釜石市の隣の大槌町に入る。国道45号線をいったん離れて県道を走る。ここでも駅に立ち寄ってみる。
大槌の駅舎の屋根はひょうたん型をしている。沖合いにある蓬莱島が『ひょっこりひょうたん島』のモデルの一つとされているからで、そういえば原作者の井上ひさしは大槌町内の吉里吉里の名前を冠した小説『吉里吉里人』もあり、この辺りに何か感ずるものがあったのかなと思う。駅舎内や展望デッキにはひょうたん島のキャラクター人形もお出迎えする。
また、宮沢賢治の「旅程幻想」という詩が石碑になっている。「生き残った私たちは亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたちに どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の『利他の精神』がその道しるべになると考える」と、石碑を建立した主旨が書かれている。「旅程幻想」は賢治が三陸を一人旅した折、大槌で詠んだとされる一節という。地元の有志がクラウドファンディングで資金を集めて建てたもの。
大槌は「南部鼻曲がり鮭」のゆかりの地であることを示すモニュメントがある。近くの大槌川が鮭の遡上する川で、岩手県内でも早期から人工ふ化に取り組んだところだという。
大槌町は震災の報道でよく目にした町の一つである。それは地震発生時に災害対策本部を町役場に立ち上げるために庁舎に参集した町長をはじめ、数十人の職員が津波の犠牲になり、町の行政機能がしばらくマヒしてしまったことによる。
現在の町役場横の坂道を上がる。この先は中世の城跡である城山公園がある。ここに避難した人も多かったが、津波では町の人口の1割を超える1500人以上が犠牲になった。当時この城山公園から津波の様子を撮影した動画もある。
ここに「希望の灯り」がある。震災の翌年に置かれたもので、神戸市、南相馬市、陸前高田市にある慰霊と復興を祈るガス灯から分けられた灯りだ。ちょうどこの先の斜面に墓地があり、多くは以前から建っていたものだが、中には震災で亡くなった方も葬られている墓があるかもしれない。
一方では同じ敷地内に納骨堂が設けられている。
被災当時の大槌町役場庁舎は昨年2018年に解体された。震災遺構として保存すべきか、解体すべきか、多くの議論があったという。
・・・この旅の後、旅行記がなかなか進まない中で、9月に入ってNHKで大槌町を取り上げた番組を見た。日曜朝の、いわば緩い時間帯で流れる番組である。この8月、大槌町では遺族や町職員の証言をまとめた『生きる証』という冊子を発行した。製本されたものは有料だが、大槌町のホームページからPDF版を無料で入手することもできる。
震災当時、町職員はどのような動きをしたのか。数少ない生存者や、遺族による証言をベースに綴られたドキュメント。当時は役場の対応の不備を責める論調も多く、これまで語ることを拒む人もいたが、改めて番組で当事者の証言に触れると、当時ではわからなかった人々の行動も少しずつ明らかになる中で、単純に対応が良い悪いで評価できるものではないことがわかる。彼らにしかわからない苦悩が今も続いている。番組を見たからというのがあるが、どのようなものか、改めて全文を読みたいと思う。
さて、先ほど触れた吉里吉里から浪板海岸に差し掛かる。浪板海岸は、寄せる波はあっても返す波がないという世界でも珍しい「片寄せ波」だという。そのため特にサーフィンのスポットとして人気があるという。ちょうど海岸を見下ろすホテルの脇から海岸に下りる道があり、クルマを停めてしばし波と戯れるサーファーたちを眺める。私には全く縁がない遊びやなと思いつつ。
今はのどかな景色、ホテルもサーファーや観光客で書き入れ時だが、震災で砂浜が「消滅」した時はこの観光ホテルも浸水した。宿泊客は何とか無事に避難させたが、その支配人が行方不明となった。
ホテルの駐車場の片隅に、津波到達を示す石柱がある。ホテルの高さだと3~4階に相当する。海岸まで結構高さがあるように見えるが、津波はそれを超えたのである。いかに東日本大震災の津波が強烈なものだったかがうかがえる。
また、ここにも宮沢賢治の詩碑が建てられている。「暁穹(ぎょうきゅう)への嫉妬」。「暁穹」とは「あかつきのそら」という意味だろうか。この海岸から東の空を眺めるというのもロマンだろう。その意味でこのホテルも泊まってみたくなるが、それらを一変させる自然の脅威というものを改めて感じる。
高い防潮堤が築かれ、町並みの再建も進む陸中山田を過ぎる。本州最東端のトドヶ崎(トドは魚偏に毛)の標識が出て、一瞬そちらに行ってみようかという気になった。ただクルマをいったん停めて情報を見ると、灯台のある場所へは直接クルマで行くことはできず、駐車場から山道を歩いて1時間かかるという。完全に秘境だ。
ということでそのまま宮古に向かう。まだまだ先は長い・・・。