まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第16番「蓮華寺」~近畿三十六不動めぐり・24(隣の仁和寺と合わせて新たに知るところあり)

2018年11月07日 | 近畿三十六不動
仁和寺の東門から道を隔てた向かいにあるのが蓮華寺である。歴史によれば平安中期、後冷泉天皇の勅願で藤原康基により開かれたとあるが、その後応仁の乱で兵火に遭った。江戸初期に豪商出身の常信により再興され、木喰僧の坦称上人に依頼して五智不動尊像を修復し、五智如来(大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、宝生如来)の石仏を彫らせた。

寺が現在の地に移ったのは昭和3年のことで、石仏たちも後に修復されて境内に安置されている。なお、同じ京都でも池泉式の庭園があり紅葉のスポットでもある左京区の蓮華寺とは別の寺で、ものの本では「五智山蓮華寺」としているものもある。

仁和寺に比べれば申し訳ないが境内は小ぢんまりとしている。ただ、この日参詣した大覚寺や仁和寺は寺というより離宮みたいな雰囲気だったので、逆にホッとする気にもなる。寺らしいというのかな。五智如来像が庭にある奥には阿弥陀如来を祀る本堂と不動堂がある。不動堂は中に上がれそうな造りだが、外陣が何だか散らかっているように見える。外には神輿も置かれているし、この寺も先ほどから目にする秋祭りと関係あるのだろうか。

先ほどの御室太鼓もまだ鳴っているのが気になり、朱印をいただいて再び仁和寺に戻る。するとそこで驚きの光景が広がっている。

先ほど仁王門の下にいた福王子神社の神輿が仁和寺の境内にいて、さらにちょうどこれから勅使門をくぐって御殿の中に入ろうとするところだった。寺の中に神輿がいるだけでも異例なのに、さらに拝観客はくぐれない勅使門から御殿に入るとは。

知らなかったのは私だけのようで、福王子神社の神輿は仁和寺と深い関係にあるそうだ。かつての神仏習合からの歴史だが、福王子神社は仁和寺の鎮守社の一つで、神輿も仁和寺から賜ったものだという。秋の大祭の時には氏子地区を練り歩いた後で仁和寺に入り、宸殿の前で奉幣を受けるという。

神輿は御殿の中でワッショイワッショイとやっている。担ぎ手が神輿を差し上げたり、ぐるりと1回転したり。しまった、先ほどまで私も勅使門の向こうにいたのだ。そういえば庭園ではなく白砂に面した縁側に座っていた人が何人かいたが、この神輿が来るのを知っていて間近で見物しようというものだったのだろう。だからといってもう一度拝観料を払って御殿の中で見ようとまでは思わないが。

福王子神社というのがあるのか、知らなかった・・・とは言えない。何か引っかかるなと思い調べたところ、実はこの福王子神社、「関西私鉄しりとりサイコロの旅」で訪ねており、おまけに神社の前でサイコロを振っていたのである(正しくは、サイコロアプリを操作)。その経緯を書いた記事がこちらにある。その時は近いからと仁和寺まで歩いただけだったのだが、実はそうしたつながりだったとは。まあ、いろいろな駅や札所めぐりをしていても、こんなもんである。

ちなみに御室太鼓の子どもたちだが、練習は先ほど訪ねた蓮華寺で行っているそうだ。ごちゃごちゃしているように見えたのは福王子神社の大祭のための練習期間を受けてのことだったのかな。

仁和寺には金堂の特別拝観目当てで来たのだが、思わぬ形で神仏習合の祭りに会うことにもなった。たまには、こうしたこともある。

・・・ここまで抜けていたが、近畿三十六不動めぐりの次の行き先をくじ引きとサイコロで決めなければならない。蓮華寺から仁和寺に戻ってしまったが、もうここの仁王門で決めてしまう。

1.河内長野(明王寺)

2.湖西(葛川明王院)

3.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

4.左京(曼殊院)

5.生駒(宝山寺)

6.宝塚(中山寺)

この中で出たのは中山寺。中山寺か・・・、いや別に中山寺は何も悪くない。受け取る側の気持ちで、今ここで中山寺が出なくてもいいのでは?という程度のものである。

神輿はまだ御殿の中にあるが、もういいかな。仁王門の前にやって来た京都駅行きのバスに乗り込む。

途中、北野白梅町を過ぎるのだがここでも神輿の引き回しが行われていて、バスもしばらく立ち止まった。訪ねた10月21日(第3日曜日)はこの一帯が秋祭りに包まれる日だったのだろう。

