イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年09月30日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:大潮6:27満潮
釣果:タチウオ3匹 アオリイカ1匹

昨日は中秋の名月、今朝見えている月も中秋の名月だ。例年、中秋の名月は満月ではないらしいが、今年は完全な満月だそうだ。今見ている月は厳密には数時間時間が進んだ分、少しだけ地球の影が満月を欠けさせているのだろうが、ほぼ満月なのだろう。



そして、今年の中秋の名月は半月ほど遅れている。3月から4月にかけて、旧暦の閏月が入っていたからであるが、今年はその通りで季節が後ろにずれこんでいる感じがする。猛暑や魚が釣れないというのはこのことが原因だったりするのだろうか・・。



しかし、それが悪いのか、タチウオのアタリはまったくない。先週の火曜日とは大違いだ。
今日もここが本命だろうと思う青岸の灯台の前はまったく不発だ。その前にアタリがあった一文字のベンド部分の前に戻ってみるがほとんどアタリがない。アタリがあってもすぐに魚は外れてしまう。鉤には乗らない。おそらく魚はいることはいるのだろうが、活性がかなり低いのだろう。月明かりが明るすぎてタチウオたちにとってはずっと日中が続いていると錯覚でもしていたのだろうか・・。
最低10匹は釣らねばと思うけれどもそれは遠き夢だ。辺りはどんどん明るくなり万事休すだ。たった3匹。まあ、1匹だけというよりもましであるか・・。

次はアオリイカを狙いに行く。これも年に1回も行かず、結局まったく釣れないというのが数年続いている。
今日も気まぐれに行ってみようと感じで道具を準備した。古くなったエギは環が錆びてしまっていた。
本当は新々波止のテトラの際でやってみたいと思っているのだが、碇が抜けなくなってしまうのが怖く、期待があまり持てない双子島と大島の間の小湾に行こうと針路を向けていたのだが、ふと、地の一文字の付け根あたりはどうだろうかと思いついた。



ここは護岸がテトラポットで塞がれてしまうまではヤエンのイカ釣りのひとたちがたくさんいたところだ。
水深もそこそこありそうだし、なによりも近いから楽ちんだ。

この勘が功を奏したか、エギを投げ始めてすぐにアタリがあった。実に4年ぶりのアオリイカだ。

こんなにすぐにアタリがあったということは、今日はひょっとして爆釣じゃないかと思ったが、いつもとおり、そんなに世に中は甘くはない。その後はアタリはなく、午前7時過ぎに終了。

港に戻ると、Fさんが船の補修をするためにやってきていた。
彼はエンジニアで、機械もので修理できないものはないのではないかと思えるほどなんでもできる。今日の船外機は不機嫌の絶頂のような感じでエンストばかり起こしていたので、一度診てもらった。
このエンジン、僕はずっとインジェクション方式だと思っていたら、このエンジンにはキャブレターが付いていますよと教えてくれた。



前のオーナーさんはかなりの金持ちだったので、ヤマハで最も高いエンジンを買っていると思っていたので疑うこともなくインジェクションのエンジンだと思い込んでいた。僕はそれほどに機械には疎いのである。
譲ってもらってから9年、一度もオーバーホールをしたことがないと話すと、不機嫌の可能性としてはここが高いですよとのことであった。
なんだか少しだけ光明が見えてきたような気がする。

症状を伝えて続けてきた池〇マリンのお兄ちゃんは多分、そういうことに気がついていたのだろうが修理をすることには対して面倒なのか乗り気ではなかったのだろう。今度は修理に前のめりなメカニックさんを探して依頼をしてようと考えている・・。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口~加太沖釣行

2023年09月26日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:中潮9:58干潮
潮流:6:22転流 10:24上り2.6ノット最強
釣果:タチウオ18匹 真鯛1匹 ツバス4匹

今日もズル休みだ。定年退職まで残り5ヶ月。できるだけ使わねば損だ。今の状況ではたとえ残しても最後に有給消化はできなさそうなのである。

せっかくの平日釣行であったが寝過ごしてしまった。気がつけば午前4時が目前だ。遅くとも午前5時にはポイントに到着していなければならない。だから今日もウ〇コを出せずに午前4時過ぎに家を出た。

出港時刻は午前4時57分。キリンクレーンのかなり手前で南海フェリーが入港してきた。焦る気持ちと、紀ノ川の濁りはまだ続いているようなので港内がいいのではないかと思いキリンクレーンの前から仕掛けを流し始める。だから、僕の予想では港内からアタリが出始めるはずであったがいっこうにアタリは出ず、東の空がかなり明るくなってきた頃、いつもの青岸の灯台の前に差し掛かったところだった。やっぱりここがポイントだった。そこからはアタリラッシュだ。多分、今年一番のアタリの多さではなかっただろうか。今日は加太へ向かうので4、5匹もあれば十分だと思っていたのだが、アタリが出てくると欲が出てくる。小さくて掛かりどころのよかった魚は放流しながら釣りを続ける。
今日は明るくなってもアタリは止まらない。



