イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「美酒と黄昏」読了

2018年04月30日 | 2018読書
小玉武 「美酒と黄昏」読了

著者はサントリーの元宣伝部の社員で師の下で長年「洋酒天国」の編集をやっていた人であるが、その人がこういうタイトルと柳原良平のイラストを使った装丁の著書を出版したとなると俄然興味が湧いてくる。
当時の出版業界や作家と酒、バー、男の世界・・・、そして師とのかかわり。そんな話が書かれているのかと思っていたが、この本は28人の作家について、その作家を連想する俳句を挙げ、その人となりやエピソードを書いている。かつて面会をした作家についてはその作家の思い出などを加えている。作家と酒というテーマは話の中の傍流でしかなかった。
筆者は編集者でもあり、俳句にも造詣が深い人だそうだ。

だから、著者とタイトルだけを見て読み始めた僕にとっては、裏切られたと思うはずなのだが、それがそうは思わなかったのである。
俳句などというものにはまったく知識がなく、むしろもっと俳句やこの時代の作家について知っていればもっとこの本を深く楽しめたのにと思うとむしろ残念に思う。
発句、揚句、こういう言葉からしてわからない。読んでみると俳句の感じだけは若干の解説が加えられていることもあってなんとなくはわかる気もするのだが・・。

作家の名前に関しても、俳人はもとより名前を聞いたことがある作家は半分ほどという悲しさだ。編集の仕事をしていたというだけでさすがに交友関係が広い。また、師に関しての著作もあるくらいなのでこの本にも師との思い出やエピソードがたくさん出てくる。山口瞳との思い出も随所に出てくる。

昭和初期から戦後、高度成長時代に活躍した作家たちはその生き方が破天荒でもあり、知的でもあり、男前だ。やっぱり黄昏の酒場が似合うと思う。大人の男たちであったということだ。僕は外ではまずお酒を飲まないし、ましてやバーなんていうところには行ったことがない。この本を読んでいると、行ったことがないのではなく、行けるほどの大人ではないと実感してしまうのだ。


せめて、ヘッポコながら俳句をふたつ。

「行く春を 惜しめとパスタ 皿に盛る。」



「100均で マニュキアを買う 恥ずかしさ・・。」(これには季語が入ってないな~。)



追記:
この著書の中で紹介されているものだが、法然上人でさえ、昼酒を世の習いとしてお許しになされたそうだ。
確かに、昼間のお酒はその背徳感と退廃的な感じがなんとも言えないのだ・・・。



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加太沖釣行

2018年04月29日 | 2018釣り
場所:加太沖
条件:大潮 5:37満潮 11:54干潮
潮流:6:12 上り2.0ノット最強 9:26転流
釣果:ハマチ1匹 ガシラ1匹

ゴールデンウイークが始まって加太もたくさんの船が出ているかもしれなし、潮の回りもよくないが、天気は上々なのでとりあえず行ってみることにした。
少しでも上りの潮を釣りたいので午前4時に出港。田倉崎の沖を通過したのは午前5時5分であった。



余りにも船が多かったらどこかあまり人がいないところでひっそりやってみようと思っていたけれども予想に反して船が少ない。ゴールデンウイーク中の人々は家族サービスで忙しいものなのだろうか・・・。
「幸せな釣りに幸せな家庭はない。幸せな家庭に幸せな釣りはない。」夢枕獏の箴言だが、きっと正解に違いない。みんな、もっと頑張れ!



テッパンポイントががら空きだったので迷わずここへ入った。
クラゲが多く、感じでは上潮は滑っているが底潮は動いていない。最悪の状況だ。
しかし、潮が最強を迎えるころ、やっとアタリ。

ハマチが上がってきた。とりあえずボウズはなくなった。
その後、もう一度今度は真鯛らしきアタリがあったけれども残念ながら鉤に乗る前に離れてしまった。
潮が緩くなってくるのでその後は中の瀬戸を目指して北上。まったくアタリがないので結局沖ノ島を1周してしまった。