1日で近畿三十六不動めぐりは3つ進んだが、改めて京都についてはまだまだ知らないことが多いと感じた道のりだったなあ・・・。
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『早くチームを出たい』『人気球団で投げたい。そこで優勝したい』などと話している」「西は本塁打が多い東京ドームよりも広い甲子園で投げたがっている」…

2018年11月06日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
これが本当なら喧嘩上等やな、西さんよう。
いっぺんいてもうたろか??
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第14番「仁和寺」~近畿三十六不動めぐり・23(372年、秘められた時を越え・・)

2018年11月05日 | 近畿三十六不動
何だか60年に一度とか、このタイトルにあるような372年だとか、時代がかったようなサブタイトルが続く。その心は後ほど。

花園駅を下車して仁和寺まで歩くことにする。駅前の道沿いに神社があるのだが、通りに露店が出ている。そして境内では神輿が置かれ、ちょうど地元のお兄さんたちが担ごうとするところだった。10月下旬なので秋祭りが行われているのだろう、せっかくなのでその一時を見る。お囃子も出て賑やかなものだ。

この神社は今宮神社という。平安中期、三条天皇が都で流行した駅棒を鎮めるために創建し、その後は仁和寺の鎮守社としての歴史を持つ。

落ち着いた住宅地を抜ける。左手にこんもり茂るのは双ヶ丘である。双ヶ丘ときいて思い浮かべるのは「徒然草」を書いた兼好法師で、通り沿いの寺の門前には「兼好法師旧跡」の小さな碑が立つ。「徒然草」には仁和寺の法師が登場する段がいくつかあるが、またその向かいの公園には「オムロン発祥の地」の碑がある。オムロンは元々立石電機という社名だったが、大阪からこの地に移転し、世界への飛翔を期して地名の「御室(おむろ)」にちなんで「OMRON」のブランドを命名した。後に社名もオムロンに変更した。

仁和寺の手前で、今度は子どもの神輿が出る。こうした町内の秋祭りがいろいろ行われる一日なのだろう。

仁和寺の山門に着く。仁和寺にはこれまでにも訪ねたことがあり、四国八十八所めぐりに出る前の京の三弘法めぐりの一つでも来ているが、近畿三十六不動の一つにもなっているとは。

今回はまず御殿に入る。門跡寺院らしく儀式や式典に使われる建物で、現在の建物は明治から大正、昭和にかけての再建である。先ほどの大覚寺と同じように宸殿があり、仁和寺を創建した宇多天皇の肖像画も飾られている。

白砂を配した南庭、池泉式で背景に中門や五重塔が見える北庭も眺める。こちらだけ見ると寺というよりはかつての寝殿造の屋敷におじゃましているようだ。

また霊宝館にも初めて入る。仁和寺の霊宝館は春と秋の期間限定での公開であり、愛染明王や孔雀明王、そして五大明王に関する史料もあり、奥には創建時の本尊である阿弥陀三尊像も安置されている。

正面奥の本堂である金堂に着く。今回先の大覚寺と同じくこのタイミングで仁和寺も訪ねようとしたのは、秋の特別拝観のためである。仁和寺は888年に宇多天皇の手により開創され、その後朝廷からの信仰を集めていたが応仁の乱で焼失した。その後江戸時代に伽藍の再興が幕府に許可され、1646年に完成した。この金堂は内裏の紫宸殿を移設したものだという。

で、1646年といえば今から372年前。本年第51世門跡が新たに就任したことを記念して、金堂の裏堂に描かれている五大明王の壁画を初めて一般公開することになった。五大明王といえば不動明王をはじめとして、金剛薬叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王の五つで、まさに近畿三十六不動めぐりにふさわしいことである。金堂は仁和寺の僧侶たちが法要を行うために入っているが、この裏堂は僧侶たちも蝋燭の暗い明かりでしか見る事がなかったという。

金堂の中に入る。まずは外陣にて阿弥陀三尊、四天王像に手を合わせた後、拝観者が大勢集まった頃合いを見計らって僧侶の解説が始まる。五大明王それぞれの特徴、見分け方の解説であるが、それによると、再建以来ほとんど日光に当たることがなかったこと、ただ法要などで僧侶が出入りする時に多少の換気も行われていたことにより、再建当時の色合いが良い状態で保存されているのだそうだ。

