イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「酒呑みに与ふる書」読了

2019年08月30日 | 2019読書
キノブックス編集部 「酒呑みに与ふる書」読了

図書館の書架の間をうろうろしていたらこんな本を見つけた。この手の本は、だいたい似たようなジャンルの作家の文章を集めた編集が多いように思うけれども、この本は多岐にわたっている。取り上げられている作家の活躍した年代も幅が広いし、詩人、俳人、歌人、評論家、漫画家も入っている。ペラペラとめくって、師の文章を見つけたので借りてみた。

幅広く集めたといえばそうだけれども、なんだかまとまりを欠いているような気がする。はやり、こういう本はやはり文学者が編集しないとこうなってしまうのだろう。ただ、すべての文章が、お酒にまつわる直球の文章ばかりではなくごく少しだけしかお酒が入っていないという文章もあるというのは面白い。

師の文章は、いままで何度か目にした文章だった。旅をしていて、素晴らしい地酒に巡り合う幸福感を書いている。そんな経験は僕にはないので貧乏人の器に関する感想を少し・・・。

お酒というのは、やはり雰囲気が大切であるというお話である。
日本酒を飲むときはいつもぐい飲みを使って冷やしたお酒を飲むのだが、ロードサイドのインテリアショップで税抜88円というぐい飲みを見つけて買ったことがある。これも数のうちだろうとひとつ買ってみたのだが、やはりこれが100円もしない器だと思うと、どうもお酒が美味しくないような気がする。じゃあ、もっと高級な器で飲むと美味しいのかといっても、ほかの器も、1,000円、600円、100円とこんなものだ。しかし、それぞれの器は、奈良の骨董屋で買ったものや、漆器市で見つけたものだから、お酒を飲みながら、ああ、これはあそこで買ったのだなと少しはそんなことを思いながら飲めるのである。こだわりではないけれどもなにか自分の足で見つけてきたというような思いがある。それに比べて、かわいそうだが88円の器はコストを極力削り落とした、デザインはまあまあ今風だけれどもという商品たちと共に10個ほど同じものが並んでいたうちのひとつだったから何の思い入れも見いだせない。
だからそれに注ぐいだお酒は、これまた、よくても醸造用アルコール添加であるけれども、それが、アミノ酸、糖分も添加したようなちょっとベタッとしたお酒の味がしてしまうのである。

お酒は質よりストーリーだ。
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「水中考古学 - クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで」読了

2019年08月28日 | 2019読書
井上たかひこ 「水中考古学 - クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで」読了

「昆虫」考古学に続いて今度は「水中」だ。
これはなかなかロマンがある。遠い昔、海に沈んだ船や建造物を探し出してそこに眠る遺品を陸上に引き上げて調査しようというものだ。
トルコはボドルムの海に沈んでいる、エジプト時代の貿易船、16世紀のイギリス軍艦メアリー・ローズ号、処女航海で1300メートルだけを航行して沈んでしまったスウェーデン海軍のバーサ号、元寇船、東インド会社のガレオン貿易船、14世紀の中国、韓国の貿易船、クレオパトラの海中宮殿などなど。エルトゥールル号、タイタニック号の話題も含まれている。

特に貿易船のお宝は考古学者でなくとも興味をそそる。おそらく、鋼鉄製の船が建造されるまでは、外洋を航行する船にはすべからく高級なお宝が積まれていたはずだ。当時の庶民の生活はそれこそ半径3キロメートルくらいで完結していて、それより遠くのものを手に入れたい人たちというのは権力者や金持ち。危険を冒してもたらされる物はすべてお宝だ。
エジプト時代の貿易船には青銅の原料になる銅と錫やガラス細工の原料になる色とりどりのガラスの塊、それに本物の金貨。東インド会社や中国、韓国の貿易船には日本製の陶磁器や香木、べっ甲、香辛料。そしてそれらは海底の砂に埋もれて低酸素状態が保たれているので船体も含めてかなり良い状態で保存されていることが多いそうだ。

もう、それらを眺めているだけでうっとりしちゃうんじゃないだろうか。できればそんなお宝のひとつの金貨などを小銭入れのなかにしのばせておいて、たまに眺めるというのがすごく楽しそうで憧れる。

