イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来」読了

2019年02月28日 | 2019読書
ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳 「ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来」読了


上巻では、人間は飢餓、疾病、戦争の克服できた後は、不死と幸福と神性を追い求めてゆく可能性が高いと言っているが、人類はそれを追い求めながら、それにつながる宗教心を捨てようとしている。その生き方を筆者は、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意した。」ことであるという。
近代以前の“生きる意味”というものは、まさしく、“神のために死ぬ。”ということにほかならかった。自然からの試練、これほどの試練は神が私に与えたもうたものであると考えなければそれをうっちゃることができなかったに違いない。これは西洋の一神教独特の考え方のように思うけれども、東洋の仏教思想でも、今を生きるのは極楽浄土へ成仏するための一歩に過ぎないと考えることが一般的であった。人の寿命はそれ以外に別の意味を見つけるには短すぎたのだ。

しかし、近代に入り、それが大きく変わってきた。経済の成長と共にそういった憂いは徐々に取り払われてきた。それが飢餓、疾病、戦争の克服であった。僕はまったく自分に自信が持てないけれども、僕以外の人類はそのことで自信をつけたのか、神から与えられた意味ではなく、自身の心の内にある感性にしたがって生きる意味を見つけ始めた。それが「人間至上主義」であった。別の意味では、宗教を生きる意味の柱にしてゆくには人生は長くなり苦悩も少なくなったということだろうか。

人間至上主義とは自らの心の内なる感性に従って価値観を求めてゆくという自由主義的考えであるけれども社会というものを構成するためには個人個人の価値観がばらばらではまずい。それを統合するために考え出されたものは社会主義的人間至上主義であり、人を含めた動物が生きるということは競争と淘汰の世界であるという考えから生まれ出たものが進化論的人間至上主義である。ヒトラーが掲げたような優性思想である。すべては人間が中心であると言う考えではあるけれども、方向性はえらく変わるものだ。1900年代の前半から後半にかけて、社会主義的人間至上主義も進化論的人間至上主義も誤りというか、人類の行き方にはそぐわなかったようで地上からは消え去ってしまった。

しかし、「民主主義の死に方」では、その正統な人間至上主義(民主主義)でさえいずれ独裁主義を呼び込み崩壊してゆくということになると書いていたけれども、僕たちはそれで大丈夫なのだろうか。

それはさておいて、自由主義社会はどこまでも進み、留まることを許さない経済成長の中で新しい脅威にさらされる。
その第一は人間の価値が失われていくということだ。
AIが労働者の仕事を奪っていく。それは意識と知能が分離してしまってきたということである。パターン化された仕事は意識がなくてもできる。高度なAIには意識はないけれどもはるかに正確に仕事をこなせるようになってしまった。
第二は人間はあいかわらず人間としての価値を持っているけれども外部のアルゴリズム(AI)に管理されてゆくというものだ。
僕に関する膨大なデータを蓄積したAIは僕より僕をよく知るようになる。現在でも、グーグルやアマゾンは僕のデータを集め続け、僕の消費行動や政治に対する志向やこのブログを運営しているNTTは僕の喜怒哀楽さえも把握しているのかもしれない。それに加えて世界のすべてのデータを蓄積しようとしているAIはそのデータを元に僕よりも的確に僕のこれからの生き方を教えてくれるようになる。さらには僕の代理のAIがこれまた他人の代理AIと交渉をし始めるというようなことになる。

そして三つ目はアップグレードされた人間とそうならない人間の格差の拡大だ。
医学的にも能力的にも、知性的にも様々な技術でアップグレードされた一握りの人間が世界を支配する世界。銀河鉄道999の機械の体を得た人たちを想像すればいいのだろうか・・。
著者はこれをテクノ人間主義と名付けている。ホモ・デウスの誕生ともいえるのだ。

そしてさらにその先にはデータ至上主義が待っている。テクノ人間主義まではそれでも人間の意思というものがこの世界で最も重要なものであると考えている。しかし、データ至上主義は違う。すべての価値がデータ処理にどれだけ寄与するかで決まってくる。
感情はそのデータ処理を邪魔するものでしかないというのだ。生物は遺伝子(データ)の運び屋にすぎないという考え方だ。
人類はホモ・デウスへの進化という力を得た途端にデータの奔流に飲み込まれて消え去ってしまう。

