イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

水軒沖釣行のち芋拾い

2022年07月31日 | 2022釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 7:18満潮
釣果:ボウズ

前回のブロクで、僕は「働かないおじさん」だと書いたばかりだったが、やはり世間や神様はそういうことを許してくれないようだ。突然電話がかかってきて、出向を告げられた。
今度は銀行だそうだ。ときおり、人事異動の通達でそういった人を見ることがあり、いったい何をするために出向するのだと思っていたら、僕にお鉢が回ってきたというわけだ。
業務内容は詳しく聞かされてはいないが、顧客の接遇と事務補助というものらしい。要は案内係と雑用係だ。
僕の所属する業界の人間に世間が抱く印象というのは、一般の人よりも接客が上手くて人当たりがよいということらしい。異業種はそういった人を求めてこの会社に業務提携をして人材派遣を依頼するというようなことをしてきたらしい。
僕はクレーマーにはすぐに食ってかかるし、元々気が短い性格だからまったく業界一般の印象とは正反対なのだが、その短気が災いしてか、上司からの印象も悪いだろうから強制排除ということになったのかもしれない。人材を派遣といっても、僕なんかは”塵材”にしかならないと思うのだが、大丈夫なのだろうか・・。そもそも、雑用係にかり出されるような人は元から人材とは言わないのである。
実のところ、やることをやってしまったら暇でしかたなく、ずっとネットニュースなんか見て過ごす毎日にも倦んできている部分もあるのでここらが潮時なのかと思ったりもしている。
まったくの暇であるというのは、それはそれでよかったのだが、いくらなんでもこんな生活がいつまでも続くわけはなかろう。こんなに暇なことは誰にも知られていないと思っていたけれども、きっと周りからはきちんとそう見られていたようだ。
新しいところに行ってもおそらくやりがいがあるという作業でもないというのは想像できる。そういうふうにしか想像できないというのは、僕自身が何事に対しても不満しか感じない性格であるということがずっと災いしてきたというのが事実だろう。Complainerという英語単語があるくらいだからそういう人は悲しいかないくらかの確率で存在し、死ぬまで自分の人生を肯定的に受け入れることができないのである。

どうせ何をやっても不満しか残らないのだから残り1年半、何をやらされようとあきらめもするのだが、一番の問題は平日に休みがないということだ。真っ先に確かめたのはそれで、確実にカレンダー通りの休みらしい。人事の人間は土日祝日が休みなのでうれしいでしょうというが、僕はまったく逆なのである・・。これは僕のQOLを著しく低下させることは間違いがない。
それをどうやってうっちゃるか、難儀な課題だ。

一応、相手先の面接というのがあるらしいのだが、そこで嫌われるようなことを言えば使ってもらわなくて済むかもしれない。しかし、それはそれで問題が大きくなったりしてしまうと恐ろしい。

そんなわずらわしさを抱えながら午前5時までの釣りに出かけた。
朝の星座はすでに秋の星座に移り変わっている。
おうし座を見つけることはできたが、その真上にあるはずのプレアデス星団はいまだ発見できない。もう少し目を凝らさねば・・。



前回は住金沖まで出かけたが、今日は水軒沖に留まることにした。少しでも釣りをする時間を稼ぎたいというのと、台風5号の余波のうねりが心配であったからだ。だから今日も大きい方の船での出港である。
働かないおじさんには神様からのお計らいもすでに見込めないようで、何の反応もなく午前5時の終了時間を迎えた。



例年ならそろそろタチウオが釣れ始める時期なのであるが、未だそんな噂も聞かず、電気ウキも海面に漂っていないので全然釣れていないのだろうなと思っていたら、タチウオ名人は密かに釣りに出ているたようだ。僕が港に戻る前に出港していて、芋拾いを終わって午前9時半ごろに港に行くと、すでに戻っていた。これくらいの時間でやれることといえばタチウオくらいだろう。釣れたかどうかはわからないが、名人のことだ、ある程度確信をもって出たに違いない。次回の釣行にはタチウオ釣りをからめて計画を立てようと思う。

港に戻り、急いで後片付けをして時間きっかりに畑に到着。サツマイモの収穫は、今年は今日が最後だそうだ。
1時間半ほどで5畝分の芋を拾って終了。作付けは持っている畑の半分くらいしかやっていないのだから、いっそのこと、空いている畑を借りて僕が芋を植えて出荷させてもらうというのはできないものだろうかと思ったりもするのだが、そういうことをやったとしても、そこで何らかの不満を持ってしまうのだろうから何にもならないと思うと結局何もやってみようと思う気にもならないのである・・。

出荷しないというサツマイモを今日もたくさんもらって早くも1日が終わってしまった。




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「酒から教わった大切なこと  本・映画・音楽・旅・食をめぐるいい話」読了

2022年07月30日 | 2022読書
東理夫 「酒から教わった大切なこと  本・映画・音楽・旅・食をめぐるいい話」読了

読みたい本がない時は図書館の自然科学と日本文学と食文化の書架を行ったり来たりしながら面白そうなタイトルの本を探す。この本は日本文学の書架に入っていた本なのだが、僕が選ぶと大体どの書架でも結局、食や酒に関する本になってしまう。

だから著者のことはまったく知らなかった。奥付を読んでみると、1941年生まれで作家で音楽家だそうだ。
もう少しネットで調べてみると、両親は日系カナダ人二世で、1960年代フォークソングブームの火付け役で、自著のフォークギターの教則本はベストセラーになったというような人らしい。僕の友人にはギターの名人がいるが、彼もこの人の教則本を読んだりしていたのだろうか。
作家としては音楽関係よりも食に関するものが多いようで、この本もその中の1冊だ。

副タイトルのとおり、酒と本、音楽、落語など様々な文化を絡めた短いエッセイを集めている。
こういう本を読むたびに思うのは、もちろん、1冊の本を書きあげる人なら当たり前なのかもしれないが、その博覧強記には驚かされる。そして、この年代の作家の文章は安心ができるというか、僕にとっては読みやすいように思う。それに加えて、ダンディズムというか粋というか、そういう臭いがプンプンと漂ってくるのがうれしい。ひと世代かふた世代上の人というのは憧れをもって見ることができるのだ。これが同世代になってくると、自分の知性の無さにたじたじとするばかりになってしまうのだが・・。

本にまつわる話については63冊の本が登場するが、山口瞳、荻昌弘の著書が複数回出てくる。両名とも酒と食に関しては一流の見識を持つ人でかつ、著者よりも少しだけ世代が上ということでおそらく僕が著者を見るような少しばかりの憧れを持って見ていた人達であったのだろう。
文体はというと、バリバリのダンディズムを押し付けてくるような硬さはなく、もう少し柔らかい印象だ。僕としてはもっとガリガリ来るような文体のほうがよかったのではないかと思ったりしているが、まあ、これも著者の優しさというところなのだろう。


「男としての生き方」という言葉がところどころに出てくるのだが、一人前の男であるというのは、バーと立ち飲み屋とそば屋に堂々と入れるというのがその必要条件であると思っているのだが、未だそれができないでいる。そば屋などは意外と入りやすそうだが、そこで日本酒を注文するとなるとけっこうハードルが高い。バーはもちろん、立ち飲み屋も和歌山駅の周辺に行けば何軒かあるが、なかなか入る勇気が湧かない。
それに加えて、長いこと外で酒を飲むようなことをしていないが、多分、今、外で酒を飲んだらすぐに歩けなくなると思う。普段でも家から駅に向かう途中に目眩を起こすので、本来なら8分で駅まで行けるところを4分の余裕を見て家を出るのだが、それも途中で一服する必要があればギリギリに家を出ていては間に合わないからなのだ。酒を飲んでしまったらてきめんにぐるぐる回ってしまうだろう。
到着した駅でも、階段を上って改札口までの距離が危険だ。必ずといっていいほどここでも目眩をおこす。途中で立ち止まるのはみっともないので惰性で動いてゆくのだが、最近は特にそれがひどく、数日前には完全に目の前が真っ暗になってしまった。死ぬという現象はこういう状態がずっと続くことなのだろうなと思った次第だ。
特にワインを飲んだ翌日は要注意だ。同じ醸造酒でも、日本酒の方が症状は軽いように思っている。目の前が真っ暗になった日の前の晩は300円の白ワインを飲んでいた。安すぎるワインというのも原因だろうか・・・。
これが休日だとまったく症状が出ない。午前2時半に起きて釣具をバイクに積んで海に出るようなハードな動きでもまったくそんな症状には見舞われない。もちろん、海の上でそんなことが起こってしまうと生死にかかわるから人体の危機回避能力というものが備わっているのかもしれないが、それよりも、「またくだらない1日が始まるのか。」という落胆がその原因かもしれない。