沈没というと、最近やたらと自分の船たちが沈んでゆく夢を見る。これはまぎれもなく去年の台風のトラウマなのだろうけれども、今の港じゃないどこかに係留をしていて、なぜだかそこは浅い岩場でその岩に引っかかって船が傾いているのだ。夕べも、つい最近戦艦大和内の快適生活というテレビを見ていたせいかそんな夢を見た。
そして、その夢の途中で、「こんな場所は見たことがない、これはひょっとして夢かもしれない。ああ、やっぱり夢だった。」と目を覚ましてトイレに行ってまた寝るのだ。

僕の船なんて、ガラクタしか積んでいないんだから、セイレーンの魔女は無視してくれておいていいんだからね。といつも願っているのだ。
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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2019年08月26日 | 2019釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:若潮 1:00満潮 8:49干潮 
釣果:タチウオ 4匹

今日は3ヶ月に1回の整形外科への受診日だ。近場で済ますため、紀ノ川河口でスズキを狙って水軒沖で保険のタチウオを釣って帰ろうと計画を立ててみた。

昨日からグッと涼しくなって早朝の空気が心地よい。夏が終わったようだ。多分。
できるだけルアーを投げる時間を取りたいので今日も暗いうちから出発。東の空が明るくなるのも遅くなってきて、午前5時でも太陽の姿が見えない。



前回の木曜日よりもさらに遅くなってきた印象だ。
スズキのほうはどうもやっぱりご機嫌斜めで今日もダメ。
この写真を撮ってからタチウオに転進。青岸の灯台の上手からスタートするとすぐにアタリがあったので、今日も安泰かと思ったがそのあとがまったくアタらない。昨日からの気温の低下で魚がどこかへ行ってしまったのだろうか。
新々波止の前がダメなので湾の口へ移動して2匹追加。もうダメだと思い、船を停止して仕掛け回収しているとアタリがあって4匹目。多分底に沈んだ鉤が上向きに動いた時に食ったのだろう。この魚から類推すると、今日はかなり底のほうに魚が沈んでいたのかもしれない。分銅を使った釣りは仕掛けが重くなりすぎて面白くないのではないかと思うので棚が深いと僕には不利だ。
気温が安定するのを待たねばならないだろう。

帰途の途中、築港の隅っこのほうに帆船が停泊していた。先週入港した、「ダイヤモンドプリンセス」に比べたらあまりにもショボいけれども帆船を眺めながらカレーパンをほおばる。なんだか今日はこれを食べるために船を出したようなもののような気がする・・。これが先週の木曜日でなくてよかった・・。



そしてこの写真を撮った直後にカメラが故障・・。レンズが動かなくなってしまった。思えば海や山、およそ精密機械を持ち込むにはあまりにもふさわしくない場所で持ち歩いていたのでとうとう音を上げてしまったようだ。僕が持っている一眼レフよりも写真写りがいいのではないかと思っていたので残念だ。特に夜明けの写真はいつもきれいに写っているなと思っていた。
すでにズームを最大にするとゴミが写るようになっていたのでいつかはこんな状態になるだろうと思っていたけれども秋の釣りシーズンが始まるこのタイミングで壊れるとは殺生だ。

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「安彦良和の戦争と平和-ガンダム、マンガ、日本」読了

2019年08月23日 | 2019読書
杉田俊介 「安彦良和の戦争と平和-ガンダム、マンガ、日本」読了

NHKで機動戦士ガンダムの放送開始40周年記念ということで、「ファーストガンダム」と呼ばれている本放送の前記譚を放送していた。アニメを見て何を考え込む必要があるのかと言われるのであろうが、登場人物のセリフの、「どちらも戦争をしたがっているのだ。」「人と人はわかり合えない」というものになぜだかひっかかった。
この前記譚の原作者はこの本のなかで著者からインタービューを受けている安彦良和なのであるが、60年安保の時代を全共闘の闘士として過ごした人だ。そんな人がこのSFアニメにいったいどんなメッセージを込めたのか、そして、戦争というものに対するどんな考え方を持っているのかを知ることができるのではないかと読み始めてみた。

