イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

初島沖釣行

2021年07月30日 | 2021釣り
場所:初島沖
条件:中潮 4:18干潮
釣果:マルアジ 5匹

まずは昨日のことから書き始める。
前々回の釣行のときに小船のスクリューのシャフトに巻き付いたPEラインが気になっていた。詳しい人が言うには、PEラインというのは熱に強く、巻き付いたままだとシャフトのシール部分に食い込んで海水がギアに入り込み破損させる恐れがあるということだ。
かなりの部分は取り除いているとは思うのだがそれでも気になる。やはり一度点検をしてみようと考え、陸揚げを計画した。水際まで引き上げれば作業はできるので潮が満ちきる時刻を狙って作業を開始する。
その時間は午前9時17分。この時間だと、芋その前に拾いの手伝いができる。芋掘りは隔日にやっているので電話で確かめてみると、「やるで」とのこと。
午前5時45分集合だそうだ。



ホイホイ芋を拾って午前7時。それを芋洗い機(そんなものがあるのだ。)に放り込んで洗い終わったのが午前8時。僕の仕事はここまで。そのまま港に向かう。
中潮なので満潮といえどもそれほどの潮位はあるまいと思ったらかなりの潮位だ。



ウインチ用のボルトを打ち込んだ位置からだと船体を半分も陸揚げできない。
少し潮が引くのを待つか、水に浸かって作業をするか・・・。
とりあえず引っ張り揚げるだけ揚げてみると、太もも近くまで入るとスクリューに手が届いた。そのまま作業を開始。一応、YouTubeで外し方は勉強している。部品を水の中に落とさないようにだけ気をつけて作業を進める。割ピンを取り外すのに手間取ったがそれ以降は順調だ。おそらくこういったものがシャフトに巻き付くのを防ぐ役目のワッシャーなのだろうか、凹みの入ったワッシャーが入っていて、そこに少しのPEラインが巻き付いていた。このまま使っていてもおそらくは大きなトラブルに繋がらなかったのかもしれないがこれでひと安心だ。



今日はもうひとつついでに作業をしようと思っていた。ずっと水漏れがしている生け簀の補修だ。完全に物入れと化している生け簀なので水が漏れると困るのだ。
しかしながら船体の半分はまだ水の中だ。生け簀の部分もまだ水から揚がっていないらしくきれいにふき取った生け簀の底から海水が染み出してきている。まあ、おかげで今までどこから漏れてきているのかわかなかった部分がよくわかる。樋の部分全体から漏れているのかと思っていたが漏れてきていたのは2か所だけだった。
もう少し潮が引いてくれないと作業ができない。その間しばし一服。
港に残っている古い東屋の縁台に寝転んでいるとそこを通り抜けてゆく南風が心地よい。



日本の家屋は古くは南に大きく開いた縁側があり、夏はそのまま家の中を南風が通り抜けてゆく構造だった。それで家の中の熱気が抜けていってくれる。だから家の中で熱中症になるなんて考えられなかったのではないだろうか。密閉された今の家屋というのはこの国では役に立たないというのがここで寝そべっているとよくわかる。
20分ほどすると生け簀の部分も海面の上に揚がってきたようだ。
本当ならエポキシ樹脂で作ったポリパテを使って割れ目を埋めるのだろうが、このために買うのはもったいない。僕はエポキシ接着剤と素焼きの焼き物を粉にして混ぜたなんちゃってポリパテを作って代用だ。



接着剤が固まるのを待って進水。残念ながら割れ目はうまくふさがらなかったけれども入ってくる海水の量はかなり抑えられている。次の上架のときに改めて補修してみよう。

それが昨日の作業だ。

そして翌日、今日も休みを取った。一応、表向きは昨日2回目のワクチンを打ったので眩暈がひどく休みますということになっている。世間ではこれをズル休みという。
特にやりがいのある仕事でもなく、今の職場の権力体制にも納得できないというか呆れてしまっているというか・・・、加えて退職まであと2年と少し、何をやっても不可逆的なもので僕のキャリアには何の足しにもならない。特に去年の1年間を過ごして強く思った。そう思うと、嘘でもなんでも何か理由をつけて有給休暇を取る算段をするのが得策なのだ。

向かうは初島。今日も飲ませサビキで大物を狙いたいと考えている。
出港は午前4時半前。確実に夜明けは遅くなっている。



道中、マルアジの反応を見ながら進んでゆくが大きな反応はない。そして初島沖に到着し、ベイトの反応を探るがまったくない。



このままここで留まっても埒があかない。とりあえずボウズを逃れるため沖へ移動。補修した尻栓の具合と、新しく追加したビニールひもの疑似餌の効果を試したいと考えている。
尻栓は特に問題なし。



淡いグリーンの疑似餌は特に効果的とも言えず、時たまアタリがある程度だ。



30分ほどやってこれ以上待っているともう、飲ませサビキのチャンスを逸してしまいそうなのでまた元の場所に戻る。本当は10匹は釣りたかった。
結局、ベイトの反応はまったく無く、これ以上粘っても同じようだ。日差しも強くなってきて暑さもましてきたので午前8時に終了。

今日の魚も神経締めをやってみた。5匹とも一発で神経締めが決まった。
脳への道筋が大体わかるとこんな小さな魚体でもワイヤーを入れることができる。



家に持って帰ってみると死後硬直していない。神経締めの効果が出ているようだ。

港に戻るころにはかなり暑くなってきていた。昨日も肉体労働で今日も午前2時半起きではかなり体にきつい。昨日も午前5時前に起きれが十分集合時間に間に合うはずだがなぜだか午前3時前に目が覚めてしまい、ブログの原稿をひとつ書けてしまった。
連日の寝不足もあるのだろう、ちょっと熱中症っぽい感じで眩暈がする。そういった意味では今日のズル休みは嘘ではなくなった。
そして午後からは安静にしていると本当に病人のようになってしまった・・・。
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「雑賀乱る 反骨の兵たち」読了

2021年07月29日 | 2021読書
つむぎ舞 「雑賀乱る 反骨の兵たち」読了

時代小説というのは年間どれくらいの数が出版されるのかは知らないけれども、今年も雑賀衆を取り上げた本を1冊見つけた。

舞台は同じく、石山寺の合戦と雑賀攻めである。
著者は裏表紙の紹介欄でも情報が乏しく、昭和43年生まれで広島出身、写真からは男性であることがわかるだけだ。前に読んだ本もそうであったが、ネットで調べても作家のプロフィールやほかの著作がわからない。時代小説の業界というのはよくわからないが、単発で小説を書いているような小説家というよりもライターみたいな人がたくさんいるのだろうか。
池波正太郎や佐伯泰英といった有名な人はごく少数なのかもしれない。

そして、連続して主人公は女性だ。これも時代小説のトレンドだったりするのだろうか。
雑賀といえば鉄砲だからこれもまた射撃の名手という設定で、おまけに名前も「蛍」と同じ名前だ。そして飛びきりの美人なのである。孫一と雑賀郷の棟梁である土橋重治もその器量と性格に魅了される。
これも伝説なのだろうけれども、夜目が効く射撃の名手はそういうあだ名で呼ばれていたということなのでそこから名前を取るのだろうけれどもせめて過去の作品を調べてもう少しひねりを聞かせてほしいとも思うのだ。(ひょっとしたら作家の名前は違うけれども同じ人だったりして・・)

物語は石山寺の合戦から始まる。
天正4年5月7日(1576年6月3日)、織田軍が石山寺と対峙するために建設した天王寺砦を本願寺軍が取り囲む。陥落寸前に織田信長自身がわずか3000の兵を引き連れて援軍として本願寺軍を急襲。その勢いを駆って石山寺に迫るが主人公が放った銃弾が信長の足に命中。
戦いは小康状態となる。

