イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「赤毛のアン」読了

2015年12月29日 | 読書
ルーシー・モード・モンゴメリ/村岡花子 訳 「赤毛のアン」読了

僕も朝の連ドラ「花子とアン」を見ていなければおそらく死ぬまで読むことはなかっただろうと思うが、50を過ぎたおっさんが読むような本ではないと思っている人はそれは大きな認識違いだ。放送当時は古本屋で探しても全然見つからなかったが1年以上過ぎて再び出回ってきているようだ。

空想好きの少女が成長する姿を描いた、僕は知らないだけでだれでも知っているストーリーだが、アンが少しずつ成長してゆく姿に「ホッとする」というか「よかった、よかった」という気持ちがあふれてくる。
アンがクイーン学院の受験の準備を終えたとき、マリラとリンド夫人が交わすしみじみした会話には思わず、「そうだ、そうだ」と共感し、ギルバートとの和解のシーンでは、やっぱり「よかった、よかった」と思うのである。
村岡花子の文章も素晴らしい。
繰り返して述べるが、決して50を過ぎたおっさんが読むものではないと思ってはいけない。

そして、アンの名言をいくつか・・・。

「朝はどんな朝でもよかないこと?その日にどんなことが起こるかわからないんですものね。想像の余地があるからいいわ。」
「だって言葉ではあらわせないんですもの。ほら、言葉では言えないものってあるでしょう!」
「分別があるってたいしたことにはちがいないけれど、あたしはそうなりたいとは思わないわ。」
「グリン・ゲイブルズにきてからずっとあたしは失敗ばかりしてきたけれど、一つするたびになにかしら自分のとてもわるい欠点が治っていたのよ。」
「貧乏な者のしあわせの一つは---たくさん想像できるものがあるというところだわね。」
「ある人をよろこばせたいと思うときには、どんなことでもできるものなのね、マリラ」
「あたしが幾何で失敗しようとしまいと、太陽はあいかわらず昇ったり沈んだりするんだわ。」
「そうね、あたしは自分のほか、だれにもなりたくないわ。」
「ああ、野心をもつということは楽しいものだわ。こんなにいろいろと野心があってうれしいわ。限りがないみたいだけど、そこがいいんだわ。」
「義務もそれに率直にぶつかるときには友となるのである。」
「曲がり角をまがったさきにはなにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにものにちがいないと思うの。」


アン自身もなんの悩みもなく生きていたわけではないようだが、閉塞感にあふれた今の時代に何か別の生き方を示唆してくれているように思えて仕方がない。
この本を読み終える直前、偶然にもBSでプリンスエドワード島の風景の放送を見た。
赤土の小道、樅の木の林、そしてグリンゲイブルズの家。こんな風景の中でこの物語が書かれたのか・・。

今年の最後に、いい本に出会えたものだ。

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「葡萄街道の殺人」読了

2015年12月04日 | 読書
平岩弓枝 「葡萄街道の殺人」読了

平岩弓枝というと、時代小説の作家のお印象があり、でおのずから僕の読まないジャンルの作家なのだが、前に読んだ本にこの本が紹介されていて、現代の小説なので読んでみた。ストーリーはサスペンス仕立てなので、これもまず読まないジャンルだ。

サスペンスのストーリーを話すわけにはいかないが、最初のアホらしいほどの展開が後半にどんどん変わっていくというのは、先に読んだ、「齟齬」というストーリーに比べるとはるかに上級だ。
しかし、本であることの悲しさ、ここらではまだ終わらないからどんでん返しが待っているぞと構えてよんでいるとドキドキ感が半減してしまう。サスペンスはきっと電子辞書で読むべきなのかもしれない。
そうなると、電子辞書とオートマチック車はあまりにも味気ないと考えている僕にとってはますます読むジャンルじゃなくなってはくるのだ。
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「梅原猛の『歎異抄』入門」読了

2015年11月29日 | 読書
「梅原猛の『歎異抄』入門」読了

「歎異抄」というと、“善人でも極楽へ往生できる。悪人ならなおさら往生できるのだ。”というなかなか普通では理解しにくいロジックが展開される。
そのココロは善人というのは善い行いをいっぱいしてその結果で成仏しようとしているので阿弥陀様のお力にすがろうという心が欠如しているというのだ。悪人はそんな努力をしないから心から阿弥陀様におすがりできる・・・。
言われてみればそうなんだと言い含められてしまいそうな感じだ。
その上に、悪事をはたらくのはその人が悪いのではなく、前世からの因縁だというのだ。罪というのは自らの意志で犯すのではなくて何か別の力が働いてやってしまうというのだ。
う~ん、言い含められたくないけど・・・。そう思うとクレーマーでも許してしまいそうになる・・・。

いままでいくつか読んだ、真言密教、釈迦の教え、禅宗。そして浄土思想。すべてに共通するのは、煩悩や欲望を人が持つのは当たり前である。それを知ったうえでどう生きるのか・・・。煩悩や欲望を持って生きてもいいのだよ。とという前提で教えをくれる。それは生きて行くうえでなにか許しを得ることができたという安らぎにも似たものを感じさせてくれる。

しかし、人口が増え、様々な考えを持つ人々と交流しなければなったとき、道徳的な考えを取り入れなければ世の中がうまくまわらなくなってきた。
歎異抄は親鸞の弟子の唯円という人が最近は親鸞の教えを理解せず守らない輩が増えてきたことを嘆いて書いたと言われているが、この本の著者の梅原猛は、そうではなくて道徳的に生きなければならなくなった世の中で親鸞の思想はその理解のしようであまりにも危険な思想にいなりつつあることを嘆いているのだと論じている。
その証拠に歎異抄でも、最後の奥書で、「前世から善根のない者には、むやみに見せていけない。」と締めくくっている。


上っ面だけを読んでいると、“何をしでかしてもいいのだ。”とも読めてしまう親鸞の教えは結局、そこそこいろいろ学んだ人でないと本当の意味を理解できないと言ってしまっているようにも思えるので、やはり人は学び続けなければならないということだ。
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「齟齬」読了

2015年11月12日 | 読書
前田朋子 「齟齬」読了

久しぶりにくだらない本を読んでしまった。
先日の休日の夕方、いつも見ているNHKのローカルニュースの放送がなかったのでテレビ和歌山のニュースバラエティをみていたら、龍神村が舞台の小説として紹介されていた。解説していたひとは、物語のなかのこんなレトリックが素晴らしいんですというようなことを言っていたので一度読んでみようと思ったのだが、どこにそんなすばらしいレトリックがあったのか、とうとう気づかないまま終わってしまった。
それどころか、“・・・・・別に取り立てて驚きもしないが。”という、“が”で終わるようなト書きがところどころにあらわれてくる。驚くのか驚かないかは読む人の主観で決まるわけだから、この書き方はないのではないか。こんな言葉が出てくるのは面白くもないギャグマンガだけだと思っていた。ものすごく違和感を感じた。
一応ミステリーらしいのだが、このトリックもまったくキレがない。無理やり二つの出来事を強引に結び付けている。僕はどんな本でも読み始めたら最後まで読むと決めているのだが、これは途中でどうしようか迷ってしまった。
紙質も悪く、持ってみると異常に軽い。この本のストーリーにふさわしい軽さだ。

そして、カバーの後ろの裏側の著者紹介の欄にはこの本の素晴らしさを語っていたおばさんの写真が載っていた。こんな本を自画自賛するとはなんという人だろうと最後に本当のミステリーっぽさを醸し出していた一冊である。
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「コージ漁師を食う」読了

2015年11月11日 | 読書
今井浩次 「コージ漁師を食う」読了

著者は関西で釣りをしている人ならほとんどすべての人が知っているであろう人だ。今はサンテレビの「ビッグフィッシング」で解説をやっているが、かつて釣り雑誌の草分けであったであろう「釣りサンデー」の取締役編集長であった。
この雑誌、見出しが面白いのでついつい買ってしまうのだが読んでみるとどうもがっかりするような内容だった。と、いうかあまりにもマニアックすぎてあの頃のぼくにはついてゆけなかったのだ。
この本も釣りサンデーに連載したコラムを1冊の本にしたものかもしれない。
この人はビッグフィッシングでも魚を食べることについては造詣の深さと執念のようなものを見せているが、この本にも相当なボリュームで様々な魚の料理が掲載されている。漁師料理というだけあって奇をてらったものはなく鮮度と新鮮さで勝負しているというものばかりだ。真似できそうなもの、多分無理っぽいものいろいろだが読んでいるだけで十分いただきましたという感じになった。

ゲテモノてきな料理を見てみると、一番はウミウシの料理だ。隠岐の島での料理ということだがこれはどうだろう。昔、畑正憲の本で、これだけは食えないみたいに書かれていたので、海で見かけてもこれだけは食えないのだと思っていたが、食っている人がいるというのはこれはこれで驚きだ。下ごしらえして地元の味噌で和えるそうだ。
次はオセンの背ごしと南蛮漬け。春の卵を持っている時期が絶品だそうだ。これは衣奈の地元料理。あのウロコを見ると食べる気が失せるのだが・・・。
僕もサンノジを食べ、ボラを食べ、ベラを食うのは当たり前と思っているがこの本を読んでみるとまだまだ修行が足らないと納得してしまう。
そういえば、ボラは出てこなかった。僕が発明したボラの中華風から揚げオーロラソース和えというのは家族の中でもかなり好評な料理なのだが・・・。
なにはともあれ、まずは食べてみろということだろうか。
これからは毒がない限りとりあえず持って帰ってみようと思う。




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「空海の思想について」読了

2015年11月03日 | 読書
梅原 猛 「空海の思想について」読了

 前回読んだ「弁顕密二教論」があまりにもよくわからなかったのでもう1冊読んでみた。
もともと密教というのは仏教と似て非なるものではないかと感じていたのだが、著者はその違いを仏教は浄土思想に代表されるように、現世を否定して死後に救いを求める。もしくは現世は苦悩に満ちているのだからそこは諦めていきてゆきなさいというものだが、真言密教というのは、それを超えた先にはすばらしい世界がある現世というものはなんと素晴らしいところだろう。そしてそのすばらしさを人々に伝え分け合うのはもっと素晴らしい。と説いている。
大日如来は宇宙そのものであり、その姿をたった一つの文字に凝縮する。それほどの大きさのものが小さな文字に宿ることと同等に人間でさえも宇宙そのものでありうる。空海の思想のひとつに即身成仏というものがある。これは誰でも生きているうちに仏になれるというものだが、人は宇宙そのものということにつながっているのかもしれない。そして人間はみな平等だということを説いているのだろう。

奥の院へ続く参道には戦国武将の墓がたくさんあるが、かつて敵対して殺しあった人たちが一堂に会しているというのも武将たちは高野山ではみんな平等だと知っていたからにちがいない。

そういう意味でもなんと空海はという人は心の広い人であったのだろう。やはり他の仏教とは似て非なるものだ。そして今でもたくさんの人々を引きつけてやまないのはこんなところに大きな魅力を感じるからなのだろう。
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「弁顕密二教論」読了

2015年10月15日 | 読書
空海/著 加藤 精一訳 「弁顕密二教論」読了

顕教と密教の違い、そして密教の方が優れているのだということを空海が解説した著作だ。
顕教とは密教以外の仏教思想を指す。

しかし、この本、空海の著作を現代語に訳しているだけで解説がない。これでは僕のようなような凡人にはほとんど理解できない。おまけに真言宗の経典のいくつかには“不読断”といって余計な注釈を加えてはならないというしきたりがあって口語訳にさえなっていない部分もある。

ほんの少し、ほんの少しだけこんなことではなかろうかと解釈できたことはこんなことだ。
顕教の教えというのは、如来様がそのひとの能力に合わせて説いてくれるので人によってその理解度と到達点が違ってくる。そして理解するのに非常に時間がかかる。対して密教の教えは絶対的な如来様である大日如来が絶対的な教えを説くというものでしかも瞬時に理解できるらしいということだ。
確かに空海は中国に渡ってわずかの間に灌頂を受け真言密教の継承者になったということだから密教とはそういうものなのだろう。