そして金堂の裏手に回る。最小限の照明で照らされているがその様子ははっきり見える。黒というか濃い緑に描かれた身体に、それぞれ真紅の炎を背負い、恐い表情を見せる。同じ金堂でも正面を向いた阿弥陀三尊とは対照的に、裏口ではこの表情で怨敵を調伏する。何だか人間の表面と裏面を見ているかのようである(決して悪い意味ではなく)。ここでも五大明王にそれぞれ手を合わせる。372年の時を経て初めて一般に公開されたわけだが、仁和寺にこのような壁画があるとは知らなかったので、貴重なものを拝観させてもらった。

もっとも、仁和寺が近畿三十六不動の一つに選ばれているのはこの五大明王の壁画のためではない。金堂と弘法大師を祀る御影堂の間(というより裏手)に水掛不動尊があり、これが近畿三十六不動の一つ、今回のそもそもの目的地である。こんなところにお堂があったとは知らなかった。それでも長い年月にわたって訪ねる人はいるようで不動明王像も苔むしているが、申し訳ないが他の各お堂や仏像を見た後だとショボイという感想を持ってしまった。

最後に御影堂に参拝。この奥に御室八十八所という、四国八十八所の写し霊場がある。全長約2キロのコースで、いずれは歩いてみたいと思うのだが今回も割愛する。もっとも、先の台風21号の影響で一部通行困難なところもあるようで、10月7日に予定されていたウォークは中止されている。記事を書いている時点では再開されているかどうか。

金堂前の納経所で近畿三十六不動のバインダー式の朱印をいただく。なお、金堂裏堂の特別拝観を記念して、五大明王それぞれの朱印がいただけるとある。不動明王にこだわるのであれば、こちらのほうの不動明王の朱印をいただいてもいいかなと思ったが、やはり今回の目的地である水掛不動尊のものにしておく。

さて、次の蓮華寺は実は仁和寺の東門から出て道を挟んだ向かいにある。そのまま行けばいいのだが、先ほどから仁王門のほうで太鼓の音が聴こえてきている。何だろうと行ってみると、仁王門の前で10人くらいの子どもたちが「御室太鼓」というのを披露している。演奏も力強く、近くで聴く太鼓の音はお腹まで響いてくる。

すると、嵐電の御室仁和寺駅方向から仁和寺に向かって神輿がやって来る。この時季は一帯秋祭りなのかと見ると、福王子神社の秋季大祭なのだという。それで仁和寺のほうにも来るのか。その時は仁王門の前で一度神輿が下ろされたのを見て休憩かと思い、それならばもう蓮華寺に行こうかとその場を離れた。実はこれ、非常に惜しいことをしたなと後で残念がることになったのだが、それは次の記事にて・・・。
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第13番「大覚寺」~近畿三十六不動めぐり・22(60年に一度、開く扉がある)

2018年11月04日 | 近畿三十六不動
大相撲の総社場所から帰った翌21日、今度は近畿三十六不動めぐりである。今回は嵯峨エリアということで、第13番の大覚寺、第14番の仁和寺、そして第15番の蓮華寺と回る。大覚寺、仁和寺といえば京都でも有名な寺院であり、仁和寺は世界遺産にも登録されている。蓮華寺というのは初めて聞く名前だが、仁和寺に隣接したところだという。

前回9月のくじ引きとサイコロの結果で行くことになったが、10月に入って行くタイミングをうかがっていた。というのが、大覚寺、そして仁和寺ではこの期間に特別な行事が行われるというからである。それは順に書くことにして、まずは大覚寺に向かうことにする。

19日、20日と倉敷、総社を回った時に使った「鉄道の日記念 秋の乗り放題パス」の最終3日目の分を使う形で、大阪から新快速で京都に向かう。大覚寺の最寄駅は嵯峨野線(山陰線)の嵯峨嵐山で、京都から4両編成の普通列車に乗り換える。10月、気候もよくなる時季で乗客も多く、ラッシュ時の混み具合だ。また外国人の姿も多く見られる。9月の台風21号の影響で関西空港が一時閉鎖されたことから訪日客の落ち込みも言われていたが、関空復旧後は客足も戻って来たようだ。

嵯峨嵐山に到着。外国人を含めて大勢の客が下車する。ただその多くは、橋上駅舎の改札口を出て左、トロッコ嵐山駅や渡月橋方面に向かう南出口に向かう。大覚寺方面の北出口に向かう客はそれほどでもなかった。私は北出口に向かい、住宅地の中を抜けて10分あまり歩いて大覚寺に到着する。土産物店が乱立することもなく落ち着いた雰囲気である。

