まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第13回中国観音霊場めぐり~第16番「洞春寺」と瑠璃光寺

2020年07月28日 | 中国観音霊場

山口駅から15時51分発のJRバス中尾口行きに乗る。秋芳洞方面にむかう系統の途中のバス停で、この路線に乗ると翌日訪ねる予定の第17番・龍蔵寺の最寄である吉敷も通過する。バス停から寺までは2キロほど歩くことになるが、翌日のアクセス方法の一つとして頭に入れておく。

その前に、これから向かうのは第16番・洞春寺。路線バスは繁華街の米屋町や、山口県立美術館といったところを経由する。ちなみに、山口市のコミュニティバスも運転されていて、多少大回りになるが洞春寺や瑠璃光寺の前を通る。タイミングが合えばこれを利用するのも手だろう。美術館の一帯は公園になっていて緑豊かな感じだが、泊まるとなると夜は少しさびしいかなと思う。夜の賑やかさは湯田温泉が一手に引き受けているということかな。

10分足らずで県庁前に到着。ここまで何とか雨に遭わずに持ちこたえて来た。その山口県庁だが、元々は長州藩が拠点を置いた山口城跡である。関ヶ原の戦いで毛利氏は防長2ヶ国に封じ込められた。毛利氏はその際に新たな拠点として山口への築城を求めたものの、幕府はこれを認めずに萩への築城を指示した。それが幕末で世の中の情勢が慌ただしくなったところで、有事に備えて下関や広島方面にも対応しやすいとして山口に拠点が移された。その頃は幕府の力も衰えて、長州藩も雄藩として発言力を持つようになったことから、こうしたこともスムーズに運んだのだろう。

幕末の第一次長州征伐では、幕府が攻撃を取り止める条件の一つに山口城の取り壊しがあり、この時は城の一部を取り壊して萩に撤退した。しかしすぐに山口に戻り、その後の第二次長州征伐の時には長州藩の拠点として機能した。後に山口藩~山口県の県庁所在地となったのもその流れである。

かつての藩庁の門が、現在も県庁の西門として開放されている。さらには、現在の山口県庁のビルの建物と並んで、洋風のしゃれた建物が現れる。これが山口県旧庁舎である。今から100年あまり前、大正時代の建物で、当時の最新のデザインの影響も受けているそうだ。この日は休館日だったが、通常は山口県政の資料館として開放されている。

県庁前から少し歩くと洞春寺への案内標識がある。そのまま進むとそれらしき山門が見えてきた。室町時代の創建当時の檜皮葺の姿を残しているという。

またその一方で、横には人形とともに「ヤギ飛び出し注意」という手書きの看板がある。ヤギって、あの山羊でしょ。室町時代の寺とヤギのギャップがよくわからない。

寺の歴史について触れておくと、元々この地には、大内盛見の菩提寺である国清寺が建てられていた。この大内盛見とは第15番・漢陽寺を開いた人物であり、隣の瑠璃光寺の五重塔を建てた人物である。何かとこの辺りでちょこちょこ顔を出す方である。一方、洞春寺は元々、毛利元就の菩提寺として吉田郡山城下にあったが、関ヶ原の戦いに敗れたことでこの地に移り、その後毛利氏の拠点が萩に定められたことから萩に移り、さらに維新後に再び山口に戻って現在に至る。毛利氏の菩提寺だから主君とともにあちこちに移った歴史がある。そのためか、屋根瓦や塀には毛利氏の家紋が並ぶ。

宗派としては臨済宗。本堂の障子が少し開いていて、正面に掲げられた額に書かれているのはおそらく前の寺名だった「国清」の文字だろう。

なお中国観音霊場としては、本堂の左手にある観音堂が該当する。建物も禅宗様式というのか、中もがらんとしたところで、聖観音像を祀っている。ここでお勤めとする。

納経所に向かう。庫裡の扉は開いているが、声をかけても応答がない。時刻は16時半前だからまだ時間はあるはずだ。足元に鐘があったので鳴らすと、しばらくして寺の方が外から戻って来た。納経帳を差し出すと、「遠方からですか?」と訊かれる。「大阪から」と答えると「大阪のどの辺り?」というようなやり取りがあった。単に挨拶の代わりで訊かれたことと思うし別にそれ以上のことはなかったが、ひょっとしたら何日かしてこの辺りで新型コロナウイルスの新たな感染確認者が出たら、「そう言えば大阪から来てたのがおったなあ」という話になるのだろう。これがもし「東京から」とでも答えたら、その時点で違った反応が出てきたかもしれないが、考えすぎかな。

それにしても、すべての墨書を1本の筆ペンで、しかもインクの補充もなくかすれた感じで一気に書き通すとは、なかなか豪快なものだ。ひょっとして粗略に扱われた?考えすぎかな。

さて納経所を出ると、山門の方から動物の鳴き声がする。山門の横に駐車場を兼ねた広場があるのだが、1頭のヤギがつながれており、ちょうど草を食べているところだった。後でわかったことだが、洞春寺には親子のヤギ3頭が暮らしているという。これは子ヤギかな。コロナ禍で休校が続く子どもたちに和みの場を提供するとともに、生き物を大切にすることの尊さを学んでもらおうと始めたことだという。

また洞春寺は「名物住職」の犬が飼われていて知る人ぞ知る人気があったそうだ。旅行記でもこの犬について紹介したものも見られたが、残念ながら今年天寿を全うしたという(現在は2代目の子犬がいるとか)。境内には「山口育児院」の建物がある。これは洞春寺の何代目か前の住職が日露戦争の戦災孤児救済のために建てたものだという。当然、犬やヤギも子どもたちに人気だろう。かつての毛利氏の菩提寺が、現在は子どもたちに近い寺として地域で親しまれている。

洞春寺の境内から瑠璃光寺に抜けられるという。すぐ横が瑠璃光寺のある香山公園。長くなるが、瑠璃光寺の参詣もこの記事でまとめてしまう。

山口市を代表する観光スポットの一つである瑠璃光寺。しかし私はといえば、かなり昔、広島在住時代に一度訪ねたかな?というくらいのもので、実質初めて訪ねるといってもいいだろう。

洞春寺からは公園の裏手から入る形になる。・・とここで、雨が落ちてきた。ここまで何とか持ってくれたが、傘の出番となる。

長州藩毛利氏の墓所に続く手前の石段に「うぐいす張りの石畳」というのがある。ここで強く足踏みをするか手を叩くと美しい音が返ってくるというので、手を叩いてみる。確かに何か反響するのが感じられる。寺の本堂の天井とか、長いコンクリート橋の橋脚で同じような仕掛けに触れたことがあり、音を反響させる周囲の環境によるものだが、意図して制作したのか偶然の産物なのか。

そして、瑠璃光寺の境内である。シンボルの五重塔は後にして、まずは参詣とする。堂々と建つ銅像は、大内氏の勢力を強め、後の大内文化につながる山口の町づくりを行った大内弘世の像である。長州藩といえば毛利氏になるが、元々の山口の町文化の基礎を築いたのは大内氏ということで、こと山口市においては、長州だ、毛利だ、維新だというよりは、中世の雄である大内氏のほうが親しまれているようにも見える。

瑠璃光寺もさまざまな歴史を持っているようだ。最初に建てられたのは室町時代で、大内義弘が香積寺という名前の寺を建立した。義弘は足利義満との戦いで戦死し、それを弔うために五重塔を建てたのが弟の盛見である。また一方、大内氏の家臣の陶氏(後に、陶晴賢が主君の大内氏を滅ぼすことになるのだが)の菩提寺として、安養寺という寺が同じ山口市の仁保に建てられた。これが後に瑠璃光寺と改められた。

関ヶ原の戦い、毛利氏の防長2ヶ国封じ込めで拠点が萩に移された時、毛利氏は香積寺を萩に移した。もっとも、移したというよりは、萩で新しく城や屋敷を建てる余裕がないので、その材料として取り壊して持って行ったというのが実態のようだが、五重塔だけは地元の人たちが嘆願書を出してそれが叶ったために取り壊しを免れたと言われている。時代が少し下って、仁保にあった瑠璃光寺がこの地に移り、そして現在に至る。何だか、隣の洞春寺ともども慌ただしく複雑な歴史があり、ある意味、毛利氏に振り回されてきた寺どうしとも言える。

瑠璃光寺というから薬師如来を祀る寺であることは推測できるが、宗派としては曹洞宗である。柱には「大本山 永平寺 総持寺」と書かれた札が掲げられている。曹洞宗と薬師如来というのが私の頭の中ではすぐに結びつかないのだが、寺の名前もいろいろ変遷したところだけに、本尊もいろいろ変わることもあるのだろう。そして本堂に上がると、薬師如来だけでなく聖観音、弥勒菩薩の像もある。

また、島根の一畑薬師の分院や、別に薬師堂があって長寿薬師如来が祀られている。大きな念珠があるが、心静かに「8個だけ」玉を落とすと邪念が払われるとある。この「8個だけ」というのが曲者で、勢い良すぎると一気に10個くらい落ちそうだ。だから自然と慎重になる。この辺りが、心を落ち着かせて邪念を払うことにつながるのだろう。

そして五重塔である。池越しに眺める姿が優美である。法隆寺、醍醐寺と並んで日本三名塔に挙げられているが、周囲の景色との調和、そして建物が発する優しさという点では瑠璃光寺がこの中で一番かなと思う。

「長州はいい塔をもっている」・・これだけならプロレスの観戦記かと思うが(ある年齢層以上限定かな)、これは司馬遼太郎の『街道をゆく』の長州路編の一節である。この碑が五重塔のたもとに建てられている。

夕方からの時間で洞春寺からの瑠璃光寺を回ったので、翌日からの予定にも幅を持たせることができそうだ。県庁前のバス停に戻り、いったん山口駅までバスに乗る。コインロッカーの荷物を出すためだが、ちょうどすぐに次の秋吉行きのバスが来た。これで湯田温泉に向かう。これでも湯田温泉には18時前には着ける。雨が降ったこともあって、結果的に洞春寺や瑠璃光寺の滞在が短くなった影響だが、ここは前向きに捉える。

湯田温泉通バス停で下車。バス通り沿いには多くのホテルが並び、歩道を行き交う人も多い。十分に賑わっているように見えるが、これでもここ数年の業績と比べると落ち込んでいるのかな。

後から言えば一人旅でもこの日の湯田温泉は自分なりに楽しめた。次は「自分なりに」楽しめたところを・・・。

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