イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか」読了

2020年01月28日 | 2020読書
鈴木美潮 「昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか」読了

この1冊には僕の少年時代の思い出とあこがれがぎっしり詰まっていた。
1970年代は特撮ヒーローにとっての黄金時代だったそうだ。1966年にウルトラマンが放送開始。その頃の僕はこんな感じ。



あまりにも小さくてまだウルトラマンが何者であるかということはわからなかったのであるが、1971年仮面ライダーの放送が始まった。そして時を同じくして帰ってきたウルトラマンの放送も始まった。僕は熱狂した。この2大ヒーローにはおそらく僕の世代の子供たちは全員熱狂していたはずだ。
その波に乗ってあまたのヒーローが生まれたのが1970年代であったのだ。この本には当時の午後7時、最大で8人(組)のヒーローが活躍していたそうだ。アニメを加えると膨大な数のヒーローが登場していたことだろう。まさにこの時期が僕の少年時代である。

しかし、悲しいかな。ヒーローの戦いとともに我が家ではチャンネル争いというもうひとつの戦いが繰り広げられていた。テレビは1台だけ、当然ビデオなんていうものははるか未来の話。いつも姉に負けてばかりいた。だからこれらの特撮ヒーローのうち多分半分も見ていないはずである。しかし、名前の記憶がなくても、ネットで画像を検索してみるとああ、これこれ。というすぐに思い出してしまえるものばかりだ。テレビを見られなくても友達の家で読む「冒険王」や「てれびくん」で知識だけは蓄えていた。ちなみに僕は誕生日か風邪を引いた時でないと買ってはもらえなかったのだ・・。
仮面ライダー、ウルトラマンはもちろん、V3、超人バロム1、快傑ライオン丸、ミラーマン、アイアンキング、シルバー仮面、人造人間キカイダー、イナズマン・・。キカイダーとイナズマンは悲しいかなチャンネル争いで敗北を喫した。そういえば、宇宙戦艦ヤマトも見せてはもらえなかった。(拝みに拝んでキカイダーはハカイダーの登場までには見せてもらうことができたが。)

著者はその70年代のヒーローたちが世相の変化をどのように映しとっていったかということを女性新聞記者の目を通して綴っている。
1970年代の前半は戦後最長といわれたいざなぎ景気の最後のほうにあたる。人々の暮らしは豊かになる反面、公害問題や過激派の活動などの社会問題も浮き彫りになってくる。
この時代の特撮は今思うとどこか物悲しい雰囲気が漂っている。撮影技術が今ほど進歩していなかったということもあるだろうけれども登場する怪人や怪獣もヘドロから生まれてきたり、放射線をまき散らしたりと当時の社会問題をストーリーに取り入れているところが重苦しさを醸しだしていると著者は言う。物質的に豊かになっていく中で、その裏側で歪んでゆく社会への不安やこの豊かさが永劫のものとは考えられないという不安がそうさせているというのだ。また、これらを制作していた人々はほぼ全員戦争を体験した人たちだ。そういった人たちは子供向けのテレビとはいえ、そこには平和や反戦など伝えたいものを込めているのである。ウルトラセブンの脚本家であった、金城哲夫、上原正三のエピソードは有名である。また、人世代前の月光仮面の原作者、川内康範は月光仮面を、「正義の味方」と説明しているけれども、これは「人間はどんなに権力を持ち、仁徳をつんでも『正義』そのものにはなれない。人間は神様や仏様のお説きになる愛や正義や真実を顕すための手助けしかできない。」という意味だったそうだ。さすがお寺の息子だ。仮面ライダーのプロデューサーであった平山亨は、「正義という言葉だけは使いたくはなかった。ヒトラーみたいな独裁者だって『正義』を唱えるのだから。」と言い、ライダーには「自由のために戦うのだ。」と言わせている。なんとも深い。

そして時代はまだまだ甘く、コンプライアンスという観念もあったかどうかわからないけれども、思想犯のような悪役が狙うのは国会議事堂の爆破であったり、日本を転覆させようとしているやつらのコスチュームがアラブ風だったり、やってることはテロリストだし民族差別もはなはだしい。今ではまず放送できないようなストーリーがたくさんある。ショッカーのゾル大佐はナチスの残党という設定も今では確実にアウトだろう。世論もうるさくはなかった。加えて、乱立するヒーローたちの中でなんとか目立とうととんでもないキャラクターが登場したりする。はたまた悪役にも共感できるダークヒーローというべき登場人物も現れる。こういう面白いエピソードやシンパシーを冷静な文章で突っ込んだり愛情豊かに表現する著者はさすがに新聞記者だと感じさせる。
しかし、新聞記者という職業のひとというのはどれほど没入力と記憶力があるのだろう。本を書く前にはビデオや資料を見直すのだろうけれどもそれにしてもすごい情報量だ。そして分析力にも感心する。戦隊ヒーローと女性の社会進出についての考察にはそこまで考えるかとツッコミを入れたくもなるのだが妙に納得させられる。

そして70年代後半から80年代にかけて特撮ヒーローは減少の一途をたどる。オイルショックのあと、日本が不況に見舞われ製作費を思うように使えなくなったということが大きいけれども、著者はこの時代、現実におこる犯罪や事故、災害が空想で作られた悪事を超越しまったからだと説明している。なるほどこれも説得力がある。僕もオウム真理教のニュースを見ながら、これって本物のショッカーじゃないかと思ったものだ。原発事故はゴジラよりも怖く、リストラは背後から忍び寄り口の悪い女子社員は妖怪よりも強烈だ。
90年代に入ってくるとこれにコンプライアンスというものが加わってくる。作る側は苦情を恐れて無難なもの、無難なものと、とんがったものを作らなくなる。今も続いている戦隊ヒーローも面白いといえば面白いけれどもなんだか毒もないし悲壮感もない。

