イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「おなかがすいたハラペコだ。④月夜にはねるフライパン」読了

2024年09月21日 | 2024読書
椎名誠 「おなかがすいたハラペコだ。④月夜にはねるフライパン」読了

椎名誠のシリーズもののエッセイはシリーズ全部読んでいなくてもその中の一冊は大概読んでいると思ったが、このシリーズは全然読んでいなかった。これはその最新版だ。
この本のよると、2021年9月現在で295冊の本を出版しているそうだ。これだけたくさんの本を執筆しているというのはすごい。こんなにたくさんの本が出版されているとしたら、椎名誠の本はかなり読んできたがそれでも五分の一も読んでいないかもしれない。

なんだか意味の分からない本ばかり読んでいたのでちょっと箸休めのつもりで借りてみたのがこの本だ。テーマは「食」にまつわるあれこれというようなものになっている。「食」といっても範囲はもっと狭くて椎名誠が日常の食生活のあれこれを書いている。

驚いたのはこのエッセイが連載されているのが、「女性のひろば」という日本共産党中央委員会が発行している雑誌だということだ。共産党でこのエッセイか~。という内容だ。どう考えても昭和軽薄体と共産主義は合わない気がする。合わないのを承知で共産主義のイメージアップに使っているというところなのだろうか・・。
残念だったのは挿絵が沢野ひとしではなかったことだ。椎名誠のエッセイにはやっぱり沢野ひとしがよく似合う。

椎名誠の食生活にはやたらとソーメンとごはんが出てくる。たしかにソーメンとごはんは美味しい。その前にお酒のほうが美味しいのと太るのが怖いのでごはんを食べる機会は減ったがそれでもごはんは美味しい。ソーメンも夏の暑い日のお昼にはこれしかないと思える。我が家はやたらと焼きそばが出てくるが・・。

9月に入ってお米が不足しているというニュースが駆けめぐり、和歌山でもそのとおりでスーパーマーケットの棚から米が消えていた。



マスクといいトイレットペーパーといい、日本人は不足しているというとそれに拍車をかけて買い占めをする民族のようだが、我が家でもやはりお米飢饉がおこりそうになったようだ。そんなとき、奥さんの妹が義父の山形の実家に緊急連絡をしたら即30キロのお米が送られてきた。あるところにはあるのである。



これには助かったのだが、もっといいことに、この山形のお米がすこぶる美味しい。毎年新米の季節にはおすそ分けをもらうので美味しいのは証明済みなのでいまさら驚くものでもないのだが、我が家は飢饉を飛び越えて贅沢な食卓にワープしてしまったのである。
こんなことならしょっちゅうコメ不足が発生してそのつど送ってもらったら我が家は天国になるのじゃないかとエッセイの感想とはまったく関係なく不遜なことを考えてしまったのである。

朝日新聞の土曜日の別誌に月1回、昭和軽薄体のもう一方の雄である東海林さだおのエッセイが連載されている。最近はどうもこういう文章が煩わしくなってきた。これも歳のせいなのかな~と思ったりする。
だからこのシリーズも遡って読む気にはならない。椎名誠はもっとしっとりとした文章も書くのだからそういう作品を世に出してほしいと思う。

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「第1感~「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」読了

2024年09月20日 | 2024読書
マルコム・グラッドウェル /著 沢田 博、阿部 尚美/訳 「第1感~「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」読了

人は最初の一瞬で何かを見抜く力があるという。この本を日本語訳するときに、その直感を、「第1感」と訳された。英語のタイトルは、「blink」。そのまま訳すと「ひらめき」となる。
僕も時々そういう直感のようなものがあると思う時がある。イカやチヌを釣っているとき、ウキや竿の先にアタリがなくても意識せずに合わせを入れるとちゃんと獲物が掛かっている。あとから考えてもどうしてそこで合わせを入れたのかがわからなくて、無意識に合わせを入れているのか、その瞬間のことの記憶もない。
なぜだかはわからないが、人にはそういう能力が備わっているというのがこの本の趣旨である。

