イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「十八歳、海へ」読了

2013年10月28日 | Weblog
中上健次 「十八歳、海へ」読了

この本は著者が高校生のころから23歳までに書かれた短編を収録したものだ。
確かに若い。
この人もカフカに感化された一人なのだろう。
カフカのようなものを書いてみたいんだという気持ちがありありとわかる。そして思春期の若者は間違いなくこうだという悩みがそれに重ねられているような気がする。
体だのほうが先に成熟し、自分ではないもう一人が自分の中に住んでいるのではないだろうか。それを認めることができずに生まれてくる嫌悪感がこんな作風を作っていくのだろう。
大人の作家には負けたくないという気持ちが加わり、もうありとらゆる表現方法が盛り込まれている。
多分、作品としてはまったく評価をされるものではないのだろうが、芥川賞にいたる過程の作品としては貴重なものなのだろうと思う。

若いということの残酷さ、自分も劣等感の塊で青春時代を過ごしてきたほうだと思うが、なにやら懐かしくもあるが、もう一度やってみる?と言われれば、「やっぱり嫌です。」と答えるのだろう。
それでもやっぱり懐かしい。あまちゃんにシンパシーを感じる人が山のようにいるというのもきっと同じような思いをしたひとが山のようにあるということだろう。

ある意味、ホッとするが、そのときに、自分だけじゃないということがわかっていたらあんな劣等感も少しは和らいでいたのかもしれない。
コメント

雑賀崎沖、水軒沖釣行

2013年10月28日 | Weblog
場所:雑賀崎沖、水軒沖
条件:小潮6:45干潮
釣果:クチ 12匹

今日は潮が小さいので加太への釣行はあきらめた。タチウオはいいのかもしれないが、小船にしばらく乗っていないのでクチを狙いに出てみた。
場所は前回と同じ雑賀崎沖へ。
クチだけではもったいないので朝は早く出て、明るくなるまで大島廻りでルアーとエギを投げてみた。
朝は北東の風が強く、何もアタリなし。
メインのクチを狙いに沖へ移動・・・・。到着してみたらオモリをもって出るのを忘れていた・・・。そうなんだ、この船には釣りに関する道具をまったく搭載していない。
いつも大きいほうの翠勝丸から持って出るのだが、タモやナイフを持ったものの、オモリが・・・。
しばし唖然としていたが、代用できるものは当然思い浮かばず、仕方がないので港へ引き返した。

今日のエサはスーパー青虫の「大」。よく見ると大と中があった。う~ん。虫エサにもいろいろな種類があるらしい。
もっと自販機をよく見ると、「COLD」の文字が・・・。ということは「HOT]もあるのだろうか?
虫エサのホットというのは限りなく気持ちが悪そうだ・・・。



再び同じ場所へ戻るとアタリはすぐにやってきた。2本目の竿をセットしていると1本目にアタリだ。
ポロポロとアタリは出るが、それも9時前にはなくなってしまった。
このまま帰ってもアイスクリームが半額で買えるスーパーの開店後なのでそれでもいいかと思ったが、もう一度イカを狙ってみようと大島へ移動。
しかし、アタリなし。
やっぱり帰ろうかと思ったが、エサが余っている。水軒沖まで出て、仕掛けを下ろしながら帰り支度をしようと考えて帰途についた。
2本目の竿を片付け、道具類を洗い、魚の写真を撮って最後の竿を片付けようと仕掛けを巻き取ると1本の針のエサがなくなっていた。
これは魚がいるのかな?と再びエサを付けて仕掛けを下ろすとそこからアタリのラッシュだ。
20分ほどで6匹追加。
それも型そろいだ。
まったく“塞翁が馬”的な釣果だった。

