まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大阪23番「神峯山寺」~神仏霊場巡拝の道・53(6年ぶりの「拝仏」)

2023年06月17日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道、大阪23番の神峯山寺に向かうべく、JR高槻駅から高槻市営バスの原大橋行きに乗車し、駅から北に広がる住宅地を行く。

今は代が替わって家も売りに出されたそうだが、かつて高槻市のこのエリアに、私の父親の2人の叔父がそれぞれ家を構えていて、それぞれ存命の時、父親はちょくちょく顔を出していた。弟(私から見て叔父)と一緒に出かけ、帰りにはJR高槻で飲んでから帰ったとか帰らなかったとか。

また、千手観音を本尊とする安岡寺の近くも通る。これから向かう神峯山寺ともども、新西国三十三所の札所として訪ねたことがある。

住宅地を抜け、里山に近い景色が広がり、神峰山口のバス停に到着。新西国で神峯山寺を訪ねた時バス停からどのくらいの距離だったかがうろ覚えなのだが、案内板では徒歩15分~20分ほどかかるという。「拝仏」の予定の時間ぎりぎりになりそうだ。

このバス停から神峯山寺、ポンポン山を経由して西国三十三所の札所である善峯寺までトレッキングコースとなっており、この先、寺の境内を含めてトレッキング姿の人を結構見かける。

前回来た時は途中ショートカットする参道を歩いたが、今回はそのまま車道を歩く。すると牛地蔵というのがある。その昔、この辺りは京と大坂を結ぶ難所の一つで、荷物の運搬に使われた牛の苦労をねぎらうために祀られたとある。

で、その横には石の鳥居。さて、どうするか。

先の総持寺の記事で、「忌中には神社に行ってはいけない」ということに触れた。神聖な場所に穢れを持ち込むのを嫌うためである。一方、仏教寺院にはそのような考えはない。そのため、今回の神仏霊場めぐりは当初の目的地である水無瀬神宮をパスして、近隣の寺院2ヶ所に絞ったのだが・・。

神峯山寺は役行者が開き、光仁天皇の子息である開成皇子を中興の祖とするが、修験者の修行の場であった。また神仏習合の歴史も長い。その名残として鳥居は残っているが、ここはあくまで神峯山寺という寺院であるとして、そのまま鳥居の下をくぐる。さて、これはタブーを犯したことになるのだろうか。

そのまま進むと石柱の間にしめ縄を渡し、樒を垂らした勧請掛(かんじょうがけ)というのを見る。その昔、大坂の商人たちは樒の垂れ具合で米相場を占っていたそうで、豪商・鴻池善右衛門も神峯山寺の本尊毘沙門天を篤く信仰していたという。この勧請掛も神社的な色合いが強いように思うのだが、これも神仏習合の名残といえる。

新名神高速道路を見下ろす。前回来た時はまだ工事中だったが、2017年の開通により、名神高速の宝塚近辺の渋滞緩和に寄与している。

「日本最初毘沙門天」の札が掛かる仁王門をくぐる。神仏霊場めぐりとしての本尊も毘沙門天である。

時間がぎりぎりだったが、境内をもう少し進んで受付に声をかける。横手の入口から庫裏に回るよう案内され、応接間に通される。

さてここからの「拝仏」だが、本堂での毘沙門天への祈祷料込で2500円。前回訪ねた2017年の時の記事を読み返すと2000円とあった。まあ、貴重な文化財の維持、また諸々の物価高騰といった状況の変化がくみ取れる。

おそらく、前回にご案内いただいた副住職であろう。後について本堂に向かう。まずは祈祷ということで声明から始まり、私の名前での祈願文、そして本尊毘沙門天はじめ諸仏の真言が入り、般若心経で締める。

祈祷が終わると神峯山寺、そして諸仏の説明がある。役行者が葛城山で修行していた時、北方の山から光が発せられたのに霊感を受け、この地にやって来た。そこの霊木で4体の毘沙門天を刻み、お堂を造ってその1体を祀った。これが神峯山寺の縁起とされる。もう3体は神峯山寺の奥の院だった本山寺、京都の鞍馬寺、そして信貴山の朝護孫寺の本尊として伝えられている。なお、神峯山寺の毘沙門天は12年に一度、寅年の新年に御開帳という。寅年といえば昨年だったから、次の御開帳は2034年の正月である。