内容は戦争に対する普遍的な考えを述べるものではなく、ガンダムを含めて安彦良和が描いてきた作品の登場人物の心理描写(戦うことに対する考えも含めて)をどう描いてきたかということが中心であった。
安彦良和にはマンガ作品として、4作の日本近代史を扱った作品がある。習慣がないのでこのマンガを読んだことがないのだけれども、シベリア出兵のころから、満州国が崩壊する敗戦までを実在の人物を登場させながら描いているそうだ。
日本は「五族協和」「八紘一宇」をかかげて大陸に侵攻していった。社会主義や西欧列強からアジアを守るというのがその建前だけれども、純粋にその言葉のとおり、お互いを理解しあいながら発展しましょうという理想と戦争というものが僕の中ではうまく整合性を作りだせない。
敵対するそれぞれの側にそれぞれの正義がある。それだけでなく、同じ側にいる人たちでさえ戦争、もしくは戦うことに対して持っている考えがそれぞれで異なっている。ということがそれぞれの作品のなかに克明に描かれている。そのことから、「人と人はわかり合えない」ということは導き出せるのであるけれども、はたして、「どちらも戦争をしたがっているのだ。」という部分はどうなのだろうか。
なぜ軍隊を動かしてまで支配したくなるのか。攻撃は最大の防御だからなのか、それとも理解できない相手は気持ち悪いから叩き潰そうとするのが人間が持っている基本的な性質なのだろうか。資源の獲得ということもあるのだろうけれども、やはり後者の理由のほうが大きいのではないだろうか。1945年以降、北半球で起こる戦争はほぼ全部が宗教問題がかかわっているようだが、「わかりあえない」ことの典型であるようにも思える。

そこから逃げ出したい人はどうすればいいのだろうか。
8月15日はなっちゃんの誕生日であるとともに、(「なつぞら」を見ていない方々、よくわからなくてすみません・・。)終戦記念日であるので、テレビではさかんに太平洋戦争に関する特集が放送されていた。その中で気になったのは「国防婦人会」に関する特集だった。
それは誰かが利用して強大な組織と強制力を持ったものであったのかもしれないけれども、その発端は些細な群集心理だったのかもしれない。「国のため。」という一言の前に何も言えなくなる。そしてそれに従わない人たちを排除するのではなくそこでは生きてゆけないところまで追い込む。
そしてそれが人々の自由を奪ってゆく。異を唱えられなくなる。しかし、これは、集団でしか生きられない(そうでないかもしれないけれども。)人間というものの宿命ではないのだろうか。同調圧力というものは恐ろしい。

よく考えてみると、会社というものがまさにそんな集団のように思えた。上の意をくんでその指示に忠実に動かねばならないというのが会社の基本的な構造で、もちろん、そうでなければ会社というものは立ち行かなくなる。そうでなければ自分を押し殺してうわべだけでもそれに従い続けねばならない。それの拡大版が国家というものなのならあきらめるしかないのであろうか。どうも逃げられないようだ。それこそ、アラスカでひとりで生きることを選ぶしかなくなってしまう。

しかし、資源は効率的に使われねばならないという観点から考えると、そうやって自由よりも統率された世界でなければこの先どうなるかがわからないのも現実である。
ゴミがあふれかえり、食品の廃棄が一日に数万トンという国がある一方で毎日数百人の子供が餓死している世界が正常だとは誰にでも言えない。
自由な状態でいれば資源を食いつくし、統率に対しては反発をしないといられない。人間とはなんとやっかいなものなのだろう。そうなると、最終的には資源を食いつくして滅びるしかないのじゃないか。それを防ぐためには粛清しかない。これはネオジオンを興したシャアの思想に近いのかもしれないけれどもいつかどこかでそういうことを企てる人間が現れるのではないだろうか。

そうであるならば、人と人はわかり合えないから争いはずっと続くということが演繹的に導き出されてしまう。
戦争とまでは言わなくても、家族でさえも分かり合えないのだという実感の中、もっと多数の人々の思惑が錯綜する大きな集団になればなるほど分かり合うことはできない。
しかしながら、その“分かり合えない”ことが様々な文学や音楽を生み出してきた原動力になってきたのではないかとも思うのだ。

そう考えると、ひょっとしたら、「人々が分かり合える世界」というのはほとほとつまらない世の中なのかもしれない・・・。
分かり合えない相手を自分のまわりにたくさん抱え込んでいるというのもほとほとつまらないことではあるけれども・・・。
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水軒沖~加太沖釣行

2019年08月22日 | 2019釣り
場所:水軒沖~加太沖
条件:小潮4:07干潮 10:12満潮
潮流:5:14下り2.2ノット最強 8:32転流
釣果:タチウオ12匹 サワラ 1匹 ツバス 3匹 カスゴ 2匹 (ふたりで)

今日は森に暮らすひまじんさんに声をかけての釣行だ。例年なら今頃は近場のタチウオは釣れても小さいし、加太へいく習慣もなかったのでなかなかいいと言える釣りものがないけれども今年はタチウオが大きい。それにフェイスブックのメンバーたちは加太で真鯛の釣果を上げている。それを組み合わせるとなんとか形になるのではないかと思い声をかけてみた。ひまじんさんは初夏のころ、目の治療をされていたので例年のチョクリ釣りにも声をかけていなかったのだ。今ではアユ釣りに行ったり大分で登山をされたりと完全に復活をされているようなので船に乗ってもらってももう大丈夫だと思ったのだ。

まずは紀ノ川河口でのタチウオ。午前4時半に出港し、ポイントに到着したのは5時前。少し東の空が明るくなってきたのでそろそろアタリがあるかと思ってもなかなかアタリがない。あれ~。ここは絶対テッパンのはずなのにいきなり今日のプランが破綻するんじゃないかと心配になってきた。お客人に乗っていただいた時にアタリがないとそれなりにプレッシャーになるのだ。しかし、それも杞憂に終わった。南海フェリーが入港したあとくらいだから午前5時10分頃だっただろうか、ひまじんさんから「アタリがあったよ。」という声がかかった。おお、確かにタチウオがついている。そのあとは連続してアタリ。中には指4本くらいのものもある。よしよし、今のところはプラン通りだ。



午前5時半には終了して次の釣りへ。一昨日の釣りでツバスが釣れたので加太へ向かう途中の別荘前でこれを狙う。



煮付けにして食べてみるとちょっとだが脂があって意外と美味かったのだ。北港釣り公園の前て魚が跳ねたのが見えたのだが、ここだときっと型が小さいと思い。我慢をして先を急いだ。住金(今は日本製鉄か・・。「住友」の文字が消えちゃってるじゃないか・・)の入り口辺りで仕掛けを下す。プランだとここですぐにアタリがあって、3匹くらいをさっさと釣って加太へ真鯛というところだったがアタリがない。うわ~、またプランが破綻するのか~。と思っていたら、ひまじんさんからアタリがありましたよ~。との声。なんだか大きいとおっしゃるけれども、まあ、ツバスだから大したことないんじゃないのと眺めていたが、やっぱり大きそうだ。魚の影が水面下に現れると確かに大きい。サワラじゃないか!80センチくらいはありそうだ。あらまあ、こんなところにこんな魚が泳いでいるんだと僕も驚いた。しかも鼻先に鉤が掛かっていたものだからハリスも飛ばされずに済んだ。小物用の仕掛けだからナイロン8号。掛かりどころが悪かったら簡単に飛ばされていただろう。ひまじんさん、今日はかなりついている。そして、僕はもう満足だ。

もう、ツバスはいいから加太で真鯛だ。予報では午前9時頃から南の風が強くなってくるようだ。それまでにここから脱出しないと帰りはしぶきを浴びながらの帰投になってしまう。
潮はまだ下っているはずだが、テッパンポイント付近に船が何艘か集まっている。ここでも釣れるかと早速仕掛けを下すと僕にアタリ。けっこう大きい。しかし、バ~っと走られて3.5号のリーダーが切れてしまった。青物かサゴシだろう。
その後、ひまじんさんにツバス。僕にもツバス。そしてふたり一度にカスゴ。これで今日、目的とした魚はすべて釣れたことになる。サワラは大きすぎるおまけだ。

風が強くなる前に早めに帰港。

家に帰って給油をしてから雑賀崎の周回道路を走ってみる。風が強く吹いてそれに乗ってトビが優雅に空を舞っている。彼らは多分、食料を探すために舞っているのではなく、舞うのが楽しいから飛んでいるのだと確信できるような優雅な飛び方だ。