日が昇ってくるにつれて風がなくなり、まったく穏やかな天気になってきた。気温と水温の差が大きいので加太方面を見ると遠くの船が伸びていた。



波もなく、エンジンの出力を上げていくと気持ちよく船が滑走してくれる。この爽快感は大きい船では味わえない。今日は小船で出たのが正解だ。

釣った魚はさつま揚げにしてもらった。
ちょっと山芋を入れすぎたがなかなかおつな味だった。





魚をさばきながらふと思い出したことがあった。
僕の父親は冬になるとワタリガニやトビツキ(和歌山弁でガザミのことをこういう。)を獲っていた。ネズミ捕りを大きくしたようなかにカゴを自分でこしらえて3、40個仕掛けていただろうか。
近所のおじさんが勤める自動車修理工場の片隅を借りてカゴの枠を作り、夜なべで網を張っていた。「たるんでいるとカニが入らないんだ。」と言いながら器用に作っていたものだ。
そのカゴに入れるエサがこのクチの頭だった。
和歌浦の丸濱の蒲鉾屋でもらってくるのだ。たまに父親の命令で僕がもらいに行くことがあった。
まだ中学生だったので自転車に乗ってもらいに行く。
このカゴを仕掛けてカニを獲るというのがまた楽しかった。ひとつひとつ引き上げながら、中に何が入っているのかと水面下を覗き込むのがものすごくワクワクするのだ。
釣りをするのとはまた違う楽しさだった。僕がこの小船を手に入れたかったのもこんな思い出があったからだ。

思えば今も僕は当時と同じことをやっている。進歩がないといえばそれまでだが、父親のやっていることは何でも楽しそうに見えた。実際楽しかった。
今でもそれを超える楽しいものが見つからないというのは幸せなことかどうかはわからないが、やっぱりこんなことが死ぬまで楽しいと思っているのは間違いがないようだ。
コメント

紀ノ川沖釣行 番外

2013年10月23日 | Weblog
場所:紀ノ川沖
条件:中潮 8:49満潮
釣果:なし

台風がやってきているが、釣り行きたいという欲望のほうが勝ってしまった。
とりあえず出港してみると港内はいたって穏やか。辺りは暗いのでうねりもなにも感じない。
紀ノ川沖に達し、とりあえずタチウオの仕掛けを流しながら新々波止に沿って沖に出でてゆくと一番先の低い防波堤に南から波が乗り越えている。
天気予報では雨は降らないはずであったが明るくなった頃には本降りになっていた。
ということで、ああ、今日はダメだと港に引き返した。
あわよくば新しく買ったフードプロセッサーでクチのカマボコだと思ったがとんでもなかった。
せっかく買った青イソメは港で放流。
タイの小乗仏教では供養のために生き物を放流するらしいが、思いがけず供養をしてしまった。

渡船屋さんも波止に客を乗せたものの、すぐに撤収したそうだ。
こんな日に海へ出るのは自殺行為。
慎まなければ・・・。
コメント (2)

「梅原猛の授業 仏教」読了

2013年10月21日 | Weblog
梅原猛 「梅原猛の授業 仏教」読了

この本は京都の洛南中学で梅原猛が特別授業をおこなったものを編集したもので、中学生に教えている内容なので僕にもよくわかる内容だった。

人間と宗教のかかわり、仏教の歴史、日本人と仏教のかかわりなどなど、を簡潔に説明してくれている。

文明のあるところには必ず宗教がある。人が社会を保っていこうとすると宗教の力を借りた道徳が必須である。僕の学生の時代もそうだったが、学校の道徳の授業というのは何をやっていたのかまったく覚えていない。と、いうか、小学校の途中くらいからどうも無くなってしまっていたのではないだろうか。著者は日本の学校教育から宗教に根ざした道徳教育がなくなってしまったことが大きな問題だと言っている。
明治以降は古来の仏教的な思想から儒家思想をの解釈をまげてしまった修身が教育の中心になり、敗戦後はそれがまずいというのでまったく宗教に根付いた道徳教育がなくなった。そのうえ、ルネサンスから連綿と続く科学技術文明は日本の国でも仏教の心を駆逐してしまったと著者は主張している。


そして、その仏教の道徳、八正道と六波羅蜜を、その中でも特に、精進、禅定、正語、忍辱の実践がとくに大切だと学生に教えている。
これは学生だけではなくて、おじさんになってしまった僕たちの世代にも大切なものだと思う。
まあ、社会に出ると、嫌なことばかりにぶち当たる。しかしそれに耐え、常になにが正しいか、自分にだけ正しいのではなく道徳的に正しいのかを考え、それを一所懸命に考える。そうしていると、嫌な上司の前でもニコニコしていられるし、電車で隣に乗り合わせた狼藉千万のおばさんや若造にも腹が立たなくなる。
そこまでになれたら僕も禅定の域に達することができたということになるのだろう。

