イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「図説 あらすじでわかる!日本の仏」読了

2016年07月25日 | 2016読書
速水 侑 「図説 あらすじでわかる!日本の仏」読了

虚空蔵菩薩は一度見たこと、聞いたことは絶対に忘れないそうだ。
仏像を鑑賞する機会があるとき、少しでも知識があればもっとその意味を深くかみしめながら観ることができるのではないかといくつかの本を読んできたが、これがまったく記憶の中に落ち着かない。
情けないことだが、これは学生時代から今までずっとそうだった。英単語から歴史上の人物、数学の問題パターンまで、まったく覚えられない。なんとか大学には入れたが、僕は人の3倍くらいはこれらのことを覚えようと努力したのではないだろうか。人並みの記憶力があればもっと偏差値の高い大学も夢ではなかったかもしれないと今でも悔やまれる。今でも人の名前がなかなか覚えられない。これは仕事の上ではまったく不利に働く。

「念ずると助けてくれる。」これが日本の仏様の基本だ。とにかくたくさんの仏様がそれぞれのご利益を持っていろいろなお寺に鎮座されている。釈迦が説く人生とは、苦しいことそのものだということだ。実際そのとおりでだからなんとか救ってほしいという願いが偶像になって現れたのがこれらの仏様なのだが、読み進めるうちに、こんなに助けてもらうだけでいいのだろうか?なんていう思いが沸いてくる。念ずるだけで助けてくれるというのはあまりにも安直で、それ以上何の努力もしなくなってしまうのではないだろうか?
キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、偶像崇拝を禁じている。目の前に助けくれる対象があればそれに頼り切ってなにもしなくなる。だからそれを禁じているという面もあるだろう。
両方とも一神教だから仏教みたいにいろいろなキャラクターが出てこないので、偶像があってもあまり面白くないといえば面白くないので、じゃあ、最初からやめておこうなんていう考えもあったりもするのだろうが・・。

仏教が東の端までたどり着いて花が咲きいろいろな仏像が生まれ、その延長上にアニメやキャラクターの文化があるのではないかといつも思っている。四天王なんてそのまんまガンダムみたいだし、ウルトラ兄弟はどことなく如来様みたいに見える。今は二次元というらしいが、そういうものに耽溺しすぎるということは人間として生きてゆく気力のようなものをどんどんそぎ落としてしまうようなどこか危険なところをはらんでいるような気がする。
まさに玩物喪志だ。
いまや外国人からもクールジャパンといってもてはやされ、それらがスマホと癒合して人の心を侵しつつある。もうすぐ現実の世界と空想の世界の重要性が逆転する。
ちょっと前からポケットに入る怪獣を捕獲するゲームが社会問題になりつつあるが、現実の世界を空想の世界とすり替える大きなたくらみのひとつのような気がする。これも人間という有機物で構成された炭素体ユニットを必要としなくなった遺伝子のなせる業だったりしないのだろうかと杞憂な思いを抱くのはぼくだけだろうか。

今の勤務先の近くには有名な虚空蔵菩薩を祀っているお寺があるそうだ。
もう少し涼しくなったら、とりあえずご利益をもらいに行ってみようと思っている。


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紀ノ川河口釣行

2016年07月25日 | 2016釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 3:48干潮
釣果:マダコ 5匹

今日はちょっと無理して加太まで行こうと考えていた。しかし、昨夜の最終の天気予報が西から南の風で10メートルと出ていた。
朝起きてみると、確かに西から風が吹いている。壊れたお風呂の扉のドアノブを修理しなければならないし、昨夜からちょっと下痢気味だ。天神祭りなので天満宮へもお参りしたい。
などなど、いろいろな言い訳を作って紀ノ川河口へ。
本当はあんまり加太へは行きたくないんだけど、せっかく大きな船を持っているのに帰りの南風が怖いんだなんて認めたくはないし、だから行かない理由を一所懸命探してしまうのだ。
情けない・・・。



雲が多いので夜明けが遅い。午前4時半でもまだ薄暗い。
ボイルはないが、今日はトップウオーターからスタートだ。キャストしはじめて30分くらいしてからだろうか、水面が割れた。しかし残念ながらフッキングには至らなかった。周りではわずかだがボイルがある。今日は間違いなくスズキがいる。
気合を入れてルアーを投げ続けるが2回目のアタリは出なかった。