もう、こうなってくるとSFの世界で、宇宙のすべてのデータを集めるための機械が地球に襲来するというストーリーは映画のスタートレックのストーリーだし、人類のデータによる統合はエヴァンゲリオンの人類補完計画に似ているように思う。
しかしながら、自由主義経済は無限に成長し続ける宿命にあり飢餓、疾病、戦争の危機を乗り越えた人類がその先に追い求めるのは確かに不死であったり、精神の融合であったりするのかもしれない。釈迦が説く人が持つ苦しみはまさにこのあたりにある。
そして、最後にデータの奔流に人間が押し流されて消えてしまうというのはまさに五蘊盛苦を乗り越えるにはこれしか方法がないというものではないだろうか。そうすることで、人類が滅びてデータだけが宇宙に充満してゆくストーリーというのはデストピア小説を読んでいるかのようであった。

しかし、著者は、未来の予測は難しいという。SFの世界ではこれらの運命に立ち向かうヒーローたちは「愛」を武器にまったく予想外の行動をとって形成を逆転させる。
ただ、この、「愛」というものほど曖昧なものはない。著者は究極のAIにこう語らせる。「全知全能のスーパーコンピューターが急激なホルモン分泌に物も言えないほど驚いたりするわけがない。」
早ければ2、30年でそんな世界が訪れるのではないかという予測を著者がしているのであるけれども、そうであったとしても僕はすでに死んでるか老境の身、そんなことはどこかで勝手にやっておいてくれというものだ。
僕はひょっとして最後のいい時代を過ごしているのかもしれない。
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水軒沖釣行

2019年02月27日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:小潮4:57干潮 10:47満潮
釣果:ボウズ

今シーズンはほぼ毎回コチが釣れているので前回のワーム作戦にい続いて虫エサ作戦で多分今シーズン最後になるイカ狙いに行ってきた。目立つように一番大きいイソメを買って出発だ。



置き竿に天秤仕掛けを取りつけて手持ちの竿は前回通り下にスッテ、上はワームに替えて虫エサをセット。今日は東からの風が強い。置き竿はほとんど底をトレースしていなくてちょっと厳しそうなのでイカを諦めて手持ちの竿に天秤仕掛けを取りつけ直して続けるけれどもアタリはない。



う~ん。下手な考え休むに似たりということだろうか・・・。

また、来年に再挑戦だ。
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加太沖釣行

2019年02月25日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:中潮 3:47干潮 9:54満潮
潮流:7:43転流 11:04 上り1.7ノット最強
釣果:サバ 3匹

今日もいい天気だ。気温は4月上旬らしい。夜明け前でも寒くない。



転流時刻は8時前なのでゆっくり行けばいいのだが、ジギングをやってみようと思いかなり早く出港した。しかし、よく考えれば、一番釣れない時間帯に新しいことをやろうというのだからまったく扉は開かれないのではないだろうか。
こんなことをしているからイノベーションが生まれないんだろうな~。と、つくづく自分の開拓精神の整合性の無さに呆れてしまう。



案の定、何の収穫もなくあっけなく終了。そう、収穫といえば、5分で疲れてしまうということだけだった。
さて、ここから本番。潮が流れていないので大和堆ポイントを目指した。船団もできているので調子がいいのかもれない。



そして結果はすぐに出てきた。魚探にはかなりの反応があって、巻き上げる動作ではなくしゃくり上げる動作で食ってきた。引きの感触は完全にサバだ。それもかなり大きい。というか、大きすぎる。
これはいい獲物だ。
そして数回目の反応が出た時に再びアタリ。今度は一荷で食ってきた。ここまでで午前7時半。

これで3匹。叔父さんの家に持って行く分も確保できた。その後はアタリがぱったり途絶えた。すでに上り潮になっているはずだが船は北風に押されて南に流れている。これではなかなか厳しい。この時点でテッパンポイントを目指すべきなのだが、魚探には時々大きな反応が出る。それにけっこう美味しい獲物も確保できているので、「もうここでいいや・・。」という僕のダークサイドが浮かび上がってくる。
そうなってくると余計にアタリが遠のく。同じ場所をピンポイントで攻めてみるれどもアタリがない。



忍耐力も尽き果てて午前10時に終了。最強時刻まであと1時間。まったくの試合放棄だ。


今日の獲物はキズシとサバサンド。
サバサンドはトルコの名物なので滅多に手に入らないトルコ産のワインで味わった。今日は白ワインを開けたが、サバの味の濃厚さには赤のほうがよかったかもしれない。

 


給油のあと、ワカメを採るポイントの近くでワカメの状況を陸路調査してきた。
2月の半ばごろにはまったく姿を見ることができなかったけれども、今日は小さいながらも姿を見ることができた。暖冬で心配していたけれども今年もなんとか採れそうだ。あとは休日と天気がうまく合うことを祈るばかりだ。
次の休みは調査採集かな?