そしてその域に達するため、すべての仏教に共通する願に四弘誓願というのもがあるそうだ。
これは菩薩が仏道を求めるときに最初に願をかける言葉だそうだが、著者はことのほかこの言葉を、こういう気持ちで生きていってくださいと生徒たちに贈っている。

衆生無辺誓願度
煩悩無量誓願断
法門無尽誓願智
仏道無上誓願成


仏教の特徴は一神教のキリスト教やイスラム教と比較して多様性があるということが特徴だそうだ。一神教は基本的に人間中心主義であるが仏教は自然界すべての調和が基本である。
仏教の精神を基本にすえると他を理解して受け入れる心を得ることができる。その心こそいまの日本人もとより世界の人々に必要なのだというのが著者の願いである。
どちらにしても、僕も日本の国に生まれた日本人だ。
やっぱり、どんな仏教の教えでも納得するし、そうありたいと思う。
しかし、それがまた、難しい。
コメント

加太沖釣行

2013年10月14日 | Weblog
場所:加太沖
条件:長潮8:28干潮
潮流:8:35下り最強2.1ノット 11:38転流
釣果:ボウズ

前回、前々回の休みは2回とも釣りに行っていないので今日は絶対に釣行だ。しかし、「あまちゃん」の総集編が前編、後編一挙放送される。
もどかしいがやっぱり海には出るのだ。

朝一番でタチウオがそこそこ釣れたらリアルタイムで放送を見るべく家に帰ろうと思ったがタチウオはまったく気配がなかった。アタリのひとつさえない。
今年は一体、どうしたことだろう。
次の釣果を求めて田倉崎沖へ移動。
今日は潮が悪いのか、祝日だというのに友ヶ島付近にはほとんど船が出ていない。大型漁礁の周りに同盟軍の船が少し来ているだけだ。



それなら帝国軍領内へ侵攻できるぞと思いいつものテッパンポイントへ。
鳥は飛んでいるがアタリはなし。



やはり潮も流れていない。

僕の耳元で悪魔が、「今から帰ったらあまちゃん見れるぞ。。。」と僕の嫌いな“ら”抜きことばでささやく。
しかしがんばる。
予報では風と波が少々あるはずであったが、日が高くなってくるとどんどん穏やかになってくる。



これではタチウオをやれたではないか。
読みが外れた。

高仕掛けではアタリがないのでオキアミ餌に交換。
再び悪魔が、「今から帰ってもあまちゃんの後編に間に合うぞ。。。」とまたまたささやく。
大型漁礁に移動してそれでもがんばってみたがやはりアタリはなく、午前10時に終了。

同じ場所でねばっていた人たちは釣れたのだろうか。




家に帰って録画で「あまちゃん総集編」を観賞。
いいね~。しかし、あのドラマを3時間にまとめるには無理がある。もったいない。一挙10時間くらいで編集してほしいものだ。

悪魔が僕に魔法をかけて、これからさきお酒は1種類しか飲めず、ドラマはひとつだけしか見ることができなくなったとしたら、僕は迷わず日本酒とあまちゃんを選ぶだろう。
早く再放送をしてくれないだろうか。またまた禁断症状が出てきそうだ。

コメント (2)

船底塗装

2013年10月06日 | Weblog
今日は小船の船底塗装をやってきた。
今日は大潮、潮の満ち引きで船を陸揚げするには今日しかない。
すでに季節は秋。この船でもちょちょこ獲物を狙いたいのだ。

午前6:51が満潮。その時間に合わせて港へ到着。
台風の置きみやげのゴミを端に寄せて陸揚げ開始。
事前に借りていたコロを舳先に突っ込んで潮が引くのを待つ。



潮が引いてきてカキを落とし始めたが中腰になっての作業は重労働だ。
去年はケレン棒の先っちょで手のひらの皮を破ってしまったので今年は先っちょにダンゴを付けてみた。これはなかな効果的だ。



重労働は4時間あまり続き、塗装が終わった時点で完全に力が尽きてしまった。
突貫工事で休みなく作業を続けたのが堪えたようだ。
日ごろから体を動かしていない人間がこんなことをするとこういう羽目に遭うのだ。
僕はブルーカラーにもホワイトカラーにもなれない哀れな人間だ。
本当に体が動かなくなってしまった。立とうとすると目眩がする。多分、マラソンをしていて力が尽きてしまうというのはこんな状態なのではないだろうか。
今日は日差しも強く、とりあえず船の陰で横になっていた。渡船屋さんのお客さんも帰ってくるが、そんなものを気にしている場合ではない。本当に体が動かない。
僕のダイエット法は、とにかく食べないことだ。この方法で20キロ近くを減量したのでかなり基礎代謝が少なくなってしまっているのかもしれない。この方法でかなり筋肉を減らしてしまったようだ。
30分ほど寝たのだろうか、とりあえず荷物を持ってバイクのところまでたどり着いたが運転ができるような状態ではない。再びバイクの横で休憩。

なんとかバイクを運転できそうな感じなので帰宅。途中でエネルギーの補給の足しになるのかもしれないと思い。こんなものをはじめて買ってみた。



家に帰ってもシャワーを浴びる力がない。とりあえずご飯を食べて燃料補給だ。
カリオストロ公爵に撃たれたルパン三世が、「血が足りね~。食い物をじゃんじゃん持って来い。」と言ったシーンの彼の状態はきっとこんな感じだったのだろう。

2時間ほど家でゆっくりしているとすこしずつ力が戻ってきた。
次の満潮時刻に合わせて船を海に帰すため再び港へ。
とりあえず見かけ上はきれいに仕上がった。



船を係留場所に戻して帰宅しようとしていると西の空が真っ赤に燃えている。
夕焼けだ。せっかくだから海にもどって観賞しようといつもの定点観測場所まで行ってみたが、秋の日はつるべ落とし。ひと足遅かった。

でもいい景色をみることができた。



これを書いている時刻は午後7時52分。
体のあちこちが痛くなってきた。
明日はちゃんと起きることができるだろうか・・・。



コメント

「ステラ増刊 2013年10月号 あまちゃんメモリアルブック 」読了

2013年10月04日 | Weblog
NHKサービスセンター 「ステラ増刊 2013年10月号 あまちゃんメモリアルブック 」読了

もう、なにも言うことがない。懐かしい日々がよみがえる。

本を読みながらこんなに涙が出てくることは珍しい。あらすじを読みながら、夏ばっぱが大漁旗を振ってアキちゃんを見送るシーン、春子を見送るシーン。これに涙するのはあたりまえだが、勉さんがユイちゃんのナポリタンに粉チーズをふってあげるところまで涙が出てくる。

あまちゃんには人の生き方の哲学が詰まっている。
アキちゃんの生き方には不易流行が、ユイちゃんには知足、袖が浜の人々は無為自然に生きている。まさしく老子、荘子、それにつながってゆく禅宗にもとづいた生き方だ。そして一方ではタダでは起きない北三陸鉄道や観光協会のの人々、太巻さん、アメ横女学園の面々にはぬぐいきれない人間の煩悩をあらわにしている。
こんなところが人々に支持をされている理由のひとつだろうか。

この本を読んでいる最中、ほとんどの時間は電車の中で携帯音楽プレーヤーであまちゃん関連の音楽を聴きながら読んでいたのだが、あらすじを読んでいる最中、太巻さん登場のシーンのときに潮騒のメモリー太巻独唱バージョン、最終回の段ではドラマと同じく読み終わる頃にオープニングテーマが流れてくる。こんな偶然が起こりうるだろうか。まさしく僕はあまちゃんに出会うべくしていままでの人生を送ってきたのかもしれない。
そういえば、今の会社でアクセサリーの販売にたずさわっていたとき、初めて母親に買ってあげたアクセサリーも琥珀であった。だから、僕は久慈市というところは琥珀の産地だということを知っていた。秋田県にあると思ってはいたが・・。やはり、まさしくこれは運命だ。