スズキだけだとあっという間に終わってしまうので、今日はタコの仕掛けと最悪はエソでもといろいろ仕掛けを持ってきた。
タコは長い間釣っていない。調べてみるとなんと7年前だ。まだ先代の船に乗っていたときだ。

だからまったく釣れる自信がなかった。

明るくなっても全然風が吹いてこずに、これでは加太に行けたではないかとホゾを噛みながら仕掛けを流しているとなにやら引っかかったようだ。無心で合わせると何かが引っかかっている。



長らくタコのアタリなんて感じていなかったが不思議とわかるものだ。
お~、タコが掛かっているぞ。うれしい。最後にタコを釣って以降、自作のテンヤを使い続けていたのだが、それがよくないのかと思い続けていたが、そうでもなかったようだ。
その後もアタリを少しづつ拾って、6アタリで5匹を手にした。
当たりのある範囲は意外と狭く、“タコの都会”とまでは言えないが、“タコの村”くらいの密度ではいるようだ。
今日はひょっとしていいポイントを見つけてしまったのかもしれない。
これで安定的に釣れるようになってくれればうれしいのだが・・・。



帰り道、天満宮へ。朝は閑散としていて巫女さんも舞の練習をしている。茅の輪くぐりをさせてもらってからお参り。

  

家に帰ってドアノブを買うためにホームセンターへ行く途中、近所の小さな天満宮へお参りに行くと、ここでは舞の奉納の真っ最中。



もう一度帰りに寄ってみたら、こんどは氏子さんたちがお祓いを受けており、残念ながら参拝できずに終わった。よそ者はやっぱりよそ者だ。こんなコミュニティに所属できている人がうらやましい。
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浜の宮沖釣行

2016年07月21日 | 2016釣り
場所:浜の宮沖
条件:中潮 6:34満潮
釣果:キス 7匹

前回のリベンジを期して今日も浜の宮沖へ出撃した。

キスはてんぷらの定番のネタだが、今夜はてんぷらをしようと思ってもスーパーでキスの開いたのを買う気にはどうしてもなれない。けっこう高いので満足がいくまで食べようとしたら大変なことになるのだ。
だから釣らないと食べられない。まあ、本当はスーパーで買うよりはるかにコストがかかっているはずだが、それは知らなかったことにしよう。
特に今日の釣果はものすごいコストがかかってしまった・・・。


朝はさわやかそのものだったが、やっぱり釣りにきてよかったと思ったのはここまで。

 

最初の1匹が釣れるまでは開始から約1時間後。
絶対に潮は悪くないはずだから何が悪いのだろう。アタリがまったくない。チャリコでさえわずかしか来ない。
そんな中、午前6時15分を回った頃、仕掛けにマゴチが食いついたが、タモ入れを失敗して逃がしてしまった。これを手にして入れば一矢報いることができたはずだがそれも海の底に消えていってしまった。
軽く50センチは超えていたので惜しくてしかたがない。運の悪い日というのはこんなものだろう。

そして新しい竿とリールのセットもデビュー戦を飾れなかった。



前回の釣行で1セット無くしてしまったので物置をまさぐっていたら、スピードスティックというブランドのウルトラライトアクションのルアーロッドが出てきた。
もう、このブランドのロッドの存在を知っている人などわずかしかしないだろう。ダイコーというメーカーが、おそらく輸出用にOEMで作っていたものだと思う。日本でにわかにルアーフィッシングブームが興ったものだから、急きょ日本でも売り出したというところだろうか。ダイコー(大丸興業)というメーカーを知っている人さえももう少なくなってしまったのではないだろうか。僕はけっこう好きなメーカーだったのだが・・・。(今調べてみたら、去年まで釣具の事業をおこなっていたらしい。)

今見てみるとバットのところには何の装飾もなく、レタリングで商品名がプリントされているだけのお粗末な作りなのだが、あのころ、輸入物のルアーロッドというのはものすごく高価でグリップ全体をねじってリールを装着する方法や当時は一番性能のよかったハードリングガイドを使っていたり、なんとなく外国の匂いのするこのロッドはなかなかイケていたのだ。(事実、今回バットのところを見るまで日本製とは思っていなかった。)
長らく記憶の中から消えていたが、学生の頃、バス釣りばかりしていた時に陸っぱり用に買ったものだ。根来と粉河の間に桜池という用水池があり、そこで使うために買ったのだ。魚が小さいので固いロッドだと面白くなく、4インチのワームを1.5グラムくらいのシンカーで使っていた。
就職し、上司の付き合いで再び海に向かうようになり、再びバス釣りに戻った時にはアルミボートを購入しスタイルだけは本格派だったのでこのロッドはとうとう物置の奥の奥から出てくることがなくなってしまったのだ。
そんな古き良き思い出をひっさげ、満を持してのデビューだったはずなのだが・・・。

リールはよくない。一応、ダイワのタグがついていたのだが、税込み2,310円。よく見たら、本体にはロゴがない。ダイワもよほど自信のない作品なのかもしれない。「スポーツライン」というモデル名だが、これはダイワでは伝統のある名前だ。僕が小さい頃、ボラ釣りにいそしんだのは確かこの名前のリールだった。
それなのに残念だ。ハンドルが重くて魚が掛かっているのかいないのかがわからないのだ。やっぱりいいものを買っておかないとダメだ。こと、リールに関しては、安物買いの銭失いという箴言は生きている。

帰りの道中もさわやかそのもの。
久々にキャプテンシートを引っ張り出し、くつろいだ気持ちで操縦しながらの帰投となった。

  

やっぱり釣りにきてよかった・・・。
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紀ノ川沖釣行

2016年07月18日 | 2016釣り
場所:紀ノ川沖
条件:大潮 4:28満潮
釣果:マルアジ 33匹

もう、苦戦続きなので一番確率の高い魚を求めて出港した。

加太のほうでは飲ませ釣りで大きな青物が釣れているそうだが、やったことのない釣りでまたボウズというのも嫌だし船の速度もやはりどんどん落ちてきている。
今日の位置からも田倉崎の沖に集結している船団が見える。手が届きそうな距離だがやはり遠い。なんとかチャンスを見つけて行ってみたいものだ・・・。



雨の影響はまったくなさそうなので今日は紀ノ川沖を目指した。水深40メートル付近まで出たものの、魚探には反応が出ない。あんまり沖へ出ても一緒だろうと思いここらへんで仕掛けを下してみた。
時刻は午前5時少し前、潮はまったく動いていない。GPSを見てもほぼ同じ位置から動かない状態だ。これはきついなと思っていたが、アタリはあっさり出た。今年のチョクリは裏切らない。
サバはまったくないものの、マルアジの型は大きい。型が大きいと口切れも多い。アタリはあれどすぐにバレてしまう。

それでもアタリは飽きない程度に続いてくれるので少しずつ数を稼いでゆく。

午前7時を過ぎてだんだん暑くなってきたのでもう少しだけ続けて終わろうと思っていたら、流れ始めた潮と風の影響で前の仕掛けと後ろの仕掛けが絡まってしまった。それをもとに戻すのに約30分・・・。道糸まで絡めてしまっていたので大分時間がかかってしまった。それに加えて、多分フグの仕業だろうが、今日もオモリをひとつ失ってしまった。たかがオモリだが50号となると1個100円以上してしまうのだ、幹糸に噛みつかずに枝素をかじってくれというものだ。
なんとも・・・、女時は続いているようだ。


今日、梅雨が明けたそうだ。夜明けは雲が厚くて梅雨明けという感じではなかったので、きっと今年の梅雨明けは7月18日の午前7時ごろと断定できそうだ。



近くをヨットが通過していったりと、いよいよ夏が本番になってきた。



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紀ノ川河口釣行

2016年07月14日 | 2016釣り
場所:紀ノ川河口
条件:若潮 8:35 干潮
釣果:ボウズ

女時はまだまだ続いている。
こんなときは流れに逆らわずひたすら時が流れるのを待つのだ。
今日も釣れるあても確信もないまま海に出てきた。夕べはそれほど寝苦しくはなかったが、それでも暑くなった布団のなかで汗をかいているより海面を流れる風に吹かれているほうが気持ちがいい。
長らくエンジンを回していない小船に乗って紀ノ川河口を目指した。

空には雲が厚く、夜が明けるのが遅い。ポイントにはかなり暗い時に到着したが、明るくなってから付近を眺めると刺し網が入れられていた。



これはちょっとダメなんじゃないかと考えて新々波止の周りを流してみたが、やはり最初の予測どおりアタリはまったくなく、メタルジグをひとつロストして終了。

 