 



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「ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来」読了

2019年02月21日 | 2019読書
ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳 「ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来」読了

この本は、前回に読んだ、「サピエンス全史」の続編になる。認知革命、農業革命、技術革命を成し遂げた人類は飢餓、疾病、戦争の危機から解放された。その後、人類は何を目指してゆくのか。著者は不死と幸福と神性を目標とする可能性が高いと予測している。それは人類をアップデートし、神の領域に足を踏み入れることである。「サピエンス全史」の最初に出てくる年表の、未来の項目には「知的設計が生命の基本原理となるか?ホモ・サピエンスが超人たちに取って代わられるか?」と書かれているけれども、タイトルの通り、ホモ・サピエンスからホモ・デウスに変貌を遂げるのである。デウスとは“神”という意味なのである。

すでにその兆候は表れている。とくに不死について、疾病を治す手立てであった治療法が人間そのもののスペックを高める行為に応用されている。整形外科は戦争なので体に損傷を負った人に対しておこなう治療であったけれども美容整形というものに発展し、バイアグラはもとは狭心症の治療薬であった。グーグルでさえも死を解決するための会社を設立している。
幸福についてはどうだろうか。前書では幸福とは絶対値ではなく相対的なものであると説明されているけれども、本書ではもっと具体的に、「不快感のないとき」と定義してる。そしてその不快感というものは人間の体のなかでの化学的反応に過ぎないのであるからコントロールが可能であるとしており、これも現実の世界ではすでに麻薬であったり、兵士の戦意高揚に使われたりしている。

現代の経済は生き残るためには絶え間なく無限に成長し続ける必要がある。既存のレベルでの経済効果(効用といってもいいのかもしれない。)には限界がある。さらに永続な成長のためには、不死と幸福と神性を追い求めることが必然となってくる。
そして神性を追い求めることがいちばん難しいと著者は思っているようだ。この本のそのことについてかなりの部分を割いている。人と神の関係の分析。これを階層をひとつ落として家畜と人間の関係からっスタートしてアプローチしようとしてる。将来はこれはアップデートされた人類と既存の人類の階層になぞらえているかのようだ。
宗教を含めた社会の規範というものは前書にも書かれていたように認知革命で獲得した、「目に見えないもの」を信じることができる能力が作り上げたものである。そしてその認知能力も現代科学では化学的反応の作用の結果であると解明されている。
そういった証明が様々な実例を上げて行われている。科学書でもあり歴史書でもあり、哲学書でもあるような複雑な内容になってきた。

なんだか堂々巡りのような様相を呈してきた。人間は、「目に見えないもの」を信用することによってこの巨大な社会構造を支えている。しかしそれは“化学的”という目に見えるものであった。

しかし、人類のアップデートは科学革命が支えようとしている。そのとき、宗教や社会的な規範はいったいどうなってしまうのだろうか。僕が読む限り、著者はそういった宗教や社会的な規範に対してはネガティブなイメージを持っていうように感じる。人類のアップデートを妨げている大きな障壁だと考えているように思えるのだ。

下巻ではこのあたりがもっと深く掘り進められていくのだろうが、楽しみだ。

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水軒沖釣行

2019年02月17日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 5:22満潮 10:53干潮
釣果:コウイカ 1匹 コチ 1匹

今日も寒いが風はなさそうだ。各日の出撃になるけれども行けるときには行っておきたいのだ。船のローテーションで今日はコウイカ狙いだ。

夜明けを待って出港。今日の日の出は午前6時42分。夜明けも大分早くなってきた。



日曜日なので新々波止の工事も休みのはずなので防波堤の交点から釣りをスタート。仕掛けを下してわずか10分ほどでアタリが出た。型の大きなコウイカだ。
今日こそはひょっとして爆釣かと思ったが今年はやっぱりダメだ。その後アタリがない。
新々波止に沿って沖に向かって移動をしてゆくと、元の防波堤の切れ目辺りで久々にアタリ。なんだか怪しい魚だ。魚というよりも回虫みたいだ。ダイナンウミヘビというやつだ。食べられないこともないようだが、これはお帰りいただこう。



なんとかもう1匹釣らないと叔父さんの家に持って行けない。何度か船を行ったり来たりさせていると三度のアタリ。今度も大きい。というか、また魚だ。今日も本格的にコチとヒラメを狙うべく新兵器を準備した。上のスッテの代わりにプラスチックワームを取りつけてみた。イカのヒット率は下がるけれども前のちびワームよりもアピール力はあるはずだ。



しかし、食ってきたのはスッテのほうであった。下手な考えは休むに似たり・・・。か・・・。
魚をデッキの上に放り投げた時だろうか、フックがまた1本折れてしまった。よく持ってくれたものだ。今年はやっぱりコチが多いようだ。

アタリもなくなったので午前9時過ぎに終了。

イカの胴体の中には大きな白子が入っていた。もうイカの季節も終わりに近いようだ・・。



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「民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道」読了

2019年02月16日 | 2019読書
スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット/著 濱野 大道/訳 池上 彰/解説  「民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道」読了

ふたりの著者は、ドナルド・ジョン・トランプが第45代アメリカ合衆国大統領になったことを受けて、これは民主主義が死に絶えてゆく始まりではないのかということでこの本を書いたようだ。
僕も、イギリスのEU離脱の国民投票を見ていると、なんと民主主義というのはあやふやなものなんだと思い、この本を読んでみた。


第二次大戦前にもヒトラーやムッソリーニというような独裁者が存在したけれども、現在でも、ロシアのプーチン、ベネズエラのチャベス、マドゥロ、トルコのエルドアン、ペルーのフジモリなど民主主義世界のなかで独裁色をあらわにした政治家がいた。
ヒトラーやムッソリーニしかり、現代の独裁者も初めは選挙で選ばれた。それがどうして独裁者となってゆくのか・・・。
すべての人物はもとはその国の政治政界の主流をなしていた政治家のなかから出てきたのではなく、アウトサイダーとして政界に現れた。その現れ方は大体、その国の政治、社会に対して不満をもっている人たちを扇動することで人気を得、本流の政治家もその勢いを借りて再び主導権を握ろうとしたけれどもうまい具合にその座を盗られてしまった。というストーリーになる。

大衆によって選挙で選らばれた人たちが独裁化してゆくのだから、いかにしてそのリスクを防ぐか、リテラシーか、仕組みか・・。
この本ではアメリカの選挙制度の仕組みのすばらしさを例に上げている。大統領の選挙に際してであるが、予備選挙というものが政党の候補者を選ぶときと本選挙のときにあるけれども、その代議員を選ぶというプロセスが極端な思想を持った人物を排除できる仕組みになっているのだ。予備選挙の代議員は各党で決められるけれども、ある程度政治に携わっている、もしくは精通している人たちの中で災いをもたらすかもしれない危険な人を排除することができていた。雰囲気には流されないということだ。
そして、もうひとつ重要なものがある。それは「相互的寛容」と「組織的自制心」である。
アメリカでは民主党、共和党の両党は相対する思想で結党されているけれども、お互いを尊敬しながら相対する。徹底的には叩きのめさない。いざというときはお互いに結束して事態に当たるという慣習と組織として行き過ぎない紳士的な自制心を持って国政に当たってきたという事実がある。
前者ではウオーターゲート事件の折には両党が結束してニクソンの弾劾に向けて協力し、後者では大統領の任期は2期という法律は1951年に始めてできたそうだが、それまでの初代ワシントンが実践した2期という不文律を守り続けてきた。
しかし、そんな寛容と自制心が崩れ始めている。アメリカでの始まりはニュート・キングリッジという1979年に下院議員に当選した共和党議員からだとこの本には書かれている。
それがトランプへとつながっているというのだ。
その頃からお互いに不寛容で非難の応酬、議会を無視した大統領令の連発。そんなことが非常に多くなってきたそうだ。そういえば、予算が通らなくてアメリカの公的機関が閉鎖されたなんていうニュースも最近になってよく聞くようになったように思う。

おそらく、インターネットの普及や格差の拡大というのがこういった、恐怖を煽って国民を扇動する人々が台頭しやすい環境を作っているに違いない。
インターネットではあることないことがセンセーショナルに流布し、衣食足りて礼節を知る。やはり生活に窮してくるほど寛容さがなくなってゆく。

こういう風に民主主義が死に絶えてゆく徴候は以下の四つの点に現れてくるそうだ。
・ゲームの民主主義的ルールを拒否、あるいは軽視する
・政治的な対立相手の正当性を否定する
・暴力を許容・促進する
・対立相手(メディアを含む)の市民的自由を率先して奪おうとする

日本ではどうだろうか。
ついこの前のニュースでも、首相が、「悪夢のような民主党政権が・・。」と言うと、元の副総理が「取り消しなさい!!」ってやり返していたけれども、なんとも聞いていて情けない限りだ。「相互的寛容」のかけらもない。まだ、麻生さんの失言のほうがかわいい気がする。

独裁者は国家の危機、他国からの侵略や巨大災害などに乗じて議会や裁判所を掌握し、憲法を改正し自分の任期を操作しにかかるそうだが、アベさんもそんなことをたくらんでいるのだろうか。
フランスや北欧でもポピュリズム政党が台頭してきても、ぎりぎりでそういった党の代表が首長選挙に負けることで国家の良識を守ることができたように、おそらく先進国と言われる日本で独裁者が生まれることはないだろうけれども、こんなくだらない論争にもならない論争が続いているようならお互い殴り続けて息の根を止めてしまうか、けんかしてる隙にどこかの国に侵略されてしまうのではないだろうか。
しかし、わが国ではリテラシーを持てば持つほどこれがまあ、誰を信用すればいいのかがわからなくなる。

どこの国にもがん細胞のような人が生まれる隙はあるけれども、今まではなんとか良識という免疫機能が働いてきた。けれども経済的な面でどの国の体力も衰えを見せている現代、ますます民主主義というものは本の題名のとおり、死に直面するのではないかと心配になるのである。
ヒトラーは首相になってから18ヶ月の後には独裁体制を作り上げたそうだ。そんなことを考えると、僕が生きている間にこの国にもそんな時代が訪れる可能性も否定できない。
嘘みたいな未来良そうだが心配にはなるのである。

この文章を書いている最中にもトランプ大統領はメキシコの国境に壁を造る費用を捻出するために非常事態宣言を出したというニュースが出ていたけれども、どんどんこの本の予言どおりに事は進んでいるかのようだ。
しかし、世界の民主主義が正常に機能していたとしても、かたや中国や北朝鮮の動きもある。いまのところ、トランプはそれに対しては自国のためにという注釈がついているとはいえ、果敢に対抗しようとしているようには見える。もし、穏健な大統領だったならばここまで周りを省みずに喧嘩を売ることができるだろうか。
そういういう意味では、時代が望んだ存在であったのかもれないが、もしそうなら、あとはもう、世界が破滅するしか選択肢が残っていないような感じがしてくる。
そのあとは本当に、「人類が消えた世界」が待っているのかもしれない。
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加太沖釣行

2019年02月15日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:若潮 8:21干潮
潮流:7:52転流 10:29 下り1.6ノット最強 13:18転流
釣果:真鯛 1匹

今日は寒い。ここ数日の最低気温が3、4℃台だったので今日もそんなものだろうと思っていたが、今日の和歌山市の最低気温は0.5℃。多分この冬の釣行で一番寒い日になってしまったのではないだろうか。港に到着した時点で手の指の感覚は麻痺してしまっていて、ガイドにラインを通すときもラインを触っている感覚がつかめない。スナップをセットするときは指先が痛くて痛くて・・・。
おまけに、今日の潮はあまりよくない。それでも風があまりないので出撃だ。



今日の予定は潮が動き始めるまではダメ元でメジロ狙い。エビングでなんとか釣りを成立させたい。
しかしながら1時間40分ジギングロッドを振り続けたけれどもアタリはない。そろそろ真鯛狙いの時間だろうと非武装ポイントに移動。う~ん、寒いからか、釣れていないのか、ポイントには船がいない。帝国軍はいったい何をしているのだ!
ずっと沖には船団ができているがこれはどうもタチウオ狙いのようだ。これだけタチウオの船が出ているということはやっぱり潮はよくないのだろう。



案の定アタリはない。魚探には魚らしい反応があるけれどもあれは本当に魚の反応なのだろうか。魚探の性能も大したことがないのでまったくわからない。
この時点で討ち死にを覚悟し、せっかくなので地の島の北側をところどころ探ってみようと移動を敢行。



この辺りは島の際から一気に深くなっている。もっと潮が動いていれば魚が釣れそうな雰囲気だ。そのまま中の瀬戸を通って帰ろうと思っていたのだが、ふと、「困ったときは虎島の北」という、いつの頃から聞いていたのかわからない箴言を思い出した。もう一息頑張ってみようと中の瀬戸を通過して虎島の駆け上がりに取りついた。潮の悪い日、帝国軍がいないのでこんなことができるのだ。普段なら即刻ロックオンされているところだろう。



2回目の流しの時に本当にアタリが出た。それも大きい。バレてくれるなと慎重にやり取りをしてなんとか1匹確保。51センチというところだろうか。
家に帰って捌いてみるとものすごい脂だ。刺身を引こうにも柳葉が滑らない。しかし刺身も鯛しゃぶもかなりいける味であった。

その後もう1回アタリがあったけれどもこれは残念ながら釣り上げることができなかった。

中の瀬戸を通過しているとき、浮かんでいるイナの群れに青物が付いているようでときおり水面が激しく水しぶきを上げる。これはひょっとしてチャンスではないのかともう一度エビング仕掛けを投入。



そんなに世の中甘くない。やっぱりアタリは無く、12時過ぎに終了。

帰り道もこんなに穏やか。



しかし、お日様が顔を出してくれたのはほんのわずかの時間しかなく、最初から最後までずっと寒い中での釣行であった。


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「海の武士団 水軍と海賊のあいだ」読了

2019年02月09日 | 2019読書
黒嶋敏 「海の武士団 水軍と海賊のあいだ」読了

歴史に詳しい人が読んだらよくわかる内容なのかもしれないが、日本史が赤点だったぼくにはまったくの支離滅裂な内容にしか思えなかった。
タイトルから想像するとなにか、戦国時代の全国の海賊と言われた人たちの武勇伝と栄枯盛衰を描いたものかと思ったのであるが、武勇伝が出てこなくてその成り立ちと消滅を書いている。ひょっとして我が故郷の雑賀一族の物語なども期待したのだがそこはまったく出て来なかった。
そういう意味では栄枯盛衰なのだが、海を舞台に活動していた人々に関する資料というものはほとんど残っていないということでかなりの部分が著者や他の研究者の想像を引用したものになっている。おまけにその事例が全国あちこちに行ったり来たりするので支離滅裂な印象を受けてしまう。

なんとかその中から自分なりにその成り立ちから消滅してゆくまでを追いかけてまとめてみるとこんな感じだろうか。

・鎌倉以前、海の難所では船の遭難は頻繁に起こる。残念ながら乗組員がいなくなり船だけが岸にやって来たものはそれを見つけた在所の人たちのものになるというのが当時の習慣だった。それを「寄船」というのだそうであるが、積み荷はその土地の神社やお寺の維持費や供物になったそうだ。福岡県の宗像大社の沖ノ島には古い時代からの奉献品がたくさんみつかるのも、そんな寄船から得たものが多かったそうだ。
・寄船の解釈が勝手に発展すると、人が乗っていても在所(ナワバリ)に近づいてくる船の荷物は俺たちのものだということになって海賊行為が始まる。
・船に乗っている人もそれは困るので「関銭」を収めるようになる。そして代わりに海賊たちは水先案内人として危険な海域を安全に航行させてやる。
・戦国時代になるとその技術を利用される。
・平和な時代になると、関銭をとる行為は物流の邪魔になる。秀吉や家康の強大な権力には抗うことはできずに漁師になったり、海運業に生きたりというようになり、大名として残った家系はわずかしかない。
というようになる。

そういう意味ではかなり冷遇された人々であったという感じなのだが、それは一体どうしてだったのだろう。僕なりに考えると、ひとつは領地を持っていなかったということが大きかったのではないだろうかと思う。はっぱり、日本はどれだけの土地を持っているかというのが武将としての尺度になっていたのではないだろうか。どれだけの海域をナワバリにしていたとしても土地を持っていないやつは大したことがないとされてしまっていたのではないだろうか。
もうひとつは、海で生きる人は無頼であってほしい。(これは僕の願望でしかないかもしれないが・・)もともと誰かに仕えるということを嫌い、そこが大名たちに敬遠され便利に使われるだけになってしまったとは考えられないだろうか。
それはそれでカッコいい生き方ではなかったかと思うのである。



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加太沖釣行

2019年02月07日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:中潮 8:11満潮 13:49干潮
潮流:5:11転流 9:05 上り3.0ノット最強
釣果:真鯛 1匹 メジロ 1匹 サゴシ 1匹

今年はやはりかなり暖かい。昨日、おとといなんか、去年の最高気温が今年の最低気温と同じだったのだ。そして休みと天気の相性も良く、今日もいい天気だ。これで4連続出撃だが、去年の今頃は1ヶ月足止めを食っていたのだからこれはありがたいことだと思いたい。情報では青物が爆釣らしい。僕もそれにあやかるべく加太息を目指した。



潮流時刻から見て、今日のリミットはロスタイムを入れても午前10時までだろう。朝はできるだけ早く出港して釣りの時間を稼ぎたいと思い、午前6時過ぎのまだ暗い時刻に出港。田倉崎の手前にさしかかるとたくさんの帝国軍であろう明かりが見える。おお、戦いの光とはなんと美しいことだろう。



聞いていたポイントは田倉崎沖。僕もその光の中に殴り込みをかける。
最初のアタリは午前7時。釣りを開始して間なしのときだった。かなりよく引く。早速青物かと思いきや、真鯛だ。魚探には反応がなかったので今日は厳しいのかと思っていただけにうれしい1匹だ。
そして30分後、再びアタリ。今度も大きい。掛かった直後に一気に走り始めた。これは間違いなく青物だ。カウンターの数字は50メートルを超えてしまった。これ以上糸を出したらやっかいだ。ハリスは5号。それを信じてドラグを締めて引きに耐える。それが仇になったか、フッと軽くなてしまった。あ~やっちゃったと思いきや、再び竿が引き込まれた。魚は尾びれにハリスが絡まった状態で上がってきた。多分、口に掛かった鉤が外れてしまい、幸運なことにその直後尾びれに別のハリスが絡まってくれたようだ。ハリスは5号だが、鉤はグレ針5号。ハリが曲がってしまうおそれは十分ある。うまく絡まってくれたおかげで鉤が曲がることを回避してくれたようだ。

その後も度々アタリはあるものの、鉤に乗らない。



ドラグの締め具合や合わせるタイミングが未だにわからない。

午前9時半過ぎにサゴシを1匹追加し、今日は終了。


触れるだけで切れるほど研ぎ澄ました出刃包丁の刃をまたまた欠いてしまった。頭を兜割りにした時にやってしまったようだ。
う~ん、また1時間擦り続けねばならないのか・・。



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虐待事件に思う・・・

2019年02月06日 | Weblog
千葉県の虐待問題でも逮捕された両親に非難が集まるのは当然としてまたもや児童相談所への批判も高まっている。たしかに10歳の女の子を最後まで守ることができなかったというのは残念なことだが、僕は児相の担当者たちにいくらかの同情の気持ちを隠せない。

犯人の父親は児相の担当者に何度も罵声を浴びせるような対応をしていたそうだ。保護が解除されてから計8回も面談しその上で少女が書いたアンケート用紙のコピーを渡してしまったとニュースで報じられていた。少女が父親からそのコピーを見せられたときの失望感はいかほどのものであったろうかと考えるとあまりにも悲しくなる。
記者会見では児相の担当者の上司と思しき人がすべては言い訳になってしまうと答えており、マスコミも児相は何をしているのだと強い論調で報じているが、そう言っている人たちと同感だと考えている人たちのなかで、一体何人のひとたちが、自分に非がないのに、もし非があったとしても、その代償をはるかに超えるような罵声を赤の他人から浴びせられた経験を持っているだろうか。