だから、自分の命を守るためにも家の外でお酒を飲むという行為はやめておいた方がよいというのが結論だ。家でチビチビ飲んでいるのが関の山だ。と、いうことは、永遠に半人前からは抜け出せないということなのだろう。

最後の章では、父親との酒の思い出を語っている。気恥ずかしさや照れや何やらで、父親とは酒を飲んだことがない著者ではあったが、初めての酒は父親の部屋に置いてあったスコッチウイスキーを盗み飲みしたものであった。父親が亡くなって後、部屋の整理をしていたとき、当時と同じ銘柄のウイスキーが出てきた。父親はずっと同じ銘柄を愛飲していたようで、それをラッパ飲みしたとき、これが自分の中でのウイスキーのひとつのスタンダードであったのだということに気付く。僕の父親は奈良漬を食べただけで気分が悪くなるような人だったからそんな思い出はない。
僕も息子と酒を飲もうなどという気はさらさらないのだが、僕が死んでからも残っているであろうお酒はドラッグストアで処分品として3割引きのシールが貼られた紙パックの日本酒ばかりである。
それについては息子には申し訳ないと思うのである。美味しい酒は自分で買うのだろう。

師について、こんな感想が書かれていた。
『開高健は男にとって、それも心の奥にまだ少年時代を捨てきれないものにとって、長いこと憧れの大人だった。・・・・少年がそうありたいと思う大人の典型だった・・・。』
僕もそういうことを求めてこの本のページをめくっていたのだが、著者も同じような思いを求めてこれらの文章を書いてきたようだ。だからこの人の文章には好感を持てたのだということが最後になって判明したのである。


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住金沖~水軒沖釣行のち芋拾い

2022年07月27日 | 2022釣り
場所:住金沖~水軒沖
条件:大潮 4:46満潮
釣果:ボウズ

ネットのなかをウロウロしていると、『年下困らす「役職なし」50代おじさんの絶望と幸福感』というタイトルのコラムをみつけた。



“「役職なし」50代おじさん”ってまさに僕のことではないかと興味を持って読み始めた。どんな内容かというと、
役職定年となったサラリーマンは、2分化する。「もう一踏ん張りする派」と「ひたすら息を潜める派」だそうだ。定年退職後を見据えてさらにスキルを磨き、社内では後輩社員に自分の経験をしっかり伝える人たちと、突然役職も部下も無くなり、ついでに会社からの情報も来なくなり、今までの努力と我慢は何だったのだと失望し、減額された給与明細を見てやる気も何もかも失せてしまう人たちに分かれるというのだ。
後者の人たちは、組織の中では、『学ぼうとしない、理解しようとしない、自分のことしか考えない、会話しようとしない。』ということになる。もう、まったく今の僕のことを言っているように思える。
これは本当に実感する内容だ。会議に出席することはなくなったのは当然のこと、送られてくる社内メールもまったく無くなり、会社で何がおこなわれているのかということはまったくわからなくなってしまった。普通の組織なら、それでも管理職が出席した会議ではこんなことが話され、こことここは覚えておいてほしいというようなことがミーティングの場などを設けて伝達されるはずなのだが、ここではまったくそういうこともない。
職場の構成員もポンコツか使いづらい人間ばかりだというのは前にも書いたが、かつては部下を持って指導もしてきた身ではポンコツはポンコツなりに指導しながらそれなりに仕事をさせる手伝いくらいはせねばならないのだろうが、そんな変人を相手にしたくもなく、横でこいつらは仕方がないほどのバカだなと笑っているだけなのである。
同僚に対して、「課長から電話させるわ・・」という受け答えをしている、敬語も電話応対もままならない50過ぎの平社員にさらにバカにされている係長がいるというのが今の組織なのだから確かに笑うしかない。ここには知性のカケラすらないのである。
ただ、僕もそこにいるということはそのポンコツの一味であるということにも間違いがないのである。
何をしようがしまいが、給料の評価も変わらないのだからやる気が出るわけがない。それも2割減となってしまっては、どうせ同じならやらなければならないことは少ないほどよいという結論になる。しかし、給料は減ったが自由になる時間は増えた。去年は持っている有給休暇をすべて使ってやった。
共産主義は絶対に衰退するしかないのだという理論を身を持って体験しているというのが今だ。
そして、世間では僕のような人たちを「働かないおじさん」と呼んでいるそうだ。まあ、あまり好感をもって受け入れられていないというのは文字列からみてもはっきりわかるのだが、ある意味、終身雇用制の残り香が漂っている今がその果実を食べられる歴史上最後の時代である。ある調査では、「働かないおじさん」が存在する企業は49.2%あるという結果が出ている。これがこの国の伝統的な制度ならそれに堂々と乗っかって大いにそれを食べさせてもらおうではないか。成長不良の腐りかけの果実ではあるが・・。

そして、今日はそんなくだらない労働の対極にある、芋拾いの手伝いの日だ。僕が収入を得るわけではないのだが、収穫したサツマイモを市場に持っていくと持って行った分だけ確実に現金を手にできるという、まさに労働の基本形がここにはあるのである。
畑への集合時間は午前5時30分が指定だ。釣りをすることができる時間はわずかに1時間ほどだが、禁断の仕掛けならそれでも十分勝負になると考え、午前3時45分に出港した。



タイムスケジュールとしては、真っ暗な時間に出港し、住金沖で薄明るくなるのを待ってから仕掛けを流し始める。今の季節なら午前4時15分には仕掛けが流れているのを確認できるくらいの明るさになっているはずだ。そこから30分釣りをして、港に戻って畑に向かう。という段取りであった。
しかし、今日は雲が厚く、住金沖に到着してもまったく明るくなってこない。時間だけがどんどん過ぎてゆく。



仕方がないので暗いままで仕掛けを流し始めたがこれでは魚が掛かったとしてもおそらく取り込むことができない。それでもとりあえず行けるところまで行ってみたが、ここで明るくなるのを待っていると港に戻る時間が遅くなってしまう。あまり期待はできないが港の近く、新々波止の南に戻って釣りをすることに決めた。そこからだと10分で港に戻れるのでギリギリまで仕掛けを流せる。赤灯台のところまで戻ってきて再スタート。一文字の切れ目まで、後戻りなしでの勝負だ。
アタリがないまま午前4時55分。切れ目はもう目の前。これで終了だというときに、さすがに今日は真っ当な労働に就く日だというので神様が粋な計らいをしてくれたのだろうか、アタリが出た。
これは間違いなくヤナギだ。もう、この魚しかない。慎重に道糸をたぐり寄せたが、仕掛けに手をかけたとたんに魚が暴れはじめた。一気に下にもぐられ、あえなくバラしてしまった。ハリスが切れたのではなく、鉤はずれだった。残念・・。
やはり神様には、僕は「働かないおじさん」であるということを見抜かれていたようだ。
「Arbeit macht frei」というドイツ語は日本語に訳すと、「働けば自由になれる」という言葉で、アウシュビッツの強制収用の門に掲げられていたというのであまり良い印象を持たれてはいないのだが、意味としてはまさにその通りで、働かないものに恵みが与えられることはないのである・・。

と、この一撃で今日の釣りは終了。後片付けもせずに畑へ向かった。


叔父さんはもっと早くやってきていて、トラクターでサツマイモを掘り起こしている。



僕たちは掘り起こされた芋をコンテナに集めてゆくのだが、叔父さんはトラクターを運転しながら、「あかんのや~」と嘆いている。あれ?今年の芋は大きくて出来がいいと聞いていたのでなぜだろうかと確かめてみると、あまりにも豊作すぎて、出荷するための段ボール箱が足らないというのだ。ちなみに、この段ボールはシーズン前の一括注文のみで追加注文ができないものらしい。
サツマイモというのは保存がきく作物なので相場に影響されないそうだ。叔父さんはもうやめてしまったが、同じ畑では冬の間、レタスを栽培していた。レタスは鮮度が落ちるのが早く、ひとつの季節の中でも相場で値段が乱高下する作物なので出荷するタイミングが難しかった。値段が高い時にどれだけ出荷できるかで収入が決まるので値段が上がってくると親戚一同総出で出荷の手伝いをするというのが慣行であった。それに比べてサツマイモは豊作貧乏などということもなく、出荷すればするほど儲かる。それなのに、こんなに実るとは思っていなかったので箱を用意していなかったというので嘆いているわけである。なんとも贅沢な話だ。

