イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「葉隠入門」読了

2018年01月30日 | 2018読書
三島由紀夫 「葉隠入門」読了

「葉隠」という書物は、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という言葉で有名な本である。佐賀鍋島藩士の山本常朝(じょうちょう)が語った言葉を藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめたものだそうだ。
時代は元禄の頃、戦のない時代、武士は政治家、もしくは公務員といような立場になりもののふという気概を失くしてしまったのではないだろうかという嘆きを込めて語られたらしい。それを三島由紀夫が解説しているというものだ。
もう少し付け加えるならば、上記の言葉だけがひとり歩きしたせいで、特攻隊の正統性を支持していたとか、男色の話があったりで世間的にはあまり日の目を見なかったようだが武士の間で密かに受け継がれ、三島由紀夫が解説したことで再び有名になった。
ぼくがどうしてこの本を知ったかというと、いつも山菜採りでお世話になっている森に暮らすひまじんさんが、年末からワイドショーをにぎわせている貴ノ岩の暴行問題によせて貴乃花親方について書かれたブログの中で取り上げられていたからだ。

さて、その物議をかもし出した“死ぬ事と見付けたり”とどういうことを言っているのか。
そこにはふたつの意味が込められている。
武士の最後の最後の選択というのは生き続けるか死を選ぶかそれに尽きる。死ぬということはそれで終わるわけだが、生き続けるということにはとかく言い訳がいくつもついて回るものだ。そんな言い訳をするくらいなら死を選んだ方がよいのだ。その選択が間違っていたとしても、死を選んだことに後悔することは決してない。もうひとつは、武士というものは、自分ひとりで藩を背負っているのだという気概をもって何事に対しても死に物狂いで取り組まねばならない。というものだ。そう考えるとそんなに危険な思想とも思えない。
奉公人として、組織の全員を敵に回しても自分が正しいと思うことを貫き通すという心構えは確かに貴乃花親方の動きに当てはまるような気がする。最初はなんだかひとりよがりのような感じがしていたけれども、その後から出てきたいろいろの事件を見ていると、貴乃花親方はムラ社会のような協会の体質に意義を唱えなければと考えるのは武士道(相撲道?)に従った行動ではなかったかと思えてくる。

僕の奉公人としてのスタンスはどうだろうか。親方とはまったく逆なのだ。身を挺して組織の問題点を正そうとか自分のアイデアを一所懸命訴えようとかそんな気概がまったくない。上に立つ人たちにも同じように葉隠に書かれているような心構えもあるように思えないけれども、とりあえずは長いものには巻かれておいて、この人、何バカなことを言っているの?と心の中で思っても、こちらがバカになったふりをして、かしこまりました、勉強させていただきました。と言われたままに行動するのが一番楽なのである。何をしたからといって短期的には大差はない。僕は経営者ではないので会社の将来に対しては大して責任を負う義務もないだろうと自分の能力と気力の無さの言い訳にしているのだ。
これはあきらかに死に物狂いの行き方ではないように思うので三島由紀夫には、すぐに死んでしまえ!と叱られるに違いないけれども、まあ、許してくださいませ。

本の後半は葉隠の原文と翻訳を抜粋した形で掲載されているけれども、これはこれであまたの人生訓が書かれている。全体を通して常朝が言いたいことは、常に死を身近に置くことで緊張感を忘れず、死後に汚名を残さないように身だしなみにまで気を使え。信念を貫くことで自分自身にも悔いを残すな。それが武士道ということだ。となるのであろう。
爪はいつも磨いておけとか、気分が悪くて顔色が悪い時には顔に紅を濡れとか、緊張しているときには耳たぶに唾を塗れとか、なかなか実用的というか、俗っぽいというか、そんなことも書かれているところも面白い。

しかし、なかなか実践は・・・。

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「開高健の文学世界」読了

2018年01月24日 | 2018読書
吉岡栄一 「開高健の文学世界」読了

著者はオーウェルの研究者だそうだ。僕は1冊も読んだことがないけれども1年ほど前、「共謀罪(改正組織的犯罪処罰法)」が成立するかどうかというときにオーウェルの物語のような世界になってしまうぞなどとマスコミが騒いだので広く知られるようになったように思う。そして著者は師は若い頃にオーウェルに傾倒し、無意識のうちにその作品が相当な影響を受けているというのだ。

確かに師には「動物農場」の翻訳があるけれどもそうだからといって師の著作にオーウェルの影響が色濃く反映されているというのはあまりにも独りよがりのような気がする。
著者によると、師が世間に認められるようになった「パニック」や芥川賞受賞作「裸の王様」にもその寓意性が共通していて、その後発表されている小説やノンフィクションにもいたるところにその痕跡が見られるというのだ。
しかしながら、この本にも書かれているけれども、師は若い頃に読んだことがあるけれどもそれほど心に残るものがなく、後年興味を持ったということなので、ご本人がそうではないと言っているにもかかわらず、いやいや、そんなことを言いながら心の奥底ではそうとうな影響を受けているに違いないのだと論ずるのはどうも合点がいかない。そもそも、師は小説を執筆するときには他の作家の影響を受けたくないという思いでまったく本を読まなかったそうだ。読んだのは聖書や百人一首、レストランのメニューくらいだったらしい。

僕は「パニック」や「裸の王様」に寓意性みたいなものがあるとは思えない。しいて言えば、人間というのは、どうしようもなく自分らしく生きることができない生き物であるということを伝えたかったのではなかったのだろうか。いや、そういうことさえもなく、あとは自分で考えろということに違いないとも思う。それが純文学というものだ。ましてや、後期のいわゆる求心力で書いたと言われる一連の作品には寓意性はないだろう。きっと。
そういう無理な主張を除けばすこぶるよくわかりやすい書評になっていると思う。たくさんの他の作家や評論家の書評が紹介されていたり、作品の紹介が時系列にされているというところも師の歴史を追いやすいところだ。

著者はたまたま読んだ師の翻訳した「動物農場」読み書評を書こうとしたらしいけれども、多分、共謀罪のおかげでオーウェルという作家が世間に知られるようになって、急いで出版を考えたのではないだろうか、だから、あまりにも誤字と脱字が多い。こんなに多い本も珍しいのではないだろうか。それも文学作品の書評でありながら。だから余計にオーウェルの影が作品の随所に見られるという主張がまったく嘘っぽく見えてくる。
普通に書いてくれればかなり親切な本であったことを思うと残念であるけれども、これまた普通に書いてしまうとあまり世間受けしないというジレンマがあるだろうと思うと、まあ、こうでもしなければ仕方がなかったというところだろうか。
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水軒沖釣行

2018年01月22日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:中潮9:44満潮
釣果:ボウズ

天気予報の雨が降り出す時間が徐々に遅くなってきた。おとといくらいには午前9時頃であったが昨日にはお昼前に変わっていた。風は北東で変わらず。
これで釣りに出られる。どちらにしても寒くて雨が降ってくるし、整形外科にも行かなければならないので行き先は水軒沖だ。

港に向かう途中、水軒川の堤防走っていると時折強い風が吹いてくる。春先はけっこう強い東からの風が吹くことがあるけれどもこんな経験も珍しい。

港に到着してみると渡船屋は休業。



これも不安な材料だ。
しかし、港の中はまったく無風状態。とりあえず出港だ。
いつものポイントに到着した時点ではそれほど強い風ではなく、30号のオモリで底を捉えることができていたけれども間もなく風が強くなってきた。
先に釣りをしていた船もどこかに行ってしまい、35号のオモリでも底がわからなくなってきた。



風が強くなると寒さはどんどんつらくなり午前8時に終了。
今日の教訓は、渡船屋が休むほどの日には釣りに行ってはいけないということだ。

家に帰って4か月ぶりの整形外科へ。
今日も診察時間2分で終了。こっちも期待していないけれども向こうも適当な気がしてならない。
「痛くなったら言ってね~。」と言われても痛いから来ているのではあるけれども・・・。



記録:




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加太沖釣行

2018年01月15日 | 2018釣り
場所:加太沖
条件:大潮 6:07満潮 11:21干潮
潮流:6:11 上り3.3ノット最強 10:07転流
釣果:真鯛3匹 ハマチ 2匹