僕も今日は釣果があったので空を見上げる余裕があったのだ。


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水軒沖釣行

2019年08月20日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 8:40満潮
釣果:タチウオ 6匹 ツバス 3匹

今日は森に暮らすひまじんさんに声をかけていたのだが、昨日の午後天気予報を確認してみると南からの風が強くなっていた。これはちょっとまずいのではないかと思い延期としてもらった。自分ひとりだと波があればあきらめて帰ってくればいいだけなのでとりあえず海に出てみた。今回はTさんが教えてくれた新しいタチウオの仕掛けを試そうと思っているのだがやはりいきなりゲストに使ってもらうのは不安なのでプラクティスをしておきたかったのだ。



この仕掛けはおそらくいつも使っているやつより早い時間からアタリが出てくるに違いないと考えてちょっと早めに出港。昨日の大雨で水潮が出ているかもしれないがここは初心貫徹でいつもの青岸沖からスタート。同じ港のタチウオ名人も来ている。
仕掛けを下していきなりアタリ。おお、この仕掛けもやってくれるじゃないか!。しかし、残念。秒殺で全部仕掛けがなくなってしまった。8号の糸なら大丈夫だと思ったがダメだ。新しい仕掛けに取り替えて続けるがアタリがない。魚がいるのは分かったのでこのままボウズというのも嫌だ。ということでいつもの仕掛けに変更。この仕掛けにはポツポツアタってくる。ただ、やはり水潮のせいか、今まででは一番厳しい。そしてあろうことか雨が降ってきた。予報では午後からのはずだったのだけれどももう土砂降りになってきた。魚が掛かって船べりから身を乗り出すともうボトボトになってしまう。一時は築港の護岸が見えなくなってしまった。



アタリのあるうちにもう一度新型仕掛けを試そうと下ろしてみると一度だけアタリがあった。しかし鉤に乗らない。う~ん、濁りのせいで魚がうまく鉤をくわえないのか、それとも使った鉤が大きすぎたか・・。どちらにせよレギュラーで使うには少し問題がありそうだ。再び既存の仕掛けに変えて釣りを続けていると雨があがってきた。
元々タチウオを釣ってから加太に向かおうと考えていたので、雨の後の風が心配だけれどもとりあえず行ってみることにした。タイラバのほうも新しく接いだ竿を試してみたかったのだ。「新しく接いだ」という表現はおかしいけれども、折れたタイラバ用の竿をもらってきて座ったままでも竿先が下を向きやすいように短くしてみたのだ。だから「新しく接いだ」となる。



しかし、田倉崎を越えるとすごい波だ。おまけにむこうから雨がやってくるのが見えている。

 
これは無理をしてはいけない。そして、万が一釣れなかったということにでもなれば、ひまじんさんを誘うことができない。ここは運を温存しておこう。

ここまで来る途中、多分ボラではない何かが水面上に跳びはねていたので田倉崎から北港釣り公園までの区間、仕掛けを下しながら帰ってくるとこの区間でツバスが3匹ヒット。
朝は少し涼しくてわずかながら秋めいてきたかと思ったけれども、南の空はまだまだ亜熱帯の雰囲気だ。そしてツバスが釣れるというのもまだまだ海は夏を保っている。





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「世界昆虫神話」読了

2019年08月13日 | 2019読書
篠田知和基 「世界昆虫神話」読了

暑い日が続いていて本を読んでいてもボ~っとしてくるのであまり頭を使わなくてもよいような本を選んでみた。

このシリーズ、魚編もあるそうなのだが図書館には蔵書がなく、かわりに昆虫編を借りてみた。まあ、夏は昆虫の季節でもあるのでちょうどよい。本の内容は昆虫にまつわる神話や民話、小説、俳句、短歌など様々な文学を断片的に取り上げている。特に神話や昔話なんかはもともと文脈らしいものがないからボ~っとしていても、そんな話なのかと思うだけでよい。

師は長い旅に出るときには必ず聖書とレストランのメニューを携えていたそうだ。旅の途中はそれ自体が刺激的なので読み物はあまり考え込まなくてもよいものという意味で選んだものだそうだが、クーラーの効いていない夏の昼間の部屋の中でもあまり考えるということをしたくないものだ。
この本もそのとおりで、現実の世界からは程よく遠い世界のお話である。

