イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

僕のルーツは・・

2020年02月27日 | Weblog
僕の名字は少し変わっている。このブログのURLにもそのまま使っているが、“マツフサ(matufusa)”という。世間ではあまり聞かない名前だと思う。ここ和歌山市では僕の一党と紀ノ川の向うの方に同じ苗字の一党がひとつあると聞いたことがあるくらいだ。

ときたま、この名字はいったいどうやって生み出されたのだろうかと考えることがある。ついこの前、「日本人のおなまえっ!」というNHKの番組で、名字に「松」という漢字が使われるようになったのは木を燃やすことで人の生活に夜の明るさをもたらし、塩害に強くて防波、防風に役立ったということが要因のひとつだと解説されていた。おぉ、僕の名前に使われている漢字はそんなに人の役に立っているのか、そういえば、すし屋でも松はいちばん高かったなと自己満足していた。じゃあ、「房」はどうか?松ぼっくりが房状になっているところをみてご先祖様が感動したのか?でも松ぼっくりが房状に生っているところを見たことがないぞ。そもそもそんなことで感動する人がいるのか?などと考えながらそこのところは考えないことにしていた。
しかし、つい最近、新聞の連載コラムに、シキミに関する話題が載っていた。あの、仏壇に供える葉っぱだ。そこにはシキミ(このあたりではシキビと呼ぶけれども)はマツブサ科という科に属する植物であると解説されていた。“マツブサ”って僕の名前によく似てるじゃないか思いながら、ひょっとしたらマツブサっていう植物があるんじゃないかと調べてみると、確かにそんな植物があった。

ネットの植物図鑑で調べてみると、
『別名ウシブドウとも呼ばれることもあります。名前の由来は、果実が葡萄の房のような形をしてつるから垂れ下がるように黒い熟した実をつける姿から、ウシブドウと名づけられました。また漢方では葉っぱや茎の部分を生薬名で松藤(ショウトウ)と呼ばれています。』

と書かれている。漢字で書くと、「松房」。あれまあ!僕の名字そのものなのだ。じゃあ、僕の名字の由来はこの植物なのだろうか・・。

   

もう少し詳しく調べてみると、長野県ではマツブサの実を食用にしているらしい。ワインやジュースも作っているとのことだ。また、「松房」という名字についてもう少し調べてみると、和歌山県以外では、福島県に少し在住していて、ためしにネットで自分の名前を検索してみると長野県にも医療関係に従事している人がいることがわかった。

これらの情報を僕の頭の妄想の中でつなげてゆくとこんなルーツが考えられないかとなってきた。
長野県というと冬は雪深く、かつては冷害で食糧にことかき、そこから多彩な食文化が生まれた。山形県にはなるが米沢では上杉鷹山がウコギで生垣を作り、救荒作物として奨励したということからもうかがわれる。
マツブサは日本中どこにでもある植物だそうだが、食べるものが豊富な和歌山県では習慣がなくても長野県や東北地方では古くから食用とする習慣があったのかもしれない。そして、蔓性植物というと、藤原の姓を思い出す。中臣鎌足は天皇家をからめ取ってやろうと藤の文字を名字に取り込んだという逸話があるが、そんな蔓植物のしたたかさと力強さにあやかってこの地方でこの名字が生まれたのではないかと僕は考えた。
さらに妄想は続く。和歌山県と長野県のつながりというと真田幸村だ。西暦1600年、真田幸村は高野山に蟄居させられるわけだけれども、そのときにつき従った家来のなかにこのマツブサを名乗った人がいたのではないかと思うのだ。残念ながら家臣として記録が残っている16人にはそんな名前はない。しかし、その家臣にも家来が付き従ったであろうから、ひょっとして足軽か荷物持ちとしてそんなひとがいたのではないだろうか・・。まあ、それくらいの身分になると名字を持っていたかどうかということが怪しくなるが・・。

真田家が仕えていた武田家は西暦1582年に滅び、その混乱の中、マツブサ一族の一部は福島県のほうに逃げたのかもしれない。そして幸村や付き従った家来たちはその後九度山を抜け出して大阪冬の陣、夏の陣で大活躍をするわけだけれども、僕がここでキーボードをたたいているということは、ご先祖様は大阪には向かわなかったはずである。臆して留まったか、はたまた、大河ドラマの「真田丸」では幸村が九度山を脱出するときに村人を欺くために宴会をしていたシーンがあったけれども、ご先祖様はその村人を欺く役を引き受け泣く泣く九度山に残ったか・・・。
まあ、どちらにしても、その後、ご先祖様は西を目指し水軒の浜に落ち着いた。途中で落ち着いたのが紀ノ川の向うの一党である。そしてその間に濁点も落ちてしまった。

と、いうのが僕の壮大な妄想の結論だ。

いままでは僕のご先祖様は雑賀孫市の家来として強大な権力に立ち向かった人たちの鉄砲の玉込め役くらいはやっていたのではないかという妄想を続けて悦に入っていたけれども、雑賀孫市は一族の困ったちゃんではなかったのかという疑惑が浮かんでしまった今、豊臣家への忠義を最後まで貫いた武士の鑑、義の人であった幸村の家来のそのまた家来であったというほうがかっこいいのではないかと新聞の1行を読んで宗旨替えをしてしまったのであった。


そして、そのマツブサという植物はいったいどんなものか探してみようと思い立って森の中を探検したというのが、前回書いたブログの②番の行動だったのである。
まあ、探検といっても体力のない僕の足ではやれることは知れている。章魚頭姿山の山頂へ向かう歩道を歩きながら両側の森を観察するだけだ。



マツブサというのは古くなってくると木肌のコルク質が松のようにひび割れてくるというのが特徴らしい。葉っぱはたしかにシキミに似ている。それをたよりに木々の間を探してみるがそれらしきものが見当たらない。意外とたくさんの蔓植物は見えるのだが、まず葉っぱというのは森の木々の幹の間には一枚もない。考えてみると当たり前でこんなに光が当たらないところで葉っぱを出しても光合成ができるわけでなく効率が悪いから当然だ。蔓の根元を眺めてひび割れているものは見えない。こんどは蔓を辿って上の方を見上げるが視力が悪くて先の方まで見えない。森の中の木はどの木も大きいから7,8メートルくらいの高さがある。蔓もそこまで伸びているのでもうボ~っとしか見えないのだ。そして季節が悪いので葉はすべて落ちてしまっているようだ。



結局何もわからずに森をあとにすることとなった。ただひとつわかったのは、蛇のように木の幹にからみついた蔓は森をより不気味に演出しているということだ。
木の幹や枝にからみついて伸びる蔓は最終的に森の木よりもさらに高いところまで伸びている。藤原鎌足が天皇にまとわりついてそれよりも上に伸びてやろうとしたというのもこれを見るとさもありなんと思えた。



本物のマツブサ探しは春の山菜採りまでお預けだ。
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紀ノ川河口釣行