今朝は寒い。ものすごく寒い。どれだけ寒いかというと、三輪車のハンドルを持つ手はわずか5分ほどで指が痛くなり、デッキのバケツには氷が張り、



濡れた錨のロープを持つとそれだけで凍える。3本指が切れている釣り用の手袋では両手の中指の感覚がなくなってしまっている。エンジンオイルも相当粘度が上がってしまっているようでフィルターの目詰まりの警告灯が光っている。そんな寒さだ。

あまりにも寒いので今日はゆっくり午前7時に出港。風がなく快調にスタート。前回の釣行とは大違いだ。

 

出港前は今日はいったいどうなるんだと恐れをなしていたけれども、朝日が差してきてなんとか一息つくことができた。指先も少しづつ感覚を取り戻しつつある。



加太に到着した頃には少しづつ潮が緩くなっていく時間だ。とりあえず上り潮なのでいつものテッパンポイントに行きたい。しかし、遠目からみているとそこは帝国軍に占領されてしまっている。う~ん、どうしようかと逡巡しているとポイントの東の端に空間が空いていた。魚探にも反応がある。すかさずそこに入って仕掛けを下すといきなりアタリ。ふた巻き目だった。真鯛だ。なんと幸先のよいスタートだろう。これはきっと茅渟神社のご利益だ。間違いがない。
おだんごクラブの岩さんが先日の釣行で仕掛けが着底したらすぐに巻き始めるのではなくて一度仕掛けをあおってから巻き始めるとそこでアタリがでることがあるとアドバイスをしてくれた。
今日はまさしくそのメソッドが効果を発揮した。ハマチはもとより、2匹目の真鯛もそんな誘い方でヒットした。

5匹目はかなり大きかった。多分今日釣ったハマチよりひと回り大きなハマチのような感じであった。5分くらいやり取りをして仕掛けの部分を持った途端に走られて、スナップのすぐ下の幹糸が切れてしまった。枝素ではなくて幹糸が切れてしまったのだ。多分傷が入っていたのだろう。前々回からずっと使い続けていたのが仇になった。まだ新しいから十分使えると思っていたが残念だ。

この時点で午前9時。今日は潮止まりの時間帯でガシラを釣ってみようと夏に使ったイカナゴの残りを持ってきたがこれは不発。
すぐに最近の下り潮の定番ポイント非武装ポイントへ移動。しかし、今日はなんだか感じがよくない。ゴミが多くてクラゲも漂っているようだ。この時点で僕の集中力が途切れてしまった。
もっと潮の通りのよい地の瀬戸に向かうがここは潮が早すぎる。帝国軍の軍港の前に差しかかり、魚探を覗くと魚の反応がある。急いで仕掛けを下すとすぐにアタリがあった。今日の3匹目の真鯛。
ここで完全に集中力が枯渇してしまい午前11時30分に終了。

今日の真鯛はものすごい脂だ。間違いなく美味しい。
毎度毎度刺身では味気がないので鯛めしのついでにカルパッチョにしてみた。半身はホイル焼きにしたのだが、なんとも贅沢な夕食になってしまった。

 

記録:


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「ロマネ・コンティの里から - ぶどう酒の悦しみを求めて」読了

2018年01月13日 | 2018読書
戸塚真弓 「ロマネ・コンティの里から - ぶどう酒の悦しみを求めて」読了

著者はフランスワインと料理をこよなく愛するエッセイストと紹介されている。ワイン好きが嵩じてロマネ・コンティを生産する村のあるコート・ド・ニュイの丘に別荘を構えるほどになった。そんな人がロマネ・コンティをはじめブルゴーニュのワインや料理について綴ったエッセイである。
ちなみにロマネ・コンティというワインはヴォーヌ・ロマネという村で生産される多分世界で一番高価なワインでどんな安いものでも1本30万円は下らず、平均価格は約160万円もするらしい。
ネットに書かれているロマネ・コンティに関する文章はこんな感じだ。

ヴォーヌ・ロマネ村には6つのグラン・クリュ(第一級)畑があり、
そのすべての畑がブルゴーニュきっての極上ワインの原料となるブドウを生産しています。
それらのワインはラターシュ、リシュブール、ラ・ロマネ、ロマネ・サンヴィヴァン、グランドリュー、そしてこのロマネ・コンティです。
ロマネ・コンティの畑は他の5つの畑に取り囲まれ、「首飾りの中心の真珠」と呼ばれます。

