まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

岩泉線廃線跡を行く~夏草の線路たち

2019年09月24日 | 旅行記B・東北

岩泉駅跡から国道455号線を走る。線路の路盤跡の行方を気にしながら走るうち、右手にちょっとした空間が見え、「二升石駅待合室」の看板がかかる小屋が見えた。

その敷地の中に入る。野菜の無人販売所があり、その奥の築堤を上がったところにホームと線路が見える。

近づくとホームの足場の向こうに線路や路盤もしっかり残っているのが見える。ここは岩泉の隣の二升石(にしょういし)で、岩泉までの開業時にできた駅である。二升石とは変わった名前だなと思うと、この辺りの旧家の庭園に米が2升入るくらいの大きな窪みがある石があったからとか、小本川に屏風二双ほどの大きさの石があったからとか言われている。

こんな感じで進んでいくのかなと再び走るうち、国道455号線と国道340号線の分岐点に差し掛かる。整理すると、国道455号線は盛岡から岩泉を経て小本まで、一方国道340号線は陸前高田から遠野、茂市、岩泉、九戸などを通り八戸まで続く。岩手県の真ん中を455号線は横に、340号線は縦に走りちょうどクロス(一部重複区間あり)している。これから走るのは340号線だが、心なしか急に道が細くなる。これは「酷道」と書くほうの国道かな。まあ、この道の整備が不十分だったから岩泉線の寿命が延びたようなものだが。

浅内(あさない)駅跡はちょっとした集落の中にある。岩泉線が岩泉まで延びる前はここが終着駅だった。かつては貨物も取り扱う駅だった。駅舎が残っているが中は資材置き場になっているようで入ることはできない。またかつては構内だったところも今はどこかの現場事務所のようで、資材が置かれていたりスーパーハウスが並んでいる。

そんな中で残るのは給水塔。蒸気機関車が走っていた当時のものだと思うが、今はカラスの寝床になっているのか、てっぺんには黒い姿も見える。

この駅は見ておきたかった。11年前に岩泉線に乗った時、浅内駅にて駅舎の向こうに私の勤務先企業の社名が入った建物を見ている。まさかこんなところにウチの営業所があるのか?・・とその時はそのまま列車で過ぎ去ったが、その後調べてみても浅内に営業所が現存するということはなかった。

そして今、その建物の前に経っているがもちろん現役ではなく、中は物置のようで雑然としている。浅内駅はかつて貨物も取り扱っていた駅で、貨物列車ではこの辺りで産出される木材や、変わったものでは牛も運んでいたことがあったという。それを踏まえるとこの営業所はそうした貨物関連の担当だったのかな。今この建物や土地の所有者が誰なのかわからないが(まさか勤務先企業のままということはないだろうな・・)、看板の字体はもはや遺跡である。これはこれで残しておきたいなと個人的には思う。

この先も線路が並走する。ところどころでは線路を砂利で埋めてしまってクルマが通れるようにしたところもあるが、相変わらず橋脚も残っている。次の岩手大川駅は国道340号線から少し離れるが、そこまでわざわざ追いかけることもないかなとそのまま国道を走る。

この先が押角峠で、岩泉線の難色区間である。ちょうど行政区画も岩泉町から宮古市に変わる区間で、2010年の列車事故があったのもこの区間である。国道も急なカーブが続く。

これが先ほど触れたように岩泉線が存続していた理由だったのだが、今は逆に岩泉線のトンネル、線路を転用する形で新たな国道340号線と押角トンネルの建設が進められている。確かに、列車が走ることができるだけの勾配で造られているしトンネルは先に掘られているということで転用は容易だったのだろう。津波被災区間のBRT転換にもヒントを得たのだろうか。

下り坂となり、この先に「秘境駅」として知られていた押角駅があるはず・・と走らせると右側に標識がある。ミラーを見ると「押角駅」という道路標識がまだ残っており、クルマをいったん停める。

元々が「秘境駅」の中でも上位にランクされていたくらいだから周りに人家などなく、また2016年の台風10号ではかつての駅跡に続く橋も流されたそうで、今や立ち入ることはできない。それでも国道から続く道が広場になっていて、スーパーハウスが建っている。押角トンネル、国道340号線の工事に携わる業者の現場事務所のようだ。それはいいとして、2014年に廃止になった駅への案内標識がまだ残っているのはどうだろうか。ここまで来ると、岩泉線の廃線跡めぐりというのが地元の一つの名所になっていて、それの案内も兼ねてわざとそのまま残しているのかなと思ってしまう。特に押角の場合はこれしか目印になるようなものがなさそうだし。

坂を下ると集落が開けてきた。建設中の押角トンネルとつながるためか国道の道幅も広くなった。そんな中やってきたのが岩手和井内駅。比較的新しい待合室タイプの駅舎とホームが残されている。2014年(平成26年)4月1日からJR岩泉線に変わって東日本交通の路線バス岩泉茂市戦が運行開始するという当時のポスターが貼られている。このバスは茂市から岩泉(現在の終点は岩泉病院)まで朝、夕、夜の合計3.5往復、1時間40分で結んでいる。列車の時と本数が変わらないうえ、所要時間が鉄道で約1時間だったのが結構延びたように見えるが、岩泉町内では町営バスと共用する形でバス停を増やしたり、おそらくお年寄りの利用があるだろう病院まで行くようにしたのがせめてもの利便性向上だろう。

この岩手和井内駅跡から次の中里駅までは「レールバイク」の乗車体験ができる。鉄道の線路を自転車の2人乗り・4人乗りタイプのレールバイクで走るものだ。そのため、この両駅間が現在でももっとも現役当時の姿を残しているといってもいい。本物のレールの上を走るとはちょっとした運転手気分だろう。

しばらく走ると中里駅に着く。現役当時はホーム1本だけの簡易な駅だったところ。

どうやら線路とはこの中里駅を最後にお別れのようである。国道340号線から脇道に出て茂市駅前の集落に入る。岩泉駅を出たのが10時前で、時刻は11時30分。ちょこちょこ立ち寄りを挟んだらこんなものだろう。

最後に、こちらは現役のJR山田線の茂市駅をのぞいてみる。現役といっても現在この駅を発車する列車は、宮古方面が快速を含めて1日8本、盛岡方面にいたっては1日6本しかない。おまけに、盛岡方面行きのうち2本は途中の川内までしか行かない。そんな中での11時30分、駅には誰もいない。

ホームに入ってみる。跨線橋の登り口には板が打ち付けられている。今年の8月5日から使用停止となり、列車が発着する向かいのホームには踏切を渡るようにとある。老朽化しているのだろうか。

駅前の観光案内図には今でも岩泉線が描かれている。観光名所といってもキャンプ場や歌碑めぐりのようなところが多いが、いずれも岩泉線の駅から何キロという表記である。超ローカル線とはいえ何とか利用してもらおうというせめてものPRだったのだろう。地元の人に訊いたわけでもないので何とも言えないが、やはりどこかで岩泉線を惜しむ気持ちというのは地域として今もあると思う。あらかじめ何日付で廃止になると決まっていたわけではなく、事故が原因で寿命が切られたようなものだから余計に心残りというのがあるのかもしれない。津波で被災したことで鉄道は廃止となり、BRTで引き継がれたというのともまた違うし。

これで今回の旅での見物、見学するところはおしまい。後は16時までに仙台駅前に戻るということで残り時間は4時間半。間で昼食も挟むし、果たして間に合うかどうか・・・?

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2 コメント

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Unknown (まつなる)
2020-01-19 09:32:50
はつかり3号さん、コメントありがとうございます。

また五能線、宗谷線の情報ありがとうございます。さっそく画像見ましたが、咲来駅近くの旧倉庫はライダーハウスになっているようで驚きました。

まだまだ、全国各地探せばこうした「遺構」はあるかもしれませんね(会社としては特に不動産がらみの資産はどんどん処分を進めてますが)。
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Unknown (はつかり3号)
2020-01-18 14:55:34
懐かしい情報ありがとうございます。浅内の黄色い建物まだ健在だったのですね。五能線陸奥鶴田、宗谷線咲来にもあります。
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