イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「人口と日本経済 読了

2018年06月29日 | 2018読書
吉川洋「人口と日本経済 読了

この本は人口問題と経済成長について書かれたものであるのだが、今の日本は人口減少、超高齢化社会を迎えていて、このままの調子で減少を続けていれば、西暦3776年8月14日に子供の数がひとりになってしまうらしい。超高齢化は社会保障給付費が膨らみ続け日本の経済は破綻すると言われている。

そんな中、日本は経済成長を続けていけるのかというのがこの本の論旨である。
そしてもうひとつ興味を引くのは経済成長と人間の寿命、ちょっと哲学的にはなってくるけれども、人間にとって経済成長とはなにか、ということについて書かれた部分だ。

一般的には人口が減少するとその国のGDPも減少すると言われている。しかし、日本を例にとってみても人口の増加率と経済成長率には比例的な関係がない。それよりもイノベーションによる労働生産性の向上の影響が大きいという。その根拠を基にどの時代も画期的なイノベーションがおこなわれひとり当たりの労働生産性は上がり景気は維持されるというのが著者の見解だ。

著者は一方でゼロ成長の社会についても言及している。J.S.ミルの学説だが、所得格差が少なくより平等な所得配分がなされる社会がよい社会だという結論だ。
こんな言葉で説明をされているが、なるほど、これもひとつの考え方であると思える。
「人間にとって最善の状態は、誰も貧しくなく、さらに豊かになろうとも思わず、豊かになろうとする他人の努力により誰も脅威を感じることがないような状態である。」
この言葉をなるほどと考える人間はものぐさな人間と言われるのだろうか・・。

そして歴史の中では経済成長を続ける社会に向かうか、ゼロ成長ですべての国民が平等にある程度の幸せを享受する社会を目指す方向に傾くかの繰り返しがおこなわれ続けてきた。
著者はどちらかというと前者の意見を重視しているように見え、遠い将来、労働生産性がどんどん上がったとき、人々が消費をしたい魅力的なモノさえあれば経済成長は続くのだと書いている。

しかし、人の生活に必要なイノベーションに限りはないのだろうか。たしかに直近ではインターネットは大きなイノベーションであったろうし、一家に1台自動車を持てるようになったのもイノベーションであるが、いったいこれ以上何か望めるものがあるのだろうか。少なくとも僕は自動運転するクルマはいらないし、寂しい時に話し相手になってくれるスピーカーも必要はない。そんな人がかなりのボリュームで存在するとしたら、これからのイノベーションはどれほど経済成長に寄与するのかは疑問であるのだ。



マルサスの人口論では食料供給が増えれば人口は増加するというのがテーゼとなっている。すなわち、労働生産性が上がれば食料も増え、人口は増加する。しかしながら、現代、これだけ経済成長を成し遂げながら人口は減少している。はたしてそれはなぜだろうか。
社会の進歩とともに若い人々が楽しむサービスやモノの種類は拡大してゆく。そうしたモノやサービスを楽しむためには時間もかかるし、お金もかかる。その結果、多大の時間と経済的なコストを要する出産・子育ては敬遠される。そんな理由があるとする。
我が郷土の幹事長は「このごろ子どもを産まない方が幸せに送れるのではないかと、勝手なことを自分で考えている人がいる。」と言って批判を浴びていたけれども幹事長が国民の生活の向上を図れば図るほど国民の人口は減っていくというのはなんとも皮肉なものだ。しかし、ここでジニ係数というものが出てくるのだが、これはその国の貧富の差がどれだけあるかという指標になり、これが低いほど平等の度合いが高く、平均寿命も高くなるという。日本は戦後、ジニ係数はかなり小さくなり平均寿命が世界一となった。著者はそれを日本の国の最大の成果だという。これも与党の努力の賜物であると言えるが、あれ?これも超高齢化を招き年金制度を破綻に導いているとしたら、これも皮肉なものだ。
しかし、ひとの寿命が伸びるということは絶対にいいことだからよしとしようではないか。

そして、経済成長のエンジンのひとつである消費についても著者はおもしろい見解をしている。
それは“贅沢”である。消費が拡大するためには“ムダ”なものの消費が欠かせないというのだ。例えば美術、芸術がそうである。生命を維持するためには不必要なものの代表であるけれども、ボクが働いている業界もそんなムダな消費の一翼を担っている。たしかに昨今、日本の景気が悪くなってきたというのと時を同じくしてウチもボーナスがなくなった・・・。そしてもうひとつは“恋愛”である。特に女性がリードする恋愛というものは消費を増進する。贅沢の根元を探ってゆくとこの“女性がリードする恋愛”に行きつくのだそうだ。これが学問として証明されているというのも不思議なものだが、考えてみると当たり前のようにも思う。女は男にお金を使わないけれども男は女にお金を使う・・・。

と、なると、女性の社会進出というのは本当に経済成長のエンジンになりうるのかが疑問になってくる。男と女が同じことをし始めると消費は拡大するのか?相手が同じなら別に気を引こうとは思わなくなるのではないだろうか?和歌山県には日本で最高齢の助産婦さんがいるそうだが、その人の言葉である。

近頃は男女平等、平等って言いますけど、女は昔っから特権階級ですよ。神様が子供を産むということを女の人に与えているわけじゃないですか。日本の昔の女性が賢かったのは、自分が上位であるけどそれを表向きは隠していたことです。旦那を立てる。でも実際は自分が上位。そういう家庭が、多くあったんですよ。
 でもそれがいつの間にか、仕事の面で「女性が抑圧されている」って世の中がなりました。それで安倍首相なんかもいろんな政策をやっとるんでしょうけど「女性が安心して働けるように」っていう感じのものが多い。でもそれは自己中心主義の気持ちを、助長させるような政策に思えるんです。
 男女雇用機会均等法ができて以降、家庭でも会社でも、女性と男性が同じような役割を果たすべきという考えが当たり前になりました。でも私はこれには断固反対です。男性と女性は本来、全く違うんです。同じようにしたら歪みが出てくるんは当たり前です。セックスレスの夫婦は最近ほんとに多くて、深刻な問題やなぁと思うんですが、男と女がおんなじようになってきたら、セックスせん人が増えるんは分かる気もします。
こうなると人口も増えなくなる。

まあ、ゼロ成長の政治をするのだとか、女性は家庭を守るんだというような政治をするのだとかで選挙をしようものならまずその政権は倒れる。生物としての行動と人間が思う理想とは違うようで、どこまでいっても平行線を辿るようだからやっぱり西暦3776年をじっと待つしかないということだろう。
この数字が富士山の標高を同じであるというのは何かの偶然なのだろうか・・・。
結局は自分が幸せと思うことを確信をもって遂行することに尽きるということか・・・。
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「おらおらでひとりいぐも 」読了

2018年06月27日 | 2018読書
若竹千佐子 「おらおらでひとりいぐも 」読了

今年の初めに第158回芥川賞を受賞した作品だ。1月半ばに貸し出し予約をしてやっと順番が回ってきた。僕の後には40人の貸し出し予約がある・・・。

玄冬の頃を迎えた主人公が親との関係、子供との関係、そして自分の過去を否定するのではなく肯定しようと努力するというようなあらすじだ。

もう、誰から見られても、「おいやん」と呼ばれるようになった僕にはこの話はなんとなくよく解ってしまうのだ。
昔、というか、つい最近まで親というのは絶対的で完璧なものだと思っていた。そして超えられないものだと思っていたのだけれども、ふと気がつくと案外そうでもないのではないかと思うときがくる。父親しかできないと思っていたことが意外簡単にやれてしまうことがあったりすると特にそんなに思うことがある。欠点なんてない人たちだと思っていたがそうではないのだと気付くときがくる。

話は変わるけれども、その、親を絶対と思ってしまうという究極の災いがあの、5歳の女の子の虐待死だろう。最近はまあ、ろくなニュースがないけれど、もあんな悲惨な事件はないのではないだろうか。あんな親たちは額に「私たちは自分の子供を虐待して死なせてしまいました。」という言葉を刺青して世間に放逐すべきではないだろうか。