名産地のさらに中心で生産されている超希少なワインということである。そして、師の短編に「ロマネ・コンティ 一九三五」というタイトルのものがあり、僕はこれを読んだことがあるのでたまたまこのワインの名前を知っていただけのことである。
すなわち、僕の生涯で1滴の雫さえ味わうことのないワインである。

僕が飲んでいるワインなどというのは、1本500円以下、今ではほとんどが360円ほどでたまに葡萄の品種が書かれたボトルもあるけれども、いろいろごちゃ混ぜにして作ったようなものばかりで薀蓄を述べるというには程遠い。1,000円を超えるワインも収納庫の下のほうに眠っているけれどもあまりにももったいなくて飲むことができない。昔から高価なルアーを使うのがもったいなくて、タックルボックスの中から出してラインを結ぶことができないという貧乏性なので仕方がない。
そんなことだからこの本に出てくる固有名詞も、産地の名前なのか葡萄の品種なのか、メーカー名なのか、さっぱり区別がつかない。区別がついたところで何か人生の参考になるものでもなくただ、ふ~んとうなるばかりである。
お酒が好きなら、著者の10分の1でもいいからこだわりを持てばいいと言われそうだが、そこもあやしい。

先日、日本酒のバーゲン品が出ていたので買ってきた時の同僚との会話である。
僕はどうも吟醸酒の匂いがあまり好きではなくて、とく料理と一緒に飲むには香りが強すぎると思うので、もっぱら醸造用アルコールを添加してすっきりしたやつが好きなんです。と話をしたら、同僚が、じゃあ、燗酒なんかはどうですか?と聞くので、燗だとやっぱり匂いが強くなるので冷酒で、それもかなり冷やして飲むのがいいんです。と答えると、それって、あんまり日本酒が好きではないということではないのですか?と言い返されてしまった。
自分では糖類とアミノ酸を添加した日本酒は絶対に飲まないぞと心に誓い、最近はかなり崩れつつあるけれども紙パックのお酒も買わない主義であるのでそこはやっぱりお酒には一家言持っているのだと自負をしていたけれども、う~ん、そう言われるとそうとも取れなくもない。純米大吟醸などとなると、到来物でなければ口にすることはないけれどもやっぱり、濃い!!と一瞬ひるんでしまうのだ。

結論は、ただの貧乏性でお酒は酔えればなんでもいいという人間だったのだということだ。
ただ、安いお酒で十分満足できてしまうのだからこれほど経済的なことはないではないかとこれはこれできっと幸せなことなのだ・・・。

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えべっさんと最後のジェダイと大漁祈願

2018年01月11日 | Weblog
今日は寒い1日。釣りには出られない。スターウオーズだ!



映画なんかはDVDのレンタルがはじまってから観ればいいと思っているのだが、この映画は別物だ。僕も2年ぶりに映画館に足を運んだ。

その前に水門本ゑびす神社へお参り。
寒い朝で残り福の日とあって参拝者はぼくだけ。



ゑびす様は僕をよく見てくれていただろうか?

その後映画館へ。
今回の作品は2時間40分の長丁場だ。物語が長いのはありがたいけれども中年の男性には尿意が心配になる時間だ。少し早い目に到着し、館内の気温に体を慣らし3回もトイレに行っていざスクリーンのある部屋へ。
封切りから1か月あまり経ち、寒い日ということだろうか、ほぼ貸切状態だ。というか、400席の館内で5人くらいしか観客がいない・・・。


ストーリーは話さないけれども、なんだかあんまり進展がなかったような・・・。ただ、映像は素晴らしいし、レイはかわいいし、ルークもかっこいい。教団Xにもつながるようなテーマもあって、これはこれで2時間40分があっという間に過ぎてしまった。

