大相撲の総社場所から帰った翌21日、今度は近畿三十六不動めぐりである。今回は嵯峨エリアということで、第13番の大覚寺、第14番の仁和寺、そして第15番の蓮華寺と回る。大覚寺、仁和寺といえば京都でも有名な寺院であり、仁和寺は世界遺産にも登録されている。蓮華寺というのは初めて聞く名前だが、仁和寺に隣接したところだという。
前回9月のくじ引きとサイコロの結果で行くことになったが、10月に入って行くタイミングをうかがっていた。というのが、大覚寺、そして仁和寺ではこの期間に特別な行事が行われるというからである。それは順に書くことにして、まずは大覚寺に向かうことにする。
19日、20日と倉敷、総社を回った時に使った「鉄道の日記念 秋の乗り放題パス」の最終3日目の分を使う形で、大阪から新快速で京都に向かう。大覚寺の最寄駅は嵯峨野線(山陰線)の嵯峨嵐山で、京都から4両編成の普通列車に乗り換える。10月、気候もよくなる時季で乗客も多く、ラッシュ時の混み具合だ。また外国人の姿も多く見られる。9月の台風21号の影響で関西空港が一時閉鎖されたことから訪日客の落ち込みも言われていたが、関空復旧後は客足も戻って来たようだ。
嵯峨嵐山に到着。外国人を含めて大勢の客が下車する。ただその多くは、橋上駅舎の改札口を出て左、トロッコ嵐山駅や渡月橋方面に向かう南出口に向かう。大覚寺方面の北出口に向かう客はそれほどでもなかった。私は北出口に向かい、住宅地の中を抜けて10分あまり歩いて大覚寺に到着する。土産物店が乱立することもなく落ち着いた雰囲気である。
大覚寺は平安の初期、嵯峨天皇が離宮を構えていたところで、弘法大師が離宮の中に不動明王をはじめとする五大明王を安置して祈祷を行ったのが始まりとされている。その後に門跡寺院となった。大覚寺と聞くと鎌倉~南北朝時代の「大覚寺統」という言葉が連想される。後嵯峨天皇の子、亀山天皇から続く天皇の系統だが、亀山天皇の子である後宇多天皇が大覚寺の再興に力を尽くしたことからそう呼ばれるようになった。その後は後醍醐天皇をはじめとした南朝方に連なっている。
このタイミングで大覚寺に行くのは、10月1日~11月30日の期間、「戊戌(ぼじゅつ)開封法会」というのが行われるためである。「60年に一度、開く扉がある」というキャッチコピーである。
今からちょうど1200年前の818年、都では大飢饉、疫病が発生した。そこで嵯峨天皇は弘法大師の勧めで般若心経を写経し、勅封(封印)して奉納して国民の安泰を願った。その年の干支が戊戌だったことから、その後60年に一度、戊戌の年にそれを開封し、世の安泰を願う行事となった。2018年は特に1200年というキリのいい年である。そのためか、従来は開封して法要だけ行っていた嵯峨天皇宸筆の般若心経を初めて一般にも公開することになった。
嵯峨天皇が写経したとされる般若心経は心経殿という大正時代の建物で厳重に保管されており、この扉を開ける儀式が10月1日に行われた。この心経殿を公開するのだが、そのために拝観料が1000円に上がったとか、混雑緩和のために境内は一方通行で進むようにとか、特別な期間となっている。
元々離宮として建てられ、その後も門跡寺院の歴史が長かったためか、寺というよりは屋敷に入るようである。まずは大覚寺が家元である嵯峨御流の生け花に出迎えられ、明智陣屋から正寝殿を通る。南北朝の講和会議もこの正寝殿で行われたそうで、現在の建物は桃山時代に再現されたものである。
回廊を伝って心経殿に続く廊下に着く。前には10人ほどが並んでいる。手前では僧侶が「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」と、般若心経の最後のマントラのところを唱えながら、拝観する一人一人にお香を授ける。これを両手で擦り合わせて手を清める。
並んでいるのは、心経殿の中で解説があるためである。ガラスケースに入れられた嵯峨天皇が書いた般若心経。藍染の絹織物に、金箔を蜂蜜で溶いた金泥を用いて、一文字書くたびに三度礼拝したという。文字がかすれているのは経年によるものが大きいが、過去には嵯峨天皇の力を得るためか、文字の金箔を少し書いて飲み込んだ天皇もいたそうである。