これは平日のなせる業なのか、それともたまたまアタリが多い日なのか・・。まだまだタチウオは釣れそうだったがさすがにこれ以上は必要がないので加太を目指す。

今日の加太の釣りはカワハギがメインだ。大波止の前から仕掛けを下ろすがカワハギはアタってこない。チャリコやササノハベラばかりである。場所が悪いのか、転流時刻に入った潮が悪いのか、まったくわからない。何匹かチャリコが掛かったあと大きなアタリ。30cmを少し超えたくらいの真鯛であったがあまりうれしくはない。真鯛は高仕掛けで釣ってこそなのである。

その間、魚探には中層にたくさんの反応が出ていた。これはきっと真鯛の反応に違いないと思い、高仕掛けへ仕掛けを変更。
しばらくして大きなアタリがあった。この変更は吉と出たかとおもったが、よく引くのは4匹いっぺんに掛かったからであって、ひとつひとつの魚はハマチとは言い難いハマチであった。
その間に潮の流れは速くなり高仕掛けでは太刀打ちできなくなってきた。午前9時には釣りを終えたいとも思っていたので残ったエサを使うべく再びカワハギ仕掛けに変更したがこれも底が取りづらいほど流れが速い。アタリはあるもののやっぱりベラしか釣れない。
午前9時までにはエサを使い果たしたのでこれで今日の釣りは終了。



テンビン仕掛けのハゲ釣りについての考察だが、持って帰れない魚が掛かるとほとんどは鉤を飲み込んでいるので生きたまま放流することができない。僕は心優しき地球人ではないがやっぱりそれは心苦しい。たとえ魚が釣れなくても何年ぶりかで再び胴突き仕掛けに変更してみたいと考えている。

ツバスのほうは、あまりにも小さいので持って帰るのは1匹だけにした。写真は全部の魚を写したいと思うのだが、魚が暴れるのでうまく撮れない。結局、1匹は生簀の中に戻ってしまった状態でしか写すことができなかった。

港に戻ると、目下のところ一番北に係留している船のおじさんが自船の下に潜ってなにやら作業をしている。ロープでも巻き込んだかと思ったら、スクリューに付いたフジツボを取っていたらしい。この時期になるとみんな同じ悩みを抱えていて、今年は特にそれが酷い。このおじさんも速度が落ちたのでたまらなくなって潜ったらしい。しかし、きれいとは言えない水の中に潜るというのはかなりなものだ。この人の船はまったく僕の船と同じ構造をしているので僕がやっているように、点検用のハッチから掻き落とせませんかと聞いたら、潜るほうがきれいに落とせるという返事だった。
なかなかの完璧主義だが、釣りにも完璧を目指しているようで、高仕掛け用のビニールは別注で作っているそうだ。そういえば、メバル用のサバ皮は20年くらい寝かせたものを使っているとも言っていた。ビニールは別注というか、メーカーに機械を借りて自分たちで色を調合しているという。それも、岡山県まで行ってそれをやっているらしい。僕も、変な薬を買ってきたりして、いつでもどこでも確実に釣れる秘策はどこかにあるものだと信じて疑わないのだが、そんな思いでいろいろな工夫と投資をやっている人はどこにでもいるようだ。
そして、きっとタチウオについてそんな方法を見つけてしまったというのがMさんだ。この人は僕の港に係留しているTさんの友人なのだが、いろいろな釣りに精通している。タチウオについても相当なもので、昨日の釣果は68匹だったそうだ。僕の最高記録を軽く超えている。

今日のタチウオ釣りでは相当釣ったと思っていたけれども上にははるか上があるということを思い知り、いつでもどこでも確実に釣れるという秘策はきっと実在するのだと確信もしたのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

燻製作りとはなふりの夕日と船底塗装

2023年09月24日 | Weblog
昨日はあさから燻製作り。今回は調子に乗りすぎてタチウオ15匹とサゴシ1匹(18日に釣った魚全部)を仕込んでしまった。乾燥させるのも冷蔵庫の中を占拠して大変だったが燻製箱へのセットも大変だ。フックにひっかけていては全部収めることができないのでいつも使っている鉄筋にアルミホイルをまいてぶら下げた。なんとかギリギリで治まって燻す作業をスタート。



