イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「甘えの構造」読了

2017年07月30日 | 2017読書
土居健郎 「甘えの構造」読了

この本は「甘え」という言葉をキーワードに、日本人の心理構造を解明しようとしている本である。出版当時はかなりの話題になり、ベストセラーとなったそうだ。

日本人は特に人間関係、特に集団と個人の関係において「甘え」の感情が強いと著者は分析する。「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」などという」態度は甘えられない心理に関係し、「ふてくされる」「やけくそになる」というのはすねるという結果出てくる現象である。
そして「同一化」というものが最終的な感情の帰結として求められることになるというのだが、それが日本人の独特な民族性のようなものに影響しているというのだ。
外国の文化を偏見もなく取り入れることができたことや、中央集権的な組織体制に馴染んでしまうことができる。その典型が天皇制である。
これはある意味、良い面であるが、悪い面は“個人”という認識が非常に薄くなる。それは集団の内と外があまりにも区別される。内々では恥の心理や集団への帰属で結束が強くなるが外向きには他人を顧みなくなったり、逆に対人恐怖症という傾向が出てくる。

僕のところに回ってくるクレーマーの方々を見ているときっとそういう心理なのだろうな~とこの本を読んで改めて思えることが多々ある。
相手は絶対に自分に反抗しないので何を言ってもいいという心理は甘えの現われのひとつであろうし、もっというと甘える相手がいなかったので誰かに甘えていたいという心、外に対しては他人を顧みないという態度がある種のクレーマーの典型のように見える。
不完全な人間の悲しい面を見てしまうとともに、自分にも不完全な甘えの心があるのだということが露見されて自分自身が嫌になってくる。
“セルフ・メイド・マン”でいたいと願いながら誰かに依存しないと生きてゆけない自分はひょっとしたら分裂症というものではないのかと疑いたくなる・・・。

著者は精神科医だそうだ。
こんな人には嘘はつけないということだろうか。
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紀ノ川河口釣行

2017年07月30日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 4:10干潮 10:04満潮
釣果:ボウズ

台風が2個日本に接近してはいるがまだうねりは小さそうだ。
長らく大きい方の船を動かしていないのとそろそろもう一度キスにも行っておかないと僕にとってのシーズンが終わってしまう。

夜明け前に出港して浜の宮に向かおうとしたが、一文字の切れ目を出るとそこそこうねりがある。
これはあまり気持ちがいいものではないので紀ノ川沖に向かう。潮が込み始める時間なのでそんなに流れも強くはないだろう。
今日は朝からなんだか嫌な雰囲気の空気が漂っていた。雲の厚さと太陽の位置のせいだろうが、空気が黄色い。液晶テレビのシネマモードで景色を見ているようだ。
写真の画像ではわかりにくいが、白いはずのデッキも薄っすらと黄色く見える。空では雷が鳴っていて気のせいか、リールを触るとピリピリする。電気を帯びた空気は黄色くなったりするのだろうか・・・。



エネルギーセンターのテトラ帯の下流で船を止め仕掛けを入れてみる。
流れは大したことはないが、ゴミが多い。なんだか木の葉が腐ったようなものだ。ハリにゴミが掛かるようなところはあまり釣れないので少し場所を変わろうかと考えながらふと淡路島の方を見ると間違いなく雨が降っている。




あの雨はきっとこっちの方に流れてくるぞと思っているとすぐに雨が振ってきた。どんどん雨が強くなる。オーニングの下に逃げ込んで小降りになるのを待っていたがその気配がない。
諦めて港内に入り数日前から停泊しているらしい海上自衛隊の輸送船「おおすみ」を海上から見学。全長178メートル。300メートル級のばら積み船にはほど遠い大きさだが兵器だと思うとまた別の迫力がある。



こんなことをしながら雨の具合を見ていてもやっぱり治まる気配がない。ゴカイはもったいないがあきらめて帰港。
渡船屋の事務所で雨宿りさせてもらっていたが余計に雨が強くなってきた。



どうやらこの時間がピークだったようだ。



こんな状況なら今日は仕方がない。無事に帰れただけでよかったとしよう。

一向に雨がやまないので濡れるのを覚悟で帰宅。腕は濡れても顔に雨がかからないのがなかなかいいではないか!