仮面ライダーが1971年に始まり、中学生になったのが1976年、それ以降は形だけだったがテレビは二の次で高校を目指すために勉強をしているふりをしていたので思えばこんなにヒーローに熱狂していたのはたった5年間ほどのことだったのだけれども彼らのことは濃厚に記憶の中に残っている。それだけ衝撃が強かったということだろう。
歳も歳だから正義のヒーローにドキドキもしていられないのだけれども、ノスタルジックに浸っていたいというのも本音なのである。

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「雑賀の女鉄砲撃ち」読了

2020年01月26日 | 2020読書
佐藤恵秋 「雑賀の女鉄砲撃ち」読了

図書館の書架を眺めていると、またまた雑賀衆が主人公の時代物小説を見つけてしまった。完全無欠の時代劇空想ヒーローの話なんてと思いながら結局またまた借りてしまった。
今度の小説の主人公も女性たちだ。スターウオーズしかり、最近のヒーローものは女性が主人公というのがトレンドなのだろうか。

物語をざっと解説すると、雑賀衆の太田党の統領、太田左近には美人の四姉妹がいた。それも飛び切りの美人ときている。川原家の三姉妹よりも現実味がない。
その四女蛍は鉄砲の名手で、長篠の戦いから秀吉の太田城の水攻めまでの蛍の活躍を中心に描いている。雑賀一族最大のヒーロー、雑賀孫市は今回は敵役として描かれている。
雑賀一族はご存じのとおり、一枚岩でなく、大きくは海側と内陸側で敵対をしていた。海側チームは門徒宗、内陸側チームは根来寺との関係が深い。孫市が統領の海側チームは石山本願寺→豊臣方に与し、対する太田左近が統領の内陸チームは織田信長→徳川家康側についての戦いを演じてゆく。

もちろん、本当の歴史の中にこんな四姉妹がいたという確証はないのだが、歴史の流れは間違いなくトレースされている。これは前回読んだものとは大きく違う。それでいうとこちらの方が少しは読みごたえがあったけれども、こんな小説を書く人もこれはこれで大変だなと感心してしまう。空想の主人公に無理矢理でも歴史を動かす端緒を握らせなければならないのだから。
この小説にも、本能寺の変のあと、家康が堺から逃れるシーンがあって、もちろん護衛として蛍が同行するのだが、おそらくその他の時代小説でも多数この場面を扱ったものがあるのだと思うけれども、それぞれの小説のヒーローが全員集合したら伊賀の里が大混雑したのじゃないかと変に心配してしまった。

僕の出身は海側なので昔から雑賀孫市が戦国最大のスーパーヒーローだと思っているところがあるので、今回はヒール役で登場しているというところにはなんだかなじめないところがある。そして孫市についてもまだまだ知らないことが多い。もともと孫市という名前(孫一というほうが正確らしいが。)も世襲受け継がれ何人もいたらしいけれども、この小説では出身は十ヶ郷(紀ノ川の北側)となっていた。調べてみると確かにそんな説もあるそうだ。また、太田城の水攻めのために造られた堰は今の僕の仕事場辺りも通っていたそうだ。これはこれでまた知りたいことができてきた。

どちらにしても何も考えることなく展開だけを追いかけるだけで読み進められる。久々に大阪へ出た帰り道、缶酎ハイを飲みながら読むのにはもってこいの1冊であった。



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200メートル先にある謎

2020年01月22日 | Weblog
数年前、ワカメ採りの準備をするために港の近くの竹やぶに入ったとき、崩れかけた鳥居をみつけた。



僕は生まれてから12年間この集落に住み、ここを離れてからもしょっちゅうこの付近を訪れているのだが、こんなところに鳥居があるなどとはまったく知らなかった。ここに鳥居があるということは、ここに神社でもあったのだろうかとひとつの謎が生まれた。
まあ、それを知ったからといってどうということはないのだが、それ以降竹やぶに入るたびに気になっていた。今年もワカメを採るための竹竿を切るために叔父さんの家の裏の竹やぶに入ろうとしらた、隣の家の裏のほうがまっすぐな竹があるぞと教えてくれた。隣のご主人に断りを入れて入らせてもらうと目の前にあの鳥居が現れた。



いつも港から入るので位置関係がわからなかったがこの鳥居は叔父さんの家の隣の裏のごく近くであったようだ。この集落は紀ノ川の砂州の上にできたようなところなので砂州の海側か川側かという位置関係にあったのだ。

あらためて疑問が湧きあがり、竹竿を切りだした後、隣の家を訪ね、ちょうど集まっていた僕の叔父さんを含めた70代の人たちにあの鳥居のことを聞いてみた。隣のおじさん曰く、昔からあるけど知らんな~。とのこと。
どうして鳥居だけが・・とますます疑問が湧いてきた。ぼくが以前から考えていたことは、ここ、水軒にも昔は漁師がいて、漁協もあった。隣の雑賀崎、田ノ浦、和歌浦にはエビス神社があるけれどもこの集落にはない。この集落にあるのは住吉神社だけなのだ。
と、いうことはこの鳥居はかつてこの集落にあったエビス神社の名残ではないとそのルーツを思い描いた。ただ、この説にもおかしなところがあって、もしエビス神社があって、この場所から移動させねばならないような事情がおこったとしたら近くの住吉神社に合祀されていてもおかしくない。しかしながらここにはエビス様は祀られていないのだ。

そんなことをSNSで呟いてみたら、「図書館で古い地図を見てみたらいいんじゃないの?」という書き込みをもらった。確かにその手がある!早速釣りに行けない風の強い日に図書館を訪ねてみた。カウンターで、昭和の初めころの和歌山市の地図ってありますか?と聞くとさすが図書館だ、2秒で出てきた。というのもこんな資料をほかに借りる人がいるのかどうか、カウンターの後ろの一時保管用の棚に和歌山市史が1冊置かれていてその付録として昭和17年の地図があった。
コピーを取らせてもらって家に帰りスキャンをしてグーグルアースの衛星写真と重ね合わせてみた。地図の縦横は養翠園のヘリとその近くの橋が重なるように調整をした。養翠園は江戸時代からあるからおそらくこの地形はそんなに変わっていないだろう。
それがこれだ。赤い丸が謎の鳥居がある場所。黄色い丸が住吉神社。住吉神社はしっかりと古い地図にも書き込まれている。