休日の朝早くから煙を出して近所迷惑だと言われないように慎重に豆炭をいこしてチップを投入。いつもはおまけとしてゆで卵とチーズを燻すのだが、卵は値段が高くなってしまっているので、今回はポテトチップスと柿の種をやってみた。
どちらも脂を含んでいるのか、あまり色は変わらなかったがほんのりと煙の香りは付いた。
ものすごく美味しいというわけではないが、ひと味違うポテトチップスと柿の種になった。



午後からは映画を1本観て雑賀崎の灯台へ。雑賀崎の伝説で、「彼岸の中日の夕日は“ハナが降る”ように見える。と言い伝えられている。この、“ハナ”というのは一体何なのかというのは昔から全然わからなかったのだが、カレンダー通りの休みになったし、草刈りの人たちも集まってくるというので僕もその、“ハナ”の正体を見てみたいと思った次第だ。

最初、集合場所はトンガの鼻だと思っていて、先端部分まで行ったら誰も居ず、ああ、これは灯台の方だなと思い直してバイクのところまで戻ったのだが、お昼過ぎに一杯飲んでいたのに加えてデコボコ道を急いだせいで足が動かなくなってしまった。(一応、酔いは醒めていたはずである・・)
道中、船の燃料補給もしていたので太陽はどんどん海に向かっている。



だから急いでいたのだが足と心臓が言うことを聞いてくれないのである。

動かない体に鞭を打って灯台までやってきたが、あいにく雲が多くて夕日を見ることは叶わなかった。午後3時ごろには太陽が出ていて、これはきっときれいな夕日が見えると思っていたが残念だ。



しかし、ここへ来るときは必ず台風の時であり、荒れた海しか見ないのだが、穏やかな海で航海灯をともした貨物船や灯りが灯った旅館、マリーナシティもきれいな景色だ。こんな時間帯に出歩くことはまずないので、夕日は見えなかったがきれいな景色を見ることができたということはこれでいいものであった。

  

ついでに「和歌浦夜市」というのをやっていたので見に行ってきたが、ここはこの程度の屋台でどうしてこんなに人が集まるのかと思えるほどの人出だった。




そして翌日の今日、発作的に小船の船底塗装をすることにした。金曜日の紀ノ川は前日の線状降水帯の発生で茶色く濁っていてこれではまったく釣りにはならないだろうというのと、やっと猛暑を脱したか、朝はちょっと寒いくらいになっていたので体力的にも楽だろと思い、早く動かない船からも脱さなければならないので重い腰を上げたというわけだ。



こういう作業は、もう嫌だと思ってしまうとそれっきりになってしまうのでそういう気持ちから背を向け続けなければならない。実はそれが一番しんどいのである。

潮は長潮で朝一が干潮だ。まあ、大潮ではないのでそれほど潮は引いていないだろうと思ったらえらく引いてしまっている。潮位65cmというのはここまで潮が引くらしい。よく覚えておかなくては・・。
ここまで下がるとスロープが崩れているところがむき出しになるのでコロをかましても引っ張り上げることはできない。もどかしい時間を過ごすが、なかなか潮は上がってこない。
待ちきれずに作業を開始。なんとか引っ張り上げることはできたが、今日は危険な作業だった。
今日は潮が上がってくるのが遅い。満潮時刻は夕方4時だ。長潮というのはその名の通りだった。普段は魚が釣れない潮だというくらいにしか認識をしていないが、じっくり見ていると確かにそういったことを実感する。



そういうことで、30分以上待ち時間があったこと、フジツボの付着が多すぎたこと、そして結局、涼しいのは早朝だけだったので、作業は遅々として進まずすべてを終えたのは午前11時を回っていた。

 

なんだか疲れた二日間であった。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「量子力学で生命の謎を解く」読了

2023年09月22日 | 2023読書
ジム・アル-カリーリ、ジョンジョー・マクファデン/著、水谷 淳/訳 「量子力学で生命の謎を解く」読了

この本は、「量子生物学」という分野について書かれた本だ。生物の生のメカニズムに、量子のなんとも奇妙な振る舞いが関わっているというのである。究極の物理学と生物学にどんな関連性があるのだろうか・・。

この本は、まず、量子生物学の発展(しているのかどうかは知らないが・・)の歴史から始まっている。
その端緒は、デカルトの「動物機械論」であるという。その流れで、意外にも物理学者が生物学に関する論文や著作をたくさん発表している。その最初は、パスクアル・ヨルダンという物理学者が1932年に書いた、「量子力学および生物学と心理学の基本的問題」という論文が最初であったと言われる。その後、1943年にエルヴィン・シュレーディンガーによって「生命とは何か」が書かれる。 そこには、生命とは、「無秩序から秩序へ」動いてゆくものだと書かれているが、著者たちはその原動力こそ量子効果にあると考えている。