一般的に、勘が鋭いというところで出てくるのは「第六感」という言葉であるが、訳者の説明では、それは身体的な(したがって理屈で理解可能)な五感の優越を前提として、理屈を超えた六つ目の感覚を想定している。それに対して、「第1感」というのは五感に優越するものであるということだ。すでに六が漢字で1が数字だというところからミステリーだ・・。

この本は、いくつかの具体例を上げ、「第1感」の存在を証明しようとしている。なぜそのような能力が人間に存在しているのか。それは、厳しい生存競争を勝ち抜くため、わずかな情報で素早く適切な判断を下す能力が必要であったのだという。こちらをめがけて突っ込んでくるトラックを前にして、あらゆる行動の選択肢を考えていては間違いなく死ぬのである。
しかし、何に対しても「第1感」が働くのかといえばそうではない。何かに対して専門的な訓練を積み、洞察力を高めた末に得られるのが「第1感」なのである。それじゃあ「第六感」と変わらないのじゃないかと思うのだが、まあそれはそれとして置いておくことにする。
そんな第1感も、正しい選択をしてないときがある。それを妨げるのは先入観であったり緊張状態だったりする。
例えば、男尊女卑の先入観がそうだ。緊張状態では、心拍数が175を超えると人間に認知プロセスは完全におかしくなる。F1レーサーのレース中の心拍数は140から190だそうだが、そんな中でおそらく第1感を働かせているというのだからすごい。
結局、何の努力もなく第1感は存在しないということなのである・・。

その「第1感」は体験したうちのごく薄い輪切りの部分だけで全体を把握しているのだという。そして、その感覚は「無意識の扉の奥」にあるという。ガンダムの世界には勘のいい人としてニュータイプという人たちが出てくるが、人類が宇宙に進出した後、重力の低い状態ではポンプとしての心臓の負担はかなり軽減され、極度の緊張状態でも心拍数が抑えられるかもしれない。そんな状態では、人間の第1感はさらに研ぎ澄まされるだろう。そんな状態で数世代を経れば本当にニュータイプが生まれるのかもしれない。

今の僕はいろいろなものに対して第1感はいらない。ただひとつ、明日の株価が上がるのか下がるのか、それだけを見抜ける第1感だけがほしいと思っているのである・・。
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「夜空はいつでも最高密度の青色だ」読了

2024年09月18日 | 2024読書
最果タヒ 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」読了

先日、同じタイトルの映画を観た。エンドロールに原作者として最果タヒの名前がでてきた。この人って詩人じゃなかったかしら、小説も書くのかなと思いながらこの本を借りてみたら、原作はやっぱり詩集だった。
この映画の監督である石井裕也がこの詩集にヒントを得て脚本を書いたということである。
詩集を読みながらあのシーンはこの詩から生まれたのかなどと想像できるのかと思ったけれども共通点は唯一、タイトルにもなっているフレーズが含まれている一編を主人公が詠みあげている部分だけであった。その詩はこのようなものだ。
『都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。』