2020年02月25日 | 2020釣り
場所:紀の川河口
条件:7:40満潮
釣果:ボウズ

昨日のブログで“腐った勤怠”と書いたのは昨日、今日と連休になったことだ。普通のサラリーマンなら土日が連休というのが当たり前だが僕の会社は1週間の間にいつでもいいから2日休むというシステムだ。だから均等に休みを入れて、「3日出勤→休み→2日出勤→休み」というのが、連続で釣りに行くのには体が楽で、天気の巡りが悪くてもどちらかの休みは釣りに行けるというベストローテーションなのである。
しかし、今週は5日連続出勤で2日連続の休みだったのだ。おまけに今日はどうしても出席しなければならないまことにくだらない会議がある。昨日が上天気であったということが不幸中の幸いだ。月初から会社に顔を出さなければならないということがわかっていたので10日前からベーコン作りの仕込みをしていた。そしてそれに加えてお葬式への参列という用事もできてしまった。
だから、今日のスケジュールは早朝から①魚釣り、②森を探検、③お葬式へ参列、③ベーコンをいぶす、④会議へ出席。とバタバタした1日となったのだ。②の森を探検については後々このブログに書き込もうと考えている。

まずは魚釣り。
どうしてこんなにあわただしい日に釣りに行くのか、それはとりもなおさず、小船に乗らねばならないからだ。昨日も少し乗ったのであるが、エンジンがかなり不機嫌だった。前にも書いたが、僕は、「釣り船は愛人である説」というのをかたくなに信じている。ふたりも愛人をかかえていてどちらか片方に入れあげてしまうともう片方の機嫌が悪くなるのは必定だ。アイドリングがものすごく不安定で、急に回転数が上がったかと思えば突然止まってしまう。インジェクションが古くなっていて、アイドリングの制御が不安定らしい。これを解消するには定期的に乗ってやってくださいねというのがいつも船外機の修理をしてくれるおにいちゃんの指示なのだ。
だから今日は少し気になっている紀の川河口のスズキ調査だ。



この場所は毎年夏の恒例で何度かやってくるのだが、会社のルアーマンに聞くと、河口のスズキはアユの遡上が始まる3月ごろがいいんですよというので今年は絶対に春先から行ってやろうと考えていたのだ。今の職場にはプロ級のルアーマンもいたりするのだ。
確かに青岸のテトラポッドには数人のルアーマンが陣取っていた。僕もその沖辺りに投錨してルアーをキャスト。お正月にメッキを釣ったワームとジグヘッドのセットだ。



これで釣れてくれればハードルアーよりもお手軽なので期待をしているのだがそんなに甘くない。エネルギーセンターの前や海保の安全情報で海底に堆積物があり水深が浅くなっているという警告が出ている場所を流してみたけれどもアタリはない。まあ、こんなものだろうとさっさとあきらめて港近くの森を探検して家に帰った。



そして午前10時開始のお葬式に参列。
亡くなったのは会社の同僚で、6年前にこの職場に異動してきたときからすでに闘病しながら勤務をしていた人だった。僕よりも若い人であった。亡くなる2か月ほど前まで出勤していた。最後のほうは確かに歩くのもやっとという感じであったが生活があるとはいえ、よくあの状態で勤務していたものだと頭が下がる思いだった。僕ならすぐにギブアップすると思う。
僕の家からすぐ近くの葬儀場であったのだが、港に向かうときにいつもここの前の道を通る。今朝も同じルートで港に向かい、通夜の灯りが灯っている会場を見るとなんだか複雑な気持ちであった。
バイクだと1分ほどで行けてしまうので今日も三輪車で向かったのであるが、あれに乗って斎場へ行くというのも気が引ける。前の、赤い車に乗っていた時も葬式に行くときは気が引けたけれども、あのふざけた乗り物に乗ってきた不謹慎なやつは何者だというような冷ややかな視線を浴びそうなのだ。だから斎場の一番端の入り口から入って一番端の駐車場の隅っこに三輪車を停めて斎場入口へ向かう。今乗っている自動車も業者の搬入口辺りに停めないと様にならない。どうも僕の嗜好は普通じゃないようだ・・。

家に帰って午後からベーコンをいぶしにかかった。

 

レシピはこんな感じ。忘備録として書いておく。20%の食塩を入れたソミュール液に一週間浸しておく。



取り出して一晩水出し。3日間冷蔵庫の中で乾燥。釣りに行く前に取り出し、屋外でさらに乾燥。紙コップ5杯分のチップで燻す。温度は60℃~80℃をキープ。さらにオーブン100℃で1時間加熱して出来上がり。



元旦に燻したベーコンはちょっと塩味が強すぎたが今日はまずまずであった。ただ、オーブンでの加熱時間はもう少し長い方がよかったかもしれない。ちょうどいいレア加減といえばそうなのだが、アメリカ産格安豚バラ肉なので少しだけ食中毒が心配だ。



ちなみに、豚肉は中心温度が60℃で30分以上の加熱が必要だそうだ。100℃で1時間もやれば大丈夫だとは思うのだが・・。(このブログは翌日に書いているのだが今のところ、お腹は痛くない。)

そして午後4時30分の会議に出席。
冒頭で役員が、彼は業なかばで亡くなり、きっと無念であったと思う。その無念の気持ちを晴らすべく全員一丸となって業務にあたろうではないかというようなコメントを発していたけれども、う~ん。どうなんだろう。武田信玄や諸葛孔明じゃあるまいしと思ってしまうのだ・・。
彼は本当に会社に対して無念の思いを残していたのだろうか。そういう疑念と疑問が湧くというのはきっと僕自身に会社に対する忠誠心がないということの裏返しではあるというのは間違いがない。

亡くなるというと最近、こんな話を聞いた。とある釣り好きのおじいさんの話だ。
その人は理髪店を経営していて、若いころは毎週日曜日の夜に列車に乗って南紀方面の船釣りに出かけていたらしい。(多分、紀勢線の釣り列車であったのだろう。)歳を取ってきて体力的にそれもままならなくなり今度は加太へ通いだしたそうだ。加太には荒ぶる神々という名前の遊漁船があるがそこの常連であったそうだ。メバル釣りのころであったというのでまだ寒さが残っていたころだろう。その人は早朝からデッキのベンチに腰掛け出船を待っていたそうだ。そして出船のときに声をかけても動かないと思ったら座ったままで息絶えていたというのである。
この話を聞いた人は遊漁船も釣人も両方よく知っていて、遊漁船のオーナーからその話を聞いてすぐに釣人の仏壇にお参りに行ったそうだ。
僕もその話を聞いて、最初の一言が不謹慎かもしれないが、「なんとカッコいい!」であった。
釣人の最後としてはこの上ないのではないだろうか。ご本人としてはメバルを釣ってから逝きたかったという無念は残るかもしれないが、船の上でまったく人に迷惑をかけることなく逝ったというのはお見事ととしか言えない。
僕はひとりの釣りばかりなので船上で逝ってしまうと多方面に迷惑をかけてしまうので、できればもやいのロープに手を掛けた瞬間でお願いしたいものだ。
坂本竜馬は、「業なかばで倒れてもよい。 そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。」と言ったそうだが、僕の場合は向かいたい方向とは逆方向にのけぞって逝ってしまうようだ・・。