時代は進み、1953年にはDNAが発見され、分子生物学が生まれ、生物反応はイオンによる電子や陽子(水素イオン)の受け渡しによって進んでいくということがわかってきた。高校生のときに習った、ATP回路とかクエン酸回路というのはまさにそういうことが行われている場である。

この本では、酵素反応、生体コンパス、嗅覚、光合成、DNAの突然変異、意識の発生源、生命の起源、そして生物の生と死さえも量子効果がかかわっているというのである。
量子効果というと、この本では「不気味な効果」と書かれているが、「トンネル効果」「重ね合わせ」「量子のもつれ」というものであるが、例えば、酵素の働きは量子のトンネル効果、生体コンパスは量子もつれ、嗅覚や光合成はトンネル効果、DNAの突然変異は量子の重ね合わせがそれぞれ働いているという。
生物の生死にいたっては、生命というのは、量子の世界と古典的力学を貫くキールを持った船のようなものであり、そういった力学の上に浮いているものであるというのである。
まるで、ミノフスキー粒子の上に浮かぶ宇宙戦闘艦ような空想の世界なのではないかと思えてくるのである。
こういった効果が働くことによって小さなエネルギーで効率的に生命活動を維持できるというのであるが、限りなくミクロな世界の働きが生物、特に哺乳類なんて相当大きな体を持っているがそれを動かす原動力になるのだろうかというのは素直な疑問だ。
それよりも、相分離生物学のように、細胞内の濃度の偏りが生命を動かしているという考え方のほうが受け入れやすいと思うのは無知な人間であるが故だろうか・・
神経の情報伝達やエネルギーを生成、伝達する部分ではイオンが介在し、それは電子や陽子(水素イオン)の移動ともいえるから、それは確かに量子(=電子)の働きであるのでそこは量子生物学だと言えないこともない。しかし、それよりももっと特殊な環境でしか見えない効果がジメジメ、ヌメヌメした生物の体の中で働いているというのはやっぱり理解ができない。
少なくとも、素人がわかるようになるにはこの学問がもっと深く解明されないことには無理なような気がするのである。
そして、生物学にOO生物学という風にたくさんの分野があるようだが、どうもこの、量子生物学というのはあまり生産的ではないように見える。例えば、「相分離生物学」は創薬に大きな貢献をしているし、遺伝子生物学は食料増産やエネルギー問題に貢献している。それに比べて量子だけにあまりにも細かすぎるようである。
そこまで生物を細かく見る必要があるのかと思うけれども、近い将来、人間とコンピューターを直接つなぐような時代を迎えるためには必要になってくる学問であるのかもしれない。

この本が書かれたのは2014年だそうだが、それから約10年、量子生物学というのはどういった発展をしているのだろうか・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口釣行

2023年09月18日 | 2023釣り
場所:紀ノ川
条件:中潮7:54満潮
釣果:タチウオ15匹 サゴシ1匹

3連休は全部タチウオ釣りに費やしてしまった・・。
とりあえず目覚まし時計はセットしておいたのだが、さすがに三日連続は辛いな~ともう一度寝ようと思ったものの、今日、釣ってこないと燻製が作れない。ソミュール液に1日半、乾燥に3日なので土日だけが休みだと1日多すぎる。以前、サバを燻製したとき、ソミュール液に漬ける時間が長すぎて液が濁ってしまうということがおこった。だから、月曜日が休みという今日はまたとないチャンスなのである。いやだいやだという体にムチ打って家を出る。

この三日間、とにかく星空がきれいだった。昨日は金星が目立っていたが、今日は冬の大三角形が美しい。



まあ、こういう景色を見ることができただけでも早起きをした甲斐があったというものである。

昨日は少し早く出過ぎたので今日は10分ほど遅く出港。青岸に差し掛かる前にフェリーが入港してきた。



よし、これだったらすぐにアタリが出るぞと思ったが最初のアタリはそれから15分後だった。なんだか日に日にアタリが遠のいている感じがする。活性が悪いのか、アタリがあっても鉤には乗らないし掛かってきても1匹だけの場合が多い。最低でも12匹を釣りたいのだがなかなか数を稼げない。魚をストックするプランターの中を眺めながら仕掛けを流し続ける。それでもなんとかこれで二桁いったと思ったところで今日もアタリがストップ。最後にサゴシが来たのでこれで打ち止めかと港に戻った。
早く帰ってこれを三枚におろさなければならない。タチウオは白身の魚でありながら脂質を20%も含んでいるそうだ。だから、包丁がすぐに切れなくなってしまう。昨日のうちに包丁を研いでスタンバイしていた。



それでもすぐに切れ味が悪くなる。包丁の同じ場所を背骨に当てながらおろしてゆくので余計に切れ味が悪くなっていくのかもしれない。まあ、包丁の基本性能もたいしてよくはないのであるが・・。
約1時間、全部の魚をさばき終わってソミュール液へ。