畑に入ってみると、確かに芋はたくさんできている。



ビリというのだが、出荷できないほど小さな芋が蔓にたくさん付いているものなのだが、今年はほとんどない。全部大きいのだ。
拾う方としてはやりがいがあるのだが、叔父さんからすると持って帰ったところでそれをどうするかという悩みを抱えているのである。

最初に犠牲になるのは不格好なサツマイモたちだ。作業場の端の方に大きすぎる芋や丸くてずんぐりした芋が集められている。これは捨てるからいくらでも持って帰っていいよというのだが、もったいない話だ。大体、大きすぎると単価が下がるというのはおかしな話だ。ひとつ買っても家族では食べきれないから需要が少ないというのがその理由らしいが、魚などもそんな傾向があるのだろうか・・?素人からすると自然からいただけるものはなんでも大きいほどよいと思うのだが・・。
だから、ビニール袋に詰め込めるだけ詰め込んで持って帰ってきた。確かに、保存が効くので秋が終わるくらいまでは十分食べられるのである。



今年は雨が少なかったのでサツマイモだけではなく、スイカもウリも腐らずに甘くておいしいものができたそうだ。それに引き換え、トウガラシはさっぱり実っていない。今日現在でやっと保存瓶ひと瓶と少しだけだ。例年なら3瓶はストックしているはずなので半分以下である。ハバネロにいたってはどこに植えてくれているのだろうというほど成長していない。
甘さと辛さは両立できないというのはまさに人生そのものなのである・・。

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「ぼくはいつも星空を眺めていた 裏庭の天体観測所」読了

2022年07月26日 | 2022読書
チャールズ・レアード・カリア/著 北澤 和彦/訳 「ぼくはいつも星空を眺めていた 裏庭の天体観測所」読了

著者は作家なのであるが、ふと思い立ち、子供の頃に好きだった星の観測を再び始めようと考えた。そして、30年の時を経てのその思い付きは自宅の裏庭に天体観測所を建設しようという大掛かりな夢となった。
父親は金型職人であったが著者自身はまったく工作には不向きな性格で、ましてや屋根が開閉するような建物を建設するという知識は少しも持ち合わせていないのだが、義兄や友人の手助けにより完成させる1年間のストーリーだ。この本の中身としてはおそらくこの本を書く大きなきっかけとなっている観測所の建築についての顛末はごくわずかで、季節ごとの星空に関するストーリーや世界の天文学の歴史など、ちょっとだけ星の世界に興味がある僕のような人間にはまことに優しい内容になっている。
そして、「裏庭の天文家」というフレーズが気に入った。

僕もブログによく星の話を書いている。といっても、今朝の夜明け前の空には明るい星があって・・。というような簡単なものだが、本当のところは、あそこには何という名前の星座があって、そこにはこんな神話が語り継がれていて、そのなかの一番明るい星の名前はなんとかで、そこからどちらのほうにどれだけ進むとこんな名前の星があって・・。というようなことを思いながら夜空を眺めたいのだが、そこのところは普通では考えられないほどの記憶力しか持たない僕は全天の星座の名前など覚えることがはなからできないのだ。
ただ、こういった本を読むと、その時だけ知ったふうを装えるので星の話を読むことだけは好きなのである。
夜明け前の空というのはおそらく季節をふた月くらい先取りしている。素人でもわかるオリオン座は冬の星座だが、9月の半ばには見え始める。目立つ三つ星から南の方にはスバルが見えて、さらに南に行くとアンドロメダ星雲を見ることができるそうだ。
今年はそれくらいから改めて初めてみようと思うのだ。

この本に書かれているもうひとつの大きな柱は、趣味についてである。星を見る世界も奥深い。アマチュアといえども天文学上大きな発見につながる実績を残す人たちもいる。そのためには凝った装備が必要だ。望遠鏡の口径もそうだが、読んでもわからない様々な装備が必要になる。というか、欲しくなる。あとは経済的にどこまで許されるかという部分だけだ。
こういったところは魚釣りの世界も同じことで、どれだけお金をかけられるかである程度の釣果が得られるかということが決まってくる。しかし、それだけではなく、運が左右する部分もかなり大きい。お金を腕や知識でカバーできる場合もある。
新しい星を見つけるのも運次第ということがあるのだろうからそこがアマチュアの趣味の面白いところである。
そしてその究極のひとつが、裏庭の天文家にとっては観測所であり、釣り人であれば自分の船を持つことなのかもしれない。
お金のある人はドーム型で雨漏りのしない観測所を建設するし、運転席が複数あるような高速クルーザーを買う。僕の船などは古いし遅いしショボいしその世界で言えば下の下と言わざるを得ないけれども、まだ持つことができるだけ幸せといえば幸せなのかもしれない。
それを著者は「愛」であるというのだが、僕みたいに何に対しても奥深くまで追及できないタイプの人間はふつうならどれだけ釣りが好きでも船を買おうという発想すらおこらなかったであろう。そこまでの「愛」を表現しようにもできないのである。
もちろん、オカネの部分でも当然考えられない。たまたま、祖父の代から船があったということだけが「愛」の代替物であった。それだけで楽しい思いを今もさせてもらっている。もちろん、悔しい思いをすることの方が多いのであるが・・。そういう意味では本当に幸運だったのだと思う。
もし、魚釣りが僕のそばになかったとしたら、僕は一体どんな人生を生きていくことになったのだろうかと想像するだけで身の毛がよだってしまうのだ。仕事に打ち込むこともできず、何の楽しみもなく朽ち果ていったに違いない。
だから、窓際にスッキリ納まってしまったことをいいことに、会社は給料をいただくところと割り切ってひたすら魚釣りのことだけを考えて残りのサラリーマン人生を過ごそうと考えているのである。
これも「愛」である・・。
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住金沖~水軒沖釣行

2022年07月24日 | 2022釣り
場所:住金沖~水軒沖
条件:若潮 9:43干潮
釣果:ヤナギ 2匹

今日、菊新丸さんに会って、釣った魚を見てもらったら、サゴシから少し成長した魚は「ヤナギ」というのですよと教えてもらった。なので、今日の釣果はヤナギという名前でブログをアップする。
これは関西での呼び名だそうだが、『サワラは成長に応じて呼名が変わる出世魚の一つで,関西では50cmくらいまでの若魚をサゴシ,70cmくらいまでをヤナギ,70cmを超すとサワラと呼ばれる。』のだそうだ。

日本近海では約4000種類の魚が生息しているといわれ、そのうち食べることができる魚(これはきちんと身を取ることができる大きさであるかどうかということも含めてであるのだろうが)は約400種類くらいあるのではないかと言われている。そのうち、小売店で販売するために普通に流通している魚というと30~40種類に減ってしまうそうだ。
おそらくそのうち、出世魚とまでいかなくても子供の時と成魚になってから名前の変わる魚というのは半分以上を占めるのではないだろうか。ハマチは出世魚だし、鯛やチヌも名前が変わる。ボラはまず売っているところはないであろうがやはり出世魚だ。イワシも極小さい時はシラスやちりめんじゃこだ。まあ、これはかなりこじつけか・・。
変わらないのはサバとアジくらいではないだろうか。日本人はそれだけ魚に愛情をもち、大切に扱ってきたという証拠だろう。地方によってそれぞれ名前が変わる魚もあるが、それも、人々の生活のごく近しいところに魚が存在していたということを物語っているのだと思う。きっと。

そして、前回の釣果に気をよくしたものだから、今日は本格的にそのヤナギを狙おうと再び住金沖の海域を目指した。そして、それだけでは早く終わってしまうのでアマダイの残り火が残っているかどうかも調査しようと2本立ての作戦を立ててみたのである。


できるだけ早く現地に到着したいと午前4時過ぎに出港。



一路住金沖を目指す。今日は小船での出船だが、海は穏やかだ。前回ヤナギが釣れた場所あたりから仕掛けを流し始めるがアタリはない。



ヤナギだけに、2匹目はいないのだろうか・・。
別荘地の護岸がある手前辺りがこの船での行動限界だと考えているのでそこでUターン。住金一文字の先端に向けて針路を変えてしばらく流しているとアタリが出た。最初の引きは前回よりも小さい感じだ。ゆっくり仕掛けを手繰ってゆくとまあまあの型のヤナギが姿を現した。相変わらず人の姿を見ると突然暴れはじめるので何度かのタモ入れ失敗後にやっとデッキの上に引き上げることができた。小船では2本つなぎの柄のタモを使うのだが、サッと伸ばしただけだとタモがクルクル回る。これもいけないのだ。何か改善が必要だ。