家に帰って半年に1回の歯石掃除に行ってきた。
この歯科はいつもテキパキと作業をしてくれておまけにいつも空いているのでありがたい。1回浮気をして近所で評判の歯科に同じことをしてもらいにいったことがあるが、なんやかやと言って1回で終わらせてくれない。
どうして歯石を取るだけで何回も出向かなければならないのか?体に負担がかかるとかななんとか言っていたがそんな大層なものでもないだろうと思い、2回分払うから1回でやってくれと言っても聞いてくれないので次は行かなかった。
おまけに次回は予約を入れろという。そんなもの、天気だったら家にいないのに予約ができるわけがない。それに比べてここは飛び込みで行っても大概空いているし、いつも1回で終わってくれる。多少手抜きでもその分こまめに行って処置をしてもらう方がいいはずだ。




先日亡くなった永六輔は子供のころの体験から、医者をまったく信じなかったそうだが、僕も最近そう思いつつある。
母親の人工関節の一件といい、人の都合を考えてくれない歯医者といい、こいつに任せていいの?って思うことが多々あるような気がする。
まあ、自分の期待する答えをもらえないとこんな感想を持ってしまうということもあるが、それを差しい引いてもそれはおかしくないか?と思ってしまう。

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浜の宮沖釣行

2016年07月11日 | 2016釣り
場所:浜の宮沖
条件:小潮4:54干潮
釣果:キス 5匹

7月に入ってなかなか休みと天気が合わなかったがやっと釣りに出られる。
ここ数日かなり雨が降っていたが、キスを狙いに行ってみた。キスは水潮を嫌うというが、いままでの経験だと あまりそうだとも思わない。その検証もしてみたいと思う。

今日はゴカイの自販機は稼働中。無事エサを購入することができた。



便利でありがたいのだが、こんなものまで自販機で売ってしまっていいのだろうかと思ったりする。一応は生き物なのだが・・・。
それでもってイソメにもいろいろな種類があるものだ。イシゴカイはもとより、青イソメは太めと細め、赤イソメなんていうのもあるし、今年は塩マムシまで登場した。

浜の宮へ行く前に双子島のワンドのなかでスズキを狙ってみるが不発。気配もない。



浜の宮の一番北側から釣りを始めたが、どうもうねりがあるようだ。船に乗っているとあまり感じないが、片男波の方から大きな波の音が聞こえる。海岸の方を見るとかなりの波の高さだ。
そのせいかどうかわからないが、アタリがない。たまに釣れてくるとチャリコだ。

そして大失敗をしてしまった。竿とリールを落としてしまった。
貴重なキスにけっこう大きなエソが食いついてきたので、タモで掬ってやろうと後ろのデッキに取りに行ったわずか数秒の出来事だった。わずかの時間だしと油断してしまった。尻手ロープなんかもちろん付けていなかったのでそのまま海に引きづり込まれてしまった。
まあ、考えてみると、エソのほうも掬われてしまうと命を落とすわけだから必死なわけで、そんなに必死なら咥えたキスを放しさえしてくれていればよかったものをと悔やんでもあとの祭りだ。
キスがたくさん釣れていたらこんなことは考えなかったのだが、おかずになるものを持って帰らねばと欲をこいたのが悪かった。
欲深い釣り師には、「お前が落としたのはこの金のロッドとリールか~?」なんて言ってくれる神様は現れることもなく、海の底に沈んでいったままだった。

落とした竿とリールは古いもので、昭和56年に買ったルアーロッドとチヌ釣りで使い倒してギアがバカになりかけたリールだったのだが、僕にとっては愛着のあるものだった。
グラスのふにゃふにゃした調子がキスに違和感を与えないのか、よく釣れる竿だった。ダイワが「ミリオネア」シリーズの次にリリースした、「ファントム」という高級シリーズの初代のモデルだったのだ。高校生の小遣いではグラス製を買うのがやっとだったが、今となればこのグラス製というのがキスにはよかったのだ。樹脂製のグリップが劣化してしまっていて長い間使わずにいたのだが、適当なグリップを見つけて挿げ替え、復活を果たして3シーズン目くらいでまだまだこれから実力を発揮するはずであった。



ケースも合皮で作られたハードケースになっているのが高級感を醸しだしていた。(ちなみにカーボン製はアルミのパイプのケースが付いていた。)
リールはというと、シマノのバイオマスターの2代めだと思う。昔のスピニングリールというと、巻き取るときにカリカリ音がしたものだが、ちょうどこのリールはその端境期で、音が鳴るやつとサイレント仕様というのが2種類あった。僕もはじめて音のしないリールを買った。そんな昔懐かしいリールだった。



「花伝書」には男時、女時という言葉が出てくる。これは言ってみれば運がいい時と悪い時は否応なく交互に巡ってくる。女時のときは我慢して静かにやり過ごせと教えているが、まさに今日は女時だった。
そして、もうひとつ、常に基本に忠実に練習せよという教訓も語られているが、今日の失敗はまさにその基本を怠ってしまったゆえの出来事だった。
一昨年にも加太で同じことをしてしまったが、まったく教訓になっていなかった。そんな自分が情けない。

キスごときというのはキスに失礼な話だが、専用の竿とリールを準備するほどのものではない。ましてやなるべくお金を使いたくない僕にとっては悩みどころだ。物置のなかをまさぐったら何かいいものが出てきたりはしないだろうか・・・。

今日の唯一の救いは1匹だけだが、25センチに迫る大きな魚があったことだ。





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「生物の意味論」読了

2016年07月09日 | 2016読書
多田富雄 「生物の意味論」読了

この本は以前に読んだ、「免疫の意味論」の続編として書かれたものだ。
相変わらず専門用語はまったくわからない。主題は “自己”とは何かということを遺伝子、免疫系を中心に語られている。

人間を含めて多細胞生物は受精卵の細胞分裂が始まった胞胚という状態になったときにたったひとつの遺伝子が発現する。それが引き金になって連鎖的に次々と遺伝子が発現し生物の形が出来上がってゆく。設計図はDNAの上に書かれているが遺伝子の発動は曖昧であるである。だから一卵生の双生児でもまったく同じ外見にはならない。受精したときにすべてが決まっているというわけではないらしい。同じプラモデルを作っても作る人が違うと出来上がりも違うというのと同じことだ。

次に免疫系。免疫というのはひとつひとつの異物にひとつずつの受容体をもって対応することになっている。そうなると免疫細胞をつくる遺伝子がいくらあっても足りない。DNAは30億の塩基でできているそうだがそれでも足りない。そこでどんなことをやっているかというと、まず、抗体というたんぱく質を作るための遺伝子はDNAのなかでは不思議なことに飛び飛びで存在していてそれを拾いながら組み合わせて抗体を作ってゆくのだが、そこで隣の塩基を拾ったり組み合わせを変えたりして無限に近い抗体たんぱく質を作り出すのだそうだ。
これも曖昧な形で製造されてゆき、同じものを取り揃えている人はいないそうだ。だから臓器移植をするとほぼ拒絶反応が起こる。

こうやって“自己”というものが出来上がってゆくわけだがそこには指揮官はいない。まったく自発的に発動され、進化してゆく。これを著者は“スーパーシステム”という言葉で表現している。
なぜ、スーパーシステムというものが地球上で生まれたのか、そして何を目的に生まれたのか。もちろん、なぜ生まれたのかという理由がないので多分目的もない。目的はないけれどもそこで自律的、自発的、合目的に自己が成立している。
そこにはただ“自己”があるだけだ。

著者はさらにこのスーパーシステムを都市形成や企業、大学まで当てはめて考えようとする。
都市はかつて自然発生的に生まれスクラップアンドビルドを繰り返しながら進化、拡大を続けた。そしてそれぞれの都市独特の自己ともいえる特色を作り出してきた。都市にも企業にも確かに当面の目標はあっても最後の目的というものはないような気がする。企業にあるのは三か年計画だけだ。その先の目的は多分誰も知らないはずだ。以前にユ○○ロの辣腕会長のコメントを聞いてあの会社は一体どこまで行こうとしているのか?拡大し続けることに意味があるならそれは癌細胞と同じではないのかと恐ろしくなったことがある。それも人間に似ているといえば似ている。
バルセロナ、ニューヨーク、フランクフルト、すべてまるで自己を持つかのように特色を持っているという。
かたや、シンガポール、ブラジリア、東京、“都市”を作る目的で作られた都市、官僚機構を支える目的で作られた大学などは少なからず問題を抱え、自然の力に任せては永続できないように思える。
何が違うのか、曖昧さや無駄を持つかどうかの差だ。DNAの配列はその95パーセントは意味のない配列だそうだ。その配列はたんぱく質を製造できない。しかし、免疫系に代表されるように多様な自己を生み出すチャンスを持っている。それは危機に際してもなんとか生きようとするリスクヘッジである。
効率的に作られたものにはそれがない。
現代はまさに効率の時代。多様性や余裕というものがない。そこには危うさしかないように見える。多様な自己を持つはずの人間でさえ生きづらい世界になってしまった。
アリの巣のアリの四割は働かないアリだそうだ。その四割を除去するとまた残りの中の四割は働かなくなるそうだ。
しかし、この四割は巣の危機(外敵がやってきたり巣が壊れたりしたとき。)には突然働き始める。そして何億年もの間生き続けてきた。
そういうことがないと都市も企業も永続することができないということを暗示しているかのようだ。

生物学の一般向けの解説書のつもりで読み始めたが、これは哲学を語っているのではないかと思える一冊であった。


そして僕は“目的”とは何であろうかと考えを巡らせてみた。
たったひとつの細胞が知性をもって星の表面を眺めることができるようにまでなったことを考えると、きっとこれは宇宙のすべてを知るということがこの自己の目的ではないのだろうかと考えた。宇宙のすべてを記録する。それが最終の目的だったりするのではないだろうか。もし、神がこの宇宙を作ったのならこの素晴らしいシステムの存在を神様も誰かに知ってもらいたいたいのは必定だ。
しかし、自己の根元は人間ではなくて遺伝子だ。宇宙のすべてを知るのはべつに人間でなければならないことはない。いまの世界でその最適者は人間ではなく人工知能ではなかろうかと背筋を寒くした。
リチャード・ドーキンスという学者は遺伝子は利己的であり、自分だけが増殖、永続すればいいと考えている。人間でさえもただの遺伝子の乗り物にすぎない。もっといいものがあれば簡単に乗り換える。と語っている。
そうだとすればコンピューターほど最適なものはないのではないか。多様性はなくても確実に効率的にコピーを残し続けることができる。有機化合物でできた炭素体ユニットはややこしい免疫やややこしい人間関係を克服する心の強さがないと遺伝子を未来に残すことができないが、ケイ素が主体の半導体ユニットにはそんなものは必要ないような気がする。
宇宙に出ても酸素はいらないし高温でも低温でも稼働できる。宇宙を知るにも最適だ。
この本は20年近く前に書かれているから著者も人工知能、コンピューターがこれほどまでに発達するとは思ってもいなかっただろう。もし、それが予測できたのなら著者も同じことを思ったのではないだろうか。それとも生命の意味を信じる著者はやはり生命の可能性を信じるのだろうか。

僕の考えていることがいくらか正しいのだとしたら、高齢化社会、テロ、宗教の敵対、国家間の軋轢、すべては人間が邪魔になった遺伝子のたくらみではないのだろうか。スティーブン・ホーキンスもこう言っている。「自ら発展し、加速度的に自身を再設計する完璧なAI開発は人類の終焉をもたらす。」と。もう人間に抗う術はないのではないだろうか。あと20年もすると人工知能は間違いなく感情まで持つようになるそうだ。もしそうなら、自己は自己らしく、自分らしく今を生きるだけで十分なのではないだろうか。

最後にまったく関係がないことだが、化粧品の話。
似ても似つかわしくないのだが、僕は化粧品なんかも扱う仕事をしている。よく広告のコピーに、「ナノレベルでの皮膚細胞への浸透力・・・」とか、「お肌に栄養を・・・」とか書かれていることがあるが、免疫という観点から、もしナノレベルで化粧品が皮膚に入っていったり直接皮膚に栄養を与えたりしようものなら、抗体反応が働いてお肌が真っ赤に炎症を起こしてえらいことになってしまうに違いないのだ。
何年か前にカネ○ウという会社が本当に皮膚に浸透させちゃったものだから大問題になったのがその事実を物語っている。
化粧品とはお肌になんの役にも立たないからお肌にいいのであるのだが、それがどうしてあんなに高価なのだろうか。僕の職場にも12万円というのがある。
こんな高価な化粧品を見ながらいつもこんなことを思っている。

このブログを読んでいただいている女性の方というのはごくわずかだと思うが、薬局で売っているワセリンで十分なのじゃないだろうかと言ってしまうとやっぱり、叱られるんだろうな~。

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「クレーマー・シンドローム―「いちゃもん化社会」を生き抜く交渉術 」読了

2016年07月03日 | 2016読書
吉野 秀 「クレーマー・シンドローム―「いちゃもん化社会」を生き抜く交渉術 」読了

たまたま立ち読みしたとき、お客様を怒らせるフレーズとして、「今後、このようなことがないよう・・・。」という言葉が挙げれられていた。これを聞いた相手は、「今後はどうでもいい、今どうするんだ!」と怒り出すというのだ。
実は、このフレーズ、僕もよく使う。とくに電話での対応の締めとしてはほぼ必ずといっていいほど使っていたので、この本を読むとなにかいい別の対応策が見つかるのかもしれないと思ったので買ってみたが、今までのクレーム本と一緒でそんなマジックワードは掲載されていなかった。

著者がどういう人かというのを調べてみると、以前に読んだ本の著者でもあった。この本も中身は大したことがなく、おまけに今回の本の中でなんとなく感じたことだが、どうもカタギのひとではないようだ。
こんな人の書いた内容を鵜呑みにして対応なんかしたらえらい目に遭うのは目に見えている。

ただ、ここ連続して読んだ2冊からわかることは、ひとつとしてクレームには同じパターンはないということだ。だから、一発で解決できる黄門様の印籠のような言葉はない。
ひょとしていくつかの的確な対応策というのがあるのかもしれないが、そんなものを掲載してそれを使った読者が対応に失敗したではないかとクレームを言ってこられては困るという理由でわざとそこは書かないでいるという穿った見方もあるのだろうが、やっぱり人が相手のことではそんなことでもないだろう。

これからも色んなクレーマーに対峙しなければならいのだろうが、そのたびに頭と心を悩ましてしまう。唯一の解決法はここから逃げ出すことだけだとはわかっているが、それもできるはずはなく、ずっと耐える日々は相変わらずだ。
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「社長をだせ!」読了

2016年07月01日 | 2016読書
川田茂雄 「社長をだせ!」読了

某カメラメーカーでクレーム処理の窓口を担当していた著者のクレーム体験記と、クレーマーの分類、現代のクレーマー事情という校正になっている。

過去に読んだ3冊のクレーマー本と大きく異なるところは、クレーマーを“悪いやつ”と決め付けてそれを面白おかしく料理しているところだ。
某メーカーということだが、元ニコンの社員だということは周知の事実だそうで、これを読んだ当人たちは俺のことじゃないか?ってわかってしまうのではないかと心配になるほど克明でかつ相手をバカにしきって書いている。
これはこれで溜飲が下がる思いだが、ここでしか溜飲を下げられないのが悲しい。

著者が最前線でクレーマーと対峙していたのはかなり昔(フィルムカメラの時代)だが、クレーマーの行動パターンと心理のようなものはそれほど変わっていないらしくこんな行動パターンの人は今でもいる。
新聞広告を求めるヤ○ザ。お役所勤めの、「お前では話にならない。」。教育ボランティアは、以前にも書いたことがある、「私はあなたの会社を立派にしたくて一生懸命なの。」というひっくり返るしかない発言。子供を甘やかして育てたのでこの子の言う通りしてあげてというバカな母親。
すべて僕も体験した事実ばかりだ。
このヤ○ザなんて、黒滝村というあの自然豊かな場所でどうしてこんな輩が育つのかというのが、今思えば理解できない。

そんな分類に対する対処法については目からウロコみたいな手法は書かれていないのは、きっとこんなコンサルはそれを別な形で教えることでお金を稼いでいるわけで簡単には教えられないというこだろうから仕方がない。
少しのヒントとして、一番大切なことは、組織としてどう対応してゆくのかを企業として決めなければならないと書かれているが、これがわが社ではまったくだ。

著者はそれ専門の部署で活躍したした人だから自分が中心になって組織、情報網作りができるのだろうか、僕はそれが専門ではない。仕事のなかでは最大級の脅威だということには間違いはないのだが、何もなすすべがない。
それでもやらなけらばならないことは何がなんでもやらなければならないのではないかと言われれば言い返す言葉がない。それは庶務なり総務がするべきではないのかと思う僕は甘いのだろうか。
他人に責任を押し付けているつもりはないが、お前らもやってくれよと思いながら、クレーマーと刺し違える覚悟で部署を守る僕より、知らんぷりをしている人たちの方が順調に昇格してゆく姿を見ているとなんだかむなしくなる。
僕もそんな不合理?を晴らすべく、クレーマーと化してストレスを発散することもできずに今日も悶々としている。

どんどん生きづらくこのご時世、みんなしんどいのはわかるが、僕たちを不満のはけ口の対象にはしていただきたくないものだ。




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