まずは海岸線が全く違うということに改めて驚く。もともとこの辺一帯は紀ノ川から続く白砂青松の遠浅の海岸が続いていたのだ。風光明媚な海岸として有名で、僕のおばあちゃんの自慢は、「みそらひばるが映画を撮りに来たことあるんよ~!」ということであった。どうもひばりとみはるを合体させてしまったようだ・・。
約50年前、ここを貯木場にするため海岸を埋め立て今のような姿になった。僕には砂浜の記憶はないのだけれども砂浜で遊ぶ姿を撮った写真が残っているので正確には52~53年前には埋め立てが始まったものと思われる。
その鳥居と住吉神社は両方とも海岸線のぎりぎりのところに建っていたようだ。そこからいろいろ想像を巡らせる。
住吉神社は東(陸の方)を向いている。また、鳥居のほうは海岸ぎりぎりにたっているというこことがわかる。ということは、人は海岸からこの鳥居をくぐったということは間違いがない。おじさんたちの話では、おそらく昭和30年代、海岸の埋め立てがされる前からこの鳥居の周りには特に建造物らしきものはなかった。それらを考え合わせると、あの鳥居は住吉神社の一の鳥居ということになるのではないだろうかというのが僕の結論だ。
住吉神もエビス神と同じく海上安全や豊漁祈願の神様だが、東の方を向いている神様に海から直接参ろうとすると神様の裏側にぶち当たる。神社の裏から入るわけにもいかないから少し離れたところに参道を作ったのではないかと僕は考えた。古い地図の海岸線の描写が正確なら謎の鳥居のある場所は少し凹んでいる。そこはきっと小さな船溜まりにもなっていたのかもしれない。最短距離ではないけれども、付近には道もついている。長い年月の間に道の位置もかわり迂回路のようになってしまったのかもしれない。

ちなみに、住吉神は3柱の神様が合体したという、現代にたとえるとゲッターロボのような神様なのだが、そのなかのひと柱の神様の本地は阿弥陀如来だそうだ。だから西方浄土の方向を向いて拝む位置に建立されたとも考えられるのではないだろうか。

そんなことをSNSに書き込むと、ひょっとしたら矢ノ宮神社の参道かもしれませんよという意見をいただいた。矢ノ宮神社も歴史が古くそのご祭神は八咫烏だ。雑賀孫市も戦勝祈願をしたというところで、昔から地元だけではなく、広く大阪、淡路方面からもお参りに来る人がいたとホームページには書かれていた。そういう人はおそらく海を越えてくるか海岸伝いにやってくるだろうからやはりここが海からの参道の玄関口になっていたのかもしれない。
この鳥居からほぼ真東の方向に矢ノ宮神社がある。八咫烏は神武天皇を導いた神様だからそれにちなんで東の方に進むように位置を定めたとも考えられる。

謎は完全に解明されてはいないけれどもどちらにしても海からの参道の一の鳥居という可能性が高いようだ。そしておそらくはこの場所、水軒堤防が位置する場所でもある。



水軒堤防というのは、水軒の浜に沿って紀州徳川家の祖である頼宣の時代に造られた石積みの防波堤で、何度かは造り直されたようだがその土木技術は当時の最先端を行っていたそうだ。それ以来水軒の集落と畑、徳川家の別邸である養翠園を台風の被害から守り続けていた。この工事を指揮していた人の俳号が“水軒”だったのでこの辺りを水軒と呼ぶようになったと港の近くの看板に書かれていた。この鳥居もその堤防の上に築かれていたのかもしれない。砂地の上だと石の鳥居なんてすぐに倒れてしまいそうだ。
石の堤防の上にポツンと佇む石の鳥居。きっとインスタ映えするスポットになっていたかもしれない。そのまま残しておいてくれたらと思うけれども、そんな環境であったら台風が来るたびに船をどこへ避難させようかと右往左往するはめになっているだろうからこれはこれで困るのだ・・。ただ、この想像も、水軒堤防は砂の堆積によって地面からはかなり深く埋もれてしまっていると聞くからこの鳥居の基部はどんな環境になっているかはまったくわからない。といいながらも古いアルバムから引っ張り出した写真には水軒堤防らしき風景が見える。52、3年前には堤防は露出していたのかもしれない。やっぱり堤防の上にポツンと佇んでいたのかもしれないのだ。



そしてなにより、数百年前からここには人が住み、僕と同じように神社に手を合わせた人たちがいて、その中のひとりは間違いなく僕につながる人であったと思うとなんだか崩れかけた鳥居にはもう一息頑張って立ち続けてほしいと思うのである。




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「ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで」読了

2020年01月21日 | 2020読書
福岡伸一 「ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで」読了

この本はドキュメンタリー「ボクの自学ノート」の主人公の愛読書ということで紹介されていた。
著者は僕もいままでいく冊か読んだことのある分子生物学者だ。週刊文春に連載されていたエッセイをまとめたものだから特に小中学生向けの読み物というわけではないが、ところどころに学者を目指した理由や子供時代の思い出が書かれているので確かに未来に希望を抱いている若者が読むにはよい本なのかもしれない。そして一節ごとが2ページ半という短さも読みやすい。
著者が生物が生物であるための定義のひとつとしている、「動的平衡」をキーワードに生物学はもちろん、絵画、文学、音楽さまざまなものについて語っている。あらゆる分野に精通している著者らしい語り口が心地よい。

科学者の本を読むといつも思うのだが、小さいころから並々ならない好奇心と行動力を持った人でないと科学者や研究者という人にはなれないんだとつくづく感じる。
これは科学者に限ったことではなく、サラリーマンの世界でも自分の業務に並々ならない好奇心と行動力がないことには出世ができない。寝ても覚めても仕事のことを考えるというようなことは僕にはついぞできなかった。それどころか、会社はできるだけ早く抜け出し通用口を出た瞬間から会社のことは何も考えないようにしていたのだからこれではダメだ。これはもう、仕事に誇りを持つかどうかという以前の問題だ。
それじゃあ仕事以外の何かならそれだけの好奇心と行動力を発揮できるかというと、仕事でさえもできないのだからほかのものでそれができるわけがない。
そういうことを思いながら読んでいるとなんだか少しばかり悲しくなってくるのである。

この本は生物学に関する話題がメインだが、たまに星の話も出てくる。2009年の日食の話題もあった。僕も見ることができなかったようで、恨み節みたいなものをこのブログに書いている
星というと、冬の星座のオリオン座で一番明るいベテルギウスが爆発寸前だそうだ。今はものすごく暗くなっていて普通なら周期的に明るくなってくるらしいのだけれどもその兆候が見えてこないらしい。
ベテルギウスの爆発というのはその大きさから超新星爆発になるということはわかっているそうだ。超新星の爆発は歴史に記録された肉眼での観測は中国で西暦393年、日本では西暦1054年藤原定家が「明月記」で記録をしていたらしい。いずれもかなり遠くの星であったが今回は640光年という近くで、半月くらいの明るさで日中でも見ることができるそうだ。寸前といっても100万年くらいの誤差があるそうだけれども、なんとか生きている間に見たいものだ。昼間に輝く星というのはどんなものだろうか。ぜひ夏の間に爆発してくれ。

このエッセイはまだ週刊文春で掲載が続いていて、今日、たまたま図書館で読んでみると今週号は釣りに関するエッセイであった。荘子からとった、「尾を塗中に曵かんとす」という箴言が紹介されていた。

莊子持竿不顧。曰、吾聞、楚有神龜、死已三千歳矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者寧其死爲留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎。

ストーリーはこんな感じだそうだ。
『荘子(そうし)が濮水(ぼくすい)で釣りをしていた。
楚王(そおう)は高位の臣下二人を先に行かせ(王の意向を伝えさせ)た。
「どうか国境の内側(=楚の国内のこと)を(あなたに)お任せしたい。」
荘子は竿(さお)を持ったまま、振り返りもせずこう言った。
「わしの聞くところでは、楚に(吉凶を占う)神聖な亀(の甲)があって、(その亀は)死んでから三千年たっている。
楚王は布で包んで箱に入れ、祖先の霊を祭ってある堂の上に大切にしまってあるという。
この亀としては、死んで甲羅を残して貴ばれるのを願ったであろうか、それとも生きて泥の中で尾を引きずって動き回ることを願ったであろうか。」
二大夫は言った。
「それは、やはり生きて泥の中で尾を引きずって動き回ることを願ったことでしょう。」
荘子は言った。
「帰るがいい。
わしも泥の中で尾を引きずって動き回ることにしよう。」 』

確かにそれは理想というか、男の生きざまとしてはカッコいい。
鴨長明といい津軽采女といい、能力があっても報われない人たちというのはたくさんいたようだが、その中でも荘子ははなからそれを望んだというのがカッコいい。

しかし、荘子が言うとさまになるけれども、はなから無能で先が見えてしまったサラリーマンが言うとごまめの歯ぎしりにしか聞こえないのだ・・。
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「Fishing Café VOL.64」読了

2020年01月18日 | 2020読書
シマノ/編 「Fishing Café VOL.64」読了

2019年12月9日は師が亡くなって30年目の日に当たっていた。10年前には展覧会があったり関連本が発刊されたりしていたが30年となるととくに目新しい動きがないのが残念であった。30年という期間というのは人間が意思を持って生きられる人生のサイクルに当たるということを聞いたことがあるけれども、師のことを知っている世代、崇拝する世代もサイクルをひとつ終えたというところなのだろうか。僕はまだまだ崇拝世代なのだけれども・・。

といいながら最近では師の著作を読み返すこともなく、そういえば12月は師の亡くなったつきだったなと思うくらいでしかなくなっていた。

図書館には雑誌と新聞の閲覧コーナーというところがあって、ソファーなんかが置いてあって一服するには快適なスペースである。そこの書架になぜだか1冊釣り関連雑誌が置かれている。それがこの雑誌だ。季刊誌で冬号が師の特集になっていた。去年は亡くなって30年、そして今年は生誕90年の節目になる。そんな時期なのでこの本も特集を組んだのだろう。せっかくなので図書館で読まずにアマゾンで注文してみた。

師の特集ページでは生前に師と行動を共にした人たちのインタービュー記事と師の作品からの一言半句を紹介するというかたちの編集である。どの人についても、どの文章についても、どの写真についてもすでに自分の知っている内容であったのだが、久々に読むと懐かしさがあふれてくる。そして師の文章はたとえ一片のものであっても心に響く。

その中に、島地勝彦という人が出てくる。この人は元「週刊プレイボーイ」の編集長であって師とも共著を出している人だが、この人は新宿の伊勢丹で「サロン ド シマジ」というバーをプロデュースしている。一度その前まで行ったことがあるのだが、結局尻込みをしてしまってドアを押すことができなかったという思い出がある。どうしてドアを押すことができなかったのか・・。

「このカウンターに座れるほどの男ではない。」

一言でいうとこうなのである。

多分、師と酒を酌み交わすことができる人というのはひとりの男として確立した人たちでこの特集の登場人物は師の影響で確立できた人たちでもあったのであろう。
結局、僕は一生男にはなれないんだと20ページほどをめくりながら沈んでいくのである・・。

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「「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている」読了

2020年01月16日 | 2020読書
ジェイムス スーズマン/著  佐々木 知子/訳 「「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている」読了


今の仕事というのは、勝手に客にランクをつけ、僕からするとまったく買っても価値のないとしか思えないものを売りつけるような仕事である。旅行に連れて行ってやるから宝石を買えというのはどこかがおかしいのではないだろうかとずっと思っているのだ。
無意味に高額なものであってもそれを持つことによって満足が得られればそれでよいのかもしれない。万札を財布から出すことが楽しみならそれもいい。しかし、数十万円のカバンや数百万円の腕時計であってもモノを入れられる空間が極端に大きいわけでなし、自分が持っている時間が数百倍に増えるわけではない。
まったく羨ましくないと言えば嘘になるけれども、1万円のしゃぶしゃぶのお肉よりも自分で釣ってきた魚を自分でさばいて食べる方が喜びは大きいのではないかと思っている。
まあ、身なりがきれいで高価そうなものを身に着けている人を見ると、きっとこの人はお金で悩むことなんてないんだろうな。などと思ったりするのはやはりそういう人が内心では羨ましいと思っているにちがいないのではあるけれども・・・。

国の豊かさはGDPで計られるが、このGDPというのはお金が動かないと大きくならない。ただ、どんな形でもお金が動くと大きくなる。例えば災害が起こって復興のためにお金を使っても、テロが起こって治安活動が発動されても大きくなるそうだ。僕が釣り鉤を買うとGDPが増えるが真鯛を釣ってもGDPは増えない。
お金だけが幸せの尺度ではないなどと言うのは貧乏人の歯ぎしりでしかないとは思うのだけれども、そうともいえないと思う。しかし、そう思っていても幸福感を感じられないのはどうしてだろうか・・。この本はそういうものに対しての答えをブッシュマンの生き方が文明社会にどう影響されてきたかということを観察することから回答を求めようとしている。

ケインズの有効需要の法則は雇用量も物の価値も需要曲線と供給曲線のバランスのとれたところで最大の価値を得られると言ったけれども、人間はそれ以上に価値を得ようした。人間は懸命に働いてさらに富を蓄えようとするのが本能なのである。そのことが、現代が幸福な世の中ではないということの原因であると定義づけることからこの本は始まる。
ブッシュマンは、週の労働時間が15時間でそこから得られる冨で満足できる生き方をしていた。いつでも手に入るもので満足するという考えは、叶うはずのない願望に支配されている現代人とは対極である。すなわち、物質的富に無関心で自然環境に調和して暮らし、平和主義で単純、根本的に自由なのである。だからブッシュマンは幸福なのである。と、最初の20ページほどでなんだか結論がでてしまった。残り360ページはどんな展開になるのだろうか・・。

ブッシュマンというとニカウさんがコカ・コーラのビンを持って旅に出るという映画を思い出すが、この言葉が差別用語であるというので映画のタイトルも「コイサンマン」になった。しかしこの本でブッシュマンという言葉を使っているのは、ブッシュマンという言葉には彼らが暮らす環境に特別なつながりを持った「最初の人」という意味があり、国際会議の文献でも彼らを呼ぶ言葉として最も多く使用されているからだ。ちなみにブッシュマンは、ブッシュ=未開の土地に暮らす人という意味で、コイサンマンとは、“コイ”=人、“サン”=狩猟採集という意味で、狩猟採集生活をする人という意味らしい。どこが差別用語だったのだろうかと今更ながらに思う。
サン人と呼ばれる人たちはいくつかの部族に分かれ、カラハリ砂漠周辺に住んでいる。著者はその中でも、ジュホアンという部族を中心にして調査を進めてきた。その部族たちの総称が「ブッシュマン」ということになる。

残りの360ページほどは、20数年に渡って調査のために著者がブッシュマンと一緒に生活をしたなかで得られた彼らの人生観や価値観そしてそれらがどのようにして形作られたかそして変化してきたかということをまとめている。
ブッシュマンたちはカラハリ砂漠が主な生活区域だが、北部からやってきた農耕牧畜の文化からは砂漠や熱帯雨林が障壁となって取り入れることができなかった。しかし、1900年代からのヨーロッパ諸国の植民地政策からは逃れることができなかった。
アフリカが植民地化され、南アフリカがアパルトヘイト政策をおこなった後、彼らは住居場所を追われ、植民地政府が用意した保護地区で暮らすか牧場での労働に従事するか、そういった道を選ばなければならなかった。少しの現金を得て酒やたばこ、マッチなどの文明のかけらを手にすることがあったけれどもそれになじむことができなかった。虐げられた生活を送りながらも彼らは牧場主や役人がワインやブランデーをたらふく飲み、必要以上に肉を食べてぶくぶく太っていることを笑っていた。

彼らと僕たちは何が違うのか、おそらく決定的に違うのは能動的に生きているのか受動的に生きているのかそのことだと思う。
能動的ということばは一般的には、積極的とか、停滞した現状を打破するとかいう意味で肯定的な言葉と捉えられているけれども少し斜めに構えて考え直してみると、かなりの部分はひょっとして無駄な行動かもしれない。逆に受動的というと、なんだか周りに流されて積極的ではないというイメージを抱くけれども、自然界のただ中では、自然が恵んでくれるその範囲で生きてゆく、無駄のない生き方であると考えることができる。たくさんの獲物があればお腹いっぱい食べるし、そうでなければひもじい思いをするかもしれないがそれで我慢する。カラハリ砂漠は比較的豊かな場所で、それで十分生きてゆけるという条件があったということが幸いしているのかもしれないが、それが本当の豊かさではなかったのだろうかと書かれていたのではないだろうかと思うのである。

僕の体の中にも狩猟採集生活をしていた先祖の遺伝子が残っているのかどうかはしらないが、魚を釣ったり山菜を探し回ったりするというのは楽しいことのように思っている。できることならまだまだ知らない食材を海や山から取ってきたい。できれば川からも取ってきたい。ただ、現代社会ではそれだけでは生活を維持できるだけのエネルギーと資源をまかなうことができず、会社に行けばただ遊びほうけているだけの役立たずということになってしまう。

これが今の息苦しさの原因なのはうすうすわかっていた。しかし、ブッシュマンがすぐそこまで文明が近づいてきても狩猟採集生活をやめなかったのは、きっとこれが意外と楽しいからだ。高原を歩いていて山ウドの芽を見つけるとうれしくなる。磯で貝を見つけると、これはなかなか素人では見つけられないであろうとうれしくなる。魚が釣れるとうれしくなる。そういった、「即時リターン」というものは直接的にベネフィットを得たのだという実感がわく。
しかし、ぼくがやっているそれは遊びでしかない。これが遊びではなく、生活を支える根幹であればひょっとしたらそれが豊かな生き方と言えるのかもしれないが、少なくとも都会と言われるような社会でそんな生き方はできない。
ときたま、テレビや雑誌なんかで、魅惑の田舎暮らし特集をやってて1ヶ月1万円以下で生活していますとやっているけれども、ではいっそのこと僕もそうしてみるかと思いたいところだけれどもそんな勇気もない。

こんな生きづらい世界がどうしてかたちづくられるようになったのか、著者はその根本を農業社会が現れたことだと書いている。作物を育てるためには種を撒き雑草を取り、肥料を与えそのための道具を作らねばならない時もある。とてもじゃないけれども週15時間の労働ではまかなえない。労働時間が飛躍的に増える。農業が生まれた理由というのは飢餓に対するリスクヘッジであった。しかし、増産技術が発達してくるとリスクを回避するため以上に収穫が増えそれが富になる。懸命に働いてさらに富を蓄えようとする本能がそうさせた。それを管理するために支配階級や分業社会が生まれる。社会はさまざまな問題を抱えるようになり問題を解決するたびに社会は複雑になる。そしてそれを維持するためにさらに富を必要とし、土地や資源を確保するための戦争が生まれる。それが今の世界であるというのだ。ケインズ経済学が破綻する理由の一片がここにもある。
しかし、ブッシュマンでさえ、みんなが均等に生きるために、社会を複雑にしないために、お互いに我慢を強いて精神的な抑圧をかけていたという。どこの社会でもその箍が外れてしまうと複雑な社会が生まれてくるのだとも書かれている。
結局本当に豊かな生活なんて永遠にやってくることなどなかったのだ。暑さや寒さ、飢えの心配がなくなれば複雑な社会のなかで気をもまねばならないし、そうでなかったとしても少しばかりの抑圧を受け、今となっては隣に文明が迫ってくればなんらかの形で影響を受けなければならない。著者は調査の期間中に映画の主人公であるニカウさん(本名はヅァウさんという名前だったそうだ。)とも会ったそうだが、晩年はやはりその矛盾に悩まされていたそうだ。

ケインズは、また、人間は労働によって定義されるのではなく、別の充足感のある生き方を十二分に送れる能力があると言った。狩猟採集による「原初の豊かさ」が労働以外のもの、すなわち彼らが暮らす自然環境の摂理への信頼、狩人による獲物への感情移入、即時リターン経済、過去や未来への無関心そういったものを再認識する必要があるのではないかと著者はいうけれども、現代社会で目指すのはほぼ不可能に近いのは火を見るより明らかである。しかしまた、スマホを自在に操り外の世界とつながり情報発信をする新しい世代を見ながら、彼らはきっと本当の豊かさを見つけるための道を切り開くだろうと結んでいる。

この本は幸福論なのかと思って読み始めたけれども、実は文明論なのであった。

お釈迦様は八つの苦しみがあるとおっしゃり、徳川家康は坂道を重い荷物を背負って歩いているようなものだと言っているけれども、それでもどうして人は生きていかねばならないのか。ブッシュマンの世界には確立された宗教というものないようで、あるとすれば自分たちは岩の神様の間から生まれてきたというような伝説だけを持っているようだが、神様たちは、飢餓から人間を救ってやることと引き換えに苦しみを与えることによって自分たちをもっともっと崇めさせようとでもしているのだろうか。それならあなた、本末転倒じゃないの?と訴えたくなるのである。

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水軒沖釣行

2020年01月14日 | 2020釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 9:14満潮
釣果:ボウズ

今年は釣行3回目にしてボウズとなってしまった。例年なら今頃の時期なら数は少なくなるけれども型の大きなコウイカが釣れるはずだ。去年の最後のコウイカ狙いではかなり大きいやつがヒットしたので期待をして出てみたのだが・・。
朝の気温はそれほど高くなく、デッキも霜で覆われてしまうことはない。港への道中も手袋から滲みてくる指の冷たさもなんとか我慢ができるレベルだ。きっと水温もそれほど下がってはないのだろう。そんな条件がここからコウイカを去らせてしまったのだろうか・・。



これで今シーズンのコウイカ狙いは終わりとしよう。

そして、いつもはワカメの頃に見られる貝の密漁船が早くも到来していた。



これも例年にない水温変化の推移の証拠なのだろうか。
春が心配だ・・。
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加太沖釣行

2020年01月10日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:大潮 6:36満潮
潮流:7:24 上り 3.5ノット 最強 11:18転流
釣果:ハマチ 6匹

朝起きてとりあえず外に出てみるとけっこう風が吹いている。それも北西、もしくは西の風のようでまったく東からの風が混ざっていない。せっかく起きたけれども船を出せないかとも思うのだが、暖冬のせいかどうか、その風にはなんとなく力強さがない。この感じではとりあえず港まで行く価値はあるかもしれない。
港までの道中では二つの川を渡るのだが、その水面を確かめると大体波が高いかどうかがわかる。今日はふたつとも波が高そうだと言っている。港に到着してもいつもは静かな船泊りがざわついてる。う~ん、どうしたものか・・。
まあ、とりあえず紀ノ川の先まで出てみて判断をしてみようと出港してみたが、港内からすでに波が高い。これはダメだと青岸から外に出てみるとますますダメそうなのだが僕から遅れて海竜が沖を目指して突き進んで行く。それじゃあ僕もチキンではいられない。やぶれかぶれで田倉崎を目指した。おそらく今日の勝負は午前10時まで。それでいくと友ヶ島の南で終われる。少しばかり波が高くてもなんとかなるかもしれない。とはいうものの田倉崎を越えるとますます波が高くなってきた。ただ、風は耐えられそうな感じである。

 

テッパンポイントまで行きたいが波が邪魔をして進むの怖い。とりあえず仕掛けを下すもやっぱりアタリがない。再びやぶれかぶれでもう少し友ヶ島に近づく。
天候が悪いからなのか、この海域には帝国軍しかいない。



レイと反乱軍に打ち負かされた艦隊はここで復活したようだ。続編があるとしたらそのタイトルは「シスの復讐」ではなくて「加太の復讐」になるだろう・・。今日の帝国軍はイラン並の良識程度はあるらしく、この波の中でロックオンすると本当にけが人が出ると思っているのか何の威嚇行動にも出てこない。

さすが、帝国軍に対峙するところまで来るとアタリがあった。ハマチだ。その後も時々アタリがある。西からの風が強いけれども上り潮が速い間は船は北に向かって動いていた。最後のアタリは強烈であった。これはメジロクラスだと慎重にかつ強引にやり取りをしたが、ハマチの一荷であった。他に2本のハリスが飛ばされていたので合計4本掛かっていたのかもしれない。それはよく引くはずだ。
その後、潮が緩くなっていくにしたがって船が南に流されるようになってきた。これはもう無理だろうと午前9時40分に終了。ハマチが6匹あれば叔父さんの家へも届けられる。十分だ。

帰りの頃になって少しずつ波が納まって来た。



もう少し早ければ・・。


叔父さんの家に魚を放り込んで十日えびすにお参り。



毎年小さな熊手を買うのだけれども、今の仕事では売上予算も持たされていないので商売繁盛は関係ない。今年からはお参りをするだけにした。

家に帰って港に舞い戻り和歌浦の恵比寿様にもお参り。毎年初釣り後の神社巡りの時にも訪れるのだがここはいつも扉の鍵がかかっている。初めて中に入らせてもらったのだが、聞いているとおり年代を感じる祠だ。



なんだかご利益がありそうな・・。


そして新しく買った防寒ブーツは快適だ。



最近流行りのワークマンで買ったのだがこれでこの冬はしもやけを心配せずに済みそうだ。しかし、こんな機能的な商品が1280円。そりゃ~百貨店が落ちぶれるはずだというのは売上予算からの呪縛が解かれた身だから言える感想なのである。

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「古事記の研究」読了

2020年01月07日 | 2020読書
折口信夫 「古事記の研究」読了

折口信夫というひとは名前を聞いたことがあるだけであったけれども、古典学者で民俗学者であったそうだ。こういうことを書くと本当に教養のないやつだと思われてしまう。
その人が古事記について講義をおこなったものを書籍に起こしたものが本書だ。

以前に古事記を読んだとき、日本の歴史の原点がここにあるなどと思ったけれども、この本を読んでみると、その神髄は後半の歌が書かれている部分であるという。
実は僕は文庫本のなかの前半の神話の部分を読んでなんだか知った気になっていたわけであるがそこは単に伝説でしかなかった。子供の頃から親しんだ物語が次々に出てくるので「読んだ」感があったのだ。(もちろん、口語訳しか読めないが・・)

そして、前半部分の所々と後半部分には歴代天皇の業績とそれにまつわる数々の歌が書かれている。口語訳でもよくわからない内容であったので適当に読み飛ばして全部読んだことにしていたのだが、そこが大切だとこの本には書かれている。

元々古事記は、神様の子孫である天皇家が日本の国を統治するまでの物語であるが、それは裏を返すと土着の人々を征服してきた歴史でもある。
そして、当時の服従のやりかたというのが、その地域で伝わっている歌を朝廷に献上することであったというのだ。これが本当かどうかはわからないけれども、なんとも平和的な統合のされ方だ。まあ、反抗すると容赦なく討たれてしまうのだろうけれども。
歌は声として発せられる。その声を支配するということがすなわち統治するということであったらしい。声と言うものは神と交信する唯一の手段であると考えていた古代の人たちにとっては何よりも大切なものであったということだろうか。
また、声は約束に使われる物であった。言葉に出したものは必ず守らねばならず、守らなければ神から罰せられる。それほどに言葉、声というものを重要と考えたのが古事記の時代の人々であった。
最近は失言や暴言、意味不明の発言なんかがいっぱいニュースで報道されているけれども、時代が時代ならみんな神の罰を受けねばならないということだろうか。

そして、統治と言う意味では、「まつる」という言葉が出てくる。これは文字の通り、「まつりごと」のもとになっている言葉ではあるが、もとは、地上の民がその年にできた作物や採集、狩猟した獲物の内容を神様に報告する儀式がもとになっている。これは、もともと、天上の神様が地上に降りて生産業務に精を出しなさいといって遣わされたのが人間の祖先であるのだからその結果を報告するのが当然で、そのための儀式が「まつり」であるということだ。それを中央と地方に置き換えて、地方は中央に対して作柄を報告し、税を納めなければならないという統治の正当性の根拠にしたということだそうだ。
まあ、結局は統治のための道具であったということは否めない。

そして、稗田阿礼というひとはイメージとしては年齢も定かでない老人という感じであった(実は古事記のどこかには28歳であると書かれてはいるそうだ。)けれども、それはまったくの間違いで女性であったらしいという著者の見解は斬新である。
そんな難しいことはやっぱりこの本を読んでも、古事記を読んでも(もちろん口語訳)どこから導き出せるのかさっぱり見当もつかない。それよりも最初の神様たちの冒険譚や、家の近所にある、古事記にまつわる場所を訪ねて、う~ん、ずっと昔にそんなことがここで起きていたのかと思いを馳せている方が面白いと思ったのである。

古事記には33代の推古天皇までの業績が書かれているわけだけれども、26代までは架空の人物と思われるが、ここに書かれたそれぞれの天皇の行動や言動は当時の人々の理想像として記録されたそうだ。けっこう暴力的であったりまた、恋愛事情についてはおおらかであったりというのは当時では当たり前のことであったと推測されるそうだ。
人々のモラルや考え方というのは時代が変わるにつれて変わってゆく。20年前で当たり前であったことも今ではとんでもないということも多々ある。インターネットが進歩して、これからはいったいどんなことが当たり前でどんなことがとんでもないことになってゆくだろうか。あんまり変わっていかれるともう、ついてゆけなくなる・・。

