいと思っている。まあ、これは僕の料理の腕前がよいのではなく、ピザという料理の柔軟性がそうさせてくれたというのが正解であったと思う。
しかし、別の本では「ピザ」と正統なイタリア料理としての「ピッツァ」いうものはまったく区別されるべきもので、僕が作っているようなものは「ピザ」というべきものであるとも言えるようだ。

この本は、ピザがその柔軟性をもってどうやって世界中で愛される料理に発展したかということを書いているのである。

今やピザは世界中で食べられているが、第2次世界大戦前まではその発祥の地であるナポリ周辺でしか食べられていなかったそうだ。
アレクサンドル・デュマはナポリを訪れ、そこに住む貧しい人々(デュマは彼らをラッザローニと呼んでいる)の食生活を、『ラッザローニはふたつの食べ物で生き延びている。夏のスイカと冬のピザである。』と書いている。ピザはナポリの社会の底辺で生きる人たちの食べ物であったのである。
そんなピザが底辺の世界から表の世界に躍り出るきっかけとなったのは、マルゲリータ王妃のために作られたというピザの有名なエピソードだ。
ヨーロッパの王族が日ごろ食べていたフランス料理に飽きていた王妃のためにピッツェリア・ブランディのピザ職人(ピッツァイオーロ)ラファエレ・エスポジトが呼ばれ、3種類かのピザが作られた。
ひとつはラードとカチョカヴァッロ(チーズの名前らしい)とバルジを乗せたもの。ひとつはシラスを乗せたもの、そしてトマトとモッツァレラとバルジを乗せたものであった。王妃は3番目のピザがお気に入りになり、当時は「ピッツァ・アッラ・モッツアレラ」と呼ばれたものが「ピッツァ・マルゲリータ」と呼び名が変わった。まあ、これには相当作り話が入っているらしく、偶然にも色の取り合わせはイタリアの国旗と同じというものでもあった。
その後もピザが社会階級の人たちに好まれていたかどうかというのはよくわからないが、第2次大戦後、イタリア南部の人たちの移民と観光業の発達にともなってイタリア国内、ヨーロッパ、アメリカ大陸へと同時に広がっていくことになった。

イタリアを観光に訪れた人のために、各地でイタリアらしい料理を提供されるのだが、その中にピザが含まれていたり、終戦後、イタリアに駐屯した連合軍の兵士が現地で食べた料理食べたがった。そんな状況の中でたくさんのイタリア南部の人たちはイタリア国内、海外へと移民するのだが、その移民先でピザを販売したことが世界中に広がることになったのだ。
古い歴史とファシズムの崩壊がピザを世界に広めたともいえるのである。

特にアメリカでは生活スタイルにマッチし、ドミノピザ、ピザッハットなどのチェーン店での規格化と冷凍ピザの流通で誰でもどこでも同じ味で食べることができる料理として広まってゆく。
そしてピザの凄いところは、規格化の中でも、その範囲内でそれぞれの地方の嗜好に合ったピザが開発され続けたことだ。日本でも和風のピザがチェーン店で売られたりしている。
また、伝統的なピザにもこだわるという2極化も特徴だ。1984年には「ヨーロッパ化」するピザへの反感によって「真のナポリピッツァ協会(VPN)」が発足し、ナポリのピザを守り、それをすべてのピザの評価の基準を目指すことになった。
「ピザ」と「ピッツァ」が共存共栄する世界が出来上がったのである。
ざっとピザの歴史はこんな感じだ。

結局は、ピザという、フラットブレッドに具材を乗せて焼くという食べ物は世界中から受け入れられる形状であったということだろう。ピザはやはり世界最強の食べ物だということだ。


夕べからの雪と強風で今日は朝からJRも南海も止まっている。毎年1回くらいは雪が積もるがこんな状態になるのは長いサラリーマン生活の中でも初めてではないだろうか。何の責任もない仕事だから、無責任に休みますと早々と宣言したいものだが、外様な環境ではそうもいかない。とりあえずLINEのメッセージにだけは「行きたいのは山々なのですが・・」というフリだけはしながらこの文章を書いているのである。
しかし寒い・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年01月22日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:大潮7:55満潮
釣果:キビレ2匹 チヌ1匹

明日からは大寒波がやってくるらしい。その前兆か、今朝も強烈に寒い。和歌山市の午前7時の気温は-0.3度だったそうだ。しかし、『冬はつとめて』のとおり、風は穏やかである意味気持ちがいい。



今朝は小船を駆って再び紀ノ川のコノシロブリを狙いに行ってみようと考えた。とは言っても、そんなに大きな魚が簡単に釣れるはずもないと思っていたので一応、保険のつもりでアオイソメを買って船に乗り込んだ。アマダイの仕掛けが残っているので、それを使ってぶっ込んでおくのだ。ひょっとしてコチが釣れるかもしれないと考えている。

