イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「面白半分BEST随舌選 」読了

2017年05月28日 | 2017読書
佐藤嘉尚 「面白半分BEST随舌選 」読了

「私の開高健」の著者細川布久子のつながりでこの本を読んでみた。

雑誌「面白半分」は、この本の編者である、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌で1980年に会社が倒産して廃刊になった。編集長は人気作家が(原則)半年毎に交代していた。編集長は吉行淳之介、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一、一松二生が交代で務めた。「四畳半襖の下張り」はこの雑誌に掲載されて問題になったらしい。

この本は「随舌」というコラムの選集になっている。吉行淳之介が「随筆」は原稿料が高く付くということで談話を録音してそれを原稿に起こしたものらしいが、このコラムは人気があったそうで廃刊まで続いたそうだ。

執筆者のほぼ全員が戦前の生まれですでに物故しているような人たちばかりだが、その語り口、表現方法、語彙の豊富さ、それに、なんというのだろう、艶のある文章とでもいうのか、現代の小説家やコラムニストではなかなか書けない文章ではないだろうか。エロはあっても政治とセックスをテーマにしないような文章が今の時代に受けるのは難しいというのもあるだろうが、それを差し引いてもうまい文章だと思う。
まあ、こういう文章をいいと思うから古本ばかりを探しているというのもあるのだろうから考えが偏っているのかもしれないのでそれは個人的な感想ではある。

しかし、そう思っている人もそこそこの数がいるのか、この本も図書館で借りたものだが、相当手垢がついてしまっている。2007年の出版なのでそれほど古い本でもないのでやっぱり借りる人が多いのではないだろうか。実際、これを借りるときも予約を入れてから3週間待ってやっと手元にきたくらいだ。
いったいどんな人が借りているのか興味が湧いてくるとともに、今風の文章に魅力を感じない僕は世の中に取り残されつつあるのだと実感するのだ。

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水軒沖釣行

2017年05月28日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 7:20 満潮
釣果:サバ 17匹 マルアジ 9匹 サバフグ 1匹


今日も確固たる情報もなくチョクリ釣りに出撃だ。
まずは前回と同じく若干南寄りに針路を取って沖へ向かう。
水深40メートルを超えた辺りでほんの少しだが濃い反応が出たのでとりあえず仕掛けを下して釣りを開始。
しかし、あの反応は幻だったのか、反応がなくなってしまった。朝は薄っすら明るくなるころ、相当早くに出港したのでこの海域には一番乗りだったのだが船が集まり始めた。





また悩んでしまう。彼らはどれだけの情報を持っているのだろうか。釣れる確信があってここで釣っているのか、それとも僕がティーザーになっているだけなのか。
どちらにしてもアタリがない。交通事故のように2匹のサバが釣れただけだ。
ここでモタモタしていても大して釣果は望めないと考えて移動を決意、北の方角を目指した。

仕掛けを下してしばらくして魚探に反応が出始めた。
反応に合わせて棚を動かすとサバが食ってくる。今日のサバは大きい。“ノルゥエー産冷凍塩サバ589円今日は特売中”くらいの大きさはゆうにある。
バンバンアタってくるというわけではないがアタリは途切れない。マルアジのサイズが小さかったのが気になるが、去年より半月遅れて本格的なサバのシーズンに突入した。



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「世の中で一番おいしいのはつまみ食いである 」読了

2017年05月23日 | 2017読書
平松洋子 「世の中で一番おいしいのはつまみ食いである 」読了

平松洋子のエッセイは独特だ。味わいとか、コツとか、そんなものはほとんどない。
この本は“手”を使った調理法を元に各章が綴られている。ちぎる、割る、裂く、折る、開く、しごく、ほぐす、むしる・・・・。それぞれの手間がどれほどの美味しさを引き出すかに加えて過去の記憶、その行為が持つ感触のようなものが引き出されてゆく。

多分、これは、女性ならではの文章に違いないと思う。およそ男というものはまず道具に凝る。だから手だけでおこなう調理をまったく良しとしない。その筆頭ははやり刃物だろう。
この本の大半のテーマは包丁の変わりに手がおこなうような方法だ。手作業というのは味がよくしみるとか、歯ざわりが違うというのは当然よくわかるのだが、やっぱりスパッと切れてなんぼというのが男の料理の一端である。だから男にはなかなか書けないテーマだ。
そのテーマを女性らしからぬ鋭い文体で書かれているところにこの人のよさがあるのに違いない。

僕なんかもへたくそながらもせっせと包丁を研ぎながら料理にいそしんでいる。最近はちょっとだけ研ぎ方のコツのようなものをつかめたのか、万能包丁も出刃包丁も柳場も手前味噌だがなかなの切れ味になってきた。
しかし、切れすぎるのも難点があって、魚を捌くときによけいなところまで切れてしまう。3枚に下ろすと中骨を探り当てる前に下の身のほうに切っ先が行ってしまったり、皮を引くと途中で切れてしまうか皮のほうに身がいっぱいになってしまう。
腕前に切れ味がついてゆけないのだ。これが情けない・・・。

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紀ノ川河口釣行

2017年05月23日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 4:04満潮
釣果:ボウズ

全然良い釣果の知らせがないのだが、休日に天気がいいとやはり釣りに出てしまう。
今日はまた紀ノ川河口へスズキ狙いだ。狙いに行っているのか、ただの定点観測なのかよくわからなくなってきた。



風の具合といい、波の感じといい、水面を境にして形而上では釣れる気満々。魚がいないのではないだろうが、形而下の現実ではまったくアタリがない。
三日月と金星もきれいではあったのだが・・・。



今日もボウズで終了。



家に帰って原付を乗り替えるため、今のバイクの廃車と新規登録のため市役所へ赴いてきた。



購入から13年余り、僕の“足”として活躍してくれた。スピードはまだま出るのだが乗り方が荒いのであちこちボロボロになってしまった。




そんな中、ネットオークションで前々から欲しいと思っていたジャイロキャノピーが出品されていて、うまく手に入れることができた。
ミニカー登録をしてヘルメット無しで乗れるように改造をしてみた。後輪が2個ある3輪車なのだが、このホイール幅を少しだけ広げると原付からミニカーに登録を変更できる。
しかし、この作業が難航した。ホイール外すナットが異様に固い。いつもこのブログにコメントを寄せてくれるちからさんの指南の元、頑張って見たけれどびくともしない。あんまり無茶をしてねじ山を舐めてしまっては元も子もないのでギブアップ。近所のバイク屋さんに駆け込んだらアッという間というか、ゼロコンマ何秒という速さでナットが緩んでしまった。空気圧で作動するあのレンチの威力はものすごい。空気が読めないと評判の僕はやっぱり空気圧の足元にも及ばかったのだ。



名残は惜しいが赤いスクーターは下取りをしてくれるバイク屋さんに持って行った。道中、到着まであと少しというところで距離計が7777.7キロメートルを示した。これはバイクからのどんなメッセージだったのだろうか?
まだまだ乗ってくれというサインなのか、それともラッキーナンバーを示して僕にエールを送ってくれていたのだろか?
近所のバイク屋さんに聞くとスクラップにするしかないと言われたが、このショップではある程度修理をして転売を考えてくれるらしい。また、新しいオーナーさんにかわいがってもらえればいいのだが・・・。

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「秘すれば花」読了

2017年05月20日 | 2017読書
渡辺淳一 「秘すれば花」読了

1年前に読んだ、「風姿花伝」を渡辺淳一が解説をしたものだ。
前回は修行を当たり前のように続けることの大切さやたくさんの引き出しを持つことで人は“花”をもつことができるなどなどいうことが印象に残ったが、小説家の解説では、「人と人との関係に対しては自分を演じる必要があるのだ。」ということが印象に残った。
これは「物学上条(ものまねじょうじょう)」の章に出てくるものだが、ひとつは役を演じる際の身なりの重要性、観客の様子を見て演じ方を変える。パトロン(将軍や貴族)の好みをよく知って演じる。など、小説家は物語のなかで登場人物を演じさせるのが仕事の人だからだろうか、そこをかなりのページ数を裂いて解説をしている。

自分自身や組織、一族を守るために自分を“演じる”。これは芸能の世界でなくても現代にも通じる。人はまず見た目で相手を判断する。清潔な服装の人間は信用されるし、TPOに合わせたコーディネートをできるひとは気が利くと一目置かれる。その場の空気を読んで立ち居振舞うことも必要だろう。上司の太鼓もちをするというのはどうかと思うが、ある程度は顔色を伺って立てるというのもそれは世渡りだ。

「自分であること。」と「自分を演じる。」ということは相反することだろうか。自分を演じるということは相手の心の中にいるであろう自分を予想して演じること。それは相手の数だけ自分があるということ。しかしそれは相手の心の中の自分であって本当の自分ではない。それぞれの相手を見ながら、どんなに演じれば納得させられるかを考えなければならない。
世の中で大人と言われる人はきっとそうやって相手に合わせて自分を演じきれる人。しかし、それを演じているとき、本当の自分はどこにいるのだろうか。幾人もの人の心の中の自分を演じている間に本当の自分がわからなくなってしまったりしないのだろうか。
本当の自分と演じている自分が一致する人は幸せ。しかし、自分じゃない自分を演じ続けるというのは苦痛だ。
苦痛に思わなくなれるように役者は稽古に励み、一般人も感情をコントロールする鍛錬を積む。鍛錬を積めなかった人は自分を演じることをあきらめて人の眼を気にすることを止める。しかし、ここでも気にすることを止められる人は幸せ、しかし、どこかで後ろめたさというようなものを引きずってしまうのが普通だ。
会社の中でまるで自分の家のように振舞うことができる人がうらやましいと思うことがある。このような人もそのように演じているだけかもしれないが、それでもそうできる人がうらやましい。ぼくはいつも自分が外様であると感じてしまう。ここにいる自分は自分ではない。演じているのだ。
だから目の前のことを見るだけで精一杯で、それ以上のことに目配せすることができない。
前に新聞のコラムで読んだ、「基本的に自分の器を大きくすることができない。」というのはそういうことだろうか。
観阿弥のいう、「位」や「長」というものも器と同じ意味だ。人にはそれぞれ持って生まれた度量というものがある。努力をして「嵩」を上げるという道もあるけれども、それは並大抵のことではない。振り返ると僕はそんな努力はしてこなかった。一応、ファッションビジネスの業界に身を置いているのだが、ファッションにはまったくといって興味がない。
「位」や「長」が少ない人はやはり脇役を演ずるより仕方がない。しかし、自由になる時間を削ってまで主役でいるという感覚が僕にはわからない。それは演じている自分と本当の自分に違いがありすぎるのかもしれない。だから、脇役を演じながら少し余裕をもって生きているのが一番楽であったりするのかもしれない。(仕事をしている自分が本当の自分である人は別だが・・・。)

観阿弥はすべてには、「花」が必要で、それもいつも同じ花だと飽きられる。演目でいうと数年間分違う演目があるくらいでなければならないという。すべては「珍しさ」が必要であるという。
師のエッセイで、酒を呑みながら酔っ払い、
「タハ、オモチロイ・・・」
とつぶやく場面が度々出てくる。多分、師が一番幸せを感じるときの表現のひとつであるのだろうが、なんだか「オモチロイ」という言葉がこの「珍しさ」につながっているような気がする。
数年間分とまではいかないが、魚釣りの世界は1年四季を通して変化がありネタも変わる。「一生幸せになりたければ、釣りを覚えなさい。」という師の言葉は、「タハ、オモチロイ・・・」から「珍しさ」「花」へとつながっているのではないかと思うのは飛躍しすぎているであろうか・・・。



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水軒沖釣行

2017年05月20日 | 2017釣り


場所:水軒沖
条件:長潮 2:42満潮 9:03干潮
釣果:サバ 2匹 マルアジ 2匹 サゴシ 1匹

なかなかチョクリでのいい釣果の便りが届かない。しかし、なんとか先鞭をつけたいと思い今日も出撃だ。

ポイントへは前回とほぼ同じコースで南下した。午前4時半過ぎに出港。夜明けはもう少し後だ。



水深50メートルを過ぎても魚の反応がないので付近で見つけた潮目のそばで仕掛けを下すことにしたが、魚探の反応がないので当然のことながらアタリがない。
波の具合と仕掛けの傾き方は申し分ないのだが・・。



何の反応もないまま約30分。

遠く南の方にチョクリ船が1艘いるが、彼は釣れているのだろうか・・・。しかし、こんな時は往々にして向こうも僕の方を見てきっと釣れていると思い違いをしてむなしい時間を過ごしているようなことが多い。
情報がないというのはお互いなんともマヌケだ。



ふと舳先の置き竿を見てみると竿先が海面に突き刺さっている。これはサバではなくもっと大きな魚のようだ。急いで竿を手に取りやり取りを始めるが引きが強くて竿がのされてしまっている。
大体こんなところでこんな時期に釣れるとんでもない大きな魚というのは歯が鋭い。サワラかタチウオがほとんどだ。仕掛けを切られてさようならというパターンがほとんどだが何の獲物も期待できない今日は慎重にやり取りをする。
古くて安いリールはドラグの性能がまったくよくない。クラッチを切ったり入れたりのやり取りを続けると何とか幹糸まで手繰り寄せることができた。幸運なことに、食いついた枝鉤はすぐに食い切られていたが、不運な彼女(卵を持っていた。)は反転するときに幹糸に絡まって身動きが取れなくなってしまったらしい。結局、鉤には掛からずに幹糸に絡まって水面まで運ばれてきたのだ。

潮の流れが少し変わり南に流れ始めたころ、小さなアタリが置き竿にあった。もう帰ろうと思っていた午前7時だった。
マルアジだ。またしばらくして今度は手持ちの竿にマルアジ。またしばらくして置き竿にサバ。
この時点で午前7時15分。こんなことをしていても数を稼げない。燃料代がもったいなく思えてきて潔く終了。魚を〆て生け簀の水を滓っていると放っておいた手持ちの竿にアタリ。少し小さめのサバ。
これで本当に終了。

朝はけっこう寒くてヤッケを羽織っての出港だったが終わるころにはトレーナーを着ているだけで汗が出てくる。
寒暖の差がかなりある朝であった。

記録:
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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2017年05月12日 | 2017釣り


場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:大潮 6:31干潮 
釣果:キビレ38センチ 1匹 ガシラ 1匹

今日も小船の性能維持を兼ねて紀ノ川河口へスズキを狙いに出かけた。
まだスロットルの開け始めにエンストしそうになるがその症状は心なしか改善されてきている感じがする。もう少し乗り続けたら元に戻ってくれるということはないだろうか・・・。

朝は午前4時半に出港。すでに辺りは明るくなってしまっていた。



今日もスズキのボイルはなく、ペンシルベイトからスタート。
すぐにあきらめてジグヘッド+ワームに変更。キャストを繰り返すがやはりアタリはない。川の真ん中でなにやら魚が水面を割ったのでふたたびペンシルベイトに交換。しかしダメ。
再びジグヘッドに交換すると何かがアタった。スズキではないようだが根掛かりではなかった。上がってきたのはガシラ。
おお、ジグヘッドは釣れるんだ。これは初めての体験だ。これはこの先、スズキも期待できるかもしれない。
すっかり明るくなってしまったのでスズキはもう無理だと考え午前5時半過ぎにキス釣りに切り替え。

大分昔、このブログを書き始める前にこの場所でキスを釣ったことがあったがどこで釣っていたのだろう。もう、記憶がないのでとりあえずテトラ帯から離れてスタート。それのほうが砂地が多いだろと考えたがアタリはなかった。
仕方がないので錨を上げて下流へ向かって探ってゆく。それでもはやりアタリはない。小船で移動できる範囲は限られている。ここも昔釣ったことがある双子島荘の前へ。



仕掛けを投げ入れて間もなく強烈なアタリがあった。アタリがあった竿はグラス製のウルトラライトロッドだったので十分ためることができたので無事取り込み。38センチのキビレであった。
その後はアタリがあってもワカサギくらいのキスやガッチョが数匹。大潮なのに潮の動きは鈍く、午前9時に終了。
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「部屋いっぱいのワイン 」読了

