イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

九段理江 「Schoolgir」読了

2022年02月13日 | 2022読書
九段理江 「Schoolgir」読了

表題の作品は、第166回芥川賞候補作の候補作である。ほかに一編、「悪い音楽」という作品が収録されている。
純文学を読むと、いったいこの作品のテーマは何なのだろうといつも悩んでしまう。「Schoolgir」については、女子中学生とその母親の心の平行線を太宰治の「女生徒」という作品を通して描き、「悪い音楽」では中学の音楽教師がもつ自意識が表面に出た時の周りの反応を描いている。

特に「Schoolgir」はどこに焦点を見るかで何通りにも読み方ができそうだ。少女の心の内に焦点を当てれば、未完成な人間のエゴであったり、一番近しい同性である母親に対する憧れと拒絶反応、そういったものが見えてくる。母親の側から見てみると、自身も通ってきた少女の道であるにも関わらずその心の内がわからないという葛藤と、また、心の内の醜い部分への自己嫌悪のようなものが見えてくる。ふたりの関係から見てみると、それはおそらく人間の永遠のテーマである、「人と人は分かりあえない。」というものを取り上げているような気がする。
「悪い音楽」のほうはもう少しわかりやすいかもしれない。これはもう、自分の内面の一部が外部に漏れ出てしまうと精神の崩壊をきたしてしまうのだというストーリーである。
こうみてみると、はやり芥川賞の候補としては「Schoolgir」が選ばれるだろうなというのがよくわかる。「Schoolgir」のほうが深い闇を抱えていそうだ。

もう少しストーリーを詳しく書いておくと、「Schoolgir」では、子供がヴィーガンになったり、環境問題に傾注したりする中、そんなことに理解がない母親を子供は軽蔑するようになる。そして母はその思いを密かにユーチューブを通じて知る。あまりにも頭でっかちな考えだと思うものの、自分も不倫をするような中ではそれを否定することはできない。子供は母を否定しながらも心のどこかで母のことが気になる。母のクローゼットの中から「女生徒」を見つけたからだ。そこには「お母さん」という言葉が大量に出てくる。それは自分も同じであると。自分は母を憎んでいるのか、慕っているのか・・・。わからないまま物語は終わる。
「悪い音楽」は、有名な音楽家の父に背いて音楽教師になった主人公が、やりがいを感じない教師生活の中、生徒とのトラブルも加わり出会い系サイトを使ってアブノーマルな遊びを妄想する。そんな内面を友人に知られることになり、さらに、生徒からも先のトラブルを通して心がない教師であるというレッテルを貼られ、追いつめられる。その先には精神の崩壊しか待っているものはなかった。というような内容である。


両作品を通じて共通することは、先に書いた、「人と人は分かりあえない。」ということと、「表面に出ている自分と内面の自分とはまったく違う人格である。」ということのように思う。
人のことがわかっているふりをするとか、自分がいい人を演じるということは精神に負担をかける。そしてそれがエスカレートすれば精神を崩壊させる。
母親は、『自分の娘と小説の話がしたい者、二十も歳の離れた女の子と、数少ない共通の話題で、どうにかコミュニケーションをとろうと、努力する者。』と言い、
教師は、『多くの人は自分以外の人の心も、自分の心と同じような素材からでき、同じような動き方をするという幻想のもとで、人の気持ちを想像したり共感しようとしたりしてくる。』と考えるのである。
ひとは、他人の中にいる自分を自分だと演じ続けようとする。カミングアウトしてはいけない、本当の自分のことは他人にばれてはいけないのだというふうに。
そんなことも考えていると、多目的トイレで不倫をしていた芸人を思い出す。あの人も、きっと内面は多目的トイレが好きな人なのだけれども、外面では知的でグルメで人の心がわかるひとということを演じ続けていたのだろう。それが世間に暴露されたとたんに人生が狂った。その危機は誰にでも訪れるのだというのがこの2作品が表現している一部分だろうと今回は思ったのである。

集団でしか生きることができないとされている人間は、おそらく、他人の中にいる自分を自分だと演じ続けることが唯一の生きる道であったに違いない。つい数十年前まではそれしか方法がなかったけれども、経済が成長して、集団で生きなくても、おカネさえあればひとりでも生きてゆける時代になった。ひょっとしたら、むかしむかしのひとたちは、他人の中にいる自分と自分の中にいる自分は違うのだ、それは相手も同じだ。だから他人の心の中を覗いてはいけないのだと理解していたけれども、その必要がなくなった今、逆にそれを暴いて楽しむようになってしまったのではなかろうか。ひとりのひとが違う人格を持っているのはおかしいじゃないかというように・・。それが現代であるのだ。

ふたつの物語にはもうひとつ共通点がある。それは災害だ。「Schoolgir」では、どこかで世界を騒がせるような大災害が起きているというのにどうしてそんなに世間から無責任でいられるのかとなじられ、「悪い音楽」では、音楽の発表会の途中で起こった小さな地震が教師の精神崩壊の引き金となる。ギリギリのバランスは小さなアクシデントでバランスを崩す。著者は、そんな不安定な時代をみんなが生きているのだとも言いたかったのかもしれない。
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