元来た道を引き返し、同じ海域を流しているとまたアタリがあった。今度も同じようなサイズだ。またまたタモ入れに手間取りながらもなんとか取り込むことに成功。しかし、タモに入ってすぐにハリスが切れてしまった。間一髪だった。ほんのわずか歯に触れるだけでこの始末だからやっかいだ。12号でもなんでも関係がない。そして、その後も仕掛けはズタズタになってゆくのである。

2本獲れれば1匹は叔父さんの家に持っていける。そろそろアマダイポイントに移動しようと仕掛けを流しつつ目的地に移動を開始。途中、住金一文字の南を通過しているときに水面を騒がせている魚がいる。これはきっとヤナギだろうと待ち構えているとアタリが出た。
しかしこれはすぐにすっぽ抜け。念のため仕掛けを回収してみると一番先っちょのハリスがボロボロになっている。その部分だけを切り取って結び直し仕掛けを流し始めるとまたアタリ。今度も同じサイズだ。魚は水面まで上がってきたが、タモ入れ前に反転し、その勢いでハリスを切られてしまった。目の前で魚を逃すというのは人をとんでもなく落ち込ませる。アタリが少ない釣りをしているときはなおさらだ。
残った2本の鉤で釣りを続けるがその後はアタリもなく終了。
仕掛けを回収してみると、残った2本の鉤のうち1本が無くなっていた。気が付かなかったが、魚が喰ってきていたようだ。まだまだ釣れるチャンスはあるのかもしれないが、仕掛けの予備も持っていないし、アマダイにも行かねばならないのでヤナギ釣りはここで終了。水軒沖へ移動。

今日のアマダイの仕掛けには少し工夫をしている。同じ港のおじさんから、食いが悪い時は仕掛けを長くするとよいという話を聞いていたので、1メートル延長できるように予備のハリスを持ってきた。釣れたとしてもおそらく2,3匹だろうと考えていたので、その、食いが悪い時に当たっているはずだと最初から仕掛けを伸ばして釣りを開始。

大概は潮が流れずに苦戦するのだが、今日は逆に潮が流れすぎる。手持ちの竿も置き竿も底を取ってもすぐに仕掛けが浮き上がってしまう。
これではまったく釣りにならない。何かいい方法はないものかと思案していると、デッキの上にほったらかしにしていたロープがあった。船の装備品の中に、シーアンカーというものがあって、これは潮の流れが速いところで船の流れ方をセーブさせる、海中に沈めるパラシュートのようなものだ。ひょっとして、小船くらいの大きさなら、このロープを垂らすだけでもブレーキになるのではないかと考えた。抵抗としての効果を出すためにコンクリートブロックを結び付けて海中に放り込むとこれがなかなかの効果である。これこそひらめきというものだ。これはコウイカ釣りにも使えそうだ。



そんなことでほくそ笑むもアタリはまったくない。そして、長くした仕掛けはすぐに道糸に絡んだりお互いの仕掛けに絡んだりして釣りにくい。やっとアタリがあったと思ったら小さなカレイだ。



放流しても死んでしまうし、アオイソメ代の投資500円がゼロになるというのも悔しいのでかわいそうだがクーラーボックスに入ってもらった。やはりアマダイは釣りつくされたか、それとも縦横無尽に動き回っている漁船がよくないのだろうか。



菊新丸さんの話では底引きではなくてタチウオを獲っているのだということだが、どちらにしても魚に対しては良い影響を与えないはずだ。

釣れないときによくあることだが、どうしてだか釣れない船同士が集まる傾向がある。今日も、僕が1艘だけで浮かんでいると、それに目を付けたか、別の船がやってきた。それを見て、あそこは釣れているのかもしれないと思うのだろう、別の船がこっちに近づいてくる。



だからこんなときは絶対に釣れないのだ。そう思うと完全にやる気がなくなり、午前9時に終了。
こんなことなら、紀ノ川にキスを釣りに行けばよかったと後悔してもあとの祭りなのである・・。


僕が、アマダイが釣れないと業を煮やしている頃、加太の海では遊漁船の転覆事故があったらしい。

事故現場は友ヶ島の沖ノ島と地ノ島の間にあるナカトという場所だ。ニュースの記事によると、原因は海水の浸水によるものだったそうだ。
ここは潮流が速い時は海面が盛り上がるほどの強い流れになる。画像を見ると転覆した船は船外機船で、しかもVハルではなく底が平らのように見えるので喫水から上はそれほどの高さがない船のように思える。そんな船があの潮流の中に突っ込んでいけば確かにデッキに海水が流れ込んでくる可能性はある。しかし、もうひとつ考えられることがあって、この時間にあの場所で魚を釣ってたりしたら、意地悪な帝国軍に真横を走られ、その波をかぶってしまったということも考えられるのではないだろうか。どこからともなく流れてくる噂を待ちたいと思う。

無謀といえば無謀だ。おまけにこの船は遊漁船らしいのだが、もっと注意を払うべきであったはずだ。僕もたまには通過する場所であるが、ぼくの船くらいの大きさでも恐怖を感じることがあるくらいだ。知床沖の事故以来監視の目は強くなったということだが、これでまた監視の目が一掃強くなるのだろう。
今日は日曜日。たくさんの船がこの事故を目撃し、写真や動画がSNSにアップされていた。

  

乗っていた人たちは全員命に別条はなかったということなので不幸中の幸いではある。

自分のことをふりかえってみると、人のことは言ってはいられない。今日も万全の態勢とはいい難いような形での出港であった。
ひとつ目は、エンジンを始動させようとしたら、セルモーターの調子がよくないのか、モーターが回らない。バッテリーが上がっているのか、モーターとギアの接合がうまくいっていないのか、キルスイッチが効いてしまっているのかまったくわからなかった。何度かスタートボタンを押すとなんとか始動してくれたが、今日の釣りは停止と始動を繰り返す釣りだ。おまけにアイドリング状態が不機嫌だから止まらなくてもいいところでもしょっちゅう止まってしまう。海の上でエンジンが始動しなければ漂流するしかない。念のため、港で一度エンジンを切って再始動させてみたらすぐに始動したし、今日は渡船屋が営業しているので最悪の時は助けに来てもらえるだろうと他力本願で出港した。
ふたつ目はその連絡手段だ。出港した時点でスマホのバッテリー残量が20%を切ってしまっていた。夕べの段階でかなり少なくなっているのは知っていたが、釣りをしている間は大丈夫だろうと思っていたら、カメラを忘れてきたのでスマホで写真を撮ったりラインをやったりしているとみるみる残量は減ってゆき港に戻った時には8%にまで減っていた。これではエンジンが止まっても助けを呼べないではないかと自分のアホさ加減にあきれてしまったのである。
三つ目は飲料水だ。家からペットボトルのお茶を1本余分に持って行こうと思って忘れてしまい、まあ、なんとかなるだろうといつものスーパーでも1本しか買わなかったのだが、この猛暑のなか、500mlだけの飲料ではまことに不安だ。それこそ漂流となったら目も当てられない。食料や飲料や燃料には余裕をもっておけというのが船を出すときの鉄則なのだが、そんなこともお構いなしというのはいつかはえらい目にあるのかもしれない。
今日の事故を受けて少しは気を引き締めねばと思うばかりなのである。


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加太沖釣行

2022年07月21日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:小潮6:29干潮
潮流:3:21転流 6:23下り2.0ノット最強 9:48転流
釣果:マアジ7匹、サバ1匹、サゴシ1匹

再びコロナウイルスが猛威を振るっている。今日の感染者は大阪府で2万人を超え、和歌山でも1000人の大台を軽く突破してしまった。すごい勢いだ。



これは少し前の画像だが、僕が利用する大阪市内の駅の構内はこんな感じだ。去年、一昨年の緊急事態宣言の時は車両の中には僕ひとりという時があったということから比べると雲泥の差と言えるのだが、そうなってくると今回の感染爆発はブレーキが壊れた暴走列車に乗っているようなものだと言える。いくらでも感染者は増えていくだろうとしか考えられない。
治療薬がないというので不安は解消されないのだろうが、テレビで誰かが言っていたとおり、医療体制だけしっかりさせてあとは放っておけばいいのではないかと思う。岸田首相も、わがままな国民を前にあきらめたか、「経済だ 持つまで我慢 免疫を」という、集団免疫を待つ作戦なのだろう。
僕はどうでもよいのだが、とにかく家にだけは持って帰らないようにしなければと思っているものの、これだけは運を天に任せるしかない。しかし、今日の釣りはもう少し確率は高かった。