ここはガーデンパーク和歌山というところにあるのだが、こんなところでもで何もやることがない老人が寒さしのぎと暇つぶしのためにベンチを占領している。映画を観る前に見た人が出てきた後でも同じ場所に座っているということは多分毎日、1日中この施設の中をウロウロしているに違いない。僕の勤務しているところにもそんな老人がいて、僕は地縛霊とあだ名しているが、開店から閉店前までずっとベンチに座っている。これも時代なのかと悲しくなるし、自分の行く末もこんなことになってしまったらどうしようかと不安になる。ジェダイはパダワンを導くものだが、こういう人たちは後輩を不安に陥れているだけではないのかと悲しくもなってくる。また、なぜだか、財布をそれもファスナーのついた大きいやつを人の目につくように持ったり置いたりしている。これはきっと、僕はお金がなくてここにいるんじゃないんだよ。ただここにいるだけなんだよ。お金はちゃんと持ってるからこの施設に来ているお客様なんだよと主張していかのようだ。あの財布はジェダイが持っているライトセイバーと同じ意味合いを持っているにちがいないのだ。

映画のあとはかねて訪ねたいと思っていた茅渟神社へ。

 

「ちぬじんじゃ」と読む。この、“茅渟”という言葉は、大阪湾の浅い海のことを指す言葉でもある。大阪湾はかつて「茅渟の海」とも呼ばれていたことがある。ちなみにこの浅瀬で船が座礁しないように澪筋を示すように立てられているのが大阪市の市章になっている澪標(みおつくし)である。
そんな海域にたくさん生息しているさかなだからチヌはチヌと呼ばれているという説もある。だからこの神社はいつのころからか釣り師のなかでは好釣果のご利益がある神社として知られるようになったのだ。神殿の鴨居にはなにやらチヌの剥製らしきものもある。確かにご利益がありそうだ・・・。





そしてこの神社の名前の由来になった茅渟の海と今の勤務地、そして水門本ゑびす神社、僕の住んでいる場所は不思議なつながりがある。それは古事記に出てくる初代天皇、神武天皇の物語だ。
神武天皇がまだかカムヤマトイワレビコノミコトと呼ばれていたころ、兄のイツセノミコトと九州から東征したとき、僕の勤務地から電車に乗って生駒山のほうに向かって行った今の東大阪の辺り、蓼津というところでナガスネヒコというこの土地の豪族らしき一団と高かったときに傷を負った。
傷を負ったまま南へ下り水門本ゑびすの辺りに上陸した。そこで力尽きて亡くなったとのことである。イツセノミコトが道中に血をぬぐった場所だったので“血をぬぐう”→“ちぬ”という言葉が生まれたらしい。
イツセノミコトは紀伊の国の竈山に葬られたと古事記には記されていて、そこは僕の自宅から目と鼻の先にある竈山神社になっているのである。



めったに買わないお守りを買い、今年の海上安全と好釣果ををお願いしてみたが、釣果はまあ二の次として安全に魚釣りをさせてもらえればと切に願うのだ。

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「教団X」読了

2018年01月09日 | 2018読書
中村文則「教団X」読了

「R帝国」の作者の代表作をもう1冊読んでみた。この2冊は表紙も似ているが、テーマも共通している。
そのテーマはふたつ。ひとつは、人が正しいと信じ込まされているものは本当に正しいことなのか。宗教や政府の思想コントロール、マスコミのプロパガンダによってバイアスをかけられているものではないのか。
もうひとつは先進国と言われている国の繁栄は別の国が搾取されている結果であるということである。

このふたつは一見共通点がないように思えるが、自分が幸せだと思いたい、しかし、その幸福が他国からの搾取のもとに成り立っているということを知ってしまうとそうは思えなくなる。だから人はそれに気付かないふりをしたい。それを気付かないようにさせてくれているのが宗教であり政府の思想コントロールであるというのがこの物語の趣旨であり。それに読者は耐えられるのかということを問われているような気がする。
これが「R帝国」と本書に共通しているテーマのように思えるのだ。ついでになんだか主人公(のひとり)の結末もあまりにも似すぎている。