河口大橋の上手で釣りをしようと思っていたのだが、紀ノ川大橋の下手に数隻の船が浮かんでいるのが見えた。



ポイントはきっとあのあたりなのだろうとさらに上流を目指した。
他の船に習って僕も碇を降ろして仕掛けを投入。



今日もやっぱりコノシロの群れは目視で確認することはできない。本当にブリはここにいるのだろうか・・。
それでもルアーを投げ続けなければ魚は釣れない。黙々とルアーを投げるがやっぱりダメだ。そんなときには救世主のぶっ込み仕掛けが助けてくれる。ふと見ると竿が勢いよくおじぎをしている。急いでルアーを回収してぶっ込みの竿にとりかかる。
コチならうれしいな~と思いながらリールを巻いてくると小さいキビレだ。虫エサならやっぱりこれかと仕掛けを投入しなおしてまたルアーを投げ続ける。
と、またぶっ込みっ仕掛けに魚が掛かった。今度は少し大きなチヌだ。この間はわずか10分ほどだったのでこの辺りにはたくさんのチヌが泳いでいるのだろう。
もう少し粘りたいとも思うのだが、今日はもうひとつ試してみたいことがある。イカ釣りのポイントでアタリがあるコチを今日の仕掛けで釣ることはできないかという検証である。

その前に、4日前に発生した事件の現場を見に行ってみた。碇を降ろした場所からは目と鼻の先である。



釣りをしている最中にこんなものが流れてくると、すわ、生首かと思ってしまうような距離なのである。



その現場というと、警察が非常線を貼っているわけでもなく、誰かが花を手向けている様子もなく、特に変わったこともなく普通の日常が続いているだけの感じであった。



年年歳歳花相似。人が亡くなっても周りの風景は何一つ変わることはない。諸行無常を感じつつ次のポイントを目指した。

次のポイントではジギングだ。



ぶっ込み仕掛けをほうり込んでジグをしゃくりまくる。
まあ、アタリがないのは想定済みで、あとはぶっ込み仕掛けのアタリを期待するのみなのだが、ここで本当にアタリがあった。これはきっとコチだろうと思ったが、残念ながら今度もキビレであった。ちょっと型はよかった。
しかし、チヌもここにいるんだなということは確認できた。
お昼までには家に帰らねばと午前10時に終了。

今日の獲物は恒例のフライにしてもらったが、まったく臭さもなく、美味しいフライになった。さすが寒の時期のチヌである。
来週も天気が許せばブリチヌ狙いで船を出したいと思えるほどであった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加太沖~水軒沖釣行

2023年01月20日 | 2023釣り
場所:加太沖~水軒沖
条件:大潮5:58満潮 11:15干潮
潮流:6:23上り3.5ノット最強 10:28転流 12:45下り1.7ノット最強
釣果:ハマチ1匹

今日は会社をずる休みしてしまった。まあ、ずる休みといっても有給休暇を取るのは労働者の権利だからまったく問題はない。おまけに今やっている仕事なんて何の魅力もない。ただの生命維持装置でしかないのだから持てる権利はすべて使い切りたいと考えているのだ。

とはいってもずる休みであるのには変わりなく、神様はそんな僕を許してはくれない。次々と僕にとって不都合なことが舞い込んでくる。

風はけっこう吹きそうだが、せっかくの三連休。初日に釣りに行かないわけにはいかない。時間別の予報では時間が経つと風の強さはまだましになるようなのと、今日は下りの潮でアジサバが釣れればいいなと考えているので朝はゆっくりと出発。
家を午前7時に出たのだが、これくらいの時間に出発すると港への道中の寒さも少しは和らいでいる。「毒蛇は急がない」というのはどこかの国のことわざだそうだが、たまにはそういうことを考えてもいいのかもしれない。

平日の釣りに行ってみると、こうだと思っていたことが実は違ったということが多々出てくる。煙を吐き出すのを忘れてしまった煙突は今も煙を出し、休日を忠実に守っていただけらしいということや、24時間営業のスーパーでの売れ残ったパンがまったく無くなってしまったのは店舗の在庫管理がシビアになったからではなく、金土の夜には値下げ品を狙う客が多いだけで、平日だとこの時間でもいくつかは残っていた。僕の生活サイクルが狂ってしまっていたからだけのようだった。

 

出港は午前8時。港内は無風だ。



このまま順調に加太まで行けるかと思ったが外海に出てみるとやはり風はある。潮を被るほどでもないが2000回転以上は出せない。まあ、今日はゆっくりやってみようと思っているので微速で加太を目指す。

今日の予定では上り潮が止まるまでは高仕掛けを試して下りに差し掛かってから大和堆ポイントでサビキ仕掛けを試そうと思っている。
当初は風が強くて仕掛けが流され釣りづらい時間が続いたが予報のとおり1時間もすると風は緩くなり釣りはしやすくなった。



しかし、魚探の反応はほとんどない状態が続く。これはだめだと少し早いが大和堆ポイントへ移動。



こんな風の日の寒い平日には船も少なく、大和堆ポイントでも僕は一人だ。ポイントを独り占めというのはいいのだがここでも魚探の反応はまったくない。
こういう風の強い日に喜ぶのはカモメさんたちだけのようである・・。



釣れても釣れなくてもここで粘り続けようという決意は作りたての仕掛けをロストしたことをきっかけにあっというまに崩れてしまい数隻の船が見えている四国ポイント方面へ移動。
このくらいからまた風が強くなりはじめ、ここでも反応はまったくなく、午後1時までは釣りをしようと思っていたが正午に終了とした。