さて、今年はうまいことできるだろうか・・。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口釣行

2023年09月17日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮 7:18満潮
釣果:タチウオ13匹

昨日釣った20匹のタチウオだが、草刈りに来ていた人たちに全部差し上げてしまった。叔父さんの家に持って行く分くらいは残してくれるかと思っていたら、見事全部持って行かれてしまったのである。
さすが、昭和時代前半生まれ、しかも漁港育ちの人たちは厚かましい。しかし、そういう厚かましさは大歓迎である。みんな、タチウオは美味しいし、新鮮なタチウオは貴重だということを知っているのだ。
そして、自分の食い分と叔父さんの家に持って行く分と小船の性能維持を兼ねて今日も出港だ。
元々は、連休の中日だし、一服しようかとも思ったのだけれども目覚ましをかけていなくてもきちんと目が覚めてしまったのでそのまま出発の準備をしたのである。

目下のところ、夜明け前の東の空には金星がものすごく明るく輝いている。-4.8等星の明るさだそうである。




電気ウキを探しながら青岸方面へ向かう。1個確保。
今日も出だしは悪い。東の空が暗い間はまったくアタリがない。フェリーが入港してきてから少し経つと今日も怒涛のアタリラッシュだ。
不機嫌なエンジンはいつも以上に不機嫌で、低速走行ではすぐにエンストする。おまけに傷がついた幹糸の補修部分に疑似餌のヒラヒラが絡まってしまった。短い時合を気にしながらそれをほどいていると、その先のひとつだけ海水に漬かっている鉤にタチウオが喰いついてくる。トラブルがなければあと少し追加できていたのだが・・。
この時間のロスと不機嫌なエンジンと手返しの悪い狭いデッキを考慮すると昨日並みの活性というところだろうか。紀ノ川河口のタチウオはやっと本格的な季節を迎えたという感じだ。

しかし、今日もその時合は本当に短い。今日なんか、アタリが続いた時間というのは実質20分くらいだったのではないだろうか。まあ、短時間で釣りが済むのでそれはそれでいいのかもしれないが・・。



港に戻って栗の木のもとへ。



そろそろ食べごろかと思って採ってきたがまだまだ熟しかげんは足らないようだ。イガを剥いてみるとまだ白いところが残っていて下のほうはイガと癒着したままだ。これは失敗した。しかし、熟すのを待っているとコンペティターがやってきて盗られてしまうのだから気が気でない。

叔父さんの家に魚を持って行くと、本家の義理の叔母さんが亡くなったということを聞いた。一人暮らしなので施設に入っていたと聞いていたが、ひっそりと亡くなってしまっていたらしい。葬式もひっそりと執り行って叔父さんが知ったのも葬儀のあとだったらしい。
こういう時代になったのだなと改めて思い知る。
そんな話の中で、父親の弟の話題になった。父親の兄弟も、叔母さんとこの人だけになってしまっている。この叔父さんは僕の家の二区画ほど先に住んでいるのだが、あまり交友がない。この人も独り暮らしで水軒の叔父さんの家とはよく行き来していたのだが、最近はまったく音沙汰もなく、電話をしても通じないという。そんなことを聞くと僕も知らんふりをしていられない。
とりあえず家を訪ねるが鍵がかかっていて中の様子はまったくわからない。子供が4人もいるけれどもまったく世話をしていないのか、植木は伸び放題で家の所々は破損したままだ。
世間と隔絶して生きるというのは僕の理想ではあるのだが、周りはきっとやきもきすることになるのだろうなと思うのである。


遅ればせながら、阪神タイガースの話題(僕はタイガースのファンでもなんでもないのだが・・)。
なぜだか知らないが、いつも燃料を買っているガソリンスタンドが優勝セールを始めた。



まあ、元の値段がどんどん上がっているので安くなったといっても錯覚でしかない。
多分、ふた月前だと値引き後の値段よりもさらに安かったのではないだろうか。
それでも値引きをしてくれるのはありがたい。船外機の燃料とバイクのタンクを満タンにした。しかし、残念なことにそれだけ入れると2300円を超えてしまった。
タチウオ13匹ではまったく割りに合わないのである・・。

そしてもうひとつ。
エンジンの洗浄用に新しいギミックを導入した。



総投資額は3000円ほどになってしまったが、これはなかなか効率がよい。100均の水鉄砲からやっと卒業できるのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年09月16日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖釣行
条件:大潮6:45満潮
釣果:タチウオ20匹

