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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「生まれてきたことが苦しいあなたに  最強のペシミスト・シオランの思想 」読了

2021年06月12日 | 2021読書
大谷崇 「生まれてきたことが苦しいあなたに  最強のペシミスト・シオランの思想 」読了

少し前、新聞に「反出生主義」という言葉が出ていた。「生まれることおよび子を持つことを否定的に価値づけ、子を持つことを道徳的に悪いと判断する倫理的見解」だそうだが、この言葉をたどってゆくとシオランというひとが見つかった。この人はこの考えを擁護したひとりだそうである。

エミール・ミハイ・シオランは1911年にルーマニアに生まれて、1995年に亡くなった思想家で作家だ。僕の両親よりもすこしだけ上の世代ということになる。父親は聖職者だったということで、それほど貧しい少年時代を過ごしていたわけではないけれども、10歳になり、リセに入学するため下宿生活をはじめると、ペシミストの片鱗を見せ始める。
そして、その著作の内容から、最強のペシミスト、世界一の悲観主義者などと言われている。頭木弘樹の「絶望名言」にもシオランの文章が紹介されていたので間違いなく筋金入りなのだろう。しかし、実際はそれほどでもなく、普段のシオランは明るく快活で人ともよく話したそうだ。なにより、自殺することもなく84歳まで生き、ひとりの奥さんと生涯つれ添ったというのだから、幸福な人生というようなものを送ったに違いないと思う。

そういうことを含めて、読み始めていきなり、ああ、僕はこの人と同じだと思ってしまった。

シオランの思想の特徴的なところは、一般的にはそれが不道徳であり人道的ではないと思われるものを肯定していることだ。そして、それが実は私たちが人生を生き延びるためにとても役に立つということだと著者は言う。

では、シオランはどんな生き方がいいと語っているのか。ひとつは「怠惰である」こと、もうひとつは「いつでも自殺できると考えること」であるという。なんとも不道徳であり非人道的である。

怠惰については、こんなことを言っている。
どうして怠惰であることが生き方としてよいのかということを、殺人を冒すことと比較しながら論じているのだが、この本に書かれているその断片をつなぎ合わせてみるとこんな感じになる。
『殺人のストーリーを読むほうがただ何もせずベッドに寝たままの怠惰な人間をみているよりもましである。殺人を冒すにはエネルギーと実行するという意思が必要だ。』『殺人は、動機や意図に従って計画を立て、選択して決断するというのが社会の通常の活動の特徴であり、そして、殺人と共通する特徴なのである。』
それは、経済活動にも通じる実行力である。だから、『世間は、人殺しに対する方が寛大なのだ。「俺はなにもやりたくない」と叫ぶことは、社会にとってある意味、人殺しより不気味で常軌を逸している。』
しかし、「実行する」ということ、すなわち「行為をなす」ということであるが、自分の意思を貫きとおして行為するためには、人は悪徳を利用しなければならないというのがシオランの考えである。『何かに秀でようとするとき、その意思は他人の意思とぶつからざるをえない。私の意思を貫徹すべきか、それともひっこめるべきか?もし前者を選ぶならば、悪徳-悪意、敵意、怨恨、憎悪、嫉妬、強欲などが力を与えてくれる。反対にそれができない人間は、あちらこちらで自分の意思を取り下げ、右往左往し、無気力に落ち込み、失敗し続ける運命にある。』そんな気持ちに苛まれるのであればいっそ無気力に生きた方がよいのだ。『怠惰は悪徳であるが「高貴な」悪徳なのである。』のだからやはり怠惰であるという生き方がよい生き方であるとなる。

行動するということが悪意を生んでしまうというのであれば、怠惰でいるほうがよほどいいというのはうまく論理をすり替えているような気もするのであるが、これを現代の社会、政治環境にあてはめてみると、こういうことになるのではないだろうか。
『自由主義の世界では人々は自分の意志のもとに行動する。そして多様性が生まれるのであるが、それは対立を生む。そして不正は、あるいは正確に言えば、通常私たちが不正と呼んでいるものは、この対立において他人を凌駕しよう、そして他人という障害を取り除いてでも完遂しようという意思から生まれる。』
これは社会の中でなくても会社のなかにでも当てはまりそうだ。すべてがそうではないけれども、自分の意見を押し通そうとすれば軋轢を生み、自分の意見を押し通そうとする他者からは悪意しか見えてこない。誰かの陰口はどこでも語られている。

