イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

船底塗装。

2015年08月25日 | Weblog
毎年恒例の船底塗装。秋の釣りを迎える前のメンテナンスだ。
本当は年に2回やれば常にベストの状態を保てるのだがそれには費用がかかりすぎるので7月の後半から8月にかけてはほとんど釣りをあきらめて我慢する。どうせあまり釣りもののないことだし。
フジツボが大きくなりきったころを見計らって一気に掻き落とす。水温が下がるころになると敵の成長も鈍くなるので塗料の効果もあいまってなんとか10か月あまりを過ごすことができる。

例年は工場に頼んですべてをやってもらうのだが、今年は一度、自分でやってみようと考えた。
まったく体力には自信がなく、2年前の小船の塗装で死にそうになったトラウマがあるだけにやり切れるかどうか心配だがやれるところまでやってみたい。

いつもの工場で上架。この時だけ船が空を飛ぶ。


塗料が変わった効果か、冬が厳しかったからか、船体にはそれほどたくさんのフジツボは付着していない。しかし、スクリューや梶棒にはびっしり付着している。速度が遅くなる原因の一番はこのスクリューの付着物らしい。
推力を生み出す唯一の部分の構造は戦時中一番の機密事項だったほどデリケートなものだったそうだ。そのデリケートさは今でも変わらないということか・・・。

 

午前8時に上架してもらい、フジツボを掻き落とし高圧洗浄機で水洗いし終わった時点で午前9時半。塗装が効いているのかほとんど力を入れることなくカキは落ちてゆく。(船底に付着するものはすべて“カキ”と呼ぶのがこの辺りの習わしだ。)かなりハイペースで作業を進められた。なんか、楽勝だと思えたのはここまで。腕時計が汚れるのでポケットに入れてしまったので時間の経過がわからなくなってしまったこと、亜鉛版の取り外しに思いのほかてこずったこと。
そしてなにより塗装が大変だった。全長約9メートルの船体は海面下の部分でも7メートルあまりだろうか、最大幅は1.8メートルを超えているのでそれを考えると面積は畳5枚分以上はあるのかもしれない。
それをローラーで上を向きながら塗り続けるのが根気もいるし体力の消耗も激しい。塗装を終え、スクリューとシャフトに特殊な塗料を塗り終えると午後4時を回っていた。いつの間にこんなに時間が経ってしまっていたか自分でもわからない。

仕上がりは・・・。見た目だけはなかなかなものだ。

   

細部をよく見ると、スクリューに塗ったペラクリンはプライマーの上に赤い塗料が飛び散り、梶棒のブラケットはカキの皿が残ったままだし来年は掻き落とすのが大変だ。

そして最後のダメ押しがスタンチユーブの交換で、完全にエネルギーが切れてしまった。もうヘトヘトで、家に帰って体重を計ると70㎏を切っていた。



2年前みたいに意識を失いそうなことはなかったが情けないほど体力がない。こんなことをやる資格がないのかもしれない。

改善策もたくさん考えなければならない。
意外なほど風で飛び散る塗料は眼鏡も服も強烈に汚してしまう。



シャフトやスクリューのプライマーの上にも飛び散ってしまうので養生もきちんとしなければならないし、亜鉛周りの掃除ももっときちんとしなければならない。
慣れればもう少し効率よくできるのかもしれないが、やはり1日でやり切ってしまおうとするには体力がなさすぎるのは間違いない。


翌日の今日、朝一番で引き取りに。台風15号は目前に迫っているし午前中には取引先を訪問しなければならない。


塗りたての船足はさすがに速い。1800回転でもこの航跡だ。2200回転まで上げると明らかに水面を滑走状態で飛んでいく。この状態がいつまでも続くとありがたいのだが・・・。



港に戻り、デッキを石鹸で洗って2日間のミッションを終了。



これでどこまでも行ける。(といっても半径10キロ以下だが。)
次の休みはどこまで行ってやろうか。

午前中訪問した取引先のロビーにはスーパーカーが2台ディスプレイされていた。
バブリーといえばバブリーだが、ここの社長が物づくりの素晴らしさを社員の方々に感じてもらうために買ったものだそうだ。



世間では“船を持ってます。”なんていうと、こんな車が買えるほど相当な金持ちなんじゃないかと思われてしまうのだろうが、一般サラリーマンは体力を使ってなんとかこれを維持をしている。
これが現実だが、自分の指先と体力で物づくりに挑むのは確かに素晴らしいと思える2日間であった。




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「火花」「スクラップ アンド ビルド」読了

2015年08月23日 | 読書
又吉直樹、羽田圭介 「火花」「スクラップ アンド ビルド」読了

 芥川賞作品を2編しか読んだことがない人間が芥川賞について書くのもなんだが、芥川賞作品というのは、感動させてしまったり共感されたりしてしまうともらえないのではないかと思う。
主題があってもそれは単にレトリックを完成させる材料であるだけだ。
この2編も漫才師や、老人の介護問題というのはたまたま著者の身近にあったものであっただけであって漫才師の苦悩や老人介護の先行きなどは大きな問題でははいはずだ。読む人によって、その時々の精神状態によってさまざまに感じ取ることができる、まるで能面のような作品に仕上げる。それが芥川賞だと思う。
 しかし、読む人すべてにその人だけの感想を持たせるということは多分これほど難しいものはないということもなんとなくだがわかるような気がする。
「ここで泣いてくださいね~。」って書くほうが絶対たやすいことは間違いない。

 そんな小説を書くためにはきっと法則というか、作法がきっとあるのだという前提で書かれたのが、「火花」という作品なのではないだろうか。
導入部の言い回し、章が変わるたびに挿入される情景描写はたしかにTHE芥川賞と思えるようなフレーズだ。
 マキタスポーツというタレントが、「絶対売れるJ-POPを作る法則」というものを発表していたが、どんな業界でもそんな法則が存在するのだろう。
 選考する人たちも、文芸春秋も、ある意味商売だから話題作りもしたいし、買ってほしいしというなかでは、だれもが納得できる法則で書くことができる有名タレントが出てきてそれにホイホイ乗りました。というのが本音ではないだろうか。だから少しは権威も保たねばならないというところでもう1作品受賞させたのが第153回芥川賞ではなかったか・・・。

 しかし法則だけではいけない。もうひとつ、「人間はこんなときこんな心の動きをしてしまう。」ということを、今までの誰もが考え付かなかったけどこれは多分きっとこんな心の動きってあるんだろうなということを書ききらなければならない。
 作法は勉強できても心の動きは勉強できない。ここが常人とはちがうところなのだろう。漫才師という職業はある意味、そこをもっとも得意とする人々の集団なのだと思う。人を笑わせるということは人を感動させるより難しいし、アドリブでの切り返しなんかでも相手の心のうちを読みきらないとお金をもらえるレベルにはならないだろう。(だから美人女優と結婚できたりするんだろうな。私のことをわかってくれるのはこの人だけ!ってなことになるんだ。きっと)すごい人間観察力だ。
 その中の一握りの人たちがテレビに出ることができる。週に1回はテレビで見るような芸人さんは又吉でなくてもだれでも一流の小説を書くことのできる才能を持ち合わせているということだ。あとは作法を知っているかどうか。そこが又吉のすばらしいところだと僕は考えた。
 師の作品を読みつないでいくと、受賞作というのは師でさえも後の作品に比べると物足りなさを感じる。又吉直樹はこれからどこまですごくなるのかはわからない。しかし、せっかく、「小説家で食っていってもいいよ。」という切符をもらえたのだから、芸人が書いたから売れたのではなく間違いなく小説家かとして売れているのだというような作品をものにしてもらいたいものだ。
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紀ノ川沖釣行

2015年08月23日 | 2015釣り
場所:紀ノ川沖
条件:長潮 5:50干潮
釣果:ボウズ

二匹目のドジョウではないが、夢をもう一度ということで紀ノ川沖にやってきた。
今日も出勤なので午前6時までだ。

日曜日だというのになぜか渡船屋さんは休業。だれもいない真っ暗な港は台風のうねりがあるかもしれないという心配、船足が遅くなってしまっているので何かがあれば引き返すことが大変になるぞというもうひとつの心配でで恐怖心を醸し出す。
しかし、風はまったくないので暗い海の中へ船を走らせる。