沖ノ島1週の終点は銅板ポイント。ここでなぜだかガシラが釣れた。高仕掛けでガシラを釣ったのは初めてだ。
転流時刻を迎えてコイヅキへ。すぐにアタリがあったのでこれはひょっとしてあと1匹釣れるかもと思っていた矢先、帝国軍が襲撃してきた。そして僕のすぐ後ろに回り込んで停泊。このままでは必ず激突する。今日は中の瀬戸でも襲撃を受けなかったのに、そしてこの海域には僕だけではなくたくさんの同盟軍が集結していたのにどうして僕のところに一直線でやってくるのだ。この場所がすごいポイントでもあるまい。きっと、何をしてやっても絶対に歯向かってこないチキンみたいな顔をしていると思われているのだろう。限りなく正解に近いけれども・・・。

魚が釣れず、こっちも虫の居所がわるかったので回り込んでカメラでロックオンしてやった。



それでもロックオンされたら潔くそこから退散することにしているので少し南へ後退。そこは水深があまりにも深く、まったく釣れる気がしない。
これを潮に午前11時に終了。

腹をたてて写真を撮るなど、我ながら大人気がないのもわかっている。だから今日はなんとも決まりの悪い1日になってしまった。
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山菜採り 3回目

2018年04月26日 | Weblog
今日はお昼前に恒例の整形外科に行かなければならない。
北風も強いので釣りにも行けそうにない。
気温は高くなるそうだが、山頂は霧が深く風が強い。

 

ドッペルゲンガーまで現れた・・。



去年はちょうど今頃が最初の生石山での山菜採りであった。毎年この頃のワラビはまだ小さいが今年はやはりかなり大きくなっている。朝露に濡れるワラビはきれいだ。



ワラビ以外は大きくなりすぎているだろうと思っていたけれども、ヤマウドも中には白いものもあり、コシアブラはてんぷらにはできないけれども開ききった葉っぱもパスタの具にすると美味しく食べられる。
ゼンマイやイタドリも食べられそうな芽を選びながら午前9時半までひたすら高原を彷徨い歩いた。

  

今日で今年の山菜採りは終わりかと考えていたけれども、もう少しはいけそうだ。

家に帰って病院へ。
しかし、5時間近くも高原を彷徨い歩いて中腰になって山菜採りができるのに腰痛ですから診てくださいとお願いするのはどういうものかと自分でも思ってしまう。先生にばれたら、「俺をバカにしているのか!」と言われそうだ。
ただ、会社に行く日は確かに腰が痛いのだ。と、いうことは腰痛はストレスか何かが原因だったりするのだろうか・・?



そして、今日はひょっとしてすごいお宝ではないのだろうかと思うモノを発見してしまった。生石山までの道中は常にわき見運転をしているのだが、僕の視界にコシアブラらしき木が入ってきた。
前回の山菜採りでひまじんさん夫妻にたくさんのコシアブラの木を案内してもらったので少しは見分けがつくようになったのだろうか。
近づいて見てみるとどうも盗られた様子がない。今年はすでに葉が大きくなってしまっていたけれども来年の楽しみがひとつ増えたのだ。





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「「便利」は人を不幸にする」読了

2018年04月23日 | 2018読書
佐倉 統  「「便利」は人を不幸にする」読了

筆者がこの著書のもとになる連載を始めた直後、東日本大震災がおこったそうだ。
それまでの連載方針は「“便利”はひとを不幸にする可能性があるか」であったけれども、震災後、「便利は人を不幸にすることがありうる。だから、人を不幸にしないような便利のありかたを探る。」という方針に変更したそうだ。

そのこころは、便利のベースになる科学技術、とくにここでは原子力発電による電気エネルギーは世の中を便利にするという使う人たちにとって受益者になる反面、いったん事故が起こると、それに対して対価を支払っていたという意味と原子力発電を容認していたという意味で加害者にもなるという、相反する面を持ってくる。それでも受益者というスタンスを持たないと仙人か僕の家の前に住んでいるおじさん(電気も水道もガスも止められていがクラウンに乗っている。)にでもならない限りは生きてゆけない。
これが本当に“便利”な世の中といえるのか・・・。

人は自分によく似たものには恐怖を感じるらしい。だから精巧にできた人形や人間は神に似せて作られたというくらいだから神にも畏れをいだく。しかし、それを通して理解を超えるような存在に対しては恐れを感じなくなるそうだ。例えば放射能は目に見えない。センサーか何かで目に見える数値が現れたとしても実感が沸いてこない。
また、日本人という民族性からは、小さな部分部分の改善や発明は得意だが、長期的、大局的な面での見通しを立てることが上手くない。官僚機構は1,000年近くも変わりなく、原発事故についてはそもそも安全な原発では事故が起こることがないという前提で事故に対する対処法を考えてこなかったではないかという例を上げている。

そういうところから、自分の手に届く範囲理解ができる範囲までの便利さを享受する程度が最適なのではないかと筆者は考える。少しくらいの不便は仕方がないと。
もうひとつ、グローバル化というものの弊害であろう。グローバル経済というものはすべてのものを貨幣価値に換算する。そしてすべてを均一化しようとする。それこそ、ひとつの便利生活モデルが出来上がるとすべての人たちがそれにあこがれて向かい始めるけれども、それが幸福とイコールかというとどうなんだろうか。地域の価値観を反映させた評価軸をもう一度取り戻さなけれならないと筆者は言う。

人によって手が届く範囲というものは違う。旧約聖書に出てくるバベルの塔のエピソードはそれを的確に指摘している。他人を見るから自分の幸福の尺度に迷いがでてくる。だから世界中の情報が簡単に手に入るというこの時代は便利すぎるということだ。
多分、科学技術の進歩や情報網の発達に人間の進化が追いつけていないのだ。
なんだかどこかで聞いたことのあるような結論になってしまう。というか、著者のような人たちがそういう考えをマスコミを通して発信してそれがあまりにもしっくりする考え方なのであたかも自分の考えであるような感覚になってくるのであるのかもしれない。それほど納得のいく論理である。

かといいながら、インターネットがなければ知り合いになることができなかった人たちや知ることができなかった知恵、手に入れることができなかった物はすでに数え切れないほどもある。しかしながら、確かにここらくらいまでが僕の手の届く範囲として十分ではないだろうかとも思う。少なくとも自動運転の車には乗りたくはない・・。

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水軒沖釣行

2018年04月21日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 3:29干潮 9:02満潮
釣果:タチウオ 1匹 エソ 1匹

ここ2回の加太沖への釣行の途中、沖の一文字と新々波止の交差点辺りで何かを引っ張っている船を数隻見ていた。渡船屋の船頭に聞くとタチウオを釣っているということだ。この季節にタチウオが釣れるという話を聞いたことがないけれども雑賀崎の漁船も来ているということなのでかなり釣れているのかもしれない。小船も長いこと乗っていないので性能維持も兼ねて出撃した。

かなり早くに家を出たつもりだったけれども一文字の切れ目を通過したときにはすでにあたりは薄っすらと明るくなってきてしまっていた。
今日も僕を含めて5隻の船が出ている。ちょっとは期待が持てるのだろうか・・・。



あちこち仕掛けを引っぱるけれどもアタリがない。アタリがあったのはすっかり明るくなってからだった。1匹あれば夕飯のおかずになる。負け惜しみだが・・。
その後もアタリはなく、ひょっこりエソが釣れて朝日が昇ってきた。



ここからヒコーキに仕掛けを切り替えて30分ほど流してみたけれども何もアタリがなく午前6時すぎに終了。

今日もいい天気。まだ4月も半ばを過ぎたところだけれども、今日も暑くなりそうだ。

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加太沖釣行

2018年04月19日 | 2018釣り
場所:加太沖
条件:中潮7:55満潮 14:29干潮
潮流:6:26転流 9:00 上り1.0ノット最強 11:38転流
釣果:真鯛 1匹

前回は風と波でえらい目に遭ったけれども今日はすこぶるいい天気だ。しかし、午前中の潮流は最強で1ノット。そしてほぼ無風状態ではなかなか釣れる気がしない・・。

今日は中潮1ノットということはないだろうと気合を入れて午前5時に出港。潮の緩い間は友ヶ島の遥か南、大和堆ポイントの少し北側で仕掛けを流してみるがやはり不発。


帝国軍は軍港前に集結していて同盟軍は田倉崎の沖合に集結している。



テッパンポイントは無人状態だ。

一度は同盟軍に合流してみたが、なんだか釣れる感じがしない。



潮が動き始める時間を見計らってテッパンポイントへ。

午前7時20分、ひったくるようなアタリ。この時間、無風波無し。



日差しは少しずつ暖かさを増してきて午前3時に起床したこの身には船の揺れがゆりかごになる。アタリがあった時にはほとんど意識がなかった。
多分、この殺気が消えた状態がよかったのではなかろうか。
とりあえず1匹確保でボウズがなくなった。春の定番、赤い毛糸に喰ってきていた。
そして20分後再びアタリ。しかしこれはすぐにバレてしまった。
その後はまったくアタリがなくなりロスタイムを1時間過ごして今日は終了。

今日の友ヶ島の最高気温は20.5℃ 日差しはすでに真夏のようだ。



帰港してからはたまらずソフトクリームを購入。



ホッと一息。


今日の真鯛を調理してみると泳ぎこぶがくっきり。白子がどっさり。



今まで一所懸命早い流れの中で生きてきたのにどうして僕なんかの仕掛けに食いついてしまったのか・・。
ちょっと可哀そうに思うのである・・・。


記録:
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山菜採り 2回目

2018年04月16日 | Weblog
今日は2回目の山菜採り。
本命はコシアブラ。森に暮らすひまじんさんからそろそろ採り頃ですよというメッセージもいただいた。

まずは早朝に高原に入ってワラビ取り。しかし寒い。手袋をしていても小指がしびれてくる。



前回案内していただいたポイントに入ってみるけれどもあまりワラビが生えていない。というか、もう盗られたあとのようだ。昨日は日曜日だったが雨風が激しかったので誰も入っていないはずだと判断して今日の日取りを決めたけれどもコンペティターたちの闘志はすごい。事実、ひまじんさんの話では昨日はカッパを着てワラビを採っている人がいたそうだ。う~ん、まいった。

それでも少しづつだがワラビを採りながらひとつ尾根を越えるとあまり盗られていないエリアが現れた。駐車場から離れるほどワラビも残っているようだ。
そしてこの場所で大きなヤマウドの株を見つけた。こんなところにもヤマウドがあるようだ。ひとつの株でこれだけの収穫があった。



ワラビもおかずの分だけは採れたのでひまじんさんのお宅へ訪問。
そこからコシアブラを採りに連れて行ってもらった。この木も教えてもらえばわかるのだが、自分で探そうとするとまったくわからない。周りの木と区別がつかないのだ。いくつかの場所で豪快に採って親戚や友人に配る分も確保。
イタドリを採りヤマウドポイントへ。
今年はまだまだ小さいという話であったけれども、あるある!軸の白い美味しそうなヤマウドが出てくる。



いつもは芽を探すのがひと苦労だが今日はまるで神の目を得たかのようなペースだ。あっちにもこっちにもある。実は、神の目ではなくてヤマウドハンターたちもまだ早いと思っているのかどうも誰も入っていないようで、去年の枯れた茎をが散逸せずに残っているからなのだ。処女地で採るというのはなんとも心地がよい。今日は小さな芽や緑の多い芽を残しておくという余裕もでてきた。

今夜はコシアブラと少しだけ残っていたタラノメとヤマウドの天ぷらで一杯だ。

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「生き抜くための地震学―京大人気講義」読了

2018年04月15日 | 2018読書
鎌田浩毅 「生き抜くための地震学―京大人気講義」読了

著者は東日本大震災が起こる確率が99パーセントだと主張していた学者のひとりだったそうだ。また、ハザードマップの例として御嶽山の地図を掲載しているのだがこの火山が噴火したのはこの本が出版された1年後だとなると、この地球科学者の見解をがぜん信じざるおえない。
その科学者の予測では南海地震は2040年までには必ず起こるらしい。僕はその被害予想区域に住んでいるのでそこだけが一番心配なのだがこれに連動して東海・東南海の三連動地震、加えて首都圏での地震や富士山の噴火までも予想されている。
東日本大震災の予想はマグニチュード7.5程度としていたそうだが実際はマグニチュード9.0。マグネチュードは1増えると32倍のエネルギーの増になるので予測の1000倍近い大きさになっている。(ちなみにマグネチュード12の地震が起こったとすると地球は半分に割れるそうだ。)

現在の南海地震の予測ではマグネチュード8.4前後と予想されているけれどもはるかに大きな地震になることも十分予想される。3.11以降、僕はあっちで地震が起こると日本付近は地盤の緊張が緩んで当分大きな地震は起きないと思っていたけれどもまったく関係がなく、ほぼ規則的な周期で起こること、そのうち3回に1回は規模が格段に大きくなることを考えると2040年までに巨大な方の地震が間違いなく起こると断言できてしまうそうだ。

