イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「魚の心をさぐる―魚の心理と行動 」読了

2021年09月29日 | 2021読書
益田玲爾 「魚の心をさぐる―魚の心理と行動 」読了

この本も以前に読んだ、「クロダイの生物学とチヌの釣魚学」と同じシリーズの書籍だ。中高生向けに書かれているというだけあってかなり平易な文章で書かれているので読みやすい。

魚の心を理解することができればきっと釣果も上がるのではないかと思うのだがそんなに簡単ではない。「魚の心理」と書かれてはいるが、さすがに魚に心(意識としての)はなかろうとは思うので行動学というようなものだろうか。
仕事の中では、客の行動心理というものがあって、商品をどんな位置に置くかで売り上げが変わるんだなどと教えられたことがあったけれども、結局売れないものは売れなくて、その論を当てはめると釣れないものは釣れないのだということになる。
著者は、自称、「魚類心理学者」と名乗っているそうだが、まあ、それは読者に対するサービスでしかないということだろう。

どこか僕の釣りに対して何か益のあるところはないだろうかと探しながら読むのであるが、そんなに世の中は甘くない。もともと著者の研究というのは、栽培漁業を効率的に進めるためのものだそうなので釣りとは直接的な関係がない。
ただ、魚が持っている習性についての解説には参考になるものがある。著作の中では、シマアジが頻繁に取り上げられていて、まあ、アジはアジなのでマアジも似たものだろうと思うので少し記録に残しておく。
シマアジというのは回遊性の魚ではなくて何かの障害物に寄り付く習性がある。それを寄り付き行動と呼ぶそうだがそれは視覚だけではなく、側線による触覚からも位置を確認しているそうだ。特に夜は寄り付き行動が顕著らしく、朝一の釣りではやはり漁礁をピンポイントで狙う必要はありそうだ。
また、側線であるが、体側だけではなく、目の周りにも存在していて、音に対する反応のほうが光に対する反応よりも若干早いそうだ。僕はあまり思わないが、マアジは海底を叩く錘の音に敏感ですぐに逃げてしまうので底を取るときにも錘を着底させてはいけないというのをテレビで放送していたが、音に敏感となるとそういうこともあるのかもしれない。しかし、それじゃあ底を取ることはできないのじゃないかと素人の僕は思うのである。
アジを釣るにはビニールよりも荷造り紐のほうがはるかに釣果が上がるということが去年と今年の釣りを通してわかったことだが、それもきっと、あのモジャモジャした紐が水流をはらんで何らかの音を出しているのがいいのかもしれない。
色よりも、音。それはひとつありなのかもしれない。

魚の学習能力についてだが、イシダイの実験では、4~7センチの大きさの時にいちばん学習能力が高まり、10センチごろから低下するという。それは、これくらいの大きさになってくると、仔魚は浮遊生活を終えてそれぞれが本来棲息している場所に定着しはじめる。時を同じくして神経線維が発達し始める。加えて本来の食べ物を探すようになることで学習能力が高まっていくからだと想像される。しかし、著者は栽培漁業のための研究が主体なので稚魚までのことしか書かれていない。もっと魚が大きくなったときの魚の学習能力というものはどうなるのだろうということは知りたいと思う。ただ、それを知ったからといって、どの形に切り出したビニールが効果てきめんなのかということは永遠の謎であるというのは間違いがない。
その、神経線維だが、そこに大量に含まるのがDHAというやつらしい。魚はDHAを体内で作り出すことができず、DHAを作る植物プランクトンを食べた動物プランクトンを食べることによってしかDHAを得ることができないそうだ。だからDHAを大量に摂取させるとわずかだが学習能力が向上するらしい。
人間はどうかというと、わずかだが体内で作り出すことができるとはいえ、大半は外部からの摂取に頼っている。ひとつの説として、人間に毛が少ないのは水辺での活動に適応するためにそうなり、(NHKでは、獲物を追いかけて長距離を走るために毛がなくなったと言っていたが・・)人間はそこで魚をたくさん食べるようになったことでDHAを体内に蓄え脳を大きくしたという考えがこの本の中に紹介されていた。多分僕は一般人よりもたくさん魚を食べている部類の人間だと思うが、脳が発達していないのはなぜだろう・・?人類進化の謎がここにも存在していた・・。

真鯛についても少し書かれていて、クラゲとの関係が書かれていた。真鯛の仔魚は浮遊中にクラゲに捕食されることが多いそうだ。
2、3年で釣りの対象になるくらいの大きさに成長するということなのでクラゲの多い年の2、3年後は真鯛が少ないということになる。そういえば、ここ数年は加太の海にもたくさんのクラゲを見た。ずっと真鯛が釣れないのは僕の腕のせいではなく、クラゲの責任に転嫁できそうだ。
逆にマアジは、プランクトンを捕食したクラゲを襲って食べることがあるらしく、また、仔魚の頃から逃げ足がはやいのでクラゲの増減にはあまり影響されないらしい。同じ海域に生息しているのなら、真鯛が減った分マアジの勢力範囲が広がるということだから現状では僕みたいなヘッポコでもおかずになるくらいの魚を釣ることができているのかもしれない。印象では、わずかだがマアジと真鯛はいくらかの棲み分けをしている感じもするし、これはあくまでもシマアジでの研究結果を読みながらかんがえているので根本の仮説が間違っているということは大いにあるのではあるが・・。

ストレスに対してはどうかというと、ストレスがかかるほど潜行水深は深くなるそうだ。これは経験上もそうだが、おそらくどの魚にも当てはまりそうだ。どの魚も釣れない日ほど底の方で食ってくる。これも、かといってそれをどうすることもできないのではあるが・・。

それよりも、漁獲高の多寡については、「卓越年級群」というものがあるそうだ。『稚魚期の減耗が少なかったためなど、何らかの要因である資源生物の加入量が極端に多い年級群(年齢集団)のこと』でそういった年級群がたくさんあると僕みたいな釣り人でもなんとか魚を確保できそうだ。この集団がいっぱい出現し続けてくれることを願うばかりだ。

この本の内容とはまったく関係がないが、いつも思っているのが、この世の中には魚を集める特効薬のようなものがきっとどこかに存在しているかもしれないということだ。
そしてひとつ見つけた。見つけたといってもテレビで見たというだけのことだが、それは納豆だ。「ザ!鉄腕!DASH!!」という番組で、ゴンズイは納豆に寄ってくると言っていた。
ゴンズイはチヌ釣りをしているとよく掛かってくる魚だ。この放送を見ながら、それならチヌにも効くのじゃないかとひそかに思った。
今年の秋のひとり遠足はこれを試してみようと思っているのだ。

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「遺言未満、」読了

2021年09月28日 | 2021読書
椎名誠 「遺言未満、」読了

新刊ではないが、椎名誠の本を見つけた。去年の発刊のようだが、あまり借りられた形跡がなく、椎名誠も少しずつ忘れさられてきたのかと少し寂しくもなる。

この本は、椎名誠が自分の生死観についてまとめたような内容になっている。「青春と読書」という集英社の雑誌への連載が元になっているそうだ。この雑誌、おそらくは集英社の出版物のPR用という意味合いもあるのだろうが、いまどき月刊誌で1冊91円だそうだ。年間購読だと送料込みで910円だそうだ。ちょっと目次を見てみると、けっこう内容は濃そうで、”青春と・・”というタイトルの割には、この連載のように死について語られたり、今月号の巻頭エッセイも同じように老いることや病むこと、死ぬことについて書かれていたりする。
1年間購読してみようかと思いたくなってしまった。

この本の中で著者が語っていることは、過去に廻ったたくさんの国々で見た葬儀の方法や編集者に勧められて廻った日本の葬儀の周りに存在するいろいろな事情、自身の夫婦の間で考えた自分たちの死後の取り扱われ方の望み、そしてそこから見えてくる自身の生死観というものである。
悔いなく死ぬためにはどう生きるべきなのかというようなことを書かないのが椎名誠らしいと思う。

このブログにも何度か書いているが、僕が死について最初に意識したのは上司の死であった。この人とは入社してからすぐに一緒に釣りに行くようになり、最後の釣りも田辺の磯に一緒に行っていて、その日もどうも腰が痛いと言いながら釣りをしていたのだが、すぐ後に検査をしてそのまま入院してしまい、半年くらいで亡くなってしまった。すい臓がんだったそうだ。
僕よりもひと回りくらい年上のひとであったが、そんな人でも死んでしまうのかとなんとも驚いたというのが正直な感想であった。それまでは、自分の身近なところで人が死ぬといってもご老人ばかりで、まあ、そうなんだろうなという感覚しかなかったのだ。
ちょうどその頃が、「もうすぐ絶滅する煙草について」の感想に書いていた頃で、いつかは死ぬのなら仕事ごときで悩まずに生きようといくらか吹っ切れた思いもしたのである。

椎名誠はどうであったか。最終的には死後は誰にも面倒をかけたくない遺言をきちっと残して、墓も建てずに散骨をしてほしいと思っているそうだ。
そして、散骨をしてもらう場所は仲間と遊んだ八丈島へと願っているという。