タイトルは「青色の詩」という。

詩集は難解そのものだ。それぞれの詩には意味と理由があるはずだと思いながら何度か読み返すが僕には全然わからない・・。
映画のストーリーはというと、都会の中の最低辺に生きる若者たちが、今は這い上がれないと知りながらも小さな希望の灯りを点しながら愛を育むというような内容であったが、詩集の方にはそれとはうらはらに「死」という言葉がたくさん出てくる。
「都会は死を隠そうとしている」というのは石井裕也が監督した別の映画に出てくるセリフで、この詩集の舞台も都会であろうと思われるものが多い。著者はそんな都会の中で「死」という言葉を必死で探しながら、生きるとは、愛とは何なのかを自身の心の中に見つけようともがいている。そんなイメージが僕の中に浮かんでくる。結局、すべてを無に帰す「死」ではあるが、それを肯定し、それこそが生きることなのだとしている。
また、著者はあとがきで、『100%誰かに理解してもらえるなら、そんな人間、この世界にいる意味がない。憂鬱が、かわいく見えて仕方がなかった。人には話せないような、汚い感情、正論だとか優しさだとかで押しつぶされていく、そういう悩み、膿。あってはならないとされている感情が、好きだ。感情にあってはならないなんて、ありあえないのに、それでも押し殺すその姿が好きだった。どんなに因数分解したって理解を得られないだろうそんな感情が、その人をその人だけの存在にしている。人は、自分がかわいいのだということをもっと知るべきだ。』という文章を書いていた。
人と人はわかり合えないということさえ愛おしいものだと書いている。
自分を理解してほしいと思うことは暴力であって自分の想像以上に他者は自分を理解できず、そして、自分も理解できないから自由なのであると、だから、他者をかわいいと思うとも書いている。
後ろ向きな言葉を集めながら実は前を向いている詩集であると思ったのである。
本当は後者の、自身の内面と他者の内面とのギャップと同一性に言及したかったのだというのが著者の意味と理由だったのだとは思うが、僕には前者の意味と理由を強く感じた。先に映画を観てしまったというところもあったのだとは思うが・・。
と、言いながら、やっぱりよくわからない。せめて、「うねりとビート」を見つけることはできないかと思うのだが、やっぱりそれも見えない。奥が深いのである。

この詩集は著者が30歳の時に出版されたもので、きっと若い人が色々な悩みを抱えながら読むものだと思うのだが、60歳の中老にも悩みはある。ミッドライフクライシスと呼ばれるようだが、キャリア(というようなものは何もなかったが・・)、人間関係を振り返り、これでよかったのかと思うと同時に、残りの人生をお金の問題を含めて考えて思い悩むのである。だから、こういう詩集を読んだとしても恥ずかしくはないのである・・。

この感想文を書きながらテレビを観ていると、「寅に翼」のテーマソングのフルコーラスが放送されていた。その歌詞はこの詩集のテーマとよく似ているような気がした。
こういうテーマが親しまれるというのは、自分らしさを維持しながら他人の心と折り合いをつけて生きてゆくことが求められているのだろうなとも思うのである。
きっと寅子さんが生きた時代はひたすら自分らしさを押し殺して他人と折り合いをつけていた時代だったのである・・。
それに比べると今の時代を生きる人は少し幸せなのかもしれない。
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紀ノ川河口~加太沖釣行

2024年09月16日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:大潮 3:19満潮 10:20干潮
潮流:5:26上り1.2ノット最強 8:05転流
釣果:タチウオ7匹

夜釣りの翌日ではさすがに早朝起きる気になれず、連休の最終日だが加太に行くことにした。まあ、昨日は起きていたとしても雨が降っていたのであるが・・。

朝はとりあえず保険のタチウオからだ。午前4時40分に出港。



一昨日の1匹の大物を僕も持って帰りたいと願うのである。しかし、今日もアタリが少ない。そして釣れ始める時刻も遅い。最初のアタリは午前5時15分。予定よりも15分遅い。アタリが少ない日は喰い込みも悪い。目の前で逃げられた魚も多数いた。そんな中でも1匹だけ指3本半の魚が混ざっていた。指4本は欲しいが今日はこれで我慢をしておくとする。しかし、ひょっとして今年はこのままタチウオが終わってしまうのではないかと危惧と恐怖を覚えるのである・・。

午前5時40分に切り上げて加太へ。船の足は2割減だ。四国ポイントまでが限界だ。そしてもう、船の底を手入れするまでは加太へ来るのは無理だ。
幸いにしてというか、田倉崎の沖に数隻集まっている。



ダメでもここでねばることにする。時折魚探には反応が出るけれどもアタリはない。はるか南にある台風の影響なのか、うねりがある。沖をゆく化学薬品の運搬船もバルバス・バウを露出させながら航行している。



をこんな日にアタリがないと船酔いをし始める。やっぱり僕は乗り物に弱い。
その後テッパンポイントの南に移動してみるがアタリはなく少々吐き気もするので午前8時に終了。

少ないけれども叔父さんの家にタチウオを持って行く。
明日は中秋の名月。叔母さんは小芋を持って行けと言ってくれる。



叔父さんと一緒に掘るのだが、その叔父さんはどうも最近めっきり老いてしまったように感じる。いつも同じことを僕に聞いてくる。まあ、80歳ともなればそうかもしれないがまだまだ早い気がする。それはきっと息子が家に帰ってきたことで肩の荷が下りた反動なのだろう。もう、跡を任すことができるという安心から張りつめていた(のかどうか知らないが・・)気持ちが緩んでしまったに違いない。
まあ、そういう気持ちはわかる。まだまだ先はあるはずだが、「いい人生やったで・・」というような言葉を聞くとちょっと寂しくもなる・・。
逆に僕は息子からはなかったことにされているようだし、こっちも何も任すべきこともない。だから叔父さんみたいに気持ちが安心して老いるということはないだろう。僕はなかったことにはできないので仕方がないが、それでボケずに済むのならそれでそれはありがたいことなのである。

なんだかモヤモヤした1日であった・・。
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「センスの哲学」読了

2024年09月15日 | 2024読書
千葉雅也 「センスの哲学」読了

よく読まれている本らしい。この本の存在を知って貸し出し予約してみるとすでに数人の予約が入っていて、僕の後にも数人の予約が入っている状態だった。

「センス」と「哲学」、一見まったく無関係のように思えるが、著者は哲学の知識を使ってセンスのよい人間を目指そうというのである。フロイトやラカン、ベルクソン、カントなどの考えたが紹介されている。
この本でいうセンスとは、美術や芸術を鑑賞、理解ができる“センス”を指す。魚を釣るセンスがあるというのとはちょっと違う。ファッションセンスというのとは少し近いかもしれないが・・。
そして、センスの定義とは、“直感的”にそれを理解できる能力という。そのためには作品が訴えていることを考えるよりその流れを読む方がよいというのである。

ドラスティックな解釈かもしれないが、作品が訴えたいことを探るより、ストーリーなり絵画なりの表現に見える、「うねりとビート」を追いかけるのが正しいというのである。
著者はそれを“脱理解”と表現しているが、作品が抽象化すればするほど、「うねりとビート」を感じることが必要であるという。
「うねりとビート」・・。よくわからないが、著者は、複雑な生成変化を「うねり」と言い、存在/不在の明滅が「ビート」だという。

確かに、映画を観ているとときにはそう思うことがある。創作をする人はその作品に何らかのメッセージを込めていると思ってしまうのだが、どうしてもそれがわからないことがあり、やっぱりセンスがないなと思うと同時に、この映画をまったく理解できていないと思うのである。しかし、うねりとビートを感じるというのであればその観方も変わってくる。

そもそも、作家は、『問題を解決するために作品をつくるのではなく、問題を「抱えている」から作品を作る。個人が抱えている、自分では十分自覚できていないような問題をめぐって作品が生み出される。』のだから、その作品を、観たり、読んだりしている側の人間がわからないのは当然であると納得できるのである。
現代国語のテストの問題を解くような観方や読み方をするのはダメだということだ。
だからまず、「うねりとビート」を感じ、その後に美術史なり文学史を学んで時代の流れを理解し、センスを磨くのが王道なのだろうと思える。美術史や文学史の勉強までいかなくても、その作家の人生をたどることでもその作品の意味を垣間見ることができるかもしれない。
と、いいながらも、著者が表紙のデザインとしえ選び、「うねりとビート」を見出す例として挙げているラウシェンバーグという画家の「Summer Rental+1」からは著者のいう、「うねりとビート」を感じとることができない・・。
困ったことだ・・。

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水軒一文字釣行

2024年09月14日 | 2024釣り
場所:水軒一文字
条件:中潮16:54満潮
釣果:限りなくボウズ・・(写真の魚はほとんどがNさんの釣ったもの・・)

当初はタチウオを釣った足で住金一文字へ連れていってもらおうと思っていたのだが、天気予報では今日も猛暑だというので夜釣りにしましょうということになった。
昼間テレビをしているとなんだか雲行きが怪しくなってきて夕立の気配が出てきた。午後5時30分集合だが午後4時ごろには本当に夕立になってきた。LINEで中止の連絡が来ないかと見ていたが雨天中止はないようだ。
僕も午後4時過ぎに家を出てエサ屋にアミエビを買いに行きバイクのガソリンを入れて港へ。
みんな気合が入っているのか、午後4時過ぎには全員集合していた。
港を出るときれいな虹がかかっている。長く生きてきたがこんなにきれいな虹を見たのは初めてだ。



夕立の水滴と水平に照射される太陽光線のコラボは奇跡と言っていいのかもしれない。

これはきっと今日の釣果への祝負なのだろうと思っていたがこれがまったくそうではなく、恐ろしいほどの貧果で終わってしまった。

サビキでアジが釣れたのは日の入り直後の一瞬で、ヒラメとアコウが釣れるかもしれないという飲ませ釣りはまったく反応なし。おまけにオモリをひとつロストする始末だ。



タチウオのルアー釣りも1投目で小さなサイズが釣れたのでこれはアタリ連発かと思ったけれどもこれ1匹でおまけにリーダーが抜けてしまってジグヘッドをロスト。

たかがサビキされどサビキ。ここに来ればいくらでも釣れると思っていたがやっぱりサビキ釣りは難しい部類の釣りに分類されるべきなのである。

今日の収穫はというと、飲ませとサビキで2本の竿が必要になるのでなにか手ごろな竿はないかと物置を探していると2号の磯竿を見つけた。僕が買った覚えはないので父親がどこかから持ってきたものだろう。
20数年の時を経て知らない竿に日の目を見せてあげることができたのだから釣り竿の精も僕に恵みを与えてくれてもよかろうと思うのだが逆に、静かに寝ていたのを叩き起こしやがってとお怒りになってしまったのかもしれない。

また出直しだ・・。

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紀ノ川河口釣行

2024年09月14日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮9:29干潮
釣果:タチウオ10匹くらい(と言っても僕が釣ったわけではない・・)

Nさんから、一度タチウオ釣りに連れてゆけという命令を貰っていた。陸戦での釣りに比べると短時間ではるかにたくさんの数が釣れることに興味を持ったようだった。もちろん、Nさんも長く雑賀崎に暮らす人だからこういう釣り方があるということはご存知なのだが、僕がどんな仕掛けを作っているのかということに興味を持っておられるようである。
何しろ、僕の父親が、「他人には絶対に教えるな」と言い残して死んだという秘伝(といってもまったく秘伝でもなんでもなかったのだが・・)の仕掛けなのである。Nさんにだけはこっそり教えてあげるのである・・。

午前4時半に出港。今日はNさんに仕掛けを操ってもらうことにしている。ひととおり使い方を説明して仕掛けを下ろす。
予定では午前5時になるとアタリが出始めるはずなのだが今日はまったくアタリがない。仕掛けの流し方にももんだがあるのかもしれない。普通なら仕掛けの抵抗を感じながら船を操るのだが自分が手に持っていないので当然ながらそういう機微がわからない。
やっとアタリが出たのは午前5時15分を過ぎてからだった。その後はどんどんアタリが出る。といっても、さすがにこの仕掛けを操るのは初めてのひとでは難しい。手返しが遅くなるぶんだけ獲れる魚の数が減っていく。



しかし、幸運なことに、先週に比べて魚の型がいい。間違いなく大きくなっている。一番大きいのは指4本に迫ろうとしていた。

アタリはすぐに無くなり、普通ならそのまま帰投と言うところなのだけれども、あまりにもあっけなく終わってしまうのもNさんに申し訳ないのでオジイやんずの定説である、「濁っている港内では明るくなってからでもアタリがある。」のとおり港内に向かって流すがアタリがない。



そろそろ終わりましょうかと仕掛けを回収すると鉤は4本ロストしていて残りの1本にはエソが引っ掛かっていた。これではタチウオが釣れるわけがなく、Nさんの話ではそういえば大きなアタリがあったが掛からなかったということがあったらしく、その時に幹糸を喰われたのだろう。はやり大きな魚が混ざっていたのだ。

少し期待が持てるようになってきたのかもしれない。

Nさんの知人にはホテルの板前さんがいるらしく、時々素晴らしい料理の写真だけ(そう、写真だけ)送ってくれる。
今日のタチウオも従業員さんたちの賄いになったらしい。
しかし、ホテルともなると賄いの盛り付けもすごい。お客さん用に作っているのじゃないかと思えるほど豪華だ。もちろんNさんもそのご相伴にあずかっていると思うと悔しくて仕方がない・・。

 


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「スペース・トランスフォーメーション 人類の生存圏が拡大する時代に向けて」読了

2024年09月10日 | 2024読書
堀口真吾 「スペース・トランスフォーメーション 人類の生存圏が拡大する時代に向けて」読了

「スペース・トランスフォーメーション」とは、DXに引っかけて創られた言葉のようだ。内閣府のホームページを見ると、『宇宙空間における活動を通じてもたらされる経済・社会の変革 』と書かれている。
僕のようにSF的な頭しかない人間から見ると巨大宇宙戦艦やスペースコロニーの建設なのかと思い浮かべるが、どこから投資を得てどうやって利益を出すのかというのを考えるとそれはちょっと無理だと思えてくる。
しかし、現実では身近な宇宙で、具体的には国際宇宙ステーションが周回している500キロメートル上空の宇宙ではスペース・トランスフォーメーションは始まりつつある。
奇しくも明後日は「宇宙の日」だそうだ。(何の記念かは知らないが・・)

著者は宇宙ビジネスのスタートアップ企業のCEOで宇宙ステーションで使用される実験装置の開発・製造をおこなっているビジネスマンだ。この本では、宇宙開発の歴史、現在の宇宙ビジネス、宇宙産業をいかにして盛り上げていくべきかについて書かれている。
以前に読んだ本に比べるとかなり現実的ではあった。

日本は宇宙ビジネスに対し、国家を含めてもっと投資すべきだという。まあ、これがこの本の結論ではある。著者は、日本の体質として、リスクのある投資に尻込みしすぎるのだというのである。リスクの高い宇宙開発に理解を示してほしいそうだ。

日本の宇宙に関する企業というと、串本でロケットを飛ばしたり流れ星を作る会社があるというのはニュースを見て知っていたけれどもまだまだ存在するそうだ。堀江貴文もそんな会社を立ち上げていたというのをこの本を読んで思い出した。そのほか、水平飛行で宇宙に飛び立つ宇宙船を造っている会社や「水」を推進剤に使った衛星用のエンジンを開発している会社もあるそうだ。スペースデブリの除去を目指している会社もある。
日本も宇宙産業への投資を頑張っている。2023年には10年で1兆円の「宇宙戦略基金」を運用することを決めている。しかし、アメリカはその比ではない。
2030年1月に退役したあとには3機の民間宇宙ステーションの建設計画がすでに進んでいるらしい。民間が主導する産業となるわけだが、NASAは総額4億ドルを超える支援が決まっている。4億ドルというと、600億円弱だから1兆円と比べると相当少ないように思えるが、その程度の支援しかなくても自立して経営ができるほど産業として成熟しているということなのである。
民間が造る宇宙ステーションはその内容も独創的で、微小重力下での科学実験や宇宙技術開発はあたり前だが、宇宙旅行の拠点や映画製作の舞台ともなるらしい。
周回遅れとも思えてしまいそうな日本の宇宙産業だがはたして勝算はあるのだろうか・・。

どちらにしても、ビジネスとなると投資した額以上のリターンがなければならない。微小重力下での科学実験といってもどれだけ新たなものが開発できるのだろうと、素人考えでは思えてくる。
投資家の中にはイーロン・マスクやジェフ・ベソスという名前も出てくるが、本当に将来には巨大な富を生み出すだろうと考えて投資をしているのだろうか・・。僕にはなんだか趣味の延長でしかないように思える。最近のニュースによると、イーロン・マスクは2026年に火星に向けてロケットを飛ばし、それがうまくいけば2030年には有人飛行を計画しているそうだ。しかし、数人の人が火星に行けたとしてもそこから何も生み出すことはできないだろう。そこに行くための装備を造ることで消費は生まれるだろうがそこ止まりだ。イーロン・マスクはこの発表に際して、『そこから飛行頻度が飛躍的に伸び、20年ほどで自律した都市を建設することを目標としている。複数の惑星が存在し、すべての生命が一つの惑星に存在することがなくなるため、人類の寿命は大幅に伸びるだろう』と語ったそうだが、やっぱり男のロマンのようにしか見えない。

まあ、そんなことしか思えない人間はビジネスマンとしても投資家としても落第なのではあるが・・。

しかし、当面は低軌道の宇宙を利用して地球上で富を生み出す形を続けることになるのだろうが、その先にはきっと宇宙空間から富を生み出す経済システムが生まれるのだろう。
僕の寿命はそれまで待てないかもしれないが、2030年1月に国際宇宙ステーションが大気圏に突入し流れ星となって燃え尽きる姿や、同時かその前後なのか知らないが民間宇宙ステーションが打ちあがるくらいまではおそらく見届けることはできるかもしれない。
その時には空のもっと奥の方を見ながら、投資家たちの野望に思いを馳せたいと思うのである。
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紀ノ川河口釣行

2024年09月08日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮9:00満潮
釣果:タチウオ14匹

昨日の釣果に気をよくして、もう一度行ってみた。小船も長らく運転していないので性能維持も兼ねている。

昨日は二十四節季の「白露」だったそうだ。このくそ暑いのになにが白露かと思っていたが、駐車場の草を見てみると確かに露が溜まっていた。そういえばきのうはあまり感じなかったが今朝は少し涼しさを感じた。くそ暑いけど確実に季節は進んでいるようだ。



タチウオが釣れているという情報は昨日のうちにまたたく間に駆け巡ったのか、港の出口の埋立地の護岸には昨日と比べると3倍くらいの電気ウキが浮かんでいる。僕も早速1個ゲットした。



船を出すのが少し遅れたことと昨日の港内は1匹で終わったので今日は青岸へ直行。ちょうどフェリーが入港してきたところだったのでもうすぐアタリが出るぞと思っているとその通りになる。小船だと勝手が悪いのでうまく誘えない。魚の取り込みにも手間取る。潮と風に流されて仕掛けが船の下に潜ってゆくのである。風下方向に流せばいいのはわかっているがアタリが少ないとはいえすぐにアタリが出るものだから取り込んでいる間に船が流されてまた元の位置にもどってしまっていてまた風上に向かって流すことになる。
そんなことを繰り返しながら約30分、今日も午前5時半にアタリが途絶えてしまった。



今日はこのあとは何も予定がないので少しだけジギングをやってみた。しかし、やっぱり性に合わないのか、10分ほどで嫌になってしまった。

昨日もたくさん釣ったので今日は円卓会議のメンバーに全部持って帰ってもらおうと思っていたがどういう訳か今日は集まりがないようで仕方がなく全部持って帰ってきた。切り身にするにも小さいのでほとんどを三枚におろして干物を作ってみた。



どんな味になるのかと思ったがこれはこれで意外といける味になった。チーズ焼きに続く定番になりそうだ。

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紀ノ川河口釣行

2024年09月07日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮8:22満潮
釣果:タチウオ23匹

4度目の正直でやっと釣れた。しかし釣れ始めると怒涛ごとくアタリがある。
朝は早い目に出港して港内のかなり手前から仕掛けを流し始めたのだが仕掛けを下ろしている途中にアタリが出た。



型は小さいが今年の最初の1匹なので取り込み再び仕掛けを流し始める。蓄光パウダーと紫外線ライトの賜物であったのかもしれない。

しかし、その後は一向にアタリがない。あれれ、スミ一でおわってしまうのか・・。やっぱり今年はダメなのかと不安な気持ちがよぎるのだが、それも杞憂で、青岸の灯台の前を通り、フェリーの影が見え始め頃からアタリが連発し始めた。とにかくどんどんアタる。完全に最盛期のアタり方だ。時には5本の鉤に全部掛かっていることもあった。
これで型がよければ本当に最盛期なのだが釣れてくるのは指3本までの大きさばかりだ。10本を超えたくらいからは少し小さいと思える魚で生きて海に返すことができそうなやつを放流しながらも合計で23本。
しかし、アタリがあった時間は30分ほど。見事なほどにピタッとアタリが止んでしまった。



今日は家に帰ってすぐに健康診断に行かねばならないのでほかには何もせずに帰投。

船の方はどんどん速度が遅くなり2000回転でも時速16キロしか出ていない。航跡もボコボコだ。



港に戻ってスクリューを見てみるとフジツボがびっしりと付着している。海水の濁りもひどく、お昼前にはスクリューの形が見えないほど濁っている。



濃厚な栄養スープの中に浸かっているようなものだからこの2週間で相当成長したのだろう。
アラを捨てるために港に戻ってついでにフジツボを掻いてみるが気休めにしかならないであろう。来月の後半に上架の予約をしたけれどもそれまでは我慢の時を過ごさねばならない。
水質がよくなって魚がいなくなり、代わりに船底の汚れはあまりにもひどくならないという仮説を立ててみたけれども全然当たっていなかった・・。

今の会社の健康診断は提携している医療機関を選んで自分で予約を入れるシステムだ。幸い家の近くに対象の機関があり、普通なら勤務扱いで会社を抜けることができるのだがそれも面倒なので休みの日にゆっくり受診しようと考えた。



そういうシステムを取っている企業はけっこうあるのか、僕と同じ封筒を持った人たちがたくさんいた。
検査は滞りなく終わり、最後の医師の問診の順番が来たのだが、聴診器を当てるだけで検査の数値については何も評価をしてくれない。特に問題がないので何も言わないのか、面倒くさいのかと思っているのかと思ったら、項目を見直してみると、「触診」と書いていた。確かに触診だったが、前の会社では「問診」となっていて気休めだけだが最近どうですか?みたいな問答があった。本当の無駄話でそんな話をしたからと言って隠れていた病気が見つかるわけでもないから気休めでも肺の音を聞いてくれた方がいいのかもしれない。しかし、せっかく医者が目の前にいるのだから少しは健康相談をしてくれてもいいんじゃないかと思うのだ。しかし、こんなところで土曜日に健康診断の場にいるというのは、医者のアルバイトのランクとしてはあまり上位でもないような気がする。この人もきっとやる気がないのだろうと納得したのである。

やっと釣れたタチウオなので今日はピザを作ってみた。おだんごクラブの会長さんのお店の人気メニューだ。どんなトッピングをしているのか知らないのだが僕はタチウオオンリーで勝負してみた。



おお、これはなかなかいける。人気メニューになるはずだ。

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