まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第7番「金剛寺」~新西国三十三所めぐり・7(工事中の本堂と南北朝の歴史)

2016年04月27日 | 新西国三十三所
施福寺から歩いて1時間半で天野山金剛寺に着く。今度は「新西国三十三所」の札所である。西国三十三所は開創1300年を迎えようとしているが、「なぜこの寺院が札所になったのか」は解明されていない。そんな中で、昭和の初めに新聞の読者投票を元に選ばれた新西国三十三所。河内エリアの中で、歴史ある金剛寺はぜひとも入ってほしいと思った方が大勢いたということか。だとすると、同じく由緒ある観心寺が「客番」となったのはなぜか。投票で選ばれたとあるが、その過程についてどうだったのかは、ネットで見る限りではわからない。まあ、いろいろあったんやろうなあとしか推測できない。

バス停からすぐのところに山門がある。ここで立て看板があるのは、本堂の大修復工事の案内。平成21年から8年がかりというからとても長い。実は工事中というのを知ったのは、新西国を回ろうと決めた時。だからといって外すわけにはいかない。文化財を維持するには必要なことだし、修復の様子は金剛寺のホームページにも随時掲載されている。修復工事の中で改めて歴史的な発見もあるそうだから、学術的にも役立つことなのだろう。

門をくぐった右手に、納経所を兼ねた受付がある。拝観料を払う時に、係の女性から「ご覧の通り本堂が工事中でして、申し訳ありません。お参りは横の仮本堂でお願いしています」と丁重に言われた。いや、こちらはそれ承知で来ているので、却って恐縮する。

境内は開放的な造りなので、目の前の本堂もバッチリである。ただ、それが覆われている。見た感じでは、どこかの工場一棟に見える。工場の横に寺のお堂があるというようにも見える。

仮本堂の前でお勤め。奥には四国八十八所のお砂踏み巡礼の散歩道が延びているが、ここは入口までとする。やはり本堂が工事中なら、後はどうすることもできない。

それでもお勤めだけはしたということで、新西国の朱印帳を先ほどの係の人に差し出す。「あと1年ほどはこんな感じで、すみません」「大悲殿と書かせてもろてます。ご本尊の御影もつけときます」と、丁重な対応。こちらが(サイコロの出目で)工事現場に押しかけた形なのに、却って恐縮である。

寺院のエリアはこんな感じだったのだが、金剛寺の歴史的価値の高さというのは、南北両朝の御座所が同居しているのが大きいとされている。境内の横が正にそれ。南朝の後村上天皇の御座所だったところだが、ここは門が閉じられて中を見ることはできない。

境内とは別に窓口がある。ここは庭園と北朝の御座所と宝物館を担当していて、完全な別料金。同じ金剛寺の敷地であるが、寺と行座所は別の管轄のようだ。一瞬、エリアごとに拝観料・入山料を取る京都の某寺を思い浮かべる。とは言え、歴史を感じるならばこちらのエリアは必須で、中に入る。

緑が映える庭園を見ながら進むと、北朝の御座所の建物に着く。外は障子で仕切られているが、それを開けて中に入ることができる。北朝三代の天皇たちの行座所とされているが、実のところは北朝の天皇たちは南朝方に幽閉されていたそうである。南北朝の争い、結果を見れば北朝が勝ったように見えるが、その途中では正に南北入り乱れていて、南朝優位の時は北朝の天皇をそう扱った時もあったとか。それでも一応は御座所の扱いで、格調はある。

この他に宝物館で金剛寺の仏像や、楠木正成の書状、楠木家の胴丸などの展示を見る。南北朝時代というのは、その人のスタンス、主義主張によっていかようにも捉えられる時代と思うが、その中で第一級の史料とされているのが太平記である。今では岩波文庫でも全巻が入手できるとあって、かつて今昔物語にも挑戦したように、この太平記にも挑みたいなと思う。

一通り見たところで、河内長野駅行きのバスの時間が近い。当初の机上計画より1時間早く進んでいる。まあそれはどうでもいいこととして、地元の人たちが乗り降りするバスで河内長野駅に戻る・・・・。
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