イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「木地屋幻想 紀伊の森の漂泊民」読了

2022年02月20日 | 2022読書
桐村英一郎 「木地屋幻想 紀伊の森の漂泊民」読了

この本の著者は、宇江敏勝の本の付録の文章を書いた人である。その中でこの本のことが紹介されていた。
木地師という職業を知ったのはずいぶん前のことだ。山の中を転々として轆轤を回して木材からお椀や皿を削りだしてそれを売る。定住先を持たず、放浪のような生活だが、なんとも自由な生活だと子供心に思った。もちろん、それはうわべだけのことで、それがどんなに過酷なことであったかということは知る由もなかった。
それよりも、カンナを回転する木材に当てると見る見るうちにきれいなお椀が出来上がるという光景に見惚れたというほうが大きかったのかもしれない。僕もあんなことをやってみたいと・・。
おそらくそれの延長でウキを作り始めたというところもあったのだと思う。

この本は、紀伊半島に残る木地師の痕跡を追った本である。実は、もう少し木地師という仕事とはどんなものであったかというようなことが書かれているのかと期待して読み始めたのだがその期待とは大きく外れている内容でもあった。

木地師にはそのルーツというものがある。その祖は、惟喬親王という人物だと伝えられている。この人は第五十五代文徳天皇の第一子として生まれたが弟(清和天皇)に皇位を奪われた後各地を転々として京都で亡くなったという人だ。母は紀氏の出身だと書かれているが、これはきっと紀州の豪族の紀氏のことだと思う。和歌山にも縁がある人だったのかもしれない。
ちなみに弟の清和天皇は清和源氏のルーツだそうだそうだから源頼朝のご先祖ということになる。
その惟喬親王が今の滋賀県東近江市にある蛭谷、君ヶ畑で暮らした時、法華経の経車をヒントにした手回し轆轤を考案し、その技術を村人に伝えたという。
その人々が全国に散らばって山中に入り食器を製造したということだ。その時に役に立ったのが、どこでも通行してもよいという、天皇の綸旨、時の有力者の免許状、往来手形であった。これを持つことにより全国どこに行っても仕事ができたというわけだ。
その道を切り拓いたのが惟喬親王であったので木地師の祖と崇められるようになったのである。
また、蛭谷、君ヶ畑周辺は小椋谷と呼ばれるので、木地師をルーツに持つ人たちには小掠、小倉という苗字が多いそうである。

近江を離れた木地師の名前やどの辺りでいつごろ生活していたかというのは、蛭谷、君ヶ畑にあった寺社が勧進のために送った氏子狩(氏子駈)の記録からある程度わかるそうだ。しかし、祖地を遠く離れてもお金を集めにやってくるというのも困りものだ。ただ、納める人たちもその見返りに往来御免の証文をもらえたということにもなるのだろう。

著者はそういった文書をたどったり、昔のことを知っている人々を訪ねるのだが、やはりそこは断片的なことしかわからない。大正時代になれば木地師たちは里に下りてしまったそうだし、元々が共同体というよりも分散してしかも移動生活をしていた人たちなのだというのだから痕跡というものはほとんど残っていない。土地も資産も持っていない人たちだったから子孫に残すようなものもなかったのであろう。静かに生きて静かにこの世から消えていった人々というのはなんと潔い人々であったのだろうと思う。
山の中には木地師だけではなく、炭焼きやサンカ(農具の箕を作ったり、川魚を売ったりする人)、踏鞴師(たたらし:製鉄に従事したひとたち)などが転々と場所を変えながら暮らしていた。まさしく宇江敏勝の作品の世界になるのだが、著者は、里人(定住している農民たち)は彼らを差別や偏見という特異な目で見ていただろうが、それは好奇心やある種の憧れも持っていたに違いないと書いている。
まさしく僕が見ているのと同じ目線だ。憧れるけれども自分じゃできない。でもやってみたい。いや、今の世の中ではWi-Fiと水さえあればなんとかやれるんじゃないかとか、週に2、3日ならやってみたいとか、自分の生活のどこかにそういう部分を取り入れたい、もしくは残しておきたいと思うのは先人に対して失礼に当たるだろうか・・。

木地師たちが作ったお椀やお皿はその後どうなっていくかというと、木地師を束ねる人たちが現れ、紀州では黒江に集められそこで漆を塗られ全国に出荷されていたという。黒江では漆の代わりに柿渋と炭を混ぜたものを塗った安価な商品が大量に生産されていたそうだ。日本でも有数の漆器産地であったらしい。
僕の母方の祖父も黒江で木地師をやっていたそうだ。おそらくはその下請けだったのだろうが、僕もよく泊まった借家の2階が作業場だったと聞いたことがある。
この頃にはすでに轆轤を使ったものものは少なく、硬い段ボールみたいなMDF材を型抜きして作っていたらしく、その抜かれた後をどこかからもらってきたのだろう、風呂の焚きつけ用に風呂釜の横に山のように盛られていたことを思い出す。
大分様子は違うが実は僕も木地屋の血を受け継いでいたりするのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする