イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「作家の手料理」読了

2021年12月15日 | 2021読書
野村麻里/編 「作家の手料理」読了

30人の、作家や有名人が料理について語ったエッセイが収録されている。今年の初めに出版された新刊書のわりには掲載されている作家は昔の人が多い。大半が1900年代の前半に生まれた人たちだ。1950年代に生まれた人で収録されているのは2名だけである。これは編集者の好みもあるだろうけれども、料理を文学にするというのは今の時代では難しくなったということもあるのかもしれない。
料理に関する小説やエッセイを好んで読むというのではないが、現代に生きる作家が現代の食を語るときっと味気ないものになってしまうか、昔を懐かしんで過去を書くという風になってしまうのではないかと思う。世界中の食材が、年中、季節を問わず簡単に手に入るのが現代だ。料理法も、いかに簡単に作るか、いかに手を抜くか、本当の味に似せるか、そんなことが話題の中心になる。格差社会では、そんな高級なレストランの話をされても現実感がないと興ざめをさそうだけだ。そして、コンビニの食材や激辛メニューがテーマでは文学にはならないだろう。
だから、人が、日常の中で季節感を感じる食について書いたものを厳選してゆくと自ずからそういう時代の作品になってしまうというのが本当のところかもしれない。
これは釣りの世界も同じで、季節感や、自然の中に入り込んで書かれた作品となるとひと昔、ふた昔、もっと昔の作品を選ばざるをえないということになるだろう。食も釣りもなんだかすべて効率化、画一化されてしまっているような感がある。
自分自身も、これくらいの時代の人たちが書いた文章のほうが、なんだかしっくりくるのである。釣りに関する文学もしかりなので古本ばかりを読んでいた。
そうは言いつつ、編者が書いた前書きには、『文章と料理を繋ぐもの、それは読者の好奇心と想像力そして実行力である。』と書かれていたが、僕もその画一化された食生活に毒されているのか、掲載されている料理や食材にはあまり想像力が働かない。
その中で、2編収録されていた「苦み」についてかかれたものについてはなんとなくそうなんだよなという気にさせられた。人間が感じることができる味覚のひとつにこの「苦み」というものがあるが、もとは食べてはいけない毒のある可能性のある物を識別するために発達した味覚だという。しかし、人間はこの苦みを喜んで求めている感がある。山菜の苦み、ビールの苦み、どれもわざわざそれを求めているのは確かだ。苦みのない山菜はただの雑草だし、ビールに苦みがなければ日本酒だけでいい。
その理由はわからないけれども、苦みのない食生活はあまりにも単調であるのは確かだと思う。

1950年代生まれのふたりの著者のうちのひとりは星野道夫であった。内容はというと、アザラシの脂肪分についての記述だったのだが、その味については置いておくとして、エスキモーと一緒に生活する上で、この獣臭い脂を食べるということが、同じ仲間だと思ってもらえるためのひとつの試金石であったというのだ。自分たちが食べるものを何食わぬ顔で食べる姿を見てエスキモーたちはよそ者を受け入れる。エスキモーという言葉はたしか、”生肉を食べる人たち”という意味で使われた差別用語だと聞いたことがある。おそらく、よそ者が入ってきてもその生臭さが敬遠され、差別につながったという歴史があったのだろう。だからこれが試金石なったということに違いない。アフリカでも同じようなことがあるということが書かれた本を読んだことがあるので、世界中きっと同じなのだろう。
そういえば、ご近所付き合いについても同じようなことがあるのではないかとふと思った。ご近所付き合いの最初はやはり食べ物での交流から始まるのではないかと思うのだ。
作りすぎた料理をおすそ分けする、もらった野菜や自分で作った野菜を持って行ってお返しにまた何かをもらう。そんなやりとりで相手の生き方や好みを知りながら交流が生まれる。そうやってコミュニティが生まれるのだろうけれども、やはり現代社会ではそういうことがままならない。
僕の隣の住人は、庭にカートップできるボートを置いているほど釣りが好きなひとのようなのだが、まったく交流がない。たまに表で見かけると挨拶をするくらいだ。その家は、子供もいる家庭だが、ヨシケイのお世話になっているらしく、玄関に宅配BOXを置いている。ヨシケイということは、毎食人数分の分量きっちりが配達されるのであろうから、おすそ分けを配ろうにも何も余らないだろう。こっちも、ヨシケイだけを食べているのだからそれ以上のものを食べてもらうというのははばかられる。だから挨拶以上のことが続かない。この前、ボートを洗っているところに出くわしたので、「何か釣れましたか?」「アジが釣れました。」という会話が初めて成立したが、それ以上は続かない。
まあ、世代が違うというのもあるが、やっぱりその溝を埋めるというのが食材なのではないかとこの本を読みながら改めて思ったのである。


想像力と実行力であるが、ひとつだけ、試してみようと思う料理があった。
向田邦子が書いていた、「和布の油いため」である。
レシピはというと、
まず、最初に長袖のブラウスに着替える。
次に、大きめの鍋の蓋を用意する。
ここからが本格的なレシピとなる。
『支那鍋を擁してサラダ油を入れ、熱くなったとろへ、水を切ってあった若布を放り込むのである。ものすごい音がする。油がはねる。このとき長袖が活躍する。左手で鍋蓋をかまえ、右手のなるべく長い菜箸で、手早く若布をかき廻す。若布はあっという間に、翡翠色に染まり、カラリとしてくる。そこへ若布の半量ほどのかつお節(パックでもけっこう)をほうり込み、一息入れてから、醬油を入れる。二息三息して、ぱっと煮あがったところで火を止める。』というものだそうだ。
また来年の春にはワカメの季節が訪れる。その時にはこれを試してみたい。
そして、僕なりの想像力を加えるのなら、この料理に黒ゴマを大量に加えたい。幸いにして、売っていた日が賞味期限切れの日という、ひと瓶10円の黒ゴマを大量につい最近買った。あと、数か月は十分食に耐えられると思うから、これをふんだんに使って文章と料理を繋いでみたいと思うのである。


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