今日は月に1回の草刈りの日である。それまでの釣りだ。まあ、船の速度も上がらず暑さも相変わらずなのでどちらにしても朝だけの釣りに限る。

規則的に週末だけ釣りに行っていると、夜明けの時間が変わっていくのがよくわかる。午前4時半だと真っ暗だ。



今日は気を急かさなくても大丈夫だ、青岸灯台の手前から仕掛けを下ろす。先週はまったくダメだったので心配がよぎるが、前半はまったくそのとおりである。フェリーが入港してきてもアタリがない。しかしその後はそれも杞憂に終わった。アタリがどんどん出てくる。今日も時合は短いがその間は常にアタリがある。フェリーが出港してからも少しアタリが続いてタチウオは終了。型もそれなりであった。



集合時間まではもう少しあるので一度試してみたかったことをやってみた。
この、タチウオだが、ぱったりと食いが止んだあと、いったいどこに行くのだろうかということを知りたかったのである。もし、その場所がわかれば僕は魔法の力を得たようなことになるのではないかと思っているのである。
魔法の薬もそうであるが、「楽して一網打尽」というメソッドはどこかに存在すると信じ続けているのである。

水深30メートルのところまで出て、タチウオの尻尾をテンヤに括り付けて下ろしてみる。



まあ、そんなには甘くはないと思っていたが、なんだかわからないがアタリがあった。テンヤのエサに歯型が残っていないので多分タチウオではないのだろうが、何かはいるようだ。
きっとサビキを持ってきていたら何かが釣れていたのかもしれない。

そうこうしていると帰投の時間だ。
現場に集合して今日も適当に草を刈る。ここに来るといつも思うのだが、ここはきっとキャンプに最適の場所ではないだろうか。きちんと草を刈られていて薪も適度に落ちている。



ここは瀬戸内海国立公園の一部になっているらしいのでキャンプはご法度なのだろうか・・?
ただの公園で放っておくのがもったいない場所である・・
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「哲学がわかる 形而上学」読了

2023年09月11日 | 2023読書
スティーヴン・マンフォード/著、秋葉剛史、北村直彰/訳 「哲学がわかる 形而上学」読了

よくわからない哲学をこれまたよくわからない形而上学を使って解説された本を読んでもそれはやっぱりよくわからないのである。
哲学を勉強したいと思うほど自分がインテリではないということはわかっているので、その一端でも知りたいという程度なのだが、そこまでも到達できそうにはない・・。

哲学という学問は「存在」とは何かを求めているのだということは以前に読んだ本で確認することができた。
では、形而上学というのはどういう学問かというと、ウイキペディアを調べてみると、『感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える。』となっている。
形而上学で哲学をするということは、まさに「存在」の本質とは何かということを求めるということであるということは大まかにはわかり始めた。

