イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

マリーナシティ沖釣行

2018年08月30日 | 2018釣り
場所:マリーナシティ沖
条件:中潮 8:14満潮
釣果:キス 18匹 ガッチョ 2匹

もう8月も終わりになってきたのに今年はキス釣りには1回しか行っていない。これはゆゆしき問題だ。天ぷらが食べたいのだ。9月に入ってもキスは十分釣れるそうだが僕には夏の釣りという認識がある。だから8月いっぱいが勝負なのだ。

まだまだ猛烈な暑さだけれどもやはり夏の終わりが近いのか、単に暑くて品質管理がままならないのか、いつもの自販機はほぼ品切れ。残っていたのは青イソメの300円パックのみであった。



ついでにタチウオも釣って天ぷら山盛りで美味しいお酒の封を開けたいとおもいまずは水軒一文字沖で仕掛けを引っぱるがこれはまったく不発。僕の他に2艘出ていたが並走していた船は1匹上げていた。思っていたよりも波が高く潜航板では仕掛けが安定しなかったのかもしれない。今日の海は僕に対して優しくない。それは心の問題か・・・。

タチウオはすぐにあきらめ、浜の宮沖へ。しかしなぜだか僕がいつも仕掛けを下すとこら辺りから大波止付近までたくさんのバッチ網の船が出ている。



とりあえず仕掛けを下してみるが気持ちが落ち着かない。ふと思い立ち、前に行ったことがあるポルトヨーロッパの沖に行ってみた。



ここも厳しい。アタリはほんの申し訳程度だ。風が強くなってコンクリートブロックを放り込み、それでも流される速度が速くなり碇を打った頃にはまったくアタリがなくなり午前9時半に終了。

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「もし文豪たちが カップ焼きそばの作り方を書いたら」読了

2018年08月28日 | 2018読書
神田 桂一、菊池 良 「もし文豪たちが カップ焼きそばの作り方を書いたら」読了

カップ焼そばの作り方を文豪が書いたらどんなになるかという極々単純であるけれども奥が深い著作である。
そもそも、これがカップ麺では恐らくは成立しなかったであろう。カップ麺を作る場合はお湯を注ぐという行為のみで成立するのであるけれども、カップ焼きそばにはそこに「湯切り」という工程が追加される。
たったひとつの工程の追加ではあるけれども、それによってせっかく注いだお湯を捨てなければならないという不条理、湯切りをしている最中に麺を落としてしまうかもしれないという無常さ、そしてこれはカップ麺にも通じるものではあるけれども、調理というには包丁はもとより菜箸、まな板さえも使わないという極限までそぎ落とされた形式、もしくは退廃的な手法。これはまさに純文学そのものである。
そこに目をつけた著者の慧眼、恐れ入る。これを逆手にとってこんな本を作ってしまうのはサブカルチャーの真骨頂でもある。

しかしまあ、どれほどまでに読み込めば文豪たちの文体を会得できるのか、その努力にも恐れ入る。
僕の高校2年と3年のときの担任は現代国語の先生であったが、その先生が言っていたことには、「ある作家の文体を真似したければ、その著作を1冊丸々書き写すとよい。」らしいけれどもそうなると著者は一体どれだけの書物を書き写してきたのだろうか。

著者は前書きで、この本は軽く読んではははと笑って、ページを閉じた瞬間にすべてを忘れるような本を目指して書かれた。と書いている。まさにそのとおりのようで、去年発刊されたばかりの本だが、アマゾンでは古本で109円の値段がついていた・・・。しかしこれはこれで悲しい・・。
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船舶検査

2018年08月27日 | Weblog
今日は船舶検査。午前11時からスタートということだったので朝は釣りに行こうかと思っていたのだけれどもまだまだ浮遊物がたくさん浮いているということだったのであきらめた。

8月9日のブログに書いたが、今回はタイミングが悪かったのかよかったのか2隻ともほぼ同時に検査の通知がやってきた。使いまわしをしていた消火バケツを購入し検査に臨んだ。

この検査、検査員に当たりと外れがあるらしく、うるさい検査員に当たると細かいことをネチネチ言われるらしい。そして今回来てくれた検査員は当たりの人であった。ひょいひょと終わってしまった。前回はやや外れの検査員だったようで小船のデッキの排水口の栓がないと言われた。今回はそれも準備していたのだがそんなことは全く言われなかった。消火器の使用期限も過ぎていて、いつも次までには買い替えておくように言われるのだが、それも何も言われなかった。信号紅炎の代わりに携帯電話の番号を申告するのだが、これも携帯電話は1隻につき1番号が決まりだそうだが、まあいいですよで見逃してくれた。
時間の確認の電話をもらったときから今回の検査員は物腰の柔らかそうな人であったが、そのままの感じであった。よしよし。

 

検査員が来るまで舳先の保護のためにクッション代わりに何とかパイプというのを取り付けてみた。今回の台風では24日の朝、もう岸壁ギリギリまで舳先が迫ってきていた。ひょっとしたた前の夜は岸壁に激突していたのかもしれない。
こういうものも必要ではないかと2ヵ月ほど前に準備をしていたが暑くてそこまでやる気が出ずに大型の台風を迎えてしまったのだ。
このパイプはこんな用途に使うものではまったくないのでどこまで効果を発揮するかわからない。なんたって使ったお金が1,500円なのだから頼りがない。けれども試行錯誤をしながら改良をしてゆくつもりだ。

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「日本酒の科学 水・米・麹の伝統の技 」読了

2018年08月26日 | 2018読書
和田 美代子/著 高橋 俊成/監修 「日本酒の科学 水・米・麹の伝統の技 」読了

ついこの前にちょっと世間で話題になった日本酒を手に入れることができた。そこで少しだけでも日本酒についての知識を深めてみようではないかとこんな本を読んでみた。

しかし、さすが科学が発展している現代だ。日本酒が出来上がるまでのメカニズムは完全に丸裸にされてしまっているのだ。
お酒というのはどんな種類のものでも、目に見えない何かの作用によって穀物や果物がお酒に変身する。その神秘さがあるからこそ普通の食物とは一線を画しているような気がしていたけれどもそこまで知られてしまっては逆に残念な気がする。せめてパンティだけでも穿いていてくれないと想像力というものがなくなってしまうではないかみたいな・・・。

そしてその日本酒の醸造技術はすさまじく発展しているらしく、その年の米の出来具合や仕込み水の質にほとんど関係なく思いのままに味わいをコントロールできてしまうらしい。
それをよしとするか、いやいやはやり伝統的なそれこそその蔵に住む酵母菌で醗酵したしたお酒でなければ日本酒と呼べないと思うかは人それぞれでいいとは思うのだが、そんな先端技術がなければこんなに安くお酒を飲めないというのも事実であるからぼくはよしとするとしておこう。
今までは、せめてもの矜持として糖類とアミノ酸が添加された日本酒は飲みたくないものだと思っていたけれども、それさえも含めて味わいをコントロールできているのであればそれでもよいのではないかと思える。多分、いくらなんでもそんな三倍醸造酒は酒とは呼べないなどと思って飲むからあまり美味しく思えないのであって、いやいやこれは科学の粋を集めて醸されたお酒だと思って飲むとそれはそれで美味しく思えてくるのではないだろうか。

同じように、「アルコール添加」についてであるが、イメージとしてはなんだか出来上がったお酒にアルコールを追加して水増しをしているのだという悪い感じがするのであるが、これは大きな間違いだそうだ。まず、アルコールを添加するタイミングであるが、醪を作るときに添加される、多少は水増しという意味合いもあろうが、許可されている分量は醸造に使われる白米の総重量の10%までというごくわずかな分量で、それよりも醪の中に入っている香気成分を酒かすから分離した日本酒の中に引き出す効果があるそうで、それをしない日本酒よりも風味が増すのだそうだ。また、酸味が抑えられ、すっきりした味わいになるそうだ。ああ、これはなんとなくわかる気がする。江戸時代にはすでに酒かすを蒸留したアルコールを添加する製法がおこなわれていて、300年も前からの製法となるとこれはもう十分伝統的な製法であると言えるのではないだろうか。

アミノ酸とか糖類を添加した日本酒が出回っているからアルコール添加した日本酒も同じように見られてしまうのだから、いっそのこと、ドイツのビールみたいに、これ以外混ぜちゃダメっていう法律と製法を決めてしまえばもっと日本酒の地位は上がるのではないかと思う。もったいない。

「マッサン」が再放送されているけれども、マッサンが実家で元摺り歌を歌って酒母造りをしているシーンがあったが、それが「山卸し」という工程だというのをこの本を読んで初めて知った。ちなみに「山廃」というのはこの工程を省いた造りかただそうだ。
この、酒母(酛)を作る工程では雑菌を寄せ付けないように乳酸醗酵を利用して酸性の環境を作り出すのだが、それさえも省いて乳酸を添加してしまう速醸酛という醸造法まで開発されている。それを良しとするかどうかは別にしてお酒のラベルを見てもそこまでわからないのだから添加物がどうのこうのという前にすでに古来から続く醸し方からは相当変わってしまっているのである。もちろん、古来からの製法を守っている酒蔵もたくさんあるけれども、やはり僕の手の届く値段ではなさそうであるのでここでは考えないことにしよう。


そしてもうひとつ、なぜ日本酒にはワインのようなヴィンテージが存在しないか。それは日本酒が長期の貯蔵に適したお酒ではないのではなく、ただ、税務上の制約であったというところはなんだかもったいない。昭和28年までは日本酒を生産するとその石高に応じて酒税がかけられていたそうだ(造石税)。酒蔵も払った税金はすぐにでも回収したいからその年に造ったお酒はできるだけ早く出荷する。だから古酒は残りにくいとなる。今では出荷時点で酒税がかかるようになっているのでこれからは長く寝かされたヴィンテージが出てくることになるそうだ。まあ、そんな高級なお酒を口にすることはないであろうが・・。
独立法人酒類総合研究所という団体は「日本酒百年貯蔵プロジェクト」という、日本酒を百年寝かしてその品質の変化を分析しようとするプロジェクトをおこなっている。その中には、和歌山県で見つかった、コルク栓をして筵に包まれた日本酒も保存されているそうだ。どこの酒蔵に眠っていたのだろうか?こんなお酒なんて、ぜひとも味わってみたいものである。


そして僕が手に入れた件のお酒であるが、あれ以来魚が釣れなくなり、いまだ冷蔵庫の中に眠ったままである。ああ、早く飲みたい・・・。


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「神吉拓郎傑作選1 珠玉の短編」読了

2018年08月21日 | 2018読書
神吉 拓郎/著、大竹 聡/編 「神吉拓郎傑作選1 珠玉の短編」読了

名前くらいは知っていたが、神吉拓郎という作家がどんな作品を書く人かというのはまったく知らなかった。
以前読んだ本か新聞の記事で、この作家が書いた「洋食セーヌ軒」という小説が紹介されていた。そしてこの本はこのタイトルの短編が収録されている本である。

どの短編にも共通しているのが、40代以上と思われる男性が主人公である。何か人生の中で冒険をするのでもなく、不倫というか、そういうものをやっちゃうわけでもなく、なんともない日常生活のなかにポッと浮き出たようなエピソードがひとつの短編になっている。過去の回想から生まれてくるもの、長い友人との交わり。そいうものが題材になっている。僕も本当はこんな落ち着きと感慨をもって生きて行かないといけないんだよね~。

そして主人公たちは今の生活に対して苦悩するものではないし、悲観しているものでもない。すべての短編の最後はなんだかほっこりするような終わり方だ。
純文学ほどもこっちが悩んだり共感する必要もなく、電車での行き帰りに読むのにはちょうどよい内容である。


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水軒沖釣行

2018年08月20日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:長潮 8:06干潮
釣果:タチウオ 8匹

今年は台風が多い。今週も19号と20号が日本列島に近づいている。週末、フェイスブックのメンバーから羨ましすぎる釣果情報が報告されていて僕も加太に行きたいのだが、死人が出たとか行方不明の人がいるという昨夜のニュースを見ているとやっぱり二の足を踏む。波高の予報は2メートルから3メートルとはいえ、この辺りではまだそれほどまでにはならないだろうという予測もいままでの拙い経験から思ったりするのだがその拙さが命取りになるやもしれないと思うとつい、近場で済まそうと思うのである。

例年なら水軒の沖でタチウオが釣れているという声を聞くのだが、今年は全然聞かない。まあ、港の人たちでタチウオに行く人もいなくなってしまったので聞かないのも当然ではあるのだが・・・。ただ、釣具店のホームページではそれなりに釣れているようなので淡い期待を抱いて海に出てみた。

海の様子は拙い経験が正しくて、少しのうねりはあるものの、十分加太まで行けそうな雰囲気であった。事実、マリーナシティや紀ノ川から続々と加太に向けて出撃していった。僕もとりあえず道具だけ持ってくればよかったと悔やんでもあとの祭りだ。



真っ暗な間はアタリがなかったが、すこし辺りが明るくなり新々波止の赤灯台の前を通り過ぎたところくらいからアタリが出始めた。
その間30分くらいだっただろうか、午前5時20分頃にはアタリが無くなってしまったが、1匹だけ指4本の洲本サイズがあった。これはうれしい。

雑賀崎からも漁船が大挙して避難してきているので、僕も台風の準備と来週の船舶検査の準備のために保安用のステッカーの張り替えをして今日の釣行は終わりである。

  


家に帰ってちょっと血液検査に行ってきた。もう何年にもなるのだが、通勤途中で貧血みたいな状態になるときがしょっちゅうある。前の休みにも血液検査をしてもらったのだが、心臓だとか肝臓だとか腎臓だとかの疾患に関する値が微妙に高いらしい。どれかが異常に高かったらそこが悪いとわかるのだが、僕の人生と同じくすべてが中途半端らしい。だからもう一度怪しいところを検査してみましょうということになった。



前に読んだ本によると、生物としての人間の耐用年数は40年くらいだそうだ。それからすでに10数年が経過しているのだから様々なところが故障してくるのは致し方がない。仕方がないんだよな~。先生になんとかしてくれと言っても船みたいに部品を取り替えるっていうわけにはいかないからな~。


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「会社員とは何者か? ─会社員小説をめぐって」読了

2018年08月18日 | 2018読書
伊井直行 「会社員とは何者か? ─会社員小説をめぐって」読了


タイトルを見たときに、社会学みたいな内容かと思ったけれども、この本は日本文学の棚の中にあった。「現代日本における凡庸な人生の代名詞」であるそのものを日本の文学作品はどのように表現してきたか。という文学論である。
著者によると、文学作品を通して日本人の大多数を占めるその凡庸な人々というのは一体何者なのかを考えた著作だそうだが、それにはあまり興味がないのでこの本に書かれていることを断片的に利用して、そして著者が最初に書いている、「サラリーマン」と「会社員」は異なるのだという見解から僕なりの会社員像みたいなものを考えてみたい。そこにはかなりの偏見があるということを先に断っておく。
ビジネスマンという言葉もあるが、これはこれでMBAの資格を持っていて財務諸表なんかを一瞥するだけで何もかもわかってしまう人たちということで僕には無縁の世界なのでこれは割愛をする。

サラリーマンと会社員どちらが会社に対する忠誠心が強いかというとそれは紛れもなく会社員だろう。サラリーマンは表現上、とりあえずサラリーをもらうために会社に行く人々という印象がある。拘束時間をお金に変換する作業を日々繰り返す。だから会社から指示されたことだけをやっている。会社員となるともう少し会社の利益のために貢献しなければと考えている雰囲気が出てくる。給料以上の貢献をしなければという義務感であろうか。

だから、サラリーマンには何か会社から搾取を受けているのではないかという猜疑心が感じられる。これは小中学校で社会主義にかぶれた日教組の先生たちの影響と、何事にも批判と叱責しかもらうことしかできなかったこれまでの社会人経験がそうさせているのであろうか。給料は安くても図体は大きいので世間的には大企業であるけれども、大企業で生きてゆくために必要な能力とは、「年上や権力に物怖じせず、でも生意気にはならずに、懐に入り込める力」だそうで、つい人の目を気にしてしまう小心者にはなかなか泳ぎづらい環境ではある。

しかし、サラリーマンも会社員も、人から、「職業は何ですか。」と聞かれたら、「サラリーマンです。」、「会社員です。」としか答えないというのは共通している。先生は「教師です。」と答えるだろうし、警察官は、「警官です。」とかなり限定的、専門的に答えるのとはかなり違いがある。サラリーマンも会社員も専門性がない。大企業であれば、どこの会社でも数年で人事異動があり、そのたびに携わる内容が変わってしまう。とりあえずそこの部署の流儀をまねているうちに時間が過ぎてゆくが、会社員とはそこでも何か新しいこと、貢献できることはないかと模索ができる人であるのかもしれない。
しかし、そこで自己実現というものをどう実感するのだろうか。売上が多くなってゆくことが自己実現なのだろうか。そうだとしても26年間売上が下降し続けている業界にいては実感どころではない。

そして、会社員(これはサラリーマンも同じではあるけれども。)とは会社での人生と家庭での人生のパラレルな世界を生きている。両者はほんのときたま交差することもあるけれども、基本的には交わることがない。小説の世界でも主人公の会社員の私生活と仕事生活の両方が詳細に描かれることがないように現実の世界でも家族は会社での人生を知ることはごく希であり、同僚が家での生活を垣間見ることもまた希である。まあ、家族に見ず知らずの横暴な中国人に衆目の中で土下座をさせられている姿を知られるというのも酷な話なのでこれは小説の世界と同じでもいいのではないだろうか。

仕事とは作業から抜け出してさらに半歩踏み込んだことを言うと新聞のコラムに書いてあったけれども会社員は仕事と作業の境目をどう考えているのだろうか。
先にも書いたが、搾取されているのではないだろうかというような疑念と、何か罵倒するネタなないかと探し回っているような会議の中で半歩踏み込むような勇気が湧いてこないと思うけれどもそれは僕だけの感覚なのだろうか。
それとも彼らは半歩踏み込んでいるふりをしているだけなのだろうか、それとも、ここにしがみついていないと自らのレーゾンデートルが消滅してしまうとでも思っているのだろうか。
ジブリの鈴木敏夫は「適当に」とか「要領よく」生きるのがいちばんだと言っているそうだが、それがいちばん難しい。本当はそうしたいし、なんとなくそうしているような気もする。しかし、このふたつの言葉というのはネガティブに捉えられるような言葉でもある。それを押し切ってうしろめたさを感じることなく生きてゆくには悟りなのか諦念なのかそういうものが必要になってくるけれどもその境地に立てるのはいつの日だろうか?そもそも、何かを成し遂げた人が言うと格好がよいけれども、そうじゃなければただの言い訳にしか聞こえなくなってしまう。

ただ、救いであるのは、そんな人間でもなんとか給料をもらえるような、よい意味で昭和の時代を残してくれている会社が存在しているということだ。
もう少しの間、パラレルな世界を生きてゆかなくてはならない・・・。
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紀ノ川河口釣行

2018年08月13日 | 2018釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮 1:12干潮 7:07満潮
釣果:ボウズ

今日はペルセウス座流星群の極大日でもある。夜明け頃北東の空に流星が見えるらしい。
それも見たいというのもあってやっぱり今日も海に行くのだ。しかし、夏バテと連日の釣行が響いているのだろうか目覚まし時計が鳴ってもすぐに起きることができず、海の上ではウ〇コをしたくなるし、散々であった。
流星は合計3個見ることができたが、いいことなんてひとつもなかった。魚のチェイスさえもなかった。最後は港に入る寸前に流木まで引っ掛けてしまった。とりあえずプロップは歪んでいないようだったのだせめてもの救いだった。

帰りにいつもの叔父さんの家に寄ったら今日もいろいろ野菜を分けてくれた。とりあえずクーラーは空っぽにならずに済んだ?のか?

夜明け頃は少しうねりはあったものの河口は穏やかそのものであったが、お昼前、親戚の仏さん廻りをしているころには西からの風がかなり強くなってきた。

 

やはりお盆に殺生は似合わないということだ。

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「自分の体で実験したい―命がけの科学者列伝」読了

2018年08月10日 | 2018読書
レスリー デンディ、メル ボーリング/著 梶山 あゆみ/訳 「自分の体で実験したい―命がけの科学者列伝」読了

なんだか今期の朝の連ドラの週別タイトルのようだが、自分の体を実験台にして医学や科学の発展に貢献した人々の物語だ。
時代は1700年代から1980年代まで。今では倫理的には絶対許されることでないだろうし、iPS細胞を使って実験するところだろう。
木の筒の中に食べ物を入れて飲み込み消化の実験をした人、自分に黄熱病のウイルスを埋め込んだ人。人はどこまでの暑さに耐えられるかとサウナに入った人。カテーテルを自分で自分の血管の中に入れた人。など10人の挑戦者が紹介されている。
他人には危険すぎて頼めないから自分でやったという、わからないでもない動機だが、その過程で死んでしまった人、死を免れても後遺症に悩んだ人もいる。そうしてまで医学や科学に貢献したいという熱意と義務感というのがすごい。

こういう積み重ねの果てに今の快適な生活や長い寿命があるのだから、こういう人たちを向こう見ずで無謀な人たちと笑うことはできない。
そういえば、はるか海を渡って日本や太平洋の島々に渡っていった古代の人々、その生物が食べられるかどうかを身をもって試しながら食材の幅を広げていった人々。昔から人間は自分の体を実験台にしてきた。そう思うと、これも本能のようなものかもしれないとふと思うのである。
僕はそんな本能を失くしてしまって、よくやっても昨日食べたとうがらしがお尻を通過したときに、おぉ!と感動するくらいだ。

その他紹介されている人の中には人はどれだけの重力に耐えられるかと時速1000キロの乗り物に乗った人や、時間のわからない世界で人間の生理はどうなるのかと4ヶ月間真っ暗な洞窟で生活した人がいた。それほど遠くない将来、人間が宇宙を旅するための実験であったようだが、今でも国際宇宙ステーションでは命がけではないのだろうか、飛行士が自ら実験台になって様々なことを調べているそうだ。
人間の探究心とはどこまで深いのか、そして人間はどこまで行こうとしているのかという果てしなさを実感する1冊であった。
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紀ノ川河口釣行

2018年08月09日 | 2018釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮 3:40満潮 10:39干潮
釣果:ボウズ

前回のバラしが悔しかった。だから今日も紀ノ川河口へ行ってみた。残念ながら今回もボウズ。しかしながらやっぱりトップウオータープラグにスズキらしき魚はアタックしてくる。やはりアタリを目で見ることができるというのは迫力とドキドキとワクワク感が違う。心臓の鼓動が一気に早くなるのだ。それがたまらなく心地いい。だからわずかな望みにかけてまた行きたくなる。スポーツフィッシングは僕には似合わないと思いながら僕の心の中にも山師のかけらが埋もれているようなのだ。
そして僕はまるでこんな状態にも陥っているのだ。
クレーンゲームに細工をしたオヤジから、「うわ~、お客さん、もう少しでしたね~。次は絶対に景品ゲットできますよ~。もう1回やりましょうよ!!。もう1回!!」って言われているような・・・。
本人は騙されているとはつゆ知らずどんどん泥沼に落とされて行くという・・・。そしてなんとも悲しい結末が待っている。

それでも三たび僕は紀ノ川河口を目指すだろう・・。


今日は船のローテーションで大きい方の船で紀ノ川河口に向かった。



碇で船を固定してキャスティングをするのだが、久々に碇をセットしようとしたら段取りを完全に忘れてしまっていた。
碇は先代の船の物を使っているのでこの船を完全に固定するには少し小さい。だから鎖をかまして抵抗を増やしている。それに加えて碇が岩に挟まったときに回収しやすいようにいざというときには反転するようにしているのだが、碇と鎖とロープの組み合わせがわからなくなってしまって10分ほど悩んでしまったのだ。体力はもとより記憶力も弱くなってきているとは悲しい限りだ・・。



早々と帰宅して船舶検査の申請に行ってきた。今年はなぜだかほぼ同時に通知が送られてきた。いつもはかなりのタイムラグがあるので保安装備を使いまわししながら検査を潜り抜けてきた。しかし別々の日に検査をしてもらうのも面倒くさいので同時に検査をしてもらおうと考えたのだが、当然ながら保安部品をちゃんとそろえなければならない。まあ、本当にいざという時には必要となるものだからこの際だからちゃんと準備はしておこうと思うのだ。



 
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