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紀ノ川河口釣行と芋ほり

2017年07月27日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮 2:37干潮 8:30満潮
釣果:ボウズ

今日も紀ノ川河口へスズキ狙いだ。
午前4時に出港、午前8時半に満潮になるので今は潮が上っている。魚も河口に押し込んできているのではないかと淡い期待を持っていつものポイントを目指した。

まだ暗くて水面がはっきりとは見えないがボイルはないようだ。とりあえずポッパーから始めたがすぐにリップレスミノーに変更。
残念ながらアタリは得られず午前5時に終了。

今日の目的は魚釣りではない。サツマイモの収穫だ。芋の収穫の前にちょっとだけ儀式のつもりで出かけただけなのだ・・・。
いつもボウズでも野菜を持たせてくれる叔父さんは商売で出荷するのはやめてしまったが頼まれものと親戚に配るために畑一つ分だけサツマイモを植えている。
いつも貰ってばかりなのでたまにはお手伝いだ。



港から2分のところにある畑に集合。トラクターで掘り起こしたサツマイモを応援に来ている人たちとコンテナに詰めていく。
ここは港から2分というだけで水やりに使っている地下水はわずかだが塩分を含んでいるらしい。そのせいか、ここ、水軒のサツマイモはとびきり美味しい。徳川吉宗は救荒作物としてサツマイモの栽培を奨励したそうだがそういう縁でももっとブランド化して栽培量が増えればいいのにといつも思うのだ。

僕はどんくさいので2個分ほど収穫しているあいだに他の人たちが今日の分を全部収穫してしまっていた。
早朝でしかも曇っているとはいえ汗が滴り落ちてくる。“働いている”という感覚がひしひしと伝わってくる。なぜだか腰痛も襲ってこない。パソコンのモニターを睨んでいるという行為がいやになってしまう。
「ARBEIT MACHT FREI」という言葉はアウシュビッツの強制収容所の入り口に掲げられている言葉らしいが、もちろん、歴史的に許されるものではないのはわかっているつもりだが、言葉の意味としてはよくわかる気がする。
働かないと自由はないのだ・・・。

収穫したサツマイモを洗浄機に放り込んで今日のお仕事は終わり。


午後から図書館に向かうと去年見つけたタラノメの木の前の空き地が分譲地になってしまっていた。



これは残念。あと4,5年は売れてほしくないな~。

そのあとはチョクリの仕掛けを作るためのナイロン糸の整理。こんな糸の売り方を何というのかをしらないが、買ってきたままだと使えない。別の糸巻き(といっても段ボールを重ねただけのものだが・・)に巻き替える必要がある。
いつも奥さんか母親の腕にひっかけて巻き取っていくのだが、こんな器械をアマゾンで購入してみた。



1000メートルの巻き取りを一服しながら作業できるし、家族の手を煩わせることもない。1000円にしてはなかなかの使い勝手だ。久しぶりにいい買い物をした。

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「開高健 生きた、書いた、ぶつかった!」読了

2017年07月24日 | 2017読書
小玉武 「開高健 生きた、書いた、ぶつかった!」読了

師の没後25周年が近づいてきたせいか、また師について書かれた本が出版されていた。
今度の著者は同じサントリー宣伝部に勤務していた人だ。
ある時代に特化して書かれたものではなく、少年期~青年期~サラリーマン時代~芥川賞前後~闇の三部作~オーパの頃~晩年と順を追いながら書かれている。師とは一時期、上司と部下という間柄だったようだがその近い関係をわざと強調せずに書いているという印象を受ける。
伝記としては今まで読んできたいくつかのものとそんなに内容が変わっているのもでもない。

