高架ホームの矢掛で下車する。日中は係の人がいて乗車券や井原鉄道グッズの販売を行っている。また駅舎も昔の屋敷風にこしらえられている。
矢掛は山陽道(西国街道)の宿場町として栄えたところで、元禄の頃からは庭瀬藩の所領となった。幕末には天璋院篤姫も宿泊したという。
井原鉄道の駅から5分ほど歩くと西国街道に出る。現在の幹線道路は国道486号線だが、一本手前の旧道が観光スポットである。脇本陣の建物が残されていたり、昔の家を飲食店に改装したり、なかなか賑やかな通りである。毎年11月(今年は11日)に大名行列の祭りが行われる。奥方と姫君は毎年公募しており、大名行列の観光ポスターにも登場する。この時に来れば賑わう町の様子を楽しめるのだが。
その中心にあるのが本陣の石井家。造り酒屋を営む町庄屋で、代々本陣職を務めた。その建物は重要文化財として公開されている。こちらに入ってみる。
御成門というのがある。大名が宿泊する時はこの門から入ったそうで、表玄関の役目も果たしている。ここを正面として座敷が広がり、上段の間には簡素ながらも襖絵や欄間が施されている。
また、庭に面しては犬養毅の書も掲げられている。犬養毅の生家は庭瀬藩の庄屋で名字帯刀も許されていたそうだ。
敷地の奥は蔵がいくつかあり、酒造蔵が史料展示コーナーになっていた。宿場町としての矢掛の歴史が紹介され、どこどこの藩のご一行様がお泊まりという札も並ぶ。西国街道ということで薩摩や長州なども利用していたそうだ。
現在の石井家は醤油の醸造をしている。通り沿いの交流館では小瓶が売られていて、名物のゆべし餅と一緒に買い求める。アンケートに答えると100円引きというのをやっていた。矢掛の町もいろんな声を聞いて今後の活性化を図るということか。
先ほどの本陣石井家の受付でも、どこから来たか、泊まりはどこかと訊かれて、その答えを紙につけていた。宿泊が倉敷だというと残念そうな表情だった。逆に矢掛町内なら何か特典があったのか。「井原線は回数が少ないけぇ不便でしょう」と言いながら井原鉄道の紙の時刻表を渡してくれたが。
駅に戻り、11時33分発の清音行きに乗る。向かうのは吉備真備駅。矢掛町から倉敷市真備町に入ると再び豪雨災害の景色が見える。その中を少し歩こうと思う。野次馬的な感じで申し訳ないのだが・・・。
矢掛は山陽道(西国街道)の宿場町として栄えたところで、元禄の頃からは庭瀬藩の所領となった。幕末には天璋院篤姫も宿泊したという。
井原鉄道の駅から5分ほど歩くと西国街道に出る。現在の幹線道路は国道486号線だが、一本手前の旧道が観光スポットである。脇本陣の建物が残されていたり、昔の家を飲食店に改装したり、なかなか賑やかな通りである。毎年11月(今年は11日)に大名行列の祭りが行われる。奥方と姫君は毎年公募しており、大名行列の観光ポスターにも登場する。この時に来れば賑わう町の様子を楽しめるのだが。
その中心にあるのが本陣の石井家。造り酒屋を営む町庄屋で、代々本陣職を務めた。その建物は重要文化財として公開されている。こちらに入ってみる。
御成門というのがある。大名が宿泊する時はこの門から入ったそうで、表玄関の役目も果たしている。ここを正面として座敷が広がり、上段の間には簡素ながらも襖絵や欄間が施されている。
また、庭に面しては犬養毅の書も掲げられている。犬養毅の生家は庭瀬藩の庄屋で名字帯刀も許されていたそうだ。
敷地の奥は蔵がいくつかあり、酒造蔵が史料展示コーナーになっていた。宿場町としての矢掛の歴史が紹介され、どこどこの藩のご一行様がお泊まりという札も並ぶ。西国街道ということで薩摩や長州なども利用していたそうだ。
現在の石井家は醤油の醸造をしている。通り沿いの交流館では小瓶が売られていて、名物のゆべし餅と一緒に買い求める。アンケートに答えると100円引きというのをやっていた。矢掛の町もいろんな声を聞いて今後の活性化を図るということか。
先ほどの本陣石井家の受付でも、どこから来たか、泊まりはどこかと訊かれて、その答えを紙につけていた。宿泊が倉敷だというと残念そうな表情だった。逆に矢掛町内なら何か特典があったのか。「井原線は回数が少ないけぇ不便でしょう」と言いながら井原鉄道の紙の時刻表を渡してくれたが。
駅に戻り、11時33分発の清音行きに乗る。向かうのは吉備真備駅。矢掛町から倉敷市真備町に入ると再び豪雨災害の景色が見える。その中を少し歩こうと思う。野次馬的な感じで申し訳ないのだが・・・。