昨日の午前中、さて、明日はどこに行こうかと迷っていた。使う船は大きい方なので、遠方を目指し、加太か初島というのが1番目の候補なのだが、過去2回の釣行で両方ともボウズで終わっている。遠くまで行っても釣れるという自信もなく、それなら住金一文字の沖で飲ませサビキをやってみてからまだ釣れるのではないかと思われるアマダイを狙ってみるというのが最もボウズから遠いプランではないかと考えていた。

そんなことを考えていると、菊新丸さんから、「今日は大和堆ポイントに来ています?」というメールが送られてきた。「いや~、今は面白くもない勤務をしています。」と返信すると、「よく似た船が浮かんでいたんですよ~。」とのことだった。釣れていますかと聞いてみると、大きなアジが釣れていますよとのこと。ここ数日の加太の様子はよくないとは聞いていたのだが、アジが釣れ始めたらしい。それもまだ釣れ始めたばかりらしく、今日はその僕と間違えられた船と菊新丸さんだけであったという。

これは行かねばと予定を変更し、住金から加太へ向かうルートを選択した。アジは潮はともかく、早朝がよいと思い、イワシ飲ませをせずに禁断の仕掛けを流しながら加太に向かうことにした。

できるだけ早く住金沖に到着しておきたかったので今日も暗い時間に出港。



住金一文字を通り過ぎ、仕掛けを投入。流し始めて5分くらいでヒット。



これは大きいかもしれない。今年からラインは12号にしているので少々魚が大きくても切れることはないだろうと船の速度が消えるまで耐え続ける。魚と直角になるように船を回転させ舳先に移動。最初の引きは強かったがそのうち弱くなってくる。これは多分サゴシだ。思いは禁断の魚だったのだが、この魚も美味しい魚だ。こいつの特徴は、途中から諦めたかのように見せかけておいて人間の姿を見た途端にまた暴れはじめる。歯が鋭い魚だからそこで糸を切られてしまう。12号でもひとたまりもないのだ。
慎重にというのでもなく、切られる前に早くタモ入れだと強引に取り込む。あと一息でサワラと言えるくらいの立派なサゴシだ。
引き返して同じ場所を流せばまたヒットする可能性があるのかもしれないが、目的地があるので後ろを振り向かず前進する。しかし、魚がいる海域は狭いようでその後はアタリもないので仕掛けを回収し、田倉崎の手前から大和堆ポイントを目指す。

大和堆ポイントにはすでに4隻の船が集結していた。昨日は2隻だったということなので情報はどこからともなく漏れ出たのだろう。もちろん、僕も漏れ出た情報のおかげでここにいるのだが・・。

時刻はまだ午前5時半、下りの潮が最強を迎える手前だ。そしてそのとおり、35号の錘でも仕掛けが立たない。これは潮が緩むのを待たねばダメだなと思うと、もう少し住金の沖にいればよかったと後悔してもあとの祭りだ。
魚探の反応もアタリもなく、しばらくして合流した菊新丸さんに状況を聞いてもダメらしい。



同じ場所にいても埒が明かないと、もうひとつ船団ができている、南海電鉄の車両が沈められているという場所に移動。そこでもアタリがなかったが、ちょうど潮流の最強時刻を迎えた頃、竿を引ったくるようなアタリが出た。道糸はどんどん出ていくが止めることができずという状態だったのだが、すぐに鉤が外れてしまった。あれは一体何だったのだろう。どちらにしても3.5号のハリスでは獲れそうにもないサイズだったのだと思う。
それを合図にアタリが出始めたはいいのだが、ことごとくバレてしまう。おそらく口切れなのだろうから間違いなくアジがいる。鉤が曲がってしまう場面も・・。



食いがよくないのか、鉤がわるいのか・・。やっと釣り上げたと思ったらそれほど大きくないサイズだ。大きいやつほど口切れしまうというのがもどかしい。アタリの数はおそらく釣った魚の倍以上の数があったのではないだろうか。
幸いにしてアタリは続く。しかしこれも、漁礁に限りなく接近しないとアタリがない。みんなそうなので必然的に密集してくる。みんな悪気はないのだろうが、もう、衝突寸前だ。この画像も、スパンカーのブームが衝突寸前になり慌てて移動した直後に撮ったものだ。それでもこの近くなのである。



周りに気を遣いながら、なんとか叔父さんの家に持っていける数も確保できたので午前8時45分に終了。

今日は終始北風が吹き、太陽は雲にさえぎられていて暑さを感じなかった。まったく猛暑とは無縁の朝であった。



真夏に釣れるマアジはどれも脂が乗っているが、今日のアジも驚くほどの脂だった。腹腔内も凄い脂だ。これは身の中にため込み切れなかったものがあふれ出てきたものなのだろうが、身は触るだけで指がべっとりするほどだ。不味くないわけがない。
定番の刺身やなめろうにするだけではなく、ピリ辛風味のカルパッチョを作ってみた。使ったドレッシングは昨夜、ナスを焼いたものにぶっかけられていた奥さん考案のドレッシングにヒントを得た。これに酸味を加えるときっと美味しいカルパッチョのドレッシングになるのではないかと、レモン汁とバルサミコ酢と穀物酢を追加して作ってもらった。
ちょっと甘みが強くなりすぎたけれども、なかなかの味であった。



4回ボウズのあとは2回連続で獲物があった。この調子で釣り続けたいものだ。
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「レヴィ=ストロース 構造 (講談社学術文庫)」読了

2022年07月20日 | 2022読書
渡辺公三 「レヴィ=ストロース 構造 (講談社学術文庫)」読了

レヴィ=ストロースという人については名前だけは知っていた。アマゾン(ネットショップではない方の)という単語で検索するとこの人の著作である「悲しき熱帯」という本がヒットする。僕はアマゾンの釣りであったり生態であったりを目当てに検索をしているのであまり興味がなかったが、この人が書いた、「野生の思考」という本がほんの少しだけ話題になっていた。
「シン・ウルトラマン」という映画の中に、変身する前の主人公がこの本を読んでいるシーンがあるというのだ。この映画は庵野秀明がプロデュースをしたというので話題になったが、「エヴァンゲリオン」はかなり哲学的な内容だと勘違いをしている僕は、きっと「シン・ウルトラマン」にも何か哲学的なテーゼが埋め込まれており、「野生の思考」という本にも何かメッセージが込められているのではないかと一度読んでみたいと思った。しかし、いったいどんなことが書かれているのかがわからなくて、おそらく相当難解な本なのだろうから、その前にレヴィ=ストロースとはどんな人であったかとか、どんな思想を持っていた人かということを知った方がいいのではないかと思って調べているとこの本を見つけた。

この本を読み始める前にウイキペディアでレヴィ=ストロースという人を調べてみると、フランスの社会人類学者であり、「構造主義」という考えを唱えた人であるということがわかった。構造主義というと、哲学の中にも出てくる考えなのでこれは哲学を知ることのひとつにもなるかもしれないと早速読み始めたわけである。

レヴィ=ストロース南北アメリカの先住民族の社会構造を研究する中で、どの部族にも共通する普遍的な構造があるということを発見した。これは婚姻、親族、家族のありかたなどについての構造であるが、そこから、「人間社会は基本となる構造に支配されており、人が人の中で生きてゆく上では構造から抜け出すことはできない。」ということを見出した。これが構造主義と呼ばれるものである。