僕の父親は上司が亡くなったあと間もなく死んでしまったが自分の死後はどうしてもらいたかったのだろう。何も言わず、何も片付けることなく死んでしまったので何も考えていなかったというのが正直なところだろうが、あの世代のひとでは、人並みに墓石の下に入るのが当たり前で、持っているものを全部残して逝っても僕がなんとかするだろうとでも考えていたのだろうか。まあ、そこは確かなことで、いまでも丸々ぼくが使っている。チョクリ釣りもタチウオ釣りも全部父親が残した素材をそのまま買い足しもせずに使っているし、大工道具もすべて父親が残したものだ。処分したのは港の近くに立てていたプレハブ小屋と台風で沈んだ小船だけだ。

さて、僕はどうだろう。世代がひとつ変わると確かに生死観も変わる。僕も著者と同じで、墓はあれどもそこに入りたいとも特に思わない。水軒の海に骨をばらまいてもらうもよし、もっと言うならひっそりとどこかで息を引き取ってそのまま朽ち果てるというのはどうだろうと思っている。体重75㎏だと朽ち果てる間に相当な臭いを発散するがそれは我慢していただきたい。また、今までさんざん魚を殺してきたから最後は魚のエサになって骨だけ海底に没するというはどうだろう。それならばあまり臭いは感じないのかもしれない。その時にはあまり苦しくないほうがいいなと思ったりするのである。
「九相図」というものがあって、小野小町を題材にしたものが有名だそうだが、人は皮膚の下にはドロドロしたものが隠れていて、不浄なものとされたというのが仏教を元にした日本人が持っている生死観だが、僕のそうやって朽ちていって何も残さないというのが一番だと思う。何の功績もなく、人の記憶にも残らない。それが潔い。
僕は釣具も船も大工道具も自分の趣味の中で活用できたが、それも次の代では無用のものだ。これも家と一緒に産業廃棄物として朽ち果てればいい。船はなんとか次に使ってくれる人を探さないともったいないかな。今ならコロナ景気で中古艇の値段が上がっているらしいので引く手あまたのようだが、あと10年くらいこの景気が続いてはくれないだろうか・・。

著者は、鳥葬というものに気持ちが惹かれたようだ。同じテーマが数回にわたって登場する。鳥葬は主にチベット仏教、中央アジアのゾロアスター教で行われる葬儀の方法であるが、チベット仏教での考え方は、輪廻だ。この世に再び生き返るためには名残を残してはいけない。だからあらゆるものすべてをこの世から消し去ろうとする。遺品はおろか、一緒に写真に写っているものはそこを切り抜いてしまうという徹底ぶりらしい。遺体を鳥に食べさせるというのは、森林限界を越えた山岳地で火葬するにも木がなく、土葬するにも土もない環境だからハゲタカに食べさせるくらいしか処理をできないということもあるそうだが、基本的には「施し」という精神で、魂が抜けた体を鳥に食べさせることが施しであるというのだ。1時間くらいで骨まで食べられて後には何も残らないらしい。だから遺骨さえも残らないということになる。
その潔さから自分たちにも墓はいらないのではないかという考えに至ったというのは何となくわかるような気がする。

ちなみにゾロアスター教では、死というのは不浄のものとされ、火葬すると火が穢れ、土葬すると土が穢れ、水葬にすると水が穢れるというので仕方なく鳥に食べさせるのだそうだ。日本ではいつまでも心に留めておいてあげるのが一種の供養だと考えられているし、場所と思想が変われば葬儀に対する考え方もまるで違ってくるのだ。

テーマは重いがさすがに椎名誠だ。そこのところを軽やかにまとめているように思う。文章の中には編集者のTさんというひとが時々登場するけれども、作家の文章力に加えて編集者の力量というのも大切なようだ。

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加太沖釣行

2021年09月26日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮9:11満潮
潮流6:29転流 10:21上り 2.6ノット最強
釣果:タチウオ6匹 マアジ5匹 カスゴ1匹

カワハギが釣れているという情報を隣に係留しているNさんから貰っていた。まだ肝はそれほど大きくないですよとことであったがSNSにアップされている画像を見てみるとまったくそんなことはない。
これは一丁僕も釣り上げてあわよくば肝和えと鍋にして食ってやろうと勇んで加太に出かけた。

朝は少しずつ肌寒くなってきて、シャツ1枚で出発できるのもあと数回だろうと思われる。今日は曇っているのでそうでもないが晴れていれば放射冷却でもっと寒かったかもしれない。



シーズン最初の獲物を狙うためには保険が必要だ。まずは紀ノ川河口でタチウオを釣る。おとといはまったくの不発であったのだが、今日も芳しくない。アタリはあっても細いし、それも散発的でしかもアタリがあるエリアは青岸と新々波止の一番狭い海峡部分だけだ。
仕掛けを流している間にも各方面から続々と沖に向けて船が出てゆく。



それをかわしながら魚を釣るというのもなかなか難しい。小さいものを放流しながら釣りを続け、すっかり明るくなり、さて、加太に向かおうかと準備をしたときには6匹しかデッキの上に残っていなかった。一応、10匹釣ったら加太に向かおうと思っていたのでここでは保険作戦は失敗ということになってしまった。

次の保険はアジ釣りだ。まあ、これは保険というよりも本命に近い位置づけではあるが・・。
加太の沖に到着したのはほぼ潮止まりに近い時刻。このあとから上りに変わっていくが、さて、どこで仕掛けを下ろそうかと悩む。あれだけたくさんの船が出撃していったのに、友ヶ島の南のこの海域にはほとんど船が浮かんでいない。やつらは一体どこに行ったのだろうか・・。
本当なら大和堆ポイントに行くのがいいのだろうが、カワハギ釣りへのリレーを考えるとあまり遠くには行きたくない。今日も船足はいまいちなのである。

四国ポイントの上を通過するもまったく反応はなく、もう少し友ヶ島に近づいてみる。第2テッパンポイントに差しかかったころに小さいが反応があった。



じゃあ、ここからスタートとサビキ仕掛けを下していく。徐々に反応はよくなり、早速アタリが出た。
幸先よく、大きくはないがマアジが2匹上がってきた。
船は東からの風に押されて真西に流れてゆく。この時点ではまったく潮が流れていなかったのだと思う。
3回目の流しの時、魚とのやり取りをしている最中に電話が鳴った。今日はN氏もカワハギ狙いでやってきているらしい。ちからさんも同乗しているとのこと。「釣れ始めたら連絡しますよ~。」と言ってくれて通話を終了。しかし、いまだにスマホの通話の仕方がよくわからない。コールしている最中に画面が真っ黒になってしまうのは節電のためなのだろうか。明るい野外でエンジン音がうるさいところでは電話がコールされているかどうかがまったくわからないのだ。

その頃から船の流れが北を向き始めた。潮が上り始めたようだ。流れが変わってしまったのが悪かったか、アタリが出なくなってしまった。
午前8時になればカワハギ釣りに転戦しようと思っていたが、30分前倒しで移動。
去年釣れた場所が思い出せないままそれらしい方向に向かうとNさんの船を発見。



聞くと1枚ずつ釣り上げているとのこと。僕も早速仕掛けを下すが、潮が速い。おまけに北風もかなり吹いている。潮の向きと風向きが逆なのでよけいに潮が速く感じる。早すぎて底を取ることができない。錘を40号にしてみるが状況は変わらない。これでは前アタリがあっても追い食いを待つ間に仕掛けが暴れて鉤には乗らないだろう。
こんな状況ではエサを消耗するばかりだと判断して移動を決める。ナカトにたくさんの船が集まっているのが気になっていたのだ。
ジギングをやっている船が多いので青物を狙っているのだろう。僕も高仕掛けで狙ってみるがアタリはさっぱりで、10時頃になりそろそろ潮の流れも緩くなり始める頃だと思いまたカワハギ釣りに変更。
底を取りやすいようにと30メートルより浅いところで仕掛けを下すがエサ取りばかりだ。



これでは埒が明かないと底を取れないのを承知で40メートルラインまで移動。海底に錘が到着するまでに道糸は50メートル以上出てゆく。しかし、やはり仕掛けが安定しないのかコツンとアタリがあってもそれっきりでエサだけがなくなる。いきなりゴツンというアタリで上がってきたのは本命ではないカスゴだった。

最後の1匹のエサを使い終わって正午前に終了。

ちょうど同じようなところを流していたNさんに聞いてみると二人で10匹以上釣っているとのこと。あの速い潮の中で本アタリが出るまでエサを追わせるというのはお見事というしかない。

また、出直しだ。エサを300円分だけにしておいてよかった・・。

今日のように最初はポツポツ釣れていて後になるほど釣れなくなってくると体はものすごく疲れたように感じる。これが逆ならあまり疲れたように感じないのだ。
天気のいい日は休みのたびに釣りに行っているので疲れるのは当たり前といえばそうなのかもしれないが、今日は特に疲れた。
次の休日は絶対にゆっくり寝ようと思う・・。