その後、翌5年2月22日(1577年3月11日)織田軍は雑賀攻めを行うのであるが、雑賀五郷のうち、東側、中郷、宮郷、南郷が織田側に寝返る。
雑賀郷と十カ郷は交易が盛んなのに対し、他の3地域は主な産業が農業だけというなかで財力に格差が出てきた。現実では、もともと信仰している宗教も違ったようだが、そういたことが発端で五郷での合議制を引いていた体制に亀裂が入る。
三郷で暮らす主人公は孫一たちと親交がありその危機を救うべく、4人の鉄砲組の仲間とともに風吹峠で織田軍の先陣を迎え撃つのだが、それから先が奇想天外というか、総大将の羽柴秀吉は主人公の女性に誘拐され、今度はその羽柴秀吉が配下の裏切りに会い命を狙われる。それを助けたのがその女性鉄砲撃ちなのだが、そこには秀吉が約束した雑賀を救うという言葉があった。主人公でありながらその女性鉄砲撃ちは刺客に命を奪われるが秀吉はその約束通りに雑賀の郷を焼き尽くすことなく降伏を受け入れさせることによって救う。

その後、孫一は織田の配下となって各地を転戦してゆくのだが、織田の配下として雑賀を存続させようとする孫一に対してあくまでも独立を維持しようとする土橋重治は対立することになる。
そこがタイトルの、“乱る”という言葉に表現されているようだ。

しかし、その孫一もこの対立に乗じて完全支配をもくろみはじめた織田軍に裏切られ再び紀州に攻め込まれるが本能寺の変で信長が討たれることにより織田軍は退却。ここでも紀州は救われた。

雑賀孫一という人は複数人いたとされている。それは歴代の当主がその名を世襲したからと言われている。それでも石山合戦から本能寺の変までの間、わずか6年ほどだからこの時期に雑賀孫一を名乗ったひとはおそらく一人くらいのものだろうが、このひとのことは謎のようである。
この小説では石山合戦で名をあげた孫一はその名前を利用し、敵を圧倒するため、各砦にいる配下に孫一を名乗らせたという設定になっている。こういう設定を利用して孫一がどうして歴史の中で人物が特定されず謎に満ちているのかということを暗に説明しているように思う。
また、史実では、本能寺の変の直後、孫一は雑賀の地から忽然と消えたそうだ。このエピソードも、織田軍の裏切りに怒った孫一が織田信長を討ち取るために紀州を出たのだということにしている。

いつも思うのだが、時代小説を書く人というのは史実と史実の間をうまい具合に空想でつないで面白い物語を創り出すものだ。
ほぼ嘘とわかりながらもそんなこともあったのと違うだろうかと思わせてしまう。語り手が一人称になったり三人称になったりとこれは小説の作法としてはありなのかとちょっと読みにくい部分もあったけれども、ストーリーとして誰も傷つける嘘でもなくたまにはこういう小説を読むのもよかろうというものだ。


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「野生のごちそう 手つかずの食材を探す旅」読了

2021年07月26日 | 2021読書
ジーナ・レイ・ラ・サーヴァ/著 棚橋志行/訳 「野生のごちそう 手つかずの食材を探す旅」読了

著者は、地理学者、環境人類学者という肩書を持ったアメリカ人だ。
『未開の土地が消えていくにつれ、食べ物の選択肢は狭まってきた。』そんな中、『ほとんど品種改良を受けず、加工もされてこなかった純粋な食材を摂取するのはどんな心地がするだろう。』という探求心で世界の各地を巡るというルポルタージュだ。

こういうテーマで書かれる書物というと、環境破壊が人間の生き方にどれほどの害悪を与え、人類はどの方向に向かうべきかというようなことを論じている本だと思うけれども、そんな感じはない。人類が自然環境に強力な負荷を与えて始めてから、自然界から直接得られる食材はどのように変化してきたかを淡々と述べている。おそらく彼女はそれも不自然とはいえ自然の流れのなかでの変化のひとつなのだと受け入れているような感じである。
環境破壊は悪で環境保護は善であると思い込んでいること自体、僕の頭はすでに二元論に冒されており硬直化しているということだろう。

欧米では現在、自然から直接得た食材に注目が集まっているそうだ。それはつい最近まで人間が普通に食べてきたものだけれどもおそらくは産業革命を境にして急激にそういうものを食べる機会が少なくなった。では、今、どうして注目を集めているのか。
そういったことを歴史や世界の各地の様々な場面を通して考えている。

旅はコペンハーゲンから始まる。ここでは都市の公園で採られるハーブについて語られる。いわば現在の自然から直接とれる食材についてのルポだ。ラムソンという、形は違うが日本でいうノビルのような食材が出てくる。コペンハーゲンでは有名な自然食材を出すレストランでも都市の公園で採れたものを使うそうだけれども、都市の土壌というのは鉛や農薬で汚染されていることがある。それでも彼らなぜ自然からの食材を欲するのか。それは、『不快感や暴食、健康の低下や種の絶滅、汚染や危機のさらされている現代において、野生の食材は人の心を酔わせるシンボル』となっているからだという。

時代をさかのぼり、封建時代の狩猟による大型獣の肉について語られる。ここではポーランドについて書かれている。封建領主が生まれ、庶民が使っていた土地を占領しそこを狩場として使うことで食肉というものは貴族に独占されることになってしまうのだが、この国は列強の侵略により領主がよく入れ替わった。そんななか、庶民はたくましくも追い出された土地に戻り猟を繰り返した。
外敵からずっと包囲されてきた文化は、森にかかわるという伝統によってひとつに束ねられてきた。国境が移動しても土地への忠誠心は変わらないということだ。それがアイデンティティだったのだという。

大航海時代ではウミガメを取り上げている。
ウミガメの移動範囲はかつてアフリカから新大陸へ奴隷を運んだルートと同じであったらしく、ウミガメは道中で食料として重宝されたそうだ。それがなければ多数の奴隷を運ぶことはできなかったという。アメリカの発展はウミガメが支えたといっても過言ではないということにもなるのだが、これも乱獲によってどんどん数を減らし、とうとう上流階級だけが食べることができる貴重な食材となった。
時代と環境が変わると食材の価値が一気に変わるという例として挙げられている。

世界の主役が新大陸に移ろうとする頃のことは、幾種類かの鳥類について書かれている。過酷な労働環境のもと、労働者の貴重なたんぱく源となる。しかし、これも乱獲により絶滅、もしくは保護の対象となっていくのである。

こうやって自然から直接得られる食材の種類は減り続け、代わりに家畜であったり栽培植物がとって変わっていくのである。自分がよく行くスーパーでも、魚はイワシ、サバ、アジ、鮭くらいしかなく、その他の魚介類でもエビは冷凍のバナメイエビかホタテの冷凍貝柱くらいしか種類は並んでいない。そういえばカレイのパン粉焼きともとは何という魚が使われているか知らないが、白身魚のフライというのもあったか・・。それでもそのくらいだ。野菜も白菜やキャベツ、レタス、大根、ニンジン、ホウレンソウくらいかそんなものだ。肉も当たり前だが牛、豚、鶏の3種類しかない。
幸いにして調理法というのがいろいろあるからなんとなくたくさんの食材を食べているように思うがよく考えれば本当に種類は少ない。たぶん縄文人たちはきっとこれの数倍の種類の食材を食べていただろう。
たかが食べることなのだし、同じ調理法でいろいろな味わいができればそれでもいいのではないかと思ったりもする。そんなに栄養価も変わらないし・・。とはいっても、たくさんの種類の食材を食べなければ、腸内細菌の種類が激減するそうだ。これはただの統計上の話だが、腸内細菌の種類が多いほど長寿になる。縄文時代のウンコの化石からは現代人の数倍の種類の腸内細菌が見つかり、長寿な地域の人たちの腸内細菌は普通の地域の人よりも多いということがわかっている。縄文人は現代人よりも明らかに短命であったのだろうが、それは医療技術の違いであるのだからやっぱりたくさんの種類の食材を食べるということは健康上必要であるには違いない。

ただ、これは幸いにしてというか、僕自身が釣りや山菜採りに行って普通ではあまり食べることができない食材を手に入れることができたり、叔父さんの家でもスーパーには出てこないような野菜をもらえたりしているからそういう風に思うだけなのかもしれない。個人的には種類よりも鮮度だと思っているところもある。

ただ、これはあくまでも貧乏人の考えのようで、この本では上流階級になるほどそういった珍しい食材を追い求めたくなるようなのである。
確かに貧乏人のコストコよりもたとえ三流でも百貨店のほうがいろいろな食材を取り揃えている。鮮度がいいかどうかは別だが。