昼食はいらないとメモを残してきたので今から帰ると後ろめたいところがあるのと、道具箱にタイラバの仕掛けをひとつ入れているのを思い出し、せっかくだから水軒の沖でアマダイを試してみようと思い立った。加太からの帰り道、毎回、ここで釣りをしている遊漁船を見かける(これは土日限定のようだ)。奴らは今でもアマダイを狙っているという話を聞いていたのでダメもとで1時間と考えたのだ。帰宅の時間調整だ。

紀ノ川の河口の沖からスタート。北風に乗って南に流されて港の入り口に近づいて帰投しようという考えだ。



水深30メートルくらいのこの辺りでは魚探に何かの反応がある。アジなのかシラスなのかはわからないが加太にいるときよりもワクワクするが、狙いはアマダイなのでこれは関係ない。しかし、釣りを始めて10分か15分くらいだっただろうか、フォールしてゆく仕掛けが一瞬止まった。ん?アタリかと思い合わせを入れてみると道糸が一気に走り出した。お!これは間違いなく青物だ。先週の渡船屋の釣果ではメジロが久々にアップされていた。紀ノ川河口でもコノシロを追いかけてブリが入ってきているという情報を聞いていたので、その仲間がヒットしたのだろう。
タイラバに使っている糸は4号。あまり無理はできない。そして、これが最初で最後のアタリになるのだろうからなんとしても獲りたい。幸いにしてここには根もなければ僕の釣りを邪魔する船もいない。ドラグを緩めにしてやり取りを続ける。一時は60メートル近くもラインを引っ張り出された。10分弱はやり取りをしていただろうか、さすがに魚も観念したかゆっくり姿を見せてきた。魚が大きいので2回ほどタモ入れに失敗したがなんとかデッキの上に持ち込むことができた。
魚のサイズもうれしいが、それよりも、今日もなんとかボウズを回避できたということのほうが嬉しいのであった。

魚がヒットしたタイミングなのだが、僕の前を艀を引っ張るタグボートが通り過ぎてゆくときであった。



ちからさんはこの仕事をしていて、ひょっとしてあの船を運転しているのはちからさんなのではと思いLINEを送った直後であった。
そして、その返信の内容に僕にとってかなり不都合なことが書かれていた。半年に1回上架してもらっているスロープの使用料が今年から3倍近くに値上がりしたらしいのだ。
去年からは何でも値上がりしているが、3倍というのは・・・。
返信の内容には漁業関係者以外の人間には使用させないための値上げだということが書かれていた。やはりここでも僕は外様だということだ。張り紙には「今後もご愛顧・・」などとは書かれているが漁協の気持ちはまったく反対らしい。



生命維持装置のスイッチは他者に握られている。そして、そのスイッチを切るのは相手の気分次第なのである。
不都合はまだ続き、今日の獲物をさばくために使った出刃包丁の刃を大きく欠いてしまった。



魚の頭を割るときと背骨を切るときは別の包丁を使っているのだが、今日は1匹だし気を付ければ大丈夫だろうと思っていたら、包丁を洗い終わって愕然としてしまった。これを修復するのは僕が持っている砥石では不可能だ・・。

これらは大きな不都合だが、小さな不都合もあり、デジカメの電池が劣化を起こしてしまっていて、今日の低温下では完全に起電力を失くしてしまった。上着のポケットに入れて僕の体温で温めてやると何枚かを撮ることができたが、今日のブログに使っている写真のいくつかはスマホのカメラで撮ったものだ。

ここにも歳歳年年人不同があった・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生き物をうさがみそーれー」読了

2023年01月19日 | 2023読書
盛口満 「生き物をうさがみそーれー:沖縄・奄美 おじいおばあの食物誌」読了

なかなかタイムリーな本を新刊図書の書架で見つけた。NHKの朝ドラは相変わらず観続けているのだが、前作の「ちむどんどん」は相当評判が悪かった。多少、沖縄の人たちを茶化したような表現には、これはあかんだろうと思ったり、ストーリーにはちょっと無理なところもあったものの、楽しく観ていた。ドラマはドラマチックなのだからドラマなのだからこれでいいのだとも思った。
そして、登場する沖縄料理も興味深かった。この本もきっと沖縄料理の奥深さについて書かれたものだと思い、来たるべき「ちむどんどんツアー」のためにもぜひ読んでおかねばと考えた。
そして、著者の名前にも懐かしさを覚えた。昔読んでいたアウトドア雑誌の「BE-PAL」の連載者の中にこの人の名前があった。人の名前を覚えるのが苦手だが、当時、埼玉県の飯能市で理科の教師をしているという著者は、変わった名前の都市で活動をしているという印象があったので記憶に残っていた。今は沖縄県に移住していて、沖縄大学というところで教授をしているそうだ。
当初はそういう、ちむどんどんに登場する沖縄の伝統料理を紹介しているような本だと思って読み始めたのだが、そこは理科の先生が書く本だけあってその予想は完全に外れていた。取り上げられている料理法は揚げ物、煮もの、主食としての炭水化物とシンプルだが、その素材がまったく普通のものではない。
著者が大学で教員生活を送るにあたっての研究テーマに選んだのが沖縄の人々の自然利用についてであった。沖縄の人々は長年にわたって、その独特で多彩な自然と様々な関りをもって暮らしてきた。しかし、それは過去の話で、大学で学ぶ地元の学生たちも特に生き物に対して興味を持っているわけではない。著者はそういったことに対してこのままでいいのだろうかという疑問を持つ。授業の中でなんとか生徒を振り向かせたいという思いと共にかつての人と自然のかかわりがこのまま忘れ去られてはもったいないと考え、「食べる」という行為を中心に置き、「うとぅすい(沖縄の言葉で年配者を指す。)」から聞き集めた食べ物にまつわる話を元に、実際に口にしながら紹介しようというのがこの本の趣旨である。