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「もうすぐ絶滅するという煙草について」読了

2021年09月25日 | 2021読書
キノブックス/編 「もうすぐ絶滅するという煙草について」読了

篠田桃紅の本を見つけた時もそうであったが、この本にも何か因縁めいたものを感じた。読んでいる途中、先に読まなければならない3冊の本が出てきて30ページほど読んだ状態で10日ほど中断していたのだが、その中断した部分に「裏窓」というヒッチコックの映画のワンシーンのことが書かれていた。主人公が監視を続けている一室、アパートの中庭で住人の愛犬が殺されるという事件が起きた。その騒動を見ている各部屋の中に真っ暗な部屋があり、その暗闇の中でたばこの先が燃える赤い点が見えているというようなシーンなのだが、中断したその日、夜中にBSのチャンネルをクルクル回していたら、この映画が放送されていて、まさにその時、このシーンが映っていた。めったに見ない放送で、しかも数多ある映画のワンシーンを偶然見てしまうというのはヒッチコック以上のミステリーだと思ってしまうのだ。

じゃあ、僕に煙草とどんな縁があるかというと、生涯のなかで一時期煙草を吸っていたころがあった。いわゆる同〇問〇というようなやつに巻き込まれ、会社に行くのが嫌になってしまってなんだかむしゃくしゃするので煙草でも吸って気を紛らわしていた。
すでに師の本はたくさん読んでいたので、師は魚が釣れるようにと縁起をかついで「ラッキーストライクを」吸っていたことは知っていた。ただ、洋モクは値段が高かったのでカラーリングがよく似ていた「キャビン」という銘柄を吸っていた。
吸ってみると、酒に酔うというのとはまた別のクラクラ感があって気も紛れるという感じはした。
その後、いつ止めてしまったかという記憶はないのだが吸わなくなり、東京へ出張に行くようになってから、再び、数本だけで止めてしまったが葉巻を吸ってみたりしていた。
香水を輸入している取引先なんかに訪問すると、おみやげに葉巻をもらうことがあった。こんな会社というのは香水以外にもいろいろなぜいたく品を輸入していたのだろう、一般人が手にできないようなものを見ることができた。
試しに吸ってみると、たしかに煙草にはないいい香りが口から鼻に抜ける。これはけっこういけるじゃないかと自分でも買い求めるようになった。新宿の紀伊国屋書店の中に輸入煙草や葉巻なんかを扱っているテナントが入っていて、高いのは買えないので一番安いやつを買って吸ってみたけれども、やっぱり安いやつは旨くない。それで止めてしまった。
以来、15年近くはまったく煙草とは縁がない。

その間に煙草は世間からはどんどん肩身が狭くなり、逆に価格だけは偉そうになってもう一度吸ってみようと思ってもすでに手が出ないほどになってしまっている。ちょっと調べてみると、大体のタバコはひと箱500円から600円するらしい。以外と洋モクのほうが安かったりするようだ。

この本は、まだ、煙草がある程度世間に大目に見られていた頃から少し暗い影が忍び寄りつつある頃に書かれた散文が集められている。
一体いつごろから煙草というのは世間から白い目で見られるようになったのだろう。今、BSで、「ウルトラセブン」のが放送されているが、54年前のこの当時、まだまだ煙草の勢力は健在で、秘密基地の中でも隊員はスパスパやってるし、ソガ隊員は宇宙人が仕込んだ毒入り煙草を吸って同僚を襲い始めるし、キリヤマ隊長は停電になった基地の中をライターの炎を頼りに歩いていた。
テレビドラマでも煙草を吸うシーンは出てこなくなったし、F1では、かなり前から煙草の一般広告が禁止されている国があるというので、その国でレースを開催するときには銘柄のロゴが隠されていたりし始めたという時期があったというのは記憶がある。調べてみると、大体、西暦2000年くらいが世間の目から追い出される頃だったようだ。

煙草の健康被害というのは、もっと前から認識されていて、この本に登場する作家たちもそれを知っていながら吸っている。作家と酒、作家と煙草というのは僕の認識でもこれはもう、切っても切り離せない組み合わせで、酒と煙草をたしなまない作家の文章なんて読む気がしない。体に悪いのは百も承知だけれどもそれでも僕は止めたりしないよとうそぶいている人のほうが信用できるというものだ。

煙草と発がん率というのはこれはもう、絶対に関連性があるということは科学的に証明されているけれども、それで100%寿命が縮まるかというとそこはきっと証明されていないはずだ。煙草を吸わなくても肺がんになる人はいるし、煙草を吸っても元気で90歳を超える人もいたはずだ。そうなってくるとやっぱりそこは吸いたい人は吸えばいいし、毒だと思う人は毒だと思えばいい。お金が続かないという人は残念だけれども諦めればいい。
らだ、それだけのような気がする。
人から害であると言われて止めるのだけは人間らしくはないよなと思うのである。

この本は、キノブックスという出版社が発行した本だ。この会社が傘下に入っているグループは映画の製作会社も持っていて、これもつい一昨日観た映画だが、「一度も撃ってません」というタイトルの映画を製作した会社だ。ハードボイルドをいじくったようなコメディ映画だったが、登場人物が煙草を吸うシーンがふんだんに出てくる。やっぱりこんな映画を作るグループだからこんな本も作れるのだろうなと納得をするのである。この映画は出演者の顔ぶれもすごかったがストーリーもものすごく面白かった。

これだけ煙草に対する縁が戻ってきたからといって僕がまた煙草を吸い始めることは絶対にない。値段が高くなってしまって手が出ないということもあるけれども、おそらく今、煙草を吸ったら肺呼吸ができなくなって酸欠で死んでしまうのではないかと思うのだ。普段でも家から駅まで歩くのに時々は1回休憩を入れないと息が続かず、脳が酸欠なのか突然、所かまわず目まいが襲ってくるような体だ。酸素の代わりに煙が肺の中に充満した瞬間にこれはもう完全に窒息死するのは間違いがない。

「今日も元気だ たばこがうまい」というのは昔の煙草の宣伝のコピーだそうだが、まさしくそのとおりだと思うのである。

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水軒沖釣行

2021年09月23日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 7:19満潮
釣果:タチウオ 1匹

今日は小船の順番の日である。それと、ハバネロをもらってくれる人がみつかったのでそれを届けたいと思うのでサッと行ってサッと帰ってくることができるタチウオ釣りに行くことにした。昨日の六十谷の陸橋からの紀ノ川の川面も濁りは治まっているようだ。ただ、夕べも寝ている間に雨が降ったらしく、それが少し気になるが、まあタチウオだ。絶対に釣れるとたかをくくって出かけたがこれがまったくダメだった。

午前4時50分に出港。



この写真を撮って間もなく南海フェリーが入港してきた。僕の中の法則なら、すでにアタリが出始める頃だ。少し出遅れた。
海保の巡視艇の前あたりから仕掛けを流し始めたがアタリはない。そのまま青岸の灯台を通過。アタリはない。やっとアタリが出たのはもう少し沖に出た時であった。かすかなアタリと共に上がってきたのは指3本にも満たないサイズであった。まだまだ、もっと大きいタチウオが釣れるはずだととりあえずキープ。
しかし、その後もアタリはない。たまにアタリがあっても最初のサイズよりももっと小さいものだ。掛かりが浅いものばかりだったので全部放流していたら残ったのがこれ1匹だけだった。
昨日の雨で上層に真水が混ざっているので棚が深くなっているのかと錘を重くして見たがよけいにアタリがなくなってしまった。

明るくなってきて水面を観察したが、やっぱりそれほどの濁りはないものの、夕べの雨がなんらかの影響を及ぼしたのだろうか・・。



まったくタチウオが釣れなかったので新々波止の南側に移動し禁断の仕掛けを流してみた。しかしこれもまったくアタリはなし。そのまま帰港で今日の釣りは終わってしまったのだ。



陸からの釣りもいまいちなのか、今日は電気ウキの収穫もなく、唯一の収穫は新しく考えたフックキーパーだ。



新築の家の柱なんかを養生する発泡材を切っただけのものだが、これがちょうど船べりの厚みにフィットするのだ。そして簡単に鉤を刺すことができ簡単に外せる。これは使い勝手がいい。これを試すことができたことだけで今日はよしとしておこう。


ハバネロをもらってくれるご奇特な方はおだんごクラブの管理人である土さんだ。土さんは木で作るおもちゃの作家として活躍されている。
今日は初めて工房にお邪魔した。数々の工具とたくさんの素材はもう憧れでしかない。
仕事をリタイヤしてから作家活動を始められたということだが、白秋から玄冬の時期をこんな形で生きることができればさぞ幸せだろうと思うのである。

そして、厚かましくも小船のビットに使う角材をいただいてきた。
相当腐敗が進んでいてグラグラになっている。年寄りの前歯みたいなものだ。近いうちに取り替えねばとずっと考えていたのだが、材料の調達が難しい。50センチほどの角材を切り出すのに二間ほどの柱材を買うというのはもったいない。ダメ元でこういうのがあればお譲りいただきたいのですが・・。とお聞きすると、「ありますよ~。」と階段の下から引っ張り出してきて手渡してくれた。
元のビットよりも少し細いが、強度としては十分だろう。
このブログは翌日に書いているのだが、その翌日、サイズを測って成形してみた。肝心の取り付け穴を開けていないのでうまくいくかどうかわからないが、途中まではなんとかうまく作れた感じだ。新たに発生した台風16号はかなりやばそうだ。この台風の接近までに取り付けられればいいのだが・・。



そして今日も休んだ理由が、母親を病院に連れて行かねがならなくなったからだ。歯茎の化膿が治らないので大学病院で診てもらってくれといつも診てもらっている歯科医から言われたらしい。口の中ってけっこうヤバいよなと思って僕も一緒に行ってみようと思ったのだ。
しかし、どうして予約をしているのにこんなに待たねばならないのかと思うほど待たされた。
午前9時半の予約で、病院を出たのが午後2時半。5時間以上を費やしてしまった。



遅い昼食を食べて家に帰ったのが午後3時半。そこから木を削り始めて塗装まで終了。
病院に行って木を削って1日が終わってしまったのだ。



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「生命海流 GALAPAGOS」読了

2021年09月22日 | 2021読書
福岡伸一 「生命海流 GALAPAGOS」読了

福岡伸一の新刊本が出ていた。コロナウイルスが猛威を振るう直前、ガラパゴス諸島への5泊6日の旅に出ていたそうだ。その旅の内容をまとめたものである。
今年の春からだったようだが、購読している新聞でこの人のコラムが始まった。「ドリトル先生ガラパゴスを救う」というタイトルで、さすがに今さらドリトル先生を読むほどの歳でもあるまいと興味を示すこともなかったのだが、この旅がコラムのひとつのモチーフになっていたのかもしれない。
そんなところからもこの本に興味を覚えた。

著者のエッセイはそこそこの冊数を読んでいる。科学者の視点から世間一般を俯瞰するものの見方は面白く、また、理科系のひとではあるがその文体は紋切り型というのではなく、深みがある。
今回も期待したけれども、残念ながらどうもそういう独特な視点というものが感じられなかった。ガラパゴスに行って、紀行文を書きましたという感じだ。
紀行文に入る前の前段、それが66ページという長い文章で書かれているのだが、どちらかというと、この部分だけが、ああ、福岡伸一らしい視点だなと思える部分であった。
その部分は、どうしてガラパゴスに興味をもったのかということや、著者が一般向けの本を書くきっかけとなったこと、数々の編集者との出会い、そして、名編集者とはどんな人か、そういったことが書かれている。ちなみに名編集者とは、『文字を書いて文字だけで自分の居場所を作り出す。これは大変な仕事である。編集者は、その大変な仕事を自分ではせずに、人にやらせるという(ずるい)職業である。』のだが、『こっちが一番やってほしい事は相手の一番出したくないものだから、それをつかみ出して作品にする。』というような人のことをいうのであるとここには書かれている。

そこから僕が勝手な想像をめぐらすと、ガラパゴスへは行ったものの、その大自然の圧倒的な迫力に押されて通り一遍の感想しか思い浮かばなかった。なんとか福岡伸一らしさをだそうと考えた構成がこれであったのではないかというところだ。それが自身の案だったのか、編集者の手腕だったのか、それは知る由もない。
ただ、この66ページの長い前段はきっとその言い訳ではなかったのかと思ったりしてしまうのである。

ただ、本文のほうはそんなに中身がないのかというとそんなことはない。
著者がガラパゴスに行き知りたかったこと。それは、ガラパゴスの三つの謎と呼ばれるもの、
「この島に生息する奇妙な生物たちはどこから来たのか?」
「なぜ、このような特殊な進化を遂げたのか?」
「ガラパゴスを発見したのは誰か?」
に迫ることと、
「エクアドルが領土としたこの島をなぜ保全への道を選んだのか。」
ということであった。
ちなみに、ガラパゴス諸島は、地勢的な面から見ると、南米大陸に対して軍事的な拠点としては重要な位置にあるそうだ。アメリカやイギリスが領土としていたら、間違いなく軍事拠点として大がかりな開発がなされていたであろうと想像されているらしい。

そしてこれがもっとも興味があったテーマであったと思うのだが、「ピュシス」を確かめることでダーウィンが思索した「ロゴス」が必然的に見つけられるのか、もっと突き詰めると現代の世界のこの姿は必然であったのか、そういうことを見たかったのではないかとも思うのである。
「ピュシス」とは自然という意味で、「ロゴス」とは論理、言葉、思想を意味し、「論理的に語られたもの」「語りうるもの」と解釈されている。人は自然の中から生まれ、意識を持つようになり論理的な思考を持つようになった。その思考回路というのもが本当にピュシスの延長線上にあるべきはずのものであったのか。そしてそこに人間の本質があるのではないかと考えたのだと思う。

ガラパゴスの三つの謎、保全への道については、ウイキペディアなどに載っていることくらいのものしか書かれていないが、天敵の不在が創り出した特異な生態系を目の当たりにして、『競合、闘争、そして交配が最優先されるニッチ世界では、遊び、冒険、好奇心といった生産に直接結びつくことのない行動、つまり”余裕”は無駄なもの、いや、それ以上に不利なものとなってしまうだろう。』
『ガラパゴスに出現したガラ空きのニッチは、生物が本来的にもっている別の側面がのびのびと姿を現すことができた。』
と書いている。
まあ、確かに、こんなギスギスした現実というのが本来のこの世の在り方なのだとしたら生きるということの意義をいったいどこに見出せばいいのかと思ってしまうのだ。
しかし、現実のニッチはぎゅうぎゅう詰めで、そこに無理やり別次元のニッチを作り出そうとしたのが宗教なのだとしたら、救いを求める先でも救いがないということになる。確かに救いはない・・。

ガラパゴス化というと、時代遅れで、もうその先はないのだというような例えに使われる言葉だが、著者は、『ガラパゴスは進化の袋小路ではない。ガラパゴスはあらゆる意味で進化の最前線であり、本来の生命の振る舞いを見せてくれる劇場でもあるのだ。』と締めくくられている。

本当のピュシスからロゴスへの延長線はここにしかないのであると著者は言いたかったのだと思うのだ。

この本の本筋とはまったく関係がないが、面白い箴言をふたつみつけた。これはきっと魚釣りの道にも通じるものに違いないとおもうので最後に記しておきたいと思う。

ひとつは、研究者の心得として書かれていたものだ。
「試すこと。待つこと。そして諦めること。」
もうひとつは、
デュマの小説、「モンテ・クリスト伯」の最後の台詞。
「待て、しかして希望せよ。」

諦めるか希望を持ち続けるか・・・。午前10時を過ぎる頃、いつも悩んでいるのである・・。

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「三体III 死神永生 下 」読了

2021年09月21日 | 2021読書
劉 慈欣/著 大森 望、光吉 さくら/訳 「三体III 死神永生 下 」読了

最終巻は三体艦隊の中に住む、脳だけを送り込まれた男性が語ったおとぎ話から始まる。三体世界の内情に関する会話が一切認めらない中、男性はこの物語の中に、地球の運命にかかわる重大な情報を埋め込んでいるに違いないと考えた地球の首脳たちは、主人公の記憶の中に記録された物語を読みかえす。その場所は智子の監視の目が届かない電磁バリアのようなもので守られた空間だ。三体人は一切のものがすでに地球から撤退したことになっているが、警戒は怠れない。もし、男性が語った物語が記憶の中からだけとはいえ再生されていることを知られると、男性の命も危なくなる。

三つの物語は、一連の物語として語られる。そのタイトルは、「王宮の新しい絵師」「饕餮の海」「深水王子」とつけられ、とある物語のない国(何の事件もおこらない平和だが退屈な国)の国王が死に、その子供たちの間に後継者争いがおこるという話だ。
絵師は不思議な力を持ち、絵に描いた人物を消し去ることができる。饕餮の海とは、海に入ってしまったものは何でも襲って食べてしまうという怪魚の棲む海で、王国はその海に囲まれ、外界とは完全に遮断されてしまっている。深水王子は長男で、次男の氷砂王子の謀略により饕餮の海の先の離れ小島に閉じ込められている。彼を見る人は遠近法が効かなくなり、どの距離からでも同じ大きさに見えてしまう。だから遠くにいれば巨人に見えるし、近くに寄ると普通の身長に見える。
妹の王女の持つ重さのない不思議な石鹸の力で饕餮の海を越え、長男の深水王子は助けられ、次男と対決し、勝利をおさめ王国には平和が戻るという、普通のおとぎ話だ。

この物語から、主人公をはじめ、科学者たちは地球を守るための策のヒントを得る。
ひとつは、石鹸は光と解釈され、光の速度を遅くすることで外部に届く情報を遮断し地球そのものを見えなくするというもので、太陽系全体をブラックホールで囲んでしまうという計画。これを暗黒領域計画と呼ぶ。
ひとつは空間を曲げることで光速での航行が可能であると解釈され、光速で移動できる恒星間宇宙船の建造をしようというものだ。この推進方法を曲率推進と呼ぶが、この推進方法を使った宇宙船を造り人類を太陽系から脱出させる計画。これを光速宇宙船プロジェクトと呼ぶ。
これらに加えて、異文明により太陽が破壊されたとき、その爆発から人類を守るべく木星ほか巨大惑星の影に隠れるように宇宙都市を建設するという策が立案され、掩体計画と名付けられた。

物語の解釈から導きだせる技術を実現するためには新たな基礎研究が必要だ。主人公は、男性から贈られた恒星を連邦国家に譲り渡した利益を元に巨大企業を作り上げていた。実質のかじ取りは最初の冬眠から覚めた時、その時代のパートナーとして行動を共にした大学院生(彼女は主人公が贈られた恒星に岩石惑星の存在を発見し、その発見が恒星の価値を上げ、政府に譲渡する際に膨大な利益となったのである。)がおこなっており、惑星軌道上の建築物の建造などを担っていた。主人公の2度目の冬眠の間にパートナーが巨大企業に育て上げたのである。その資本力を生かして三つの計画を実現しようというのである。

主人公たちは、物語の中で唯一具体的に語られている地名について、それは現実の地名のヒントであることを見つける。そこは、ノルウェーのロフォーデン諸島にあるモスケン島であった。この島の周辺では、モスケンの渦潮とよばれる巨大な渦潮が常に発生しているのだが、著者はそれを逃れることができない重力に例えているようだ。このシーンは、一見、ただの比喩に見えるだけなのだが、そこには重要なテーマが隠されているようだ。
この渦を案内する船長の台詞、『死とは、永遠に点灯している唯一の灯台なんだと。つまり、人間、どこへ航海しようと、結局いつかはこの灯台が示す方向に向かうことになる。すべてが移ろいゆくこの世の中で、死だけが永遠だ。』から見て取れる。
このテーマについてはもう少しあらすじをたどってから書きたいと思う。

その後、主人公が初めて地球上にあるその会社を訪れた時、黒暗森林攻撃に備えた警報システムが作動した。それは3年前に三体世界から発進した光速戦艦が発生させた空間の歪みとなった航跡を見た観測員が発したもので誤報であったのだが、そのために大惨事がおこる。警報を聞いた人々が我先に宇宙港から脱出しようとして大混乱が起き、死傷者を大量に出した。
この経験から、光速宇宙船は空間の歪みによって自身の位置を外部に知らせることになるということがわかり光速宇宙船プロジェクトは捨てられ、目標は掩体計画と暗黒領域計画に絞られた。
しかし、この時代では、ブラックホールで太陽系を包んでしまうという途方もない計画は基礎技術さえも確立できずにいた。

その1年後、掩体計画のシミュレーションのために訪れたラグランジュ点で、主人公の前にかつての上司が現れる。彼は主人公と同時期に冬眠に入り、同じく同時期に目覚めた。脳だけを送るという調査船計画の推進者であり、この時代で執剣者の候補となったが、主人公に敗れた。しかし、主人公の心の弱さを見透かし、お前ではこの計画を実現させることはできないと言い放ち、すべての権限を自分に移譲しろと迫る。ここは小説らしく、あっさりとその要求を飲み、地球人に危機が及ぶことがあった場合、もしくは計画が実現した場合に目覚めるという条件で冬眠に入る。
かつての上司の目的は光速宇宙船の建造であった。しかし、これには先に書いたような問題があり、間違いなく異星人からの標的となるというのだ。だから、しかし、彼は閉鎖された空間では人類の繁栄はない。永久に繁栄をつづけようとするならば外宇宙に出るべきであるという考えの持ち主であった。

それから60年後、主人公は宇宙都市の中で目覚める。掩体計画の一環として、木星、土星、海王星、冥王星の近傍に合計22基の宇宙都市が建造されている世界だ。
宇宙都市の規模はそれぞれ縦40km、直径が8kmというような途方もない大きさを持っていて、円筒形、ドーナツ型、球形など様々な形状をしている。60ページほどがその描写に割かれている。

主人公から引き継がれた会社はこの宇宙都市の建設で得た利益を光速宇宙船の開発に回していた。数年前、密かに開発を続けていた光速宇宙船の計画を公表し、危険な企業であると判断された。これは地球人類の危機であるとみなされ、最終的な権限をもった主人公は目覚めさせられた。そして、会社の中枢であるドーナツ型宇宙都市が30隻の宇宙艦隊の包囲されているなかに主人公がやってくる。
反物質を弾丸としているライフルで武装した元上司と対峙するが、その権限を行使し光速宇宙船の開発を止めさせる。

主人公とパートナーは、太陽が破壊された世界を見てみたい。きっと今より穏やかな世界に違いないと200年後の覚醒の契約を結び三度冬眠につく。

しかし、その56年後、暗黒森林攻撃のアラートが発せられ主人公は目覚めさせられる。
それは未知の物体がオールトの雲を光速に近いスピードで通り抜けたことが観測されたことから始まる。それは三体文明を滅ぼした文明であった。搭乗しているのは発見した他の文明を滅ぼす役割をもったものであった。そんな大役のように見えるが彼はそれでもこの文明では低カーストに位置する孤独な存在であり、その文明の巨大さがうかがわれる。そして彼らは人類を低エントロピー体と呼び、文明の破壊を「浄め」という。この宇宙は破壊され破壊するのが当たり前という解釈なのであろう。
搭乗者は三体文明を破壊した光粒では太陽だけを破壊しても文明は生き残ると判断した。地球人も考えた掩体計画は光粒の攻撃からは有効であったはずなのである。そして別の方法を取った。それは次元攻撃というものであった。クレジットカードのような紙片(厚みは「0」である。)が放たれた。わずかな重力波を発するだけのそれは当初、何の害もないように思われたが、あるとき急な広がりを見せ始め、太陽系を二次元の世界に飲み込む。それは外宇宙に逃亡した宇宙戦艦が遭遇した三次元と四次元の境目のようなものであった。
絵師のエピソードはまさにこのことを暗示していた。
主人公たちはこれには抗えないと地球で最後を迎えることを決めるが、同行している科学者から冥王星に行くことを提案される。
そこには初代の執剣者がいた。彼は地球文明の保存のためにここにいた。彼との会話の中で、主人公たちが冥王星まで乗ってきた宇宙船はすでに光速航行のため曲率推進ドライブが搭載されていることを知る。そこで判明したことは曲率推進ドライブの航跡が暗黒領域を生み出すということであった。すなわち、曲率推進ドライブ船をたくさん建造し、一斉に太陽から発信すれば太陽系を覆い隠すことができたということだ。しかし、主人公は知らなかったとはいえ、その可能性の芽を摘み取ってしまっていたのである。
それに乗ってかつて主人公が贈られた286.5光年先の恒星系を目指す。三体世界に脳だけで乗り込んだ彼が待っているかもしれないという淡い期待をこめて・・。
そこまではたった宇宙船の中ではたった5時間のフライトだが現実では286年の月日が流れていた。そこに待っていたのは宇宙艦隊に搭乗していた四次元の欠けらを発見した宇宙物理学者であった。彼らも100年遅れて曲率推進ドライブを開発していた。そして、植民星を開発するほど科学力を高めていた。
彼は宇宙空間の現実を主人公に教える。楽園時代の宇宙(それは平和な時代の宇宙ということ)は十次元の宇宙であったが、光速を使った攻撃や防御によって低光速の宙域が絶えず増え続けそれが宇宙の新しい光速度となってきた今は秒速30万キロメートルと思い込まれているだけなのである。次元も同じく低次元に封じ込められてきたのである。物理法則を変えてしまうということが彼らの武器であり防御であったのだ。

主人公と宇宙物理学者はほかの惑星を探査している中で、三体世界から来た男性がやって来るという知らせを聞く。いそいで母船に戻ろうとしたとき、異星人が残したデス・ライン(巨大な空間曲率操作によって出現、リセッター(帰零者)と呼ばれる一団が作り出している。再び十次元の楽園を望む種族)に遭遇する。入り込まない限り何の影響もないが、男性の来訪の曲率ドライブの影響で主人公たちはデス・ラインに飲み込まれる。
反物質エンジンを起動させてなんとかそこを抜け出すが、そのために費やした12日間の間に1890万年の月日が流れていた。

主人公たちは惑星に残してきたパートナーと男性の痕跡を探す。そこに、大地の岩盤に彫られた文字の一部を発見する。そこには何かをあなたのために残すと読み取れる文字があった。
しばらくして、次元の入り口を発見する。それは、男性が残していた小さな宇宙への入り口であった。1890万年前の宇宙論では、宇宙はある時点から収縮に転じ、ビッグバンの前の状態に戻ると考えられていた。それは、書き換えられた物理法則をリセットするということと同じである。この宇宙に隠れていればビッグクランチから逃れることができ、十次元の楽園である宇宙で暮らしを始めることができるというのだ。そこは、一辺が1キロメートルほどの“時の概念”がない世界であった。
あるとき、謎の通信を傍受する。その内容は、たくさんの文明が無数の小宇宙を作ったことで宇宙がビッグクランチをおこすために必要な質量が足りなくなった。リターナー(回帰者)たちはその質量をもとの宇宙に返すことを呼びかけていたのだ。
本当のビッグクランチが起こるかどうかはわからないが、主人公たちはそこでの安全な生活を捨て質量を返す決断をする。
自分たちが生きた文明を記録した漂流瓶と小さなエコスフィアをその空間に残して・・。

というのがほぼ完全なネタバレになってしまったがあらすじである。

時間と空間を超えて繋がれる物語は壮大すぎてストーリーを追いかけるのに精一杯だった。
結局、主人公は生きながらえるよりも限りある命を選んで終わるわけだが、そこがあの渦を案内する船長の台詞につながってゆく。『すべてが移ろいゆくこの世の中で、死だけが永遠だ。』ということなのである。それが第Ⅲ部のサブタイトルにもなっているのである。
それは優しさでもあるということが示唆されている。主人公は二度地球の危機を招いた。一度目は最初の三体人からの攻撃の際、暗黒森林防御を発動しなかった。二度目は曲率推進システムの開発を阻止したことだ。両方とも対極の考えをもった人物に元上司がいたのだが、それは非情な考えでもあった。
『死だけが永遠だ。』ということを踏まえるのなら、それを受け入れてこそ安らかな生き方ができるのだということになるということだろうか。そういう生死感がこの物語には込められているのではなかと思えるのである。

いろいろな批評を見てみると、この物語は全編を通じて中国人が持つ世界観や倫理観が強く繁栄されていると書かれている。
暗黒森林攻撃という発想はもちろんだが、他の文明からの技術を吸収して自らを繁栄させるという発想も今の中国を物語っている。そして、数千万年単位での物語を紡ぐという発想も4000年という長い歴史を持っているからこそ書けるものであるのかもしれない。SF小説というものは過去に数冊しか読んだことがないけれども、これだけ長期間のスケールで書かれたSF小説には出会わなかった。
そういう意味でもものすごく読みごたえのある小説であった。

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加太沖釣行

2021年09月19日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮4:44満潮
潮流:5:11上り1.1ノット最強 7:46転流 
釣果:真鯛1匹 マルアジ3匹

今週は昨日、今日と休みを取っている。台風14号が直撃という予報だったので土曜日はまったく釣りの予定が立てられなかったのでいくつか確認してみたいこともあったので、今日は何としても行きたいと思っていた。
台風は有田市に上陸したということであったが体感的には強烈というほどのものではなかった。朝も快晴でこの秋初めてのオリオン座を見ることができた。



だから、今日も意外と早く風と波は治まっているのかと思っていたが、さにあらず、吹き戻しの風なのだろうか、北向きの風がかなり強い。家を出る頃にはちょっと吹いているなと感じで、まあ、真冬の北西の季節風が強く吹く頃に比べればそれほどでもないのだろうとたかをくくって港に向かったが、出港して港内を走行しているときから波がパシャパシャしている。気圧配置もよくわからないがそんなに北風が吹くのかしらという感じだ。



とりあえず一文字の切れ目を抜けてみると少ししぶきを浴びるくらいでこれも真冬のときに比べればなんてことはないのでそのまま加太へ向けて針路を維持した。

早朝は上り潮がまだ残っているのでできれば大和堆ポイントまで行きたいところだが田倉崎の陰を越えると北風をまともに受ける。無理に行こうとすれば行けないことはないが、みんな同じことを考えているのか、大半の船は田倉崎の陰に集まっている。



とりあえずここで仕掛けを下して様子を見ることにした。
幸先よくすぐにアタリが出た。今日もサビキ仕掛けが冴えている。しかし、上がってきたのは20センチにも満たない小アジだ。しかしマルアジだ。見た目はそれほど濁りはないけれども水潮のせいだろうか・・。
潮は上っているはずだが、流速が遅いのと北風のせいで船はすでに南に流されている。クラッチをずっと前進に入れたままでなければ仕掛けの傾きを保てない。そんなことをしていると今日2回目のアタリ。今度は少しいい型だ。

確認してみたいことのひとつというのが、リールの整備についてだ。前回の休日、この日ももちろん釣りに行こうと思っていたのだが朝起きてみると雨が降っていた。これも歳のせいだろう、起きてしまうと二度寝ができない。手持無沙汰なので前々から気になっていたリールの内部を見てみようと考えた。最近は回し具合が悪く、ギアに塩が噛んでいるのだろう、感触がガリガリしていて、加えてドラグのレバーがボディに擦れているのか、キュルキュル音がするようになってきた。できればギアの掃除をして音がするところにオイルを注しておきたかったのだ。
ハンドルを外してカバーを開けると予想外に汚れが付着している。よく見ると確かに塩の結晶らしきものもいっぱいだ。



キュルキュル音が鳴るところを探してみると、ハンドルのシャフトとボディの接点に取り付けられている、おそらくハンドルの逆転を防止するパーツか、逆向きにぶれないようにするパーツだろう、それが錆び付いてしまっている。前にスピニングリールを治した時には、こういうパーツにはオイルを注してはいけないということを知ったが、そのまま放っておくことはできない。ギアと一緒にパーツクリーナーを吹きかけ錆を落とし、リールオイルを注入した。これでハンドルのロックが効かなくなると問題だが、今の知識ではこれしか思い浮かばない。しかし、海で使うリールのパーツなのに錆が出るようなものを使うとはシマノも焼きがまわったか・・。
ちなみにもうひとつは、スクリューの掃除の効果だ。前回の休日、雨の中けれん棒でスクリューをカリカリ擦ってみた。シャフトに近いところに少しフジツボがあっただけで極端に多かったということもなかった。はたしてこれだけで速度が戻ってくるのかと思ったけれどもそれはそのとおりで体感的にはっきりわかるようなものではなかった。これは多分、船底にそこそこの数のフジツボが成長しているのだろうと思う。



で、魚とのやりとりだが、注油したときにドラグにもオイルが回ったか、やたらとドラグが滑る。結局30センチそこそこの真鯛だったのだが、ドラグをカチカチに絞めないとリールが巻けなかったのだ。
これについては、家に帰ってもう一度カバーを開けてドラグ周りのオイルをきれいに拭き取って作業を終えなんとか元に戻ってくれとカバーを閉めたが、ブログを書くために写真のチェックをしていたらドラグのプレートをセットする向きが逆であったことがわかり再度カバーを開けてやり直しとなってしまった。機械をいじるときは写真を撮っておくというのは重要だ。それに気が付かなかったらずっと滑りっぱなしのリールを使う羽目になっていたところだ。
結局、リールの回転はよくなったことは確認できたが、最終の確認は後日ということになってしまった。


ギアを前進に入れっぱなしなので小さな船団からは北の方に外れてしまった。真鯛も釣れたことだし、このまま行けるところまで行くというのもありだが、小さな船団の中心にいた加太の巨大乗合船のそばに同じ所属の乗合船も合流してきた。



風を避けてここに移動してきたのかもしれないが、あれだけの大きさの船ならこのくらいの風ならどこでもやれそうにも思う。あえてここに移動してきたのならと考え、僕もその後方に移動。まあ、それが奏功したのかどうか、確かにアタリがあった。でも、最初と同じマルアジだ。糸がふけるような引きだったので、お、これはサバかと思ったら3匹掛っていただけだった。何かの料理には使えるかと思いキープ。

そのままこの場所で釣りを続けていたら、いきなり僕の身体が崩れ落ちた・・・。椅子の足が折れてしまったのだ。



確かに、その前に、バキっという音がしてなんだかヤバそうとは思っていた。
以前に座面が割れて竹で修理をしていたのだが、おそらくその頃から劣化が進んでいたのだろう。7か月ちょっとで終わってしまった。
身体はどうもないが、椅子がないと釣りにならない。デッキに置いている収穫用コンテナをひっくり返して椅子がわりに釣ってみるが、座面が低いのとやたらと滑る。今日みたいに波が高いと危険な感じがする。
この時点で午前7時。ボウズは逃れているし、これはきっと神様が危険を警告しているのだろうと思い撤収を決断。
今日の釣りはなんともあっけなく終わってしまった。
くだんのマルアジだが、家に帰ってさばいてみると、小さい魚体ではあるが、おなかの中には脂がいっぱい蓄えられていた。きっとこれは美味しいに違いない。最初の1匹も取っておけばよかったと悔やまれる。

家に帰り、午後から椅子を買ってから港へ。



お月見の子芋を掘っているというので叔父さんの家によると今日も隣のおじさんからハバネロが届いていた。



どれだけの株を植えているのか知らないが相変わらずどんどん実がなっているようだ。僕もこんなにたくさん必要ないのだがくれるというのを断るのも忍びない。全部もらってきて今日もスライスして乾燥させる作業をした。
干してしまうと小さくなってしまってしまうのでそれほどかさばらないが、おそらくすでに5人は殺害できるほどの分量は干せたのではないかと思う。(カプサイシンで人が殺害できればの話だが・・)

このブログをご覧いただいている方で、我こそは試してやろうと思う方、ぜひご一報くださいませ。いくらでも差し上げます・・。

昨日の休みは雨を避けて勝手口の軒先で太刀魚の燻製の仕上げ。


台風の雨は北から吹き込み、家の裏の雨除けの中は水浸しになっている。この屋根は父親が作ったもので、そこは素人細工だ、気密性が悪く、トタン板の屋根と壁のすき間の樋の間から雨が漏れてくるのだ。大雨でかつ北から風が吹くと必ずこうなる。そこに置いていた豆炭も雨に濡れてしまっていた。もともと使いづらい豆炭だったので新しいものを買っていて、今日はこれを使った。今度のやつは、バーベキュー用というようなものではなく、本格的な豆炭のようで、子供の頃にアンカの熱源に使っていたようなやつだ。こんなのは自分では使ったことがなかったが、さすがに一晩中熱を発し続けるというだけはあり、火持ちはすごくよい。その分、着火には時間がかかり、ゆっくり燃える分急激に熱が上がらないようだ。70℃くらいをキープしたいのだがそこまで温度が上がらない。後半はなんとか70℃を実現し、まあ、身も薄いことだしきちんと火も通っているだろうとして完成とした。



今回は豆炭を8個投入したが、燃え残りを見てみると8個全部、コアの部分の半分くらいは残っている。実質4個分くらいしか使っていなかったようだ。温度を上げるためには数を入れないとダメなのだろうが、コアの部分を再び使うことができれば相当燃費はよくなりそうだ。バーベキュー用に比べるとかなりお高いが燃費で比較するとそれほど高くないといえる。
燻製器にも問題があり、一斗缶では熱が逃げすぎる。コンパネでもっと気密性の高い燻製器を作ろうと思いながらいまだに板を切ったまま放置している。しかし、気密性と保温性を上げた燻製器と組み合わせるときっといい結果が生まれそうだ。特にベーコン作りには期待できる。
それまでに早く燻製器作りを加速させねばと思うのである。


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「三体III 死神永生 上」読了

2021年09月14日 | 2021読書
劉 慈欣/著 大森 望、光吉 さくら、ワン チャイ/訳 「三体III 死神永生 上」読了

待ちにまった「三体」の第3部だ。これが完結編となる。
前回では、黒暗森林の心理をついて三体文明の侵略を阻止することができ、地球の危機は救われたというところで終わったが、物語は前作のサイドストーリーから始まる。
記憶にはあまり残っていないのだが、前作の中に、「階梯計画」というものが出てきていたらしい。確かに、ストーリーとはまったく関係ないように見えるワードが出てきて、これはいったい何だろうと思ったものがあった記憶があり、きっとこの、階梯計画のことだったのだろうと思う。本屋に行って確かめてみようと思ってパラパラめくってみたけれども、それを見つけることはできなかった。
この計画は、三体人が450年後に大艦隊を擁して地球を侵略しに来ることがわかったとき、面壁計画と同時に進行していた計画であった。
具体的には大艦隊を調査するために調査機を送りむというものだ。しかし、この時の地球の技術力では重量物を探査に必要な光速の1%の速度まで加速させることができない。ペイロードは500グラムが限度だという。それでも1000発以上の核爆弾の推進力が必要という。そして決定されたのが人間の脳だけを冷凍状態にして探査機に搭載するというものだ。この突拍子もないアイデアの根源はこうである。
三体人は智子というナノサイズのAIと量子もつれの原理を応用した光速以上のリアルタイム通信によって地球人の情報は得ているが、いまだ実態としての地球人を目にしたことがない。地球から探査機が発射されたということは地球の監視を続ける智子を通じて三体人側に知られるのだから、実体としての地球人を知りたい三体人は必ずこの探査機を鹵獲するだろう。
地球よりもはるかに進んだ文明を持っていれば、脳細胞のDNA情報から人体を作り出し、そこに探査機の中の脳をはめ込んで人間の実体をつくれるかもしれない。もともと相手を信用することしかできない三体人だから、欺瞞に満ちた人間はすぐに相手をかく乱することができるかもしれないし、情報収集も可能かもしれないというのだ。

この物語は最初から設定が壮大というか、奇想天外というか、僕の想像をはるかに超えているので最初は何が何だかついていけないところがあったが、4冊目ともなるとなんとかついていけるようになった。この第3部も、地球艦隊の生き残りの2隻の宇宙戦艦が外宇宙をさまよう物語かと思っていたが、まったく見当が外れていた。

そして、この脳の持ち主は主人公にひそかに心を寄せている理論物理学者であった。核爆発のミスと爆風を受けるパラシュート(これも、パラシュートのコードがナノサイズの太さで全長は500キロメートルもあるという想像を超えた設定だ。)の不具合で目的の進路から外れてしまったけれども、その顛末を見届けるため、主人公は人口冬眠に入る。
主人公が再び目覚めたのは、三体文明のテクノロジーを取り込んだ270年後の世界であった。面壁人が三体文明を退けてから約60年後の世界である。
かつて敵対関係にあった地球人と三体人は、面壁人の仕掛けた策が滅びるときは一緒に滅びるという足かせのおかげで、協力関係に転じ、テクノロジーだけではなく、文化的な交流も進んでいる。ただ、純粋無垢な三体人も、その文化交流により、地球人の欺瞞に満ちた側面も学びつつある。
面壁人が仕掛けた策は今でも健在で、連鎖的核爆発による座標の送信から、重力波送信機による座標の送信に変わったけれども、100歳を超えた面壁人が今でもそのスイッチを握っていた。この頃には、執剣者と呼ばれている。
そして今、そのスイッチを引き継いだのが主人公なのである。しかし、主人公は優しすぎ、スイッチを押すことは絶対にないと確信していた三体人の侵略が再び始まる。対抗者であったかつての上司のほうが適格者であったが彼は選ばれないと三体人はすでに確信していた。それは、地球人から学んだ狡猾さが予言させたのである。

黒暗森林の抑止力の根源となる重力波送信機は3台造られ、2台は地球上に、1台は宇宙戦艦の本体として稼働している。これも数十台規模で造る計画であったものを三体人がうまく阻止をした結果であった。
スイッチの引き継ぎ式が終わった5分後、三体人の水滴型の無人兵器が地上の2台を破壊する。3台目の重力波送信機を積んだ宇宙戦艦は地球艦隊の生き残りを追撃するため1光年の彼方を航行している。地球艦隊の生き残りは、同胞を攻撃して逃亡したということで反逆者とされてしまっているのである。
随行しているのは2台の水滴型無人兵器。地上の攻撃に呼応して2隻の宇宙戦艦を攻撃しようとするが、四次元空間との接点を見つけ出した、追われる宇宙船の異次元世界からの攻撃に会い沈黙する。

一方、地球では無人兵器の攻撃を皮切りに地球人は完全劣勢に陥り、アンドロイドとなった智子の指揮により最後はオーストラリアと火星の一部を居留地と定められ移民を強いられる。劣悪な環境のなか、共食いという行為によって人類を粛正するという三体人の策にもはめられる。

しかし、観測データから光速に近い速度でケンタウルス座α星系を発した艦隊の影を見つけた2隻の宇宙戦艦は三体文明の地球侵略の意図を知り、重力波の送信により黒暗森林の均衡を破る。
この均衡が破られたとき、それは三体文明の滅亡の時ではあるが、同時に地球も他の異星文明によって滅ぼされるということを意味する。
しかし、宇宙の広さを考えるとその時期はおそらく2世代以上先のことである。
もはや地球も安住の地ではないと悟った三体文明は地球から撤退を始め、地球には一時の平和が訪れ、宇宙艦隊の生き残りたちは一転、英雄として祀られる。

攻撃艦隊が侵攻をやめたあともアンドロイドの智子は地球に残り主人公と最後の対話をする。そこで、地球が黒暗森林からの攻撃方法が存在するということを教えられる。それは、全宇宙に地球は無害な存在であると知らしめることであるという。しかし、その具体的な方法までは教えられることはなかった。

その後、アンドロイドの智子が主人公に、脳の持ち主が会いたいと言ってきていると告げた。三体人が暮らす星系は、黒暗森林の均衡が破られた直後、未知の文明による限りなく光速に近い物質の攻撃に遭い消滅してしまったが、地球の攻撃に向かった艦隊は無傷で、何らかの方法で異なった方向に飛んで行ってしまった階梯子計画の探査機を鹵獲しており、その艦隊に保護されていたのだ。どんな姿で復活させられているかはわからないが智子の量子もつれ通信で会話をするため、主人公は軌道エレベーターのステーションからラグランジュポイントに向かう。
画面の向こうの彼は農場で作物を作り穏やかな生活をしていた。そこは宇宙船の船内で、土は隕石の欠けらだという。些細な会話しか認められていない二人だが、彼は三つの物語を話し始める。そこにはきっと地球を救うヒントが隠されているに違いない・・。

というのが上巻のあらすじである。
最後の最後に探査機に乗った脳の持ち主が再び現れたが、まだ、1光年先を航行する宇宙戦艦が見つけた四次元世界の謎、地球を去った智子、地球から離れていった三体世界の艦隊。そもそも、地球を黒暗森林の危機から守れることはできるのか・・・。この物語は、遠い未来の誰かが歴史書として書いているという設定がところどころに見ることができる。と、いうことは、地球は再び危機を免れたということだろうけれども、はたして、それがどんな方法で実現されたか、興味は尽きないのである。

下巻に続く・・。

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水軒沖釣行

2021年09月13日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:小潮4:22干潮
釣果:タチウオ11匹 ツバス1匹


今日は洗車をしようと思っているのと、タチウオの燻製作りの仕込みをしようと思っているので朝一タチウオだけを釣りに行くことにした。
しかし、これは戦術的な勝利を前提に戦略を立てるというまったくおかしな戦略理論である。こんなことを考えるのは牟田口中将か僕くらいのものだろう。ただ、僕はいくらか思いとどまって、ソミュール液を作ってから釣りに行くというような暴挙だけでしていないのである。

今日は大きい方の船で出撃。船のローテーションということもあるが、仕掛けと魚のさばきをよくしようと思うとやっぱりデッキが広い大きい方の船のほうが便利なのである。

日の出の時刻は知らない間に午前5時41分にまで遅くなっている。これは後から知ったことで、日の出時刻を午前5時10分くらいだと思い込んで港にやってきてしまった。なので、午前4時過ぎではまだ真っ暗だ。
仕方がないので微速で出港。



タチウオは陸っぱりでも好調なのか、平日の始まりの月曜日でさえ護岸沿いに電気ウキがたくさん漂っている。



青岸の前から仕掛けを流し始めるがアタリはない。これは偶然か何かの必然かはわからないが、南海フェリーが入港してくるとアタリが出始める。今日の入港時刻も午前5時10分。ちょうど「かつらぎ」が真横を通ったときだった。まるでスイッチが入ったようにアタリが出始めた。しかし、今日はアタリの出る海域はかなり狭い。青岸の先端と新々波止の間の一番狭い海域だけだ。そんなに小回りが利くわけではないので大回りをしながら行ったり来たりを繰り返す。
しかし、それもわずかな時間だった。20分ほどでアタリが途絶えてしまった。もう少し釣らないと燻製の分と叔父さんの家の分と、前回は定休日であった「わかやま〇しぇ」のおじさんへの差し入れの分が確保できない。昨日の雨で棚が深いのかもしれないと錘を重くして臨むがやっぱりだめだ。もう1回流してダメだったら禁断の仕掛けに替えようと泣きの1回を流してみたがやっぱりダメだった。仕掛けを回収してみると、最後尾の鉤にタチウオの頭だけが引っかかっていた。



ああ、そりゃあ、これでは釣れないわ・・・。
5本の鉤のうちの1本はすでに水糸が外れてしまっていたのでこれは仕方がないと思っていたが、それに加えてもう1本が死んでいるとなるとアタリが出る確率は減ってしまう。ましてや仲間の生首がくっ付いているような仕掛けには魚が怯えて食いつてこないだろう。
確かに途中で、アタリがあってすぐに軽くなってしまったことがあった。ただ魚がバレただけだと思っていたら生首だけが残っていたらしい。その時にきちんと点検をしておけばあと4、5匹は釣れたはずである。
しかし、指3本ほどとはいえ、タチウオの身体を食いちぎっていった仲間はどれくらいの大きさのものだったのだろう。尻尾や体の後ろ3分の1が喰われているというのはよくあることだが、首だけというのは初めてだ。けっこう大きいやつもいるのだ。

禁断の仕掛けを流すため新々波止の南側へ移動。台風14号のうねりはすでにやってきているらしく、大きく海面が上下している。



いつもなら赤灯台の前くらいでアタリが出るが今日はアタリがない。うねりが怖くて防波堤から距離を取っているのが悪いのだろうか・・。
とりあえず新々波止1本分を流してだめだったらそのまま帰ろうと流し続けると沖の一文字との交点の海域でやっと魚が掛かった。いつもくらいの大きさのツバスだ。

これを取り込んで今日は終了。
叔父さんの家にもっていく分はないが、「わかやま〇しぇ」のおじさんへの差し入れはできそうだ。
ここのおじさんたちも面白い人たちで、ひととき釣りの話をして冷凍コロッケを購入。朝早くからやってくる怪しい釣り人を怪しいとも思わずに話に付き合ってくれるのだからありがたい。
今日は「これ、もって帰り。」といって、小さなパックに入ったのりわさびドレッシングというのを100個ほどくれた。これは意外と美味しかった。



家に帰って燻製の仕込み。5匹分を仕込んだが、今年はサイズが小さい。うまくできるだろうか・・。




ハバネロとパソコンの後日譚だが、今年はハバネロで作ってみたオリーブラー油がすこぶる美味しい。
きっと韓国トウガラシでつくったやつよりも上を行っている。干しているときにも思ったが、旨味というのだろうか、なんだかねっとりとした雰囲気の香りが強いのだ。僕の奥さんはそれを、「油のようなにおい」と表現していたが、もう一度嗅いでみたくなるような匂いなのだ。ただ、あんまり鼻を近づけると強い刺激も襲ってくるのであるが・・。
だから、出来上がったオイルはオリーブの香りよりもハバネロの香りが勝っている。韓国トウガラシではあきらかにオリーブオイルの香りのほうが強かった。
辛さも韓国トウガラシのオイルを凌駕しているが、この辛さもグッときてサッと引いていく感じで後に残らない。韓国トウガラシのオイルは舐めてみても唇のまわりが長い間ヒリヒリするのだが、それがない。カプサイシンと一口にいってもいろいろな種類があるのだろうか。
前に読んだ本には、原産地の南米ではトウガラシをゆでたりしながら辛みを抜いて出汁がわりに使っているのだと書かれていたが、さすがにそれはないだろうと信じられなかったが、ハバネロを食べてみるとそれはきっと本当だと納得させられる。韓国トウガラシとハバネロを比べるとハバネロの方があきらかに原種に近いはずだ。きっと東のほうに伝播している途中で旨味はどこかへ消えてしまったのだろう。もしくは、東アジアにはもともと別の旨味文化があったので、辛みだけを利用したいアジア人は旨味のないトウガラシを選別してきたのかもしれない。
トウガラシの世界は奥が深いのだ。

パソコンのほうは、返送してから3日ほどで戻ってきた。素早いというかなんというか、見積もりのメールが届いて、了解の返信をしたら2時間ほどで送りましたというメールがやってきた。

送られてきたパソコンを見てみると、ノートパソコンのほうは確かにキーボードが入れ替えられていた。前のキーボードは文字が擦り切れてしまっているほど酷使されたものだったが、今度のやつは見た目は新品のように見えるほどきれいだ。それに、キーボード面のパネルも交換されている感じがする。まあ、気持ちはよくなった感じがする。



デスクトップのほうは、これは完全にモノ自体を交換しているようだ。修理されるのか、交換されるのかどちらだろうと思って筐体にマジックで印をつけていたが、それが消えてしまっていて、筐体に付いていた傷の位置も違っていた。ついでにウインドウズも初期化した状態になっている。ノートは設定がそのまま残っていたのですぐに使い始めることができたけれども、デスクトップはいちからやり直しだ。もとの写真データを入れたりメールの設定、ブラウザのURLやいつも使っているアプリケーションのインストールをしながら2日がかりでやっと使えるところまで戻すことができた。

まだまだ、不安が残るがとりあえず潰れるところまでは使ってみよう。せめて5年は持ってほしいと思うのだが・・。

洗車をしていると、屋根の上に傷とくぼみを見つけてしまった。なんでこんなところに傷がついているのかと悲しくなったが、思い当たる節はいくつかある。山の中の細い道を走っていると、木の下にぶら下がっている枝などがよく当たる。車高が2メートル近くあるので仕方がない。生石山で数回、信楽で近道をしようとして1回。そのどれかの衝撃の末なのだろう。貨物車でありながらきれいにきれいに乗ってきたのに悲しいことだ。
身体でも物でも必ず時間が経てば古くなっていく。これは自然の必然なのである。だから中古でいいやとなるのだが、中古は壊れやすい。
釈迦の教えのなかに、「五蘊盛苦」という言葉が出てくるが、まさに僕はこの苦の真っただ中にいるのである・・。
コメント
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