どうして古代の人たちは空想の歴史を作ろうとしたのか。当時の人たちはそれを事実だと考えていたのかもしれないが、それよりも自分たちは一体どこから来たのかということを知りたくて仕方がなかったのかもしれない。
今日は雨模様で釣りに行けないのでスターウォーズの最終話を見てきたけれども、そこに出てくる登場人物もやはり、自分が何者であるか、ファミリーネームは何であったのか、それに悩む。それが不幸を招くことになったとしてもそれを知らないと前に進めない。そしてそこから自らを作り出していく。
古代の人たちもこの物語を読みながら自分たち行き先を探っていたのだろうか・・。



この本は戦前に出版されたものだが、文章は当時のまま書かれていてほとほと読みづらい。内容が難しいうえに文章が読みづらくてとうとう最後まで読むことができなかった。万葉集について書かれた章が最後にあったのだがそこは読めずに読了とした。
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「雑草はなぜそこに生えているのか」読了

2020年01月05日 | 2020読書
稲垣栄洋 「雑草はなぜそこに生えているのか」読了

著者は前回読んだ、「いきものの死にざま」の学者である。本職は「雑草学者」だそうだ。雑草を研究しているひとがいるという驚きと、「いきものの死にざま」の文章があまりにもよかったのでこの人の書いた著書を探してみた。
まずは雑草の定義から。こういうことも定義があって、アメリカ雑草学会が決めた定義は、『人類の活動と幸福・繁栄に対して、これに逆らったりこれを妨害したりするすべての植物』だそうだ。こんな学会があるのも驚きだが、よく考えると、雑草をコントロールするということはすなわち農産物の収量をあげることにもつながるのであるからこれはきっと大切な学問ではかなろうかとあらためて思うのである。

雑草というのは繁殖力があって生命力が強い植物だと思いがちだが、それはまったく逆だそうだ。雑草は弱い植物である。普通のフィールドでは競争に負けるので他の植物が好まない環境で生き延びようと考えたのが雑草であるというのだ。そんな環境とは人間が暮らしているところ。具体的には土が少ない道端であったり常に耕されている田んぼや畑なのだ。
日本では種子植物は約7000種類存在していて、そのうちの約500種類が雑草として認め(?)られているらしい。

植物の強さは、「競争に強い」、「ストレスに強い」、「攪乱に強い」という3つの指標で評価される。それは「C-S-R三角形理論」と呼ばれているが、そのうちの攪乱に強いのが雑草である。
攪乱とは環境が極端に乱されることで、具体的には畑が耕されて土が上下入れ替わることや、芝生が刈られて上がなくなってしまうことなどをいう。また、人に踏みつけられるとも攪乱のひとつなのだろう。
そんななかで生き抜くためには雑草たちは様々な戦略を駆使している。
ひとつは種が強い。攪乱された環境が落ち着くまで何年も土の中で待っている。
ひとつは他殖と自殖をうまく組み合わせている。他殖とは違う花同士で受精すること、自殖とはひとつの花の中でめしべと花粉が受精することをいう。環境の変化に強い種を残すためには他殖が良いのだが、条件が悪かったらそうもいかない。そんなときには最低限次の種を残すために自殖する。しかし、いったん環境が整うと他殖をして環境に変化に強い種を残そうとし、ついでにそんなときには種を一気に増産する能力も持っている。
ひとつは時間差で発芽する。種が同じときに一気に発芽するとそのあと耕されてしまうと全滅してしまう。だから意図的に時間差で発芽してどこかの時点で成長できるチャンスを窺っているのだ。だから畑の雑草は抜いても抜いてもまた生えてくる。
ひとつは環境に応じて形質を短時間で変えることができる。ゴルフ場の雑草は同じ雑草でもラフとグリーンとフェアウエーでは背丈が違っているらしい。これは遺伝的に異なってしまったのではなく、そこの環境に合わせて背丈を変えているだけで、環境が変わるとそれなりの背丈になるという実験結果もあるそうだ。
「踏まれても踏まれても立ち上がる」のが雑草なのである。

ここだけ読んでいても雑草はすごい。
それともうひとつ雑草を見ていていつも思うのだが、彼らが虫に食われているのをあまり見たことがない。僕の叔父さんの畑ではちょっと気を抜くとキャベツだろうが大根だろうが、見るも無残な姿になってしまう。だから定期的に農薬を撒くことになるのだが、雑草たちは農薬が無くても穴だらけになっているのを見たことがない。これは虫たちも美味しい葉っぱと美味しくない葉っぱを見分けることができて、雑草が畑のそばに生えていると敵を野菜に引きつけさせることができるので自分は助かることができるという戦略だったりするのだろうか・・。と思ったりするけれども、これは、「アレロパシー(多感作用)」という化学物質を放出しながら植物が周りの植物を抑制したり害虫や動物から身を守る行動だそうだ。

ちなみのこの本は中高生向けの新書シリーズなのだが、著者はこの雑草の生き方を若い人たちに向けてのエールに変えている。
雑草の生きる環境は「ニッチ」と言われているけれども、これは生物学の分野では「ある生物種が生息する範囲の環境」と意味で使われる。通常は「隙間」というような意味で使われるので一般的な植物が生息する環境の隙間を狙って生きているのが雑草だということになる。そしてひとつのニッチではひとつの生物種しか住むことができない。それは別の解釈をすると、オンリーワンの場所であり、そこで生き延びている雑草たちはその環境でナンバーワンの存在だからであるとも考えられる。他人と比較しながら生きるのではなく、オンリーワンの場所を見つけてそこでナンバーワンになるための努力をしないさいと著者は言う。
また、生物は常に激しく競争し合っているけれども一方では助け合って生きている。35億年の生命の歴史の中で導き出したのが、「助け合ったほうが得である。」ということである。ということは、すべての生き物がオンリーワンであり、ナンバーワンであると言える。誰もがどこかでナンバーワンなのである。と、やはり「いきものの死にざま」同様うまい締めくくり方をしているのだ。

あと数年で定年のおっさんからすると、じゃあ僕は道端に間違えて種を撒かれたキャベツじゃないかと思ってしまうのであるが、それもあとの祭り。芯まで喰われる前になんとかゴールを迎えられないものかとまったく受動的にしか物事を考えられないのである・・。
ど根性大根にはなれなかったのである・・。
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