続いては内陣の奥に入り、先ほどの毘沙門天の厨子の後ろに祭壇がある。こちらには双身毘沙門天が祀られている。歴代住職の持仏で、先ほどの毘沙門天よりも強い力を持ち、どんな願いごとも叶えるとされるが、その祈願の作法は秘宝とされており、拝む者自身が毘沙門天と一身になるとでも言おうか。間違えば自身の命にもかかわってくるというから強力なものだ。

さらに奥の防火扉が開けられる。中央の厨子には兜跋毘沙門天が祀られている。こちらは戦勝を祈願して、楠木正成や松永久秀らも拝んだとされる。また江戸時代には商売繁盛の神として、鴻池善右衛門も篤く信仰した。これら3種の毘沙門天を本尊とする。

兜跋毘沙門天の隣には阿弥陀三尊が祀られている。平安時代、摂津に橘輔元という者がいたが、7度の火災で家財を失い、また自身も病にかかるという苦しみを受けた。そこで神峯山寺の阿弥陀如来を拝んだところ全快した。ちょうど阿弥陀信仰が広まりつつある時で、輔元は融通念仏宗を開いた良忍上人のもとで出家し、後に良恵上人として融通念仏宗の第二祖となった。神峯山寺は天台宗だが、こうした縁で平野の大念仏寺を本山とする融通念仏宗ともつながりが深い。

他にも聖観音像、神峯山寺中興の祖・開成皇子像などが並ぶ。

一通りの「拝仏」を済ませ、応接間に戻り茶菓子の接待を受ける。先ほど祈祷していただいた御札も受け取る。そして副住職とのお話である。「今日はどのようなお参りで・・」というところから始まり、神仏霊場巡拝の道となると「ほほう」という反応だった。もう6年も前のことだし、先方は覚えてらっしゃらないだろうが、神仏霊場めぐりはどうかと勧めたのはこの方である。その時は、150あまりの札所の分厚い納経帳を手にするとは具体的ン考えていなかったが、ようやくここに来ることができた。

「実は2週間ほど前にも広島から神仏霊場で拝仏に来られた方がいまして・・」と言われる。聞けばその方は時刻表でガチガチにプランを組み、1回でできるだけ多くの札所を回ろうと一生懸命だったそうだ。それに比べれば私はのんびりしたもので、他のイベントと絡めてみたり(今回は、近鉄特急「あをによし」にも乗る)、また次の行き先はあみだくじで決めるといった具合である。

副住職にお礼を言い、再び外の受付に回って神仏霊場の毘沙門天の朱印をいただく。順序が逆だが、この後で先ほど祈祷を受けた本堂や、その他の建物を見て回る。改めて山深いところ。先ほど副住職から「天台宗は結構山の中の寺が多くて、行くの大変でしょう?」と言われたことだ。

先ほど通り過ぎた塔頭寺院の化城院に向かう。こちらでは2011年2月27日から1日も欠かさず「毘沙門不動護摩」が執り行われている。連続1000日を迎えた2013年11月22日からは新たに落成した化城院にて継続しており、現在は通算5000日を目指してカウントが進んでいる。「拝仏」が午後からだったので午前中は総持寺の温泉でのんびりしていたのだが、あのまままっすぐ神峯山寺に来ていたら本日の護摩供に間に合ったかもしれない。

寺を後にしてバス停まで戻る。トレッキング姿の4人がバスを待っていた。

高槻駅に戻り、JR京都線にて京都に向かう。途中、今回元々の目的地だった水無瀬神宮のアクセスとなる島本も過ぎる。神峯山寺であみだくじを行って行き先をリセットすることも考えたが、忌中明けに参拝すればよいかとそのままにしておく。

京都駅に到着。国内外かろの観光客でごった返している。JRから近鉄乗り場に移動して、いよいよ「あをによし」に乗車する。ただここであるミスというかボケに気づくことに・・・。

コメント    この記事についてブログを書く
« 大阪22番「総持寺」~神仏... | トップ | 神仏霊場巡拝の道~近鉄特急... »

コメントを投稿