これからのテレビドラマはあまちゃんより面白いか面白くないかで議論され、これからの日本人、いや、世界の人々は人種や宗教で分けられるのではなく、あまちゃんが好きかそうではないかで分けられることになるのでる。



あまちゃんのあとにあまちゃんは無く、あまちゃんのあとにあまちゃんは無い。
これが結論である。

今回のブログは、「分かる奴だけ、分かればいい。」んです。
あしからず・・。
コメント (2)

紀ノ川沖、雑賀崎沖釣行

2013年10月04日 | Weblog
場所:紀ノ川沖、雑賀崎沖
条件:大潮 5:36満潮
釣果:タチウオ 8匹 クチ7匹

前夜、帰宅途中の風は北のほうからそこそこ吹いていた。台風はどうなんだろうとか、親戚の叔母さんが午前10時までに野菜を取りにきなさいとか、いろいろあったので、今日はタチウオオンリーでいこうかと思ったが、タチウオだけではあまりにも早く終了してしまうので一度、クチを狙ってみることにした。
仕事から帰ってきて急いで仕掛けを2丁作って午前3時半に起床。

港の出口の橋が工事中で、夜の風景はなにやら場末の盛り場のような感じになっている。



今日から当分の間は潮騒のメモリーズとともに釣行だ。



航行中の鼻歌も宇宙戦艦ヤマトからあまちゃんのオープニングテーマと潮騒のメモリーに変わってしまった。

今日は紀ノ川河口からのスタートにした。
午前5時頃から仕掛けを引き始めたが、釣れていた時間は40分間ほど。今年はやっぱり厳しいのだろうか・・。
最低20本は釣りたいものだ。

クチのほうは新々波止の先端からスタート。
餌を買いに入ったお店で声をかけると、誰も出てこない。ちゃんと電気は点いているし、扉も開いている。テレビの音もしているので、奥に入っていくと、テレビの前でおばさんが熟睡している。
こっちも300円しかお金を使うつもりがないので起こすのも申し訳ない。
入り口の自動販売機で赤イソメ300円というのを買ってみた。300円のエサがこれしかなかった。本当は青イソメがほしかったのだが・・・。赤イソメ??これは何なのだろうか???



釣り場でフタを開けてみると、マムシっぽい。しかし、このエサ、SUPERとと書いてあるわりには全然スーパーではなかった。全然元気がない。ビロンビロンに伸びてしまっている。
売れ残り?のようだ。

しかたがないのでこれを使って釣りを開始。水深は21メートル。
1回目のアタリはすぐに来た。
なんともこんな何のへんてつもないところでよく魚が釣れるものだ。
だが、ここは北風をまともに受けるので雑賀崎の沖へ移動。
こちらでもアタリは飽きない程度にやってくる。
沖に流されては元へもどりを3回ほど繰りかえしてエサが底を尽いてしまった。
もっと生きのいいエサを使うともっと釣れるのではないだろうかという印象だった。

この魚、見かけによらずよく引く魚だ。フロロの3号を1回だけだが切られてしまったほどだ。
食べても不味い魚ではなく、ちょこっと釣りをするのにはいい獲物のようだ。
コメント (2)

「下流社会」読了

2013年10月02日 | Weblog
三浦展 「下流社会」読了

当時のベストセラーだそうだが、この本、いったいどんな人が読んでいたのだろう。
一応、僕も小売業の端っこのほうで生きている身だから、マーケティングの勉強になると思うがそんな仕事に携わっていないにはなんの参考にもならないのではないだろうか。

「自分はここまで下流じゃない。」という自己満足を得るためか、「だから仕方がない。」と自分を納得させるための材料にするのか。
やっぱりベストセラーになる意味を理解できない。
ただひとつ言えるのは、発売されて10年近く経ったベストセラーを古本屋の100円コーナーで物色している僕は間違いなく下流人間だ。


アマゾンのレビューを見てみても賛否両論。
まあ、賛否両論がベストセラーの証拠なのだろう。
コメント