イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「巻頭随筆 百年の百選」読了

2023年04月29日 | 2023読書
文藝春秋編/著 「巻頭随筆 百年の百選」読了

文藝春秋は2022年に創刊100周年を迎えたそうだ。本を読むのは好きだが、文藝春秋をはじめとする文芸誌などはまったく読まない。唯一読んだのは「火花」が掲載されたときの号だけだ。
その文藝春秋には巻頭に毎号数編の随筆が「巻頭随筆」という形で掲載されている。著者は作家だけにとどまらず、学者、俳優、タレント、政治家、実業家、スポーツ選手様々だ。
この本は100年の歴史の中で書かれてきた随筆の中から100名の随筆を選び出して掲載されている。

作家はともかく、文章を書くのが本業ではない人の文章が上手いのには驚く。厳選された随筆ということで駄作といえるものもひょっとしたらあったのかもしれないし、編集者のアドバイスもあったのかもしれないが、それを差しい引いても素晴らしい出来栄えだと思う。
淡谷のり子、長嶋茂雄、加藤紘一、この3名の文章は特に上手いな~と思った。長嶋カントクなんて、インタビューなんかを聞いていると、宇宙人かと思うところもあったが文章になるとまったく異なり、理路整然としてこの人が言いたかったことがはっきりと示されている。
対して、きっと話すことはピカイチだと思える皇族の方の文章はよくわからなかった。編集者も憚られてアドバイスができなかったのであろうかと思えてくる。

様々なテーマの文章が並んでいるので、知識としてこういったものを書き留めておきたいというものはないのだが、こういったものを読まないとこんな言葉を知ることがなかったというものをいくつか書いておきたいと思う。

懦夫、赤心、索強付会・・。読むことさえできなかった。
それと、言葉ではないが、「太陽の下に新しきはなし」ということわざについて。
これは芥川龍之介の随筆のなかで紹介されていたものだが、師の本の中に、「すでに本はたくさん書かれすぎている」ということわざが書かれていて、これはトルコのことわざだということなのだが、グーグルで検索してもヒットしない謎のことわざであった。仕事の上での知り合いにトルコの人がいて、その人にはサバサンドの極意は教えてもらったものの、このことわざについては聞くこともなく僕は島流しに遭ってしまった。
「太陽の下に新しきはなし」ということわざを読んで、「すでに本はたくさん書かれすぎている」というのはこのことわざと同じ意味を持っているのだなと思いついた。

たまには文芸誌も読まねば知性と教養は身につかないのだと思い知ったのである・・。
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「良心から科学を考える: パンデミック時代への視座」読了

2023年04月26日 | 2023読書
同志社大学良心学研究センター 「良心から科学を考える: パンデミック時代への視座」読了

同志社大学には「良心学」という科目があるそうだ。“良心”などという曖昧な定義しかできないようなものがはたして学問になるのだろうか。それも文学的な観点からならありえるかもしれないが、それを“科学”しようというのだ。
宗教、自然科学、科学史などの研究者14名の論文が掲載されている。
少し残念なのは論文それぞれが短く、もっと知りたいと思う頃にその文章が終わってしまっていることだ。どの人もそれぞれのテーマで本が一冊書けるほどの見識を持っているということなのかもしれない。その神髄は同志社大学に入学して良心学を専攻しなさいということなのだろう。

「良心」とはなんだろう。キカイダーには不完全ながら良心回路というものが搭載されていた。キカイダーは正義の味方だから良心=正義ということだろうか。しかし、50年前だと正義と悪の境目もはっきりしていただろうが、現代ではそれもあいまいだ。

読んでみてわかったのだが、この本は科学をしている人たち、理系の学生や研究者たちがとりあえずは読んでおけというような内容だ。
研究者は良心、それは正義というよりも倫理に近いものなのだろうが、社会に役立つとか、環境に悪影響を及ぼさないだとか、人体実験をしない、戦争に加担しないなどというものが科学としての良心だというのである。
科学者という人たちは、科学の発展のためには何をしてもよいとか、研究費を得るために出資者に忖度し兵器開発の片棒を担いだりそれらに都合のよいデータを捏造したりしてしまうのだ。だからこそ良心が必要なのだというのである。

まあ、それは確かにごもっともなのだが、良心や正義は見る側が違うと良心は邪心になり正義は悪になる。なかなか難しい。
その象徴と思えるのが、このひとはそれを自覚しているのかどうかわからないが、ES細胞とⅰPS細胞について書かれたものだ。
日本ではⅰPS細胞に対してはたくさんの研究費が出されているがES細胞に対してはそうではない。それはⅰPS細胞が日本で生まれた技術だという理由だけで、世界を見るとES細胞に対してのほうが研究対象としてははるかに重要視されているというのだが、この人はES細胞の研究者で京大の名誉教授だと聞くと、ひねくれた性格の僕には山中伸弥先生に嫉妬しているだけではないのかと思ってしまう。
コソボやチェチェン、僕はロシアのウクライナ侵攻をまったく支持するつもりはないが、プーチンやエリツィンにとっては自分の良心に従って行動しているのかと思うと良心というのはまことに恐ろしいと思うのである。

いずれにしても、本当は自然に身をまかせて生きるべき存在であるはずの人間が、自然を支配できるまでに、しかしながら不完全にしか支配できないというような中途半端に進化してしまったことによる罪深さが現れてきた結果なのであろうということだ。
天動説だ地動説だと言い合っているくらいの程度のほうが人間は幸せであるのかもしれない。

カミュの「ペスト」の中ではこんな言葉が語られているそうだ。
『世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、よき意思も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。』

知らないよりも知っていることのほうがよいのは事実であろうが、多分、中途半端に知っている、もしくは知っていると勘違いしているというのが一番たちが悪い。
そのことは僕も実感している。
科学者は知ることで良心を得るべきだが、そうじゃない人は知らないことで良心を保っていたほうが世の中も家族も平和であるのだ。

結局、この本は僕のような人間にとってはあまり意味を持たないような内容であるが、以下の部分はちょっと覚えておこうと思った。

日本語の良心という言葉は、英語のconscienceの訳語であるが、これは孟子の中に出てくる言葉を当てはめたそうだ。だから、儒教的な性善説のなかで理解される言葉であると日本では考えられてきた。なるほど日本らしい考え方である。
しかし、新島襄は同じくこの言葉をconscienceの訳語として使ったが、そこにはキリスト教の性悪説の意味合いも含められていた。良心にも「よい良心」と「悪い良心(良心のやましさ)」の2種類があるというのである。
conscienceはラテン語のconscientia(コンサイエンティア)が元になっている。これは、con(共に)scire(知る)という意味があるそうだが、「科学(science)」という言葉もこの言葉のscireが由来となっているそうだ。