現代社会は生きやすい世界かといえばそうとは思えない。それは、過剰な競争や必要かどうかわからない人間関係によって大半のひとは疲弊したり、そういうことに飽き飽きしているのではないだろうか。そんなことならシオランのいうとおり、怠惰でいるほうがよほど人間らしい生き方であると思えなくもない。ただ、シオランはこうも言いながら、怠惰でいることは衰退、破滅への道をたどっていることと同じだとも言っている。『ダブルスタンダードなどを考慮したり、それに悩んでしまう人間は、衰弱した人間なのだ。悩んでしまうこと自体が衰弱の兆候であって、くよくよ考えること自体が真理に対する裏切りだ。』しかし、『怠惰人間には破滅が待ち受けているが、怠惰人間であること自体は何も悪くない。』逆に、それゆえに他人に対して自由を認めることになるのだという。それはきっとすべてにおいて寛大になれるのだということであり、自身にとってもそれは幸福なことであるといいたいのだろう。
そして著者は、こういった人たち、『怠惰でありつつも仕事をするという、それほど「高貴」ではない、中途半端な怠惰人間が大人数いることになるだろう。』と言っている。僕もそのひとりであり、『命じられた仕事をやってのける満足感は(特に仕事を信じておらず、軽蔑している場合)、その人間がいかばかり深くの群れに根を下ろしているかを示すものだ。』という言葉にたじたじとなるのである。


自殺についてはどういっているか。自殺をするというのはひとつの切り札であると言っているようである。
『いつでも自殺できると考えることで、安心できる可能性、生き続けることができる可能性が生まれてくる。いわば、それ以降の人生は、もう破綻してしまった人生の、ささやかな延長戦となる。いつでも逃げられるのならば、もう少し続けてもいいのではないか。いやになったらやめてしまえばいいのである。』というのである。
なんとも曲論であり極論のような気がする。そしてこんなことを続ける。
『死は失敗の好みを持ち、天分を持つような人間の庇護者である。成功を収めなかった者、成功への執念を燃やさなかったすべてのものにとっては、一個の褒賞である。死はその種の人間のほうに理ありとする。死は彼らの勝利なのだ。逆に死は、成功のために骨身を削り、ついに成功を収めた人間たちにとってなんと残酷な否認、なんと痛烈な平手打ちであることか。』
そう、怠惰で何もできなかった、しなかった人にとって死はいつでもそこから逃げだすことができるという金色の切符であるが、いつまでも成功をかみしめていたいひとにとっては恐怖の暗闇なのである。
死に対してはほかにこんなことも書いている。これは怠惰であれと言うことにもつながるのかもしれないが、若い頃の体験として、不眠でノイローゼになっていた時、母から、「もし知っていたらならば、堕胎していたのに。」と言われた。シオランはその言葉を聞いて、自分は偶然の産物であったのだと感じ、その考えによって、生存をまじめなものとみなすのをやめることができたというのである。そして、『本当の意味で最上であるのは、そもそも生まれないことである。生まれなければ、生きる苦しみを受けることも、死の恐怖に苛まれることもなかったのだ。』と考えるようになる。これがシオランが反出生主義ということを考えるきっかけになったようだ。

なんだかすべてがごもっともなことを言っているのか単にひねくれているだけなのかと迷うのだが、僕自身も確かに似たようなことを考えていた。自殺しようなどと思うほどの勇気はなかったが、重い病気になってなにもできない体になってしまったらすべてのものから解放されるのではないかとか、宇宙飛行士は宇宙で事故が起こってもうダメだとなったとき、苦痛を感じることなく死ねるように毒薬のカプセルを持っているという話を聞いて、そんなのが欲しいなどといつも思っていたが、同じようなことを考えていたひとがほかにもいたのかと思うとなぜだかホッとしてしまったりする。そしてそのひとが意外と元気で笑いながら84歳までいきたということに少し力をもらえるのだ。

シオランは、こういった考えの中から、「解脱」という考えにたどり着く。解脱とは、『ひとまず人生からの決定的な解散、生の内部に存在したまま生を克服すること。生きたまま死者になること、「死」という言葉を避けたければ、「生きたまま生を放棄すること」』である。
これを発展させると、「最初から生まれてこなければよかったのに」となる。シオランは、『生まれないようにするために何もしなかったと言って私は自分を責める。』というのだぁら、シオランは相当皮肉屋だったのかもしれない。

これはまるで釈迦の教えのようだと思えてくる。そして、僕が知るかぎり、アドラーの教えにもつながるのではないかと思った。結局、自分らしく生きようとか、平穏な生き方とはとかを突き詰めると同じような考えにたどり着くということか。確かにシオランは、仏教や道教、グノーシス主義、ドイツ神秘主義などからもインスピレーションを得ていたそうだ。
ただ、シオランがその境地にまで達していたかというとそうではなかったそうだ。最後の最後まで苦悩に満ちた言葉を残しているらしい。おまけに、不倫もしていて、相当ふしだらな手紙も残しているそうだ。
そして、一方ではペシミストは苦痛を求める性癖がある。それは、キリスト教徒が迫害を信仰の証明だと喜んでそれを受け入れるということに似ている。そして、その原動力は人生と世界に対する嫌悪であるというのだ。シオランは、『この人生から自分を葬り去るのは、人生に毒づく楽しみを捨てることでしかない。』というのだが、これもシオランが解脱の境地に至れなかった理由のようである。これはシオランだけではなく、一般の人間にもそれは言えることだろう。
これに基づくと、政治家の方々というのがあれだけ悪口を言われて続けても政治家を続けているということや、職場の女帝が傍若無人にふるまい、自分以外の人間を無能呼ばわりする理由がわかってきた。みんな悲観主義者で苦痛を求める性癖があり自分を求道者と勘違いしているのだ。また、解脱ができないという裏返しで他者を攻撃するのだということだ。
徳川家康は、『人の一生は重荷を負て遠き道を行くがごとし』と言っているが、その重荷を下ろすことはお釈迦様以外にはできないのである。
そうなってくると、結局、怠惰に徹することもできず、世間や他人に憎悪と嫉妬と敵意を抱きながら適当に生きていくしかないということになるのだろうか?
シオランの言い方ではこうなる。
『人生はむなしいと思うのは、存在意義がないことにおびえるからであるが、それはなまじ存在意義があるからであって、最初からなければそんなものは屁でもない。』だから無益な存在であるというのはひょっとして幸福なのかもしれない。


そのほか、シオランは様々なことに面白いというか、同じような生き方しかできない僕にとっては確かにそうだと思わず膝を打ってしまいそうなアフォリズムを残しているので気に留まったものだけだが、書き留めておく。
以下のふたつは、仕事に来るといつも思っていること。
『独りでいることがこよなく楽しいので、ちょっとした会合の約束も私には磔刑にひとしい』
会議やアポイントでこれは相手が少しでも苦手なひとだといつもこんなことを思っていた。いまではそういうことからほぼ完全に解放されているのでありがたい。おまけに、自分がやらなければならないこと(それもわずかなことだ。)だけをやっていれば静かにひとりでいられる。役職から離れるというのはこうも自由なのかと思ったりもするのである。
『批評家は、この特権を不当に自分のものとして、自分は並の人間ではなく、自分にはすべてが許されると思い込んでいる。他人を語って才気を見せるよりぶざまでも自分について語るほうがずっとましだ。』
たまにこんな人がいるのだ。自分では何の独創的なアイデアを出すこともないのに、誰かが出した意見について適当に何かを付け加えて、いつの間にかさも自分が出したアイデアのように語っているひと・・。

もうひとつは、これを読むと、僕もまだ笑うことがあるので大丈夫だと思えてくる。
『もう笑う気が起こらなくなったら、それが潮時と思うべきだね。でも笑う気持ちがあるうちは、もう少し待つんだな。笑いは生と死にたいする唯一のまぎれもない勝利だよ。』
民放のバラエティー番組はまったく面白くなくなったが、僕には「あまちゃん」が残っている・・。

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