それは困った。僕の住んでいるところはいったいどうなっているのだろうか・・・。



残念ながら和歌川と和田川に囲まれているこの地域は全域が津波被害区域になってしまっている。救いは僕の住んでいる団地は少し被害が少ない緑色で塗られていることぐらいだろうか・・・。でも、水に浸かってしまうことには間違いがない。
そしてその時点で僕の愛艇はどこに行ってしまうか予想もつかない。人に迷惑をかけないようなところに着地してくれるのを祈る。

次に帰宅困難者になってしまった場合を調べてみると、こういう事態が起こると人が歩いて移動できる距離は時速3キロメートルほどらしい。自宅と勤務地の距離は66.4キロメートル。体力の温存も考えるとどうだろうか、1日10キロメートルも歩けるかどうかかもしれない。なんと家にたどり着けるのは地震発生から1週間後になってしまう計算になる。なんとか2028年までは発生してくれるなと地面にお願いするしかない。

人は自分だけは大丈夫だと思う傾向がある。これを「正常性バイアス」というそうだが、これだけ心配していても僕もその傾向が強い。僕が死ぬまではそんな事態は起こらないし、その場面を想像することもできない。
しかし、そのバイアスをなんとか制御してせめてキャンプ道具を整理して震災後の避難生活に備えてみようと思うのである。
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加太沖釣行

2018年04月13日 | 2018釣り
場所:加太沖
条件:中潮 5:29満潮 11:02干潮
潮流:5:28 上り2.9ノット最強 9:03転流
釣果:ボウズ

昨日の予想天気図では高気圧がほぼ日本海の真ん中そんなに風は吹かないだろうと思っていたけれども、今日の午前9時の天気図では中心が少し西によっていた。
そのせいだろうか、田倉崎沖にたどり着くとものすごい北風と波だ。

紀ノ川河口を通過するときは穏やかそのもだったが、



田倉崎を越えた途端にこんな感じ。



午前6時過ぎに到着して午前6時20分に退散。実釣時間なんと20分で終了。最短記録ではないだろうか。
帰り道、田倉崎の陰に入ったところでもこんな感じ。



今日は13日の金曜日。僕は一応仏教徒だけれどもやっぱりダメな日だ。

記録:
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「イタリアに学ぶ医食同源」読了

2018年04月11日 | 2018読書
横山淳一 「イタリアに学ぶ医食同源」読了

医者が書いた、イタリア料理は健康に良いというテーマの本である。
糖尿病や内分泌系の病気を専門にしている医者だそうで、栄養学にも精通しているようだ。

この本に出ている文章が書かれたのはおおむね1980年代の後半から1990年代の前半、日本でイタリア料理というものが注目されて始めた頃のようである。
今ではオリーブオイルやハーブというものも当たり前になってきているが当時はかなり珍しいものであったようだ。

だから、オリーブオイルは抗酸化作用があるとか、パスタに使われる小麦粉は消化がゆっくりで腹持ちがいいとかいうのは当たり前に知られていることだと思うけれども、こういう人たちがそれを広めていったということになるのだろう。

しかしながら、他人の料理の選び方を批判気味に書いたり、自分の好きな南イタリアの料理以外のイタリア料理までも批判しているのはいただけない。
まあ、脂肪分や糖分が多い食事を摂り続けるというのはそれはよくないことではあるのだろうが、自分が美味しいと思う食べ物が一番ではなかろうかと思う。他人のことは放っておいてやってくれということだ。
また、なぜだか「料理の鉄人」の話題を文章のなかに何度か持ち出している。あの番組はあれはあれで面白かったが、こういうエッセイに出てくると違和感がある。もっと自分の言葉と感覚で語って欲しいものだ。

日本がカネに物を言わせて世界中から何でも買いあさっていた時代だから、著者も自分自信を勘違いして山本なんとかという人のようにいっぱしのグルメと思い込んでいたのだろう。医者とか政治家とかによくあるような話だ。おまけにこの文章が連載されていたのが「味の手帳」という雑誌らしいが、なんだか、「暮らしの手帳」をパクッているようで如何ともし難い。今の時代には読む価値のない本である。

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