法要の1200年の歴史を経て対面したわけだが、今年の戊戌の年は、平成最後にして多くの災害に見舞われた年と言えるだろう。豪雨災害、猛暑、大型台風もあり、国際情勢も混沌としている。昔の為政者の願いを改めて受け継がなければならないと思うのである。説明役の僧侶が最後に「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」と締めると、拝観客も手を合わせてお祈りする。
隣接する霊宝館に入る。近畿三十六不動めぐりの札所でもある大覚寺の本尊不動明王は、五大明王としてこちらに安置されている。本堂の厨子に収められて秘仏扱いというよりはこうしたほうが間近に見ることができる。ただ博物館の建物であり多くの拝観・見学者もいるのでさすがにここでお勤めとはいかない。賽銭を入れて不動明王の真言をボソボソ唱えるくらいにする。
戊戌開封法会の期間中に展示されているのは、先ほど目にした嵯峨天皇宸筆の般若心経の復元物。また他にも、嵯峨天皇以外にも般若心経を勅封したということで、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格という、南北朝から江戸時代にかけての天皇の般若心経が展示されている。まあ、この頃の天皇というのは歴史の表舞台に出ることもそうした権威もなかったが、それぞれ戦乱や天災に見舞われた時であり、世の泰平を願う想いは強かったように見える。
まあそれはよいとして、このコーナーを見ている時、二人連れのおばちゃんが来年の天皇退位、新天皇即位についておしゃべりしていた。目の前に昔の天皇の筆による般若心経があるからだろうが、耳をすませると「別に10連休にせんでもええやん」「そうそう、ウチらみたいなオバチャンには関係ないねん」というもの。うーん・・・確かに、10連休というカレンダーはこれまでこの国にはなかったはずで、さてどう過ごそうかとなると(本来の主旨はどっか行ってしまって)、どうなるのだろう。10連休と言われて、いくら旅好きとは言え私も何も考えていない。
大覚寺の本堂に当たる五大堂に着き、前の舞台から大沢池を望む。この五大堂が納経所でもあるが、戊戌開封法会の期間中は書き置き、貼り付け用のみの対応だという。バインダー式の近畿三十六不動めぐりの朱印について訊ねると、明智陣屋の中で掛軸や笈摺の朱印に対応しているのでそちらに行くよう案内された。
代わりに五大堂では特別朱印を授与している。いくつかある中で選んだのは「戊戌」というもの。
この「戊戌」という干支だが、私には思うところあるものだ。
今から120年前の1898年、日本は明治維新を経て近代国家の建設に力を注ぎ、日清戦争に勝って国際社会の表舞台に出始めた頃である。一方清国は西太后の支配する中で、日本に敗れたことでいよいよ国としての危機感が増した時期である。
その中で、明治維新から短い期間で近代国家の仲間入りをした日本に習おう、これまでの政治体制を改めようという動きが出る。それが戊戌変法運動で、康有為、梁啓超、譚嗣同らの人物が登場した。結局は西太后や守旧派の勝利でこうした運動はしぼむのだが、後の辛亥革命にもつながることになる。私の大学の卒業論文がこの時期の文芸やジャーナリズムといったところを日本の明治時代のそれらと比較するもので(と書けば仰々しいが、実際はその中でもある作品を例にしただけのもの)、久しぶりに戊戌という言葉を目にして懐かしく感じた。
五大堂では写経体験ができるが、特別期間ということで順番待ちになっている。
この後も順路に沿って進む。やはり寺というよりは昔の寝殿造の建物をめぐったように思う。まあこうしたタイプも含めて、近畿三十六不動の札所それぞれの個性を楽しむのがよい。
大覚寺を後にして次は仁和寺に向かう。鉄道なら嵐電の嵐山駅まで戻って嵐電乗り継ぎだが、ここは大覚寺の門前から四条河原町方面のバスに乗り、花園駅前で下車。駅前で昼食のためで、仁和寺へも1キロほどで行ける・・・。
前回9月のくじ引きとサイコロの結果で行くことになったが、10月に入って行くタイミングをうかがっていた。というのが、大覚寺、そして仁和寺ではこの期間に特別な行事が行われるというからである。それは順に書くことにして、まずは大覚寺に向かうことにする。
19日、20日と倉敷、総社を回った時に使った「鉄道の日記念 秋の乗り放題パス」の最終3日目の分を使う形で、大阪から新快速で京都に向かう。大覚寺の最寄駅は嵯峨野線(山陰線)の嵯峨嵐山で、京都から4両編成の普通列車に乗り換える。10月、気候もよくなる時季で乗客も多く、ラッシュ時の混み具合だ。また外国人の姿も多く見られる。9月の台風21号の影響で関西空港が一時閉鎖されたことから訪日客の落ち込みも言われていたが、関空復旧後は客足も戻って来たようだ。
嵯峨嵐山に到着。外国人を含めて大勢の客が下車する。ただその多くは、橋上駅舎の改札口を出て左、トロッコ嵐山駅や渡月橋方面に向かう南出口に向かう。大覚寺方面の北出口に向かう客はそれほどでもなかった。私は北出口に向かい、住宅地の中を抜けて10分あまり歩いて大覚寺に到着する。土産物店が乱立することもなく落ち着いた雰囲気である。
大覚寺は平安の初期、嵯峨天皇が離宮を構えていたところで、弘法大師が離宮の中に不動明王をはじめとする五大明王を安置して祈祷を行ったのが始まりとされている。その後に門跡寺院となった。大覚寺と聞くと鎌倉~南北朝時代の「大覚寺統」という言葉が連想される。後嵯峨天皇の子、亀山天皇から続く天皇の系統だが、亀山天皇の子である後宇多天皇が大覚寺の再興に力を尽くしたことからそう呼ばれるようになった。その後は後醍醐天皇をはじめとした南朝方に連なっている。
このタイミングで大覚寺に行くのは、10月1日~11月30日の期間、「戊戌(ぼじゅつ)開封法会」というのが行われるためである。「60年に一度、開く扉がある」というキャッチコピーである。
今からちょうど1200年前の818年、都では大飢饉、疫病が発生した。そこで嵯峨天皇は弘法大師の勧めで般若心経を写経し、勅封(封印)して奉納して国民の安泰を願った。その年の干支が戊戌だったことから、その後60年に一度、戊戌の年にそれを開封し、世の安泰を願う行事となった。2018年は特に1200年というキリのいい年である。そのためか、従来は開封して法要だけ行っていた嵯峨天皇宸筆の般若心経を初めて一般にも公開することになった。
嵯峨天皇が写経したとされる般若心経は心経殿という大正時代の建物で厳重に保管されており、この扉を開ける儀式が10月1日に行われた。この心経殿を公開するのだが、そのために拝観料が1000円に上がったとか、混雑緩和のために境内は一方通行で進むようにとか、特別な期間となっている。
元々離宮として建てられ、その後も門跡寺院の歴史が長かったためか、寺というよりは屋敷に入るようである。まずは大覚寺が家元である嵯峨御流の生け花に出迎えられ、明智陣屋から正寝殿を通る。南北朝の講和会議もこの正寝殿で行われたそうで、現在の建物は桃山時代に再現されたものである。
回廊を伝って心経殿に続く廊下に着く。前には10人ほどが並んでいる。手前では僧侶が「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」と、般若心経の最後のマントラのところを唱えながら、拝観する一人一人にお香を授ける。これを両手で擦り合わせて手を清める。
並んでいるのは、心経殿の中で解説があるためである。ガラスケースに入れられた嵯峨天皇が書いた般若心経。藍染の絹織物に、金箔を蜂蜜で溶いた金泥を用いて、一文字書くたびに三度礼拝したという。文字がかすれているのは経年によるものが大きいが、過去には嵯峨天皇の力を得るためか、文字の金箔を少し書いて飲み込んだ天皇もいたそうである。