著者はそういった欲求をこうまとめている。
『貧しい時は文明の産物にあこがれる。金持ちになると必要が満たされて、自然の産物が欲しくなる。』『人が野生の食材を食べると過去の自然の豊かさと物質的貧困両方への郷愁が押し寄せてくる。人間であることに現在と違う意味があった時代を経験したい。そんな思いがある。いつでも好きなときに快適な文明へ戻れる恩恵を手にしているからこそ。』だというのだ。
まさしくその通りだと思う。

そういった矛盾がどんなところに出てくるのか、コンゴ共和国の旅で現実をルポしている。
密猟が横行し、それを逃れるための賄賂、密輸、裏の経済が回り始め、自然の管理の歯止めが利かなくなってゆく。それらはヨーロッパの各国に流れてゆく。一方北欧では家畜を襲うオオカミは害獣とされ駆除の対象となりそのために増えすぎる草食動物があり、環境破壊の一端を担う。
すべてを見てみると、人間の過剰な自然への介入がすべてを引き起こしているように見える。
食べるものの種類が減ったのはまさしく自業自得だ。おそらく自分の身の回りの範囲で自分たちの分だけの食材を調達する分には自然は何の変化も起こさなかっただろう。ほかの場所のひとの分まで取ろうとするところから破綻が始まる。増えすぎた人口を維持するためには仕方がなかったのか・・。安全で便利な生活を得るためには仕方がなかったのか・・。それの答えがコロナショックだったのだろう。
自然は自分の身の回りだけで生きてゆけと警告しているのだ。もともと、「人と人はわかりあえない。」というテーゼは存在していた。23日の夜、オリンピックの開会式をやっていたが、国家ではない選手団もあったが全部で205の国や地域が入場してきた。国境というのは、そもそも分かり合えない同士だからここを境に干渉し合わないでおきましょうという境目だったはずだ。それを超えてモノやヒトが行き来するというのは、本来は好ましくないものであり、その禁を冒すことで様々な矛盾が生じるのだということがコロナショックでようやくわかり始めた。
しかし、こんなにたくさんの国があるのかというほど知らない国があった。入場行進は50音順で並んでいたが、マ行やラ行で始まる国がこんなにあったのかと思った。それをいうなら、ア行の国も多かったが・・。それだけ線を引いておかないとあれこれ問題がおきるということだろう。それでもいたるところで問題は起きているが・・。
それと、もうひとつ。国旗や大会旗、聖火を運ぶ人たちの中には、エッセンシャルワーカーと言われる人たちが多数出てきたが、ヒャッカテンノテンインやテンボウダイノカンリニンなどという人はひとりも出てこなかった。これも当たり前のことではあるけれども、なんだか虚しくなってきた。

「人は楽をしたがる。」というのもひとつのテーゼである。だから安く食べられるものがあればそれが多彩でなくてもそこのところは我慢をして楽をしよう、インフラも整ったものがあれば楽ができる。そういうことも人のこころの根底にある。

「楽をしたい。」と「人と人はわかりあえない。」のはざまで、人は永遠に右往左往するということなのだろう。


釣りもそうだが、ハンティングというのもそれを生業としている人というのは世界中を見てもごく少数だろう。趣味としての(釣りを含めてもいいのだろう)狩猟について、著者はこう言う。
『娯楽としての狩猟は、いうなれば節度のある暴力だ。ひとときの野生を体験して気力を復活させる。そのために狩猟に出る。』
これもなるほどだと思う。
僕もさすがにハンティングは無理だが釣りには行く。師は、「釣り師は 心に傷があるから釣りに行く。 しかし、彼はそれを知らないでいる。」と語ったが、僕はなぜ釣りに行くのかと考えてみると、実はあまりよくわからなかったりする。釣ることが楽しいのか、この本のように、自然から直接得た食材を食べたいという欲求がそうさせるのか。この2択で考えると52対48くらいかななどと思ったりもするが、かっこいい言葉で締めくくると、俳優の山村聰が書いているように、「釣り自体が遊びを超えてその人の人生になりうるのである。」と思いたいのである。
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水軒沖釣行

2021年07月25日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 6:23満潮
釣果:ボウズ

今日は叔父さんの畑で芋拾いの手伝いをすることになった。釣りができる時間は夜明けから1時間半ほどだ。ポイントまで行く時間を考えると実質は1時間ほどになる。何を釣りに行こうかと思案して、やっぱりこの前釣ったサゴシをもう一度狙ってみようということにした。
しかし、これが誤算というか、誤りであった。

明るくなる前にポイントに到着しておこうと今日は午前4時を待たずに出港。



大潮の満月が大きく見えているのでデッキの上は意外と明るいが海面はまったく何も見えない。



これでは魚が掛かったとしても取り込みは難しいのではないかと思うのでポイントまではゆっくり航行してゆく。
さて、仕掛けを流し始めると、今日は4連休の最終日ということもあり僕が流したい場所の前には多くのルアーマンが陣取っている。



けっこう距離を取っていたつもりだったが彼らのキャスティング距離はかなりあったようで、仕掛けが引っかかってしまった。向こうも焦っているようで思い切りラインを巻きにかかっている。こっちもどうしようもない。テトラに近づくこともできず、切れるのを待つしかないのだ。こっちは10号のナイロン糸を使っているので引き負けはしないだろうと思っていたのだが、回収してみると鉤が2本切れていた。PEラインの摩擦力に負けたのだろう。
前回のブログにも書いたが、この仕掛けに使っているタコベイトのヘッドは高価なのだ。うちひとつは引退したイトウさんか譲り受けた夜光貝で作られた貴重なものであった。
しかしへこんではいられない。予備の仕掛けに取り替えて釣りを再開。

しかし、またやってしまった。ベイトの反応がこのあたりによく出ていたので同じようなラインを流していたらお互い学習能力がなかったようだ。向こうもこっちが通過中は一服してくれればいいものを・・。
そしてまた2個ロストしてしまった。合計4個のロストはきつい。魚を掛けてのロストならまああきらめもつくがこんな形で失くしてしまうと落胆の度合いが大きすぎるのだ。
そして、他人とはいえ、渡船を利用してやってきている人たちで、船頭が同級生だとなんだか彼に迷惑をかけてしまったという後ろめたさもある。引っかけられた相手もいくばくかのクレームを言う可能性もあるかもしれない。まさか相手も同じ港に船を係留している人間がトラブルの相手だとは思わなかっただろうけれども・・・。

結局、何の獲物もなく午前5時半に港へ向かった。
よく考えれば、4日間も毎日ルアーで打たれていれば魚も散ってしまうだろう。住金の沖まで行っておけばよかったとあとから思うのである。
急いで帰り支度をして畑へ向かう。



労働で汗を流せば少しはこのもやもやが晴れるかと思ったがそうもいかない。芋洗いが済んでも心の奥底ではもやもやが残ったままなのである。
この2回の釣行はPEラインに悩まされた。これは用心して小船のスクリューのシャフトの点検もしておいたほうがよさそうだ。

午後から、撮り溜めしたビデオを観ながら、いまだに、ああ、4個もヘッドをロストしてしまったと考えていると、そういえば今日は7月25日であったということに気が付いた。
天神祭りの日だ。運転免許を取ったのが昭和58年の春だったが、その年のこの日、最初の交通違反で捕まった。家庭教師のアルバイトの帰り、和歌浦の天満宮の前を通って家に帰る途中、スピード違反で捕まった。あの日も天神祭りをやっていたのでよく覚えている。
もともと、天満宮というのは、政争に破れ大宰府で非業の死を遂げた菅原道真の怨念を鎮めるために作られた神社だが、ひょっとしたらその怨念が僕に降りかかってきたのだろうかと恐ろしくなる。毎年、きちんと初詣にも行っているのだが、何年か前から賽銭の金額を10円から5円に値下げしたからだろうか。確かに記録を見てみると過去の7月25日の釣行では真蛸を5匹も釣っている年もあった。まだこの頃は間違いなく賽銭は10円だった。昭和58年のあの日も、前を通っただけでお参りにはいかなかった。
これは困った。5円の賽銭のまま7月25日は家にじっとしているか、再び賽銭を10円に値上げするか・・・。
こっちのほうがもやもやの種になりそうだ・・・。

そしてそもそもだが、あのヘッド、本当に必要なのだろうか?無くても釣果に変わりがないのならイトウさんからもらった残りの2個は記念に取っておいてタコベイトだけで釣りを続けたいと思うのだが・・。
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水軒沖釣行

2021年07月22日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 3:46満潮
釣果:サゴシ1匹 エソ2匹


いよいよタチウオが釣れ始めたらしい。といっても渡船屋のルアーマンがたまに釣ってくる程度だが、いよいよ始まったなとうれしくなってくる。
防波堤から釣れるのなら船からなら確実に釣れるだろうと勢い込んでいってみた。台風のうねりが気になるが新々波止の北側なら怖くはないだろう。

午前3時50分に港に到着。今日はかなりの数の車が停まっており、これはきっと魚釣れているに違いないと嬉しくなってくる。



実はこの時点で、世間は今日から4連休であるというのを知らなかったのだ。
小船の出港準備はあっという間に終わる。午前4時には護岸を後にした。日の出の時刻は午前5時台と徐々に遅くなっているが、わずかに東の空は青く染まり始めている。



まだまだ海面は暗いので青岸の沖まではゆっくり進んでゆく。
早速仕掛けを下すがまったく反応はない。タチウオは夜行性なのだが、この仕掛けではあまり暗いうちには食ってこないのでまだまだこれからだと仕掛けを流してゆく。と言いながら、辺りはどんどん明るくなってゆく。

負け惜しみではないが、僕はヘッポコ釣り師であると同時に「朝焼け評論家」でもある。だから、魚が釣れなくても朝の空を見上げているだけでも満足なのである。
この季節の朝焼けはいつも見事だ。今日も真っ赤に東の空が染まっている。しばし手を止め写真を撮る。



それがよかったか、仕掛けを引き上げている最中に魚が掛かったようだ。急に重くなった。しかしながらどうも引きの感じがタチウオではない。上がってきたのはエソだ。まあまあの大きさなのでハンペンの材料にとキープ。

その後もアタリがあってもエソだけだ。こうなってくるとタチウオの見込みはない。今日はもうひとつ禁断の仕掛けも持ってきているので場所を移動。
これは残酷な話なのかもしれないが、神経締めの練習をしたくてツバスを釣ってみようと思っていたのだ。もちろん釣った魚はありがたく食べさせていただくつもりだ。

新々波止の赤灯台を迂回して防波堤の南側に出る。うねりが気になっていたが恐怖を感じるほどではない。仕掛けを下してゆっくり防波堤沿いを移動してゆく。



防波堤の真ん中あたりに来た時にアタリ。大きさはそれほどでもないと思ったが手元に引き寄せるほどに引きが強くなる。魚の姿が見える頃になってサゴシであるとわかった。しまった・・。今日はタモを積んでこなかった。もともとツバスしか釣れないだろうし、サゴシが釣れても50センチ止まりだから十分引き上げられるはずだと考えていたからだ。水面下の獲物はそれよりもひと回り以上大きい。
ええい、ままよ、そのまま引き上げてしまえと一気にデッキに放り投げた。70センチ足らずだろうが、その割には体高が高い。もう一息でサワラと言ってもいいのじゃないかと思うほどの大きさに見える。

早速この獲物で神経締めの練習。Nさんに教わった通りの手順でやってみる。最初のワイヤーの挿入ではうまくいかず先っちょが身の中に入ってしまったけれどももう一度神経の位置を確認しなおして挿入してみると今度はうまく入ったようだ。
しかし、さっきも書いたが相当残忍な行為だ。これ、人間で例えると、顎をグッと持ち上げられた状態でおでこから鉄筋を突きさされてそのあと八番線くらいの針金で脊髄をグリグリやられているようなものだろう。昔、「スターシップトゥルーパーズ」という映画で、敵である昆虫生物が人間を自由に操るためにそんなことをしていたシーンがあったけれども、あれは見ているだけでもおぞましかった。それを自分でやっているのだから僕も成仏はできまいと思うのだ。

その後、同じ場所を流すとまたアタリ。今度は先ほどよりも少し大きそうだ。これは絶対にタモが欲しいところだが、さっきもうまく放り込めたので今度もうまくいくだろうと高を括っていたが、魚体が半分ほど水面から出たとことで糸が切れてしまった。
もう少し慎重に、指を切ってもかまわないからハンドランディングを試しておけばよかったと悔やまれる。魚が惜しいのはもちろんだが、タコベイトのヘッドをロストしたのも痛い。このヘッド、小さい割には値段が高いのだ。失くしたヘッドも確か400円ほど出したのではないだろうか。
しかし、失くしたのは仕方がない。残りの2本のタコベイトで釣りを続けた。その後はアタリがあってもツバスばかりだ。どうもサゴシは海底深く沈んでしまったようだ。これで万事休す。港へ戻る準備をして終了。

港に戻り、係留作業をしていると、なんだか変な藻のようなものがロープに絡まっている。どこかからイネ科の植物が流れ着いたかと思っていたのだが、妙に細い。エンジンをチルトアップしてみるとPEラインがスクリューに絡まってしまっていた。色が蛍光グリーンだったもので植物と見間違えしまったのだ。これはやっかいだ。どこで引っ掛けたのだろう。シャフトに絡まったままだとシールを破損してしまう。取り除けるだけは取り除こうと腕を伸ばして作業をする。幸いにして帰港寸前に絡ませたらしく何重にも巻いているという感じではなかった。最後に残った部分は両方から交互に引っ張ると動くくらいだからほとんど取れている。しかし、全部は取り切れていない。片方から引っ張って抜けてしまわなかったということはシャフトには一部分だけ残ってしまっているに違いない。
少し心配だが、使っているうちに溶けてなくなるかほどけてしまってくれることを願うばかりだ。



ラインは長く続いていて、とりあえずは全部回収しないとまた誰かが引っかけてしまう。ず~っと手繰り寄せるとその先は僕の船の錨のロープにまで繋がっていた。そしてその先には大きめのキャスティング用のメタルジグが付いていた。



誰かがここで釣りをしていたのだろう。しかし、ここは船の所有者と渡船客しか入れないことになっている。ただ、ゲートがあるわけではないので、まあ、無法地帯であるともいえるのだが、まずはこんな場所でこんな大きなルアーを投げても魚が釣れるわけがなく、それを考えるとまったくのど素人が訳も分からずやってきてどんくさいことをして糸を切ったということになるのだろう。このラインの量だとおそらくは10メートル以上はある。この狭い場所でどうやったらこれだけの糸を残せるのかということがわからない。ルアーが引っかかっていた場所から護岸までどう見ても5メートルくらいしかない。普通なら船の所有者のことを考えて、人の船に乗り込むという行為は違法行為(不法侵入)になるとはいえ、こうしてスクリューに巻き付くというようなあとのことを考えたらそうしてでもルアーを回収するかラインを極力短く切るというのが最低のマナーというものだろう。
見る人が見るとわかるそうなのだが、このルアーに使われているスナップはエギング用のものらしく、普通はこういうルアーには使わないそうだ。それだけでもにわか仕込みの何も知らない輩のようである。
しかし、こいつはいつここで釣りをしていたのだろう。ラインは間違いなく帰港直前に引っかけている。ということは出港前にはまだラインは漂っていなかったということになる。それなら、渡船屋は営業しているし、たくさんの釣り客が乗船待ちをしている中、堂々と釣りをしていたということだろうか?そこは謎だ。幸運にも出港の時には糸を引っ掛けずに済んだということなのだろうか。確かに、巻き付かせたままずっとエンジンを回し続けていたらもっと状況はひどいことになっていたのは間違いがない。そこは幸運だったと思っておこう。

最近は密を避けられる遊びとして魚釣りは人気が出ているようだが、こんなアホには釣りをしてほしくはないものだ。「ここで釣りをしてはいけません」という看板を作ってくれたらいいなと思うが、こんなアホには、「ここでは魚は釣れません。」と書いてやったほうが親切なのかもしれない。
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加太沖釣行