ただ、今まで書いてきた人たちと大きく異なるのは牧羊子の評価の仕方だ。
谷沢永一にしても向井敏にしても、師の死後大分経ってから書かれた本の著者たちもこの人を肯定的に書いている人はまずいなかった。
この女性がいなければ開高健という作家は生まれなかったのだろうし、それゆえ牧羊子は師を見出して育てたのは自分であるという自負と独占欲から師を縛りつけ、死期を早めたのではないのかというのが大半の見解だ。
しかし、著者はそうではないのだと主張している。妻を愛していなければ自宅に先輩作家を招いて手作りの食事を披露することはなかったであろうし、茅ヶ崎の邸宅にしても当初は家族から逃れるための別邸として建てられたところへ道子と共に押しかけてきたのだというのも定説になっているが、離れの書斎に台所やシャワールームまで作ったのは師を気遣った羊子のほうであって師が家族から逃れるためではなかったというのだ。境目の扉に猫が通れるほどの小窓があってそこから食事を差し入れてもらっていてそれほど家族とは距離を置いていたというのもそういう先入観を持っている人の考え方に過ぎないという。
また、「夏の闇」に登場する女性についてもかつての愛人がモデルになっているというのが定説だが、ここにも牧羊子の姿が投影されているのだと言っている。
そのほかにも、「日本三文オペラ」執筆のための取材時、アパッチ族と交流を持てたのは間接的ではあれ、牧羊子の影響があったのではないかと想像している。
師も牧羊子のことについてはあまりいい事を書いていないのは事実だが、これも師のサービス精神が旺盛なことに起因し、師の特有の道化だというのだ。

著者と牧羊子関係というのは最後のほうに書かれているが、プライベートなことで真夜中の電話で起こされたりするほど親交があり、師の死後は出版物や師を記念する行事などの運営で行動を共にすることが多かったそうだ。
そういう部分もあってあえて悪くは書けないという部分もあったのだろうと思えるが真実はまあ、誰にもわからないのでどちらでもいいといえばどちらでもいいのであるが・・・。両方を読んで、両方に対して、そうだったのか!と思えばそれでいい。

「オ-パ」については、非常に両極の評価があると書いている。要はこれを書いた人だから嫌いだ。逆にこの本から好きになった。という人たちがいるというのだ。師の著作にはこれ以前にも「私の釣魚大全」と「フィシュ・オン」があるけれども、これらとも大いに異なるというのだ。
確かに「オーパ」シリーズと「もっと・・・」シリーズを書いているあいだは創作をほとんどしていなかったそうで、これがなければまだまだ優れた著作が出版されていたのではないかとかいうような批評を読んだことがあるが、これを書いたからこの作家が嫌いであるというコメントを見たことがなかった。これは残念なことだ。

複数の批評家の批評を引用しているが著者の判断は、「オーパ」は師が体験した戦前戦後の混沌、ベトナム戦争の悲惨さ、作品でいうと、「青い月曜日」、「輝ける闇」「夏の闇」それらを礎石として書かれたものであるという批評を取り上げそれを結論としている。
僕もきっとそうであったと思う。師はここで一区切り、釣りという行為を通して自分の人生を振り返るかまたは総括をして新しい創作に向かおうとしていたに違いないと思うのだ。
まあ、これも人それぞれがどう感じるかであって師がどんな位置づけでこれを書いていたということは当たり前だが師にしかわからない。読む人がそこから何かを感じればそれでいいはずだ。

そういう意味でこの本は今までの伝記と比べるとかなり視点と評価軸が異なる様相の書かれ方になっている。
ただ、伝記ばかりを読んでいるのではなく、僕も再び師の著作に戻らなければならないと思い始めている。

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紀ノ川河口~双子島沖釣行

2017年07月24日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口~双子島沖
条件:大潮6:16満潮
釣果:ボウズ

去年の7月25日に紀ノ川河口でタコをたくさん釣っている。今年も釣れるだろうかとテンヤを持って行ったがダメだった。
流れは強くなくて底を捉えることができていたが残念ながらアタリを見ることはできなかった。