しかし、著者は、最終章で、『形而上学で扱われる問いの多くは、単純素朴で他愛のないもの、あるいは子供じみたものにみえたことだろう。そしてそれらの問いは、しばしばそうしたものとして軽く扱われる。私たちはひとたび成長すると、円とは何か、時間は過ぎ去るのか、無はなんらかの存在物であるのか、といったことを問わないように期待される。これはまるで、生まれつきもっている自然な驚きの感覚を、私達は訓練によって自分の外に追い出しているかのようだ。
ひとは形而上学を、時間の浪費、あるいはより悪くは、人々の注意をそらす有害なものだと考えるかもしれない。ソクラテスはまさにその有害な輩であるということで死刑になったという(おそらくは半分だけ正しい)逸話を私たちは忘れてはならない。』
と書いている。
なんだか取りつく島もないような表現である。
この本は、九つの章で、①個別者とは何か。②性質とは存在なのか。③全体は部分の集合体というだけなのか。④変化とは何か。⑤因果とは何か。⑥時間が過ぎてゆくとは何を意味するか。⑦人とは。⑧可能性とは。⑨「無」は存在と言えるのか。
ということを論じているのだが、著者が言うように、そんなことを考えて何になるの?というようなものばかりである。しかし、僕が驚いたのは、「変化とは何か」という部分に書かれていたことだ。これは時間というものの考え方にもつながってくるものだが、形而上学ではこう考えられている。『静的な性質を持つものの系列―それに属するものはいずれも、その直前・直後に位置するものと質的にごくわずかにしか異なっていない―が存在するだけだ、と捉えることになる。したがって変化とは、ある意味で、そのような時間的部分の系列が作り出す幻想だということになる。』ようは、一本のフィルムに収められたコマの集まりが時間の流れであり物事の変化であるというのである。
これは、「正法源蔵」に書かれている「時間」の解釈とほとんど同じなのである。
地球の西の端と東の端でどうして同じような考え方が生まれたのか・・。
これはたまたま同じような考えが別の場所で生まれただけなのか、それともギリシャ哲学の考えが西のほうに伝搬して仏教の考えと混合していったのだろうか。どちらにしても、同じような考えが別の場所でそれぞれ支持されて現代まで引き継がれてきたということは、人間が感覚的に持つ時間に対する考え方というのはこれはこれで正しいのではないかと思えてくる。
ほかにも現代の物質やエネルギー、テクノロジーに関する事柄につながっている考え方もその中には見えてくる。
例えば、「無」についての考え方では、無というものが、「・・でない。」という否定的な意味と同義であると考えるならば、あるものに対して、「・・でない。」というものは無数にあると考えるのである。例えば、ある男性の身長が180cmだったとき、この男性の身長は2mではないし179cmでもないと、理屈では無数に「・・でない」というものが存在することになる。
かなりこじつけではあるが、宇宙論に出てくる、無限のエネルギーを持っているという真空のエネルギーの解釈に似ているような気がする。
「人」とはという考え方では、心理的な連続性と身体的な連続性が必要であるとされている。意識をコンピューターにコピーできるような時代がやってきて、アンドロイドなり、空っぽの人体になりに移植することができたとしても、それは過去の自分とのつながりがないのだから自分ではないといえるというのである。僕は日ごろから、僕のコピーが生まれ、その時点までの僕のすべての記憶を留めていたとして、その後に僕が死んでしまったとしたらそのコピーは僕と言えるのだろうかなどと中二病のようなことを考えていたのだが、この答えを読んで納得してしまった。これは今後、人工知能と対峙しなければならない人間にとって重大な指標となるだろう。
「可能性」に対する考え方では、ある人がある選択を迫られたとき、何を選択するか、もしくはその後の展開については無数の可能性を秘めている。それは、無数の世界に枝分かれをしてゆくということであるとも言える。これなどは多重宇宙論とうり二つの考え方である。量子物理学や人工知能などまったく知る由もない紀元前の人たちがすでにそんなことを考えていたというのは驚きでもある。しかし、こうとも考えられないだろうか。この世界はすべて空想の世界であり、量子物理学の奇妙な理論も、人工知能もソクラテスやプラトンの時代の人の空想なり妄想のなかの仮想世界であると。
まさにそれは仏教で言うところの、「色即是空、空即是色」なのである。
物体が存在することのうちには、諸々の性質に加えて、それらを背後で取りまとめている別の何かの存在が含まれているかもしれない。そして、その別の何かの存在の背後にもそれらを取りまとめている別の何かが存在する・・。まったくもって曼荼羅の世界である。

それとも、現代の量子物理学者たちが古代の哲学に影響されているのだろうか・・。以前に読んだ本の中に、量子力学を、『人工的な形而上学』だと書いているものがあったが、実際、そうなのかもしれないと思えてもくるのである。


哲学は存在を考える学問であり、その哲学は科学を生み出す元にもなったのであるが、その中核をなす形而上学は科学のみならず、仏教の基盤でもあったのであると妄想してしまった。というか、仏教もまさに哲学であると実感したのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口~加太沖釣行

2023年09月09日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:長潮8:33干潮
潮流:7:35下り2.2ノット最強
釣果:タチウオ1匹

全然トピックスのない釣行であった。
昨日はかなり北風が強くて水温が下がってしまったからなのだろうか。それとも長潮という日がダメなのだろうか・・。
まずは保険のタチウオを釣ってみるが、これもまったくアタリはない。ここで粘っても仕方がないと、徳島に向かうフェリーが出港するまえに加太に向かう準備をする。



しかし、その前に今日唯一の獲物が掛かっていた。しかし、捕らえられた獲物には申し訳ないが、1匹だけだと帰った後の手間を考えると費用対効果が合わない。かといって、放流しても死んでしまう魚を捨てて帰るわけにはいかない。
とりあえずクーラーボックスに入れて加太に向かう。

いつもの通り、今日もマアジ狙いで四国ポイントへ。先週、スクリューの掃除をやってみて推力は若干上向いたが燃料の消費を考えてもここまでが限界だ。
土曜日だというのに船の数は少ない。あまり釣れていないのだろうか・・。
ほとんど毎日出ているのではないかと思う本職さんの船の後ろについて仕掛けを下ろすが、さすがの本職でも釣れないのか、その後、どこかに行ってしまった。



僕も遅れて本職さんがたどった方向に向けて移動をすると、デンシャポイントに浮かんでいた。ここではちょっと反応があるが、どうも小魚のようだ。小さいアジが掛かってきた。大きい魚は付いていないようで、しばらく泳がしていたが何も喰いついてこない。やっとアタリがあったと思ったら持って帰れないほどのチャリコだ。



秘密の薬も何の役にも立たない。



きっと、世界のどこかにはいつでもどこでも魚が釣れるという仕掛けなりエサなりが存在すると信じているのだが、それはやはり妄想にすぎないようである・・。

もう少し粘ろうと思ったがここから釣れ始めたとしても大した数は得られそうもないし、早朝は暑くもなく涼しくもなくであったが午前7時を過ぎるとやっぱり今日も耐え難い暑さになってきたので午前8時を前に終了。