くだらない会議が終わって昨日片身ずつ残していたきずしとハマチの刺身を造ってやっと夕食。
なんともドタバタな1日であった。
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加太沖釣行

2020年02月24日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:大潮 7:41満潮
潮流:7:54 上り3.1ノット最強 11:30転流
釣果:真鯛 1匹 マアジ 1匹 マサバ 2匹 ハマチ 5匹

10日ぶりの加太への釣行だ。腐った勤怠と暖冬にしては突然の寒波で間隔が空いてしまった。しかし、今日は上天気。今朝のかぎろいも美しい。



時間が経つにつれ気温はどんどん上がり、身に着けたものを取り外していかないと汗がダラダラ出てくる。



しかも僕の好きな上り潮だ。ただ、祝日の振り替え休日で3連休の2日間は悪天候だったので同盟軍の出撃は今日に集中している。加太の海域はえらい船の数だ。どの方向を見ても船だらけだ。



そしてこれだけ船が充満しているとコバンザメ釣法を得意としている僕はどこへ向かうべきかわからなくなる。
加太への到着時刻は上りの最強時刻の1時間前。自分の判断を信じてテッパンポイントから少し沖ノ島寄りで仕掛けを下す。そして答えはすぐに出た。2巻き目に真鯛がヒット。今日はいい感じだ。そして小さいけれどもマアジも来た。
潮はほぼ真西に流れているのでグッと東に船を移動させて流していくとこんどはハマチだ。前回はどこかへいってしまっていたようだがまた戻ってきているみたいだ。そんなことをしているうちに上りの最強時刻を迎えたので北上してナカトシタ方面へ。途中で魚探に反応が出ていたので仕掛けを下すとここでもハマチ。地の島方面へ移動するとここでもハマチ。ハマチはもういいのでつぎはなんとか真鯛がほしい。ナカトや虎島の北側で仕掛けを下すがアタリはない。
転流時刻まではあと少し。ここでは埒が明かないので大きく南へ後退。
ここ数日、サバもかなり釣れているというのでダメ元での判断だ。この時間でもはるか南では大きな船団ができている。



しかし、あんな密集地帯へ入っていくのはちょっと勇気がいる。走らせている途中で反応があったのでその場所で仕掛けを下すといくつかのアタリがあった。5号のハリスを切られ(これは多分サゴシだろう。)その次にサバがアタった。よく引くのでこんどもハマチかと思ったら大きなマサバだった。今日のハマチと比べても大きさがそれほど変わらない。その後ハリを曲げられたアタリがあった後にもう1匹マサバが釣れてどう見ても潮が止まってしまった。
これで今日の釣りは終了。午前11時15分。
まあ、こんなものか・・。

港に戻ってワカメの調査へ。暖冬が響いているのか海面からではまったく姿が見えない。鏡で水面下を覗いてみるとやっと小さなワカメを確認することができたが、この調子では今年も小さいままタケてしまうのではないだろうか。



そして、この護岸の強化工事も響いているのかもしれない。親の仇のようにテトラポットを積み上げている。一昨年の台風21号の被害を受けての工事のようだが、これくらいの工事では役に立たないと思うのだがどうなんだろう。
無駄なようにも思うのだ。


今日の獲物は久々のきずし。



サバが一番美味しかった。




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「開高健のパリ」読了

2020年02月20日 | 2020読書
開高 健 /著 モーリス・ユトリロ /イラスト  角田 光代 /解説 山下郁夫/写真

師は旅の人でもあった。そしてその端緒となったのは逃避願望であった。「ここではないどこかへ」ひたすらそれを願って日本を抜け出したいと考えていた。そしてそれが実現したのが小説家として世間から認められてからになる。この本はそんな師の旅の中でもパリにまつわる文章を集め、なおかつユトリロの絵を随所にちりばめた編集がされている。
ユトリロとはどんな画家であったかということも知らず、師とのかかわりもまったく知らなかった。師はユトリロの画集(1961年出版)の出版に際してそれぞれの作品に解説を加えていたそうなのだがこの画家に作家がどれだけのエンパシーを持っていたかということも僕は知らない。
また、この本に集められた師の文章には収録されている絵画への解説以外にはユトリロに関連するようなものはほとんど収録されていないので僕の知識では師の思い入れ具合がわからない。
パリ、それもモンマルトル周辺の街並みを題材にしたその絵には人物がほとんど書かれていない。しかしながらその建物群の窓はどれも開けられた状態で描かれている。それはまるで何かの理由で忽然と人が消えてしまったかのようだ。
ユトリロの人生と、「白の時代」と言われる頃の作品を通して想像できるのはユトリロという人も、きっと、「人嫌いなのに人間から離れられない」のだ。だから人の生きる場所でしか自分も生きることができない、ひとのぬくもりを感じていなければ生きてゆけそうにないでも人が描けない。そんな人であったのではないだろうかということである。
だから人の残り香やわずかな体温のぬくもりが残っているような絵にあらわされる。でも、人と真正面からは相対したくはない。それが、全体に感じるもの哀しさにつながっているのではないかと素人の感想ではあるけれどもそう思うのである。
師も同じで、少年期からの苦労の連続と創作の苦痛から「人嫌いなのに人間から離れられない」生き方を送ってきた。そこに小さいながらも共通点を見いだせるのかもしれない。

この本を手に取った時には師の文章ではあるけれども美術に対する知識はマイナスレベルでましてやユトリロって誰だ?名前くらいは高校時代の美術の授業で聞いたことがあったのかしら?というくらいだから読んでいても何の感想も浮かんでこないのではないだろうかと心配していたが、掲載されている文章は何度かにわたる師のパリでの滞在生活が書かれていたものであった。
これらもほとんどは以前に読んだことがあり、いくつかの場面はいまだに記憶に残っていた。パリの学生街の小さな下宿を借りて下町を夜な夜な徘徊し、夜明け頃に疲れ果てて戻ってくる。またはバカンスで人がいなくなった街中をさまよう。そこにはパリの華やかな姿はうかがえない。でも、そこには濃厚な人の息遣いが感じられる。ひょっとしてそういうところに編集者が見たユトリロと師の共通点があったのだろうか。

今週のスカーレット第117回では小池アンリがこんなセリフ言う。
「人生を豊かにするものって何や? 芸術や。」
そして喜美子との共同生活を終えてパリへ旅立つという。喜美子も誘われてどうしようかと迷うのであるけれども、何かを創造する人たちというのはどうしてパリを求めるのか。
その一端はユトリロと師が見た、沈み込むようなパリと煌びやかで何の屈託もない景色のパリの2重構造にあるのかもしれない・・。
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「日本の気配」読了