2021年07月18日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:小潮 6:47干潮
潮流:4:13転流 7:39下り 2.2ノット最強 10:59転流
釣果:ホウボウ1匹 カズゴ1匹 ガシラ1匹(画像は3人分の釣果)


今日は隣に係留しているNさんの船に乗せてもらっての釣行だ。いつもこのブログにコメントを書いてくれるちからさんも一緒である。Nさんはタイラバのエキスパートなので今日は僕もタイラバ修行なのだ。

彼のいつもの出港時刻は遅いのだが、今回は僕のいつもの出港時刻に合わせてくれ、午前4時半に出港。彼は上り潮に勝負をかけたかったようなのだが、この時刻では下り潮になる。申し訳ないことをした。ちからさんにも愛犬の散歩をほっぽり出させてしまった。

梅雨宣言は昨日出たのだが、空気はかなりの湿気をはらんでいるらしく、朝焼けがきれいだ。



加太の海から四方を見ると遠くのほうで雨の柱が見えている。こんな光景は初めてみたのだが、雲というのは、雨を降らせ続けるとだんだん縮んでいくらしい。ほぼ無風状態の日だったので雲は形を変えず、ただ縮んでいった。



朝一に入った場所は非武装ポイントだった。幸先よく僕が仕掛けを入れた途端にガシラをヒット。今日は釣れそうだという予感がしたけれどもそのあとが続かない。大体、客人を乗せていくと船頭にはかなりのプレッシャーがかかる。Nさんも頻繁に場所を移動してくれる。
次のアタリはナカトの北側から少し地の島に入ったアカマツだった。仕掛けが海底に着いた直後に大きなアタリ。首を振らないので真鯛ではないようだが、よく引く。上がってきたのはホウボウだった。50センチ近くあっただろうか。ホウボウにしてはかなりの大物だ。

しかし、アタリもここまで。ほかのふたりも苦戦している。

今度は大きく場所を変えて沖に出てゆく。ナカトの北側は大きなすり鉢のような形をしているが、その北の端に来ているらしい。



今日は移動も操船も船頭にお任せなのでここがどこなのか、どっち向きに船が流れているのかさえもわからない。ある意味すこぶる楽ちんなのだ。船頭のプレッシャーも気にせず申し訳ない・・・。

ここもダメ。次はラピュタ前だ。



ここでちからさんが本領発揮。怒涛の3連発だ。すわ時合かと思いきや、残りのふたりは蚊帳の外だ。それほど変わらない仕掛けを使っているのに、こういう時がたまにある。ひとり以外は誰も釣らない・・・。しかし、Nさんもここで1匹ゲット。

そろそろ潮は転流時刻に近づいている。Nポイントの近くに移動。ここもダメだ。上り潮の始まりに期待して四国ポイントへ。ここで僕にアタリ。久々の真鯛の感触だ。まあ、真鯛といってもカスゴサイズだが・・・。連続して僕にまたアタリ。これは残念ながらハリスから切られてしまった。おそらくフグだろう。切れるというよりも食いちぎられていた。

ここでタイムアップ。とりあえずは3人とも獲物を得ることができたが、Nさんは不満足そうだ。僕にしてみると、いつもこれくらいしか釣らないから十分堪能できたのであるが・・・。

そして、今日はNさんから神経締めの方法を伝授してもらうのも目的のひとつであった。魚を神経締めしておくと鮮度が保たれるというのはよく聞くがいままで成功したことがない。首を落として脊髄の位置を確かめてならやったことはあるけれども、手探りで直径2ミリにも満たないあの穴を探り当てるというのは神業以上であると思っているので何度やってみてもうまくいかず、あげくの果てには差し込んだワイヤーが背中の途中から飛び出る始末なのだ。一応、YouTubeの動画なども何度も見て実践してみるのだがやっぱりダメなのだ。しかし、彼に言わせると、コツさえつかめば簡単にできるという。

一度手本を見せてもらうと確かに手品のように魚が神経を突かれて痙攣し始める。ひょっとして彼は木更津で裏の商売でもしているんじゃないかと思えるほどだ。
その方法を伝授してもらうと、まず、ワイヤーを通すための穴をピックで開けるのだが、その位置は、魚の側線の延長上であること(真鯛でいうと、目と目の間の少し盛り上がったところのほんの少し上のところだ。)、そしてピックを骨が当たるところまで差し込んで少しグリグリやると魚の目が回り始めるところがある。(骨の位置関係だとこんな感じだ。)



そこが脊髄の入り口になる。ピックを抜いてワイヤーを差し込んで何度か前後させて探ると魚が痙攣し始める。それがワイヤーの先っちょが脊髄に入った合図なのでそのまま押し込んでやると神経締めが完了する。とまあ、こんな感じだ。

僕も教えてもらったとおりにやってみると、見事に成功した。今までの苦労は一体何だったのだろうかと思うほどあっけなかったけれども、教えてもらわないとこの微妙な手の動きはわからないと思う。動画では絶対にわからない。天ぷらの揚げ方と同じだ。

その後2匹やらせてもらったが全部成功した。そのうちの1匹は15センチにも満たない普通はリリースサイズのチャリコだったのだが実験台となってもらったものだ。Nさんに言わせると、小アジやガシラでもやれるという。
そんな小さなものでもきちんと脊髄を突くことができる。僕も実は、前世では木更津で裏の商売をしていたのではないかと思えてくるほどだ。
実際、家に持って帰った魚は死後硬直が遅れている感じがした。これはきっと鮮度がよけいに保たれているということに違いない。今日は帰港してから2時間近くもしゃべり込んでいたのでいつもよりも魚をさばくまでには時間が経っていたはずだがこんな感じであった。
この技術がないものだから、「僕は港と家が近いから鮮度の良いまま家に持って帰ってすぐに魚をさばいてしまうから神経締めなんてしなくても大丈夫なのだよ。」とうそぶいてはいたのだが、実は、身が固くなってしまった魚を前にして、これって本当はあかんやつなんだろうなと思っていた。
もう少し練習したらどんな魚でもうまくやれるようになるかもしれない。次の獲物で試してみたいと思う。




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「縄文の列島文化」読了

2021年07月17日 | 2021読書
岡村道雄 「縄文の列島文化」読了

縄文時代の豊かな生活について、もっと知ってみようじゃないかと思って読み始めた。
著者は、「各地の文化、集団、民族が担っていた地域文化圏が文化の基本単位である。」という考えを基本にして、縄文時代にも見られた地域ごとの生活様式、文化などを類推している。

よく知られているように、日本に人類がやってきたルートにはいくつかある。
日本に人類が現れたのは、朝鮮海峡を渡ってきた人類が最初であった。これが約4万年前。
3.5万年前には南西諸島へも人類が渡ってきたけれども、北上した形跡はない。その間、2.5万年前にロシア経由(確たる証拠は出ていないが)で、そして、3万年前には、旧石器時代後期に北海道半島部、古本州、南西諸島の文化圏が出来上がっていた。

この人たちがおそらくはどこかから知恵を得て土器を作り始める。それが縄文時代の始まりである。縄文式土器というのはそういったものの系統がひとつだけあるのだと思っていたけれども、著者のいうとおり、地域ごとにいろいろなデザインがあるそうだ。そういった違いが文化や風習となってその地域独自のものとなっていくのだが、衣食住や葬制、信仰などの風習や文化はそれ以来昭和30年ころまであまり変化しなかったそうだ。

すべての事柄においてそうなのだろうけれど、よほどのことがないかぎり境界線というものは存在しない。旧石器時代から縄文時代の境目、縄文時代から弥生時代の境目、それ以降の各時代の境目というのは、その時代の名前を学者が勝手に決めたのだから、”ここから”と言われて確かに便宜上だけでしかないような気がする。
生活様式が多少変わってもそのベースになる衣食住や心の持ちようというのは境目がなく続いてきたということだ。
しかし、それだけ長く続いた風習を一気に打ち壊してしまった高度経済成長というのは一体何だったのだろう。これについては最後に考えてみたい。

その前に、縄文時代の人たちは何を食べていたかということを拾い出して書いてみる。やっぱり食べることに一番興味がいくのだ。
もうひとつ前に、住居や生活環境についても書いておこう。
住居は藁ぶき屋根のイメージがあるけれども、そこに土の屋根が主流だったらしい。これは火に強いというメリットがあったという。水場には板を張り体が沈み込まないようになっていて、丸木舟の残骸なども利用された。あとから出てくる栗の木は水に強く、こういった場所や丸木舟の材料になった。栗の木は燃料にもなったというのでありとあらゆるこころで活用されていたことになる。
この本では、宮城県の宮戸島遺跡の発掘調査から想像されている。調査は、貝塚から掘り出されたものを水洗いして篩にかけてから骨や残骸をしらべるという方法をとったということだ。なんも地道な調査のようだ。
この時代、7~8千年前、かなり温暖化が進み、東北北海道地域は日本でも一番豊かな場所であったとのことなのでまあ、こんなにいろいろなものを食べていたのかと思うほどの食材が出てくる。
春。
シカ、イノシシ
ワラビ、ゼンマイ、フキノトウ、カンゾウ、ノビル。ノビルは全国どこの遺跡からも出てくるらしく、かなり主流の食材だったようだ。
スガイ(これは知らない)、ヒジキ、ワカメ、アラメ。

夏。
イワシ(縄文人が食べた魚の3~4割を占めている)、スズキ、真鯛、うなぎ、アナゴ。
魚は囲い込み漁で獲っていたそうだ。遺跡から出てくる銛はこういった場面で使われていたらしい。うなぎとアナゴはどうやって獲っていたのだろうか・・。
アサリ、ハマグリ。アワビ、ウニ。外耳道外骨腫(サーファーズイヤー)という症状が出るほど海に潜って獲っていたらしい。

秋。
アジ、サバ、ワタリガニ。
栗、トチノミ、クルミ、ハシバミ、キイチゴ、桑の実、サルナシ、ヤマゴボウ、ヤマブドウ。
特に栗は主食に近く、集落の周辺で栽培もされていた。

冬。
あまりとれるものはなく、それまでにとれたものを乾燥や塩蔵して貯蔵していたようだ。

すべて遺跡の調査から見つかったものらしく、僕みたいにたまたま釣れたから食べたというものでもなさそうである。これだけでも相当な種類だが、ほかにも食べられていたものとしてはもっとあるようである。ちなみにフグの骨なんかも出てくるらしい。
それに、昆虫を食べていたという結果がないというのは、それを食べなくても生きていけたという意味では確かに豊かな食材があったのであろう。アフリカに行ったら、今でも食べているみたいだから気候の違いというのは大きい。

川のある地方では、鮭が主流になり、年間を通して食べられるように保存法も発達していたそうだ。
そして、これらは自分の集落で消費されるだけではなく、流通物資として他の場所へも流れていった。ほとんどは友好の証としての土産物であったのではないかとの見解だが、これがなぜそうだとわかるかというと、貝塚から出てくる魚の頭の数と背骨の数が合わないからだというのだ。頭が多くて背骨が少ないのはそれは干物にされてどこかへ持っていかれてしまったからだという推理はう~んとうなってしまった。

これだけ豊富な食材を食べているので、現代の狩猟採集民族の齲歯(虫歯のこと)になっている比率が、2%だというのに、それが17.8%もあったというのだからかなりのものだ。

流通というと、工芸品などもかなり広範囲で流通していた。矢じりやナイフの材料になる黒曜石などは八ヶ岳山麓から各地へ運ばれていたらししいし、北海道でとれる石斧用の石なども広範囲に流通していたようだ。ヒスイなんかもかなり広範囲に流通していたという分析もあるそうだ。新潟県からはアスファルトが流通した。これは接着剤として使った。
縄文時代には栽培農業や手工業というものは存在しなかったというのが定説になっていたけれども、栗の栽培や石器の流通の発見がそういった概念を覆しつつある。また、食料の流通ということも考えるとかなり現代にも通じるような社会構造であったのかとも思えてくる。

それなら、「縄文時代はみんな平等で平和な世界であった。」という定説はどうなんだろうか。そうやって貴重で平等には行き渡らないモノが集落に入ってくるとそこで不平等というものが発生し、身分の差というものがすでにできてしまっていたのではないだろうか。
独り占めしたい縄文人もいただろうし、それを持っている縄文人を妬む縄文人もいただろう。墓の規模や副葬品の差が出始めるというのは、かなり後期になってからというのが発掘による結果だそうだが、人のココロは化石にはならない。
著者の基本的な見解は、「縄文時代からの衣食住や葬制、信仰などの風習や文化は昭和30年ころまであまり変化しなかったそうだ。」ということなのだから、人の心の構造についても1万年前と今とではそんなに変わっていないのかもしれないと言っても間違いではなさそうな気がする。もしそうなら、縄文人も人間関係に悩んでいたのではないだろうか。
それとも、縄文の時代も意外とストレスフルな時代だったと思うのは僕自身がかなりのストレスを抱えているということの裏返しということだけなのだろうか・・・?

最後に、その昭和30年を境にして風習や文化がどうして劇的に変わってしまったか。これは縄文時代の話からはまったくかけ離れてしまう考察になるのだが、ここ最近考えていたことをまとめてみたいと思う。
結論からいうと、「ひとは楽をしたがる。」これに尽きるのではないかと思う。もし、縄文時代が平和で平等な時代であったというのが真実なら、それは楽ができないほど生きるために必死な時代であったからだと僕は思うのだ。食料、病気、天変地異それらにいつも振り回されていた。そういうことであったということではなかろうか。それなら全然楽しそうではない。たしかに、平和の反対語は戦争だから、そういう意味では戦争もできないほど生きることの必死なら戦争がなかったということで反対語の平和という言葉を使ってもいいということか。
経済が豊かになって食べ物も済むところも着る物も楽に手に入る方法ができてきた。だから人はそっちに流れる。それは必然であったということだ。

人が楽をしたがる。その結果、なにが始まるかというと、独裁政治だ。それは自由がなくなるのと同じである。このブログにも何度か書いているけれども、自分たちの努力で問題を解決せず、どこからか超人なり聖者なりが現れて、全部一人で背負い込んでくれるのを待っているというのが市民だ。
独裁者とは門閥貴族たちが根拠のない権利を主張して成立するものだけではない。民衆が作り上げるものもある。たとえ民主政治が行われていたとしても、それが腐敗してくると自分が何とかしなければと立ち上がるものが出てくる。
そのものは混乱を収拾するために全権を掌握し、例えば戒厳令や言論の自由を規制しようとする。それが独裁の始まりだ。
かつてヒトラーもそうであった。彼も最初、選挙で選ばれたのだ。
スガ総理が独裁者だとは思わないけれども、その言動や大臣の発言なんかを読んでいると、それに近いものがあるように思う。指導者というのは、それが長く続くと民衆を将棋かチェスの駒のようにしか見なくなる。それが、銀行を使って酒屋に圧力をかけるような行動に出てしまうのだろう。
独裁というのは、何も政治だけの話ではない。楽をしたがる人間というのは、会社にもいる。
今、僕が務めている会社も同じだったのではないだろうか。これは僕もそうなのだが、子会社に出向させられる人間というのは、本社で役に立たない、もしくは使いづらいから出向させられる場合がほとんどだ。出向とは「放り出す」という言葉を穏やか表現に書き換えたものだ。
そんな人間たちが集まって会社を経営しているのだから、私がなんとかしなければと思う輩が表れてもおかしくはない。
おまけにそいつが全部一人で背負い込んでくれるのだから無能な社員たちは余計に楽をしようとする。そうなるとますます何とかしなければと思う輩は全権を掌握して独裁体制を強固なものにしてゆく。
それがこの職場のように思う。
僕を含めてクーデターを起こすほどの気力もなく、元々、自分が何とかしなければと思うような気概がある人間ならここにはいない。大体、この理論で行くとクーデターを起こした人間も後々は独裁者になることになる。僕にはそんな野望はない。
だから、のらりくらりと残りのサラリーマン人生をうっちゃる算段をするのみだのだが、理想郷の話を読んでいたはずがとんでもない結論になってしまったのだ・・・。
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水軒沖釣行

2021年07月15日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 9:17満潮
釣果:サバ10匹 マルアジ4匹

今日の釣行記は前日の夜から始まる。以前のブログにも書いたが、今年はクワガタムシを獲りに行く計画がある。それを昨夜実行してきたのだ。僕が知っているポイント2か所、叔父さんが知っているポイント1か所を見て回ったがまったく獲物がなかった。一番確実視をしていたポイントにはカマドウマトムカデしかいなかったのだ。



レイチェル・カーソンではないが、この確実ポイントの地面にはまったく下草が生えていなかった。直近で刈り取った形跡もなく、これは除草剤か何かを撒いているのかもしれない。そういったことが原因ならここにはもう目当ての虫はやってきてくれないのだろう。ほかに知っている場所もなく僕の虫ライフもこれで終わりだ。
僕の父親は虫取りも大好きで、爺さんが虫取りをするための大義名分を得るために近所で誰かもらってくれる人はいないかと探していたというほどだ。
僕もそれに倣ってやっと久々に叔父さんの甥っ子(僕とは血縁関係がない)の孫がクワガタが欲しいというので大義名分を得たのだが、しかし、肝心のクワガタが欲しい本人が参加していないのだ。もし、僕たちが獲ってきていたとしてどういう説明をして孫に手渡してあげるのだろうとこっちが心配してしまった。だから神様が僕たちに恵みを与えてくれなかったのだろうなんて思ったりしたのだが、やっぱり原因は除草剤だろう。
こんなことになるのなら父親が持っていたポイントの場所を生前に聞き出しておくべきだった。仏壇の前で問うてみても答えてはくれないのだ・・。

そして2時間半の睡眠後、チョクリ釣りへ。
本当は今日は大きい方の船に乗ってはいけないのだが、こっそり乗ってしまった。だから僕が釣りに行ったということはこのブログを読んでいる人だけしか知らないのである。
そして、その理由を解消するために早く帰宅をしなければならないので勝負が早くてあまりたくさんの船に遭遇しないチョクリ釣りという選択肢になるのである。

今日も夜明け前に出船したのだが、なぜだか雷が鳴っている。



今日は天気がいいと思っていたので最初は何の音だろうと訝しんでいると北東と南西方向の空が時々光っている。



これは困った。万にひとつも船に雷が落ちるなどということはないだろうが、以前、雷の鳴っている日、持っているカーボンロッドがビリビリしたことがある。今日は特に海上でトラブルを起こすといつもよりもやっかいなことになるのでなんだか嫌な感じなのだが、まあ、行けるところまで行ってみようと雷が光る方向に舵を切る。

そんなに遠いところまで行かずともマルアジなら釣れるだろうと水深40メートル付近からスタート。この時点では魚探の反応はまったくない。
そしてそのとおりで全くアタリもない。今日は釣れなくても無事に帰港できればいいという考えなのだがやっぱりボウズは嫌だ。沖の方には1艘チョクリ釣りらしい船が浮かんでいるので意を決して沖に向かう。水深は約50メートル。結局、初島の沖ノ島が真南に見えるところまで来てしまった。タイトルは「水軒沖釣行」としているが、初島沖でもいいのじゃないかという感じだ。



ここでもアタリがない。そうこうしているうちに昨夜の睡眠不足のせいか、眠気が襲ってくるボ~っとしながら、午前6時半で今日は終わりだなんて考えていると舳先の置き竿が真っ直ぐになっている。魚探には何の反応もないので、また、スナップが開いて仕掛けを落としてしまったかと思ってリールを巻いているとサバが掛かっていた。あれまあ、釣れちゃった・・。
それでも今日は大して期待もできまいと生け簀の樋を開けずにバケツの中に取り込んで絞めてからすぐにクーラーボックスに入れてしまった。
ブログにはボウズと書かずに済んだと思っていたら今度は手持ちの竿にアタリ。これもフロックだろうとまたバケツの中に取り込んで絞める。
僕が竿を曲げているのを見たからなのか最初に見た船が近づいてきた。お互いに大して釣れていないようだ。



そんなことを数回繰り返していると魚の数もそこそこ増えてきた。

手持ちの竿の仕掛けは4匹掛ったサバに縺れさせられてしまいそれを解いている間も置き竿にアタリがある。なんだ、結局けっこうアタリがあるじゃないかと思ったが、午前中に片付ける用事があるので1時間延長の午前7時半に終了。

港に戻り叔父さんの家に魚を持って行ってまだ青いトマトを2個もらって帰った。V6の長野博が青いトマトを使ったサルサベルデというソースをテレビで紹介していたのでそれを作ってマルアジをソテーしたものに添えてやろうと思ったのだ。
これにはミントと青唐辛子も使うのだが、ミントは自宅に植えてあるし、青唐辛子は叔父さんの畑に山ほど実っている。



全部ミキサーにかけてペースト状にするのだが、出来上がったソースはただのヒリ辛くて青臭い青汁にしかならなかった。配合が悪いのか、いくら何でもトマトが未熟すぎたかどちらにしてもこれは食えない。
仕方がないので赤いトマトとバジルとシソを合えて赤いソースを作り直した。これは普通に美味しい。あんまり突飛なことは考えるなということだろう。



午前中にしなければならなかった用事というのはこの前受けた船の検査の検査証を引き取りに行くという用事だった。
また海南市まで出向いて引き取り。



検査済みとしてステッカーをもらうのだが、これは未だに元号を使っている。どうもピンとこない。今年は令和何年だっただろうか・・。かつて右翼の大物が牛耳っていた組織が検査の代行をしているとはいえ、いい加減に西暦に変えればいいと思うのだが・・・。



事務所の近くには海南nobinos(ノビノス)という施設がある。市民図書館なのだがなんとも格好いい施設だ。

 

図書館としての使い勝手という部分ではどうだかと思うが適当に本を読みながらくつろぐにはいい施設のような気がする。そして、雑誌が充実しているのにも驚く。普通に本屋に売っている雑誌がいっぱい置かれていた。



文化の保管場所としてはこんな雑誌群までは必要ないのではないかと思うのだが読む方にとってはありがたい。BE-PALなんて何年ぶりに読んだだろうか。最近、この雑誌はやたらと付録が付いていて紐でくくられてしまっているので立ち読みができないのだ。
サラーリーマン転覆隊と野田知佑、シェルパ斎藤の連載がいまだに続いていたのには驚いた。野田知佑はまだ存命のようだ。よかった・・・。
家からはかなり遠くて海南市民でもないが、また来てみたいと思った。

チョクリで使っている竿が壊れた。中古で買った古いインターラインの竿なのだが、10年くらいは使っているだろうか、中栓が折れてしまったのだ。この竿、チョクリ釣りには最適の竿なので何とかしたいところだが、前にも1回折れてエポキシボンドでくっ付けてしのいでいたが2回目ともなるとさすがに同じ方法ではダメだろう。部品があればいいのだろうが、「オリムピック」というよほど釣り歴が長い人でないと知らないメーカー製だ。メーカー自体が消滅しているのだから部品があるわけはない・・。
修理しようにもどうしたものかと思うのだが、樹脂自体も相当劣化しているようなのでとりあえず原型を壊したくないと思いネジの部分だけ補強をすべく加工用に買っていた延べ竿に通して接着しておいた。
あとはノープラン。少しの期間、無い知恵を絞ってみたいと思う。

 

中古というのは壊れた時が大変だ。以前に買ったノートパソコンもキーボードを打っても文字を表示しなくなってしまった。



「4」、「5」の列が下の方までまったく反応がしない。
多分、部分的に基盤が壊れてしまったのだろう。今は取り替えたデスクトップパソコンのために買ってきた中古のキーボードを使って文字を入力しているが、これではノートパソコンの意味がない・・・。
どちらも小さな部品の不調で全体がダメになってしまっているというなんとももったいない状態なので何とかしたいとは思っているのだが・・・。
知恵と技術があればな・・・。と悔しい思いをしているのである・・・。
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紀ノ川河口釣行

2021年07月12日 | 2021釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮 6:58満潮
釣果:キス14匹 マアジ1匹 ツバス2匹

今日は午前9時に船舶検査がある。だから、午前8時半前には港に戻っておかなければならない。夜明けからその間、どこに行こうかと前日に考えていると、通勤で乗っている電車から紀ノ川の鉄橋の下を覗いてみると、長かった雨にもかかわらず意外と水が澄んでいる。これでキス釣りに決定だ。

できるだけ時間を稼ぎたいので今日も夜明けとともに出港だ。夏至を少し過ぎて夜明けもわずかだが遅くなってきたような気がする。



そして、今日の午後の突然の大雨を予言していたかのように東の空は真っ赤に染まっていた。



紀ノ川河口に行く前に、少し禁断の仕掛けを試してみた。ここ数日、ツバスとサゴシが釣れているらしい。ツバスはあまり欲しくはないけれども、サゴシがくればありがたいと思っている。
今日は渡船屋が休みなので沖の波止のギリギリのところを流しながら進み、新々波止の東の端に差し掛かった時にアタリが出た。しかし小さい。その後もアタリがあった場所をウロウロしていると次々に掛かってくる。たくさんあっても仕方がないので2匹だけキープして紀ノ川河口へ向かう。

今日も100円橋の上流からスタートしたがまったくアタリがなく、アタリがあってもキビレやギンタしか釣れない。



やはり見た目よりも濁りがあるのだろうか、それもと潮時のせいだろうか。潮が止まり始めているので流れが速すぎるのか、はたまた川の流れとは関係なしに潮が止まるという現象自体が魚の活性を低くするのだろうか。
こんなことをしていては時間がもったいないので錨をあげて釣り下ることにアタリが出たところでまた錨を下ろそうという考えだ。

しかしアタリこない。エネルギーセンター前のテトラの前を通りすぎてしまったので少し位置を変えてまた船を流してみる。そうすると、100円橋のすぐ下流でやっと待望のキスが釣れた。
前回よりも少し型がよくなっているような気がする。ただ、アタリはそれほど続かない。やっと6匹釣り上げたところでもう一度元の場所に戻ってみようと考えた。



これでだめなら諦めて帰ろう。叔父さんの家で時間をつぶせばいいだろう。

この時点で午前7時。やはり潮の加減なのだろうか、アタリが出始めた。結局ここで粘っていればよかったのかもしれない。そんなことを言ってもあとのまつりで、8匹追加したところでタイムアップ。

午前8時20分頃に港に戻り、帰り支度を済ましてから検査の準備をしようと思っていたら、午前8時半ごろにふと駐車場の方を見てみると検査機構の車が停まっていた。
あれまあ、早い登場だと声をかけたら、相手もびっくりしていた。
別の船から上がって来た人が声をかけてきたのでこいつは誰だろうと思ったそうだ。
すぐに検査の準備のために保安装備を取り出して検査を受けた。
今日の検査員は当たりの人で、何の文句も言われずに約3分で終了。



たった3分で2万5千円は高すぎるのではないかと思うのだが、仕方がない。へんな文句を言われなかっただけありがたいと思っておこう。

結局満足な釣果もなく終わってしまったのだが、今日の収穫は橋脚に船をかけて何やら釣りをしている人を見つけたことだ。



一体何を釣っているのだろうと思ったのだが、ちょうどこの人の前を通り過ぎたころ、僕の仕掛けにソコソコの型のマアジが食ってきた。多分あの人のこれを狙っているのだろう。これはおもしろそうだ。
どんな釣り方をしているのかまではわからなかったけれども、機会があればチャレンジしてみたいと思うのである。


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「生命とは何か 物理的にみた生細胞 」読了

2021年07月10日 | 2021読書
シュレーディンガー/著、岡小天 /訳、鎮目恭夫/訳 「生命とは何か 物理的にみた生細胞 」読了

著者であるエルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーはオーストリア出身の理論物理学者である。
量子力学の確立に貢献した科学者のひとりだ。「シュレーディンガーの猫」というパラドックスで有名だが、フルネームを初めて知ったけれどものすごい大層な名前だ。本当に名は体を表している。

この本は、理論物理学者が生命とは何かということを過去の講演の原稿を元にして本にしているものらしい。物質のミクロの世界を研究している学者だけあって、本の内容も大半は細胞に関するものだ。この本は1944年の秋に書かれているが、遺伝子を構成しているDNAの発見は1953年であるということを頭に入れて読まなければならない。

シュレーディンガーはこの本の中で、生物の遺伝情報というものは長い年月に渡って壊れることがなく伝達されてきたのだから、分子レベルの暗号伝達物質によってできているに違いないと書いている。でなければ、おそらくタンパク質のような有機物が遺伝情報を持っていたら、それこそどこかの時点で腐ってしまって情報が消えてしまうはずだと考えたのだろう。その点、分子の結晶なら壊れてしまうことはない。実際、1953年に発見されたDNAは酸素と窒素と炭素からできた分子であった。それをすでに物理学の知識から予言していたというのがすごいというしかない。
そしてそれは「非周期性結晶」でできているに違いないという。相対する「周期性結晶」とは一般的な物理学者が扱う物質でその反応は単純であるが、様々な遺伝形質の発現があることを考えるとこれはきっと複数の分子が不規則に組み合わさって遺伝子ができているはずだとも予言している。これはDNAの種類が4種類でそのランダムな組み合わせでできていることを予言していたのか、それともひとつひとつの形質に対応する遺伝分子のようなものを予想していたのかどちらであったのかということは読み取ることはできなかった。後者の考えだと予言は外れたということにもなるが、遺伝子が作り出すたんぱく質はまさしくひとつが基本的にひとつの働きをして生物の体を構成するのであるからどちらにしてもシュレーディンガーの予言は間違ってはいなかったということになるのであろう。

そして、エントロピーの法則を生命に当てはめても考えている。エントロピーの法則とは、エネルギーのレベルにおいてすべての物質は秩序のある状態から秩序のない状態へ変化してゆくという法則だが、生物が生きるということはエントロピーに反し続けるということであると書いている。
福岡伸一先生がよく書いている、「動的平衡」ということがまさしくこのことを言っているのだろう。まあ、時代の順番からいくと福岡伸一先生がシュレーディンガーに倣ったということになるのだとは思うが・・。

そして、たぶんシュレーディンガーでさえわからなかったし、おそらく今でもわかっていなくてこれから先もわからないのだと思うけれども、「分子で構成されている物質がどうして生きているのか」ということに対しては、それはもう、「物理法則を超えた法則」があるに違いないとなっている。この意味は、生命というものは、決して奇跡の上で生きているのではないということを言っているのであるが、じゃあ、それはどんな法則の上で生命は生きているのか、それはさすがのシュレーディンガーでもわからなかったということなのだろう。

この当時、顕微鏡で見ることができる細胞の中身というのは染色体までだったそうだ。メンデルの研究が再発見されたのが西暦1900年ということなので遺伝子というものがこの染色体の中に入っているということはわかってはいたそうだが、そこからさらにその中身についてそれも畑違いの理論物理学者がここまで先見の明を発揮するというのは多分すごいことなのだろうと思う。
分子生物学という分野も同じころに始まったようだが、調べてみると(ネット上だけだが・・)やはりシュレーディンガーたちのような物理学者がこういう分野の考え方の基礎を作ったようである。

シュレーディンガーはこの本の中で、人間とは、『「原子の運動」を自然法則に従って制御する人間である。』と書いているが確かにそうやって永遠に入れ子のような堂々巡りのようにしか考えられないというのが生命の神秘なのだろうなと思ったりしたのである。
シュレーディンガーもアインシュタインと同じように、研究生活の晩年には自ら打ち立てた理論の現実との矛盾に悩み、それに対する後進の学者たちの答えに反発したそうだ。「シュレーディンガーの猫」のパラドックスも、その頃に提示されたらしい。
エピローグには、意識はどこから生まれるのかということに対して非常に哲学的で難解な意見が書かれているが、それはそういう葛藤や悩みから生まれてきたものではないかと訳者たちは考えている。
意識の根元は一体何なのか、人は死ぬとその意識は一体どこへ行くのか、それはただ消え去っていくだけなのか・・。超一流の物理学者でもそんな非科学的と思えるようなことを考えてしまうのかと思ったりもしてしまう。
それは未だ解明されいないけれども、いずれ解明される時が来るかもしれない。そのときまでは、シュレーディンガーの意識は混沌とした意識の宇宙の中で漂い続けているのだろうかと思ったりもするのである。


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