子供に対してもこれははじめから最後までそうだけれども偉そうに接していいものだろうか、そんなに絶対的なものでもないし、会社では叱られっぱなしだからあなたに叱る資格なんてあったものじゃないという後ろめたさしかなかった。これはもう、人のことを言えるような立場ではない。そしてすでにすべての面で追い越されてしまった。子供にバカにされるのも仕方がないのである。まあ、魚を釣る技術だけはまだ勝っているかもしれないが・・・。

過去に対してはどうだろうか、学生時代から劣等感の塊で、実際社会に出ても多分うまく順応ができていないことを恥ずべきことだと思いながらここまできてしまったけれども、最近になってやっと開き直ることができるようになったように思う。
僕はまだ、どこか別の世界の声を聞くことができるほど老いてはいないけれども、ああ、ひょっとしたら以外とたくさんのひとが自分と同じような劣等感を抱きながら生きているのかもしれないとこの本を読むと思えるのである。よく考えると、ブログやSNSなんてその裏返しみたいなところがあるのだと思いついたりもするのである。

主人公もそんな人のようである。
自分というものを押し殺して生きてきた。そして今、自分らしい生き方というものを見つけたようなそうでないような・・。そしてそれは孤独を受け入れること、今までの自分を否定することで本当の自分を見つけることそしてそれが自分のために生きるということになるということ。タイトルはそんなことを意味している。

ちょっと偉そうな評価をすると、芥川賞を取る作品にしてはテーマがあまりにも普遍的というか、誰でも思いつくようなものという感じがする。思えばエヴァンゲリオンだってそのテーマの半分はこれだ。だからおそらく賞を狙っているようなギラギラした作家はスルーしてしまうが、この作家はそういう構えたところがなくて自分の書きたいと思ったままのテーマを選んだことが逆に新鮮味を審査員に与えたのではないだろうか。そんな気がするのだ。
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船底塗装。

2018年06月26日 | Weblog
今日は小船の船底塗装をした。
なんとか今月中にやりたくて潮のいい日と休日の重なる日を選んだのだが、なんと暑いことか!

今日のタイムスケジュールはこんな感じ。
午前6時半ごろ、三輪車に荷物を満載して港へ到着。



最近はこんな状態で走っていても全然恥ずかしくなくなってしまった。これはこれでいかんな~。

午前7、時船をスロープに移動。いつものようにコロを噛まして潮が引くのを待つ。



約2時間で船が完全に露出。船底をジャッキで上げてコンクリートブロックを入れて底上げをする。
舳先は先に露出するので徐々にフジツボの掃除を始めるが、最初から汗がしたたり落ちてくる。
塗装中はゴム手袋をはめていたのだが、塗り終わって外してみるとジャボジャボするほど汗が溜まっていた。指というのはこんなに汗をかくものなのだろうかと思うほどであった。

今日もオー・ド・ヴィ(命の水)のお世話になったのだが、これがなければ本当に熱中症になっていたことだろう。



その後も暑さがたまらない。大きな船に比べると多分作業量は3分の1以下のはずだが今日のほうがきつかった。

午前11時頃作業はすべて終了。この時点でアメダスの気温は摂氏30.9℃。日向の気温はもっと高かったことだろう。
本当に死んでしまった・・。



まあ、それでも作業後の船は海面を飛ぶように走る。



これで秋まで大丈夫。

最期の締めはちからさんのところでかき氷をいただいてクールダウン。
なんとか生き延びた・・・。


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「郵便配達夫シュヴァルの理想宮 」読了

2018年06月23日 | 2018読書
岡谷公二 「郵便配達夫シュヴァルの理想宮 」読了

分テレビだと思うがシュバルという人を見た記憶があった。郵便配達夫、1867年、フランスの南東部、ドローム県にあるオートリーヴと町で配達中に偶然つまづいた奇妙な形の石に触発されてそんな形の石を大量に集めて理想宮を創り上げた。その期間が33年間。仕事以外の時間をすべて作成に捧げた。

 

その統制の取れたアンバランスさからシュールリアリズムの芸術家たちから絶賛を浴びたそうだ。この本でも芸術的な視点からルソーやルーテルという作家との共通点を取り上げて論じている。
芸術的なことはさっぱりわからないけれども、この人がどうしてひとりでこんなとんでもないものを創ろうと思い立ったか。そしてそれが人の人生のなかでどんな意味を持っているのかということに思いをめぐらせた。

日本でもときたま、家の庭にお城を作った人とか、ナイトスクープの小枝探偵のパラダイスシリーズなんかに出てくるへんなおじさんが話題になるときがある。
多分、シュバルという人もパラダイスの作者もきっと根源は同じなのではないだろうか。
いったいどうして巨大で人目につくようなものを創るのか。

少しヒントになるのは理想宮のところどころに書かれている箴言めいた言葉の数々だ。聖書の引用もあればシュバル自身が作った言葉もある。
そこには生きることの苦しさや目標を持つことの意義みたいなものがたくさん出てくる。まさに理想宮を創ることに直結している文言に思える。

仕事では世間に認められない、自分も満足していない。だから別のものに自己実現や存在意義を求める。なんだか後ろ向きの僕の見解だが、そんな気がする。そこにサイコパス的な集中力と創造性が加わるとこんな創造物が出来上がるのではないだろうか。
結果としてシュバルは理想宮の創造者として尊敬されたかどうかは別として世間から脚光を浴びることになる。

僕自身もどうして釣りばかりしているのだろうと、ふと自問したくなることがある。特に会社で上司から叱られたときや仕事がうまくいかなかったとき、そんなときだ。
仕事で自己実現できないから船の上に逃避しているのか・・。
楽しいからやっていると自分では思っていたのだけれどもどうもそれだけの意味ではなかったようだ。無意識にそれを自分の存在意義に置き換えていたのかもしれない。
なんだかそれは我ながら悲しいではないか。もう、人から認めてもらいたいなんてことを思うような意欲もないけれども、逃避先とは思いたくないものだ・・。
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水軒沖釣行

2018年06月21日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 7:14干潮
釣果:マルアジ 3匹

地震のあとは大雨だ。昨日の朝、会社に行こうとする時刻の直前、わずかな時間だが恐ろしいほどの雨が降った。駅への道が水没していた。



電車は1時間遅れで、帰りの時間までダイヤは乱れていた。



しかし、毎度のことながらJRよ、なんとかしてくれ・・。


そんな天変地異の中、今日を逃すと次の釣行日は大分先になる。朝起きて気象庁の短期降雨予想を見てみると1時間後には雨が降るという予報であった。う~ん、これは悩むけれどもやはり行かねばなるまい。
それなら雨は出港してから降ってくれるほうがよい。急いで支度をして港へ向かうが案の定、船が離岸した直後に雨が降ってきた。しかし、この雨、港の前の橋の下を越えたところで止んでしまった。
これは僥倖だろうか・・・。北の方に低く垂れこめる雲がこっちへ来なければいいのだが・・。



海はゴミだらけだ。せっかくスクリューを治してもらったので流木に当てないように慎重に船を操作する。まるでヴィージャーの体内に入ってゆくエンタープライズ号のようだ。(マニアックなたとえですみません・・。)

 

一文字の切れ目を越えたところからはそこそこうねりが残っている。なんとなく嫌な感じだがそれでもゆっくり沖に向かって進んでゆく。
そして水深37メートルくらいのところで反応が出てきた。しかし、仕掛けを下してみるけれども反応はすぐに無くなり今度は急に船の揺れが気になりだした。そうだ、僕は乗り物にすごく弱いのだ。こんなうねり方の揺れにはとびきり弱いのだ・・・。

 

ゲ〇を吐くような醜態を晒すまえに撤収を決意。午前6時半に終了。

港に帰り噂になっているテレビのロケ現場を見学。明日、「ザ!鉄腕!DASH!!」の長距離の流しそうめんをする企画のロケでTOKIOのメンバーがやってくるらしい。噂では長瀬クンと城島クンらしい。
かのグループも今日の天気のように暗雲が垂れ込めているような感じだがせっかく我が町にきてくれるのだ。頑張ってもらいたいものだ。




先日、デッキチェの足にカバーを付けてみた。船が揺れるとデッキとこすれて嫌な音がしていたのだ。たった50円の費用でそれが解消された。耐久性はどれほどのものかわからないけれどもまあ、50円だ。何回でも取り替えられる。
魚は釣れなかったけれどもこの加工はなかなかのものだった。




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「知られざる縄文ライフ読了

2018年06月18日 | 2018読書
譽田 亜紀子/著、 武藤 康弘/監修、スソ アキコ/イラスト 「知られざる縄文ライフ読了


アフリカの原住民のカラフルで気高い姿を見ていて、日本の最初の人々の姿はいったいどんなものだったのだろうかと思い借りてみた。届いた本はイラストがたくさん入った、ちょっと児童向けのような感じの本であった。

遺跡の研究が進むと僕たちが教科書で習ったよりもはるかに進んだ生活が送られていたことがわかったのである。
特に、食料については多彩であった。そう、縄文の人々は食べることに一所懸命であったようだ。当たり前といえば当たり前だが、生きるためには食べなければならない。それが生活の大部分を占めていたのだ。
今日の天声人語の内容は、偶然にもアイヌ民族の言葉についてであった。アイヌは縄文文化を受け継いだ民族である。言葉の保存のために現代語をアイヌ語に訳する試みがされているそうだが、医者という言葉は見つからなかったけれども、やたらと食べるものに関する言葉は多かったそうだ。

人間は衣食足りて礼節を知るととともに様々なよからぬことやさらなる欲望をかきたててくる。そんな現代と縄文の時代はどちらが幸せなのだろうか?
今日は新しく食べられるものを見つけた。
春が来て山菜を食べられる。
大きなイノシシが罠にかかった・・。
そういう、自分の手の届く範囲で生きていることの実感を感じ取れる生き方のほうがよほど人間らしいのではないだろうか。
そして、イノベーションといってもそれも自分の手の中でやれることが生活を豊かにしてくれるということのほうがこれも実感をもって受け入れられるのではないだろうか。
自分の食べているものはいったいどこからやってきてどうやって加工されているのかわからない。身の回りにあるほぼすべての機械はブラックボックスだ。それでは自分が地球の一部として生きているということがわからなくなる。

もちろん、寿命は短くなるだろう、しかしそれとても、人の生死を身近に感じ、自然の循環のひとつとして自分たちの存在があり、自分を取り巻く環境と心に折り合いをつけて生きてゆく。それが大切だと思えないだろうか。この本にはたくさんの土偶や土器、装飾品の写真が掲載されているけれども、そういう「生きているんだ!」という叫びのようなものが聞こえてくるようだ。縄文時代の文化を芸術だと認識されるきっかけとなったのは岡本太郎の論文だったそうだが、さすが、人生を爆発させてきた人だ。

今日は大きな地震が起きたけれども、完全にライフラインが止まってしまって救援物資も届かない状況になったとき、いったいどれだけの人が生き延びることができるだろうか。
7200年前、鹿児島県の硫黄島付近、鬼界カルデラで大規模の噴火があり、西日本一帯は壊滅的な被害をうけたそうだが、彼らは誰の助けも受けることなく復活していったのだ。
彼らの方がプリミティブな部分でははるかに現代人より生き抜く力を持っているということだろう。

縄文時代は約1万年続いたそうだ。これだけ長く同じ文化が続いたというのはこの時代だけだったそうだ。目まぐるしくイノベーションが起こるにはもっともっと年月が必要であったのも事実だろうが、きっと「これでいいのだ。」と思えるほど心地よかった時代であったからこそこれだけの長さを続けることができたにちがいない。
日本酒が飲めるのではあれば僕もこの時代にくらしたいものだ・・・。


まったく本の内容と関係がないのだが、この書き込みは今日の夕方おこなっている。今朝の地震の報道が続いているけれども、公共交通がほぼすべて止まってしまい、主要な駅で人が溢れている風景が中継されている。僕はたまたま休みであったのだけれども、へたをすればあの状況のなかに巻き込まれていたかもしれない。帰宅困難者になっていたということだ。一応、そういうこともある程度想像はしていたけれども、それはもうあの阪神淡路大震災のように周りの風景が瓦礫の山になったときだと思っていた。
街の風景がそのままでもそんなことになってしまうのだということを思い知らされてしまった。ちょっと痛勤が怖くなる・・。



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水軒沖釣行

2018年06月14日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 5:52満潮
釣果:マルアジ 21匹 サバ 1匹

アジサバが水深35メートルまで接岸してきたという情報が菊新丸さんから入ってきた。いざ出陣だ!
今日は1年で一番夜明けが早いそうだ。出港時刻も早くなる。午前4時4分ですでに東の空が明るくなっていた。



今日を乗り越えたら少しだけ起床時間が遅くなる・・・。

出港した時点では今日の朝焼けのように闘志がギラギラと燃え上がっていた・・・。



水深43メートルのところに差しかかったとき魚探に反応が出てきた。すぐに仕掛けをセットして釣りを開始。しかし反応はすぐに消えてしまい、ついでに僕の闘志もシュ~っと消えてしまった。なかなかアタリがない。
こういう釣りはとりあえずすぐにアタリが出ないとモチベーションを維持するのが難しいのだ。
やっと1匹目が釣れたのは多分2、30分経ったころだっただろうか。その後も反応はないけれども1匹づつポツポツ釣れるという感じだ。

一緒に出ていたちからさんも、フェイズブックのグループのメンバーのYさんも厳しいようだ。

 

なんとかおかずになるくらいの数を釣り上げたので午前7時に終了。

振動がなくなった船の走りは快調だ。2100回転で向かい風、それでも時速26キロも出ている。スクリューの歪みが治ったら速度も上がるようになったのかもしれない。これはうれしい。



港内に入ったら、オジイやんズの船とすれ違った。リーダー格のミノッちゃんが退院して活気を取り戻してきたようだ。入院しているときは「船、売ろうと思ってるんよ。」なんて言っていたけれどもやっぱり釣りが好きなんだな~。うれしいじゃないか!!



まだまだ頑張って釣りに行ってもらいたいものだ。


記録:

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「ヨシダ、裸でアフリカをゆく」読了

2018年06月13日 | 2018読書
ヨシダナギ 「ヨシダ、裸でアフリカをゆく」読了

著者は写真家なのであるけれども、どうしてこの写真家の名前を知ったかというと、広島県に住む同じ業界で働く友人が時折送ってくれる資料のなかに、東京でのこの人の展覧会についてのレポートがあった。
ネットでどんな写真家なのだろうと調べてみたら、プロフィールはこんな感じで出ていた。

1986年生まれ、フォトグラファー。
幼少期からアフリカ人へ強烈な憧れを抱き「 大きくなったら彼らのような姿になれる 」と信じて生きていたが、
自分は日本人だという現実を10歳で両親に突きつけられ、挫折。
その後、独学で写真を学び、2009年より単身アフリカへ。
アフリカをはじめとする世界中の少数民族を撮影、発表。
その唯一無二の色彩と生き方が評価され、TVや雑誌などメディアに多数出演。

そして、作品を見てみると、これはかなり衝撃的というか、美しすぎると思える写真であった。
プロフィールのとおり、アフリカの原住民の衣装をまとった人々の写真がほとんどであるのだが、そのカラフルさと威厳に満ちたようなたたずまいに圧倒されてしまいそうだ。
このブログをご覧いただいている方もぜひ、一度ネットで作品を見ていただきたい。

そして、この著書はそんな生き方をスタートした直後の物語が中心になっている。読み始める前はかなりストイックな内容を予想していたのではあるけれどもそれとは正反対で、おかしなガイドとの軋轢や現地での旅程のドタバタを面白く書いている。しかし、その中にはアフリカが抱えている貧困や人種差別の問題がところどころに差し込まれているのが現実的である。
そんな様々な問題を抱えながらもそれぞれの国の人々はそんなかけらも見せずに幸せそうに生きている。著者はそんな姿をみてますますアフリカの人々が好きになっていくようだ。
「何もないところから新しい目標や楽しみを見つけることは難しいかもしれないけれど、それができるようになったらさらに人生を楽しめると思わないかい?日本という国はアフリカと違って豊かだし、すばらしい技術を持っている人々だと思う。だけど、豊かすぎるがゆえに、今の日本人は何もない中で楽しさを見つけることが苦手になっていると思うんだ。」という言葉には確かにうならせられるところがある。

そして初めてアフリカを訪ねてから3年目、かねてから考えていた、「アフリカの少数民族と仲よくなるには“同じ格好をすれば必ず仲よくなれる”」という根拠のない自信を実行に移すのだ。確かに最初の頃の写真の人々の目には何か生気というものが感じられないような気がするけれどもそれ以降の人々の表情は生き生きしているような気がする。

たくさんのモノに溢れ、囲まれていて、一見幸福そうに見えるこの国であるけれども、満員電車の中でA.T.フィールド全開で死んだイワシのような目でスマホの画面に食い入るような生活がはたして幸福なのであろうかと思わせられるのだ。僕はガラケーしか持っていないので画面に食い入ることさえもできないのであるけれども・・。

イッテQを見ていると、かの地の原住民でもスマホを持っていたりして以外と現代的な生活をやっていて、民族衣装や写真を撮らせるのも仕事としてやっているというのが現実だそうだが、筆者も当初はガイドを伴っての取材旅行であったことを考えるとどこまでがリアルな話かどうかというのは疑問が残るけれども、この著書に出てくる人々の幸せとは何ぞやという考え方はきっとリアルであると思うのだ。


しかし、著者はあまりにも美人だ、グラビアアイドルとしての経歴もあるその美人が、「仲よくなってから脱ぐんじゃない。私は仲よくなるために脱ぐんだ。」と言い切って原住民の中に入ってゆく。
その時には、あぁ、僕も原住民になりたいと思ってしまうのは邪まな心を持っているわけではないのだ・・・。



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船底塗装

2018年06月12日 | Weblog
先月やろうと思っていた船底塗装を1ヵ月遅れでおこなった。
和歌浦の漁港で上架してもらうようになってからかなり経費を抑えることができるようになった。そこでその浮いた経費を使って年に2回、上架したいと考えたのだ。5月を過ぎると毎年速度が落ちてくる。抵抗に負けないようにエンジンを回すと燃費が悪くなる。今年のようにチョクリ釣りのポイントが遠くなるとかなり燃料を食ってしまう。例年のポイントならポリタン1本分で2回は行けるのだが、今年は1回の釣行でポリタン1本以上だ。加太へ行くより燃料を食っている。
そして去年から悩まされていた船の振動を治してもらいたいと思っている。

いつもお世話になっているちからさんとの待ち合わせ時刻は午前6時。僕は和歌浦漁港のスロープにバイクを置いて徒歩で港に向かうため少し早めに行動を開始。



一文字の切れ目を越えるころに台風5号は紀伊半島に最接近している。風と波が心配ではあったけれどもうねりはあるものの快調に和歌浦漁港まで移動できた。



さて、船を台車に乗せる段になってしくじりを連発してしまった。台車から飛び出ている鋼管にピッタリ船を添わせてゆっくりスロープを登らせるのだが、何度かトライしてもうまく船を安定させられない。すこし入ってきているうねりで海水が風向きと反対方向に流れているようだ。それを見かねたのか、近くの護岸でタコ釣りをしているおじさん(おじいさん?)が前に乗ってくれることになった。ここではみんな知り合いでお互いに手伝いをするのが当たり前のようになっている感じだ。なんとありがたいことか!二人でやると前と後ろで確実に鋼管を持つことができるだ。
しかしながら、そのおじさん、「おいやんの船、位置決めはここらへんでいいか?」と僕に聞くのだ。おいやん?誰のこと?船の上には二人しか乗っていないのだが、思わず周りを見回した。う~ん、自分よりはるかに年長の人からおいやんと呼ばれてしまうとかなり複雑な気持ちになる・・・。それでもちゃんと船を陸上に導いてくれるのだからありがたい。

心配した雨も降る気配がなく、順調に作業を進める。今日はオー・ド・ヴィ(命の水)も準備して万全の態勢だが天気を見ると曇り空。その心配はないようだ・・。



だからなかなか船底が乾かない。塗装前に船底が乾くのを待っていると、中国人らしいカップルが僕に近づいてくる。蓬莱岩を探しているとのこと。う~ん、どこでそんな情報を仕入れたのか、和歌山市民でも蓬莱岩の存在を知っている人は少ないのではないだろうか。しかし、あまりにもショボいと思ったのか、案内をして見えるところまで連れて行ってあげたのであるが、近づくこともなくレンタカーに乗ってどこかに行ってしまった。僕の職場にも大量に中国人がやってくるが、こんな片田舎までやってくるというのはこのご時世だと思ってしまった。まあ、中国系の人たちはこんな縁起のいい名前には敏感に反応するのだろう。ちなみにこのカップルは香港から来たらしい。



塗り始めてしばらくしてタカシさん登場。早速診てもらうとわずかだがスクリューが歪んでいる。これが原因なんだろうか?わずかに5ミリほどの歪みだ。ただ、現状ではこの歪みしか原因がわからない。シャフトは大丈夫のようだ。さて、外して工場まで持って行って治すか、この場で叩いて治すか。僕はタカシさんを信じてこの場で叩いてもらうことを選んだ。というのは、前回、舵を直してもらった時も最初は1回陸に揚げて梶棒を抜かなければという診断だったのだが、10分後治ったみたいだということになった。今日もタカシさんは独り言のように「ここで直そか・・」と言っていたのを聞き逃さなかった。多分タカシさんはちょっと叩けば治りそうと思ったに違いない。まあ、客を前にして安易な答えは出せないということで取り外して修理という選択肢も提示したのだと見た。だからタカシさんマジックを信じるのだ!!
今日の修理でダメでもまた半年もせずに上架することにになる。その時に本格的な修理をしてもらえばいいのだ。しかし、御年77歳。振り上げている玄翁とハンマーは片付けを手伝ったがかなりの重さだ。よく振り下ろせるものだ。僕はローラーを3分ほどコロコロさせるだけで一服しないと腕が痛くなるというのに・・。



亜鉛の交換もスタンチューブの交換もやらないので午後1時にはすべて終了。

 

体重も久々に69㎏を下回った。



ここまでは前日の書き込み。さて、明日の試運転はいかに・・・。

今日、朝一番に船を引き取りに和歌浦漁港へ。今日もちからさんにお手伝いをいただいての作業だ。
港を出るまでは微速前進。港の出口から恐る恐るスロットを上げてゆく。問題の1800回転から2000回転、まったく問題がない。ほぼ完全に治っている。
やはりあの5ミリほどの狂いが原因であったようだ。さすがにタカシさんだ。ハンマー2本で治してしまった!戦時中、戦艦のスクリューのデザインというのは最高軍事機密であったそうだが、それだけデリケートなものに違いない。まあ、ハンマーで叩くだけで元に戻るという大雑把な部分もあるにはあるが・・・。

2000回転でも快調に海面を滑ってゆく。


動画はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=rE6ILxU_rjc
ちからさんが撮ってくれたものだが、自分の船が航行しているところを初めて見た。
この状態でなんとか10月半ばまで、せめて9月までもってほしいものだ。



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「鈍感力」読了

2018年06月10日 | 2018読書
渡辺淳一 「鈍感力」読了

いつ頃だろうか、相当なベストセラーになった本だが、これまた相当遅れて読んでみた。

人間は、敏感で神経質よりも少しばかり鈍感のほうが自律神経が安定していて健康に生きられるという話だ。
そんなことを言われても人の性格なんて簡単に変えることができるわけでなく、鈍感な人はラッキーでしたというだけだ。

僕みたいに自意識過剰な割りに人の話をあまり聞かないというのはきっと最悪な性格であるのだと思う。しかしながらそれで生きてゆくしかない。
まあ、あきらめるというのもひとつの方法か・・・。
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