いずれにしても“理解しろ”というよりも“感じろ”ということのようだ。これはまったくスターウォーズに出てくるジェダイがフォースを体得するということと同じようである。
そういえば、大日如来は宇宙そのもので我々人間もその一部でありかつ宇宙そのものであるという考えもフォースに似ているぞ。
ヨーダは空海だったのであろうか・・・。

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「梅原猛の授業 道徳」読了

2015年10月09日 | 読書


前回読んだ「梅原毅の授業 仏教」同様、筆者による中学生に対しておこなわれた授業を書籍化したものだ。
「道徳」という授業、小学生、中学生のころにあったような記憶があるが、なにか同和問題の話がほとんどであったような気がする。

筆者は、道徳の基本は①人殺しをしない。②嘘をつかない。③盗んではいけない。であると教えている。これを突き詰めてゆくと宗教の授業になってゆくわけで、それを守りながら自分らしく生きてゆく術を考えるとなるとますます宗教や思想的なものがからんでくる。まったく宗教色のない学校ではなかなか教えるのが難しいだろう。
もうすぐ小学校や中学校で道徳の授業が科目として始まるらしいが、そんななかでどうやって教えてゆくのだろうか。教える先生の宗教観や思想でも内容ががらっと変わるだろうし、子供たちも子供なりにさまざまな価値観を持っているはずだからなおさらだ。

大体、こんなことは先生が教えなくても、親が家で教えれば十分じゃないだろうか。かしこまって教えなくても親の生き方をみていればなんとなくやってはダメなことくらいわかってくるだろう。
そして、宗教観、生きてゆくことに対する価値観・・・偏っていようがなんであろうが、親が教えるのだからだれにも文句は言われまい。それができなくなっているから、ややこしい事件がおきているのだから、じゃあ学校で教えなくてはとなるというのはこの国の先も見えているというものだ。軍国主義に逆戻りだとか教育勅語は国家に忠誠を誓わせて国民の自由を奪うものだとか、そんなことを忙しく言っている人たちは自分の子供の教育をちゃんとやっているのだろうか時代も変わっているののに。こんな反対運動に没頭するあまり子供にご飯を作ってやっていないのではないだろうか。

僕は、コンビニで飯を買うという行為がすべての悪の根源だと思っている。動物はおしなべて飯を食わせてくれる相手には絶対に刃向かわないし、言うことを聞くものだ。親が飯を作ってやらないから子供は親の言うことを聞かなくなる。人間なんもともと残酷な動物だ。それになんとか折り合いをつけるために宗教が生まれ、それでも何千年と殺し合いをしてきたのだから、飯を食わせてくれる相手が誰だかわからないとなってしまうと、本性が表れて暴走をする。これは当然の結末だ。
それに輪をかけて男女同権とかなんとかで男の役割、女の役割を決めてはいけないと叫ばれるとよけいにわからなくなってしまうのも無理はない。
男は男の役割をして女は女の役割をすればいい。その役割はなんであるかということも自分で決めればいいのだ。人に迷惑をかけなければいいではないか。それを1億人総活躍などと国が押し付けようというか、走り続けていない人は人ではないと決めつけてしまうのはおかしい。活躍したくないので生きてゆけるだけの最低限の仕事をしてゆっくり生きるのも生き方だろう。会社の寄生虫でもいいじゃないか。寄生虫も宿主が死なれては困るからそれなりに役に立っているのだ。

活躍しすぎてご飯を作る暇がなくなって、コンビニで飯を買う子供の道徳が失われるというのは本末転倒なのではないだろうか。
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「ほろ酔い文学辞典」読了

2015年09月27日 | 読書
重金敦之 「ほろ酔い文学辞典」読了

いままで読んできたこの手の本は、“OO編”という形で、文章を切り取って並べているだけという形であったが、この本は第1分類がお酒の種類で作家の文章を引用しながら展開されてゆく。
有名、無名(僕が知らないだけだが・・・。)この人はどれだけの本を読んできたのだろう、そしてどんなデータベースを持っているのだろうと恐ろしくなるほどの情報量だ。最近の新書は教養を高めると言いながら読んだ後にはいつもこれのどこが教養だと大半が損をしたと思ってしまう内容だが、この本は教養が身につくのかどうかは別にして、著者の教養の深さに驚かされる。元新聞記者だそうだが、記者独特であろう簡潔で要旨がはっきりしたスパッとした文章も好感が持てる。

このような形で書評を書く人々は必ず推理小説を揚げる。僕は基本的に推理小説やホラー、ミステリーは読まない人間なのだが、読む人が読むとこのジャンルは非常に魅力的なのかもしれない。このように新しい本を紹介してもらえるのも書評を読む楽しみだ。紹介されているいくつかの本はぜひとも読んでみたい。また古本屋めぐりが楽しみになる。


日本酒のページ、居酒屋でひとりで呑むことができれば男として一人前だ。みたいな記述がある。男がひとり、見ず知らずの人と酒を介して何の利害もない会話を交わすことができる人というのは確かに大人だ。もう放送が終わってしまったが、「ヨルタモリ」のようなお酒の呑み方にはあこがれる。そして大人になり切れない僕には絶対無理なのだ。ひとりで暖簾をくぐる勇気もない。まあ、奥さんが作ってくれる料理がけっこう美味しいのでそれをあてにして黙ってお酒を呑むのが安く上がってくつろげる。こっちのほうがいいと思うのは、これは幸せなのかそれとも男としては未熟、もしくは堕落しているのか・・・。
そんなことに悩んでいるということ自体が未熟だということを物語っているということを理解しているというのは少しだけ大人になったのだと思っておきたいものだ。


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「預言者」読了

2015年09月09日 | 読書
カリール・ジブラン/船井 幸雄 訳 「預言者」読了

著者はレバノン出身のアメリカ人で移民としてアメリカに渡ってきたひとだったようだ。
神の言葉を預かるもの、預言者「アルムスターファ」がオルファリーズを去る前、オルファリーズの人々からうけた問いに対して答えるという形式で物語は進む。
愛について、結婚について、友情について、死について・・・、合計26の質問に叙事詩的な言葉で回答をしている。
なるほどとわかるところもあるし、あまりにも比喩が超越していて実際何を物語っているのかわからないものもある。しかし、その表現の荘厳さというのものには何かを感じずにはいられない。
いまは半分も理解をできていないが、何度か読むうちにもっと理解できる部分もあるのではないだろうか。


まず、電車の中では読むことができなかった。もっと静かなところでないと読むことができなかった。
というか、静かに何かを考える時間を作らないと精神というものは成長できないのではないか?
実は魚釣りというのはじっとアタリを待つ間、思索にふけることができるはずなのだが、残念ながら心穏やかに過ごせたことなどまったくない。
ウォルトンの言うように、「静かなることを学べ」という心境にはほど遠いのだ。


この本はアメリカの知識人の家庭には必ず1冊以上あるというほど有名な本ということだ。
やはり、聖書と同じように何べんも何べんも読み続けることで本当の意味を理解できるものなのかもしれない。

預言者は、語ったのは私ではなく、私もまた聞く側ではなかったのだろうかと最後に言っているが、そこから推察するに、心のままに生きなさいとと言っているように見える。
人それぞれ様々な心根を持っているだろうが、洗いに洗うとそこには純粋な心が必ず残る。その心の行く先はきっと正しいのだと言っているように見える。
自分の心を太陽にさらけ出せ、そうすることができれば何の悩みもなく過ごせる。「死ぬとは、風の中に裸で立ち、太陽に溶け込むことでなくなんだろう。」と最後の問いに答えている。
つたない読解力ではこの程度までしかわからず、果たして著者の真意にも近づいているのかどうかわからない。やはり何度でも読んでみる価値のある1冊だと思う。

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