登場する食材はそうとう特殊だ。ある意味、ゲテモノと言ってもいいかもしれない。ゲテモノとは言いすぎで、それは畑で作られていなかったり魚屋で売っていなかったりするだけのものである。
大きな戦争を体験し、石灰質の土壌でもある地域で、食料が十分に得られなかった時代もあっただろうが、この本に取り上げられている食材ばかりを食べていたというものでもないだろうと思う。しかし、それはそれで面白いし、人間が持っている、食べることへのあくなき興味という本能がなんでも食べてみようという衝動をもたらすのだとあらためて思うのだ。

登場する食材をいくつか挙げてみると、ソテツの実(ターチーメー)であったりどんぐりであったりする。こういったものは炭水化物を摂ることができる。スクガラスというとアイゴの稚魚だがこれは有名だ。カタツムリ(チダミ)も食べたそうだこれらは出汁である。
まだまだある。天然記念物ではジュゴンやウミガメ、キシノウエトカゲ(バカッザ)。これらはたんぱく源だったのだろう。たんぱく源というと、バッタもある。これはみそ汁の具にしたというが、ちょっと食べるには勇気が要りそうだ。
沖縄らしい植物というと、アダンの実や芽、ガジュマルの実などは美味しかったり不味かったり、また山菜と同じく下処理が大変だったりもする。カラキという葉は「ちむどんどん」にも出てきた。ドラマでは沖縄麺に練り込んでいたがシナモンのような味がするそうだ。
しかし、沖縄の言葉は独特で、読んでいてもそれがどんな生物なのかさっぱり想像ができない。それはそれで魅力的な言葉ではあるが・・。

こうやってあらためて登場した食材を並べてみると、カタツムリは別にして、確かに食べられそうだという感じがする。それはやはり食べることへのあくなき興味であったとあらためて確認できそうだ。

これは沖縄に限ったことではなく、日本中いたるところで食べることへのあくなき興味という本能は発揮されていたと思う。しかし、それが伝えられていない。著者が聞き取りをした世代の人たちというのは、僕の両親の世代にも近い。しかし、僕は両親から子供の頃に何を食べていたか、その両親、僕の祖父母の世代の人は何を食べていたか。そういったことを聞く機会はわずかであった。
母からはイナゴやイモの蔓、醤油の代わりに海水を煮出して濃くして使ったということを聞いたことがあるくらいだ。しかし、これらも戦時中や終戦後の一番食料が少なかったころの限定であったようだ。
父親からはそういった話をまったく聞いたことはなかった。
まったく裕福な人たちではなかったはずだが、やはり和歌山は気候がほどよく食べ物にはそれほど困るようなことはなかったのだろう。
ひょっとして山菜や野草を採ったり、めったに見ない魚介類を食べていたのかもしれないが、それはあるいみ季節の楽しみであっただけなのかもしれない。
しかし、それも伝統といえば伝統であったのだろうから、調理法や、これは食べられるがこれはダメだというような知識は引き継ぎたかったと思う。そういえば、母親がまだ山菜採りに行っていた頃、マムシグサを見て、これをコンニャクにして食べたことがあると言っていて、調べてみると毒があって食べられないと書いていたのでこれは母親の記憶間違いだと思っていた。沖縄ではちょっと種類は違っているみたいだが、ムサシアブミという植物の根からはデンプンを取り出して食べていたと書いている。マムシグサの根にもデンプンが含まれているが、シュウ酸カルシウムやサポニン、コニインという強力な有毒成分が大量に含まれているらしく、実際食べることができるそうだが相当な精製作業が必要だそうだ。コンニャクではなかったが和歌山でもきっと食べる機会があったのだろうと思う。多分、これは一例に過ぎないだろうし、生石山に生えている植物のなかにもまだまだ食べられる植物はあるはずだ。辺りを見渡して食べられる植物を瞬時に言い当てることはできないとはいえ、森に暮らすひまじんさんにもたくさんの山菜の種類を教えてもらった。これはこの時代、きっと幸せなことだったのかもしれない。
それにしてもこういう知恵が失われていくというのはもったいないし残念だ。かといって今から自分で手当たり次第に食べられるかどうかを実験してゆくのも不可能だし本で調べるのと先人から伝え聞くのとはまったく違う。これはもう、通信教育で空手を習うようなものだ。
歳歳年年人不同。自然は変わらずともそれを利用して恵みを受ける側だけが変わってゆく・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」読了

2023年01月14日 | 2023読書
熊代亨 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」読了

著者は精神科医だそうだ。
この世を生きづらいと思う人々が増える現状に対し、その原因をタイトルのとおり、令和の時代、日本人全員が『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会にすっかり慣れきってしまったからだと考える。
射殺されてしまった元首相はこの国を「美しい国」と呼んだ。あながち間違いとは言えないが、「ウツクシイクニ」を反対から読んでみると、「ニクイシクツウ」=「憎いし苦痛」と読めるという。
著者はその「美しい国」が美しさゆえに生きづらくなってしまったのだということを医師という立場から解明しようとしている。そしてそのキーワードはタイトルそのままの『清潔で健康で道徳的な秩序』なのだが、それを揶揄しながら進められてゆく論は小気味よくしかし不気味に思えてくる。僕たちはこんな時代に生きているのかと思えてくるのだ。
「水清ければ魚棲まず」という感じだろうか・・。

『健康的で清潔で、道徳的な秩序』が当たり前になった社会では、その社会になじめない者を医療や福祉のサポートの対象として扱い矯正の対象とするようになった。
とかく現代は生きづらい世界だと言われるが、それは個人の問題ではなく、社会が極端に『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』状態になってしまったからだと著者は考えているのだ。
昭和の時代に比べると、街はずっと美しくなり、汚いもの、臭うもの、不健康なものには出くわさなくなり、行儀の悪い人や法を破る人も少なくなり、確かに快適な生活といえる環境であり、特に日本、そのなかでも東京は世界一清潔な街であると言えるかもしれない。
そしてそれは、資本主義、個人主義、社会契約という三位一体となったイデオロギーに根ざしているという。
資本主義から来るイデオロギーとは、社会全体が『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』価値観を効率的に追い求めてしまうという考えである。
個人主義からくるイデオロギーとは、個人としての自由の獲得という意味では、SNSやネット上でのコミュニケーションや、家屋の構造の変化は昭和の時代に比べるとはるかに個人を重視できるようになったということである。しかし、それは自分の気に入った情報のみを選択する傾向を生み、それはかえって多様な思想を垣間見る機会を減らしてしまうことにもなる。
社会契約については、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』環境に疑問を抱かず従っている限りにおいては、人は個人として精神的にも肉体的にも快適な人生を歩めるのだということである。

しかし、それは人に対してハイクオリティであることを求めることになる。その結果が社会に適応できない人を大量に生み出し、医療や福祉に大量の予算を使わねばならなくなった社会なのである。
発達障害という病名はおそらく、昭和の時代ではめったに聞かないものであったと思う。よほど精神に異常をきたした人たちだけの病気であった。社会全体の秩序意識の高まりや現代人のハイクオリティ化で、“普通”、“まとも”という範囲はどんどん狭められているのである。そこからはみ出た人たちは全部病気だということになったのだ。
昭和の時代ではきっと“ちょっと変わった人”、もしくは破天荒、型破りくらいとしか見られなかった人、それはあくまでも主観的な物差しのように思えるが、医学の進歩はそういった人たちを客観的に評価できるようになってしまった。おまけに治療薬まで開発されたことで隔離や矯正が可能になった。精神医療を必要としている人は平成11年度に204万人だったものが平成26年には392万人まで増加しているそうだ。

また、ハイクオリティな人を求める社会では子育てもリスクとなる。ハイクオリティな社会に適応するためには経済的には相当なコストがかかる。かつてはブルジョワ階級だけが備えていた通念や習慣を求めるようになった。子育てと家事とブルジョワ的な上昇志向を両立させることはいかにも困難であり、経済的に賄えるひとも限られてくる。また、小さな子供は秩序など理解できない。しかし、子供たちは物心つく前から、清潔で行儀よく、落ち着きがあってコミュニケーション能力がある人間としてのふるまいを求められる。だから、社会契約として『健康的で清潔で、道徳的』であらねばならない社会の中では異質と見られ、両親は肩身の狭い思いをすることになる。そんなリスクを負ってまで子育てをする意味があるのかという考えが芽生えるのも無理からぬことであるかもしれない。
「人口戦略法案」を読んでいた時、ヒトもやっぱり動物であるのだと思ったけれども、この社会はその動物である部分を限りなく排除しようとしていて、それが間違いなく人口減少の原因になっているということがこの2冊と読むとよくわかる。