港内は波があったものの青岸を越えるころには波はなくなったがこんどは少しうねりがある。
いつものテトラ場も水面が大きく上下している。
とりあえずリップレスミノーでスタート。
今日はアタリもないしボイルもない。
碇をずらしながら船を水の流れにまかせてキャストを繰り返すがやっぱりアタリはなく予定通りに午前6時に終了。



帰り道、港内ではトンビとウミネコが頻繁に水面にアタックしている。嘴や足には小さな魚が捕らえられている。ベイトはたくさんいるのだろうが、スズキはどこに行ったのだろう・・・。




雑賀崎の避難港にはすでにたくさんの漁船が避難してきている。



長潮が悪いのか、うねりが悪いのか、いやいや、腕がわるいのだ・・・。
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紀ノ川沖釣行

2015年08月18日 | 2015釣り
場所:紀ノ川沖
条件:中潮8:00満潮
釣果:セイゴ65センチ1匹 フッコ(ヒラスズキ)2匹

今週は休みを1日入れるのを忘れていた。今日しか入れる日がないのでとりあえず入れてみたが、すでに予定を入れているので休むわけにはいかない。
前回もボウズだったが勝負が早いスズキを懲りずに狙ってみることにした。

同僚のルアーマンたち曰く、「雨の後は川が濁って絶好のチャンスですよ。」
いままでは真水が出て釣れないのではないかとおのずから河口に近づかなかったが、どうせボウズになる確率が高いのなら新しい試みで玉砕してやろうじゃないかと半ばやけ気味での出撃を決めた。

午前4時出港。
ポイントに到着したころに周りの景色がはっきり見えるくらいに明るくなってしまっていた。
小船のほうも推力が半分くらいになってしまっている。

同僚の指示通り、ボイルがなければリップレスミノーでスタート。
開始10分くらいだろうか、アタリが出た。
小さいながら獲物だ。それもよく見たらヒラスズキだ。紀ノ川にも生息しているのだ。
明るくなるにつれ魚のボイルが単発的であるが出てきた。ボラではなさそうだと思ったのでトップウオーターに変更。
まもなく65センチがヒット。
もう1匹釣り上げて、もうひとりの指示であったバイブレーションを試してみる。
これは残念ながらアタリなし。ボイルは続いているので再びトップに変更。
アタリは出続ける。フックアップには至らないが、水面を割ってルアーを吹っ飛ばす豪快なアタックはあせりとなんともいえない衝撃を与える。ときにルアーは30センチ異常の高さまで跳ね上がる。
あせりはあせりを呼び、ドキッとする衝撃はさらにそれを増幅させる。
ウォルトンの、「静かなることを学べ」という教訓をまったく実戦することができない。

しかし、これだけのときめきを味わうことができれば満足だ。

午前6時に切り上げて帰宅。今日も定時に出勤。
午後からは商談のため石の墓場のような都会へ。
石の墓場どころか、墓石のデザインをパクっているの(最近流行りの)ではないかと思えるようなビルのなかで、実現するかどうかわからない商談に臨むのであるが、どうも違和感がぬぐえない。
1年余り前までは毎日このビルの中で仕事をするふりをしていたのだが、この感覚は僕が本来の姿に戻りつつあるのだと好意的に受け止めてもよいのであろうか・・・。

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「荒野の釣師」読了

2015年08月15日 | 読書
森秀人 「荒野の釣師」読了

「荒野」とは、ヘラブナ釣りを主とする著者が釣り堀の対極として呼ぶ野釣りであって、そのなかでも有名なポイントばかりを釣り歩くのではなく自ら新しい釣り場を開拓したそんな場所をそう呼んでいる。
そしてそんな荒野に身を置き、釣果は二の次でたとえば全力を尽くすことに意義を覚えたり、魚との対話を重んじる。
ウォルトンの「釣魚大全」の訳者でもある著者ならではの見解だ。愛は惜しみなく奪うが、何も与えたまわない。そういうことだろう。
それが釣りへの愛ということなのであろう。そうでなければ眠い目をこすりながら寒い屋外に出て行く気にもならないということだ。

釣りとは「瞑想的人間のレクリエーション」である。とウォルトンは大全のなかで書いている。そして、静かなることを学べとも。
しかしながら僕は妄想的人間だ。魚は釣れなければ困る。それもコストをかけずに簡単に。クーラーがいっぱいになるまで・・・。
こういう本を読むたびに本当に魚釣りが好きなのかどうかということも自分でわからなくなる。釈迦は欲望がすべての苦悩の元であると説いている。それならば魚を釣りたいという欲望を捨てるほうが心穏やかでいられるはずではないのか・・・。
しかし、あの不意に襲ってくる魚のアタリを一度味わってしまうともうダメだ。これは麻薬のごときものなのかもしれない。すべてのものを捨て去ってもそれに溺れてしまう。

だから愛があろうがなかろうが、柳生一族の陰謀の名セリフ、

「裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや」

てな具合に、悪魔に魂を売り払ってもいつでもどこでも魚を釣ることができるような釣師になりたいと切に願うのだ。

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水軒沖釣行

2015年08月15日 | 2015釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 6:18満潮
釣果:ボウズ

翠勝丸の出撃は半月ぶりだ。8月も台風の波や世間の波のおかげでなかなか海にでることができなかった。
そんな時を過ごしているあいだに熱帯夜はおさまり、東の空の真ん中あたりにはすばるが輝いていた。
空気は秋で星空はすでに冬に向かいつつある。

この時期に2週間も船に乗らなければ、船底に新しい生態系が生まれ速度が異常に落ちてしまう。チョクリに行こうにも燃料の消費量が著しい。キス釣りに行こうにも今日はインターハイのヨット競技がポイント近くでおこなわれる。
ということで去年行きそびれたカマスを狙ってみることにした。
午前4時過ぎに港に行ってみるとリタイヤ3人組の船がすでに出港していた。これはひょっとしてカマスが釣れるのかと期待しての出港だったが、結果はまったくカマスのアタリはなく小さなマルアジが食ってくるだけだった。
オジイヤンズの船は水軒沖には見えず、どこか別のところで仕掛けを下ろしていたようだ。
情報不足ではやはりこんなものだろう。

まあ、朝のひととき、清々しい時間帯の散歩代りのクルージングだと思えばこれはこれで納得できるとしよう。
それにお盆だから殺生も慎まなければならないし・・・。



波風はまったくないものの、たくさんの流木が海面を漂っていた。
紀ノ川から流れてきているのだろうか?
和歌山市内はずっといい天気が続いているが上流のほうでは相当な雨が降っていたのだろう。このおかげで紀伊半島は水に困ることがないとしたらこれはこれでありがたいものだ。

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「伊勢丹・ストーリー戦略」読了

2015年08月05日 | 読書
川島 蓉子 「伊勢丹・ストーリー戦略」読了

この本に書かれてあることなんか当たり前のようにわかっている。多分、この業界に身をおいている人々ならそれが理想であると全員がわかっている。
じゃあ、なぜそれができないのか?
それは企業風土なのか、情熱なのか、無能なのか、それらのすべてなのか・・・。
すでに決まってしまっている序列というものは間違いなくある。あのような売り方ができるのは多分大都市圏で1店舗だけだろう。新宿には高島屋、小田急、京急、マルイも入れれば5店舗あるが、セールのこの時期に商品を山盛りで売っていないのは伊勢丹と高島屋だけだ。この地域での高島屋は負け組みとされているからこの商圏では伊勢丹だけが店頭にワゴンを1台も入れずにセール期間を戦える。
長く維持してきた伝統がなせる業だろう。だから客筋もいい。昨日、くしくもこの店の周りを歩いていたが、駐車場から出てくる車はほぼすべてが左ハンドルでしかも女性が運転している。こんな客だから売り上げを維持し、投資もできる。
それを他の百貨店が真似できるはすがない。伝統というものはそんなものだろう。
ウチも昨年、そんな真似をしようと日本で一番大きな店を作ったが、はたして役員ほか幹部の方々のどれくらいのひとがそれを成功させることができると考えていたのだろう。
仕掛けを太いものに替えてもそこに泳いでいる魚がいままでと変わっていなければ食ってくるはずがない。釣り人は魚を求めて移動することができるがお店の場所を移動させることができない。新しい伝統を作ろうとしても中期計画だ四半期の利益だとあおられたらじっくり取り組むこともできない。そもそもマーケティングというものがわかっていない集団がどれだけ集まっても顧客のニーズを満足させることはできないのだ。

“社畜”という言葉があるそうだ。「勤めている会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷(家畜)と化したサラリーマン。」という意味だそうだ。本社からやってきた経営者の方々はそんな社畜をうまくコントロールしてくれるのだろうか。
僕には関係ないと思っている僕もまったくの社畜になってしまっている。
マーケティングや経営の勉強(らしきもの)をすればするほど僕は経営者にはなれないと思うようになった。だからこれ以上の出世というものも期待できないし希望する資格もない。まあ、今の部長クラスでもどれだけの人が経営やマーケティングのことがわかっているのかは疑問だ。そもそもそれだけ優秀な人々の集団であるならば配当も昇給もきちんとされているはずなのだから。
幸いなことに、こんな社畜でもリストラもされずになんとか会社にしがみつかせてくれるというのはある意味いい会社に雇われている。
役員から恐ろしいことを求められるくらいなら、出勤前に魚釣りに行き、心の中で評論家ぶって会社の現状を無責任に憂いているほうが面白いというものだ。
ただ、少しだけの矜持をもちながら・・・。

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双子島沖釣行

2015年08月05日 | 2015釣り
場所:双子島沖
条件:中潮 3:30干潮
釣果:ボウズ

今日も午前中だけ出勤。
時間がないのと、お盆までは双子島の沖でスズキが釣れるという理論を立証すべく今日も小船を駆って夜明け前に出船。
昨日は数年ぶりの東京出張。
6年半ぶりの東京だ。飛行機で行くのは8年ぶりだ。早い目に帰宅はしたもののさすがにしんどい。昨日の東京は猛暑日だった。

前回はちょっと島に近寄り過ぎたので少し沖目で停泊。
暗いうちからキャストを繰りかえすが今日もアタリはなかった。たまにカマスがまとわりついてくるだけだ。
しかし、これだけ釣れないと8月のお盆までは双子島でスズキが釣れるという理論は間違いと判断すべきだろうか。
先代の翠勝丸に乗っている頃からこの理論でスズキを釣り上げていたのだが・・。
時代は移り変わってゆくか・・・。

移り変わってゆくというと東京の街も6年間で相当変わってしまっていた。
新宿では線路の上に大きなビルができつつあり、




釣具屋が集中している、僕にとってはゴールデンクロスというべき渋谷の交差点にも大きなビルが出来上がっていた。
仕事のために出張しているのにどうして釣具屋めぐりをしているかという質問には答えない。
でも、こと、釣具に関しては都会より田舎のほうがはるかに品揃えがすばらしい。SA△SUIよりも上○屋よりもM▽X、マル○シだ!!
僕はここに、魚釣りをすることにおいて地元ほどすばらしいところはないということを再認識するためにやってきたのだ!!

 



しかし、石の墓場のような都会は嫌いだ。



暑いながらもなんとなく涼しい風が吹き渡るこんなところがうれしいのだ。

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「地獄の思想」読了

2015年08月02日 | 読書
梅原 猛 「地獄の思想」読了

地獄の思想と聞くと、「悪いことをしたら死んだ後、地獄に堕ちて、エンマ様に舌を抜かれるのだ。」という子供の頃に聞いた話を思い浮かべるが、天台宗の基本の考え方ではそれは心のおりなす世界のひとつであるという。天台宗第三の祖智(ちぎ)によればその世界は地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十在るという。その中のひとつが地獄というものだ。要は死後の世界ではなくて現実世界のなかで感じたり置かれたりする状態である。
日本の仏教宗派の開祖のほとんどは延暦寺で学んだ僧侶であるから、この十界をどう解釈するかで、「悪いことをすると地獄に堕ちる。」という考え方が生まれ、子供や学のない大人に道徳みたいなものを教えるのに好都合だからこうなったと考えるべきだろう。

もともと、釈迦が教えた仏教の思想は、生きるということは苦しむことだ、そしてその原因となるものは欲望である。そこから逃れるためにはその欲望を捨て去るしかない。そのために修行をしなさい。というのがおおまかな内容で、死後の世界についての言及はなかったそうだ。
ただ、その内容がネガティブというか楽しそうではなかったことが、地獄というものを生み、因果や輪廻という考え方と相まってだんだんと僕達が子供の頃に聞いたかたちになってきた。

人の心の中にある世界。確かに苦境に立たされれば地獄を見たと感じ、人をうらやみ、また恨むと自分が畜生になった気持ちになる。なるほど、そういう気持ちを行ったりきたりするのが人生なのかもしれない。
そして著者はその思想が日本人の心にどのように影響したかを分析している。
“生の暗さを凝視する”ことを愛することになったという。それが古来から存在した命を賛美する自然信仰、初期仏教の唯識論と相まって深く豊かな精神論を育んだという。
後半は源氏物語、平家物語、能、太宰などを例にとりながら日本人の心に受け継がれてきたこの精神の流れを立証しようとしている。

多分、クールジャパンというものもこの流れを汲んでいるから外国人からものすごく魅力的に見えてしまうのだろう。アメリカンコミックにはない、底の底のほうに何かが隠れているのかもしれないストーリーはやはり日本人にしか思いつくことができない物語のような気がする。
仮面ライダーは修羅の世界。カラフルな戦隊ヒーローは人の心の裏と表を浮き彫りにする太極の世界に見えなくもない。輪廻の世界を描いたストーリーもあったりする。

この本は宗教の本ではないので、それを知ることによって人はどう生きるべきかということは書かれてはいない。少しだけわかるのは自分が悲観主義者だと思うのは自分がペシミストなのではなく、この国自体がそうなっているのだからもう少し気楽に物事を考えればいいのではないかということだ。
どうすればいいのかはやっぱりわからないままなのではあるのだが・・・。


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双子島沖釣行

2015年08月01日 | 2015釣り
場所:双子島沖
条件:大潮 6:17満潮
釣果:ボウズ

僕の理論では8月1日から15日まで、この場所でなぜかスズキが釣れる。そしてなぜかこの期間しか釣ったことがない。“なぜか”なので理論でもなんでもないのだが・・・。
去年はこの期間、天気が悪くて出撃はならなかった。
今年こそはスズキを釣ってフィレオフィッシュを食べるのだ!

一昨年は真っ暗な中で釣り上げたので今日も午前4時に出港。
ルアーの着水地点がわからない状態でトップウオーターをキャスト。
夕べの満月は先月の2回目の満月でブルームーンと呼ばれるそうだ。



多分魚がいれば食ってくるのだろうが、アタリがない。そうこうしているうちに雑賀崎の渡船屋が目の前の磯に釣り人を渡してしまった。
こんなところで何を釣るのかと思えるようなところなのでこの人たちは騙されているのではないかといぶかしくなってくる。そして邪魔だ。僕はそこの磯際についているであろうスズキを狙っているのだ!
移動できるほどの時間はないのでそのまま続行。
明るくなってきたのでトップウオーターをやめてペンシルベイトに交換。
レンジを深く探っているとアタリがあった。竿にはかなり重みがかかったので乗ったと思ったがすぐに外れてしまった。直後に水面にジャンプした魚は50センチくらいのサイズだろうか。
残念だ。
その後、潮の向きが変わりゴミが大量に流れてきた。こうなるとダメなんだろうなということで午前6時に終了。

魚が釣れずに早朝に終了してしまった日はいつもこのスーパーだ。
26円のサイダーと53円のアイスクリームを空っぽのクーラーに入れて帰宅した。



獲物がなかったとはいえ、アタリはあった。次につなげる釣行となった。



月初なので恒例のお稲荷さん。そのためだけに今日も出勤。坊主の日は足取りも重いのだ・・・。

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