ひとりの人を死に追いやるような暴力を振るう人間の口から出る言葉は明石市長の比ではあるまい。それに耐えられるタフな人というのはそうざらにはいないはずだ。
児童相談所自体が地方自治体の中では完全に独立した機関らしく、自治体のどの局に所属しているというのではないようだ。そしてかなりの職員は自治体からの人事異動で配属され専門的な知識もないまま、誰にも相談できないままこんな輩と対峙しなければならないようになっている。
かりに教育委員会や厚生局に相談に行っても、多分、「そんなものそっちの責任できちんとやってくれ、それが現場というものだろう。」と言われるのがおちで、専門家も嘱託で勤務しているのかもしれないが、ほとんどの場合は何を決断する権限もなくアドバイスをするだけだったに違いない。
そんな中、孤立無援で対応していれば最後は相手の言いなりにならざるをえなくなるのも無理はない。僕も一度、2件の問題を抱えて右往左往したことがあるけれどもたった2件だけでもあんな思いをしたのだから、人員不足で年間50~60件の案件を受け持っている人たちの苦労は並大抵ではないと思う。これは許容量の3倍を超えているという言うことだ。赤い彗星でもあるまいし・・・。

こういう輩というのは恫喝と優しい言葉を繰り返してそれも同じ事を何度も何度も繰り返して相手の思考を麻痺させてしまうのだ。かぶせて、裁判沙汰にするとか、SNSに流すとかそういうことを必ず言うのだ。何度も会っているうちに、次に会うともっとひどいことを言われる。それなら今のうちに言うことを聞いておこう。必ずそうなってくるのだ。それに対して、どうぞ、勝手にやってくれと自身の判断で言える人は多分皆無だ。それに、一般人の考えでは、まさか自分の子供に手をかけて死に追いやるなんていう残酷なことが現実にが目の前で起こるとはなかなか想像しにくい。「今までは間違いでした。」なんて言われるとそっちの答えを信用してしまうのももっともだ。

そんなものを相手に素人が戦えるはずがない。やはりそういう組織しか作れなかった行政に問題があるのではないかと僕は思うのだ。担当者を責めるのはあまりにも酷であるような気がしてならないのだ。今回の例でも、現実に犯罪者を相手にしているのだから、警察の一部門にでもしたほうがいいのではないだろうか。
これは民間企業でも同じだ。小売、サービス業界では7割の人が何がしかの恫喝や謂れのないクレームに遭遇したことがあるそうだが、おそらく20数年前と比較してもこういう輩というのはどんどん悪質化し、執拗になってきて一般人の常識ではすでに考えららないレベルにまでなってきているのは間違いがない。バブルの前はまだまだ日本人も素朴ではなかったのだろうか。べつに替わりに対応してくれとは言わないが、「こうやれ、これで法的に問題はないから。」そう言ってくれるだけでいい。もう少し望むなら、「骨は拾ってやるから行ってこい。」と言ってくれればどんな怖い相手にでも立ち向かえる。そんな立場の人がどうして児相にいなかったのか・・。

しかしながら現実はこうだ。これは僕の友人から聞いた話だが、彼のボスがある取引先のことに対して取引条件の改定を申し入れろという指示を出し、その際に、「取引先と条件交渉するときはネチネチと攻めて相手が苦しんでいる姿を見るときが一番嬉しいんだ。」というようなことを言っていたそうだ。新聞記事に業績がいいらしいと載っていたから条件交渉しろと言われてもおかしなものだが・・。
まあ、これも言葉のあやで、それくらいの覚悟で取引交渉に臨めという意味も含まれているのかもしれないが、いつものそのボスの部下に対する言動から想像すると心底そう考えているのかもしれないと言っていた。“人は心の中で思っていないことは絶対に口に出せない。”と言うではないか。人のこころとは多かれ少なかれこんなものなのかもしれないと悲しくなってしまう。
彼も僕と同じ年代なのでもうすぐ役職定年で今の部署を離れることができると思うと清々するらしい。その前にこの人の人格を垣間見ることができたのは以外と幸運ではなかったのだろうか。

多分、千葉の児童相談所もこんな考えの人たちがトップにいた結果がこんなことになってしまったのではないだろうか。人が苦しむところを見るのが嬉しいと考えるひとは人を手助けできるはずがなかろう。
惜しむらくは、直接担当した相談員が、「こいつと刺し違えてでもあの子を守ってあげるんだ。」という破れかぶれでもいいからそういう心持を持って欲しかったけれども、数十件も似たような案件を抱えていれば毎度毎度そんなことを考えることはできまい。
役所も会社も学校もすべて組織がおかしくなっているのだ。こんなトラブルを現場だけにいつまでも押し続けるような体勢はすぐに改革してもらいたい。
いつもこんなニュースを見るたびに同じようなことを思うのだ。
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