これらはかなりドラスチックな意見であるかもしれない。それに、すべての人が『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会を望んでいるわけではなくて田舎暮らしにあこがれて移住する人たちというのはこういった秩序に背を向けた人たちであるかもしれないし、コロナ禍のなかで今までそれが常識だと思われていた価値観が崩れてきているかもしれない。
しかし、お笑い芸人がもてはやされるのは、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会から抜け出したくても抜け出すことができない人が芸人の無頼な言動や生き方にあこがれているからなのかもしれない。そう考えてみると、人はユートピアを目指して『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会を目指してきたのだが、その行きつく先は限りなくデストピアに近い社会であったのだ。
それに対して著者は、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある』社会ではないオルタナティブな社会が存在するべきであるとしている。
この本で論じられている社会、すなわち歪んだように見える社会契約による社会=ゲゼルシャフト的な社会に対する、血縁に基づく家族、地縁に基づく村落、友情に基づく社会=ゲイマンシャフト的な社会だ。社会の歴史的な発展の逆転である。
これまでアップデートされてきた社会の通念や習慣、空間設計、法制度、市場のアップデートはこれまで主に正しさの側にいる人々、秩序を司る側にいる人々、知識や経済資本に近しい人々、によって唱導されてきたが、現代人が負うている不自由はどのようなもので、一体どこに由来しているのか、秩序の進展とともに表面化してきた不自由を掬いとっていく道筋はあるものなのかとそういった人々に問わなければならないと言っているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加太沖釣行

2023年01月09日 | 2023釣り
場所:加太沖
条件:中潮 8:14満潮
潮流:9:05 上り3.4ノット最強 12:56転流
釣果:ハマチ 2匹

今日はひと月ぶりの加太への釣行だ。気がつけばそんなに日にちが過ぎている。その間に冬至も通り越えてしまったが今日も曇り空なのでなかなか夜が明けてこない。午前6時半でもまだ真っ暗だ。



そして今日の釣果も真っ暗だった。

潮の流れは抜群によい。この潮流では高仕掛け一本、テッパンポイントで勝負だ。
と言いながら、船は四国ポイントに集まっているので僕もここからスタート。しかし、ここでは高仕掛けは不利なのか、アタリはない。ちなみに魚探の反応もない。すぐにここをあきらめテッパンポイントへ。



ただ、潮の流れが速すぎる。まったく歯が立たないというものでもないがこれでは魚は釣れないだろうと考え、しばらくサビキをしてみようと少し南下してみた。
そんなことをしてみてもアタリはない。おまけに漁礁にしかけを引っかけてしまいロスト。次の仕掛けに取り換えようと思うと予備の仕掛けがない・・・。年末年始も撮り溜めしたビデオを観てばかりだったので道具箱の中の点検もしていなかった。
仕方がないのでここからは再び高仕掛けで勝負だ。こうなってくると多分、午前9時を回らないとアタリはないなと思っていたらまったくその通りの展開になった。テッパンポイントから少し北に上った辺りだった。
しかし、この時間までにも魚探の反応はたくさんあるのだが、まったく鉤には乗らない。ふだんならこれだけの反応があればそれなりに釣れてくるものだがまったくダメだ。ビニールの色が悪いのかと思い、薄い色に変更もしてみたがやっぱりダメだ。

潮の流れにまかせて北上していると一度だけアタリがあり、とりあえず鉤には掛かったがすぐにバレてしまった。今日は1匹だけで終わりだなと最後に田倉崎の沖辺りを探ってみて帰ろうかと移動をしていると、途中で魚の反応が出てきた。
それならここを最後の場所にしようと仕掛けを降ろすとしばらくしてアタリが出た。
なんとかそれを取り込み叔父さんの家に持って行く分だけは確保できた。

もう少し頑張ってみたが何の成果もなく予定通り午前11時に終了。

朝は寒さで指先がしびれ、出港作業を途中でやめて手を温めないとやってられないというような状態であったが、日が昇ってくると今度はネックウオーマーや毛糸の帽子が不快に感じるほどの暑さになってきた。



空気は冷たいが風がないので日差しの温かさがモロに感じられる。冬至が過ぎるとやはり太陽は力を盛り返してくるのだ。太陽の力は偉大なのである。



今日は宵えびす。叔父さんの家に魚を届けてから湊本ゑびすへ。

 

何のご利益もなく、何もいいことがない毎年だが、船の松飾りを焚き上げてもらうためもとりあえずは行っておかねばならない。



今年も、これ以上悪くはならないようにとお願いをするだけだ。

今のところ、ゑべっさんよりも叔父さんの家の恵みのほうがはるかにありがたいのである・・。




魚を締めて帰途に着くころ、大和堆ポイントに大きな船団ができていた。



あとから聞くと、ここでは結構な釣果があったそうだ。どの時間帯に釣れたのかはわからないが、今日はポイントの選択を間違えていたのかもしれない。しかし、今日の潮なら僕は今日のポイント選定一択しか考えが浮かばない。だからある意味、今日は仕方がかったともいえるのである・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水軒沖釣行

2023年01月07日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 7:12満潮
釣果:マゴチ 1匹

せっかくの三連休だったのだが、あいにく初日は朝から雨の予報になっていた。それじゃあゆっくり休もうかと思っていると、予報が少しずつ変わってきた。午前9時頃まではなんとか天気が持ちそうという感じだ。
それならば小船でひと勝負できそうじゃないかと出港を決めた。
さて、紀ノ川河口を目指すか、それともイカ狙いかしばし逡巡するのだが、初釣りが小石1個だったのでなんとか獲物がほしい。確率はイカのほうが高いだろうと紀ノ川河口はあきらめた。

冬至も2週間以上が過ぎたし、午前6時過ぎには明るくなっているだろうと毎朝の駅のホームを思い出して予想していたが、さすがに元は雨模様の予報なので一向に明るくなってこない。
午前6時半でも真っ暗だ。



先を急いでも仕方がないので港内をゆっくり進んでいくが、雨の予報とこの寒さでは陸戦の釣り人もほとんどいない。昨日は二十四節気の小寒、その通りの寒さとなっては夜明け前から海辺に立つもの好きのそう多くはないと思われる。

それでもポイントに到着した時もまだ辺りは薄暗い。まあ、釣りをするのには特に支障もないので釣りを開始。
そしてリールのカウンターの液晶も見ることができない暗さのなかでアタリがあった。おお、やっぱり潮が大きい日にはイカのアタリがあるではないかとうれしくなったが残念ながら途中で抜けてしまった。
しかし、開始早々アタリがあったということは期待が持てる。もう一度仕掛けを降ろしてアタリを待つがその後は一向にアタリがない。
場所を転々としながらアタリを待つが全然ダメだ。これでは雨が降ってくるまでに1匹も釣れないのではないかと連続のボウズを覚悟したのだが、ここでダメならもう帰ろうと新々波止と沖の一文字の交差点に移動するとかすかなアタリ。しかし、釣れない日は食い込みも悪い。またもやバラし。
アタリがあると帰れない。もう一度朝一のポイントに移動するとここでもアタリがあるがやっぱり乗らない。う~ん、タイムリミットは午前9時。今日は午前中にスパンカーの柱を倒すために買ったが短かったロープを足すために船具屋に行き、歯医者と散髪にも行きたい。
アタリがあった新々波止と沖の一文字の交差点に戻るか、別の場所を試してみるか。
そこで思いがよぎったのが、赤灯台の前だ。



前回ここではマゴチを釣った。それまでもこの海域で度々マゴチを釣っているのでこれはもう起死回生のマゴチ狙いしかないと思ったのだ。
そしてその通り、ひと流し目で魚のアタリが出た。アシストフックにしっかり掛かって上がってきたのは紛れもないマゴチだ。
今日はこれで良しとしておこうと場所を移動してもうひと流しして予定通り午前9時に終了。

釣った獲物は年始のあいさつ代わりに叔父さんの家へ。今夜のメニューはピザを作ることにしているのでマゴチはトッピングにならない。イカならよいトッピングになるのだが仕方がないのである。



結局、今シーズンのイカは5匹で終わってしまった。例年にない不漁であった。これが環境の変化が原因ないことを祈るばかりだ。


心配していた雨はまったく降らず、西の空は明るくなり東の空ではお日様も顔を出し始めた。

 

これでは加太に行けたのではないかと思っていたが、港に戻り、帰り支度をしていると隣の港から出ている遊漁船が僚船に曳かれて戻ってきた。エンジントラブルなのだろうが、明日は我が身、僕も今日出ていたらあの船のトラブルの神様に乗り移られていたかもそれないと思うと、今日はこれでよかったと思うのであった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「開高健の本棚」読了

2023年01月04日 | 2023読書
開高健 「開高健の本棚」読了

この本、まだ読んでいないと思って読んでいたけれども、たった2年前に読んでいたということを自分のブログを読み返していて知ってしまった。これを調べるまでまったく記憶の片隅にも残っていなかった。師の文章というといつも同じ文章が取り上げられるものだなと思いながら読んでいたが、2年前に読んでいたのだからそれは毎度毎度同じだと思うのは当然である。
ダブって読むことがないようにということを思ってこのブログを書いていたのだが、まったく役には立っていない・・。

しかし、今回は何かの運命を感じた。この本を読み始めたのは12月30日であった。奇しくもこの日は師の誕生日であった。その前に読んでいた本が500ページ以上のボリュームがあったのでおそらく年を越すのでこの本を読むのは年明けからだろうなと思っていたが、意外とサクサク読めてしまったのでこの日から読み始めることになった。長らく師の著作を読むことがなかったので、たまには俺の本を読み返してみよと急かされているようでもあったのだ。
加えて、あとひと月と少しで師がこの世で生きた期間と同じ期間を僕も生きてきたことになる。それもきっと、師から、「お前はその間に何をやっていたのだ!?」とたしなめられているのだろうなと思うのである。

なんとも恥ずかしい。あなたのような人は間違いなく希な人なのだから、あなたと僕を比較しないでくださいなとお願いをするしかない・・。やはり師は僕にとってはあまりにも偉大すぎるのである。
もう少しいろいろ書きたいこともあったのだが、2回目となるとそれも詮無い事になってしまうのでそれについては書かないでおこうと思う。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年01月02日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:若潮 8:44干潮
釣果:ボウズ

いつもこのブログログをお読みいただいている皆さま、あけましておめでとうございます。今年もよろしければお付き合いくださいませ。

年末年始は大晦日と三が日が休日だ。初釣りは早くも1月2日で計画を立てた。毎年の初釣りは早く切り上げて港の周りの神社に初詣に行くというのが慣例だ。大晦日は不戦敗ではあったが大きい方の船を動かしているので今日は小船の出番である。
毎年、寒い時期に現れるという紀ノ川河口のコノシロを追ってみようと考えた。コノシロを釣るのではなく、この、コノシロの群れを追いかけてやって来るという超大型のブリやスズキを釣ってやろうというのだ。メータークラスの魚をイチかバチかで釣り上げようというのは年始の運試しとするのには最適である。

早朝がよいというので夜明け前には出たいと思っていたが、昨日食べすぎたせいか、トイレに何回も行っていたら出港は航海灯が必要でないくらいに明るくなってしまっていた。



全速で紀ノ川を目指したいところだが、今日も波がある。大晦日は西からの風が吹いていたので仕方がないと思っていたが、今日は東寄りの風なのに海は穏やかではない。何故なんだろう、やはり僕は何者かに歓迎されていないのかもしれない。
河口の波をなんとかやり過ごし、100円橋の上流までたどり着いた。




正月であろうが何であろうが、釣り人はどこにでもいる。僕と同じように一発大物を狙っているのか、護岸には等間隔でルアーマンが陣取っている。これも鴨川等間隔の法則というやつだろうか。



新年早々要らぬ諍いを起こしたくないので川の中ほどでエンジンをストップ。

ちなみに海上釣り堀も満員御礼だ。



通常なら魚探でコノシロの群れを探し当て、そこにスバルを放り込んでコノシロを引っ掛けてそれに大物を喰わせるというのがこの釣りのセオリーらしいが、小船には魚探を搭載していないので目視で水面がざわめいているところを見つけてやろうと考えている。
群れが見えない間はマゴチを狙っていようと、今日はロッド2本体制で加えて保険のためにコウイカの仕掛けも持ってきたので大所帯である。

同じようなことを考えているのか、僕の周辺には2馬力の船が2艘と、大型の船外機の船が1艘浮かんでいる。

 

プラグを投げたりワームを投げたりしながら辺りを窺がうが小魚らしき反応はまったくない。やっぱりそんなに簡単に釣れるものではなく、むしろ宝くじを当てるようなものなのかもしれないと思い始めてくる。そんなことを思っていると、船外機の船が移動をやめ、釣り人がロッドをシャクリはじめた。あの動きはひょっとしてコノシロを引っ掛けようとしているのだろうか?水面がざわつかなくても小魚は底の方にいるものだろうか?さすがにコバンザメのように近づくことはできないので遠くでしばらく様子を見ていたが彼らのロッドには何の変化も起きない。もともと、こういう待ちの釣りはあまり好きではないのと、早く切り上げて初詣に行こうという思いが先行してしまうのでコウイカ狙いのために新々波止の南に転進することにした。



波止の南だとそれほど波もあるまいと思っていたが、あにはからんや、ドンブラコ状態だ。



例えていうなら、ここでオシッコをしたら間違いなく海に転落してしまうというような感じである。ここでも僕は何者かに歓迎されていないようだ。
ただ、昨日食べ過ぎて胃袋の中に残ったままの食材をクネクネ消化するにはちょうど良い揺れ具合なのかもしれない。

さらに悪いことにどうも潮はほとんど動いていないようである。風は穏やかなので船の向きは波に翻弄されて安定せずぐるぐる回り、仕掛けはほぼ垂直に降りている。ああ、一番あかんパターンだなとあきらめながらアタリを待つことになってしまった。
しかし、捨てる神もあれば拾う神もある。なんだか竿先に違和感があった。思い切り合わせを入れると、何かが乗った。小さいがこれはきっとイカである・・。はずだったのだが、上がってきたのは小石であった・・。



ここは完全な泥底なのでこんなものが落ちているというのも不思議で、小石が沈んでいたとしても泥に埋もれてしまうのではないかと思うし、この広大なエリアの中で偶然だかなんだかわからないが僕の仕掛けに掛かってくるというのはちょっと不思議である。
古代の人々は、海から偶然にやって来るものを”蛭子”とよび敬ったそうだ。それは食糧危機を救ってくれるクジラの死骸であったし、異国の文化の欠けらであったのかもしれない。それを人々は神として祀ったのが次第に恵比寿信仰となっていったのである。
僕もこの石を小船のエビス様としてデッキの上に祀っておこうと思う。まあ、神様の気まぐれでまた海に帰っていくのかもしれないが。

波が治まる気配もなく、これ以上ここに留まっているのは危険かもしれないと思い、紀ノ川側から港内に入ろうと移動してみたらこっちは少し波が穏やかだ。



せっかくだからと仕掛けを降ろしてみるがやっぱり釣れないものは釣れない。早々に切り上げて初詣ツアーへ。

まずは港の氏神様にお参りをしてから、雑賀崎、田ノ浦の戎神社にお参り。

  

例年なら、天満宮、東照宮と巡ってさらに付近の神社にも参るのだが、今年は体が重い。気分的にもそうだが、実体でも大晦日から1日で2キロ以上も増えてしまっていたのであの急な階段を登るのは絶対無理だと思ってここまでにしておいた。

昨日の元旦もそうであった。ここ数年は海南市に点在する、日本書紀にまつわる神社を中心にぐるっと廻っていたのだが、そんな元気もなく名草山の東にある神社を何か所か廻るだけにしておいた。

なんだか今年のテーマは「省略」ということになりそうな幕開けになってしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする