イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

紀ノ川河口~双子島沖釣行

2020年08月30日 | 2020釣り
場所:紀ノ川河口~双子島
条件:中潮 3:42満潮
釣果:ボウズ

加太では多彩な釣果があがっているようだが、それは釣りが上手な人たちの話だ。僕には無理だし、おまけに今日も暑いそうだ。少しは一矢報いたいと思うところだが体力が持たないしやっぱり行っても釣る自信がない。
日曜日だし散歩代わりに紀ノ川でルアーを投げてみようと出港した。

前回はルアーを回収中にその近くでライズがあったので今日は水面直下を高速でリトリーブできるルアー、(なんという名前のカテゴリーのルアーかは知らないが昔買ったやつで、リップがボディと一体化しているような形をしている。)をバッグに追加した。今日はこれ一本で通そうと考えている。

午前4時半に出港。今年は水温も高いのか、小船の底にはかなりの数のカキが成長しているようでこの半月ほどでガクンと速度が落ちてしまった。もう、微速というくらいでしか走らなくなってしまった。エネルギーセンターの前まで行くのに15分もかかってしまった。少しずつ空が白んでくるのでもどかしいところだが仕方がない。
やっと到着してルアーをキャストし始めるがまったく生体反応がない。朝焼けが見えるころまで頑張ってみたがダメだ。



そしで青岸の灯台の方を見ると今日もタチウオを狙っている船がいくつか見える。禁断の仕掛けを持ってきてはいないけれどもワインド仕掛けがある。2,3匹釣ったらおかずになるから場所を移動。さっそくキャストをしてみるけれども小さなエソが1匹釣れただけだ。それに買ったワームが安すぎるのか、この部分はなんというのだろう、水圧を受けてピロピロアピールするしっぽの部分がすぐに切れてしまう。これでは釣れないじゃないかと悪態をついていたときに僕に近づいてくる船がある。よく見ると僕の隣に係留しているNさんではないか。そしてこのブログにもコメントを寄せてくれるちからさんも乗っている。これから加太に向かうらしい。タチウオも数匹釣れましたよとのこと。さすがだ。
ちなみにその時の僕の姿はこんな感じ。Nさん曰く、「腰が入ってませんよ!」外から見てもやる気が感じられなかったようだ。



それをしおにルアーの釣りは終了。
道具を片付けるときにワームを見てみたら、たくさんの傷がついている。ワームのしっぽは勝手に切れたのではなくてタチウオがさわっていたようだ。ぼくのほうがアタリを捉えられていなかったのだ。やっぱり腰が入っていない。




その後は冷凍にしたままのエサが残っていたのでタコを狙ってみた。本当はこの場所でやってみたかったのだけれども、ルアーをキャストしてみた感じでは流れが速い。これではテンヤを改造しているとはいえ底が取れないのではないかと双子島の沖に移動。

 

結果はやはりボウズであったのだが、鉛を大きくしたテンヤは底をしっかり取ることができる。また来年になってしまうけれども、紀ノ川でも試してみよう。


家に帰ってから服を着替えて図書館から給油のために港へ。Nさんとちからさんが帰港していて釣果を聞くと、二人で7匹の真鯛を釣り上げたそうだ。さすがだ。

僕はその足で市立博物館へ。
今日ここで、円珠院に関するシンポジウムが開催される。



円珠院というのは、僕の家と港のちょうど中間くらいの場所にある寺院なのだが、ちょっと不思議なところだ。僕が通るメインのルートではなく、もうひとつある信号の多いルート沿いに、ペンキで書いたような「円珠院」という看板が立って、時たま前を通るたびに一体ここは何なのだろう、勝手に入ってもいいのだろうかと思っていた。初めて訪れたのは7年前のことである。そこはまさに神仏習合の極致のようなところで、お堂の前には大きな鳥居がある。ここは愛宕山と秋葉山の間にある場所なので、きっとこういう神様と仏教が結びついた施設なのだろうという感じであった。当時も不思議に思ったらしく、僕も少しは調べていたようでブログには紀州徳川家と関係があって、南方熊楠も海外からの遊学から帰り、行くところがないのでここに逗留していたことがあったらしいというようなことが書かれていた。

フリーペーパーの記事にこの催しが紹介されていたのでこれはぜひ行ってみようというのと、こんな催しには一体どんな人たちが集まるのかという興味もあったので午後1時の開催時間に博物館を尋ねた。

そこで説明されたのを箇条書きにしてみると、
・天台宗の寺院である。
・元は愛宕山にあった愛宕大権現の神宮寺のような位置づけであった。
・その愛宕山大権現は明治の初めに台風で壊れたのでそこにあったものは円珠院に集められた。
・ちょうどその頃は、神仏分離の最中であったけれども、ここは免れることができたようだ。司会の人は、和歌道(今の国道42号線)からよく見えるところだがどうしてそんなに目立つところが残ることができたのは不思議であると言っていた。
ひとつの説では、和歌山では神仏分離はお城の周辺ともうひとつの都市圏であった湊付近だけすればいいという解釈があって免れたのかもしれないということだった。その反論としては、東照宮にも雲蓋院という神宮寺があったが、これは解体させられたので円珠院が残ったのはおかしいという意見があった。シンポジウムというのはこんな意見を交わすところなのかと少し感動した。ちなみに、この、雲蓋院というところはその後復活して玉津島神社のそばにある。あしべ通りからひとつ奥まった狭い道沿いにえらい大きなお寺があって、ここは一体何なのだと思っていたら、その疑問もひとつ解けた。
・建立当初から紀州徳川家と関係が深く、こういうお寺は檀家を持てないので、ずっと寄付や、その寄付を金融業につかって利息を稼いだり代々の住職の私費で維持されてきたらしい。今は、前の道路の拡張工事で相当な補償があったらしく、半永久的に維持費には問題がないそうだ。
・檀家がいないことから、いままでが調査されたことがなく、いったいどんな収蔵物が眠っているのかはわかっていなかった。今回が初めての本格的な調査になったそうだ。
・愛宕山には本地仏である勝軍地蔵が祀られていたらしいが、その仏像自体は残っていない。
・仏間には地蔵菩薩立像など、貴重な仏像や位牌が残っていて、今回紹介されたのはごく一部でまだ調査をし切れていないものも多数あるらしい。



・今はお堂が二棟残っているが、それらは明治4年頃に建てられている。その中にも今回紹介された弁天様の絵のほかにもいろいろなものが残っているようだ。

 

ざっとこんな感じで、愛宕山と秋葉山という、ある意味神秘的なところに人知れずこんなところがあったというのが驚きだ。僕が通っていた小学校はここのすぐそばにあり、校歌の出だしは、「あた~ごの やま~の きり~はれて・・」というのであったけれども、つい最近まで愛宕の山がどこにあるのかも知らず、別に知ろうとも思わなかった。しかし、まあ、これも歳なのか、そんなことに何故だか興味が湧いてくる。


そして、こういう催しに集まる人たちであるが、雰囲気から、どうも壇上の人たちと講演を聞いている人たちのほとんどは顔見知りかどこかでつながりがある人たちのようだ。質問に立った人たちの何人かは教師をしていたと言っていたが、基本的には文教関係の人たちらしく、普通のサラリーマン風情は完全に外様のような感じだった。
壇上の人たちは研究者として携わっているが、聴衆のそういった人たちはただのディレッタントのようでもある。しかし、それぞれ交流があるくらいだからその研究者並みに詳しそうだという、ここにも別世界があったのだという驚きがこんな催しに初めて参加した感想だった。ディレッタントの側はおれはこんなことも知っているのだというちょっとマウンティングをしているような臭さもあったのは事実であるが・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「眠れないほど面白い 空海の生涯: 1200年前の巨人の日常が甦る!」読了

2020年08月29日 | 2020読書
由良弥生 「眠れないほど面白い 空海の生涯: 1200年前の巨人の日常が甦る!」読了

連休中に高野山へ行こうと考えていたのでその前に、空海についての本を2冊借りていた。1冊は梅原猛先生の著作で、もう1冊はこの本であった。梅原先生の本は硬派だが、こっちはタイトルが軟派な感じだったのでまあ、対照的な本を読んでみようという考えであった。
軟派なタイトルだが、僕みたいな知識のない人間にはよくわかる構成と解説であった。ひとつはかなりの文字にルビをふってくれていたこと、ひとつはよくわからない語句が出てくるたびにすぐに本文中で解説を入れてくれていたことが大きい。それに著者は、素人はこういうことがきっとわからないのだろうなというツボをよくわかってくれているようだ。

構成は小説仕立てになっており、当時の社会背景、とくに天皇家にまつわる出来事が空海の布教活動にどういった影響を及ぼしたか(どちらかというと、利用したかではあるが・・)ということを軸に書かれている。たしかに空海の生涯というと、ちょっと興味のあるひとならなんとなくあらましは知っているので新しく書こうとするとこんな切り口が必要なのだろう。

そして、重要な仮説として、一沙門が空海に教えたという、「虚空蔵求聞持法」について、その一沙門が女性であったとしている。
実際、記録の中にはその沙門がどんな人物であったかということは残っていないそうで、そこはどう想像しても小説仕立ての著作のなかでは自由なのだろうがあまりにも斬新だ。
真言宗が重要とする経典は3つある。ふたつは両界曼荼羅に象徴される、大日経と金剛頂経である。そしてもうひとつは理趣経である。これは、普通の仏教では禁じられている、愛欲を清浄なものであるとするもので、文章だけを読んでいるとそうとうエロチックでそんなことまでやっていいの?というものだが、真言宗の説く即身成仏という考えの源のひとつではないかとも思うのである。
著者は多分、そこのところを汲み取って女性を登場させたのだろうけれども、空海よりも5歳年上のその善導尼と生涯にわたり逢瀬を重ねながら修行を続けたとういう設定なのである。
空海が高野山に入ってから、善導尼は寺務所としていた慈尊院で近事女として空海を見守ったということになっているけれども、そこはちょっと無理がありそうだ。ここは空海の母上が暮らしたところとなっているからその人たちが同居していたとなると嫁と姑のいさかいがおこって空海も月に9回も来る気になれなかったのではないだろうか。と思うのは僕の心が荒んでいるからなのかもしれない。

普通、空海というと当然だが密教の象徴として清廉潔白、修行一筋というイメージでどんな本も書かれているし、お山に行けばこんなことを言うと袋叩きに遭いそうだけれども、確かに空海は遣唐使の一行として唐に渡った時も普通なら認められないところを巧みに策を弄し、20年の年季をたった2年で帰ってくるという強引なこともやっている。
高野山の創建や都での布教のためには権力者を利用したというところもある。
そういうことを考えると、そうとう策略家でもあり、自分の欲望には素直に従うという面もわかるような気がする。もちろん、それは真言密教を広めて衆生を救済するという目的なのであるが、愛欲の面にも素直に従ったというのもあながち荒唐無稽な設定とも言えないのではないだろうか。

そういう意味では、小説としては完全ではないが空海を非常に人間的な人として描いている。うれしいことには喜びをあらわにし、悲しいことに出会うととことん悲しむ。裏表のない人柄がたくさんの人を引き付けて大事業を成し遂げた。それはそれで空海の正しい見方なのかもしれないとなぜだか納得してしまった。

高野山では、空海が主人公の大河ドラマを誘致したいと考えているようで署名活動をやっていたけれども、こういう人間的な面をクローズアップすれば、舞台も四国、中国、京都、高野山と多彩だ。伝説というと全国にある。最澄との軋轢も物語としては興味深い。恋物語は当の真言宗から批判されるだろうし、一宗教の開祖が主人公では他の教団から反対されるだろうけれども、日本のお大師様だからみんな許してはくれないだろうか・・。僕は見てみたい。
空海役は誰がいいだろうか。あんまり思い浮かばないが、生きていたら三浦春馬だろうか・・。




最後にこの本で知ったあらたな知識をまとめておきたい。

高雄山寺
空海が東寺を賜るまで京都での真言密教の拠点となったところであるが、もとは和気清麻呂が奉行として建立した。その後、最澄が灌頂壇を作ったから最澄専用の居住用の部屋もあったらしい。空海が唐から戻り入京を許されたときここに住まうことになった。高野山と東寺に拠点が移ったあとも空海が別当として管理した。

