まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

被災地復興を見る~島越、鵜の巣断崖

2019年09月18日 | 旅行記B・東北

国道45号線をベースに北上する今回の旅。道端の標識で仙台からの距離が300キロを指している。乗り始めたレンタカー店は起点から少しずれているし、途中45号線を外れて走行したところもあるので完全に沿っているわけではないが、遠くまで来たものだと思う。

この次の目的地は田野畑村の島越駅だが、その前に被災地めぐりからいったん離れて鵜の巣断崖に立ち寄ることにする。宮脇俊三の初期の紀行文『汽車旅12ヵ月』でスリルある場所として紹介されたのを読んだのは随分前のことだが、訪れるのは初めてである。この日もレンタカーだから立ち寄ろうとしたのであって、公共の乗り物だとバスの便もなく、1日2便、予約制の観光乗合タクシーで行くことになる。

国道45号線から右折して人気の少ない集落の中を抜ける。そのどん詰まりに駐車場がある。断崖の展望台へは遊歩道を10分ほど歩くことになる。

松林が続き、歩道にはふかふかしたウッドチップが敷き詰められている。ただ雲のような海霧のような、どんよりした空である。そしてこの先にあるのが断崖・・・となると、何かサスペンスとか、自殺とか、そうしたネガティブな言葉も連想させる。決して鵜の巣断崖が悪いわけではなく私が勝手に思っているだけだが、そういえば宮脇俊三は『殺意の風景』でも鵜の巣断崖を舞台にしているなと思い出す。

もっとも、鵜の巣断崖がモデルとして登場する文学作品といえば、吉村昭である。『星への旅』は太宰治賞に選ばれ、吉村昭が作家として、その後三陸や東北を舞台にした作品を多く書くきっかけとなった作品である。その一節が文学碑として飾られている。碑文にはこのように刻まれている。

「水平線に光の帯が流れている 漁船の数はおびただしいらしく 明るい光がほとんど切れ目もなく 点滅してつらなっている それは夜の草原に壮大な陣を布く 大群の篝火のようにみえ 光が水平線から夜空一面に広がる 星の光と同じまたたきを くりかえしていた」

展望台からその景色を見る。遥かに東に広がる水平線も壮大だが、やはり見どころは隆起海岸である。五層の屏風のような断崖が続く。高さは200メートルほどという。柵で囲った展望台がある。真下は木で覆われているので恐怖感はそれほどなく、山の上から遠くを展望するのと似たような景色である。今は昼なので真逆だが、夜に来ると吉村昭の文章のような景色が見られるかもしれない。ただ、夜にここに来るというのは結構勇気が要りそうな気がするのだが・・。

駐車場に戻ると雨が落ちてきた。そういえば当日(8月16日)、台風10号はまだ日本海を北上しているところだった。

島越駅に向かう。鵜の巣断崖から直線距離だと3~4キロという距離だが、先ほど見た断崖には道は通っていない。いったん国道45号線に出て、少し走って県道に入る。道をたどると10キロ以上かかる。その間に200メートルの高さを下って、海べりに出る。

島越からは北山崎めぐりの遊覧船が出るのだが、台風の影響によりこの日は運休とある。そのためか人の姿もほとんど見えない。漁港を抜けた先にあるのが島越駅である。

元々は海側に駅舎があったが、震災の津波で駅舎だけでなく高架橋の線路ももろとも流されてしまった。営業再開に当たっては山側に元の駅舎をモデルとして新たに駅舎が建てられている。駅周辺の集落も内陸の高台のほうに移転したようである。

雨の中駅舎内に入る。震災関連の展示コーナーがあり、震災前の島越駅周辺のジオラマや、岩隈久志投手のメジャー時代に寄贈されたユニフォームが飾られている。

その奥には三陸鉄道の車両をバックにした横綱白鵬関と志村けんさんのパネルや、鉄道写真家の中井精也さんの三陸鉄道写真の数々が飾られている。

さらには、ホワイトボードに描かれた寄せ書きの中に、田老に続いてバッファローマンのイラストに出会う。多くの人が三陸、そして島越に思いを寄せて来たか。展示にはその感謝の気持ちも込められている。

列車が来ない時間帯だが、ホームに出てみる。線路を挟んで駅前に慰霊碑、そしてすぐ先では防潮堤の工事が進んでいる。防潮堤といえば、この三陸鉄道も営業再開に当たっては高架橋ではなく土台を築き、いざという時の防潮堤の役目を持たせている。

待合室には吉村昭の文庫が並ぶ。先ほど触れた『星への旅』だけではなく『三陸海岸大津波』の取材でも何度となく三陸を訪れた縁もあり、吉村自身が著作を寄贈したのが始まりだったが、震災の津波で流されてしまった(吉村は2006年に亡くなり、東日本大震災を見ることはなかったのだが、もしその時存命だったら何を思い、何を文章としただろうか)。駅舎の再建にともない、吉村の夫人で作家の津村節子さんが改めて「吉村文庫」として作品を寄贈した。

駅舎を出て海側に向かう。元々はこちらが駅の玄関口だった。今は「島越ふれあい公園」として慰霊碑が建てられている。そしてかつての駅の名残として、旧駅舎の水色の丸屋根、駅舎へ続く階段(の一部)が置かれている。震災遺構という扱いではないそうだが、かつて親しまれていた駅舎のせめてもの名残である。

そんな中、津波にも耐えて当時の姿をそのまま留めているのが、宮沢賢治の「発動機船 第二」の詩碑である。賢治が三陸を旅した時に、田野畑から宮古まで船で移動した時の光景を詠んだ詩の一節である。当時はもちろん三陸鉄道も通っていなかったから、沿岸の集落から集落への移動は船というのが一般的だったこともうかがえる。

ポールのようなオブジェが立つ。先端の高さは17メートル、これは東日本大震災の津波と同じ高さとある。これも津波を忘れないようにとのことだ。

ここに来て雨が強くなってきたが、もうしばらく田野畑村を走ることにする・・・。

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