そういう意味では科学と良心は密接な関係があるというのがおそらくこの本が言いたかったことではなかろうかと思うのであった。

この本を読んでいた場所なのだが、柄にもなくカフェがその場所の一部になった。普段は通勤途中の電車の中でしか本を読まないのだが、500円のクーポンをもらったので日曜日の早朝、港の近くのカフェでひとときを過ごした。こんな時間帯には2,3人の客しかいないカフェはまことに静かで心地よかった。しかし、自腹を切ると535円となればおいそれと座ることができないのである。



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「ガリレオ裁判-400年後の真実」読了

2023年04月25日 | 2023読書
田中一郎 「ガリレオ裁判-400年後の真実」読了

歴史上の大悪人が実はよき人であったり、同じく偉大であったひとが実はけっこう性悪であったりということがよくある。
明智光秀、田沼意次は大悪人と思われていた人の代表だろう。ニュートンは後者であったらしい。中原中也は残っている写真がなんだか女性的で繊細な人だと想像してしまうが酒癖が悪くて生活力もなく誰彼なくお金の腐心をしていたらしい。
この本も、ガリレオ・ガリレイを宗教裁判で有罪に追い込んだカトリック教会は本当に悪だったのかということを考えている。 

著者がこの本を書くきっかけになったのは、1979年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世による「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」という講演であった。この講演を機に、1981年にガリレオ事件調査委員会というものが設置され、400年の時を越えて裁判関係者の手紙や裁判の議事録がヴァチカンの秘密文書庫から解放されたのである。
2009年には「ガリレオ・ガリレイ裁判ヴァチカン資料集」というものが出版され、この裁判に新たな説明を加えることが可能になったからである。
元になった文書は1798年にナポレオン・ボナパルトがローマに侵攻した後、1810年にローマ教皇庁に保管されていた全文書が没収されたときにフランスに運ばれた。
特にガリレオ事件に関する文書は重要視され、別便で送られたという。
この時期にはニュートンの万有引力の法則が発表されていて地動説も当たり前の考え方として受け入れられていた。ナポレオンはガリレオ裁判の記録を出版することで科学の進歩を阻んできたカトリック教会の蒙昧さを衆目に晒したかったのだと考えられている。
カトリック教会は自分たちの蒙昧さを知っていたかどうか、別便にはナポレオンを破門するというピウス7世の教皇勅書が同封されていたという。

結論としては、裁判自体は当時の宗教裁判の進め方に則って行われたということだが、そもそもが当時の教会の威信を保つためだけにおこなわれた裁判であったのだから現代に生きる僕にとってはそれが正しい裁判のあり方であったと言われてもなんだか腑に落ちない。まあ、宗教が人を断罪するということからしてありえない。人を救うのが宗教であるはずだ。
著者の、『まちがっていた陣営と正しい陣営の闘いがあって、まちがっていた側の主張は何であれまちがっており、正しい側の主張は何であれ正しいというような単純な構図のなかで事態が進行していたのではない。いずれも自らの信じるところを主張したのだが、当時の社会と時代を支配する側の勝利に終わった。』
という考えが最も適した見解だということだろう。
『特別な存在として神の姿に似せて創られ、宇宙の中心にあって天上の神に絶えず見守られ、その信仰のゆえに昇天することができるが、逆に世界の底にある地獄に落ちることもありうる。この不安に満ちた人間という危うげな存在は信仰によってのみ平安を得ることができる。』というのが当時の人たちの考え方で、もし、地球が宇宙の中心になく、他の惑星と同列の地位にまで引き下げられるのなら、その地球上に住む人間の地位も同様に引き下げられることになる。そうなっては信仰の基盤が緩いでしまう。この考えは天動説が示す地球中心の宇宙においてのみ説得力を持つのである。このあたりの考え方が、間違っているけれども正しい側の主張は何であれ正しいと思い込んでいた部分だ。


ガリレオが罪に問われた根拠となった旧約聖書の一節はヨシュア記のこの部分だ。
『ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。
「日よとどまれギブオンの上に、
月よとどまれアヤロンの谷に。」
日はとどまり
月は動きをやめた
民が敵を打ち破るまで。』
この部分が太陽は地球の周りを回っている証拠だというのである。

とはいうものの、すでにコペルニクスが地動説を発表し、こっちのほうが惑星の位置の計算が簡単で正しくできるというのが明白となっていたという事実があるから、裁判をやっている教会の人たちも薄々、多分ガリレオの言っているほうが正しいのではないかと思っていたのではないだろうか。しかし、それを言ってしまってはおしまいだという雰囲気の中で進められたのではないかと思うのだ。事実、暦の計算をしやすいのならコペルニクスのやり方を使っても問題なしというのが当時の状況でもあったそうだ。
事実、当時の教皇であったウルバヌス8世や甥であるフランチェスコ・バルベリーニはこの裁判を通してガリレオを擁護しようと動いていた。それも、自分たちはけっこう無茶苦茶なことを言っていると認めているというところからだったのかもしれない。
地球が太陽の周りを回っていようが、太陽が地球の周りを回っていようが、誰も困るわけではなく、ただ単に教会の威信を傷つけるというだけで大騒ぎをしなければならないほど教会の威信というものは脆いものだったのである。

「それでも地球は回っている」という言葉はガリレオが有罪判決を受け入れたのちに買ったものだということで有名だが、実際それは不本意だったのだろうけれども、とりあえずはあっさりと自分の説を放棄している。この言葉は100年以上後にジョゼッペ・バレッティという文芸評論家が自分の紀行文のなかで書かれたものである。
どちらかというと、その頃のカトリック教会に対する反感が生み出した言葉なのだと言われているのである。
なんだか子供の喧嘩を見ているような気になってくるのだ。


ガリレオ裁判とおいうのは2回にわたって行われたそうだが、その経緯を書き留めておこうと思う。
1610年3月、ガリレオは自ら作成した望遠鏡で木星を観測し、「星界からの報告」を出版する。
1613年3月、「太陽黒点論」を出版し、この中で地動説の確かさを主張している。
そして、問題になったのが、1613年12月12日、ガリレオの弟子でありピサ大学の教皇であったベネディット・カステリがトスカナ大公の宮殿での朝食会で語った内容であった。ガリレオが考えた地動説を紹介したのはいいけれども、同じくピサ大学の哲学教授であったコジモ・ボスカリアが、それは「聖書」の記述に反すると指摘した。大公の母親であるクリスティーナ・ディ・ロレーナもそれには納得しなかった。
12月13日、その話を聞いたガリレオはカステリ宛に手紙を書く。それは「聖書」と自然の関係について、文字通りの意味にとると誤りが生じるというものであった。
何度読んでもわからなかったのだが、ヨシュア記の内容を天動説に当てはめると、西から東への運動によって1年をかけて12の星座の中を移動してゆく太陽の動きを止めてしまうとかえって日没は早まってしまうというのである。(う~ん全然わからない・・)
当時のこういった手紙というのは、私信というだけではなく、学会誌というものがなかったおかげで研究成果の発表の手段でもあった。
この手紙も公のものとなり、1615年2月7日、フィレンツェのドミニコ会神父であるニッコロ・ロリーニがこの手紙をローマに送り、検邪聖省に告発した。この人はこの3年前にもコペルニクスの地動説を攻撃していたというのだからよほど地動説が嫌いであったようだ。
1616年2月24日、11名の神学者からなる特別委員会の答申が出る。太陽は動かないということと地球は世界の中心になく、不動でもないということはどちらも間違っているというものであった。
2月26日、ロベルト・ベラルミーノ枢機卿からガリレオの考えは誤りでありそれを放棄するようにという訓告がなされ、それに続いてただちにドミニコ会の検邪聖省総主任ミケランジェロ・セジッツィから、太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動くという意見を全面的に放棄し、今後はそれを口頭であれ文書によってであれ、いかなる仕方においても、抱いても、教えても、あるいは擁護してもならない。さもなければ、聖省は彼を裁判にかけるであろうと命じられた。
ガリレオはこの禁止命令には同意し、従うことを約束した。
この内容だけを見ると、この時点では、ガリレオは自分の意見を放棄するかぎり罪には問われないということになる。事実、世間的にはガリレオが異端誓絶したという噂が広まったので、その噂を否定してもらうべく、5月26日、ガリレオはロベルト・ベラルミーノを訪ねて証明書の発行を求めた。
同じ頃の1616年3月5日、コペルニクスの「天球の回転について」が禁書目録に掲載された。
これが1回目の裁判の結末だ。

1632年2月「天文対話」が出版される。そしてこれが教皇の怒りを買うことになる。
この本は海の干満の現象を地球の運動に関係づけて地動説、特に地球の公転と自転を説明するものであった。(実際の海の干満は月の引力によるものなので地動説とはまったく関係がないのであるが・・)
地動説を主張しているのはもちろん、教皇を揶揄しているともとれる内容に教皇は怒ったようである。最初の裁判ではガリレオに対して寛容な姿勢を見せていたが、教皇にしてみれば裏切られたという気持ちが強く、扉絵にまで因縁をつけたという。
1632年9月23日、検邪聖省総集会においてローマの異端審問所に召喚する決議がなされた。10月1日、ガリレオはフィレンツェの異端審問官エジディから呼び出され、10月中にローマの検邪聖省総主任のもとに出頭するように命じられた。
1633年4月12日、1回目の審問が開始される。検邪聖省の総主任はヴィンチェンツォ・マクラノという人物である。前任のランチという総主任はガリレオに好意的な人物であったが、マクラノはそうではなかった。
この審問ではガリレオは自分に非があるとは認めなかった。ここで問題になるのは、1616年2月26日のことである。ここでは、地動説について、「仮説としてなら抱くことができる」かどうかという解釈の違いである。ベラルミーノの証明書の中には仮説としてなら大丈夫というような見解があるが、セジッツィの禁止命令では絶対ダメというような解釈ができる。
ガリレオはちょっと読みが甘かったのである。
1回目の審問では決着がつかず、2回目の審問が4月30日におこなわれる。
その前の28日、ガリレオは罪を告白することに同意する。
ガリレオは、「天文対話」は地動説を“退けようと”したものだとか、“自分のあやまちはむなしい野心とまったくの無知でと不注意によるものであった。”と告白するのである。
5月10日、抗弁の機会が与えられる。
自分は「地動説という考えを抱くのはまったくダメだとは思っていなかった。自分の本に書かれた欠陥は、むなしい野心と普通の大衆的な作家よりも賢く見せるという満足感から出たものです。だから、自分の評判をできる限り落とそうとしている邪悪な心の人々の虚言から名誉と評判を守ってほしい。」と語っている。
これだけ譲歩したにもかかわらず、6月16日、重大な異端の嫌疑があるので異端誓絶させ投獄させるという判決が決定的となった。
6月21日、最後の尋問が始まり、そこでもガリレオはすでにコペルニクスを支持する意見はすでに抱いていないということを語っている。
慣例に従うなら投獄となるところだが、トスカナ大公付き主席数学者兼哲学者という肩書を持った有名人だということでガリレオの友人であるシエナ大司教アスカニオ・ピッコローミニのもとで軟禁ということになった。その半年後にはフィレンツェ近郊のアルチェトリの自宅に戻ることになる。
そして1642年1月8日にガリレオは永眠した。許可を得て外出することはできたものの、自宅軟禁の処分が解かれることはなかった。

今の時代とは価値観も違うのだから当時だとこれが当たり前だとも思うのだが、ガリレオ・ガリレイの名誉が回復するのは約350年後のヨハネ・パウロ二世がおこなった冒頭に書いた演説に続く、1992年10月31日の「信仰と理性の調和」という演説まで待たねばならなかったのだ。
ただ、似たようなことは今でもどこでもある。人が想像の中で作り出した権威や価値観を必死で守るために人が人を陥れたり排除したりする。こういうのは350年経とうがこれから先、500年経ようが何も変わらないようである。
ヨハネ・パウロ二世はその演説の中で、ガリレオが主張した、『科学的真理と「聖書」の記述が異なるばあい、「聖書」のほうを文字通りの意味を超えて解釈しなければならない。』ということを認めたのだが、そのことがズバリ、今読んでいる本に出てくる「良心」につながるのだなと改めてこの感想文を読みながら思うのであった。

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水軒沖釣行

2023年04月21日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 6:33満潮
釣果:ボウズ

今日はズル休みではない。午後から病院に行かねばならない。午前中は自由時間なので山菜取りだと考えていたのだが、ダニ問題でとん挫。なので、オモック改の実証実験に出かけた。
これだけ天気がよければ加太に行けたというのもあるが、よく考えたら県税事務所にも行かねばならなかった。

今日も航海灯が必要でなくなる時間を待って出港。



先週とは打って変わって穏やかな海なので一文字の沖へ。



碇を下ろしてオモック改を投げてみる。ただ巻きをしてみたりしゃくってみたりするが全くアタリはない。まあ、それは当然だというところだろう。
これはアタリかと思ったらクラゲのかけらがくっ付いてきただけだ。



少し場所を移動して沖の一文字と新々波止の交差点付近で再び始めるがやはりアタリはない。



空の上ではトンビが獲物を捕まえて歓喜の雄叫びをあげているが僕にはエソさえ喰いついてこない。



空を眺めているくらいだからすでにやる気がなくなってしまっていて、空の次は海面を覗き込んだりしていたら、いろいろなものが流れてくる。そんな中、まるでカエルの卵に見えるものがたくさん流れてきた。海でカエルはないだろうと思うのだがそれにしか見えない。


試しにタモで掬ってみると簡単にプチプチとちぎれてしまう。なんとか掬ってバケツの中に入れてみるとやっぱりどうみてもカエルの卵だ。



もっとよく見ようと思いタオルの上に置いてみると脈動している。これは何かの卵ではなさそうだ。万太郎さんのように、「お前、誰じゃ!?」と言いたくなる。



本当にこれは何だろうと思いSNSで呟いてみると、ちからさんから早速返信があった。これは「サルパ」というホヤの仲間らしい。しかし、この人は何でもよく知っておられる。以前、ダイビングのインストラクターをされていたというので海の生き物についてはなんでもござれという感じだ。以前にもキスを釣っていると引っ掛かってくる得体のしれない物体はイソギンチャクの触手であると教えてくれたのもこの人だ。

この連なった個体は全部クローンなのだそうだ。
地球上に生命が誕生して40億年。化石を発掘することができる時代よりもさらに昔はきっとこういう生物たちが地球を支配していたのだろう。僕は今、超太古の時代を見ているのかもしれない。そして、ホヤというのは、クラゲとは異なり、脳、心臓、および腸、また複雑な神経系と消化器系を持っているらしく、人間の直接的な祖先でもあるそうだ。ということは、この生物と僕の先祖を遡っていくと同じご先祖様にたどりつくということなのである。

結局、人間も食べて出すだけの物体だということだ。何度ボウズでも悔やむほどのものではないということなのである・・。
しかしながら、5回連続してボウズとなるとホヤ以下の頭脳しか持っていなくても少しは凹むのである・・。
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水軒沖釣行

2023年04月16日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:若潮 4:11満潮
釣果:ボウズ

昨日はえらい事件が起こった。



衆議院の補選の応援で雑賀崎にやってきた岸田総理の目の前で爆弾らしきものが爆発した。
その時間の30分ほど前に僕は港にいて、スロープを借りる日程の変更をお願いしようと雑賀崎に向かおうと考えていた。雨が降っていて車で移動していたので小回りが利かないし港内で路上駐車というのも迷惑だと思って行くのをやめたのだが、もし行っていて、そこでもうすぐ総理大臣が来るというのを知ったら僕は間違いなくあの場所に立っていたと思う。

怪我を負った警察官がいたそうだが、大きな参事にもならずに済んだので笑いながらブログを書いていられるのだが、あの犯人が手元に持っていた爆弾が破裂していたら一体どんなことになっていたのかと思うと恐ろしくはなる。
しかし、これほど高度に民主主義と治安が発達していると思えるこの国で選挙のたびに総理大臣が襲われるというのは世の中は変わりつつあるのだろうか・・。

そして今日、現場を見に行くついでに船を出してみた。
しかし、夜明け前に出港しようと思って準備をしていたが、意外と風が強い。先々週の教訓をもとに、友ヶ島の風の実況を見てみたら、8メートルと出ている。これでは水軒沖もダメだろうと少し時間を遅らせ、5時45分に出港。




それでも風は強く、一文字の切れ目を越えることができない。仕方がないので青岸の防波堤の陰でルアーを投げ始める。



今日のお題は、新型のルアーのテストだ。「オモック」という仕掛けがあって、これは沖縄の漁師が使う仕掛けらしいのだが、ただの鉛のオモリに鉤を付けただけというこんなもので魚が釣れるのかという代物なのだがこれが釣れるらしい。沖縄でなくても。
そしてもうひとつ、ブレイドジグというメタルジグでありながらただ巻いているだけで魚が釣れるという代物がある。これを合体させれば無茶苦茶安価でしかも絶対に魚が釣れるルアーが誕生するのではないかと作ってみた。



本当はメジロやヤナギが釣れているという本命ポイントで釣りたいと思うのだが、今日は風を避けられる場所しかない。何度か投げてみるがまったく信憑性のない道具はすぐに飽きてしまう。僕にはドーパミンが足らないのだ。
すぐに普通のメタルジグに変更。アタリはあったものの、小さなエソだ。これでは持って帰れない。



少し風が治まった感じがしたので一文字のテトラの前を目指したがやっぱり波と風は強すぎてここで退散とした。




雑賀崎に行き、現場の様子を見てきたが、昨日は雑賀崎のトンネルを抜けたところで規制線が張られて漁港に入ることさえできなかったらしいけれども、今日は船溜まりの手前まで入ることができた。



これはあとで聞いた話だが、そこから先は爆発現場になるので漁師も自分の船まで行くことができず、今日は休漁になってしまったらしい。

お腹の調子が悪く、バイクのガソリンを入れてトイレを借りて再び雑賀崎へ。
目的は昨日できなかったことをやることなのだが、とりあえずスロープを管理している人に電話をして、先に予約していた日程は希望している人に譲りますということを話し、もし時間があれば機械の使い方を教えてもらえないだろうかとお願いしたら二つ返事で港まで来てくれるという。
そして、ウインチの使い方と高圧洗浄機のスイッチの場所を教えてもらったのだが、今日、上架していた人たちも親切にいろいろ教えてくれた。
そして偶然にも、その中のおひとりは僕の船の隣に係留していた船を譲り受けて乗っている人であった。この方の甥御さんはこれも偶然にSNSを通じて知り合った人で、彼を通じてもこのスロープに関して教えてもらっていて、その情報源となってくれたのが今日初めてあったこの人であった。名前も何も知らせていなかったのだが、和歌浦のスロープが使えなくなったのでここを使わせてもらえればと思っていますと伝えると、ああ、私の甥御から連絡がきてた人だねと声をかけてくれた。そして、もうひとりのひとはどうして僕のことがイレグイ号だとわかったのかはまったくわからないけれども、ブログたまに読んでますと言ってくれた。和歌浦のスロープの一件もブログに書いていたので気付いてくれたのだろうか・・。こういう時はありがたいけれどもなんとも小っ恥ずかしい感じにもなるのである。

それでも、なんかだ、ここでも受け入れてくれるかもしれないという希望を持てたことはすごくうれしいことだったのである。
そして、昨日の事件のことをえらいことがおこりましたねと話したら、夕べは遅くまで騒がしかったことや、漁師も船を出せないとかいうことを教えてくれたのだ。

家に帰り、Nさんに、今日、管理人の方に会ってきましたということをLINEで報告をすると、Fさんの船の係留時の姿勢がおかしいので午後から港に向かいますと返信が来た。
これは僕も行かねばと午後の用事をキャンセルして港に向かった。
Fさんに画像を送ると特に変わったことはなさそうだ。ということは碇の位置が先週の大風のときに船に曳かれて変わったのかもしれない。応急処置として曳けた分のロープを絞って作業をとりあえず終えたのだが、そのNさんはまさに昨日、あの現場にいたというのだ。それもあの観衆のほぼ最前列であのパニックを経験したという。
NHKで流れた動画はNさんが撮ったものだったというのも驚きだ。



今なら笑って話ができるが、あの犯人が手に持っていたほうの爆弾が破裂していたらNさんも大けがをしていたのかもしれないと思うとやっぱり恐ろしい。

マスコミの取材はそうとうしぶとく、次から次へと別のメディアがやってきたそうだ。それに加えて警察も情報が欲しくて何度も時宅を訪ねてきたらしい。
しばらくしてやってきたNさんの友人のスマホには各マスコミから送られてきたメールが山ほど残っていた。これが1日のうちに行われたのである。



その他もろもろ捕り物劇では犯人確保に協力した漁師のほうが人相が悪かったので一緒に警官に取り押さえられ、「ワシやない!!」と助けを求めていたことや犯人が手に持っていたのは起爆装置ではなくただのライターだったのだとか、なかなかリアルな話ばかりだった。
映画を一本観そこなったがなんだか得をした午後のひと時であった。


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「もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学」読了

2023年04月13日 | 2023読書

ダニエル・Z・リーバーマン マイケル・E・ロング/著 梅田智世/訳 「もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学」読了

ドーパミンについて書かれた本というのは何冊か読んだが、この本は正真正銘、ドーパミンを中心にして書かれた本だ。
ドーパミンというと、脳の中で分泌される快楽物質だと要約されるが、その働きはもっと多岐に渡ると著者たちは分析する。
それは人の情動のほとんどを司っているというほどなのである。
著者は情動を司っている様々な物質を影響を及ぼす距離感で分類している。その区分は、手の届く範囲(身体近傍空間)とそれよりも広い範囲(身体外空間)に対してである。
手の届く範囲に対して影響を及ぼす物質はその現状に満足し、愛しむ効果を生みだす。それそれよりも広い範囲に影響を及ぼす物質は、すぐに掴める領域の外にある世界を追いかけ、支配し、所有したいという欲求を生み出している。すなわち、今よりもより良く、より速く、より安いもの、より美しいものを求める情動である。それがドーパミンである。
ドーパミンが求めるのは報酬予測誤差というものである。それは、予測もしていないサプライズのことであり、そのようなサプライズがあったとき、ドーパミンは活性化され、人は脳の中で快楽を感じる。その快楽を求めて新たなものを探し求めるのである。
言い換えれば、新しいものを求め続ける冒険心ともいえる行動をもたらすのがドーパミンであり、現状を維持し愛する行動をもたらすのがこの本ではH&N(ヒア&ナウ)と呼ぶ物質である。それはセロトニン、オキシトシン、エンドルフィン、エンドカンナビノイドなどである。
ドーパミンを生産する細胞は脳細胞の中の0.0005%、20万個にひとつしかない。そのわずかな細胞が手の届かない広い範囲を求める原動は、それは人類が生き残るための原動力となり、地上の支配者となる原動力となった。
この本では、そういったドーパミンの特性を『もっと』という言葉で表現している。

人間の人生の中での情動の遷移とはこんな感じだ。
新たなものを手に入れた人間は、そのものに対して愛情を注ぐようになり、新たなものに対しては興味を失う。脳の中ではドーパミンの働きによって新たなものを探し求め、H&N物質がその得られたものを愛しませる。
典型的な例は、人の人生のなかに現れている。恋をして家庭を持ち家族に愛情を注ぐという過程だ。ドーパミンが司る初期の恋愛すなわち、「熱愛」は、12ヶ月から18ヶ月しか続かないという。その後もカップルが絆を保とうとすれば、「友愛」と呼ばれる違う愛を育まねばならない。それを司るのがH&N物質なのである。

ドーパミンはその働きで個人の性格や民族性までも決定づけているという。著者たち自身もそれは極論かもしれないがと断ってはいるが、なるほどと思える事実がある。
例えば、アーティストと呼ばれる人たちだ。この人たちはドーパミンの影響が強い種類の人たちだとされている。常に新しい表現を追い求めているのがその特性で、それは恋の対象に対してもである。落ち着いたと思ってもすぐに次の恋の対象を追い求める。だから離婚率も高くなってゆくのであるというのだ。
また、移民も同じである。新天地を求める人たちもドーパミンの支配を大きく受ける。そういった人たちには起業家が多く、その代表的な国がアメリカである。シリコンバレーのスタートアップ企業の創業者の52%は移民か移民の子孫である。アメリカの総人口に占める移民の割合が13%だというので、その数値は相当なものである。
政治家の中では、リベラルな考えを持つ人たちはドーパミンの支配が大きいとされている。現状に不満を持ち、体制に対して異議を申し立てる。対して保守派の人たちはH&N物質に支配されている傾向が強いのである。

そういう意味では粘り強さというものもドーパミンが関係している。
ドーパミンには「もっと」という欲望のおもむくままの行動をさせる部分と、もう少し冷静に考え、自分にとって価値のある「もっと」は何かということを考えて行動させる部分もある。これをこの本では「制御ドーパミン」と呼んでいる。
人間の場合、成功を可能にするためには、まず成功できると信じる必要がある。それは粘り強さに影響を与えるのだが、それを「自己効力感」と呼ぶ。そして、自己効力感は他者にも影響を及ぼすことがある。成功を確信していると、それを無意識に感じ取とった相手から譲歩を引き出せてしまうという効果だ。制御ドーパミンを原動力とする圧倒的な自己効力感は相手を無意識のうちに服従させることもあるというのである。負ける喧嘩は避けたほうがよいというのである。
これ、今回のワールドベースボールクラシックの日本の優勝に至る道そのものではないだろうか。決勝前の大谷選手のスピーチがそれを象徴しているように見えた。
また、チームのように、目標達成のために形成される人間関係は「代理的関係」と呼ばれ、これもドーパミンに統制されている。こうした関係では、他者が自分の延長として機能し、自分の目標達を助ける代理人の役割を果たす。
対してH&N物質は「親和的関係」という平和的な関係をもたらす。
概ね人間関係というのは両者の要素があり、代理的関係が強すぎると搾取的になり冷静でよそよそしい雰囲気になり、親和的関係が強すぎると馴れ合い的だが愛情深い雰囲気になる。その塩梅がよい集団が強い集団であるというのだが、栗山監督やダルビッシュはきっとH&N、大谷選手など(侍ジャパンで僕が知っている名前の人は残念ながらこの3名しかいないのだ・・)はドーパミンタイプだったのだろう。

このように、何事もバランスが大切だ。バランスが崩れることは不幸なことである。バランスを崩したことで世の中を革新的に変えてきた人たちも大勢いるがそういった人たちが幸せな人生を送ったかというとそうとも言えない。優れた芸術家や科学者、ビジネスリーダーの多くは精神疾患を抱えていたと考えられるし、精神崩壊、自己破滅をも引き起こしかねなかったのである。
「もっと」、「もっと」という感情は歩みを止めさせない。気を緩めることはないし、立ち止まって手にした幸運を楽しむこともない。ただひたすら未来の構築で頭をいっぱいにしている。けれども、その未来は決して訪れない。なぜなら、未来が現在になったとき、それを楽しむためのH&N物質を活性化する必要があるが、ドーパミン活性の高い人はそれを忌み嫌い避ける傾向にある。未来が現在になった時点ですぐにまた未来を見始めるという繰り返しがおこるのだ。
それでは確かに心が休まらない・・。

自分を省みると、う~ん、その通りだと思えることがたくさんある。僕は明らかにドーパミンが不足している。
新しいことを追い求めることはないし、恋もしない。二つの関連からもドーパミンが少ないと考えられる。新しいものを買いたいとも思わないし、むしろ古いものを修理して使いたいと思う方だ。そして修理がうまくいくと前にも増して愛着が湧いてくるのである。
こまめにいろいろなところに行くが、毎年同じことしかしていない。むしろ、この季節のこの時期にここでこれをやると決まっているほうが安心するのである。
釣りの仕掛けでも新しい発想が生まれることがあるがそれを作ってみても試すことがない。
もちろん代理的関係を構築して目標を達成させようという気もない。
要は、“面倒くさい”のである。ドーパミンが少ないというのは面倒くさいと同義であるあるというのがこの本を読んでの結論であった。
バランスが大切である。ドーパミンが少ない時は、「ドーパミン!COME ON!!」と叫んでみようと思うのだ。

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加太沖釣行

2023年04月09日 | 2023釣り
場所:加太沖
条件:中潮 7:37満潮 
潮流:6:18転流 8:44上り0.9ノット最強 11:21転流
釣果:ボウズ

ちょっと寒いけれども天気は良さそうなので加太に行ってみることにした。
今日の気圧配置というのはこれも冬型というのだろうか、やたらと寒い。少し暖かくなってきていたからその落差のせいもあるだろうが、ヒートテックの上下を着ての出発だ。

天気だけ見て潮流時刻を見ていなくて、船に乗ってから見てみるとこれはまことによくない流れだ。潮が緩いうえに転流に向かっている。
事前に見ておけば釣りに行くのを躊躇するところだが、まあ、燃料も買い溜めしているのでこれもよかろう。

とりあえずどこから始めようかというところだが、上り潮が残っているいじょうやっぱりテッパンポイントからだろう。



高仕掛けで始めてみるが、みごとに反応がない。その後もナカトシタ、ジノセトと転々としてみるがやはりただのひとつもアタリがない。

 

アタリがないので昨日のことをつらつら考えてみたのだが、人類が宇宙に生活圏を広げる時代、少なくともその初期の頃というのは間違いなく無機質なものに囲まれて生活をすることを余儀なくされる。長さ数キロにも及ぶようなスペースコロニーで重力を感じながら生活する時代というのは相当先になるのである。
自分の手で食べ物を得たいとか、土の匂いを嗅いでみたいとか思わず、葉緑体の移植の実現を待ち続けるというのはきっとそんな宇宙時代の初期の頃に順応するための準備なのではないのかと思い至った。ひょっとしてそういう人たちこそ真のニュータイプと呼ぶのではないだろうか。重力とマダニとアニサキスに魂を縛られたオールドタイプとは分かり合えることなどないのかもしれない。

底の方に魚か何かわからないが時折映るものがあるので底狙いの仕掛けを足してみるもフジツボの殻が引っ掛かってくるだけである。
そしてスラッジが多い。えてしてこんな日にいい思いをしたことがない。クラゲの破片も引っ掛かってくるから魚探の反応もこれなのかもしれない。



これくらいでポリタン1本分くらいは燃やしただろうということで今日は終了。

条件も気持ちもボウズで当然という日であった。

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コゴミ採り

2023年04月08日 | Weblog
今年もコゴミ採りの基準日である4月9日が近づいてきた。例年に比べるとかなり暖かいので先週行っておけばよかったとやきもきしながらこの日を待っていた。
本当は昨日、ズル休みをして行こうと思っていたのだが1日中雨が降っていたので軽油の免税申請だけで終わってしまった。




朝は午前4時に家を出た。ちょっと早すぎたか、あらぎ島に到着した時にはまだまだ薄暗かった。



途中、二川ダムのダム湖に映る満月もなかなかきれいだ。



夜が明け始める速度は早く、ポイントに到着した頃にはすっかり明るくなっていた。

さて、今年のコゴミはどうだろうと奥に入ってゆくと、やっぱり遅かった。ほとんどの株は大きく葉を広げてしまっていた。先週に行っておけばよかったという感じだ。



ただ、すべてがダメだというわけではない。小さな芽も残っているのでより分けながら摘んでゆく。今年は栄養不足なのか、それとも昨日の雨で一気に背が伸びたか、全体的になんだかひょろっとしている。

