イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

水軒沖釣行

2022年10月30日 | 2022釣り
場所:水軒沖
条件:中潮3:00干潮 10:03満潮
釣果:ボウズ

今週も2日連続の釣行を試みた。
軽く小船で近場をウロウロだ。かなり寒くなってきて港に向かうのも寒いが、洗濯物の乾きも悪くなってくる。ズボンはポリエステル100%なのでかろうじて乾いているが、トレーナーは予備があるもののシャツがない。仕方なくシャツなしで出発したがこれでは寒すぎる。次の休みにはワークマンに行かねばならない。

まずはジギングからスタート。なかなかアタリがないのはいつものことだ。と、何か小さなアタリがあった。つれてきたのは小さなエソだ。外道は外道だが、それでもメタルジグなんかで釣れてしまうとなんだかうれしい。



しかし、その後トラブル発生。沖に向かっていく船にラインを取られてしまった。キャストしてから少し時間が経っていたのでメタルジグはかなり沈んでいるからやり過ごせるだろうと思っていたら、ラインは浮いていたのか、そのまま引きちぎられてしまった。
貴重なジグを失ってしまった。まあ100円だが・・。

その後、拾ったメタルジグに変更。これにもエソが食いついた。これも外道だがなんだかうれしい。



午前8時半には叔父さんの家に行きたいのでエギングをするために大島の陰に移動。ここは日がまったく当たらないのでものすごく寒い。



今日も風が強いのでここでもライントラブルが発生。PEラインがガイドに絡みエギだけが飛んで行ってしまった。貴重なエギを失ってしまった。まあ、これも100円なのであるが・・。

そういったことで今日はこれで終了。

港に戻り、昨日の続きでデッキの掃除をして帰途についた。

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加太沖釣行

2022年10月29日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:中潮 9:00満潮
潮流:5:52転流 9:58上り3.1ノット最強
釣果:真鯛6匹 ハマチ2匹

冷却系の修理が完了したので今日は加太に向かえる。もっと長くかかるかと思ったが意外と早く治ってしまった。さすがはタカシさんだ。これで修理代をう~んとまけてくれたら本当に神様なのだが・・。

数日前から海の予報を検索しているとかなり風が強そうな予報が続いている。前日の最新の予報では風速は5メートルを超えている。どうだかな~、行けるかな~というギリギリの風速だ。海保のリアルタイムの風速も同じような風速を示している。
まあ、風が強ければ帰ってくればよいだけなのでとりあえず港まで行ってみることにした。港は北風にはめっぽう強いので無風状態だ。渡船屋の船頭に聞いてもここら辺りはなんともないで、とのことだったので出港を決断。
気温はどんどん低くなってきて、今日からトレーナーを着ての釣行だ。もうすぐカッパの上下を着こまないと寒さに耐えられなくなるだろう。

たしかに、一文字の切れ目を抜けても海は真っ平だ。エンジンも快調に回っている。
もう、引き返すという選択肢はなくなった。
が、やはり予報は正しく、田倉崎を越えるとやはり風と波が強い。



やれないことはないが苦戦しそうだ。しかし、こんな日でも船はたくさん出ている。
今日の潮流を考えると真鯛の潮だ。カワハギも釣れ始めているらしいがこの風ではまともに底を取れそうになく、ゴカイを買っても無駄にしてしまう恐れがあるので今日は真鯛一本狙いで行くことにしている。
船団は四国ポイントとテッパンポイントの2ヶ所にできているが迷わずテッパンポイントへ向かった。しかし、ここはほぼすべて帝国軍の艦船に占められている。う~ん、ちょっと怖いなと思ったが真鯛を釣るにはここだろうと仕掛けを降ろし始める。そしてアタリはすぐに出た。とりあえずは小さいけれどもハマチが上がってきた。
風は強いが潮は素直に流れているので底はきちんと取れる。アタリは順調に続き、真鯛も上がってくる。今日も鈴鹿市のゴミ袋が好調である。
しかし、帝国軍のプレッシャーがきつい。なるべく離れたところで釣りをしているつもりだが、船はかなり速い速度で流れていて、彼らも潮下と潮上を行ったり来たりしているのですぐに後ろに着かれる。そうなると僕もアタリが出ている海域でも移動せざるをえない。そんなことを繰り返していると、1艘の船が急接近してきた。



異常なほどの接近の仕方だ。これは明らかに威嚇行動だ。仕方なく移動だ。その前にいつもの通り、銃弾を浴びせる代わりにカメラを構えて写真を撮ったら相手はそれにかなり怒ったようで向こうもスマホを構え始めた。これは面白いと僕は手を振ってポーズを取ってあげた。多分今頃、相当頭に血が昇っているんだろうなと思うとざまあみろと言う気持ちだ。ほかの船に紛れ込んでしまうともう僕の船を探し出すことはできまい。しかし、同じとき、同じ場所に僕と同じような和船が浮かんでいたのだが、どうして僕だけがロックオンされるのだろうか。よほどからまれやすいオーラを出しているのかもしれないと思うと自分が情けなくなる。しかし、客を乗せたままでこんなに接近して、他人の船に悪態をついている船頭のことを傭兵たち(釣り客のこと)はどう思っているのだろうか。ああ、またやってらと思っているのだろうか。僕なら、こいつは釣れる場所に連れて行くのではなく、素人の船を蹴散らすために船を移動させているのだと思ってしまうだろう。そんな船頭の船に乗らなくてもほかにいっぱい釣り船はあると思うのだが・・。

ケチがついたのでポイントを大きく離れて誰もいない海域で仕切り直しをした。釣れるときは釣れるもので、ここでも1匹釣り上げることができた。この時点で午前9時半。そろそろ潮流は最速時間を迎える。もといたポイントもアタリがなくなったのか、船団は解散してしまっていた。僕もそろそろ終わり時だと考え、午前10時前に終了。

港に戻ってデッキの掃除と変色してきたシールドの復元作業をやってみた。4年前の台風で割れてしまったアクリル板のシールドを、もっと強度のあるポリカーボネート板に変更したのだが、この素材は車のヘッドライトと同じく、紫外線に弱くて黄色く変色してくる。UVカットの処置もしていないので早くも曇りが目立ってきた。なんとかしなければと思っていると、ユーチューブの動画でダイソーにヘッドライトクリーナーというものが売られていると紹介されていた。この値段だとダメもとで試すことができると早速買ってみた。



効果の方はどうだろうかというと、完全ではないが確かに視界はよくなっている。



一応、紫外線吸収剤も入っているらしいのでこのまま様子を見てみようと思う。
しかし、100均というのは、釣り具も売っていればこんなカー用品まで売っている。恐るべしは100均だ。

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「新しい国境 新しい地政学」読了

2022年10月26日 | 2022読書
クラウス・ドッズ/著 町田敦夫/訳 「新しい国境 新しい地政学」読了

ロシアのウクライナ侵攻以来、「地政学」という言葉がクローズアップされている。もともと、ナチスドイツが侵略行為を正当化するために使われた考え方というのであまり表立って使われる言葉ではなかったそうだが、定義としては、「地理的な条件に注目して、軍事や外交といった国家戦略、また国同士の関係などを分析、考察する学問」ということらしい。
その中で一番の関心事というのは国境である。その線がどこに引かれるかというのは自国の国益にとっては重要な問題となる。特にどの国も経済的な余裕がなくナショナリズム的な動きをしている今の時代には国が生き残っていけるのかという問題なのである。ロシアの行為や中国のなりふり構わない行動というのはまさに彼らが地政学の解釈を勝手にねじ曲げ、それを笠に着て行動しているようにも見える。この本に書いている通り、過去からの歴史的、政治的背景によって揺れ動いてきた国境線を自分の都合のいいように解釈しているのだ。

僕が知りたかったのは、どんな理由でロシアや中国は自国の行為を正当化しているのか。また、世界の各地で起こっている国境問題、例えばイスラエルとパレスチナ、38度線、南沙諸島、この国では竹島、尖閣諸島そういう問題が歴史の中でどうしてそういったもめ事になったのかということだったのだが、読み始める前から、この本は多分僕が求めているものとは少し違うのではないかとは思っていたけれども、まずは何か取っ掛かりが欲しいと思っていたので出版年度が新しいこの本を選んでみた。

そもそもだが、この、国境に関する問題、紛争はいたるところに存在しているようで、全部取り上げるととてもじゃないが1冊の本に収まるようなものではなさそうだ。一見平和そうに見える国どうしでも何らかの問題を持っていて、逆にきちんと国境を決めて平和に管理されている場所のほうが少ないのが現実だ。お隣があると必ずもめ事が起こるというのは個人の家も国家も同じようなのである。
先に書いた、国際的にも有名になっている紛争に加えて、インドにはバングラデシュ、パキスタン、中国とのいざこざ、南米ではベネズエラとガイアナ、アルゼンチンとウルグアイ、トルコと北キプロス、北欧のスヴァールバル諸島に燻る各国の思惑などなどいくらでもある。そんなことは全く知らなかった。
この本ではそういった個別の具体的な問題の解説ではなく、数々の問題が起こる要因、そして将来的に国境というものはどう変化してゆくのかということが書かれていた。

もともと国境とはどんなところに引かれていたか、陸続きの場所では大体が川のど真ん中であったり山の稜線であったりというあまり人が近づけないような場所である。この本ではノーマンズランドというような表現で書かれているが、そんな場所を舞台にして様々な国はその国境を守るために多大な努力をしているのが現実だ。海の国境も同じである。排他的経済水域に他国の軍艦や巡視船が入ってきたというのは常にニュースになる、人間でいうと国境は皮膚のようなものなのだろうから、そこに対して難民であれ軍人であれ侵入してくるというのは大きな拒絶反応を起こすのだろう。自分の国にもある日突然北朝鮮の兵士や中国の軍人が上陸してきたとしたら恐怖しか覚えない。

地球温暖化によってその国境の姿も変わろうとしている。氷河に覆われた国境は氷河が後退して通行が容易になったりすることがある。また川の流れが変化することで地図に書かれたそれとは異なってゆくようなこともある。そういうことも紛争の火種になる。
温暖化による海面上昇で国自体が無くなってしまう恐れがある国もある。こういう国は、もとあった領域の資源開発の権利と引き換えにほかの国の土地を間借りして政府を継続させるしか手立てがなくなるのかもしれないという。
紛争の火種になる原因は資源問題だ。山領が国境になっている所では水資源、川や海の境界では地下資源や食料資源である漁獲の争奪がおこる。

国境を決めるには「画定」と「確定」が必要なのであるが、それを一致させることは難しい。「画定」とは実際の地面が境界柱や草を刈り取られたような形で刻まれていること、「確定」とは法的に決められた境界であるが、すべての国境が画定されているわけではないので、確定された境界が実際にはどこであるかというのが紛争の素になるのである。
法的に認められていないというと、すべての国家から承認されていない国というのもある。パレスチナしかり、アブハジア、クルディスタン、北キプロスなどというあまり聞いたことのない国々がある。大体が西側諸国が承認せず、東側(ロシアを含めて)が承認しているというパターンが多い。
台湾は逆のようであるが、どちらにしても、承認する側には国境はあるけれども承認しない側にとっては不法占拠された地域ということになる。
しかし、未承認の国には未承認の国で独自のサッカー連盟があるというのには何となく微笑ましいものがある。国境の承認や確定なんて人が生きるという意味では大したものではないのだよと言っているような気がする。

また、南極や公海のように、国境を持たない場所がある。国際条約で取り決められ、どの国にも属さず、資源開発もされない場所だ。これは宇宙もそうである。宇宙の開発に関する条約というのは、『月その他の天体を含む宇宙空間の探査および利用における国家活動を律する原則に関する条約』という長い名前がついているそうだ。
こういった場所は資源の宝庫である。もちろん勝手に開発できるものではないので今は手付かずのままだが、他の場所の資源を掘りつくしたときや食料資源が限界にきたとき、こういった場所はどんな扱いをうけるのだろうか。こういった問題が国境の未来になるのだが、ある時、突然どこかの国が自分にとって都合がよい地政学の解釈をふりかざして囲い込みを始めるかもしれない。そういったことを防いで人類すべての共有財産とすることは並大抵の努力ではできうるものではないだろうし、おそらくは特定の大国がそれを独占しようとするのが歴史だろうと思ったりもする。

宇宙はどうだろうか。月や火星は具体的に人が住むかもしれない惑星だが、そこにも国境が生まれるのだろうか。
「機動戦士ガンダム」の世界ではスペースコロニーを拠点として人類が宇宙で生活をしているが、そこには国という概念があるのだろうか。ジオン公国というのは一応の独立国のようだが、その国が崩壊したあとの世界では、民間企業が軍隊を組織し、地球の支配に宇宙で育った人々が立ち向かうという物語が描かれる。
この本にも書かれているが、国境のボーダーレスという世界がこの世界に近いのだと思う。個人はデータ管理によってどこにいても国籍のある国の国民でいられるというものだが、国家に属するよりも、生きる上で最も重要な経済的な面で考えると経済的なよりどころとなる業に属することがアイデンティティになるという時代が宇宙時代なのかもしれない。住む場所であるスペースコロニー自体がそもそも工業製品であり、太陽系といえどもあまりにも広いから小惑星を資源として勝手に持ってきたり開発したりしても誰にも分らないだろうからだれも文句を言おうにも言えない。だからそれを開発する企業がやっぱり国家の代わりになってしまうのは必定になってくるような気がする。その企業に就職することが国籍を得ることであり、転職するということは外国に移住することになるのかもしれない。しかし、そうなると、社員は国の代わりになっている会社にがむしゃらに奉仕し、社長の言うことは絶対だという、なんだか独裁国家のような体制になってしまうような気がする。今でも会社というところは独裁国家みたいなところだからそれが宇宙に拡散されてしまうというのは困りものだ。
会社が嫌いな僕にとってはなんとも生きづらい世界なのかもしれない。もっとも、そんな時代まで生きることがないのでそんな心配は取り越し苦労なのであるが・・。

この本の面白いところは、こういった将来起こるかもしれない国境問題は映画を観てみるとよくわかると言っているということだ。「ランボー」や「007」「ターミナル」という映画を引き合いに出し、国境問題を解説している。ただ、平和な島国に生まれた僕にとっては地政学も国境もあまりピンとくるものがない。373ページを読み切るのに2週間もかかってしまった。
これはきっとこの国が意外と平和であるという証拠なのかもしれないのである。

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水軒沖~紀ノ川河口釣行

2022年10月23日 | 2022釣り
場所:水軒沖~紀ノ川河口
条件:中潮 4:47満潮
釣果:ボウズ

今日は元々加太に行こうと思っていたが冷却系の修理が終わっていないので昨日とほぼ同じメニューで釣りに出てみた。無理に行かなくてもというのもあるが、2日連続で釣りに行くという実績を積みたいのである。

タチウオはもう終わりだと考えているのでまずは沖の一文字の前でジギングをしてコチのポイントに向かいたいと考えている。

昨日よりは少し遅めの出港。東の空はうっすらと明るくなっている。が、北の方に目を向けると不気味なほど真っ暗だ。雨の予報などなかったが・・・。



3週間前にヤナギを釣り上げたポイントに碇を下してジギングを始める。



これが、2日目だとかなり腕が痛い。この釣りは老体には厳しい釣りだ。すぐにしんどくなってきて紀ノ川河口へ移動。
青岸の灯台を回ったころからポツポツと雨が降り始めた。大したことはなかろうと思っていたら、昨日のポイントに着いてルアーを投げ始めた頃には雨脚が強くなりすぐに本降りになってきた。雨具など持っていないのでどうしたものかと思っていると、目の前に橋があるではないかと思い立ち、雨宿りのために移動。



同じことを考えている人間もいるようで、どこからともなく1艘の船がやってきていた。



雨はわずかな時間で止み、再び釣りを開始。しかし、世の中そんなに甘くもなく、まったくアタリもないので再び沖へ。

エソだけでもと思い、昨日釣れた場所に移動。しばらくやってみたがやはりアタリはない。また朝一に入った場所に舞い戻ってみたがここでもアタリはなく午前8時半に終了。

少しずつ雲が切れ、天使の梯子が降りてきたが僕には祝福はなかった・・・。



釣りをしている時間も短かったが、ブログも最近では最小クラスの文字数で終わってしまった・・・。

あまりにも短いのでもう少し。
僕は左利きなので左手に竿を持って釣りをする。僕が使うルアーロッドは使っているうちに必ずリールシートのスクリューが緩んでくる。
これはきっと安い竿を使っているからに違いないと思っていたのだが、よく観察してみると、親指の根元の手のひらのあたりが当たっていてその摩擦で緩んでしまうようだというのがわかった。左手で持っているのでネジが緩む方向に力が加わっていたのだ。



これが右利きの人だと、ネジが締まる方向に力が加わるからまったく問題なく使えるのだ。
こういう不便に対して釣り具メーカーは何か対策を考えてくれないものだろうか・・。


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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2022年10月22日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖釣
条件:中潮 4:10満潮
釣果:エソ 1匹

今日は小船の出番だ、船底塗装をしてから2週間も経ってしまった、最近はいつもこうだ。難儀なものだ。

今日の予定は最初から最後までルアーで通す作戦だ。3週前のヤナギの引きをもう一度と、先週情報が流れていたマゴチを釣ろうと考えている。

空が明るくなってから船を出せばよいと思っていたけれども曇りの日であるのと少し早く出かけすぎたこととそもそも夜明けが遅くなってきているので真っ暗な中出港することになってしまった。



これなら先にタチウオの様子を見ることたできるのではないかとまずは紀ノ川河口を目指した。



ワインドをセットしてみるもまったくアタリはない。これで今シーズンの僕のタチウオ釣りは完全に終了だ。走り出しは今年はどれほど数が出てどれほどのサイズが釣れるのだろうかと期待をしたけれどもすぐにその期待はしぼんでしまった。大量に買った専用の鉤もあれ以来全然使うこともなかったのだ。20本も買わずに5本だけ買っておけばよかった・・。

次はジギングだ。本当は地の一文字の沖の一文字の切れ目まで行きたいのだが、このあとまた紀ノ川河口に戻るので新々波止との切れ目に碇を下した。



それが悪かったのか、ここでも本命のアタリはない。唯一掛かったのはエソだけだ。



まあ、何でもよい。ルアーで魚が釣れるのはうれしい。

午前8時半には港に戻りたいと考えているのでそれを機に再び紀ノ川河口へ。



船底がきれいになっているのでこんな変則的な移動も苦にならないのである。
聞いていたポイントは毎年キスが釣れる場所と同じだ。きっと奴らはキスを食べて大きくなっているに違いない。そして聞いていたルアーはいわゆるスピンテールという種類のワームだ。
情報をくれた人はその日、3匹釣ったらしいが僕にとってはそんなに甘いものではない。全然アタリがない。
次の手段としてクローワームを取り出した。テキサスリグだ。そしてこれにアタリがあった。間違いなく魚が食いついていた。途中まで寄せることができたがその後はバレてしまった。
ワームにはオフセットフックを使っていたのだがこれのおかげでフッキングができていなかったのだ。もっと思い切り合わせを入れるべきだった。オフセットフックを使ったのなんておそらく30年近くぶりだったので油断をしてしまった。
これはいけるのではないかとがんばってみたがやっぱり釣れないものは釣れない。
予定通りの時間で終了。

港に戻って大きいほうの船の確認。3日前、タカシさんに定例の部品交換であるインペラと燃料フィルターとエンジンブロックの亜鉛の交換をお願いしていたら、冷却系もあかんでという連絡があり、ウオーターポンプを取り外して点検しなければならないという。そして今日、先日、豪快に切り取った植木の枝を切り取ったものを叔父さんに借りた軽トラで運んでいる最中に再び連絡があって、ラジエーターの通称「ハチの巣」も詰まっているという。とりあえず自分の目で見ておくようにとの指示だったのでエンジン場を覗いてみると大きく部品が外されていた。