これはフィクションの物語りではあるけれども、人は罪悪感から逃れたいという、そういう心は必ず誰しも持っていて、それは時として誰かに狙われやすいものである。霊感商法や宗教の勧誘ならまあ勝手にやってくれというところだが、これが国家レベルでやられているのだとしたらどうだろうか。外に敵を作って国内世論をひとつにまとめようとか、国内を二分することによって均衡を保とうとかいうのは、どうもそこいらじゅうの国々がやっていそうなものように思える。そうなってくると一体真実とはどこにあるのか、そんなものはどこを探してもないのではないかとなってくる。

この物語ではその真実を露骨にセックスに求めているというのはどうも理解に苦しむところではあるけれども人間の欲望やそもそも動物の本質、意識が除かれた部分の最後に残るのは食欲と性欲だけだというところだろうか。

それに加えて、人間の意識とは、神とは、宗教哲学とはということを、量子物理学の世界までからめて教祖に語らせている。ある書評に、そういう論理をまとめ、導き出しているこの本は将来において傑作とよばれるにふさわしい。みたいな書かれ方をしていたけれども、一般向け程度の宗教や量子論の本を読んだことがある人間ならだれでもその共通点に気づくだろうし、自分を取り巻くすべてのものは記号に過ぎない。周りのことに左右されずに自分の前にある道だけを信じて進めというメッセージだけだとしたら560ページあまりというボリュームはちょっと多すぎるのではないだろうか・・。
まあ、サスペンス小説としてはかなり面白いものではあると思う。

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加太沖釣行

2018年01月07日 | 2018釣り
場所:加太沖
条件:中潮 10:23満潮
潮流:6:59転流 10:57 上り2.8ノット最強
釣果:ボウズ

新年早々各日での釣りなのだが、今日は天気も潮もいい。潮は僕の大好きな上り潮だ。

港を出た頃は東からの風で快調な出だしであったが田倉崎を越えるころには西からのかぜがかなり吹いてきた。速度を落とさないと波しぶきがものすごい。予想していたとはかなりの違いだ。
なんとか加太に到着したころは潮が止まっているのでまずは大和碓ポイントからスタートとした。
はるかテッパンポイント付近にはおびただしい数の船がひしめいている。こんな光景をみたのは初めてではないだろうか。毎年、年末は相当な船が出るけれどもこれほどの数を見たことがない。



対して大和堆は僕と帝国軍の艦船が1艘のみ。



釣れるかどうかはわからないが、帝国軍が1艘でもいるということは僕の見立てもまんざらでもないようだ。

魚探にはたまに反応があるがアタリはない。帝国軍もすぐにどこかに移動していった。
僕も1時間ほどここに留まったあと、テッパンポイントを目指して北上。
ここでもアタリがない。一度だけ小さなアタリがあって鉤を切られた。多分フグであったのだろう。
この海域もものすごい船の数だ。



しかしこの数を見てしまうと釣れる気がしない。どれだけの数の仕掛けが降ろされているのか。いくら鈍感な真鯛がいたとしてもこの仕掛けのすだれのような海域には入って来ないのではないだろうか。これだけの人たちすべてが真鯛を手にするわけではあるまい。そうなら僕は絶対に手にできない方の人間になってしまうのは明白だ。
そんなことを考えていると余計に釣れる気がしない。それでも最後の頼みの綱の銅板ポイントまで移動して仕掛けを下してみたがやっぱりアタリはなく、午前10時に終了。

アタリはなくとも今日の空はすこぶるきれいだ。アニメの「君の名は。」に出てくるような青空と雲。釣れない日は空を眺めるのにかぎるのだ。

 


家に帰り給油を兼ねて恒例の港周辺の神社をめぐる初詣。今年も釣果は二の次で安全に魚釣りができるようにとりあえずはお願いをしてみた。

        

記録:


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水軒沖釣行

2018年01月05日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 8:55満潮
釣果:コウイカ 7匹

今日は初釣りだ。しかし寒い。雨はすぐにも降ってきそうだが風も波もなさそうだ。
普通はこんなに寒くて雨が降るのがわかっている日は布団の中でゆっくり寝ているべきかもしれないが2時間だけでもやれると思うとやっぱり行きたくなってしまう。去年は60回も釣りに行ってしまい、やっぱり40回くらいが一般サラリーマンの妥当な釣行回数だと思っていたけれどもこんなことをしていたらまた今年も回数が多くなってしまいそうだ・・・。


雨が降り始めるまでできるだけ時間を稼ぎたいので午前6時に家を出る。普通なら午前6時を少し過ぎると東の空が明るくなってくるのだが今日はやはり雲が多いのでなかなか明るくなってこない。
ポイントへは午前6時40分に到着。



今日の午前7時の気温は3℃だったらしい。風がないだけましだけれどもそれでも寒い。船外機の小船は走行中、まともに風を顔に受ける。ハンドルを持つ手もかじかんでしまう。イカは握らずにスッテを持ってそっとバケツに落とさないと墨を浴びてしまうのだが、指先に感覚がなく力も入らないので今日はイカを外すのに苦労した。今もキーボードをたたく手がかじかんでミスタイプばかりしている。

気温は低くても波はほとんどなく、風も北東風で船はゆっくり南西方向に流れてゆく。25号のオモリではっきり底がわかる。いい感じだ。
しばらくしてアタリ。これはかなりはっきりわかったがすぐに放してしまったようだ。そのまま流してゆくと今度はかなりわかりづらいアタリで最初の1匹が乗った。
今年はかなり厳しいコウイカ釣りが続いているけれども、条件が合えばやっぱり釣れるのだ。その後は新々波止に沿って離れては戻りを繰り返して赤い灯台の前まで探る間に合計7杯。
イカが密集しているという感じではないがどこを流しても少しづつアタリがあるという感じであった。

午前8時を過ぎると淡路島の方ではかなり低いところまで雲が降りている。



朝の気象庁のホームページでは午前8時半には和歌山市内に雨雲がやってくるとなっていたので雨が降ってくる前に終了。
港に帰り後片付けをしているとぽつりぽつりと雨が降ってきた。帰りの道中には雨粒もいくらか大きくなってきた。風は全然ないので続けようと思えば続けられるのではないかと思うがちょうどいい時間に切り上げてきたものだ。



今日のコウイカたちはすべてかなり大きい。家で捌いてみると卵や白子もかなり大きくなっている。コウイカのシーズンも残りわずかのようだ。


家に帰ってネットの広告でみつけた磯用のクーラーバッグを買いに行った。



磯釣りもまだまだ諦められない。
今年も回数だけは多くなりそうだ。

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「熊野木遣節」読了

2018年01月01日 | 2018読書
宇江敏勝 「熊野木遣節」読了

著者の最新刊である。
前作と同様、人々の山での生活を淡々と描いている。熊野のとある山里で生まれそこで70数年の生涯を過ごしたシナ代という女性が主人公の短編集である。
時代は昭和の初めから平成を迎えようというころあたりだろうか。山奥の里に道路が通り人々の生活がどんどん変わってゆくなかで主人公は山里での生活を続けることを選ぶ。選ぶというよりそれが当たり前だというように田に稲を植え、畑を耕す。
何の野望も望みも無く、また、社会に貢献しようという気概もないけれども、家族を守り集落で力を合わせて生きてゆく。それはただ食べて生きるだけの行為にも見えるけれどもそれが清清しく感じるのは著者の表現力なのだろうか。それともすべての人の心のなかの本質というか基本の部分がそれを求めているからなのだろうか。

退屈な生き方だと思う人もいるのだろうが、少なくとも僕はあこがれる。石の墓場のような都会のほうが退屈に思える。真っ暗な寝床で、明日はこれとこれをやらなければ・・・と思いながら眠りにつく方がよほどいい。釣りに行くのも山菜を採りに行くのもそんな疑似体験をしたいからなのではないかと思うときがある。

シナ代の子供の彦治は昭和41年生まれ。ほぼ僕と同世代だ。多分、僕もそうやって時代の流れに少しは抗って生きてきたように思う。だからあまり組織にもなじめないのか。それはやっぱりその流れに乗り切れなかった父親の影響も大きいのだろう。でも、それが残念だとか悔しいだとかあまんまり思ったことがない。まあ、高級車に乗れるような収入を得ることもなかったから仕方がないといえばそれまでだけれども、不細工でも極力自分の作ったもので生活してゆくような、そんな生き方がうらやましくすばらしいと思うのだ。

年越しの読書としてはいい本にめぐり合ったものだ。

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