金剛峯寺の名前の由来
「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」という経典から取られている。
瑜伽とは心を統一することによって絶対者(大日如来)と融合してひとつになった境地で、瑜祇とはその修行をするものを意味し、大日如来と一体となるための修行を積む者たちが暮らす場所という意味。

三密と三業
大日経に説明されている。三業とは人間の身体の行為である身業(動作)、言語表現である口業(言葉)、心のはたらきである意業(意思)の三つの行為のこと。三密とは仏の身(身体)、口(言葉)、意(心)によって行われる三つの行為のこと。
人間の三業は仏の三密そのものであるから即身成仏できるというのが大日経である。そしてそれは胎蔵界を表す。
しかし、それは人間の理解を超えているから修行を積まなければそのつながりを感じることができない。

金剛頂経
「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(こんごうちょうゆがいっさいにょらいしんじつしょうだいじょうげんしょうだいきょうおうきょう)」という。即身成仏するための修法を説いている実践のための経典である。

泰範
もともとは最澄の愛弟子であったが最澄から密教の修行のために空海の元にきた。最澄は相当溺愛してたようだがそのまま空海の弟子となり最澄の元にはもどらなかったために空海と最澄の断絶のきっかけを作ったひとだ。しかし、意外と最初から最澄と距離をとっていたとこの本には書かれていた。理由は書かれていないが、他の資料では比叡山での人間関係が原因であったらしい。最澄が思っているほど泰範は最澄のことを慕っていなかったのだとしたらちょっと悲しい。

両部不二
密教は金剛界と胎蔵界の二つの世界観で構成されているが、空海の師である恵果はそのふたつを統合する教えを作り出した。これが真言密教につながるあたらしい密教観となってゆく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口釣行

2020年08月27日 | 2020釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 7:22干潮
釣果:タチウオ 26匹

今日は連休の最終日。昨日は安息日にしたので今日は目覚めがいい・・。(こともない)
前回は小船での出撃だったので今日は大きいほうでまずはタチウオを釣ってから加太に行こうと考えていた。同じ港のタチウオ名人、“ゆういっちゃん”さんも今日が今シーズン初のタチウオ釣りらしい。



なんだか期待が持てる。


午前4時半に出船。気温は少しましだが南の空や東の空に広がっている雲の中では雷が光っている。暗い中でこれを見るのはものすごく不気味だ。加太まで行く気が萎えてしまう。



沖の一文字の赤灯台を過ぎたところで仕掛けを下す。沖に向かって移動していくが正面からの潮の流れが強い。スロットルの上げ具合と体感の移動速度でなんとなく潮流を感じているのだがいつもの感じと違う。それに今は潮が下っていく時刻。普通なら沖に向かって流れているはずだがそれが逆だ。タチウオは餌を食べるのが下手だからあまり潮の流れがあると喰いが悪い。あら!今日も保険が保険でなくなるのかと思い、それは阻止せねばとなんとか魚の居場所を考える。紀ノ川の河口まで行けば川の流れに打ち消されて潮が遅いかもしれないと方向を変えたがこれがよかった。青岸の灯台の沖に差し掛かった時に型は小さいけれどもアタリが出た。
その後はその付近を潮の流れに沿って流すか斜めに横切るように流すとアタリが続いた。いつもは潮の流れに逆らって流すほうがアタリが多いので今日は逆である。ただ、アタリがあっても魚もこっちへ向かって流れてくるのでアタリが小さくわかりにくい。一度たぐって聞いてみないと空振りか鉤に乗っているのかわからないし、引きで大きさがわからない。仕掛けまで手をかけてはじめて大きさがわかる感じだ。
去年は型ぞろいであったけれども今年は型がまちまちだ。小さいのはベルトサイズで傷の深くないのは逃がさないとかわいそうな感じだが、幸いにして大きいものも混ざってくる。最大はほぼ指5本くらいある。洲本サイズと言ってもいいくらいだ。

これだけ釣れれば加太に行かなくてもいいのではないかという考えが浮かんでくる。もともと、行っても確実に釣れるわけではなく、今日も猛暑の予報、ましてや今朝の暗いうちの雷でモチベーションは相当低くなっている。

一昨日も釣っているのでウチにはまだストックがあり、これは生石山に住んでいる、森に暮らすひまじんさんに届けるにはちょうどいいんじゃないかと思いついた。去年は最初から型がよかったのでこのタチウオを狙いに来ていただいたが、今年は出だしは型が小さく、数も少なかった。それに大阪に通勤している僕としてはコロナウイルスも心配なので誘い辛かった。以前から、奥様はタチウオが大好きだとお聞きしていたし、そう考えたら善は急げだ。アタリが少なくなったころを見計らって早々にポイントを離脱して渡船屋で鮮度を保つための追加の氷を購入して帰途についた。

帰宅途中にメールでご在宅を確認してみるとひまじんさんは今日も鮎釣りに出られるそうだ。でも、奥様はご在宅らしいのでもう少ししたら家を出ますとお伝えして生石山を目指した。

さすが標高800メートルの高原だ。麓よりも5度ほど気温が低い。虫は多いようだが、暑くてうだるようなことがない。人も少なくコロナの心配もここでは無縁だ。奥様曰く、今年ほどここに住んでいてよかったと思うことがないというのはそのとおりだろう。

夏に生石山に登るのは初めてだが、道路沿いはあふれるような緑だ。ワラビやイタドリが取れる斜面も緑に覆われ、ワラビの葉っぱの勢いがすごい。じっくり養分を蓄えて来年の春もたくさんの芽を出してくれと祈りながら下山した。


夕刻、ひまじんさんから電話があり、今度はこちらに今日釣れたアユを持ってきてくださるとのこと。お疲れのところ申し訳ないですと固辞したけれども、釣り具を買いにいくついでに寄りますとおっしゃってくださるが、釣り具を買いに来られるというのは方便だとわかりながらアユなんか長いこと食べていないと思うと思わずよろしくお願いしますと言ってしまった。
叔父さんがアユ釣りをしていたころはよく貰ったものだが心臓を悪くしてやめてしまったのでここ4,5年は食べていない。
ひまじんさんは今日の釣果のほとんどを届けてくれた。申し訳ないことだ。



さっそく塩焼きにしてもらって食べると、「ああ、あの味!!」だ。天然物のアユなんておいそれと買ってたべられるものでもなくご無沙汰の味。美味しい。

今日の夕食はタチウオが天然アユに変身!ということになった。


今日の空には不思議な光の筋が出ていた。
東の空から放たれたひかりの筋は西の方に向けて広がっていくのだが、その光は西の空を向くと今度は1点に収束してゆく・・。
こんなことがあるのだろうか・・。というか、実際に写真として捉えているのだから間違いがない。どんなメカニズムなのだろうか?

 


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口釣行

2020年08月25日 | 2020釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮:3:41干潮
釣果:タチウオ 10匹 エソ1匹

連日早朝起床で疲れるが今日も海に出た。連日・・というのは、昨日、高野山に行ってきた。真夏の高野山というのは初めてであったが、早朝は霧がすごく濃い。



ものすごく幻想的だ。高野山はいたるところ苔だらけだがその理由がよくわかった。その苔が一層厳粛な雰囲気をかもし出している。

  

そして拝観料が高くなるとまず行かなくなると思うので金剛峯寺の中に入らせてもらった。

 


値上げしやがるんだ・・とか、壇上伽藍では、根本大塔、誰も見てなかったらタダで入れるかな・・。なんて思いながら写真を撮っていると何度かカメラがフリーズしてまった。こいつはなんと邪なことを考えているのだというお大師様の戒めだろうか・・。それともあまりにも複雑な機能を制御するソフトウエアが湿気にやられてしまったのだろうか・・。



高野山に来ると毎回奥の院から壇上伽藍まで歩いて往復するので翌日は大体股間の筋肉が痛くで仕方がないのだが今日はそれほどでもない。ひょっとして開脚のためのトレーニングが効いているのだろうか?開脚ができそうな兆しはいっこうに見えてこないのではあるけれども・・。
しかし、久々にお大師へ朝食を運ぶ「生身供」に出会うことができた。これはこれでうれしい。





昨日のドライブで車のフロント部分に潰れた虫がいっぱいこびりついてしまった。まだ日陰のあるうちに車を洗っておこうと今日はズズキとタチウオ狙いにした。たとえ、あんな車どうでもいいと言われようが常にきれいな状態を保っていたいのだ。

なるべく移動距離を少なくするため今日もエネルギーセンターの前からスタート。
少し風波があるのでポッパーに付け換え引っぱっているとルアーが通過しているであろうそばで大きな魚が跳ねた。今日は魚が居そうな感じだが残念ながら辺りが明るくなってきてしまった。



その前、朝一番のフェリーが入港着てくるころ、2隻の船が現れた。きっとタチウオを狙っているのだろう。僕もこうしてはいられない。ルアーはこのくらいで中止してタチウオのポイントへ向かう。



今日はすぐにアタリが出た。しかし型は小さい。本当のベルトサイズだ。魚が小さすぎるのでいくつかはアゴだけが鉤に残っていた。小さい魚はまだアゴが丈夫ではないので鉤に掛かったまま引っぱられるとこんなことになる。
まあ、ちょっとましと言ってもいいものは3匹しかなかった。

もう少し時間があるので今日も禁断の仕掛けを流してみた。これもすぐに船の後方で水しぶきが上がったがすぐにバレてしまった。この時点で鉤が外れたと思っていたのだが実は仕掛け自体を根こそぎ切られてしまっていた。タチウオかサゴシの仕業だろう。それを知らずに15分ほどの時間を流し続けていた。時間だけを浪費したという結果だ。
時間ももったいないが、タコベイトのヘッドを失ったのがもっと痛い。これは引退したおじさんに貰ったものだが、いままでよくアタリを出してくれたやつだ。釣り師というのは、これが一番いいと思い始めるとそれでしか釣れないと信じてしまう。もう、ハイド氏の心境だ。そして、このヘッドはおそらく数十年前に作られたものだろうから絶対に手に入らないものだ。
残りは6個になってしまった。大切に使わねば・・。

しかし、毎回、何かトラブルを起こしてしまう。いつまでこういうことが続くのだろうか・・。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「「山奥ニート」やってます。」 読了

2020年08月23日 | 2020読書
石井 あらた 「「山奥ニート」やってます。」 読了

この本は自称ニートのひとが和歌山県の山奥での生活を綴ったものだ。“自称”と書いたのは僕から見るとこの著者はきちんと自立した人と思えるからである。
著者は1988年生まれ。両親は教員で自分も教師を目指して大学に入るが教育実習のときに挫折しそのままニートの生活に入る。

そしてSNSで知り合ったニート仲間に誘われて和歌山県の山奥で共同生活をするようになる。それが2014年、執筆時点で5年目になるそうだ。
ニートにとっては都会で引きこもろうが山奥で引きこもろうがどちらも変わらないという考えが面白い。アマゾンで注文したものはきちんと届くし、電気と水道とインターネットがあれば生活は都会とほとんど変わらないという。
そこは田辺市の五味集落というところで、この本の執筆当時地元住人は5人。平均年齢は80歳を超えているという限界集落だ。共同生活をすることとなったジョーさんが見つけてきた場所なのだが、「共生舎」というNPO法人が運営する施設の第1号としてここで暮らすようになった。彼らはNPO法人の職員でもあるのだ。
紆余曲折があって最終的には小学校の廃校跡をもらい受け著者もそのNPO法人の理事となる。共同生活に必要な費用は食費を含めてひとり18000円。(食費が9000円、光熱費他が9000円)住める資格はニートの人であることが条件だが、それだけ支払えばだれでも住むことができる。基本的に来るものは拒まず、去る者は追わずで、審査もしないのは、これだけの山奥までくる決意を持った人たちなら大丈夫ということらしい。もともとニートは他人に対してあまり興味ももたないし干渉もしないので重大なトラブルが起こらないと考えているらしい。(今のところ)
村の生活なら、普通なら住民とのトラブルということが大きな問題になるのだけれども、NPOの理事長であった山本利昭さんの存在が大きく、自然と村には溶け込めることになった。それに、著者曰く、ニートという半人前の人間を孫のように見てもらえたことが村人にかわいがってもらえた大きな要因ではなかったかということであった。
紆余曲折というのは、住み始めて3日後にその山本利昭さんが亡くなってしまう。大きな後ろ盾を失ったニートたちは自分たちで住むところを探し、NPO法人の運営もしていかねばならなくなった。
NPO法人の理念は、「公的支援に頼らず、さまざまな人が集まり、共生していくこと。」で、ニートたちの自立を促すのが目的であるが、地域おこしをしようなんて思っていなし、改革を起こしたいわけでもない。現場の人にとってはただ、日常を生きていくということだ。

ここまでまとめてみて、この生活はきっと縄文時代の人たちの生き方というのはきっとこういうものではなかったのだろうかと思い至った。階級のない小さな社会で自給自足で必要以上には働かず日常を生きる共同生活というのはまさにそうではなかろうか。

廃校は大きな施設なので著者自らニコニコ動画やユーチューブ、ブログで情報発信しながら同居者を募る。そこは縄文時代と異なる。そして普通のニートとも違う。
著者は別のインタビューで、「ニートにも二通りあって、働き者のニートと、怠け者のニートがいるんですよ。いずれも、あくせく働きたくはないなというのは心の中にあるのですけど。」と言っているが、行動的でもある。働きたくはないといいながら、同じ集落や別のNPO法人の人たちのために食品の加工場を作ったりもする。
必要に迫られるということでもなく、なんとなく流れで人の役に立っていくというところがニートらしいといえばニートらしいし、ひとの興味を引くところでもあるのだろう。
5年間で200人くらいのひとが見学に来たらしい。ましてや本まで出版しているのだ。
著者も書いているけれども、山奥ニートとしての生き方はこれからの人の生き方のヒントになると考えている。

ニートとは自分の意思に反してまで働かず日常を生きる(非日常的なことには興味を示さない。)それはある意味超経済的な生き方だ。だから意に反してまで働く必要がない。加えて山奥で共同生活することでその固定費を極限まで低くすることができ村で発生する小さな仕事で報酬を得るくらいで賄えることができる。
著者は、「持続可能なニートはモラトリアムではなく人類が目指すべき場所。」であると言い切るのだ。そして、お金がないから非日常的な経験はできないこととの引き換えに、「資本主義社会では人々は生活を人質に取られ手足を縛られている。しかしニートは違う。札束で顔をひっぱたかれても働きたくないと言える。」という自由さと独立性の高さを強調する。
非日常な体験ができないというけれども、山奥の生活自体が僕にとっては非日常であると思うのである。
インターネットと古くからある既存のインフラがもたらす新たな生き方といえるのである。だから限界集落を無くしてしまってはいけないのだとも言う。

僕もリタイアしたらこんな生活ができないものだろうかと思う。何か人の役に立とうと思ってもすでにそんなスキルがないということは証明されてしまった。それなら自分がやりたいと思ったことだけをやりそれさえもしたくなければ何もしない生活。そういえば今もそれに近い。釣りに行っていなければぼ~っとBSを見ているだけだ。会社員としてはただ会社に行っているだけだからそこのところはないに等しい。だからそこのところを考えに入れなければ僕は今でも立派なニートだ。この本を読んでいると僕のマインドは限りなくニートに近い。「自分が働くことに納得していなければ苦痛なだけである。」と著者も書いているけれども、特に最近はそう思う。
そのときに、魚釣りというのは日常なのか非日常にはいるのか、問題はその1点である。

震災を経験し、さらにこのコロナ禍のなかではこういうことを真剣に考え方を変える必要があるのかもしれない。この本は書かれたのが2019年の12月までなので、著者は今、どういったことを考えているだろう。著者は今でもブログを更新している
時間をみつけて読んでみようと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水軒沖釣行

2020年08月20日 | 2020釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 6:39満潮
釣果:マルアジ 3匹

一昨日、フェイスブックのアカウントを乗っ取られてしまった。その日、いつもの通り画面を眺めていたら、メッセンジャーにメールが入っていた。多分その人は会社関係でのつながりの人だったと思うのだが、ほぼ知らない人であった。
メッセージの内容は、「昨日送ってくれた動画はどんなものだったのですか?」というような内容だった。僕はこんなひとに動画を送った覚えはなかったのだが、なんとなく添付されていた動画のファイルを開いてしまった。そうしたら、動画が再生されるのではなくアカウントに紐づけしているメールアドレスとパスワードを入力する画面が出てきた。そこで警戒すればよかったものの、それにもなんとなく入力してしまった。
結局動画は再生されることはなかった。

???と思いながらも特に何も起こらず普通に他の人の書き込みを見てその日はパソコンの電源を落とした。
翌日、通勤途上の電車に乗りながら、昨日のメッセージは一体何だったんだろうかと思いを巡らせていると、ふと、詐欺に引っ掛かったのではなかろうかと思い至った。
ついこの前も、著名人のTwitterのアカウントが乗っ取られたというニュースがあったけれども、あれはまったくの他人事だと思っていた。僕は著名人でもなんでもない。ただの無能な一般人だ。僕のアカウントが何かの役に立つとは思えない。

会社に到着してしばらくすると、何人かの人から、ショートメールや電話で、「あんたのフェイスブックがおかしいで・・。」という連絡をもらった。僕が受け取ったメッセージと同じ内容のものが送られてきたらしい。
すぐにパスワードを変更をして対処すればいいのだろうが、ガラケーしか持っていないので何もすることができない。また、今となっては手遅れだろう。僕とつながっている人に一斉に悪意のあるメールが送られてしまったようだ。
敵もさるもので、すぐに気づいてパスワードを変えられないように時間差で悪意の実行をおこなったのかもしれない。
電子メールのフィッシング詐欺などにはいつも警戒をしていて怪しいアドレスから来たものは開封せずに即削除していたけれども、SNSには何の警戒もしていなかった。ましてやほとんど知らない人とはいえ、個人からのメッセージだったので何の不信感も抱かなかった。この時点でリテラシーとしてはまったく失格だ。

家に帰ってパソコンを立ち上げてみるとやはりたくさんの人から電子メールやタイムラインの書き込み、メッセンジャーでのメールが来ていた。
フェイブックも察知していたらしく、画面を立ち上げたときに「不正な動きがありました。パスワードの変更をしてください。」とうメッセージが出てきたのではあるがあとの祭りだ。画面にあふれているメッセージは僕には惨状にしか見えなかった。
メッセージをくれた人たちにはお詫びの返信をして、タイムラインにもお詫びのメッセージを入れるところまではなんとか進めた。ほんの些細なミスがこんなことになってしまうとは・・。それを考えるとあまりにも恐ろしくなったのでその後すぐにアカウントを削除してしまった。
フェイスブックからのメッセージでは30日以内ならアカウントを復活させることができるそうだが、それも恐ろしくてできそうにない。
受け取った人たちが被害に何か被害に遭っていないことを願うばかりだ。
そして僕のパソコンも汚染されていないことを願いたい・・。

なんだかもう、何もかもがおかしな方向に転がっていっているようだ。釣りに行ってもこの暑さではと思うが釣りにでも行かないと何もかもがおかしくなってしまいそうだ。「釣りに“でも”・・」という言葉は僕が一番嫌いな言葉だがつい口をついて出てしまう。
そのフェイスブックで最後に教えてもらった情報が、いまでもチョクリでサバやアジが釣れているということだった。もう、奇抜なことはやめて手堅い釣りをしているほうがいいというのは前回の教訓だ。そして今日の気温も午前3時で28.7℃。日が出たらすぐに帰らないと体が持たないかもしれないので勝負が早いチョクリはちょうどいい。

夜明け前に船を出し、少し南向き加減で沖に出ていく。



水深30メートル付近から魚探の画面を注視してゆくが何の反応もない。そういえばその情報の提供者は水深60メートルラインまで出張っていたそうだ。ぼくはそこまでは行く気になれない。もっと近くで釣れるのならかれの半分の釣果でいい。
水深50メートルのところまで行っても反応がないもう、これ以上は沖に出たくないのでダメもとで仕掛けを下す。

この時間でもまだまだ潮が早い。60号の錘でも仕掛けが安定しない。ノイズの多い魚探を覗いているとかすかかに水深15メートルくらいに反応がある。これくらいの深さなら潮が早い中でもなんとかなるかもしれないと考えていると本当にアタリがあった。しかしこれはすぐにバレてしまった。
まあ、魚はいるらしい。その後も斜めになった仕掛けを深いところや浅いところと棚を変えてみるがアタリはない。なんとか3匹を確保できただけだ。

夜明け前後は東の空が見事なグラデーションを見せ、それに飛行機雲が重なり素晴らしい景色であったが間もなく容赦ない日差しに変わってきた。



もう、これ以上粘ってもたかが釣果は知れている。また、通勤通学ラッシュの真っただ中に帰宅することになってしまうが仕方がない。
午前7時に仕掛けを巻き取り岐路についた。
ウチは1匹あれば十分なので残りは叔父さんの家へ。すぐに帰るつもりだったがサツマイモの収穫で中断していた円卓会議が復活していた。復活といっても今日のメンバーは叔父さんを入れて2名。僕が入って3名だ。暇人は3人だけということか・・。
約1時間時間をつぶしたのでラッシュには当たらずに帰宅。



1匹だけあれば十分というのは、久しぶりになめろうを作ってみようと思ったからだ。「遠くへ行きたい」だったか、それを食べているシーンがあったのでぼくも食べてみたくなった。
唐辛子を漬け込んだ味噌も残っていたので少しピリ辛風味で仕上げてみた。やはり新鮮な魚で作ったなめろうは違う。午前中につくったものでも夕飯のころになってもドリップは1滴も出ていない。
包丁で叩かれた身はねっとりしており、庭にたくさん生えているシソもたっぷり使っているので臭みもまったくない。毎日辛いものばかり食べているので辛さに対する感覚はマヒしているようであまり辛さを感じなかったけれども自画自賛になってしまうが、なかなか美味しい仕上がりであった。
それだけが今日の救いだ・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Eiko 「どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法」読了

2020年08月19日 | 2020読書
Eiko 「どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法」読了

サンマーク出版という出版社があるのだが、そこは40人ほどの社員でありながらミリオンセラーを連発している元気な出版社らしい。そこの社長のインタビューを読んでいるとこの本についても語っていた。
これはきっと腰痛対策にもいいのではないかと思い、手に取ってみた。

その内容なのだが、Eiko先生というヨガのインストラクターが開発した方法を4週間続けるとどんなひとでも開脚ができるようになるというものだ。しかし、実際の開脚の練習についての核心部分については写真が入ってやり方が説明されている5ページだけで、あとは編集者とEiko先生のコメントとその他3/4がなんだかよくわからない小説が書かれている。
その小説というのは、栄転で戻ってきた上司がその部下に開脚ができるメソッドを教えるという内容なのだが、この小説の“開脚”を“信仰”に、“Eiko先生”を“教祖”に、“堀部長”を“支部長”に置き換えるとそのまま新興宗教の宣伝パンフレットに載っていそうな小説になる。
読んでいて気持ち悪くなりそうな内容なのだが120ページほどしかなかったので我慢して読み通した。
主人公たちはこの、開脚に並々ならぬ重要性と意欲を持っている。それが気持ち悪くなる要因なのだが、教祖のEiko先生は、「開脚ができるかどうかって、ただ開脚だけの話ではないと思っているのです。結局、自分の意思で成功できるかどうか、人生を自らの力で切り開けるかどうかと同じじゃないかって。」と開脚ができるようになることが人生を成功させる十分条件であるというようなことをおっしゃる。そして支部長の堀部長はこんなことまで言う。「開脚もできないやつが、何かを成せると思うな。」
僕は自慢も何にもならないのだが、一時期ダイエットに挑んで体重を最大約26㎏減らしたことがある。(今では10キロもリバウンドしているが・・)
世間ではきっと開脚よりもダイエットのほうが評価は高そうだけれども、それでも「人生が成功した」というほどの感慨も何もなかったし、結果はまったく逆で今では完全に負け組だ。それができたからといってなんでもできるというようなスーパーマンになった気分でもなかった。
そういうようなことを実感しようと思えば、やっぱり、へんな新興宗教にのめりこんで我を忘れるしか方法はないのではないだろうかと思ってしまうのだ。

しかし、この本が本当に100万部を超えるベストセラーなのだろうか。ひょっとしたら、この本に紹介されている、「私もできるようになりました。」という人たちやEiko先生の生徒が買い占めて無差別に配った結果だったりしないのだろうか。
どちらにしても、こんな本しかベストセラーにならないというのではこの国もおしまいだと思う。

ただ、体が柔らかくなるということはいいことだろうから、僕も一応、4週間やってみようと思う。はたして、来月、良い結果を報告できるだろうか・・。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口釣行

2020年08月18日 | 2020釣り
場所:紀ノ川河口
条件:大潮 5:06満潮
釣果:タチウオ 2匹 エソ

連日暑い日が続いている。今朝も暑い。今日の和歌山市の午前5時の気温は28.5度だ。家の中は日中の日差しを溜め込んで建物自体が熱を持っているからだろうもっと温度が高いように感じる。
今日の日中も気温が異常に高くなりそうなので釣りは日の出直後までにしておきたい。小船の出番だ。



暗いうちに出撃して紀ノ川河口でルアーを投げて少し明るくなってからタチウオを釣ってみてまた紀ノ川河口に戻りタコを釣ってみようという考えだ。

ルアーではスズキまでは望まないけれどもフッコくらいはそろそろ釣れるのではないかと期待していたがまったく何の反応もなく終了。



次はタチウオだ。前回は明るくなってからでも5匹釣れたので10匹はいきたいと思っていたがこっちもぜんぜんダメ。小さいタチウオとエソを釣っただけだ。エソはこれ以外にも2匹釣れたが、まだまだタチウオが釣れるだろうと期待して放流してしまった。今思えばあれもクーラーに入れておくべきだった。エソは毎回ハンペンにするのだが、今日のハンペンは豆腐の味が勝ってしまった。



そして最後のタコ釣り。去年大きな錘を鋳込んでいたのだが、なぜか箱の中のテンヤには錘が取り付けられていない・・。どうやらテンヤには取り付けないままほったらかしにしていたようだ。自作のものが仕えないのでまっさらの市販のテンヤをつかうしかない。もったいない。おまけに錘が軽いので底を取れない。この時間、すでに引き潮になってきているので川の流れと引いてゆく潮で流れはかなり早くなってしまっている。
これでは釣りにならない。せっかく用意したエビも1匹だけ使ってあとは処分。そろそろ暑くなってきたので午前7時半に終了。
しかし、毎回そうだが、準備不足でしかも釣れない・・。

帰宅時間はちょうど通勤と通学のラッシュ時間帯に重なった。これまでは、仕事に行く人たちを見送りながら「ご苦労さんだね~。」と少し優越感に浸っていたが、今は逆だ。なんだか自分がみじめになってくる。
次は暑くてももう少しゆっくり帰ろうと思うのだ。

2週間乗らなかった小船は速度が格段に落ちてしまった。この間にフジツボがかなり成長したのだろう。港の水質を見てみると相当濁ってきた。潜水をしたのが10日前。今日の水質では潜るのを躊躇してしまいそうだ。10日前でよかった・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ラマレラ 最後のクジラの民 」読了

2020年08月17日 | 2020読書
ダグ・ボック クラーク/著、上原 裕美子/訳 「ラマレラ 最後のクジラの民 」読了


インドネシアの東の端の方、東チモールのすぐ手前にあるレンバタ島の南側にラマレラという村がある。そこは400年前から変わらず同じ方法でクジラを獲って暮らす生活が続いている村だ。
そこはいくつかの氏族に分かれていて、海側に住む人たちは全員なにがしかクジラ漁にかかわっている。それぞれの氏族は捕鯨船用の小舟を有している。捕鯨が始まると共同で狩りにあたる。
手漕ぎの船(テナという。)にヤシの葉を縫った帆を立てて銛とロープだけでマッコウクジラやマンタを仕留める。そんな原始的な漁法を続けていた。
男たちの最大のあこがれはラマファと呼ばれるそれぞれの船の銛手のリーダーになることだ。

この本はアメリカ人ジャーナリストが2011年から2018年の間、ラマレラに住む人たちを取材し続けた内容をまとめたものだ。、取材期間も長いがページ数が多い。物語は1994年から始まり解説を除く本編だけで449ページある。紙質がいいので厚さは4センチほどだ。リュック型のかばんに入れて持ち歩いていると背中に違和感を覚える。

西暦2000年を越えるころから、この村にも近代文明の波が押し寄せてくる。漁に関してはエンジンや刺し網、流し網という漁法。物々交換にたよっていた日常生活には貨幣経済が浸透し始め、先祖とつながる神々への信仰はキリスト教に置き換わり始める。

そんな大きな変換期を人々はどう受け止めたか、各章ごとに主人公が変わる小説仕立ての構成で綴っている。
近代化の波に抗いながら伝統を守ろうとする人。悩みながらも都会に出ていこうとする人。その中で人間関係に悩む人たち。それは若い世代だから近代化の波に乗りたがるというものでもない。迷いながらもラマファに憧れを持ち続ける人。年配でも近代化の波に乗ってひと儲けしようとするクールな人もいる。老人はやっぱり土着の神を畏れて伝統からは抜け出せない。しかし、若い世代のためには都会との交わりは仕方がないと思う人もいる。

先祖と共にあった時代の人間はお互いに頼りあうしか生きる方法がなかった。どうしても力を合わせていくという必要があった。しかし、貨幣経済、近代化というのはそういうつながりを断ち切っていくという側面がある。
村の人たちすべてが同じ方向を向いて仕事をしていたものがお金を介在させることによって共同生活をしなくても生きていける環境を作ることができる。そして政府は貨幣経済、新たな労働機会を与えることによって国家を統一しモノカルチャー化しようとする。
確かに生活は楽になるけれども、それぞれの人が持っている矜持というものが削がれてゆくのも事実だ。この本の中では、男たちは果敢にマッコウクジラに挑むこと、そして食料をじかに手に入れるという矜持だろうか。

ラマレラの人たちはその折衷案を選択しようとしている。伝統は守りつつ近代世界のよいところは取り入れようと考えた。テナでしか獲ることが許されなかったマッコウクジラを船外機船(ここではそれを「ジョンソン」と呼ぶそうだ。)でも獲ることを許した。しかし、それを許したのは古来からこの土地の支配者とされてきたシャーマンの一族というのがやっぱり伝統的なのである。そしてテナとテナの連絡には携帯電話が使われることも許された。若者の間ではインターネットが普通になり、電気も24時間通じるようになった。
一方で村の近くには港ができ、大型船が寄港できるようになったけれどもうまく活用されずにいる。

この本のエピローグは2018年で終わっているのだが、お金さえ出せばいつでも暖かい食べ物にありつける生活は安全で楽だ。しかし、人はそれのみで生きてゆけるのか。
この本はそういうことを問いかけているように思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水軒沖~下津ピアーランド沖~マリーナシティ沖釣行

2020年08月14日 | 2020釣り
場所:水軒沖~下津ピアーランド沖~マリーナシティ沖
条件:長潮 8:42干潮
釣果:タチウオ1匹 キス5匹 マゴチの小さいの1匹

普通なら今日は小船のローテーションだが、前回のトラブルの後遺症が残っていないかどうかを確かめたくて大きいほうで出船した。
次の休みの気圧配置予想を見てみても小船で十分出られそうだったことも大きいほうを選んだ一因だ。

前回、タチウオがそこそこ釣れたので今日もタチウオからスタート。出船は午前4時半で十分だと思って港に行くとすでに東の空が白み始めている。今日も猛暑の予報なのでお日様もはやくギラギラ地球を暖めてやろうと張り切って少し早い目に顔を出し始めたのだろか・・。それで焦ったわけではないが、スパンカーの柱を倒すのを忘れて船を動かし始めてしまった。毎回の操作のはずなのに忘れてしまっている自分が恐ろしい。前回のトラブルといい、どうかしてしまっているようだ。
橋の下をくぐるとき、毎回、橋げたに柱が激突しないかどうかを確かめるため後ろを振り向いて確認するのだが、それまでは忘れていなかった。柱が立ったままであることに気付き、急いでギアをリバースに入れた。エンジンが温まっていないとエンストを起こしかねない状況だが、高い気温に助けられたというところだろうか。
まだ橋げたに激突したことはないけれども、想像するに、ロープがつながっているオーニングのフレームを歪めてしまい、柱とデッキをつなげている土台部分も破損させてしまうことになるだろう・・。考えただけでも恐ろしい・・。

なんとか無事に二つの橋の下を通過し、紀ノ川の沖合へ。釣れていないのか、はたまた今日はお盆なのでさすがに殺生はあかんやろうという理由か、船が出ていない。シーズンになると平日でも4,5隻の船が出ている。なんだか嫌な雰囲気のまま仕掛けを流すがその通りでまったくアタリがない。やっとアタリが出たのは辺りがすっかり明るくなってしまった頃だ。



ひょっとしたら棚を深くして釣り続けたらあと数本は手にできたかもしれないが、今日も先を急ぐ。キスもこの暑さの予報ではあまんまり長くはやっていられないだろうから午前8時にはある程度の形を作っておきたい。1匹とはいえ、型がよかったのがせめてもの救いだ。

紀ノ川河口をあとにして次は雑賀崎の沖で禁断の仕掛けを流す。タチウオの仕掛けも禁断の仕掛けなのだが、どちらにしてもあんまり正確に書くと障りがありそうなので禁断の仕掛けとしておく。
うまくいけばスズキでも掛かるかと思っていたのだが、小さなツバスが2匹。今思えばあれもクーラーに入れておくべきだった。この仕掛けで釣った魚は鉤が深く刺さらないのでリリースしても生き延びてくれる可能性が高い。その仏心が・・。

ここでもそんなにゆっくりしていられない。鷹ノ巣から田ノ浦の姥岩の前までで終了。




次に本命のキス釣りなのだが、ひとつ考えが浮かんだ。長いこと行っていないけれども、下津ピアーランドの横はどうだろうかという考えだ。あそこは型もそこそこよかった。水深があるので日差しが強くても釣れるんじゃないだろうかとも考えた。唐突に浮かんだ案なので錨の準備もしていなかったほどだ。ここからはまっすぐ下津港を横切る形になるので穏やかな水面を全速で突っ切る。このスピードではあのトラブルの悪影響はなかった感じだ。コックボード周りのロープの残骸もきれいに取り除けている感じだ。

ポイントに到着して早速仕掛けを投げると一荷でキスが釣れた。よし、勘は当たったとほくそ笑んだのはその時だけ。その後はさっぱり。じっくりアタリを待っている時間はない。急いでマリーナシティ沖へ移動。しかしここでもアタリはない。冷水の方にも移動したがここもさっぱり。



8時半を回ってやっぱり異常な暑さにまいってしまった。
長潮でおまけに潮が止まる時間であったということが一番の原因かもしれない。また、キスの活動適温というがあるのかどうか知らないが、連日の猛暑で水温も上がりすぎていたのも原因としてはあるのではないだろうか。それを知ってか知らずか、ここにもキスを釣っている釣り人は皆無。
お盆+猛暑=釣りに行ってはいけない。という方程式があるようだ。
案の定、家に帰ると親戚の家に持っていくお供えが数個用意されていた。家の仕事もきちんとやりなさいという奥さんのご命令だ。


タチウオの仕掛けを入れておくために長らく使っていたカバンの取っ手がとうとう切れてしまった。



父親が使っていたものだから最低でも20数年使っていることになる。中身の仕掛けも少し改良をしているものの、基本設計は父親のものだ。
結局、僕は、父親のやっていたことをトレースしているだけでそれ以上のことはなにをやってもうまくいかないのだ。父親が教えてくれたことはなんとかできるがそれ以上のことはできない。
最近も初島に行ったり加太に行ったりしているがまともな釣果に恵まれないのはそういうことだろう。そういえば、磯の釣りでも、父親が教えてくれた紀州釣りはなんとか形になっているが、自分で始めたフカセ釣りは結局モノにはならなかった。
夏はチョクリとキス釣りくらいでとどめておくのが一番効率がいいと思い始めている。
船もGPSもPEラインも父親より高度な道具を使うようになったがそれでも父親を超えることができないのだ・・。
せめて父親が残したものは使えなくなるまで使いきってやろうと取っ手を補修してみた。あと10年ほど使ったらこのカバンと同時に僕も引退、という感じだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする