イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「江戸釣百物語」読了

2022年02月17日 | 2022読書
長辻象平 「江戸釣百物語」読了

この著者の本を読むのは2冊目だ。「釣魚をめぐる博物誌」はかなり面白い本だったのであとから買ってしまった。
この本は内容的には「釣魚をめぐる博物誌」だぶっている部分もあるが、この本を書くためにどれだけの文献を漁ったのだろうかと感心してしまう。

日本で趣味としての魚釣りが本格的に始まったのは五代将軍の綱吉が亡くなって後のことだそうだ。綱吉は、「生類憐みの令」に加えて、「釣魚釣船禁止令」を出したので釣りが広まらなかったというのはわかるが、それ以前でも、仏教の殺生戒という思想から趣味でやる釣りというのは広まることはなかった。
なので、文献といっても大したものはない。当時の人が残した日記の中に釣りをしている光景がたまに見えるくらいだ。著者はそういったものを拾い集めてこの本を書いている。当時、どんな釣りがなされていたかということがよくわかるのはその後、いくつかの専門書が発刊され始めてからのことなのである。
綱吉の元禄の時代、太平の世になり武家社会の中心であった江戸では、時間をもてあましてきた武士たちが趣味で魚釣りを始めたというのがこの本のタイトルなのである。

そんな時代が来る前でも、釣りが面白くないわけがなく、戦いに明け暮れていたはずの戦国時代の武将も釣りを楽しみ、生類憐みの令が出されている間でも死罪を覚悟?のうえで釣りをしていた人もいた。

戦国時代の釣りバカは徳川家康のいとこ、松平家忠だ。「家忠日記」という著作の中には武田信玄との戦いや本能寺の変の記述に加えて川狩りや網引きの記述が1577年から1589年の間に80回も出てくるという。この時代は釣りというよりもほぼ漁に近いという感じだがそれでも本職でない人がこれだけやっいてれば立派な釣りバカだろう。しかし、この人も関ヶ原の前哨戦で命を落としたらしい。
織田信長の比叡山の焼き討ちは1571年。宗教の思想に重きをおかない信長の天下ではすでに殺生戒という思想も軽んじられてきていたのかもしれない。

生類憐みの令の御触れのさなかに釣りを楽しんだのは尾張屋藩士の朝日文左衛門だ。城代御本丸御番という名古屋城の警備係だった。勤めは宿直を伴うものの、9日に一度でよかったというのだから釣りはし放題だ。「鸚鵡籠中記」という日記の中には、ひと月に4回の釣りや漁の記録が残っているというのだからなかなかだ。
もともと尾張と江戸の徳川家というのは仲が悪かったようだから藩士も江戸への当てこすりのような思いも含めて釣りをしていたのかもしれない。この人の日記には綱吉への痛烈な批判も書かれているそうだ。また、遊興や藩内で起きた喧嘩、斬り合い、はたまた芝居見物など、さすがひと月のうち、9割休みだとそうとう遊べるということだろうか。まあ、今の僕もそんなに変わりがないからこの人をろくでなしとは言えないのである。ただ、籠の中のオウムというタイトルはなんだか意味深である。津軽采女の「何羨録」というタイトルもそうだが、どうも釣りが好きということと世渡り上手ということには相反するものがありそうな気がする。

幕末の動乱期にも釣りを愛していたひとがいた。
山本正恒という幕府の御家人だ。将軍の身辺警護をする御徒で、幕臣ではあるがそれほど高い身分でもなく、収入も大したことはない。その人が書いた「正恒一代記」にも時代の大きな流れとそれを横目に釣りを続けた記録が載っている。
手長エビを釣っている日記のそばでは桜田門外の変のことが書かれている。本人も慶喜の警護のため、京都に単身赴任したり、大政奉還のあとは慶喜について大阪城へやってきてと、歴史が作られるその現場を目撃していた。鳥羽伏見の戦いの際、慶喜が家来たちを置いて突然江戸へ帰ってしまったあとは命からがら江戸へ逃げ帰った。それでも慶喜が謹慎生活を送った静岡へも同行するという忠義も見せながら、時代に翻弄されながら人生を送った。しかし、そんな動乱の中でも書いているのが、江戸に置いてきた釣具の心配であったり、静岡時代は途中で篤姫の警護のために江戸に戻るというようなこともあったそうだが、その勤務中にメセキ網(目狭網)という投網を編み、静岡に戻って仕上げをしたと書いている。こんな混乱の世の中でもこんなことをしているといのが面白い。
維新のあとは新政府の役人になるという道もあったような身分でもあった人らしいが無給でも慶喜に付き従っていったというのは義理堅いというのもあるだろうが、ややこしい世界を離れて静かな場所で魚獲りをしたかったというのもあったのではないだろうか。その主人である慶喜もかなりの釣り好きであったそうだからなおさらこの人についていこうと思う気持ちになったのは僕にもよくわかる。

葛飾北斎の冨嶽三十六景の中に「神奈川沖浪裏」という作品がある。そこには船が3艘浮かんでいるが、この船は押送船という8人で魯を漕ぐ高速船だそうだ。
この船は一体何をしているかというと、神奈川沖で釣られた初鰹を沖で直接漁船から買い取り急いで江戸まで運ぶ途中なのだそうである。(なんだか向きが逆のようにも思うのでこれから買いに行くところなのかもしれない。)昼間に買い付けた鰹は夜通しで江戸まで運ばれ早朝には市場に並ぶという段取りだったそうだ。初物にこだわる江戸の人々の欲望がこの絵の裏には隠されているということだ。また、波の模様は鰹の縞模様を表現しているそうである。


こうやって魚釣りの黎明期の話を読んでいると、平和な時代だからこそ魚釣りという文化が花開くというのがよくわかる。釣具の発達もそうで、錘は鉄砲の玉を作る技術から、釣竿は弓矢を作る技術から生まれてきたそうだ。平和な時代になり、武器の需要がなくなりその技術の転用先のひとつが釣具であったのだ。これも平和な時代を象徴している。
ちなみに、テグスはちょっと違って、中国から大阪へ送られてくる薬草の梱包に使われていたものを淡路の漁師が釣り糸に転用したそうだ。本国でも釣りに使われていなかったものを転用するとやはり日本人は創意工夫の能力に優れている。実際は、中国では川の魚を食べることが多く、そこは濁っているので透明な糸の需要はなかったということらしいが、これは釣り師の執念でもあるような気がする。津軽采女の「何羨録」には、ハマチを釣っても切れない糸があるらしいという記述が残っているそうだ。

コロナ禍の今、釣りがブームらしい。これは平和な時代だからというのではなく、単に人に近づくことなく遊びができ、室内ではないので感染リスクが少ないという理由らしいが、それでは釣り文化の元の元である、「平和」というキーワードがどこかへ行ってしまっているではないかと何か不自然な感じがする。そんなにわか釣り師は水辺に来てはもらいたくないと思うのはあまりにも心が狭いのだろうか・・。
コメント
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