大覚寺は平安の初期、嵯峨天皇が離宮を構えていたところで、弘法大師が離宮の中に不動明王をはじめとする五大明王を安置して祈祷を行ったのが始まりとされている。その後に門跡寺院となった。大覚寺と聞くと鎌倉~南北朝時代の「大覚寺統」という言葉が連想される。後嵯峨天皇の子、亀山天皇から続く天皇の系統だが、亀山天皇の子である後宇多天皇が大覚寺の再興に力を尽くしたことからそう呼ばれるようになった。その後は後醍醐天皇をはじめとした南朝方に連なっている。

このタイミングで大覚寺に行くのは、10月1日~11月30日の期間、「戊戌(ぼじゅつ)開封法会」というのが行われるためである。「60年に一度、開く扉がある」というキャッチコピーである。

今からちょうど1200年前の818年、都では大飢饉、疫病が発生した。そこで嵯峨天皇は弘法大師の勧めで般若心経を写経し、勅封(封印)して奉納して国民の安泰を願った。その年の干支が戊戌だったことから、その後60年に一度、戊戌の年にそれを開封し、世の安泰を願う行事となった。2018年は特に1200年というキリのいい年である。そのためか、従来は開封して法要だけ行っていた嵯峨天皇宸筆の般若心経を初めて一般にも公開することになった。

嵯峨天皇が写経したとされる般若心経は心経殿という大正時代の建物で厳重に保管されており、この扉を開ける儀式が10月1日に行われた。この心経殿を公開するのだが、そのために拝観料が1000円に上がったとか、混雑緩和のために境内は一方通行で進むようにとか、特別な期間となっている。

元々離宮として建てられ、その後も門跡寺院の歴史が長かったためか、寺というよりは屋敷に入るようである。まずは大覚寺が家元である嵯峨御流の生け花に出迎えられ、明智陣屋から正寝殿を通る。南北朝の講和会議もこの正寝殿で行われたそうで、現在の建物は桃山時代に再現されたものである。

回廊を伝って心経殿に続く廊下に着く。前には10人ほどが並んでいる。手前では僧侶が「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」と、般若心経の最後のマントラのところを唱えながら、拝観する一人一人にお香を授ける。これを両手で擦り合わせて手を清める。

並んでいるのは、心経殿の中で解説があるためである。ガラスケースに入れられた嵯峨天皇が書いた般若心経。藍染の絹織物に、金箔を蜂蜜で溶いた金泥を用いて、一文字書くたびに三度礼拝したという。文字がかすれているのは経年によるものが大きいが、過去には嵯峨天皇の力を得るためか、文字の金箔を少し書いて飲み込んだ天皇もいたそうである。

法要の1200年の歴史を経て対面したわけだが、今年の戊戌の年は、平成最後にして多くの災害に見舞われた年と言えるだろう。豪雨災害、猛暑、大型台風もあり、国際情勢も混沌としている。昔の為政者の願いを改めて受け継がなければならないと思うのである。説明役の僧侶が最後に「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」と締めると、拝観客も手を合わせてお祈りする。

隣接する霊宝館に入る。近畿三十六不動めぐりの札所でもある大覚寺の本尊不動明王は、五大明王としてこちらに安置されている。本堂の厨子に収められて秘仏扱いというよりはこうしたほうが間近に見ることができる。ただ博物館の建物であり多くの拝観・見学者もいるのでさすがにここでお勤めとはいかない。賽銭を入れて不動明王の真言をボソボソ唱えるくらいにする。

戊戌開封法会の期間中に展示されているのは、先ほど目にした嵯峨天皇宸筆の般若心経の復元物。また他にも、嵯峨天皇以外にも般若心経を勅封したということで、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格という、南北朝から江戸時代にかけての天皇の般若心経が展示されている。まあ、この頃の天皇というのは歴史の表舞台に出ることもそうした権威もなかったが、それぞれ戦乱や天災に見舞われた時であり、世の泰平を願う想いは強かったように見える。

まあそれはよいとして、このコーナーを見ている時、二人連れのおばちゃんが来年の天皇退位、新天皇即位についておしゃべりしていた。目の前に昔の天皇の筆による般若心経があるからだろうが、耳をすませると「別に10連休にせんでもええやん」「そうそう、ウチらみたいなオバチャンには関係ないねん」というもの。うーん・・・確かに、10連休というカレンダーはこれまでこの国にはなかったはずで、さてどう過ごそうかとなると(本来の主旨はどっか行ってしまって)、どうなるのだろう。10連休と言われて、いくら旅好きとは言え私も何も考えていない。

大覚寺の本堂に当たる五大堂に着き、前の舞台から大沢池を望む。この五大堂が納経所でもあるが、戊戌開封法会の期間中は書き置き、貼り付け用のみの対応だという。バインダー式の近畿三十六不動めぐりの朱印について訊ねると、明智陣屋の中で掛軸や笈摺の朱印に対応しているのでそちらに行くよう案内された。

代わりに五大堂では特別朱印を授与している。いくつかある中で選んだのは「戊戌」というもの。

この「戊戌」という干支だが、私には思うところあるものだ。

今から120年前の1898年、日本は明治維新を経て近代国家の建設に力を注ぎ、日清戦争に勝って国際社会の表舞台に出始めた頃である。一方清国は西太后の支配する中で、日本に敗れたことでいよいよ国としての危機感が増した時期である。

その中で、明治維新から短い期間で近代国家の仲間入りをした日本に習おう、これまでの政治体制を改めようという動きが出る。それが戊戌変法運動で、康有為、梁啓超、譚嗣同らの人物が登場した。結局は西太后や守旧派の勝利でこうした運動はしぼむのだが、後の辛亥革命にもつながることになる。私の大学の卒業論文がこの時期の文芸やジャーナリズムといったところを日本の明治時代のそれらと比較するもので(と書けば仰々しいが、実際はその中でもある作品を例にしただけのもの)、久しぶりに戊戌という言葉を目にして懐かしく感じた。

五大堂では写経体験ができるが、特別期間ということで順番待ちになっている。

この後も順路に沿って進む。やはり寺というよりは昔の寝殿造の建物をめぐったように思う。まあこうしたタイプも含めて、近畿三十六不動の札所それぞれの個性を楽しむのがよい。

大覚寺を後にして次は仁和寺に向かう。鉄道なら嵐電の嵐山駅まで戻って嵐電乗り継ぎだが、ここは大覚寺の門前から四条河原町方面のバスに乗り、花園駅前で下車。駅前で昼食のためで、仁和寺へも1キロほどで行ける・・・。
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大相撲総社場所を観戦・2

2018年11月03日 | 旅行記F・中国
さて巡業も公開稽古を終え、観客も結構な入りとなった。そんな中で序二段の取組が始まった。序二段で10番、続く三段目が13番と進む。巡業に来るこれらの力士は関取の付け人を兼ねてということだが、見ようによれば選抜メンバー、期待の若手たちとも言える。ただ一方で関取がいない部屋の力士が来ることはない。

この辺りの力士は1番1番が貴重な実戦であり、アピールの場でもある。巡業といえども真剣勝負である。

速いペースで幕下の取組となる。幕下はわずか5番だけだが、その中で地元岡山出身の力士が登場する。昔から「江戸の大関より土地の三段目」という言葉があるように、番付の地位に関係なく地元出身の力士というのはご当地、また巡業場所では大きな声援を受ける。そういえば岡山県出身で強い力士がいたかなと思うが、思いつくのは前の出羽海親方である鷲羽山くらい。昔には出羽海理事長としても貢献した横綱・常ノ花というのがいたそうだ。

現在岡山県出身の関取はおらず、この日登場したのは幕下の2人。まずは岡山市東区の西大司。読みが「さいだいじ」という入間川部屋の力士だが、しこ名はおそらくあの西大寺から取ったのかなと思う。取組では見事に勝利して大きな拍手を受けていた。

もう一人が尾車部屋の栄風。和気町の出身である。スマホで通算成績を見ると最高位が三段目の力士である。それが幕下の取組で登場するというのはご当地に配慮したものなのかな。こちらも見事に勝利して大きな拍手を受けた。まあ、そこは地元出身力士に花を持たせたと言える。ただそれについて「ガチンコでない」と言うのは無粋というものだろう。この他、ご当地総社市出身で大元という力士がいるそうだが、この日は出番がなかった。西大司、栄風、大元・・・せっかくなので覚えておこう。

幕下5番の取組を終えたところで土俵はショータイムとなる。まずは相撲甚句で、6人の力士が土俵に上がる。幕下以下の力士だが、部屋の関取の化粧まわしをつけて登場する。周りでは一瞬、関取本人が出て来たのかとざわつく。すぐにそうではないと気づいて静まるが、堂々とした声量、時折アドリブが混じる節回しには笑いと拍手が起こる。