第2ポイントに移動。こっちもすでに遅くなっている。こちらでも小さな芽を選びながら摘んでゆく。まあ、なんとか食べる分は確保することができた。
少しやせ気味だが昨日の雨が霧になってたっぷり水分を吸っているのでまことに瑞々しい。

桜との関連でいえば、ダムサイトのソメイヨシノが散り始めるときというのがコゴミのベストだと判断しているのだが、今年は完全に散ってしまっている。この部分を見てもやっぱり今年は季節が進むのが早い。



こうなってくるとコシアブラポイントが気になってしまう。あそこはコゴミから1週間以内が採りごろだと考えているのですでにいい時期に入っているのか、もしくはこっちも遅すぎかもしれないと思うと焦ってくる。本来なら森に暮らすひまじんさんのお供として行かねばならないところだがこっそり抜けがけしまった。今年はまだひまじんさんの帰還が完了していないのだ。
その前にこちらもこっそりと秘密のワラビポイントに向かった。
しかし、山の気候はまだまだ冬を引きずっているようで、山頂の気温は到着した時刻で摂氏6度。地熱も上がっていないようでほとんど芽が出ていない。ひと通り巡ってひと握り分。おひたしでひと皿分くらいだった。



この周辺にはタラノメもある。タラノメはベストで、しかも誰にも盗られていないのでて大きな芽を採ることができた。

 

最後にコシアブラのポイントへ。
ここもまだまだだ。季節の進み具合は山で例年通りに収束するかのようだ。この分だと来週が採りごろという感じなのでそうなると例年通りだ。



コゴミの感じだとヤマウドもかと思ったがコシアブラの具合を見ると探すまでもないだろうと生石山を後にした。


僕の山菜採りはこれで最後ではない。荷物を下ろしてガソリンスタンドに向かう。床マットやシートに掃除機をかけてやっと終了なのだ。



車を奥さんと共有するようになってから気を遣ってしかたがない。基本的に僕のやることのすべては汚れたことであると思っているのに加えて、どこの病院なのか知らないが、3ヶ月の間に救急外来で死んだのがマダニに噛まれた人だけだったというような本当かウソかわからないような話を聞いてきて余計に僕は汚れているということになってしまっている。
大体、こんな個人情報か機密に近い話、誰から聞いてくるのだ・・。
そんなことを言っていたら生石山の別荘に住んでいる人たちは近いうちに絶滅してしまうと思うのだからおそらくは奥さんの妄想なのだろう。
こんなことなら自分の車を手放すのではなかった・・。と言ってもあとの祭りだ。

おまけに、夕食の席での会話は、コゴミはかつお節みたいなゴミがいくらでも出てくるという愚痴だ。まるで採ってきたことが罪だと言っているがごとくなのである。
そんなことを聞きながら山菜を食べても全然美味しくはない。

身体の表面に葉緑体を移植できれば風呂桶に片手を突っ込んで何もせず光合成しながら一日を過ごすのではないかというのは彼女の家系らしく、義理の父親も体を患っているとはいえ日常生活をひとりで過ごせているにも関わらず5年間ほど庭の木を一切剪定しなかったので茫茫たることになってしまい、見かねて剪定してやると僕の家の庭の半分もない面積で出てきた剪定クズが叔父さんの軽トラックいっぱいになってしまったほどなのである。
健康的で文化的で無機質な生活というのが理想なのだろう。
結婚した直後にも、ビデオか何かの簡単な配線をし直してあげると、「こんなこと、自分でできるの?」と感動されたことがあった。こういうことは電気屋の仕事だと思っていたそうだ。ちなみに電気屋もそんなことでおカネを請求していたそうだ。
そんな人間たちに僕の遊びについてとやかく言われたくないのであるが、情勢は確実に常に僕のほうが不利なのである。
だから僕は、体が動かなくなるまで肩身の狭い思いをしながら山と海に向かうのである・・。

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「日経テクノロジー展望2023 世界を変える100の技術」読了

2023年04月04日 | 2023読書
日経BP/編「日経テクノロジー展望2023 世界を変える100の技術」読了

2030年は地球規模での分岐点だそうだ。NHKスペシャルでもそういったことが放送されていた。気候変動、人口減少、高齢化社会・・。
そいった問題を解決するかもしれないテクノロジーを日経BPが100個選んで紹介されている。日経BPというのは、『経営(ビジネス)、技術(テクノロジー)、生活(ライフスタイル)の広い分野で先端・専門メディアを発行』している企業だ。今の僕には残念ながらまったくご縁のないメディアである・・。
このタイトルの本は毎年出版されていて、その年度に注目されている技術で、しかも近い将来に世界を変えるであろう技術を僕みたいな島流しにされたビジネスパーソンではなく、一流企業の最前線で働くビジネスパーソンがそれぞれに対してどれくらいの注目度を持っているかという期待度と一緒に紹介されている。出版されたのは去年の9月だ。

紹介されているテクノロジーをざっと眺めてみると、バーチャル空間、エネルギー、食糧、医療に対するテクノロジーが多い。夢のような素材などがない分かえって現実的で、しかも7年後に世界を変えるかもしれない技術というので、すでに話題になっているものも含まれている。
国産の量子コンピューターが稼働し始めたというニュースはつい最近だし、チャットGPTはこのひと月ほどでいきなり大きな話題になった。僕も試しに、どうして僕は魚釣りが下手なのかということを聞いてみると、こんな答えが返ってきた。
『 イレグイ号クロニクルⅡさんが釣りが下手なのかどうかは分かりませんが、釣りには様々な要素があり、釣果が出ないことはよくあることだそうです。また、釣りは運も大きく関わるため、運が悪い日は釣果が出ないこともあるかもしれません。イレグイ号クロニクルⅡさんは、釣りを楽しむことを大切にされているようですので、釣果が出なくても楽しめるように心掛けているのかもしれませんね。』
意識を持たないはずのAIが意識をもった人間のような文章を書いているのに驚かされる。
バーチャルプロダクションというのも、一昨年の紅白歌合戦で坂本冬美が歌った場面で使われていたが、新年度のNHKニュースセブンでは掲示板のセットだと思っていたものから画像が突然浮き上がってきたのには驚いた。セット全部がこの技術で作られているようである。
トークンなんて、これは何だと思っていたら、僕もすでにネットバンキングで使っていたりしていた。新たな技術は世界を変えるとまでいかなくてもすでに実生活に侵入しているのだ。
人工肉や自動運転となってくると、そんな肉を食べなくてはならない時代が来るのは嫌だなと思うし、半自動運転の恩恵を受けながらもこれが完全な自動運転になってしまうと車を操る楽しみはどこに行ってしまうのかと悲しくなってくる。
まあ、7年後とはいえ、これほどの技術が僕みたいな貧乏人にまで浸透するにはもっと年月が必要になるはずだから美味しいかどうかわからない肉を食べることもないだろうし、眠っている間に釣り場に到着するということもないだろう。

どれを見ても、「そこまでやらなくても・・」と思えるテクノロジーではある。本当に人間を“機械のゆりかご”に押し込めてしまいそうなテクノロジーである。
釣り具を通して僕が考えるテクノロジーの適正なレベルというのは、「一定のクオリティを超えるとそれ以上は必要ない。」というものである。そこまでおせっかいを焼いてもらわなくてもいいのである。
しかし、時間や労働力を含めたすべての資源管理という部分では、そうまでしなければ人間は地球上の資源を食い尽くしてしまうのも事実かもしれない。
人間が宇宙に進出して地球環境への負荷を減らすことができる時代が来るまではなんとか現状維持をしなければならないということなのであろう。空気中のCO₂を直接回収して資源化する人工光合成やとりあえずコンクリートに閉じ込めて建物を作るというのは資源と環境面に対して有効な手段だと思う。
しかし、ことエネルギー分野についていうと、小型原子炉くらいが掲載されているだけだ。太陽電池や風力発電の効率化のブレークスルーは訪れず、核融合エネルギーの実用化などはもっともっと先のようである。

ここ数年、一流ビジネスパーソンが最も注目しているのは介護ロボットだそうだ。今の時点ではまったく影も形もないようだが、2030年には1000人の一流ビジネスパーソンの半数が実用化に期待しているそうだ。高齢化社会や人口減少による介護の担い手不足を考えると妥当なことだが、それよりも、今一番おカネを持っている人たちがこれからすぐにでも介護が必要になってくる人たちだ。間違いなくビジネスとして成立するはずだから一流ビジネスパーソンが注目するのも無理はない。この本では、ヒト型介護ロボットの登場を期待しているのだが、僕が介護を必要とする年齢になるのは2030年のさらに10年後くらいだと思うが、こんなものにお世話になるのはまっぴらごめんだと思うのである。

高齢化への対応というと、医療ロボットや新たなガン治療、気管挿管を必要としない酸素吸入の技術が注目されているらしい。がん治療では光を使ってガン細胞を死滅させるという技術だそうだ。楽天の三木谷浩史が相当な投資をしているらしい。酸素吸入はドジョウが腸で空気呼吸器をするという性質を応用しようとしているというのだから恐れ入る。
医療ロボットでは、ダビンチのような手術ロボットだけではなく、投薬、医療機関の清掃などまでもロボットがやってしまう時代が現実味を帯びている。
ここまでテクノロジーが進歩すると人間の平均寿命はどこまで伸びてゆくのだろう。しかし、この問題に限っては僕の中では各論と総論にまったく逆の見解が出てくるのだが、健康的で文化的な生活ができなければこんなテクノロジーはまったく意味をなさないのではないかとも思えてくるのである。個人的に注目していたのは、「若返り」の技術だが、この本にはそういうものはまったく出てこなかった。その仕組みは解明されつつあるようだが、実用化というとさらにもっと未来のことのようだ。その時には僕はもう恩恵を受けるほどの体力が残っていないかそれとも生きていないのだと思う。それも仕方がないと思うと同時に、そんな、“機械のゆりかご”のようなものに自分の命をゆだねたくはないとも思うのである。

やっぱり、テクノロジーはほどほどがよいというのが僕の今の思いである。
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加太沖釣行

2023年04月02日 | 2023釣り
場所:加太沖
条件:中潮5:03満潮
潮流:4:41 上り3.0ノット最強 8:39転流 11:18下り2.0ノット最強
釣果:ボウズ

二日目は加太へ。
夜明け前に船を出して禁断の仕掛けを流すが不発。



今日は釣り公園の前まで流したが、閉鎖されているにもかかわらずたくさんの人が釣りをしていた。よく見ると自転車が数台置かれていた。車は無理でも自転車ならここまで来ることができるのだろうか。
そして、僕の仕掛けには喰ってこないのに、ひとり、魚を掛けている人がいた。

防波堤の先っちょまで行って加太へ。

午前6時半ごろに加太に到着。天気予報を確かめずに、今日はいい天気だと思ってやってきたが、ものすごい風が吹いている。いつもはへにゃっとなっているフラッグもずっとたなびいたままだ。



まだ上り潮が残っている時間なので船が集まっている第2テッパンポイントに入ったが、まったく仕掛けが立たない。ギアを前進に入れっぱなしにしながら高仕掛けを操る。
こんな日はまったくダメだとあきらめていると、アタリが出た。
感じでは青物っぽい。上に上がってくるにつれて引きが強くなる。意外と大物かと慎重に引き上げていくと本当に大物のサワラだ。これはもう、サワラと言っていいほどの大きさだ。水面下までハリスを切られることなく引き上げられたのであとはタモ入れだけなのだが、タモに比べて魚が大きすぎる。おまけに風で船は流されているし、当然魚も暴れる。
身体の半分くらいはタモ入れできたがその後スルッと抜けてしまった。そしてそのまま逃げていってしまった・・・・・・。

こんなに悔やまれることはない。今日、唯一のアタリで、しかも飛び切り美味しい魚で、しかも超大物だ。なんと言ってもサワラは魚偏に「春」と書くくらいだ。
潮が下りに変わる頃、コイヅキには大きな船団ができていたので僕もそこに移動していたが今日は落胆の度合いが強すぎた。



風はどんどん強くなり、逃した大物を悔やみ続け、やる気がなくなり、安全面にも不安が出てきたので午前9時半に終了。
今日も桜だけはきれいだが、二日続けてボウズというのはなんとも立ち直れない・・。



なんとかとれたのは和歌山港に入港する豪華客船の写真に偶然映ったボラだけであった・・・。



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