港に戻りトウガラシの収穫のために叔父さんの家へ。すでに円卓会議は終了していたが植木屋さんが広大な庭の剪定をしていた。
僕の顔を見た叔父さんが、一服しようかということで植木屋さんも脚立から降りてきたのだが、この植木屋さん、副業で釣りの仕掛けを作って売っているそうだ。そしてなぜだか剪定の現場にその仕掛けを持ってきていていろいろ教えてくれた。
矢櫃のほうに住んでいるらしく、僕よりもはるか南が主戦場だそうだ。持っていた仕掛けはハゲ釣りの仕掛けだったのだが、その枝素は5号。なんでそんなに太いのと聞いたら、外道でカンパチや石鯛が喰ってくるというのである。5号でも持たないのだそうだ。
なんとも羨ましいが、それに加えて作った仕掛けを売って利益を得ているというのも羨ましい。
僕も少しだけそんなことを考えたことがあった。老後の楽しみと指先を使うことでボケ防止にもなるのではないかと思い、ネットショップで売ってみたらどうだろうかと思ったのである。
実際にそんなことをやっている人がいると知ると、それがますます現実味を帯びてくる。近いうち、試しにメルカリにでも出品してみようかしらと真剣に考えてしまったのである。
全然トピックスがなかった中、これだけが唯一のトピックスであった・・。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年09月03日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:中潮8:09満潮
釣果:タチウオ10匹

今週は二日連続の釣行だ。小船の性能維持というのが最大の目的である。速度はまったく出てくれないので完全GMTフィッシングだ。(「あまちゃん」見ていない人にはわからないだろうな~。)

出港時刻は昨日とほぼ同じだが、昨日よりも暗く感じる。



昨日アタリがあった場所の近くから仕掛けを流し始める。
ここ何回かの釣りで、多分僕と同じような釣りをしていると思われる船がキリンクレーンの北側の窪みの中で船を流している。あんな狭いところでどうやって方向転換をしているのだろうかと思うのであるが、やっぱり気になる。今日は小船だから小回りが利くのでその手前まで近寄ってみる。アタリは出るかと期待をしていたがまったくアタリがないのでやっぱり方向転嫁して青岸方面へ移動。

青岸の灯台に向かう手前でフェリーが入港してきた。今日もそれを合図にアタリが出始めた。
釣れてくる魚は昨日よりも少し型がよさそうだ。しかし、小船では仕掛けの捌きがうまくいかない。足場が狭いしエンストはするし、速度調節も細かくはできない。今日は10匹であったが大きい方の船で来ていたら15匹は釣れただろう。
しかし、それにしてもアタリが出ている時間が短い。フェリーの入港は午前5時でその船が出向してゆくのは30分後なのだが、フェリーが出てゆくともう、アタリがなくなってしまう。もう少し長い時間アタリがあれば20匹くらいは釣れるのだが、今年は一体どうなっているのだろうか。
もう少し涼しくなると燻製を作りたいと思っているがこれほどの数だとまったく足らない。
このままで終わってくれなければよいが・・。

タチウオタイムはあっという間に終わったので、次は新々波止の南側へ移動。



今日はジグにブレードを取り付けてみた。出発前に見ていた釣り番組でそんなルアーを使っていたので急遽真似をして作ってみた。



まあ、そんなことをしても釣れないものは釣れない。次に一文字の切れ目に移動してみたがやっぱり釣れずに今日は終了。

とりあえずボウズではないし、電気ウキも2個拾ったのでまずまずとしておこう。



港に戻って大きい方のスクリューの掃除をやってみた。
毎年、1回くらいはやっているのだが、今年はその時期が早いような気がする。けれん棒でゴシゴシやるとすでにスクリュー一面にフジツボが付着している。次の釣行では少しは速度が戻ってくれていればいいのだが・・。




今日も叔父さんの家に寄って円卓会議に参加。今日の議題は、「プリゴジンは本当に死んでいるのか。」というものであった。田舎の片隅でも国際問題は語られる。
そして、昨日、隣のおじさんのところにもと言ってタチウオを託したのだが、今日はそのお礼だといってスダチをいっぱい貰った。僕が欲しいのは青い柚子なのだが、どうもこのおじさんはそれをスダチと間違えているようだ。せっかくもらったものなので果汁を絞ってみたのだが、これはなかなかいい果汁だ。



試しに酎ハイに入れてみると、売り物のライム汁などとは比べ物にならないほどの美味しさだ。何でも天然のものが一番だということを改めて実感したのである。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする