開高健「夏の闇」読了
師が“第二の処女作”と呼んだ小説。主人公の作家が自己の剥離を感じながら昔の恋人とひと夏を過ごす物語だ。
ひたすら食べて、寝て、いたす。多分、ページの8割はこんな内容だ。詳細に詳細に書いている。
何かの突破口を求めてあがいているのか、それとも機が熟すのを待っているのか。最後はベトナム戦争の抗争の激化をきっかけに形を取り戻せるかどうか。というところで終わっている。
人は多かれ少なかれモラトリアムのなかで生きていて、そしていつかはそこから抜け出したいと思っているのだろうか。そして結局は抜け出せないあきらめの中で生きているのだろうか。それに気づいてしまったしまった人は不幸で、それに気づかないまま生きている人は幸福なのかもしれない。
204ページ、「おれはどちらの当事者でもない。ここでも、あそこでも、当事者じゃない。非当事者のくせに当事者であるかのような身振りをすることできないよ。したい人はしたらしい。」
師は、ベトナム戦争に大して日本人があまりにも無頓着でありすぎることへの批判として物語の最後を締めくくったそうだが、僕には別の意味に見える。
いつまで当事者のふりをしていくのだろうか。これが僕の本当の姿なのだろうか。それとも別の姿が待っているのだろうか。
師が“第二の処女作”と呼んだ小説。主人公の作家が自己の剥離を感じながら昔の恋人とひと夏を過ごす物語だ。
ひたすら食べて、寝て、いたす。多分、ページの8割はこんな内容だ。詳細に詳細に書いている。
何かの突破口を求めてあがいているのか、それとも機が熟すのを待っているのか。最後はベトナム戦争の抗争の激化をきっかけに形を取り戻せるかどうか。というところで終わっている。
人は多かれ少なかれモラトリアムのなかで生きていて、そしていつかはそこから抜け出したいと思っているのだろうか。そして結局は抜け出せないあきらめの中で生きているのだろうか。それに気づいてしまったしまった人は不幸で、それに気づかないまま生きている人は幸福なのかもしれない。
204ページ、「おれはどちらの当事者でもない。ここでも、あそこでも、当事者じゃない。非当事者のくせに当事者であるかのような身振りをすることできないよ。したい人はしたらしい。」
師は、ベトナム戦争に大して日本人があまりにも無頓着でありすぎることへの批判として物語の最後を締めくくったそうだが、僕には別の意味に見える。
いつまで当事者のふりをしていくのだろうか。これが僕の本当の姿なのだろうか。それとも別の姿が待っているのだろうか。