2017年05月11日 | 2017読書
細川布久子 「部屋いっぱいのワイン 」読了

著者は「私の開高健」と同じ人だ。
1985年、編集者の仕事を辞めて単身フランスへ渡った経験をまとめたものである。
第4回開高健賞奨励賞を受賞している。(原題は「エチケット1994」)

「私の~」に書かれていたとおり、師からワインの手ほどきを受けそれをもっと極めようとしたのか、編集者という仕事にも行き詰まりと限界のようなもの感じ、「居は気を移す」のとおり住む場所を変え、好きなワインの勉強をするために渡仏。
フランス語を覚えながらのワイン修行を師とよく似たレトリックで綴っている。

学生という身分を続けながら(学生でいるとビザが下りやすいらしい。)ワイン学校を経てソムリエ協会への所属を通して経験した試飲会、葡萄の収穫の季節労働やソムリエのコンテストの世界などについて書かれている。ワインの解説書ではなく、著者が経験したこと、知り合った人たちについてのことが中心になっているので偏ってはいるのだろうがそれだからこそ自分もそこにいて経験しているような臨場感がある。

生活の基盤になるものもないのに単身海外へ出てゆくなど、とてもじゃないが考えられない僕にとってはこの手の本を読むときは羨望とわが身への落胆が織り混ざる。
この人もそうだが、人の交わりだけを頼りに生活を続けているように読める。これはノンフィクションだが、悩めるとき、危険なとき、転機を迎えたいとき、必ず手を差し伸べてくれる人がいる。師もその中のひとりであったのだから、えぇ、本当か?と思うと同時にそれだけ人に好かれる人だから海外でもたくましく生きてゆけるのだろう。はやり羨望と落胆の気持ちしか出てこない。

師から受けたワインの手ほどきは、「まず、当面はテーブルワインを飲み続ける。飲んで飲んで飲みあさる。それから少しづつレベルアップしていきなさい。そのうちに、あるとき、誰かがとてつもない美酒、銘酒をごちそうしてくれる機会が訪れる。するとヤネ、日頃キミの呑んでいるものとの違いが、クッキリとわかります。」という内容であったそうだ。
この文章はほかの本にもよく出てくるので僕も知っているわけだが、僕の場合、お金がないので安いワインしか買えない。高くて1000円、過去に買った一番高いワインでも3000円の後半くらいだっただろうか。そのうちに、奇跡と呼べるようなワインを飲ませてくれるような人が現れることはどうしても考えられないので死ぬまで500円以下のワインを飲み続けることには変わりがない。まあ、これはこれで仕方がないことではあるけれども、死ぬまでに1回、メドックの銘酒を滴程度でも味わいたいものだ・・・。
味わってもその美味しさの意味は分からないであろうけれども・・。

著者は、この本の受賞記念のパーティーで佐治敬三の計らいでロマネコンティを初めて飲んだと「私の・・・」に書かれていた。インターネットで調べる限り、数冊の著作がみつけられるだけで、作家としてもジャーナリストとしても大成したという人ではなかったようだが、これだけの人と出会い、自分の好きな道を究めることができたというのはなんと素晴らしい人生ではなかったのかと思う。
こんな人になりたかったと思う。
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水軒沖釣行

2017年05月10日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 5:38満潮
釣果:サバ 2匹 マルアジ 1匹 エソ 1匹

今年はなかなかサバとアジが到来したという噂を聞かない。
しからば自ら調査をせねばなるまいと釣れるのかどうかわからないままに出港。

予報では波は3メートルということになっていたのだが、僅かにうねりがあるだけで海面はすこぶる穏やか。
船底が汚れてきているので若干の速度の低下があるが快調に進んでゆく。



今日はできるだけ南下して釣りたいと考えていたので初島に舳先を向けてゆき、水深が50メートルくらいになったところでまずは仕掛けを下す。

昨夜の雨模様の名残か、空はどんより。大潮なのに潮がほとんど動かない。



魚探にもまったく反応がない。やはりだめだったかと思ったところに何かのアタリ。
すぐにバレてしまったが、サビキがズタズタになっている。



タチウオかサゴシの仕業だろうか。仕掛けを盗られなくてよかった。

この場所がだめなのでさらに南下を決意。



しばらくしてやっとアタリが出た。おお、魚はいるぞと喜んだけれども残念ながらエソであった。
それから約1時間、まったくアタリなし。ダメならさっさと午前8時には終了しようと帰ろうかな・・・と思った矢先に魚探になにやら反応が!
水深を合わせてシャクリを入れるとサバが2匹。
そのかなり深い棚でマルアジが1匹。わずか3匹であったが群れの斥候部隊を捉えることができたのかもしれない。
去年、一昨年と絶好調であっただけに今年は心配だがたくさん釣れることを祈るばかりだ。

魚が釣れたので午前9時まで延長戦を決定。
四度目のアタリはシマフグ。



これは美味しいらしいが内臓は相当な猛毒らしいので持って帰ることができない。
おまけに仕掛けを食いちぎられるし、欲を出さずに午前8時で終わっておけばよかった・・・。


枝針の多い仕掛けを回収するときに幹糸を入れておく器に植木用のプランターを使っていたのだが、どこかへ行ってしまった。4月20日に釣行したときには使ったのでそれ以降に行方不明になった。
その間、強い風が吹いた日はないように思う。吹いたとしてもデッキから飛んでしまうような風なら船の方がどうかなってしまうはずだ。盗まれたのだとしても盗む価値があるのだろうか。他にもっと価値はなくても利用価値があるものはたくさん積まれていると思うのだが、謎である。
ただ、また買わなければならなったのが悔しい。



昨日、エンジンのインペラと亜鉛、燃料フィルターの交換をしてもらった。
取り外した部品を置いて行ってくれていたのだが、この状態を見てみるとまだまだ交換時期でもなさそうだ、毎年必ず2年ごとに交換し、今年は遅れに遅れて2年と7か月この分だと4年は交換不要の感じだが、どんなものなのだろう。
転ばぬ先の杖とは思うのだが、ここでももう少し節約できそうな気がする。



記録:
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「苦味(ビター)を少々―399のアフォリズム 」読了

2017年05月06日 | 2017読書
田辺聖子 「苦味(ビター)を少々―399のアフォリズム 」読了

いつも気になる本があると携帯電話(スマホではない。)の簡易メモというフォルダに書き込んでおいて古本屋や図書館で探している。この本もそんな1冊だった。いつ記録したかはメモを削除してしまったので覚えていないが多分、4、5年前からメモの中にあったのではないだろうか。久しぶりに立ち寄った古本屋に108円で売られていた。長らく探していたものだけに中身を見ずに買ってしまった。

田辺聖子のエッセイだと思っていたら、著作から抜粋されたもので、それを箴言としてまとめられている。
師の著作でもそうだが、やはり切り取られたものというのは言葉の輝きを失ってしまう。その中でも、これには共感できると思うものをいくつか取り上げてみることにする。

・私にいわせれば、飽かないから遊びなのであって、飽くのは単なるヒマつぶしである。
・自分が浮かれていることを他人に悟られて平気な人、というのは強い、捉われない人である。
・たべものに夢中になる人間というのは、私の感覚によれば、たいがい利己主義者である。
・「人を責めることが大好きな人があるね、正義の味方には」
・退屈しない人、というのはヒトリで遊べる人なのである。ヒトリで遊べる人、というのは強い人である。
・満ちたりている人間、というのは周囲(はた)から見ると排他的でエゴでいやらしく見えるものである。


解説で山田太一が、初めから終わりまでどこを開いても、あ、と思う。そうか、と思う。共感したり、虚を突かれたり、うまいことをいうなあ、と思ったり、教えられたりしてしまう。と書いているが、なかなか僕にはそう思えるものがなかった。
女性がかいたものだから女性にしかわからないものが多いのかもしれないが、それより人間ができていないということだろう。

バカリズムというタレントは、バカ+リズムの造語かと思っていたが、きっとこの、“アフォリズム”という言葉をモジッたものではないだろうかとふと思った。人間ができていないのでこんなことくらいしか思い浮かばなかった・・・。
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