続いては初っ切り。元々は相撲の禁じ手を観客に説明するための型だったが、今は笑いありのショータイムの一つである。この日は春日野部屋の力士2人が登場したが、これもよほど息が合わないと成り立たない芸能と言える。

さらには櫓太鼓の打ち分け。場所の開催時に客を呼び込むものや、打ち出しを告げる太鼓もある。テレビの大相撲中継の最初と最後に流れるあの太鼓と言ったほうが分かりやすいだろう。いずれも見事なバチ捌きであの高音を奏でる。

これらに続くのは十両の土俵入り。十両力士は通常の半分くらいの出場で、取組も幕下以下の力士相手というのも多かった。まあ、いろいろ事情があるのだろう。

土俵入りと十両の取組の間には、大銀杏の髪結いの実演である。この日のモデルは遠藤。まずちょんまげ姿で登場し、一度全部ほぐしてからあの形に仕上げていく。テレビ中継だと、幕内優勝した力士が取組を終えて表彰式に臨む前に髪を結ってもらいながらインタビューに応じるシーンが映し出されるが、普段の稽古後でも力士にとってはリラックスしたり、気持ちをリセットする一時なのだという。見事な仕上がりに場内から拍手が起こる。

十両の取組の途中では横綱の綱締実演があった。横綱土俵入りを前に綱をまわしの上から締めるもので、この日のモデルは稀勢の里が務めた。雲竜型の一つの輪の綱で、これを10人くらいの付け人が気勢を上げてしめていく。この作業を本場所中は毎日、そして巡業の時も都度行っていたとは意外だった。

十両の取組を終えて、幕内の土俵入りである。幕内力士にも休場力士は結構いるが、やはり有名な力士も揃うことで大きな拍手が起こる。その中には、公開稽古にも姿を見せず、取組表にも名前がなかった大関の髙安の姿もあった。そこは巡業だからマイペースで、せめて土俵入りで姿だけでも見せておこうというところだろうか。

これに続くのは鶴竜、稀勢の里の横綱土俵入りである。せり上がりの部分も含めて正面からしっかり見ることができた。

土俵入りが終わると本場所同様中入りとなる。先ほどから狭い椅子席にずっと座って来たが、このタイミングで弁当(観戦プランに付随)をいただく。岡山の駅弁の老舗である「みよしの」作の12マス弁当だったが、値段を考えれば、安い価格でアリーナの1階で売られていた弁当とか、何ならコンビニでおにぎりやサンドイッチを買ってきた方がよかったかなと思う。

食事中、土俵の上では主催者の挨拶として、中四国唯一のテレビ東京系列の局であるテレビせとうちの社長、そして特別協賛で岡山県と広島県東部に展開するスーパーのハローズの社長が土俵の上に立つ。中でもテレビせとうちの社長挨拶は含蓄に富むものだった。総社市には昔から備中国の総社宮が鎮座しており、力石も奉納されていることを紹介する。ただ一方、7月の西日本豪雨で総社市も大きな被害を受けている。その前に総社での巡業は決まっていたそうだが、一時はこのきびじアリーナも多くの住民の避難所となっていたとのことだ。豪雨から3ヶ月以上経過しても、総社市内ではまだ120戸ほどが避難生活を余儀なくされているというのも重い事実である(この日も琴奨菊、嘉風の両関取が総社市の仮設住宅を訪ねて被災者たちに歓迎されたそうだ)。

そして相撲協会から総社市への義援金300万円が贈呈された。豪雨災害の際の素早いツイッターで名を上げた総社市の片岡市長あてに、春日野親方から目録が渡されると深々と頭を下げた。この総社場所は何としても開催したかったという思いと、これをきっかけに復興へのはずみにしたいという挨拶があった。

そのまま幕内の取組が始まる。巡業での取組は真剣勝負というよりはショーの要素があるように感じる。立ち合いに変化するということはないが、寄られたらあっさりと力を抜いて寄り切られるかと思えば、その逆に土俵際でずっとこらえてまた寄り返してそのまま押し出してしまうとか。後はやたら吊る場面が出る。お客さんも見ていて喜ぶからだろうか。

時間の関係か元々そうなのか、幕内でも仕切りは2回で立ち合いとなる。本場所もそのくらいのペースでもいいのでは・・と思うのだが、やはり仕切りを繰り返す中で力士の気合いを貯めたり、お客さんの盛り上がりを呼ぶというのも確かだ。

そのためにあっという間にこれより三役揃い踏みとなる。御嶽海対逸ノ城、豪栄道対栃ノ心、そして最後は鶴竜対稀勢の里という横綱同士の対戦。ここは観客の期待通り?稀勢の里が勝って結びとなる。

最後の弓取式が終わり、総社場所もめでたく打ち出しとなった。この日は5000人近くが足を運び満員御礼であった。8時から15時という7時間も密度が濃いように感じた。

総社駅まで歩いて戻り、伯備線の列車で岡山に出る。時刻は16時半、鉄道の日記念の乗り放題きっぷのためこれから鈍行で大阪に戻るわけだが、岡山に来たならあそこに行っておきたい。

そう、大衆酒場の「鳥好」。ふと思うと、8月の青春18日帰り旅、9月の八十八所めぐりに続いて3ヶ月連続での訪問である。この時間にはすでにカウンター、テーブルも満席近いところだった。何だかクセになっているなあ。

今回初めて相撲の地方巡業を観戦したが、本場所とは違った雰囲気もあるし、その土地の盛り上がりを感じることもできた。またどこかで機会があれば行ってみたいものだ。その時、座席をどこにするか迷うのだろうが・・・。
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大相撲総社場所を観戦・1

2018年11月01日 | 旅行記F・中国
ここまでの記事が長くなったが、10月20日、今回のメインである大相撲の秋巡業・総社場所である。これを書いている時点では11月の九州場所の番付も発表され、力士たちも福岡入りしているわけだが、その前に行っていたのが秋巡業。東京から始まり関東、中部、関西、中国、四国と連日巡るが、そのルートをたどってみると、旅好きの私でもうんざりするような移動の毎日だ。そんな中での総社場所で、前日19日は倉吉、翌日の21日は高松へと向かう。

さて、倉敷で宿泊した翌朝、6時54分発の伯備線新見行きに乗車する。10分あまりで総社に到着すると大勢の客が下車した。この中にも巡業観戦の客がいるはずだ。会場である総社市スポーツセンター「きびじアリーナ」へは駅から徒歩20分だという。開場が8時からなのでこの列車にしたわけだが、駅の外に出ると観戦らしい人は10数人が歩いていた。

15分ほどできびじアリーナに到着する。やはりクルマで来る客が多いようで駐車場の誘導に追われていた。その中で観光バスもやって来るが、これは団体客ではなく、会場から離れた高梁川の河川敷に設けられた臨時駐車場からのシャトルバスだそうだ。

アリーナの外には幟が並ぶ。秋巡業を途中休場した横綱白鵬や、鶴竜、稀勢の里の両横綱、最近注目を集めた千賀ノ浦部屋などさまざまで、これをバックに記念撮影する人もいる。到着した時は入場口に200人ほど並んでいたが、みるみるうちに列が長くなる。その中で、力士も交えて警察からの特殊詐欺防止を呼び掛けるグッズの配布が行われると列がぐちゃぐちゃになった。まあ、全席指定だからいいか・・。

8時に開場。屋内の体育館ということで土足禁止で、靴はビニール袋に入れる。スリッパの持参を促されていたので前日100円ショップにて購入しておいたのに履き替える。早速グッズ売り場にも大勢の人が向かい、力士の色紙やグッズ、お菓子などが次々に売れて行く。

別のコーナーでは力士の握手会が行われており、何人かの力士が入れ替わりで登場する。私が行った時は若隆景、炎鵬がいて、少し間を開けて行くと隠岐の海、明生がいた。

会場は1階が桟敷席、椅子席、そして2階が椅子席である。チケットを購入した時点ではまだどの席種も空席があったのだが、選んだのは2階の椅子席である。桟敷席は値段が高いのもあるが、一人当たりのスペースが狭いように思う。また1階のイス席は体育館にパイプ椅子を並べたもので本場所の桝席のような傾斜がないため、観にくいのではないかという先入観があった。2階なら体育館の元々の椅子のため、全体を見渡せるかなと思いこちらを入手。指定されたのは正面だが通路側ではなく中の席。前後や横の間隔が非常に狭く、入場した早い時間ならいいが埋まると身動きが取れなさそうだ。事実、時間が経つとこのエリアは全部埋まり、席で弁当を食べるのにも苦労したし、途中でトイレに立つのもはばかられる感じだった。これなら、1階のパイプ椅子のほうがまだゆったりしているように見えた。また桟敷席の座布団は記念に持ち帰ることができるほか、座椅子の貸し出し(追加料金で持ち帰りも可)もあり、本場所とは違った楽しみ方がありそうだ。

本場所と違うといえば、1階であれば花道や控えにいる力士たちにサインを貰えたり記念撮影ができたりする。さすがに横綱や大関、三役クラスの力士は無理としても、稽古前の幕内や十両は気軽に応じる力士が多い。うーん、もう少しお金を出して1階席にすればよかったなあ。会場によって違うのだろうが、きびじアリーナでは構造上、2階席の客が1階エリアに入ることができず、2階からその様子を見るばかりだが、見る限りでは一番ペンを走らせていたのは北勝富士だった。

それを残念がっても仕方ないので土俵をしっかり観よう。開場前から下位の力士の公開稽古は行われており、土俵上では三段目の力士たちが申し合いを行っているところだった。20人くらいの力士が土俵を囲むように縁に立っていて、中で取組の勝負がつくとそのたびに大声が起こってもみくちゃになる。ご存知の方も多いと思うが、申し合い稽古は勝ち抜き戦で、勝った力士が次に対戦する力士を指名する。そのため、待っている力士が「次はオレだ!」とアピールするのである。これを繰り返す。自分から積極的に行かないと土俵に上がることも難しく、番数もこなすことができない。ならば土俵の数を増やせばいいのではと思うが、見取り稽古といって他人の稽古を観察するのも重要なのだという。

それにしては力士たちは正面、東西に固まっていて向正面が開いているなと見ると、行司溜には春日野親方や振分親方など親方衆が稽古を見守っている。巡業ともなると部屋や一門の枠を超えてアドバイスすることもあるのだろう。

そうするうちに関取たちも少しずつ土俵の下に集まってくる。早くも鶴竜や、栃ノ心、豪栄道の2大関の姿も見える。

三段目、幕下の稽古が終わり、関取たちの稽古が始まった。こちらは大勢での申し合いではなく、4人一グループで代わる代わる組んでいく。どちらかと言えば三番稽古に近い。後で知ったが、この秋巡業から新しく取り入れたスタイルだそうだ。力士会からの要望で始まったそうで、「番数がこなせる」と好評もあれば、「お客さんは申し合いを楽しみにしているのでは」との声もあるようだ。

力士一人当たりで5~6番ずつ取った後はぶつかり稽古。土俵の端から端まで押し込むのを2往復して、最後は突き落としで終わることもある。だいたい、格上や先輩の力士が胸を出した最後に相手を転がしているように見える。

場内が沸いたのは稀勢の里の入場。東の土俵下に立って力士の様子を見ている。若手の関取たちが柄杓に水を汲んで挨拶に行く。一種の作法なのだろう。

土俵下の関取も全員が土俵に上がるわけでもないようで、そのうち大関、横綱の稽古となった。こちらはほぼ特定の相手との三番稽古のようで、栃ノ心は松鳳山と取り続ける。付き人もつくのが大関、横綱の権利のようで、仕切りの合間にタオルや水をもらっている。一方の力士はタオルを土俵の縁に置いてセルフサービスである。

豪栄道は魁聖との三番稽古。

横綱でも鶴竜はこの日は土俵に上がらず、土俵下でのトレーニングに終始した。一方の稀勢の里が土俵に上がる。この辺りは横綱の調整のペースもあるのだろう。

稀勢の里の稽古相手に指名されたのは豊山。豊山の激しい当たりを稀勢の里が受けつつも、最後は得意の左から寄り切る取組が多かった。1番だけ豊山が押し出したり、激しい当たりで稀勢の里が額を切って手当てを受ける場面もあったが、秋場所での引退の危機を乗りきった横綱はこの日見た限りでは、巡業を通して復活の手応えを感じているのではないかと思えた。

プログラムに書かれていた予定の時間を30分以上オーバーする形で公開稽古は終了した。相撲の稽古をナマで観るのは初めてだったが、やはりいいものだと思った。チケット購入云々があったとしても、ここまで観た時点で来てよかったと思う。何かと言われる相撲協会だが、現場の力士たちはひたすら相撲を取っている。稽古をするのが仕事と言ってもいいのかなとも感じた。

午前の公開稽古の後は巡業ならではのプログラムがいろいろあるが、毎度のように記事が長くなったのでここで中入り・・・。
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