確かにハチの巣はかなり詰まってしまっていた。



オーバーヒートする前によく見つけてくれたものだ。80歳を超えても神の手は健在だ。いつも思うが、この歳でたくさんの人に頼りにされながら仕事を続けているというのは尊敬でしかない。もう、望むべくもないが、この人のように生きることができればといつも思うのである。僕のような、たかが趣味で乗っている人間の船の点検をしてもらうにはもったいない人なのである。

修理の完成は部品待ちだということで、当分大きいほうの船には乗ることができない。まあ、次に乗れたとしても丸々1週間後になってしまうのでゆっくり待ちたいと思う。

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加太沖釣行と船底塗装

2022年10月16日 | 2022釣り
加太沖釣行と船底塗装

場所:加太沖
条件:中潮 3:37干潮 10:42満潮
潮流:7:22転流 11:35 上り3.0ノット最強
釣果:真鯛2匹 イサキ1匹 ハマチ5匹(内、2匹放流)

今回も昨日の話から・・・。
2週連続で船底塗装をやった。いつものとおり、ちからさんにお願いをして午前7時に上架予定で行動開始。午前4時50分に家を出てスーパーでお茶を買ってから和歌浦漁港へ。
バイクを置いて港へ移動。いつもなら暗い時間に移動をするのだが、昨日は早朝では潮が低すぎて船台に乗せられないので遅めのスタートなのだ。まあ、あんまり早い時間からお願いするのも申し訳ないというのもある。
船を和歌浦漁港に向けたころにはすっかり辺りが明るくなってきていた。



和歌浦漁港に到着したのは午前6時50分頃。すでにちからさんは出動してきてくれていて船台を降ろす作業をしてくれている。ついでにタコ釣り名人のおじさんにも声をかけてくれたようで、前乗りをしてくれるという。これで安心だ。
時間通りに上架も完了。
小船もそうであったが大きいほうもかなりフジツボが付着している。特にスクリューや舵板周りにはびっしりとフジツボが着いている。



いつもより力は必要だが、手順通りに作業を続けてゆく。ちょっとした手違いは隣に上架している船が同じく船底の塗装を始めたので仕上げの水洗いが遅くなってしまったことくらいだ。
すでに作業を終えているように見えるほど船底がきれいに赤くなっていたのですべての作業はきのうのうちに終わっているのだろうと思って隣のことを気にせずに派手に水をかけていたら、やってきたおじさんが、「あれ~、これから塗ろうと思てたのに濡れてしもてるやないか!」と言っている。謝ってはみたものの、叱られるかと思ったが何事もなく終わった。これはきっと、ちからさんの「顔」のおかげだろう。もう、5年近くここで作業をしているのでなんとなく誰の知り合いかということが認識されているのだろうと思う。
隣の船の作業が終わるのを待って作業を続行。塗る作業以外は何もしない予定なのでなんとかお昼過ぎに終了。



そして翌日、午前7時に降ろす予定でお願いしていたが潮位が低すぎる。30分待って作業をスタート。
観光客らしき二人連れが進水作業を興味深そうに見ている。



僕のことも漁師のひとりと思っているのだろうか。それならそれで光栄なことだ。

進水も無事に済み、和歌浦漁港から加太に向けて出発。



塗りたての船は快調に加太を目指す。



この時が一番気持ちがいい。おまけに今日は気温が高くも低くもなくそれもここちい。

さて、今日はどんな釣りで挑もうかと考えていたら、港に来ていた菊新丸さんから真鯛が好調だという情報をもらった。ちょうどこれからは上り潮に入る。テッパンポイントが熱くなりそうだ。

加太に到着してみると、田倉崎の前とテッパンポイントの南に船団ができている。しかし今日も船が多い。やっぱり土日の釣りは嫌なものだ。



僕はテッパンポイントの南に入り釣りを開始。
釣り竿を持ちながら船縁に落とされた鳥の糞をブラシで擦っているといきなりアタリ。小さくてツバスと言えるかもしれないがハマチが上がってきた。釣れるときはこんなものだ。

その後もアタリは続く。魚探の反応もまずまずだ。なかなか鉤には乗らないのがくやしいが時折鉤に乗ってくれる。菊新丸さんは、魚は上ずっているということだったが、まったくその通りでほとんどの魚は上3本のうちのどれかに食いついてくる。ビニールは鈴鹿市のピンクがよかった。

同じ場所を行ったりしながらハマチと真鯛を釣り上げる。その間にイサキが釣れたのだが、これは大きい。推定40センチ近い。これはかなりの値打ちものだ。もう1匹来ないものかと思ったが残念ながらその後はハマチばかり。
毎回のことで、お昼までには戻りたいと思っているので午前10時半に終了。2時間ほどの釣果としてはまずますだろう。もっと早く出ていればまだまだ釣れていたと思うが、今日は小手調べ程度だからまあ、こんなものだろう。

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「歴史が教えるマネーの理論」読了

2022年10月13日 | 2022読書
飯田泰之 「歴史が教えるマネーの理論」読了

もうちょっと楽に読める本かと思ったがかなり硬派な本であった。というか、一応僕も経済学部卒業ということになっているのだが、こんなにも経済学についての知識がないものかと愕然としてしまった。

コロナ、戦争で物の値段が上がり、燃料の価格もどんどん上がり、政府はいっぱいいろいろなところで補助金を乱発しているがこの国は大丈夫なのか、円もどんどん安くなり世界の中で日本はいったい生き残れるのだろうか・・。そんなことよりも僕の生活はこれから先大丈夫なのか・・。そんなことを思いながら何か読み物はないかとこの本を探した。
経済学とは特にマクロ経済の部分においては「経験の科学」と言われるそうだ。経済学におけるデータは過去のデータであり、言い換えればそのデータには再現性がないということを意味する。科学というものは再現性があることでその現象なり理論が科学的であるということが証明されるのであるから、「学」という名前がついていながら残念ながら経済学には再現性がないのである。
昨日の新聞では、リーマンショックのとき、エリザベス女王は、「なぜ誰もこの事態を予測できなかったのですか?」と自国の経済学者たちに問いかけたといい、今日の夕刊には、2012年のアベノミクスによる金融緩和策を始めたとき、黒田総裁は、「2年程度で物価安定目標(2%程度)を達成できる。おそらくどのような経済モデルで計算しても、物価だけ上がって賃金が上がらないということにはならない。」と言っていたと書いていた。
まったくどんな経済モデルを使って計算していたのかと思うが、それほど再現性もなく過去のデータも当てにならないのが経済学であるということだ。

逆にいうと、様々な経済法則通りにことが運べば世の中に不況はなくなる。少なくとも為政者たちがまともであれば。もちろん、国際社会では国と国が自国を豊かにしようと競うわけだからうまくいかないこともある。しかし、それも国際協調の時代でもあるのだから共存共栄という方策もあるはずだ。
それがうまくいかないのは人々の「気分」がそこに関わっているというのである。
そういったことを世界の歴史、日本の歴史の中で行われた金融政策、財政政策の内容と結果を例に挙げて分析しようというのがこの本だ。

中心になるのは、「貨幣数量説」「購買力平価説」であるが、これは経済学という学問上では相当古典的な考え方だが、大まかには国際収支や物価の変動の仕組みがわかるそうだ。経済学部を卒業しているにもかかわらずその内容はほとんどわからないのだが、物価変動についてはお金の回転数(収入のうちどれだけ消費に回すか)と将来の期待値(これからさき、お金に困らないかどうか)、市場にどれだけお金が流通しているかという3つのことで決まるそうだが、それを、「貨幣数量説」をもとに説明がされている。
市場に流通するお金が増えればお金の価値が下がって物の値段が高くなるというのはよくわかるし、お金の回転数についても同じ考え方であるということもよくわかる。「貨幣数量説」で説明できるのはここまでの話だ。
そこに加わる、「将来の期待値」というのは、今、お金を残しておかないと将来困ったことになるのではないかというような考え方だ。そう思うと人はお金を使わなくなる。そうするとお金の回転数が下がり物価も下がる。デフレになるということだ。
それはある意味まったくの「気分」である。日本では経済の6割を個人消費が占めているという。そこの部分が「気分」で動いているといのだから理論通りにことを運ぶのは難しい。
基本的にはインフレ気味のほうが個人所得も増えるはずなので経済成長しやすい。しかし、日銀の金融政策は史上空前の緩和政策で市場へのお金の流通量を増やしてインフレ基調になるのを目指しているが、もう何年もそれが実現していない。そこには「気分」が入っているからだ。
非正規雇用者が増え、収入も上がらなさそうだと世間全体が予想するとそこそこ豊かなひとでも支出を控えておこうと考えるのは無理からぬことだ。
黒田総裁はそういうことがわかっているのだろうか。日銀の総裁なのだから経済学のすべてを理解しているはずなのだろうが、それは貨幣数量説までで、ひょっとして庶民の「気分」についてはまったく理解をしていなかったのではないだろうか。
この先、昇給も見込めず、一応、借金がない生活をしているので、インフレよりデフレのほうがありがたいという年金生活をしているという人たちとまったく変わらない家計生活をしている身のうえからすると、無理してインフレにしてもらわなくても全然かまわないと思っているので黒田総裁の政策にはまったく共感を覚えないのである。

為替相場についてはどうだろうか。この本では、固定相場の時代の中で、為替相場をどう設定するかということと、兌換制度の中で貨幣の質を落とすと(改鋳する)と自国での経済はどうなるのかということをもとに説明しているが、やっぱり経済学部を卒業しているにも関わらずほとんどわからないのである。まあ、僕の記憶の中で、大学の授業で改鋳についての講義を聞いたという経験はなかったのでも無理からぬことではあるのであるとここでもとりあえずは弁解をしておく。
為替相場については「購買力平価説」をもとに説明がされている。これは、二国間の為替レートというのは一物一価の原則で、それぞれの国の通貨でひとつの物がどの値段で買えるかというところに自動的に落ち着くというものだ。
しかし、現実はかなり不安定である。何が原因となっているのかというと、ここでも将来においてそれぞれの国において流通するお金の量に対する期待と予測が不安定だからであるそうだ。金融引き締め策で金利が上がりお金の流通量が減ると予測するとその国のお金の価値は上がるが、「今」を基準に考えるとその価値は購買力平価説には沿っていない。
しかし、金利を上げてしまうとその国ではデフレという不況を呼び込むことになる。
今日、円は1ドル146円を超える円安になってしまった。アメリカは原材料費や賃金の高騰で引き起こされたインフレを抑制するために金利を上げているからなのであるが、それでも今のところデフレ方向には振れていないらしい。かたや日本は円の価値が下がってインフレになるはずだが実はアメリカほどまだまだ物価が上がっていない。それでも、所得が伸びない中では1万近い品目がわずかずつでも値上がりされると生活は苦しくなる。
なぜこんな矛盾が起こるのかというと、よいインフレというのは、経済規模の拡大と同等の物価の上昇と所得の上昇であれば人々の生活は豊かになったといえるのであるが、経済規模が拡大しないのに物価だけが上がっているからなのである。経済規模が拡大していないから所得が上がらず物価だけが上がっているのだからそれは生活が苦しくなるのはあたり前だ。
これは幕末の頃にオールコックという英国外交官の提案によっておこなわれた万延小判の発行による大幅なインフレによる生活水準の低下とよく似ているらしい。
万延小判はそれまでの天保小判の3分の1しか金の含有量がなく、要はお金の流通量が一気に3倍になってしまったということなのだが、江戸時代は大規模な工業化社会ではなく経済規模が拡大する余地がなくインフレによる需要拡大→失業の減少→景気の改善ではなく、需要だけが膨らんでしまったというものである。
今の日本も、金融緩和でお金の量だけが増えても経済規模はまったく拡大していなくて物価だけが上がっているので僕の生活はますます苦しくなっているというのはまったく幕末と同じように見えるのである。幸か不幸か、流通量が増えたお金のすべてが市場に出回るのではなく、将来に不安のある企業や個人は内部留保や貯蓄という形で仕舞い込んでしまっているので黒田総裁が期待しているほど物価が上がらないのでこれだけで済んでいということだろうか。

どちらにしても、黒田総裁は庶民の「気分」というものをまったく理解できていないのではないかということと、岸田総理が言う、「成長と分配の好循環による新しい資本主義」などという幻想にしがみついているということが現在の僕の生活の苦しさの元凶であると思うのだ。
すでにこの時代、経済成長などというのは少なくともこの日本では期待できないであろう。そうであれば江戸時代のようにゼロ成長でインフレでもデフレでもない経済を目指すのが一番妥当ではないのだろうか。
これからの日本は「鎖国」に向かうのが一番なのだと思うのである。インバウンドなどはくそくらえだと主張する政治家は出てこないものだろうか・・。

ニュースではさらに円安は進むだろうと言っていたが、この先、僕の生活はどうなってゆくのだろう。円安だけを見てももっと物の値段が上がっていきそうだ。
今日はG20の財務相・中央銀行総裁会議が始まったがそれほど為替にはそれほどの影響はなかったようだ。日本の財務大臣のコメントも人ごとのようだ。
来月にはアメリカ議会の中間選挙があるが、共和党がちょっと盛り返すという予想らしい。そうなってくると、トランプの息のかかった人たちはもっと強いアメリカを主張し、為替レートももっと円安に振れるだろう。
どんどん日本の力が弱くなっていく。「円安を追い風に経済成長を目指すのだ。」とはどこの阿呆が言っているのだろうか。

とりあえず僕も、円安とドルの金利が高いということの恩恵を受けるべく、外貨預金のようなものをやってみようかしらと思っている今日この頃なのである。

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紀ノ川河口~加太沖釣行

2022年10月09日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖釣行
条件:大潮 5:30満潮
潮流:6:06 上り1.9ノット最強 9:15転流
釣果:タチウオ1匹 真鯛1匹 ハマチ1匹 イサキ1匹

今週は三連休。日本は外国に比べて祝日が多いというが本当で、9月にも三連休が2回あり、今月もまた3連休だ。今までは祝日などはまったく無関係であったのだが、こんな歳になって実感している。しかし、まとまった休日などまったく無駄だ。同じ3日休むなら飛び石で休ませてほしい。それなら仕事場で体力を回復させて連続で釣りに行ける。

ということで、三連休なら初日と3日目に釣りに行けるかと思っていたが初日は北風が強いという予報が出ていた。それならばと昨日は小船の船底塗装をしていた。
大潮なので上架には条件が悪いが休日は無駄にしたくない。
満潮は午前4時47分なので、まあ、午前8時くらいに港に着けばちょうどよいだろうと思っていたら潮はすでにかなり引いてしまっている。急いでウインチをセットして引き上げにかかるが勾配がなだらかなところに当たってしまい後部が海底につかえてしまうトラブルを起こしてしまった。こんな時はジャッキの出番だ。



しかし、この機械は人間の発明したものの中では火薬と紙と羅針盤の次に位置づけられるほど役立つ機械ではないのだろうかと思うほど役に立つ。
一度船底を持ち上げてからコロをかまして水際まで引き上げ。今年の夏はかなり暑く、そのせいかフジツボがかなり付着していたものの、その後はいつものとおり順調に塗装を終了。



天気のほうも北風が吹いてたまに日が差したときは一気に暑くなるが比較的涼しくて楽であった。その分、期待していたほど体重は減らず、これはこれで残念なのである。



潮が満ちてくるのを待つため、一度家に帰って大きいほうの船のオイル交換の準備をして港に舞い戻る。



今回はエレメントの交換もするのだが、前回の失敗の教訓をもとに買ってあったレンチは絶大な威力を発揮した。



前回完全に壊れてしまったレンチは力が入らず、柄のところにパイプを差し込んでエレメントを緩めたりしていたのだが、今回はいとも簡単に取り外すことができた。
摩擦力だけで緩めることができるこの道具はジャッキの次の5番目に位置づけることができるほどの人類の発明品なのかもしれない。
そして、道具は良いものを持たなければならないというのを実感した瞬間であった。

エレメントの交換がすんなり終わったのでオイル交換は30分もかからずに終了。ちょうどその頃には小船の船体も半分くらい海水に浸かり進水が終了。


そして今日。
お昼頃には雨が降ってくるというのでそれまでは釣りができそうだ。
気温はかなり低くなり、素手でバイクのハンドルを握っているとちょっとしびれる感じがする。早くも手袋が必要になりそうだ。

まずは紀ノ川河口でタチウオ狙い。これも出遅れ、出港するころにはすでに東の空が明るくなってしまっていた。



仕掛けを流すも小さなタチウオ1匹だけ。アタリの数もこの魚を含めて2回だけであった。例年ならあと1週間は釣れるものだが今年は今日で終わらねばならなさそうだ。
アタリも期待できないのですぐに切り上げて加太に向かう。
加太での釣りは当然ながら潮の流れが重要なのだが釣りに行ける日が決まってしまっているので潮流を見るのもなにもない。潮がどうであろうと関係ない。
今日も朝はアジ釣りだとサビキ仕掛けでスタートしたが、その後に潮流表を開いてみるというのだから始末が悪い。それに加えて三連休のうち天気を見てみると今日が唯一釣りに出ることができる日であるからなのかかなりの数の船が出ている。



大体が周りの船の様子を見てポイントを決めているのでこれだけたくさんの船が分散しているとどこで釣れているのかというのがわからない。
適当なところで仕掛けを降ろしてみるがアタリはない。そんなときに潮流表を見てみると、ちょうど最強時刻を過ぎた頃だからこれはアジを狙うよりも真鯛を狙ったほうが良いのではないかと思い高仕掛けに変更したのだが、これがピッタリはまった。すぐにアタリがあり真鯛が上がってきた。これに調子づいて、それならテッパンポイントだろうと北上をしてみる。この作戦もピッタリはまりメジロクラスのハマチが上がってきた。3.5号のハリスでよく上がったと思うが、他の船とはまったく違う場所を流していたのでゆっくりとやり取りできたのがよかったようだ。
その後、魚探に大きな反応があったと思ったらアタリがあり、鬼アジかと思ったら上がってきたのはイサキだった。それもかなりの大きな型だ。
美味しい魚が釣れた。

そろそろ潮が止まる時間なのでこれで終わろうと、最後に鬼アジがいないかと四国沖ポイントに移動し仕掛けをサビキに変更。すぐにアタリはあったが小さなチャリコだ。その時間がちょうど午前9時、これで今日は終了。
港に戻り叔父さんの家に向かうべく水軒川の堤防を走っている頃にはポツポツと雨が降ってきた。ちょうど良いタイミングで引き上げてきたようだ。



釣行回数をもっと増やそうと思うと連日釣りに出なくては思うもののかなり疲労が溜まるのかと躊躇していたが、あちこち筋肉痛で辛いものがあるのも確かとはいえ、今回の船底塗料作業と翌日の釣りを連続でやったことでひとつの目途がついた。連続で大きいほうと小さいほうを乗り分けて釣りができそうだ。
外部環境の変化で自分の人生を左右されたくはない。もう少し抗ってみたいのである。

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「九頭竜川」読了

2022年10月06日 | 2022読書
大島昌宏 「九頭竜川」読了

僕の釣り人生にとって鮎釣りというのは最後のフロンティアだと思っている。まだまだやったことのない釣りはたくさんあるけれども、体力、財力、忍耐力を考えるとブルーマーリンを釣るとか、キングサーモンを釣るとかというのは現実的ではない。数年前まで伯父さんが持ってきてくれた鮎の味は美味しく、その伯父さん曰く、鮎の引きを味わうと病みつきになるのだという。そして同じことを森に暮らすひまじんさんもおっしゃる。いきなり走り出す目印の動きの躍動感と、あの小さな魚体からどうしてあれほど凄まじい力が生まれてくるのかというほどの引き味が魅力だそうだ。
僕もいままでたくさんの種類の魚を釣ってきたといくらか自負はしているので、だいたいこの種の魚でこれくらいの大きさならこんな引きをするというのはわかるつもりだが、鮎だけはわからない。友釣りという特殊な釣りも僕にとっては謎である。
しかしながら、フィールドはすぐそばにあり、身近なひとたちがその釣りをしているので僕にとっては手に届きそうで届かない釣りでもあった。
体調不良で鮎釣りを断念した叔父さんの道具を借りてひまじんさんに無理やり弟子入りを志願して今年こそは鮎釣りデビューだと思っていたのだが、降って湧いたアマダイブームと根っからの腰の重さでその思惑はあっけなくとん挫してしまった。
そんなときにこの小説のことを知った。

主人公の少女は福井地震で両親と祖母を失い、川漁師である祖父の元で川漁師の道を歩む。
福井県は、終戦間近の時の大空襲、そしてこの福井地震、そのひと月後の大水害と、わずか3年のあいだに壊滅的な被害に遭う。
そんな経験から主人公は、明日は生きているかどうかわからない、だから、将来に希望を持たない代わりに、今日を精一杯生きるのだという諦観を持つようになる。
『愛子は、必ず来るとは限らない明日のために余力を残すことをしなくなった。生きてある今日だけのために、持てる力のすべてを出し切るようになった。』
『人は老衰や病気だけで死ぬのではなかった。不時の災難で、若者も健康な者もあっけなく命を奪われるのだ。であれば、人はみな罪もないのに生まれながらにして死刑を宣告されている囚人と考えるべきではないのか。』という考えは18歳の少女にしてはあまりにも切ない考え方にも思える。そして、自分のそんな生き方を1年で寿命を全うする鮎に重ね合わせるのである。
そんな中、両親がいないことで就職試験に失敗し、『誰に気兼ねすることもない、腕一本だけが勝負の漁師になり、父を奪った九頭竜川に挑戦してみよう』と、自分の力のみで生きてゆくことができる川漁師の道をめざそうという考えにたどり着く。
鮎釣り名人の祖父はそれまで、『地震のとき以来、源蔵の心にはある変化が生じていた。源蔵自身の手ひどく弄ばれ、勇作の命を奪って逆流する褐色の怒涛を見てからというものは九頭竜に深い恐れを抱くようになっていたのである』が、たったひとりの肉親である孫娘のその考えに共感し、『九頭竜の鮎のように精一杯生きてほしい・・』と自分の持っている技術のすべてを伝えようと後継者である息子を失った悲しみから立ち直るのである。
そこからは、孫娘と祖父の二人三脚の修業が始まる。女性であることからの偏見を少しだけ受けながらもその血筋からか、その釣技はめきめきと上達する。
そして少女は、祖父の釣友の息子や友人の母親で高級料亭を経営する母親の言葉から刹那的な自分の生き方を見直すようになる。(といっても主人公はその刹那さえも力のかぎり精一杯生きようとするのであるが。)というようなストーリーだ。
友人の母親からは、『わたしはね、世の中で取越し苦労ほど阿保らしいことはないと思うてるんにゃ。例えば、明日の天気が晴れやろか雨やろかなんて心配しても、どうせ自分の思うようになるわけはないんにゃさけね、考えるだけ損やと思う。ほんなことは朝起きて雨やったら傘、雪やったら傘と長靴出せばすむことなんや。ほやろ?』と、自分の境遇に憂えることなく力強く生きることを教わる。3年間に起こった大惨事のすべてを幸運にも体験することなかった釣友の息子が言う、『命の儚さを知っているからこそ、人は日々の命の不安を克服していきてゆけるのではないのか。』と言う言葉に、『生まれ替わっては安易な生を繰り返すより、1回だけの充実した生を送り、悔いなく終わるほうが意義があるように思える。』という考えの主人公は、同じ福井の人間としては許し難いという思いもありながら、また、十年先、二十年先と気の遠くなるような将来の夢を無心に語る男性に違和感を覚えながらも少しずつ心を惹かれてゆくのである。

新田次郎文学賞を受賞しているとはいえ、おそらく傑作というにはちょっと物足りないような気がする。それは、僕が小説というのは不条理と絶望だというような偏向した考えを持っているからに違いないのだが、少女のひたむきさと利発さ、登場人物が善人ばかりだというのは朝の連ドラを見ているような印象でもある。(「舞い上がれ!」でも、主人公の母親と祖母の確執があんなにもあっけなく解消されるというのはまさに善人のなせる業としかいいようがない・・)それはその通りで、著者はCMディレクターというのが本業だそうだ。だからすごく映像的でテレビドラマ的なストーリーになっているのだと思う。
最後のクライマックスも、釣り大会での優勝というのもベタすぎる。

しかし、実家が福井県の釣具屋であったというくらいで、釣りシーンの描写や鮎釣りについての蘊蓄は釣り文学と言ってもいいほど秀逸であると思う。石の色を見て鮎の着きを判断するであるとか、おとり鮎の操作法の描写はなかなかリアルである。
その釣り味は、『目印が上へ走り、瞬時の後に下へひったくられた。鋭い電流のような衝撃が竿をゆさぶり、愛子の心臓をわしづかみにする。』と表現されている。『釣り師じゃのうて漁師じゃからの。数も釣らんならんが、鮎の値打ちを下げるような掛け方をしたらあかんのじゃ。』といいながら、やはりプロでもその引きにはしびれてしまうという率直な感想がリアルだ。
舞台になった時代は昭和26年ごろ。ナイロン糸が日本に入ってきたころであり、そんなエピソードも交えられている。
九頭竜川独特の鮎釣りの技法や漁法として、「泳ぎ釣り」、「水中八艘飛び」、「九頭竜返し」、「置き石」、「ダンマリ」などというものも紹介されていたりする。
そして、友釣の歴史についても、小説にしては詳しく書かれている。
文政年間(1818年~1830年)、狩野川での発祥であったと考えれていたが、さらに遡り寛文年間(1661年~1673年)、京都の八瀬川(高野川)での発祥であり、そこから上州、美濃地方に広まったと書かれており、鮎の縄張り意識が解明されたのはそう古いことではなく、当初のころは囮に雄鮎を用いれば雌鮎が、雌鮎を用いれば雄鮎が寄ってきて鉤にかかると思われていた。というような詳しい説明が続く。

刹那的に生きるか、未来に夢を持って生きるか、その間で動く葛藤というのはいつの時代でも人生のひとつの課題ではあるのだろうが、それを1年しか生きられない鮎になぞらえて問題提起をしているというのは構成としてはうまく作っているなと思える1冊であった。

このブログでも何度か書いているが、もう二十数年前になるだろうか、かつての上司が亡くなったとき、僕も人は若くても死ぬことがあるのだということを実感した。小説の主人公はその時に自分の生業にまで言及して自分の生き方の方向性を求めるのだが、僕はというと、ただ、自分の遊べる範囲で遊んでおかないときっと後悔すると思うという程度だった。
それは、自分の腕一本で生きているか、会社という生命維持装置に依存して生きているかという大きな違いが原因だったのだと思う。
結局のところ、選んだ職業には自分のやりたいことはなく、だからそこには自己実現という目標も見つけることができなかった。どちらかというと、自分の手を使って何かものを作るというような仕事のほうが向いていたのではないかと今さらながら思ったりもしているが、そうは言っても何事にも不満しか持てないような性格ではそんな仕事に就いていてもやっぱり不満しか言うことがなかったのだったら、そこは最後の砦として、僕はコンプレイナーなどではないんだと自分を納得させる材料として残しておいてよかったのかもしれないとも思うのである。

どちらにしても、もうこの歳になっては人生は不可逆的だ。主人公の生き方はあまりにも眩しすぎるというのが一番の感想である。
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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2022年10月01日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖釣行
条件:中潮 3:13干潮 9:58満潮
釣果:タチウオ1匹 ヤナギ1匹 サゴシ1匹

土日しか休みがなくてもっと長い時間釣りをしたいものだがどうもそんな気にもならず、今日も朝一だけの釣りにしておこうと計画を立てた。もっとも、船は2隻とも船底をきれいにしなければまともに走れないというのも近場だけにする理由ではあるのだが・・。

10月に入り、朝はかなり寒くなってきた。シャツ1枚ではバイクで走ることができても船の上では寒さを感じる。今日からヤッケを来て出港。



日が昇ってくるとすぐに暑くなってくるのだが空は高く、ウロコ雲が秋を感じさせてくれる。



今日の予定はとりあえず保険でタチウオを狙い、禁断の仕掛けからルアーのキャスティングとリレーするというものだ。ルアーを投げてみようと考えたのは、渡船屋の釣果にメジロクラスのハマチが釣れていたのと、「わかやま〇しぇ」で今日の特売品のドレッシングを買うための時間調整のためである。



朝、港に到着すると、タチウオ名人のユウイッチャンさんがちょうど出港するところであった。この人がこの時間に釣りに出るということはきっとタチウオが釣れているのだろうと思い状況を聞いてみると、「あかな~・・」という悲しい答え。おじさん釣れなくても行くのかいな・・。
まあ、ここまで来て予定を変えられることもなく、タチウオがダメでも今日は三段重ねの戦術がある。後に行くほど釣れる確証はどんどん小さくなるのだが・・。

いつものとおり、港内から仕掛けを流し始めると、いきなりアタリが出た。ユウイッチャンさんの情報とは裏腹にいい感じじゃないかと思ったが、せっかくの1匹目を目の前でバラしてしまった。これでケチがついたか、ユウイッチャンさんの情報通りまったくアタリがなくなった。やっとアタリが出たのは辺りがあかるくなってからだ。それも小さい。
その後もアタリはなく、ここまで明るくなっては釣れないだろうと禁断の仕掛けに切り替え、キャスティングをしようと考えているポイントまで流してみることにする。
毎年、この頃、サゴシが釣れていたので期待をしていたが、そんなには甘くはなかった。

細いタチウオだけじゃ嫌だなと思いながらセリアで買ったメタルジグを投げ続けるがやっぱりアタリがない。100均のルアーを使っているからか、ルアーのサイズがマッチしていないのか、そもそも魚がいないのか、そんなことがさっぱりわからない。なんちゃってルアーマンの悲しさだ。

周囲には魚がまったくいないのではなく、ボラかもしれないが時おり水面に小さな輪を作っている。午前7時過ぎに「わかやま〇しぇ」に到着すればちょっと早いが今日の特売品にありつけるだろうと思い、そろそろ帰ろうかと思ったときに不意にアタリがあった。アタリというよりもいきなり竿先をひったくられたという感じだ。
ドラグはどんどん滑ってラインが出てゆく。これはきっとメジロクラスだろうと思うとリーダーを切られてしまうかもしれないので出てゆく糸を止められない。しかし、目の前はテトラ帯だ。あまり糸を出し続けることはできない。幸い、少し魚の勢いが止まりラインを巻き取ってゆく。魚は意外とおとなしくその後はなんとかこちらに近寄せることができた。船の舳先に移動し、左右に動き回る魚をいなし、ようやく姿を確認することができた。結構なサイズのヤナギだ。慎重に引き寄せ無事タモ入れに成功。体高もありかなり大きい。魚を取り込むまでは必死だったのだが、いざ釣り上げてみるとこれをどうやって持って帰るかが問題になってくる。
クーラーには入りそうもない・・。



しかし、それでなくても足の早い魚だ。無理や押し込んで家に持って帰るとU字型に曲がってしまっている。毎度のことだが、この魚をまっすぐに矯正すると必ず身割れをおこす。
残念だが仕方がない。菊新丸さんにそんな話をすると確かにその通りで、この魚はこんな状態になると商品価値がなくなってしまうそうだ。かえって曲がったまま捌くほうが良いそうであるが、そんな腕前はないので身割れ覚悟で矯正して捌きにかかるのだ。



かといって大きいクーラーボックスを買う余裕もなく持ち運びする手段もないのでたまに釣れる大物はこんな感じで扱うしかない。

アタリがあったら切り上げるわけにはいかない。再びキャストを繰り返すと小さなエソが掛かってきた。



少し魚が動き始めたのかもしれないと思ったら三度目のアタリがあった。今度はそれほど大きくはない(といっても軽く50センチは超えているのだが。)。しかし、叔父さんの家に持っていける分はできた。
そろそろお店にも行ける時間になったので午前7時に終了。

叔父さんの家に寄ると、落花生がそろそろ採れるでというので畑に入らせてもらうと今年は豊作だ。株を3ヶ所掘っただけでかなりの量を収穫することができた。



明日のトイレが心配だが止まらなくなる。



ヤナギは定番の炙りと「わかやま〇しぇ」でもらってきたユーリンチーのタレを使って鶏肉じゃないユーリンチーにしてもらった。これは結構いける。どんな魚にも合いそうだ。
これをタダでもらえるのだからこのお店は貧乏人の救世主なのである。




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