法要の1200年の歴史を経て対面したわけだが、今年の戊戌の年は、平成最後にして多くの災害に見舞われた年と言えるだろう。豪雨災害、猛暑、大型台風もあり、国際情勢も混沌としている。昔の為政者の願いを改めて受け継がなければならないと思うのである。説明役の僧侶が最後に「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」と締めると、拝観客も手を合わせてお祈りする。
隣接する霊宝館に入る。近畿三十六不動めぐりの札所でもある大覚寺の本尊不動明王は、五大明王としてこちらに安置されている。本堂の厨子に収められて秘仏扱いというよりはこうしたほうが間近に見ることができる。ただ博物館の建物であり多くの拝観・見学者もいるのでさすがにここでお勤めとはいかない。賽銭を入れて不動明王の真言をボソボソ唱えるくらいにする。
戊戌開封法会の期間中に展示されているのは、先ほど目にした嵯峨天皇宸筆の般若心経の復元物。また他にも、嵯峨天皇以外にも般若心経を勅封したということで、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格という、南北朝から江戸時代にかけての天皇の般若心経が展示されている。まあ、この頃の天皇というのは歴史の表舞台に出ることもそうした権威もなかったが、それぞれ戦乱や天災に見舞われた時であり、世の泰平を願う想いは強かったように見える。
まあそれはよいとして、このコーナーを見ている時、二人連れのおばちゃんが来年の天皇退位、新天皇即位についておしゃべりしていた。目の前に昔の天皇の筆による般若心経があるからだろうが、耳をすませると「別に10連休にせんでもええやん」「そうそう、ウチらみたいなオバチャンには関係ないねん」というもの。うーん・・・確かに、10連休というカレンダーはこれまでこの国にはなかったはずで、さてどう過ごそうかとなると(本来の主旨はどっか行ってしまって)、どうなるのだろう。10連休と言われて、いくら旅好きとは言え私も何も考えていない。
大覚寺の本堂に当たる五大堂に着き、前の舞台から大沢池を望む。この五大堂が納経所でもあるが、戊戌開封法会の期間中は書き置き、貼り付け用のみの対応だという。バインダー式の近畿三十六不動めぐりの朱印について訊ねると、明智陣屋の中で掛軸や笈摺の朱印に対応しているのでそちらに行くよう案内された。
代わりに五大堂では特別朱印を授与している。いくつかある中で選んだのは「戊戌」というもの。
この「戊戌」という干支だが、私には思うところあるものだ。
今から120年前の1898年、日本は明治維新を経て近代国家の建設に力を注ぎ、日清戦争に勝って国際社会の表舞台に出始めた頃である。一方清国は西太后の支配する中で、日本に敗れたことでいよいよ国としての危機感が増した時期である。
その中で、明治維新から短い期間で近代国家の仲間入りをした日本に習おう、これまでの政治体制を改めようという動きが出る。それが戊戌変法運動で、康有為、梁啓超、譚嗣同らの人物が登場した。結局は西太后や守旧派の勝利でこうした運動はしぼむのだが、後の辛亥革命にもつながることになる。私の大学の卒業論文がこの時期の文芸やジャーナリズムといったところを日本の明治時代のそれらと比較するもので(と書けば仰々しいが、実際はその中でもある作品を例にしただけのもの)、久しぶりに戊戌という言葉を目にして懐かしく感じた。
五大堂では写経体験ができるが、特別期間ということで順番待ちになっている。
この後も順路に沿って進む。やはり寺というよりは昔の寝殿造の建物をめぐったように思う。まあこうしたタイプも含めて、近畿三十六不動の札所それぞれの個性を楽しむのがよい。
大覚寺を後にして次は仁和寺に向かう。鉄道なら嵐電の嵐山駅まで戻って嵐電乗り継ぎだが、ここは大覚寺の門前から四条河原町方面のバスに乗り、花園駅前で下車。駅前で昼食のためで、仁和寺へも1キロほどで行ける・・・。
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