近代哲学の流れでは、実存主義→構造主義・ポスト構造主義→脱構築と変化してゆく。
それぞれを簡単に説明しておくと、
実存主義はサルトルが提唱した考え方であるが、「実存」の反対語である「本質」とは何かから始まる。本質とは、自分が「~である」ということを意味する。つまり、「男性である」とか「女性である」、「黒人である」、「ユダヤ人である」、「労働者である」、「学生である」というように、自分が社会のなかでどのように「見られているか」ということを表わす。
そのような本質は、「~である。」ということを社会から押し付けられ、自分たちから自由を奪おうとするものであると考えた。このような「本質」に対抗して、「何者でもないこの私」として提示されたのが「実存」なのである。自分自身の「自由」を直視することで、本質という役割からはみ出して生きること。これが実存主義なのである。
文学との関係で表すと、サルトルの実存主義では他人からどのように見られているかに、かなり重要なポイントがある。つまり、他人から見られた自分と、自分から見た自分のズレをとおして、新しい自分を作り出していくのである。代表的な作家としては、サルトルのほかに、カミュ、カフカ、安部公房、大江健三郎、開高健らがいる。確かに師は、1968年のパリの5月革命の際にサルトルと期待を持って会見しているので同じ志向を持っていたのだろうと思う。
この、5月革命の理論的支柱となったのは、実存主義とマルクス主義であるが、それに失敗し、挫折した人々が向かったのが構造主義とポスト構造主義であった。
現在の社会システムがあるのは、「構造」のためであるので、仕方がないと人々は考えたのである。
「脱構築」で有名な哲学者はジャック・デリタである。
それは、構造主義の言う「構造」を内部から破壊するための方法のことである。例えば、男性/女性という二項対立があり、男性のほうが社会の中で強い位置にあったとする。この二項対立を脱構築するためには、「男性」という概念そのものが「女性」なしでは成り立たないことを指摘すればよい。
あるシステムにおいて、排除されたり、抑圧されたりするものがあったとしても、その抑圧されるものなくしては、システムが成り立たないことを示すことで、システムを内部から自壊に追い込むという考えが脱構築なのである。
しかし、システムを破壊することが脱構築ではなく、それは、システムによって否定されたものを「肯定」する思想なのである。社会の中で抑圧されたものを肯定することで、あり得るかもしれない「もう一つの可能性」を提示すること、これが脱構築である。
それは、男性中心主義的な社会が抑圧した、男女平等の可能性を提示することでもあったのだ。

ここまでと庵野秀明の作品群とを比べてみると、実存主義というものはまさしく、「エヴァンゲリオン」の世界観と一致するように思える。「シン・ウルトラマン」に「野生の思考」という本を登場させたのは、おそらく実存主義(エヴァンゲリオン)の次にくる思想として近代哲学史をなぞっているのではないかと思えてくるのである。映画を観ていないので本当にそうなのかどうかはわからないが・・。宇宙の中でも人間の持っている欲望や葛藤は普遍のものであるとでも表現しているのだろうか。テレビで放送するのを待つしかない。
そこまで書いていると、じゃあ、「シン・ゴジラ」と「シン・仮面ライダー」はどんな位置付けなのだと問われそうだが、そこまではわからない。
「脱構築」などはおそらく世界中で作られているドラマや映画のプロットの根幹といってもよい考え方だと思うが、現代のジェンダー問題が解決してしまうと、世界中からドラマと映画が消えてしまうのではないかと思えてくる。

そんなことを予備知識としてこの本を読み始めた。

これだけ前置きをたくさん書いてきたというのは、本文を読んでみてもその内容がまったくわからなかったからなのである。
確かに、レヴィ=ストロースの膨大な著作をたかだか350ページほどのページで解説できるわけもなく、それをこれ1冊で知ったかぶりをしてやろうと思う方も厚かましいのである。
ということで、この本はレヴィ=ストロースの思想を理解するためのほんのアウトラインに過ぎないのである。

レヴィ=ストロースの主要な著作には、「親族の基本構造」「悲しき熱帯」「構造人類学」「野生の思考」「やきもち焼の土器づくり」「神話論理」というものがある。
この一連の著作を通して、レヴィ=ストロースは、人間の本質、もしくは人間が構成して作り上げている社会構造には、地球上どこに行っても共通の構造があるのではないかということを考えた。そして、構造主義を理解するためには「野生の思考」だけを読んでいても無理だと著者の渡辺公三は言う。

レヴィ=ストロースは、この研究を南北アメリカの原住民の社会構造の観察を通しておこなったのであるが、文明を手に入れ、一見、自然の世界と切り離されてしまった社会構造を作り上げてきたかに見える西洋社会ではあるが、自然を頼りに、自然と共に生きてきた時代の構造をきちんと残しているのだと結論づけるのである。効率を追求する近代の科学的な「飼いならされた思考」に対比して「野生の思考」と名付けたのだ。
その代表例としてトーテミズムを上げており、社会の基本構造である「親族関係」の大元としている。
この社会構造は、交換の体系でもあり、これは婚姻(お嫁さんとして女性を交換する)という行為も含めてであるが、こういった人間における他社とのコミュニケーションから生じる帰結としての社会構造を、人間が自然種、いいかえれば、自然の生命形態の多様性を手段として作り上げる思考の体系であり、トーテミズムという自然界の体系の中に置き直すというのが「野生の思考」なのである。たしかに、ものをもらったりひとにあげたりするという行為は人間関係のいちばんの取っ掛かりであるというのは理解ができる。

「野生の思考」の後、レヴィ=ストロースは南北アメリカの先住民族に伝わる神話の研究と分類によりさらに人間の社会に連綿と受け継がれている構造を見出そうとした。

・・・の、であるが、結局、その構造というものがさっぱりわからなかったのである。『構造とは要素と要素間の関係からなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて普遍の特性を維持する』ものとされているらしいが、この文章からして意味がわからないのである。なんとなく考えるのは、人は自然の摂理からは逃れられることができないのだから自然と共に生きなさいと言われているのかなということだが、それではあまりにも結論がベタすぎるのではないかと思うので、その真相はもっと深いところにあるのではないかとは思っている。

また、レヴィ=ストロースは実存主義のサルトルに対しては批判的な立場であったそうだ。自分は自分らしくという考えと、社会構造は太古から定められていて、ある意味、その運命からは逃れられないのだという考えは確かに相反するものだが、一方では、こうも言っている。『「野生の思考」といっているものは、「他者」を「わたしたちに」翻訳したりまたその逆をおこなうことができるようなあるコードを作りだすのに必要な前提や公理の体系であり・・・私の意図においては、彼らの位置に自分を置こうとする私と、私によって私の位置に置かれた彼らとの出会いの場であり、理解しようとする努力の結果なのです。』
共通の尺度を持つことで互いを認識し合うことができるのだということを言っているのだと思うが、これはまったく、「本質」という普遍の方向から「実存」という個性を見るという、サルトルとは限りなく同じ考えかたを示しているのではないかと思うのだ。「本質」を”対極”として置くのか、「本質」を“起点”として置くのか、その違いだけのように思える。決して個を没入させてしまうものではなく、構造の中に個を見出すことができるのだと言っているのだと思う。やはり個は尊重されるべきなのだとレヴィ=ストロースも考えていたのだと思いたい。

「シン・ウルトラマン」を観ることでそこのところが解明できるのだろうか・・。


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紀ノ川河口釣行

2022年07月17日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮 8:15満潮
釣果:キス 57匹 メゴチ1匹 キビレ1匹

7月半ばを過ぎ、気が付けば今年はキス釣りに一度も行っていない。例年は6月後半ぐらいからスタートしているがアマダイを釣りにばかり行っていたのでこんなことになってしまった。

梅雨は明けているというが、今週は雨の季節に逆戻りしたような天気だ。今日は雨の合間の晴れで、かつ、前日、六十谷の鉄橋から川面を見てみると濁りは見えない。
この後も雨が続くようなのでイチかバチかでキス釣りに出かけてみようと思い立った。

BSテレ東で、「ちょい釣りダンディ」というドラマを放送している。魚釣りに詳しい人種から見ると魚を釣っているシーンというのはまことにリアリティがないのだけれども、30分という短い放送時間というのでつい見てしまう。
昨夜、2話目の放送を録画で観ていたのだが、偶然ながらキスについてだった。
ドラマのテーマとなっているのは「鱚断ち」という習慣だった。キスという魚は、古くから神様にお供えする神聖な魚とされてきたらしく、何か願掛けをするときには「鱚断ち」というのをしたのだそうだ。ちなみにキスの語源は、「潔し(きよし)」という言葉からという説があると紹介されていた。
全国的な習慣でもないのだろうが、なかなか興味深いエピソードだ。しかし、キスというのはスーパーでもあまり見かけない魚になってしまっているし、意外と値段も高いのでわざわざ買ってまで食べようと思う一般庶民はほとんどいないと考えられるから、現代日本のほとんどの人は自動的に通年「鱚断ち」をしている状態になっているのだと思う。しかし、願い事が叶うどころか、ますます生活は苦しくなるばかりということは、「鱚断ち」も大した効果はないようだ。
せめて今日、僕も鱚断ちしてしまわないよう、3人分のおかずになる分だけは釣りたいと思い港に向かった。

朝、バイクを出すために外に出ると、道が濡れている。おまけに、バイクの横に置いている燻製箱の上も濡れている。僕の家の勝手口周りは建付けが悪く、大雨が降るとトタン板のすき間から雨が漏れてくる。と、いうことは昨夜、僕が寝たあと相当な雨が降ったことになる。雨降りに弱いキスにとっては致命傷だ。しかも、今日向かうポイントは水深3メートルほどしかないところなので特に雨には弱いはずだ。
これはまずいと思い、念のためアマダイの仕掛けも用意して港に向かった。
明るくなるまでは水軒一文字の沖でメタルジグを投げてみて明るくなってから海の様子を確認して紀ノ川に向かうかそのまま沖に向かうか判断をしようと思っている。

港に到着して見ると、薄暗い街灯の灯りだけでも水が濁っているのがわかる。



あらまあ、これじゃあ紀ノ川もダメかもしれないと半分落胆。鱚断ちが信ぴょう性を帯びてきた。

とりあえず港を出てみると、濁っているのは川の部分だけで港内の途中からは濁りは確認できなかった。これはありがたいと水軒一文字の切れ目に向かう。
ここまで来るとまったくと言っていいほど濁りはない。ルアーロッドを準備してキャストを開始。ボイルもなく、アタリもないので明るくなるのを待って紀ノ川へ。
こっちも濁りはない。これはありがたい。100円橋を越えたところに碇を降ろし釣りを開始。



最初にアタリがあったのはキビレだった。こういうのが釣れるとキスは釣れない。次もチャリコだ。これも悪い兆候だ。ああ、やっぱり目に見えない濁りと真水が影響しているのかとますます鱚断ちが確実になってきた。
しかし、ここで諦めるわけにはいかない。仕掛けを投げる方向を変えてみたりしているとやっとアタリがあった。
どうも河原寄りではなく流心寄りがいいようだ。
釣り座の向きを変え、竿を2本とも流心へ向けると少しずつだがアタリが増えてきた。もう少し流心に近づこうと船の位置を変えるともっとアタリが出るようになった。鉤に乗るかどうかは別にして、仕掛けを投げるたびに必ずアタリがある。

エサが底を尽くまでアタリは出続け、午前9時前に終了。結果はキスが57匹。久々に50匹を超える釣果となった。

ここは川の中なので水は上流から下流へ流れるのは当たり前だ。舳先から碇のロープを出すと船は常に上流を向いている。今日の潮時からすると、ちょうど満潮時刻を迎えた頃、船の向きが変わり、水の流れているはずの方向と直角の状態になった。下流の方から海水が上ってきたのか、西からの風が吹いてきたからなのかはわからないが、その時突然、釣れてくるキスのサイズが明らかに大きくなった。15センチはありそうなものもあった。ほんの数分で終わってしまったが・・。
ここにはもとから大きいサイズのキスはいないと思っていたのだが、そうでもなさそうだ。風といっても、流れに逆らって船の向きを変えるほどの強さの風でもなかったのでやはり水の流れ方も変わったと見る方がよさそうだ。大きなサイズの魚は水の流れが強い時は動くと流されてしまうからエサを探さずに川底でじっとしていて流れが緩くなったときだけエサを探すのだろうか。でも、そんなことをしていたらエサを食べられる機会が少なくて魚自体は成長できないから大きな魚はいないのではないかというジレンマが発生しそうだ。
これは不思議な現象だ。もう少しこの場所での経験を積んでこの現象の解明をしてみたいと思う。

キスは天ぷらにかぎるのですべて背開きにするのだが、小さい魚体と数がたくさんとなるとかなり骨が折れる。老眼の目には辛い作業なのだ。三分の一ほどは叔父さんの家に持っていき残り40匹を捌き終わるのに1時間以上を要した。しかし、天ぷらを食べるためには絶対に必要な作業なのである。



叔父さんの家に持って行ったキスは、ナスとオクラとシシトウという天ぷらには欠かせない野菜と交換になった。サツマイモはもう少し先になる。ついでにトマト各種とスイカも持たせてくれた。



長く釣果がなくて叔父さんの家を訪ねていなかったものだから、僕が感染したかもしれないと心配してくれていたそうだ。僕はコロナよりも恐ろしい「ツレナイ症候群」に陥っていたことには間違いはないのだが・・。

今日は日曜日の釣行になったので、複数の人にその姿を目撃されていた。今日は珍しく悪いことはしていないのだが、悪いことはできないなと改めて思ったのである・・。

 


「鱚断ち」という言葉を調べている途中で、「釣舟清次」という厄除け札というものを知った。
この話にはキスが関係していて、こんな話である。
清次という名前の漁師があるとき、100匹以上のキスを釣ったそうだ。買い取りをしてくれる先に持っていく途中、身の丈6尺はあろうかという大男に出会った。その大男が、「見事な鱚だ、1匹くれないか。」というので差し出したところ、「お前は正直でいいやつだ。じつは俺、疫病神で、お前の家の前に「釣舟清次」と書いた札を出しておけばその家には行かないようにしてやる。」というのである。
家人や近所の人にそんな話をしていると、「自分の家内が疫病に罹っているので名前を書いてほしい。」というひとがいたので、自分は文字が書けないので他の人に書いてもらった文字をまねて書いた札を渡したところ、その人の疫病が治ってしまったという。
というのが大雑把なあらすじで、江戸時代の文人、大田南畝の随筆『半日閑話』に掲載されているそうだ。

アマビエもいいけれども、「釣舟清次」というお札も効果があるのかもしれないなと第7波を迎えて思うのである・・。
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「マリアビートル」読了

2022年07月15日 | 2022読書
伊坂幸太郎 「マリアビートル」読了

この本は2010年に発刊された本なのでもう12年前のものということになる。なぜ今更こんな本を読もうと思ったのかというと、9月に、この本を原作として「ブレット・トレイン」というタイトルでハリウッド映画が上映されると知ったからだ。主演はブラッド・ピットだ。

さっそく借りようと図書館の蔵書を検索してみたら、書架ではなく、書庫に戻されている本にも関わらず貸し出し中になっていた。さすがに話題になる本は古くてもすぐに貸し出されてしまうらしい。ちなみに、僕の後にも予約を入れている人がいる。

借りてきた本は昔から相当な貸し出し回数があったようで、綴じの部分は歪んでいるし、ページによっては飲み物の汁が飛び散っているところもある。古本屋なら間違いなく100円均一のワゴンに放り込まれてしまうほど傷んでいる。当時からかなり人気がある小説だったのだろう。



ストーリーはというと、東北新幹線「はやて」が舞台となり、その中に偶然というか、必然というか、裏稼業の人たちが一緒に乗り込んだことから物語は動き出す。東京から森岡まで、2時間半のストーリーだ。

登場人物はざっとこんな感じだ。
七尾・・運の悪い殺し屋。真莉亜の指示で、あるスーツケースを奪うために乗車
麻莉亜・・七尾の仕事の仲介者
木村・・元裏稼業。腕はあまりよくない。息子が王子に大怪我をさせられ意識不明となる。その復讐のために乗車
王子・・生意気な中学生。どんな人でも恐怖と猜疑心を使って操れると考えている。自尊心を傷つけられた犯罪組織の親玉に復讐すべく乗車。自分では手を下せないので木村の息子の命を人質に取り、木村を操って成し遂げようと考えている。
槿(あさがお)・・押し屋。交差点や駅のホームでターゲットの背中を押すことで殺してしまう稼業。
「いい知らせと悪い知らせ」が口癖の男・・仕事の仲介業者。元裏稼業。
峰岸・・犯罪組織の親玉
檸檬と蜜柑・・峰岸からの依頼で拉致された峰岸の息子を助け出し、準備した身代金と共に峰岸の元に送り届けるために乗車。
スズメバチ・・峰岸を狙っている殺し屋。毒針で人を殺す。
狼・・かつてスズメバチに恩義を感じていた人物を殺され、復讐のために乗車。

ここまで書いてしまうとなんだかストーリーが読めてしまう雰囲気もあるが許していただきたい。
もちろん、最後のどんでん返しはやっぱり書かないでおこうと思うが、こういった一癖も二癖もありそうな登場人物が峰岸とスーツケースを巡ってやり取りをする物語なのである。七尾の不運が物語をどんどんややこしくしてゆく。一体誰が生き残れるのかというのも読みどころである。
もう、絶対にこんな偶然は起こりえないと思いながらも、次の展開はどうなっていくのだろうかと先を読まずにはいられないのである。
タランティーノやブルース・ウィリスの映画のように、登場人物たちの会話と行動がパズルのピースのように組み合わされ、伏線もいたる所に貼り廻られていてそれが最後に一気に回収されるという、きっと、アメリカ人はこういうストーリーが大好きなのだろうなと思えるような感じだった。

伊坂幸太郎の作品は10年以上前に1冊だけ読んでいた。まったく内容は忘れてしまったが、同じようなスピードと偶然のような必然が折り重なったようなストーリーだったのだと思う。売れる本は違う。


こいうったエンターテインメント性の高い作品に何かメッセージが込められているとは思わないが、王子の言葉や考え方は人を食っているというか、逃げられない監禁被害者の心理をよく描写している。学習性無力感というらしいが、尼崎の監禁事件というのはこの本が発行された後で起こったのだと思うが、まったくその予言のような内容だった。
そして、大人たちを試すように、「どうして人を殺してはいけないのか。」という質問を浴びせかける。各裏稼業の人たちも自分なりの答えを出すのだが、取って付けたように登場する塾の講師がこんな答えをする。『殺人をしたら、国家が困るんだよ。例えば、自分は明日、誰かに殺されるかもしれない、となったら、人間は経済活動に従事できない。そもそも、所有権を保護しなくては経済は成り立たないんだ。そうだろう?自分で買ったものが自分の物と保護されないんだったら、誰もお金を使わない。そもそも、お金だって、自分の物とは言えなくなってしまう。そして、『命』は自分の所有しているもっとも重要な物だ。』
著者は、ドストエフスキーに対して何か答えを提示したかったのだろうか。
それはわからないが、こういった問答さえもストーリーのギミックとして使われているのだから本当に巧妙な組み立てになっている。

どんな映画ができ上がるのかものすごく楽しみである。
しかし、木村の父親役が真田広之というのはどうもピンとこない。柄本明やダンカンのほうがぴったりくるように思う。
物語の締めにはこの父親が大きく関わってくるのでこの人の演技も見どころである。

タイトルの由来であるが、主役級ではない槿がテントウムシを眺めながら思ったことからきている。
テントウムシは英語ではレディバグ、レディビートルと呼ばれている。この“レディ”というのはマリア様のことを指す。マリア様の七つの悲しみを背負って飛んでいくのでレディビートルというのである。
テントウムシはこれより上に行けない、というところまで行くと、覚悟を決めるためなのか、動きを止めて一呼吸を空けた後、赤い外殻をパカリと開き、伸ばした翅を羽ばたかせて飛んでいく。見ているものは、その黒い斑点ほどの小ささであるが、自分の悲しみをその虫が持ち去ってくれた、と思うことができる。そして、それを思うと、自分の仕事は正反対だと感じるのである。
主役と思われる七尾はそこから名付けられ、相棒の真莉亜と合わせてタイトルと同じになるのであろうが、テントウムシとこの小説のストーリーにはどんな関連がるのかというのは僕にはわからなかった。しかしこれも、もっと深いところの伏線であったりするのだろうか・・。


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住金沖~加太沖釣行

2022年07月12日 | 2022釣り
場所:住金沖~加太沖
条件:大潮 3:56満潮
釣果:ボウズ

昨日、今日と、連続の釣行だ。昨日は早く帰ってこなければならない日なのでボウズでも問題なかったのだが、今日は少し時間に余裕があるので本格的に魚を釣ってやろうと構えていたが、慣れない釣りをしたら坊主になるということを身をもって実感してしまった。

朝も天気が悪いというか、昨夜の天気予報で日本海の北の方に低気圧が来るので太平洋岸は南風が吹くという予報になっていて、確かにその通りであった。
強い風というのではないが、時折ブワっという感じで南の風が吹く。まるで風が脈動しているかのようで、特に南風というのは警戒しなければならない風だと思っているのでなんだか不安になってくる。

港に到着しても同じような状況で、これは船を出してはまずいのではないかという気持ちになる。予報では風は治まるとなっていたので、それを信じて少し様子を見てみることにした。

船の艫に座っていると静かだ。風の音しかしない。今日は渡船屋も定休日で港には僕だけだ。街灯の灯りが点っているだけで辺りは真っ暗だ。
徐々に周りが白んでくると、最初に一匹だけセミが鳴いた。それもなんだかぎこちなく、「ジャッ」というような声だ。それを合図に少しずつセミの数が増えてくる。ほぼ同時に、鳥のひと啼きが聞こえた。何という名前の鳥だか知らないが、これもぎこちなく「ギャッ」という声だ。生き物たちも朝は寝ぼけているのだろうか。
川の方では水面に大きな魚が飛び出して大きな音を立てた。これは間違いなくスズキだろう。それも相当大きい。こんな場所でも静かな時だとあんなに大きな魚が入ってくるというのは驚きだ。



普通に天気が良い日だとすぐにエンジンを始動させるのでこんな情景に出会うことはない。もとより渡船屋が営業していると光も強く、人も多い。生き物たちも息をひそめておくしか仕方がない。
そういった時間の流れを体験できたことで今日はなんだか得をした気がするのである。

午前5時を過ぎ、明るくなってくると心なしか風が弱くなってきたような気がした。
これで船を出す気になってきた。
エンジンを始動し、静寂を破る。
目的地は住金一文字のさらに沖だ。今日はサビキ飲ませをやろうと考えている。
臆病なのは僕だけで、すでに数隻の船がやってきている。



まずはベイトを探さねばならないが、どうも水の濁りが気になる。紀ノ川河口が濁っているというのはよくあることだが、その濁りがこの辺りまで広がっている。そしてその影響だろうか、魚探に反応はない。ようやく見つけても底の方に集まっていて色も薄い。



サビキを投入してもエサが付いてくれない。ようやくエサが食いついたのは30分後くらいだっただろうか。
慎重に仕掛けを降ろして待っているとアタリが出た。やった!!と思ったが引きが弱い。なんだか嫌な予感がしたが、案の定エソだった。
ここで粘るか、加太まで行ってみるかと悩んだが、加太ではサビキ飲ませがダメでも鬼アジが釣れるかもしれないと考え下り潮が始まる時間に合わせて移動。

日曜日にはナカトシタにベイトが集まっていたという話を聞いていたので、行ってみたが、加太では南風が強い。



それに船の数も少なく、太陽も出ていないので再び恐怖心が頭をもたげてくる。
本当はこのあと、コイヅキに行きたいと思っていたのだが、そこまで行く勇気がない。いつでも逃げられるように田倉崎の沖まで移動してサビキを落としてみる。



ここでも底の方に時折大きな反応があり、サビキにイワシが喰ってくる。それではサビキ飲ませをやってみようと仕掛けを交換するが、この仕掛けにはイワシが乗ってこない。
再びサビキに変更し、大物が食いついたら糸を切られるかもしれないが、イワシを喰わせてアタリを待つ。
しかし、喰ってくるのはイワシだけ。そのイワシを喰う大物はいないらしい。

これでは長居は無用と午前9時に退散。
結局今日も燃料を無駄遣いするのみに終わってしまった。

午後からは今日も病院へ。
昨日とは打って変わり、車を置きに行っている間に診察が終わっていた。家内と母親が見当たらないと思ってボ~っと待っていると、「終わったで。」と診察室から出てきた。



予約時間よりも15分も早く終わってしまった。厳密には、そのあとに次回の造影CTの説明を受けるのだが、口腔外科ではその説明は主治医がやってくれる。消化器外科の主治医は大学の助教授らしく、「俺は偉いんだからそんな説明はやらないよ。」というのかどうかは知らないが、その説明は看護師がやってくれる。それを待つのに約20分。
同じ病院なのに診療科によってこんなにもシステムが異なるというのはこれでいいのだろうかと思えてくる。これが命に絶対に関わることのない我が社では何の問題でもないのだろうが、病院では少なくともそういったことは統一されるべきではなかろうかと思う。
どういう方式が正しいかどうかはわからないが、行く先でシステムが異なると不安しか残らない。

今日も釣果がないのでまったく関係のない話で終わってしまった・・。

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