2020年02月18日 | 2020読書
武田砂鉄 「日本の気配」読了

タイトルには「気配」という言葉が入っている。「空気を読む」という言葉はよく使われ、人は多かれ少なかれ「空気」を読みながら「空気」に気遣いながら生きているものだが、今の政治を動かしている面々はすでに空気を怖がらなくなってしまった。反対意見を「何にでも反対する人」と片付けてしまえば世の中の空気を統率できると自信に満ち満ちている。
「気配」とは「空気」として周知される前段階である。気配を察知して空気を読むというのなら、現政権の人たちは気配が届くわずかな範囲の空気を上手に日本の「空気」だとすり替えて多くの国民の声をそこから排除する。著者が、そんな「気配」という言葉をキーワードにして現政権を批判するというのがこの本の主題である。

この本は約2年前に、それまでに著者が雑誌で連載したものをまとめたということなのでトランプ大統領が当選した直後のあれこれや森友、加計問題、国立競技場、普天間基地、長引く原発問題・・そんなことがテーマとして挙がっている。
「国民の支持を得ることができました!」と連呼するソーリの揚げ足を取りながらその手法を批判しているのであるが、なるほど、読めば読むほど無茶苦茶な言動で、そういえば最近でも桜を見る会ではえらくやりたい放題で、「募っていたが募集していたわけではない。」という答弁には、この人は日本人なのか?とひっくり帰ってしまったので僕も批判的な気持ちで読み進めていたわけだけれども、この本でさえ著者が作りだした気配でしかない。別の考えを持った人は別の気配を持っている。そして、どうも、自分の意見に沿うようにソーリの言動を断片的に切り取って掲載しているようにも思えてしまうのだ。だから少々胡散臭く感じるのも否めない。

もともと、すべての、“国民の支持を得ること”なんてまったくもって不可能であるというのはよほどのバカでないかぎり十分承知しているはずで、著者も本を書くくらいだからよくわかっているだろう。そして、“すべての国民の支持を得なければ”何もできないと考える為政者だと完全に国が麻痺してしまうのもだれでもわかることだ。
かといってソーリみたいにやりたい放題やってお金をばらまいていたらそんなことが未来永劫続くはずはないんじゃないの?と心配になってしまう。物質的に豊かになったこの国では人が願うこともバラバラになった。だから、ソーリも国民の理解を得られたとか、1億総活躍だとか、全国民が支持をしているような風を装わなくても、“これが最善と考えている”といって堂々とやればいいと思うだがどうだろう。もちろん、そこには私利利欲と友達の利益を含んでいないという大前提があるけれども。

それよりもっと僕が恐ろしいと思ったのは、反対意見ばかり述べている人たちの、「鯛は頭から腐るという言葉をご存知ですか?」と問いかける言葉だ。ソーリは切れてしまったらしく、「意味のない質問だよ」と言って見方からも批判を浴びて謝罪する羽目になってしまったが、何も文句を言うことができない相手にはどんな罵詈雑言を浴びせても何の咎めも受けない、しかもそれに対して反論されれば逆手にとってもっと叩きのめすことができるんだということを国会議員が身を持って証明してしまったことだ。じっと耐えてこそソーリだという意見を言っていたひともいたけれども、それは違うのではないだろうか。ツジモト氏の言葉はあまりにも下品な言葉だった。そしてわざと挑発しているとしか思えない。(というか、挑発してたよな。)
これを見た人たちは、自分たちもこうやってもいいのだと自信を持ってしまうに違いない。僕たちみたいなサービス業に従事している人間にとっては大迷惑だ。今でも大概言いたい放題の輩に振り回されているのにそれに拍車がかかってしまうではないか。
そんなことばかり言っているから支持率が上がらないというのがわからないのだろうか。

「肉じゃががうな重に変わるわけないやん。」これはスカーレット109話で直子が言ったセリフだ。僕はカースト制度というものを支持しているわけではないけれどもそれなりの階級の人たちが政治をするべきだと思っている。ただし、これは、その階級の人間がその階級にふさわしい人間であること。ということが大前提である。noblesse obligeというやつだ。ソーリは代々上流階級のお人のようだがこう品格は備わっていないようだ。しかし、これが長い人間の歴史の中で実現されたことがない(ように思う)。一時的にはふさわしい統治者が現れることがあるけれども、長く続くことはない。それの繰り返しが歴史というものである。かといって下級の人間が政治をやるとあんな下品な言葉を発する。何事に対しても反対ばかりというか、反対するために反対しているようにしか見えない時がある、これじゃあキカイダーを倒すためだけに生きているハカイダーみたいじゃないか。敵対する相手がいなくなれば何をしていいか苦悩するしかない。確かにかつての、民主党がかつてはまったくそうであった。下級の人間でもそれなりの品格とnoblesse obligeという心持ちさえ持ってくれていればもちろんありがたいのだが。

国権の最高機関のなかで、やっている方も下品で反対している方も下品だとしたら、もう、この国には未来はないのではないかという不安が確信に変わってゆく。政治は国民を映す鏡であるというけれども、まさにその通りだ。ほとんどの人はこんな人たちに対して無関心か指を指して他人事のように笑っているのだと思う。僕もそのひとりであるのだが・・。

しかし、人は、「誰かのせいで自分は満たされていない」と考えているときが実はいちばん不幸せだそうだ。そう考えると、国政のまずさのことを考えていてはいつまでたっても不幸せから抜け出せない。指を指して笑っているしかないではないか。


最後まで後味の悪い1冊であった。そして、ソーリはこうやって反論すればよかったのだ。「魚の鯛はずっと放置しておくと、頭からよりも内臓のほうが先に腐り始めるのじゃないかしら?」

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加太沖釣行

2020年02月14日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:中潮 9:50満潮
潮流:7:21転流 10:53上り2.1ノット最強
釣果:真鯛 2匹

今、和歌山はえらいことになっている。大阪や京都よりも早く和歌山県で新型コロナウィルスの患者が出た。僕にとっては対岸の火事であったはずだが職場では中国人がウロウロしているし、いつ自分が感染者になってもおかしくないのではないかと思ったりしてしまう。
勤務先で感染者が出ようものなら最悪は数日間休業して消毒作業というような事態にもなってしまうかもしれない。いいほうに取ると、3月の中ごろにそんな事態になってくれたらワカメをいっぱい採りに行けるのではないかと思うのは不謹慎だろうか。

しかし、このウィルス、基礎疾患のあるひとが感染しない限り死ぬことはないというのだからそれほど世間が大騒ぎするほどのことなのだろうか。普通のインフルエンザだって似たようなものだろう。僕が思うに、中国が発生源ということでこの国をよろしからず思っている国々がこれを機会に国際社会から弾き飛ばしてやろうとかいう陰謀なのじゃないかとか、格差社会の象徴とも見える豪華客船で患者が出たということがワイドショーの格好のネタになっていてマッチポンプのように話をどんどん大げさにしているだけのことではないのだろうかと思う。
テレビを見ながら、お金いっぱい使ってえらい目に遭って・・。なんて思っているのは僕だけではあるまい。ウチの会社のおばさんは、「電話でインタビューしていた乗客は、奥さんのこと、“ワイフ”って言ってたで。ワイフやで~。」なんて言ってたし。
格差というと、あの船の中でもバルコニーで体操しているひとと窓がない部屋でくすぶっているひとでもきっと格差があるんだろうな。自然界だけでなく人間界でもフラクタルの法則は成り立ってしまうようだ。
通常国会中のソーリはこれでほかの問題から国民の目を逸らすことができるのではないかとほくそ笑んでいたりして・・。でも、早く収束してくれないと今度はオリンピックが危ういとなるから痛し痒しだろう。