昆虫の中では蜜蜂というのは一番古くから、蜂蜜をもたらしてくれるという意味で人間にとって直接的に有用な昆虫であったので人類の歴史が始まる以前から神話や絵の中に出てくるというのはまあ、よくわかる話だ。
著者が集めた物語にはそれ以外にもたくさんの昆虫が出てくる。霊を運ぶ昆虫、危機を助ける昆虫、道案内をする昆虫、はたまた人を惑わせるもの、その他もろもろの場面で蝶や蜻蛉、飛蝗などが登場する。しかし、特にたくさん出てくるのは蚤、虱、蜘蛛という、どうもあまり人には好かれていない虫たちだ。それが人間の味方になったり邪魔者になったりしながら登場する。これはどうしてなのだろうか。常に気を配っていないと病気のもとになるからという意味でもあったのだろうか。ほかにももっときれいな昆虫もいるのに不思議なものだ

小さいころは虫が好きでこの時期はいつも虫かごをもってウロウロしていたものだけれども、年かさが増すにつれて虫を見つけることができなくなってくるように思える。日頃の生活にあくせくしすぎてじっくり茂みを凝視することができなくなってしまったからなのだろうか。それとも、身長が伸びてくると目の位置と茂みの距離が離れてくるので虫が見えづらくなるからなのだろうか。単純に45年前と比較すると虫の数が少なくなってしまったからのだろうか。そういえば、香川照之が扮するカマキリ先生はドイツでの調査ではこの30年間で8割の昆虫がいなくなったと言っていた。
調べてみたら、最後にカブトムシを取りに行ったのはもう11年も前の夏のことになっていた。
もう、あそこのクヌギの木にもカブトムシはいなくなってしまったのだろうか。多分、もう二度と行くことのない小さな林に少しだけ思いをはせるのだ・・。
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「映画で考える生命環境倫理学」読了

2019年08月09日 | 2019読書
吉川孝 横地徳広 池田喬  「映画で考える生命環境倫理学」読了

「環境倫理学」という言葉を辞書で調べると、『地球環境問題に対して倫理学的観点から考察する学問』となっている。そして倫理学とは何かということを調べてみると、『一般に行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域』と書いている。そういえば、高校生の時、「倫理社会」という教科があったけれども、大嫌いな教科であった。ただ、あの頃もっとこれを勉強していれば、人生や社会に対する考え方も少し大人びて考えることができたのではないかと残念には思っている。というか、そういうことを考える能力が当時からなかったから「倫理社会」が理解できなかったということなのだろう。

この本はその環境倫理学を映画、特にSF映画を中心にして考えてみようとする内容になっている。
どうして映画を題材に求めているのかというと、映画というのは様々な問題をある意味極限状態、もしくはその主題だけを極端にクローズアップした形で作られていることが多い。そんなシチュエーションで主人公たちが取る行動を見ることで環境の変化が人々の心に与える影響、もしくはどのようにふるまうべきなのかという考察ができる。
とくにSF映画を取り上げているのは、哲学が求める、「存在とは何か、時間とは何か、そもそも人間とは何か、善く生きるとはどのようなことか、心と体はどのように結びついているか。」ということを極限の状態で考えるのに最適であると著者たちは考える。

それぞれの映画は確かに特殊なシチュエーションでの人々の行動を描くものだが、結局じゃあ、その時に人としては倫理的にどうあるべきかということは具体的に書かれていない。まあ、書いてもらったとしても僕が生きている間には何の役にも立たないだからどちらでもよいというもなのだけれども・・。

ただ、その一端はすでに表れてきているのだろうというのが僕の感想だ。特に大きかったのはインターネットの普及だろうか。あまりにも人と人のつながりが広範囲になったということに人はついていけていない。そしてインターネットのなかで世界があまりにも広がったことに人の判断力もついていけていない。様々なニュースがそれを示している。環境倫理学は今こそもっと力を発揮してもらわねばならないものであるはずだが残念ながらそれほど世の中に浸透していないようだ。

「人は分かり合えない存在である。」エヴァンゲリオンやガンダムのテーマである。それゆえに倫理学が必要になってくる。いっそのこと、エヴァンゲリオンで描かれる人類補完計画やガンダムのニュータイプとしてつながる人類の世界のようになればそんな難しいことを考える必要がない。だからだろうか、この本にはこの二つの物語が登場しない。倫理学の地平を超えてしまうからということなんだろう。人はそれで幸せになれるのか。そうなっても幸せになれないのなら人は永遠に幸せになれないということだろうか・・。
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紀ノ川河口釣行

2019年08月08日 | 2019釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 6:07干潮
釣果:タチウオ 15匹

台風が2個接近している。



ダブルタイフーンは命のベルトだが、ダブル台風は海の状態がどうなっているのかがわからない。朝起きてみると風はほぼ無い。これは行けるのではないかと出港を決定。今日のプランも前回と同じで暗いうちはスズキ狙いで少し明るくなってから保険のタチウオ狙いだ。

今日は立秋。昼間はものすごく暑かったけれども東の空の低い所にはオリオン座が出ていた。



真っ黒にしか写っていないけれどもこの画像の真ん中ぐらいにオリオン座が見えている。もう空は冬の準備を始めているのだ。


案ずることもなくすんなりいつものポイントに到着すると流れがない。午前4時頃だったので潮は引いている時間のはずだが船が下流に流されない。どうしてだかわからないが、う~ん、船があまり流されないのならこんな日はここでタコを狙うべきだった。もともとタコをやってみるのもありかと思っていたが、うねりがあったらすぐに撤退しなければならないからエサを持って行くのがもったいなかったのだ。

ポッパーからペンシル、リップレスミノーとルアーをチェンジするけれども今日はアタリがない。やっぱり潮が悪いのか・・。

午前4時半を回ってちらほら船が見えてきたのでタチウオに変更。最初のアタリは仕掛けを下す途中にきたので今日もえらいことになるかと思いきや、アタリは散発的。釣れていた時間も30分ほどしかなく今日は終了。




とりあえず台風への備えのため、それぞれの船のロープを締めてきた。紀伊半島を直撃するわけではないので大したことは無いだろうけれども、去年のトラウマがある。とりあえずは何事もなく通りすぎてほしいものだ。

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マリーナシティ沖釣行

2019年08月04日 | 2019釣り
場所:マリーナシティ沖
条件:中潮 8:08満潮
釣果:キス 24匹

今日も電気ウキの祟りだ。



タチウオの仕掛けを下して道糸を握るとえらい軽い・・・。仕掛けの輪っかをスナップに通したはずが何をトチ狂ったか通し忘れていたようだ。ああ、仕掛けは魚を1匹も手にすることなく海の底に沈んでしまった。
今朝は少し寝坊して焦っていたということもあったのだろうけれども、今晩の天ぷら用にチョロっと釣ってやろうなどという邪な心が神様の逆鱗に触れたのかもしれない。言っても命あるもののその命を奪うのだ。もっと心して掛かれということだろう。

意気消沈して浜の宮沖へ。



壊れていた台所のエアコンがやっと新しくなったので奥さんに天ぷら作ってって頼んでも大丈夫かもしれないとキスを釣りに行ったが、ここは相変わらずまったくアタリがない。本当に一体どうなってしまったのだろうか。もう、これからもずっと未来永劫釣れない場所になってしまったのだろうか・・。
仕方がないのでマリーナシティ沖へ。視界がほぼすべて人工物のこの場所はあまり雰囲気がよくないと僕は思っている。だからここは最後の手段なのだが、ここでしか釣れなくなってしまうというのが悲しいのだ。



ただ、この場所は裏切らない。ポツポツとアタリが出る。ただ、それも長くは続かない。潮の流れが変わった午前7時半ごろから急にアタリがなくなった。流れが変われば浜の宮の沖でもアタリが取れるかもしれないと思い再び移動したけれどもやっぱりアタリはなく午前8時を待たずに終了。

今朝の自販機には、値下げのPOPが貼り付けてあった。お金持ちだけの景気が良いこのご時世、ありがたい話なのだが、僕は300円で十分。やっぱり貧乏人には冷たいのが現世だ。この暑さでゴカイもどんどん子供を産んで仕方がないのだらおうか。豊作貧乏というやつなのだろうか。

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