双子島の周りでも試したがこっちもダメ。ルアーを投げてみたら小さなシオが1匹だけ釣れたがそれで終わってしまった。

帰りに叔父さんの家に寄るとクーラー1杯の野菜を持たせてくれた。まあ、大漁といえば大漁だ。




さて、今日のボウズの要因だが、昨日は港まつりで夜は防波堤を一つ隔てた向こうで4000発の花火が打ち上げられた。
やっぱり大音響のあとは魚がビビッて釣れないのだろうか?
それとも、今年は閏月がある年で6月の終わりから先週まで閏5月が出現していた。



閏月のある年は魚があまり釣れないというのが定説になっている。魚たちはどれだけ星の動きに敏感なのかわからないが昔から言い伝えられていることらしいのであながち嘘でもないのだろう。
確かに今年はサバもアジもキスもあまり釣れない。(釣っていないのは僕だけかもしれないが・・・。)
まだまだ伏臥の時は続きそうだ・・・。

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「見る―眼の誕生はわたしたちをどう変えたか」読了

2017年07月20日 | 2017読書
サイモン・イングス/著 吉田 利子/訳 「見る―眼の誕生はわたしたちをどう変えたか」読了

以前に読んだ「眼の誕生」を探していた同じ頃、この本のタイトルも見つけていた。
「眼の誕生」は、生物はどうやって「眼」を発達させてきたかということに主眼をおかれていたが、この本は、生物はどうやって世界を見ているか、もしくは見てきたかに主眼が置かれている。

眼の発生初期、単眼といわれるものは単に明るいか暗いか、それを複数使って光のやってくる方向だけがわかる程度であった。その後、節足動物が持っている複眼はそれぞれの複眼が動くものに順番に反応してゆくことで見ているものが動いていることを見ている。止まっているものは見えないそうだ。

そして脊椎動物が持っているカメラ眼に進んでゆく。
タコやイカもカメラ眼を持っているが、脳の構造からみてやはり動いているものしか見えないではないかということだ。
魚はどうだろう。形や色は見分けることができるがそれが何であるかはわからない。だから魚はルアーに飛びつく。

では、人間は・・・。
人間の眼というのは他の動物に比べてもかなり高性能にできているらしく、分解能や色の識別、暗順応、どれを取ってもかなりのレベルらしい。他の動物はどれかの能力だけが突出しているだけなのだそうだ。それというのは、樹の上で食物を採る行為や大きな敵から身を守るために眼の能力は大きく進化した。果物の色を見分けるために識別力が高められ、敵から逃れるために夜の行動が増えたことで暗い所でもよく見えるようになり、手を使って道具を作れるようになってからは小さなものを識別する能力も伸ばしてきた。
そして、もうひとつ、眼の周りの筋肉。これも発達して上下左右かなり自由に動かせる。これも樹上という立体的な世界で生きてきたからだそうだ。草原に生活する動物たちはほとんど水平方向しか眼が動かないし、魚や鳥、トカゲは目がほとんど動かないので首を振って視線を変えるそうだ。
そしてそれは感情を表すことにつながる。悲しみや喜び、集団の中での意思表示。
眼というのは見るだけではなくて人間にかぎってはコミュニケーションの手段になりより一層の繁栄の礎になったというのだ。

ただ、人間の脳は眼から入ってくる映像をすべて吸収して分析するほどの解析力を備えてはいない。
色の違いや物の輪郭というのはおしなべてそのコントラストの違いで判断する。そしてたくさんの経験値から眼に映っているものを判断する。だから錯視という遊びが生まれてくる。そういう意味では意外と人間の眼というのは世間を正しく見ていないということになる。自動車の自動運転システムのほうがすべてを見ているようである。

この本はこのように、眼というものはどうのように物を見ているか、そしてそれを解明してきた哲学者や学者、医者の物語ではあるが、副題の、「わたしたちをどう変えたか」についてはほとんど言及されていない。
眼の誕生というより見えるということは私たちをどう変えたかということを僕なりに考えてみると、見えなくてもいいものまでも見えるようにしてくれなんて誰が頼んだのだ!と神様に言ってやりたいのだ。

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釣り公園前~加太沖釣行

2017年07月20日 | 2017釣り
場所:釣り公園前~加太沖
条件:中潮 3:42満潮 10:36干潮
潮流:6:20転流 10:20 下り2.9ノット最強
釣果:ガシラ 8匹

今年は飲ませサビキはもうやめておこうと思っていたのだが、どうも僕の心の中にも山師が棲んでいるようだ。
なんとかアコウを釣ってみたいと思って再び出港した。

水軒一文字の沖にはイワシの反応がなく、釣り公園の前に移動。ここでも反応がない。取り合えず仕掛けを下してみたがまったく釣れる感じがしないのでそれならばでっかいブリでも釣ってやろうじゃないかと意を決してもっと北を目指した。
今日はわずかに北風が吹いているだけ。船足もまだまだ行けそうだ。

ミズタニ、反応無し。



田倉崎反応無し。



そして田倉崎を越えたところで反応が出だした。



海面もイワシで波立っている。



いい感じなのだろうが、肝心のイワシが食いついてこない。
間もなくイワシもどこかへいってしまった。

ええい、もっと行ってやれ!
潮が動いていないのでナカト下を目指した。
しかしながらここでもイワシはいない。

海竜が居るということはここもいいポイントであることは間違いがないのだろうか・・・。



しからばもっとだ!
ナカトに入ると反応あり!
ただ、帝国軍の反応も気になる。もっと沖へ。
ノンダまで突撃。



でも反応なし。この時点で潮がまったく動かなくなった。
潮が動くまでナカトシタでガシラ狙い。
保険のイカナゴを持ってきていてよかった。
ガシラも潮が動き始めると途端に食ってくる。
30分ほどで8匹。エサがなくなったので再びサビキに変更。
しかし相変わらずイワシがいない。
なんだかやる気が失せて再び元の釣り公園の前に移動してサビキを下すがここも何の反応もなし。
ここで完全に戦意を喪失してしまい午前9時に終了。
今日も燃料を焚いただけで終わったような感じだ。
もう、山師のようなことは止めよう。

昨日、梅雨が明けた。

海の上も暑さ全開だ。



午後からは仕掛け回収用のプランターにゴム磁石を装着できるように改良してみた。
お隣さんに比べるとなんとも貧乏くさいが、ロシアの山小屋でドラゴに挑むためにトレーニングにはげむロッキーと同じなのだ。



暑いとはいえ、この時間くらいになるとちゃんと風が吹いてくる。オーニングの陰で作業をしていると汗は吹き出てくるもののそれでも心地いい。
熱中症で運ばれる人が何人いたなんて毎日ニュースで流れているがちゃんと気候に合った環境で生活すれば暑さもなんとかしのげるものだ。
コミュニティが崩壊し、人の繋がりもズタズタになっている日本だが、生活の場もおかしくなってしまっているからそんなニュースばかりになるのだ。
所詮自然には逆らえない。その場所に合った生き方をしてゆくべきなのだ。

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双子島沖釣行

2017年07月17日 | 2017釣り
場所:双子島沖
条件:小潮 4:10干潮 9:52満潮
釣果:ツバス、シオ 計24匹

もう、釣れるものがなくて八方ふさがりになってきた。
フェイスブックで情報交換をしている人たちは様々な魚を釣ってきている。
僕も何とか一矢報いたいと思い、今日はスズキ、ツバス、近場でのイワシ飲ませのスリーヘッダーで臨むことにしてみた。
ツバスはフェイスブックのグループのTさんの情報だ。

気合を入れて午前4時過ぎに出港。
双子島のいつものワンドの中でルアーを投げるがまったく反応なし。
30分ほどで明るくなってしまったのでツバス釣りに変更。

ヒコーキを引きながら双子島の周りをウロウロするがアタリなし。大島の北側に差しかかったとき、アタリが出だした。
かなり狭いエリアがだそこを通ると必ずといっていいほどのアタリが出る。
この魚、脂の乗りがまったくないので多分大して美味しくない。もっと涼しければ燻製に最適という感じなのだが今はそれほどたくさん欲しいわけではない。
そろそろ切り上げて一度は釣ってみたいアコウを狙ってみようと思ったのだが、エンジンの調子がだんだんおかしくなってきた。すぐにエンスト起こすのだ。この頃はちょっとおさまってきたように思っていたが、スローで長く運転していたので問題が起こってきたのだろうか?
フェータルなほどではないが、あんまり気持ちのいいものではない。

ちょうど昨日、ネットショップで購入した点火プラグが届いていたので早い目に切り上げて交換しようと考えて、午前7時に終了。


家に帰ってプラグを持って再び港へ。



新品のプラグはこんな感じだが、



古いプラグはこんなに真っ黒になっていた。



これは素人が見てもかなりアカン状態に見える。

これでいい状態に戻ってくれればありがたいのだが・・・。

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北港釣り公園沖釣行

2017年07月13日 | 2017釣り
場所:北港釣り公園沖
条件:中潮 2:34干潮 8:14満潮 
釣果:ガシラ 2匹 エソ 2匹

最近、僕の周りの方々のアコウの釣果が気になる。僕にも釣れないかと挑戦してみた。

今日の計画はこうだ。
まず、どこかで豆アジをサビキで釣り、それをエサにしてアコウを釣る。うまく獲物にありつければ沖を目指してイワシ飲ませで青物を狙う。
うまくゆけば高級魚がわんさか釣れるということになっている。

サビキにはアミエビが必要だろうと港の近くのイ〇サキに寄るとまだ開店していなかった。仕方がないのでエサ無しで出港だ。
コンテナクレーンの前で反応があったのでサビキを下して見たけれどもアミエビがないのが悪いのかまったく食ってこない。
いきなり計画が頓挫してしまった。もたもたしているわけにもいかないので釣り公園を目指す。
道中で豆アジが釣れなければ沖を目指してダメ元でイワシ飲ませだ。
釣り公園の前に到着した時に再び反応が出た。すかさずサビキを下すと豆アジとイワシがいっぱい食ってくる。なんだ、アミエビなんていらないじゃないか。買わなくてよかった。



そのままこの場所で豆アジをエサにアコウを狙ってみる。
釣れるかどうかがまったく心もとないが時折鉤についている豆アジが暴れる時がある。おお、何かが狙っているのか・・。
そして竿先が舞い込んだ。何かが掛かっているがどうもアコウほどの大きさではないようだ。上がってきたのは20センチを超えているガシラだ。こんな大きなエサでも食ってくるんだ。
どうも仕掛けの作り方が悪いのか、枝素が幹糸に絡んで仕方がない。それはそうだ、アジは泳いでいるのだから絡むのは仕方がない。これは何か仕掛けに工夫が必要になりそうだ。
鉤についたアジはすぐに弱り、エサがどんどん少なくなってくる。10匹もあれば十分だろうと思っていたが、全然足りない。

そしてものすごく暑い。風がないのは釣りをするにはありがたいがたまらなく暑い。
家に帰って車で釣具屋に向かう途中、温度計は摂氏38度を示していた。海の上でも30度近くはあったのではないだろうか・・・。これはダメだ。



そしてなぜか海の上なのに蚊が飛んでいる。午前7時を過ぎるともう我慢ができない。豆アジは残り2匹。最後の勝負をするため水軒一文字の新々波止へ移動。ここでもアコウが釣れるらしいのだ。
エサを下してすぐにアタリがあった。今度はかなりの引きだ。やったぜ!と思ったが、エソの一荷だ。これでエサが無くなったので帰港することができる。素晴らしい言い訳ではいか!



なんとも準備不足の釣行になってしまった。


5月に買った三輪車が少しづつ釣り仕様になってきた。クーラーのサイズに合わせて箱を作り、



釣竿も搭載できるようにした。



そしてテーブルにもなる。



これで帰港して一服なんていうこともできる。

もう少し荷物を積み込めるようにギミックを追加し、いつかはこれで旅に出ることを夢見ているのだ・・・。

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紀ノ川河口釣行とオイル交換

2017年07月06日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮 3:51満潮
釣果:ボウズ

小船のオイル交換をしなければと思いながらもう半年近く経ってしまっている。そして、気付けばなんと2年半以上もオイル交換をしていない。今日は釣行後必ずオイル交換をするのだ。


もう、定点観測にしかなっていないが紀ノ川河口へ向かった。双子島の沖に行くべきかどうか迷っていたが毎朝通過するJRの六十谷の鉄橋から紀ノ川の水面を見ると雨の濁りはなさそうだった。
暗いうちにポイントに到着してキャストをはじめようと考えていたが、港に到着したころにはすでに明るくなってしまっていた。これで若干戦意喪失。



ルアーをとっかえひっかえキャストすれどもアタリがない。潮は引き潮にかかっているので流れが速すぎるのかもしれないと思い沖の一文字へ移動。渡船屋で渡ったルアーマンが二人キャストを繰り返している。僕も近くに投錨してキャストを繰り返すが当然の帰結ではあるが何のアタリもなく終了。



魚にまで見放されてしまったようだ。

結局、エンジンの性能維持とオイルを温めて抜きやすくするために午前2時50分に起床したようなものになってしまった。

今回の新兵器は電動ドリルに取り付けるポンプだ。
前回の交換は陸に揚げたときにドレンボルトを抜いておこなったが、いつでも作業ができるように上抜きでやりたいと考えていた。市販のオイルチェンジャーは手動式でもけっこうな値段がする。2年に1回しかやらない作業に使うにしてはもったいない。何かいいものがないかとネットショップを探していたらこのポンプを見つけた。オイル専用ではないようだが、手動式のオイルチェンジャーに比べるとはるかに安かったのでダメ元で買ってみた。なんといっても電動というのが楽ではないか。



結果は大正解だった。ドリルを回し始めた途端にオイルが吸い上げられてゆく。10秒ほどで約2リットルのオイルを吸い上げてしまった。
エレメントも交換して約30分で終了。船外機を使っているひとはオイル交換用にぜひ1個持っておくべきだと思う。1個わずか1060円だ。



僕の船の隣に引っ越してきた前の職場の同僚が新しい船に乗りかえた。



なかなかマメに見に来ているらしく、先日の台風3号のとき、僕の船にロープを渡しておきましたというメールをくれていたが、今日はすでにそのロープが解かれていた。
一度このブログにも書いたことがあるが、僕は常々船を持つことは不倫と似ているのではないかと思っている。もちろん、本当に不倫ができるほど甲斐性がないので、似ているのではないかと書きながら本物の方を知らないのでいい加減に読んでもらいたい。
船というのはわがままなもので、いつも気を使って見てやっていないとすぐにへそを曲げていろいろなところが壊れたり調子が悪くなったりする。しかしながらたくさんの喜びと楽しさをもたらしてくれる。と思って安心していると荒波にもまれてひどい目に遭わされる。もう、わがままなツンデレ女と付き合っているようなものだと思えなくもない。お金もけっこうかかるし家庭の危機も訪れる・・・。

彼の船は本当のプレジャーボートで僕が乗っているような漁船もどきのダサいデザインではない。こんな水の汚いボコボコの護岸の港に係留しているのはもったいない。さしずめ、寂びれた炭鉱町の場末のバーにひとり佇む少し陰のある過去を引きづった美人ママというところだろうか。
恋は永遠だが、限界効用は必ず逓減する。愛にはいつか終わりが来るものだ。彼にはいつまでもこの船を愛し続けていってもらいたいものだ。
と、あまりにも早くにオイル交換が終わってしまったのでわけのわからないことを考えてしまった。
願わくば、彼がこのブロクを読んでいないことを願うばかりだ・・・。

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