今朝、朝食を買うために立ち寄ったいつものスーパーの店内のBGMはこれもタイムリーなことにマッキーの「どんなときも」が流れていた。
「♪ 好きなものは好きと 言える気持ち抱きしめてたい。♪」
というのはわかるけれども、薬を抱きしめていてはダメだろう。

などと思いながら休日連続で加太を目指した。連続の釣行で昨日も雨が降っていたから塩気の抜けない防寒着はなんだか湿っぽかった。しかし、一昨日釣行した人もハマチをどっさり釣っていたので今行っておかないといつ行くのだと思えるほど加太は好調だ。

今日の潮は朝いちが転流時刻で午前11時が最強の上り潮だ。午前7時には加太の海域に到着したけれども好調にもかかわらず船がまったく見えない。昨日の嵐のあとということとお昼前には雨が降るという予報のせいだろうか。たしかにうねりは少し残っていて帝国軍もこの条件では釣れないと判断してしまったのだろうか・・。



まだ下りの潮が残っていると考えてコイヅキからスタート。



しかしアタリはない。海面を覗いてみるとスラッジが大量に漂っている。やはり昨日のうねりの影響だろうか。そして船の流れはすでに上り潮に変わったことを示している。それではと銅版ポイントを少し試して便所前へ。



ここでもアタリがない。流れは緩く、そういう時はとナカトを越えたところの沖ノ島の影へ行ってみた。



ここには帝国軍の艦船が2隻。あらら、やっぱりここなのかと仕掛けを下すとひと流し目でアタリ。おお、いるじゃないかと思ったがふた流し目をしようとしたらぼくがトレースしたいラインに帝国軍が入ってきた。無用な争いはしたくないので少し移動。ここでもアタリがないので潮流が強くなってくることを期待してテッパンポイントに移動するためにナカトを抜けて少し行ったところで魚探に反応が出てきた。思っていたところとは少し違うがそこで仕掛けを下してみるとアタリが出た。典型的な真鯛のアタリで上がってきたのは50センチに少し足らないくらいのきれいな姿をした真鯛であった。その時刻が午前9時半。この時間に最初の1匹が取れたということはロスタイムまでかなりいい時間を過ごせそうかと思ったけれどもそんなに加太は甘くない。もう1匹を追加してからは魚探には反応があるけれどもまったくアタリがない。ビニールの色を変えてみてもダメだ。あの反応はいったい何なのだろうか。クラゲの反応もあるにはあるのだろうけれどもどう見ても魚だというのも間違いなくある。ベイトの反応ならハマチがその周りにいてもいいようなものだけれども今日は絶対釣れると思っていたハマチはまったくなかった。
やはり昨日の嵐がよくないのか、それとも雨が降ってきて気圧が低くなってきたことが影響していたのか、それは僕にはまったくわからない。それでもまあ、よく真鯛が釣れてくれたものだ。
今日もボウズでなくてよかった・・。

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「大栗先生の超弦理論入門」読了

2020年02月13日 | 2020読書
大栗博司 「大栗先生の超弦理論入門」入門

いつも書いているこのブログの感想文は、その本を大体半分くらい読んだ時点から書き始めていることが多い。しかしこの本は半分近くにやってきても内容がさっぱりわからない。一般向けに書かれているのだけれどもさっぱりわからない。それもそうだろう、主要なテーマが「超弦理論」なのだ。ワープロソフトの変換機能でも一発で変換ができない言葉なのだ。

どうしてそんなわけのわからない本を読んでみようと思ったのかだけれども、前に読んだ「科学にすがるな!」の著者である佐藤文隆の著作よりもこの人の著作の方がわかりやすいというようなコメントが書評サイトに書かれていたからだ。

超弦理論とはどういうものか、ひと言でいうと、原子よりも小さい物質の根源であるクォークの世界を表す理論で、『クォークは、“粒子”ではなく“紐”のようなものが振動することで物質としての質量を生み出す。クォークは現在、17種類存在が知られているが、それはその“紐”の振動の仕方の違いで生み出されているのである。ふつうの紐は物質を構成し、輪ゴムみたいに閉じた紐は重力などの力を生み出す。』ということだそうだ。もともと、“弦理論”というものがあって、これはノーベル賞を取った南部陽一郎らが提唱したものだそうだが、それの矛盾点などを解決したものが、“超弦理論”らしい。なぜ、“超”が付いているのか、それはこの理論が“超空間”の中で成り立つからだそうだ・・。わからない・・。超空間って最近のウルトラマンが製作費がかかりすぎるという理由でミニチュアの都市の中での戦いができないからというので格闘場面になると突然現れる何もないがらんどうの場所じゃないのかなどというアホみたいなことしか浮かばない。
その前に、なぜ物質の根源が“紐”なのか・・。それはこう説明されている。『もともとクォークは質量のない点のようなもの(質量がないので“点”でさえないのだが)だと考えられていたが、クォーク同士は物質を構成したり力(重力や電磁気力)を及ぼし合うために光子のやりとりをするが、その時に質量がないとクーロン力が距離の2乗に反比例するという法則からクォークの質量が無限大になってしまう。無限大の質量ということはありえないのでそれを解消するのがクォークが紐でできていると考えである。』
すでに????となっているところが????????となってくる。そしてそんな紐が存在できる超空間は「9次元」の空間である・・。
????9次元の超空間ってヤプール人でも棲んでいるところなのか????・・・。
そして、僕たちが住んでいるこの世界は、『9次元のうち、6次元がコンパクトに折りたたまれている状態である。』というのだ・・。いったい誰が折りたたんだのだ???
おまけに、この9次元の空間での掛け算はゼロを掛けなくてもゼロになるという・・。
わからない・・。


科学=特撮番組という連想しかない僕には、こういう量子論というのは、きっと太陽が赤色巨星となって地球を飲み込もうとしたとき、人類が新たな移住先を見つけるためにやらなきゃならない宇宙放浪のために必要な知識、要は時間と空間を超えて宇宙の旅を続けるためにはどうしても必要な知識であると思っていたのだが、たかだか2週間、まあ、事態だ事態だとはいえ、豪華客船の超快適な空間の中でも人は我慢できなくなるという現実を見てしまうとそんな超長距離空間の移動なんで人間には無理なのだとわかってしまった。ひとは閉じ込められたところがやたらと暇なところだと我慢ができないらしい。これではもう、人間は地球の重力圏からは逃れられない。地球と運命を共にするしかない。それじゃあ超弦理論なんて解明しなくてもいいのだ。という結論になるのだ。
しかし、せっかく船に乗ったのに中ではダンス大会とマージャンをしているというのは海に対する冒涜ではないのだろうかとついでに思ってしまう。そりゃぁ暇で暇で嫌になってしまうはずだ。
どちらにしてもまだ20億年以上あるらしいからそんなことはどうでもいいし、そもそもこういう理論というのはあくまでも数学の計算をしていて出てくる解であってそれが現実のものであるとは実験をやってもわかるものではないのであるというのが佐藤文隆の言葉であった。
ただ、GPSしかり、コンピューターしかり、その理論の一端を利用して成り立っているという現実を見るとあながち超ミクロの世界には9次元の世界があって、そこを通り抜けることができれば時間も空間も超えていくことが本当にできるのかもしれないと思ってしまう。
この本では、ブラックホールの中身というのは、時間も空間も何もかも渾然一体と溶け合っていてるという、超弦理論の世界が繰り広げられていると考えられていると書かれていた。

まだ20億年以上ある。その時にはロイヤルプリンセスはベテルギウスの残骸を見に行くツアーを組んでいるだろうか・・。
そんな気の遠くなるような未来を憂いても何の意味もないというのはわかっているのだが、読んでいる間だけ僕の体はカラビ-ヤウ空間をフワフワ漂うことができるのだ。

※ヤプール人:「ウルトラシリーズ」に登場する架空の異次元人
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加太沖釣行

2020年02月11日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:中潮 8:40満潮
潮流:9:00 上り2.9ノット最強 12:34転流
釣果:マルアジ、真鯛、ハマチ 各1匹

壊れていた舵が直った。今回もタカシさんのゴッドハンドがさく裂してくれて上架は免れた。しかし、御年多分今年で79歳!多少物忘れがあって、今回の修理も2回目の電話で反応をしてくれて、終わったと思ったら船のデッキに工具を置き忘れて帰ったりするわけだけれどもまだまだ現役でなおかつこの人でなければと頼っている釣り人、本物の漁師、海運関係の人々がたくさんいる。
タカシさんは、修理に来てくれた時に「手が震えて目が見えなくなるまでやるで~!」と渡船屋の船頭に話をしていたそうだ。なんとも頼もしい。



シニアが仕事で幸せになれない理由というのが五つあって下記のようになるらしいのだが、
①事故に巻き込まれる(起こしてしまう)
②若い人からの指図に抵抗感を覚える
③自分が足を引っ張っているという自責の念に駆られる
④仕事を覚えられない
⑤単純で刺激の少ない業務が退屈になる

タカシさんは①を除いたらすべてが当てはまらない。ぼくみたいなサラリーマンにはこれから先、どう転んでも、誰かに期待されて誇りのある仕事をやるということはない。それでもなんとかこれから先も食べてゆく策を見つけなければならないのであるけれども、一体どうなるのであろうか・・。
そんな不安に駆られながらもひと月ぶりの加太への釣行に出発した。

昨日の各社の予報では北風が強く吹くとなっていて、同僚のNさんも、明日はアウトでしょう・・。なんて言う。気象庁の天気図は高気圧の中心が本州に限りなく近くにあるのでそれほど吹かないんじゃないかと素人考えでいたのだが、やはり専門家の予報を侮ってはいけない。



目覚まし時計を午前4時20分にセットしていたのだが寝過ごしてしまい、目を覚ましたのが午前5時半。あれ、今日は釣りに行くのではなかったのか?会社だったかな?などと混乱する頭の中を整理してみると、やっぱり夕べ、釣りに行く準備をしていたことを思い出した。
飛び起きて新聞を取るために玄関を出て煙突の煙を見てみると真横に千切れて飛んでいる。
あれ、やっぱり予報通りか、これはダメだなと諦めかけたけれどもなんやかやでもうひと月も大きい方の船を動かしていない。なんとかして出港できる理由がほしいと海上保安庁の友が島灯台のリアルタイムの観測データをタブレットの電源を入れて調べてみる。このデータが直近で北の風風速5メートル。おや、これくらいの風ならなんとか行けるんじゃないかとやっと決断をした。出港した時刻は辺りがすっかり明るくなった午前7時を回ってしまった。時間を経るほど天気は穏やかになるということだったのでこれはこれでちょうどよかったのかもしれない。

一文字の切れ目を抜けたころは危険なほどの風波ではなかったが紀ノ川河口を越えるころにはかなりひどくなってきた。こちらから加太を目指す船も数隻いたが、加太方面から引き返してくる船もある。う~ん、やっぱり釣りにならないのかと思いながらも針路を維持。日本製鐵入り口の護岸を抜け、針路が西を向くころから潮のしぶきをまともに受けるようになってきた。田倉崎に差し掛かるころには体中潮だらけになってしまった。



僕の船には操縦席も無く、手作りのシールドには当然ながらワイパーなんていうものは装着されていない。すでにシールドは潮のしぶきで視界がなくなってしまっているので前方を確認するためには体を右舷に晒しだす必要がある。タイミングが悪いとその時にドバっと潮をかぶってしまうのだ。

幸いにして上りの潮が残っている時間帯なので友が島を越えなくても大丈夫だ。といっても船団ができている沖ノ島の際までは到達できそうにない。田倉崎を少し越えたあたりから仕掛けを下し始める。
スパンカーを立てても船体は安定せず、風と波に翻弄されている。



仕掛けが入ってゆく方向は右左に変化し、そのたびに舵を動かして仕掛けの方向に船首を動かす。舵を直してもらったのでそこのところは楽チンだ。
しかしこんな天気だ。アタリは出ない。今日はスクリューのゴミを落とすだけの航海かと思っていたら船が流れてテッパンポイントに差し掛かった頃アタリが出た。出たといっても船が異常に揺れているのでなんだかわからない。ただ、なんか竿が曲がっているぞと、そんな感じであった。もう、これが最後のチャンスかもしれないと慎重にやり取りをして上がってきたのは大きなマルアジであった。この季節のマルアジは脂が乗っていてすこぶる美味しい。これでなんとかおかずは確保できてボウズは免れた。
そのまま流れに任せていると今度は本格的な真鯛のアタリ。これもうまく鉤掛かりしてくれて2匹目。
午前9時を過ぎて潮が緩み始める時刻を迎えたので少しだけ北上。これが奏功してすぐにハマチがヒット。
風は少しずつだが穏やかになりつつあり、もう少し北上すると魚探にはいい反応が出てきた。しかし、これが喰わない。転流時刻は12時半だが風の影響で急ブレーキがかかってしまったのだろうか、それとも取り替えた疑似餌の選択も間違いだったのか魚探の反応に後ろ髪を引かれながらも午前10時半に終了。

菊新丸さんが、「シラスあげるよ~。」と港までわざわざ届けに来てくれた。前日に、港に近づいたら連絡くださいねと言ってくれていたのだが、「本当に行ったんですか?」とちょっと呆れられてしまった。菊新丸さんも行こうとしていたそうだが、昨日の予報を見て取りやめにしていたそうだ。そうだよな~、きちんと天気の分析ができる人なら多分、行かないという選択肢になるんだろうなと納得してしまった。
次の休日は雨模様でその次の休日はかなりの冬型、その次の休日は1週間後になる。今日を逃すとひと月半以上も船を動かせないことになる。僕もそういう事情がなければきっと安息日にしていたと思うのだが、結果としてはおかずを手にすることができてシラスもいただいてという、福音の1日となったのである。

久々に釣れた真鯛は片身を中華風の蒸し物にしてみた。まあ、清蒸自体が中華料理なので中華風というのもおかしいが、テレビで見て醤油味でやってみた。これはこれでなかなかの味であった。

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「科学にすがるな!―宇宙と死をめぐる特別授業」読了

2020年02月08日 | 2020読書
佐藤 文隆 、艸場 よしみ  「科学にすがるな!―宇宙と死をめぐる特別授業」読了

著者はフリーランスの編集者なのだが、身近な人の死をきっかけに、「死」とは一体なになのか?どのように「死」に向き合えばいいのか?という疑問を宗教家や哲学者ではなく、宇宙を研究する物理学者に問いかけるという内容だ。

どうして宇宙物理学者だったのか。それは宇宙には、生命や死の神秘が隠されていそうに思うと考えたからだそうだが、本の内容はどうも期待どおりではなさげだった。
ほとんどは量子物理学の歴史の解説で終わっている感がある。

量子論の本(もちろん一般向けの初歩的なものだが。)を読んでいるとなんとなく哲学的な内容が入っていることに気付く。たとえば、素粒子は実体がなく“ゆらぎ”であるということ、そういうものの集合体が物質であり僕たち自身であることや、物質とエネルギーは交換可能であるということ、そもそも宇宙自体が“無”の状態が少しだけずれたことで生まれたなどと聞くと、この世の中に見えているものはすべて幻であるのではないかと、そうならば自分たちは人生のあれこれにくよくよしてもそれさえもただの幻想だと思えば気も楽になる・・。というような考えが浮かんでくる。
筆者も、そういう予備知識があってあえて宇宙物理学者に対して問いかけをしたのではないのだろうか。加えて宇宙という広くて悠久の時を刻んだ空間を相手にしている人が描く死生観というものを知りたいというようなものであったのだろう。

しかし、物理学者はこんなことを言う。物理学というのは、物質だけを見る学問ではあるけれども、量子物理学の世界では「これが真実である」というものがない。宗教や哲学と同じで、物理学者の見る世界は人によって異なる。ましてや人間は物質でできていることには違いがないけれども、物質でできているというだけでは計り知れない何者かであるように思う。だから、生や死というものの答えを物理学者に求めても無駄なんだと。
だから、タイトルが「科学にすがるな!」となっている。ようだ。
「ようだ。」と書いたのは、それさえもよく理解できなかったからだ。この本はいったい何を伝えたかったのかということが何となくわかるようでまったくわからないという雲の中に手を突っ込んでいるような気分だった。悪く言うと著者のファンタジーにすぎない。本の中身のデザインが青いインクを使っていたり、ページの周囲にイラストが入っていたりしているのでなんとなくそんな感じがしたけれどもやっぱりデザインどおりの内容だ。

ただ、この物理学者の言っていることが面白い。物質を研究している人たちというのはただひとつだけ存在する回答に向かって実験と数式を駆使してその根源を解き明かそうとしていると思っていたけれども、どうもそうではないらしい。
以前に読んだ、理論物理学者が女子高生に解説をするという本では、世界には9次元という世界があったり、宇宙は膜でできているとか、まあ、普通ではどうも考えがつかないような世界の話が出てくるのだが、こういうものは、現実の現象に則して数式を駆使していくとこんな世界も存在する可能性があるのだと言っているだけというところが多い。これが、“見る人によって違う”ということだそうだ。
また、数千億円という実験装置を作って研究をするという、公共投資に近いようなプロジェクトというのは物理学者を養うための手段にすぎないとバッサリ言ってしまっている。そして、専門的な勉強をしたことがない著者に対しても、「専門家でないものが少しだけわかって何になるのか。」と手厳しい意見を言ったりする。

確かにスーパーカミオカンデなんていうのも、えらいお金をかけているわりに、ニュートリノというものが存在するということがわかってどんな得になるの?と思うところがあるのは確かだけれども、その一方で僕たちはどこから来てどこへ行くのかという疑問は永遠に消えない。個人にあてはめれば、どこから来たかは今まで生きてきたのだから嫌な人生であっても思い出すことができる、しかし、この先どこへ行くのか、そしてその先、死とはいったい何なのか。死んだ人たちは決して教えてくれないからその謎は永遠に消えない。
どんなものを読んでみても科学番組を見ても脳みそがついて行けないというのはわかっている。しかし、はやりそのふたつの疑問、「僕たちはどこから来てどこへ行くのか。」「死とは・・」についてはバカはバカなりに答えがほしいと思うのだ。

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「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆 」読了

2020年02月04日 | 2020読書
鈴木真哉 「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆 」読了

僕は、雑賀孫市は和歌浦周辺を本拠地として活躍していたとばかり思っていたが前回読んだ小説ではそうでもなさそうだとわかってしまった。
僕としては雑賀孫市を統領とする雑賀衆は和歌浦の国道沿いにある雑賀城を拠点にして無頼な生き方を全うしていた人々だと思いたかったのだが、小説では雑賀孫市は十ヶ郷という今でいると紀ノ川の北側、平井というところが活動拠点になっていて、今の和歌浦近辺である雑賀郷とは関係があるとはいえ支配下にある場所でもなんでもなかったらしい。ネットで調べる程度の情報だが事実もどうもそうらしい。
僕の出身地は和歌浦から少しだけ北に位置しているところなので先祖代々ここに暮らしていたとしたら、ご先祖様も孫市の元でスナイパーではなくとも玉込役くらいでは活躍してくれていたのではなかろうかとひとりで悦にはいっていたのだが、拠点が違えば話が違ってくるんじゃないかと関連本を探してみた。

雑賀衆と言われた人たちが歴史の資料に登場するのは西暦1048年のことだったそうだ。そして歴史から消えてゆくのは1585年。関ヶ原の前には消息がわからなくなってしまったということらしいのだが、ここからはこの本から読みとれる、僕が思い込んでいたこととの違いを列挙しながら雑賀衆と孫市の歴史を書きとめてゆきたい。

雑賀衆という人々はどこに暮らしていた人たちなのかということから書いてゆきたい。
拠点は和歌山市周辺でいくつかの自治組織に分かれていたということは知っていたれども、当時は五つの地域に分かれていたようだ。それは雑賀郷(和歌浦、雑賀崎周辺)、十ヶ郷、中郷(田井ノ瀬あたりから根来の手前まで)、宮郷(日前宮のあるあたりから東の方、太田地区)、南郷(三葛から名草山周辺)と呼ばれていたようで、雑賀郷と十ヶ郷は海側で塩分が多い砂地の地域ということで農作業には不向きなので漁業と交易が主な生業であった。対して中郷、宮郷、南郷は肥沃な土地で農業が盛んであった。現代とは地形がかなり変わっているようだが、まあ、こんな感じのようだ。
それぞれ雑賀衆といってもそこに住んでいる人全員が一丸となってひとつのことに向かっているのではない。戦闘集団としての雑賀衆はこの土地の支配階級のことをいうのであって、農民、漁民は支配者が変わってもやらなければならない仕事はかわらなかったのである。これは歴史用語でいうと、国人(支配階級)と惣(被支配階級)という関係であったのだ。最終的に雑賀衆は歴史から消えていったということを思うと、僕がここにいるのは支配されていた側だったからということになりそうだ。多分、玉も込めていなかったのだろう・・。まあ、それはそれで僕らしいのではあるけれども・・。
そして、この地域の人たちはみんな浄土真宗=門徒と思っていたけれどもそうではなかったようだ。浄土宗を信仰する人もいたし、根来に近い地域はそれこそ真言宗(真義真言宗)を信仰する人たちであったのだ。石山合戦に参加した人たちはその中の真言宗の信者たちだけであって、雑賀郷、十ヶ郷の人たちが内陸地域をたびたび攻め入ったというのは肥沃な土地を羨んだということばかりではなく、宗教観の違いでもあったのである。
著者はそのイメージをこうまとめている。

・紀ノ川下流域五荘郷にわたる地縁的な集団であった。
・国人など在地領主的な人々の集団であった。
・農業を主たる基盤とする集団であった。
・本願寺門徒の集団であった。
・鉄砲隊と水軍を備えた集団であった。
・傭兵集団であった。

鉄砲との関係はどうか。津田監物が種子島に伝わった2丁の鉄砲のひとつを持ち帰ったのは事実だそうだ。監物は根来寺の僧兵として小説にはよく出てくるけれども実際は根来寺の塔頭、杉ノ坊から指示を受けて種子島に行ったということだ。杉ノ坊の門主は津田家が代々勤めていたらしく、ようは身内であって行人(僧兵)ということではなかったようだ。
あまり仲のよくない中郷と雑賀郷、十ヶ郷だが、どうしてそこでも鉄砲隊が組織されるほど鉄砲が生産されたか、そこはどの文献にも詳しくは書かれていない。ただ、鉄砲というのは意外と簡単な構造で、材料と鍛冶屋さえあれば比較的簡単に作れたのではないかと著者は考えている。もともと雑賀鉢という兜を作れる腕前の人たちがいたのだからお茶の子さいさいだったのかもしれない。
それよりも鉛玉や火薬の材料をどうやって調達するかそれの方が問題であった。海側の人たちは漁業に加えて交易も生業にしていたので海外から材料を調達できたのであろう。種子島にやってきた鉄砲の存在も雑賀郷からもたらされたのかもしれない。仲が悪いといいながら、そういった情報交換や物流というのはけっこう密にあったのかもしれない。
しかしながら1570年、第一次石山合戦では孫市の一党は石山本願寺側についたが、大半の雑賀衆、中郷、宮郷などは信長側についていたそうだ。石山本願寺を攻めきれない信長はその原因を雑賀衆の敢闘にあるとみて1577年、とうとう雑賀郷を攻めるわけだが、その時には一致して迎え撃ったというのだからみんな仲が悪くても人がいいというところだろうか・・。孫市は信長軍に北側か攻め入られ平井から撤退して雑賀城を拠点に戦いを続けた。この時の戦いが有名な和歌川(雑賀川)に壺を埋めて騎馬兵を足止めしたという戦いだ。
僕の心のヒーローである雑賀孫市はどちらかというと雑賀衆のなかのひねくれものという位置づけになってしまっているのではないだろうかと悲しくなってきた。石山側についたのも、信仰と自由を守るためというよりも、自分の地位を強化するためという理由のほうが大きかったようだ。というのも、信長の高野、根来攻めの時には信長に通じ、太田城の水攻めのときには豊臣方に与して太田党と戦ったというのだからどうみてもここら一帯を俺のものにしてやろうという魂胆にしか思えない。自由のために戦うというよりも日和見で得する方につくコバンザメみたいじゃないかとさえ思えてくる。もう、周りの人たちからはきっと何をしでかすかわからない厄介者くらいに蔑まれていたに違いない。地元の方言で言うと、「あいつ、またあんなことやってらいしょ~。かなわんな~。ひとを巻き込むのもええ加減にせぇよ。」という感じだろうか。
本能寺の変があった1582年、信長は高野山、根来寺を含めて三度紀州を攻める。先に書いたようにその頃には孫市はなぜだか信長側に寝返り雑賀郷の土橋守重と対立した。明智光秀に信長が討たれたの報を聞き、裏切りものと誹られることを恐れた孫市はどこかに姿をくらましてしまったそうだ。
その2年後、小牧の役では秀吉側の布陣に名前が出てくる。これも先に書いたように太田城水攻めの際にも秀吉側についている。
このあたりで孫市の消息は途絶えるのだが、小説の中に出てくる孫市は弱気を助け強いものに正面から立ち向かう任侠の人であったけれどもそういうものには程遠い人であった感じがする。少し養護するならこの時代、裏切りというのは日常茶飯事で、とくに傭兵を生業としていた雑賀衆にとってはこれが普通の生き方であったのかもしれないということだ。この本に使われた主要な資料として「佐武伊賀守の覚書」というものがあって、孫市とも行動を共にした人だったそうだが、この人も何も悪びれることなく裏切りと寝返りをしていたそうだ。

そして雑賀衆も太田城の水攻めのあと勢力が衰え歴史から消えてゆく。
一族は残るも紀州を離れ広島や尾張に士官するものもあったそうだ。そのなかの一部の人たちは“孫市”の名前を引き継いでいった。僕がこの名前は世襲で引き継いでいかれたと思っていたのはこのことらしい。当の鈴木重秀は“孫一”という署名は使ったが“孫市”という名前は使ったことがないそうで、これは後の人が使ったか講談や物語の中で使われた名前だったのである。
性格はさておき、それだけ武勇は世間に轟いていてそれにあやかろうということで名前が残っていったというのはそれはそれですごいことだろう。

だから、僕の中のヒーローは、あくまでも想像上の“孫市”であるのだが、まさしく相手が権力者であろうがそんなの関係ないと無頼に生きた“孫一”もこれはこれでカッコいいということにしておこう。


1547年 鉄砲伝来
1570年 摂津三好党を信長が攻撃 雑賀衆3000丁。三好党側に孫市つく。第一次石山合戦
1572年 講和
1575年 石山本願寺再度攻撃 孫市このときも招集
1577年 信長雑賀攻め この年2回あった
1578年 上杉謙信死去 信長西を目指す
1582年 本能寺の変 この年にも信長の紀州攻めあり。高野山、根来も攻めるが報を受け信長軍撤退
1584年 小牧の役 雑賀勢西側から秀吉を脅かすがこのとき孫市は秀吉軍の一員
1585年 太田城水攻め。この時も孫市秀吉軍。その後消息は途絶える。
1592年 文禄の役
1598年 慶長の役、豊臣秀吉死去
1600年 関ヶ原の戦い
1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣
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