前回語った指揮者メリク=パシャイエフのフをしりとりして、今回の出だしはイギリスの作曲家ジェラルド・フィンジ(1901~1956)。この人の曲にも、昨年(2006年)初めて出会ったのだった。
●フィンジ : クラリネット協奏曲、<ソリロクィ>、他 【ナクソス】
わかる人に言わせれば、作曲家フィンジの本領は声楽作品の方にあるらしいのだが、一般的に入りやすいのはやはりオーケストラ曲だろう。中でも<クラリネット協奏曲>を前半に収めたこのCDは、おそらく最良のフィンジ入門ディスクじゃないかなと思う。これを聴いた感想としては、後半に収められた小品集が良かった。具体的には、<3つのソリロクィ(=独白)>と<セヴァーン・ラプソディ>、そして<弦楽のためのロマンス>と<ヴァイオリン独奏と小管弦楽のためのイントロイット>である。冒頭部からいきなり惹きつける<ロマンス>や、先達ヴォーン=ウィリアムズを髣髴とさせるようなソロが聴かれる<イントロイット>もそれぞれに魅力的だが、私はその前の2曲がさらに気に入っている。
<3つのソリロクィ>は全曲通しても5分弱という、非常に小さな作品である。しかし、その第1曲『王の詩』などは、短いながらも本当に美しい曲だ。<セヴァーン・ラプソディ>は6分40秒ほどの曲なので、こちらは割とゆっくり楽しめる。セヴァーン(Severn)というのは、「イギリスのウェールズ中部から北東に流れ、イングランド西部を南流してブリストル湾に注ぐ川」のことであると英和辞典に出ていた。これは、後述するジョージ・バタワースの曲によく似た雰囲気を持つ抒情的な名品である。(※ただ面白いことに、フィンジ自身はその“バタワースっぽさ”が気に入らず、この曲を自分の作品目録から引っ込めてしまったのだそうだ。旺史社から出ている『イギリス音楽の復興』という本の254ページに、そのようなことが書かれている。へえ~、という感じである。同書によると、フィンジは自分の作品に対する評価が非常に厳しい人だったそうだ。性格的にも度を越した自己反省癖があって、周りの人たちはそんな彼の様子を見て随分と心配したものらしい。)
●フィンジ : チェロ協奏曲、<エクログ>、他 【ナクソス】
続いて買ったのが、この1枚。演奏しているのは上記のCDと同じメンバーで、ハワード・グリフィス&ノーザン・シンフォニアである。演奏本位で考えると、こちらのCDの方がやや上位に置けそうな気がする。<チェロ協奏曲>の第1楽章、あるいは最後に収められた<グランド・ファンタジアとトッカータ>などで強く感じるのだが、抒情美よりはダイナミックな表現の方にうま味を見せる指揮者の音楽的志向が、曲に合っているようなのだ。
しかし作品自体の魅力で言えば、このCDでは何と言っても、<ピアノと弦楽のためのエクログ>が一番であろう。ピアノ・ソロのしっとりとした語りから始まって、それがやがて弦楽合奏と絡みながら盛り上がり、最後は再び静かに終わるという設計の曲だ。この曲の両端部で聴かれる抒情的な美しさは、全く格別である。ただし、このナクソス盤の演奏よりももっとしっとりした感じの美しい名演が、将来きっと出て来るんじゃないかと思う。フィンジの作品については、別の演奏家との聴き比べがまだこれから必要であると感じる。
●G・バタワース : <青柳の堤>、<シュロップシャーの若者>、他
さて、ジョージ・バタワース(1885~1916)。第一次世界大戦に従軍して僅か31歳という若い命を散らしたこの作曲家も、歌曲や管弦楽曲などにいくつかの愛すべき名作を遺している。中でも、<青柳の堤>と<シュロップシャーの若者>は、とりわけよく知られた名曲と言えるだろう。この人の作品に触れたのはもう随分前のことなのだが、上述のフィンジからのつながりで、今回ついでに採りあげてみることにしたい。
<青柳の堤>は、のどかな田園の時間を小さく切り取って心のアルバムにしたためたような、美しい小品だ。優しい風と緑の木々が生み出す繊細な息吹が、聴く者の心を淡い夢のひと時に誘(いざな)う。<シュロップシャーの若者>については、まずアルフレッド・ハウスマンが書いた詩をもとにして6曲からなる歌曲集が書かれた。しかし一般的には、その後に書かれた管弦楽曲の方がよりよく知られているようだ。尤もこの両者にはやはり音楽的なリンケージがあって、歌曲集の第1曲『木々の中で最も愛おしきもの、桜が今』で聴かれる主要メロディがそのまま管弦楽版にも活用されている、というのが出だしからすぐに分かる。
これらの美しい作品について私がこれまでに聴いた演奏は、とりあえず2種類。まず、ウィリアム・ボウトンという人の指揮によるニンバス・レーベルのCD。続いて、グラント・レウェリンという人の指揮による国内盤のCD(L)である。この両CDを聴き比べてつくづく感じたのは、「こんなにもデリケートな曲になると、その生き死にが演奏によって大きく左右される」ということだ。
ボウトンの指揮による演奏は、<シュロップシャーの若者>が非常に素晴らしかった。音が精妙で、まるで羽二重のように柔らかい。大きく盛り上がる部分ではかなり力強い音を出すものの、音楽は決してわめかない。これは演奏時間にして10分ほどの小さな曲なのだが、美しい曲想を適確に歌い出すボウトン盤を聴いている間、心はしばし桃源郷である。一方、レウェリンの指揮による同曲の演奏は、若気の至りとでも言うのか、ボウトン盤に比べて明らかに精緻さに欠けており、フレージングなどの点でも魅力の乏しいものに思えた。
ところが、<青柳の堤>では状況が逆転する。ボウトンは例によって精妙な演奏を聴かせるのだが、こちらではそのスフマート画法のように音をけぶらせる不明瞭な輪郭線の描き方が、曲の姿も魅力も何だかよく分からないような感じにしてしまっていた。一方、ここでのレウェリンは素晴らしく、ヴォーン=ウィリアムズ風にくっきりした稜線を描く音作りによって曲が美しい姿を現し、とても感動的なものになっていた。<青柳の堤>は演奏時間にすれば6分そこそこの小さな曲なのだが、フルートのソロにハープが寄り添う後半の一場面には本当に泣かされた(※レウェリン盤 〔4:11〕から始まる部分)。つまり、これらの曲はちょっとした演奏の違いで、上に超の字がつくぐらいの名曲にもなり、また逆に、何だかよく分からない退屈な曲にもなってしまうのである。上述のフィンジ作品についてまだ聴き比べが必要だと私が感じるのは、このような理由からなのだ。
(※ところで、『シュロップシャーの若者』というハウスマンの英詩については、個人的にちょっと懐かしい思い出がある。この詩と初めて出会ったのは学校の授業ではなく、高校時代毎日家で熱心に聴いていたラジオ番組『百万人の英語』だった。今ふり返ると、旺文社が主催していた頃の同番組は、とても充実していた。月曜日のJ・B・ハリス先生、木曜日のトミー植松先生は不動のレギュラーで、他の曜日は定期的に担当者が入れ替わって色々な企画の番組をやっていた。毎週土曜日にやっていた長寿コーナー「サタデー・シアター」も、その一つ。私がもっと成長してからこれに出会っていたらどれほど多くの物を吸収できただろうと、今思うと残念でさえある。当時公開されて話題になっていた映画を紹介したり、シェイクスピアの作品を解説したり、英語の名作詩を読んだり、非常に格調高く、盛りだくさんの内容を持つ名番組だった。『シュロップシャーの若者』とも、そのサタデー・シアターで出会ったのだ。G・バタワースの音楽を耳にするのはずっとずっと後なわけだが、少し背伸びしていた高校時代の思い出と絡んで、私にとってはこの曲、ちょっとばかり特別なのである。)
(※最後に、どうでもいいような付け足し話。『百万人の英語』はその後スポンサーが変わり、そこから一気に卑俗化・低能化の道を突き進んだ。サタデー・シアターのように“退屈な”コーナーは、早々に打ち切られた。ハイディ何とかいう軽い男が出てきて、「違う、ちがーう。betterはね、ベターじゃなくて、ベラ~よ。はい、みんなで、ベ~ラ~」なんて指導をし始めた頃、私はこの番組に見切りをつけた。)
●フィンジ : クラリネット協奏曲、<ソリロクィ>、他 【ナクソス】
わかる人に言わせれば、作曲家フィンジの本領は声楽作品の方にあるらしいのだが、一般的に入りやすいのはやはりオーケストラ曲だろう。中でも<クラリネット協奏曲>を前半に収めたこのCDは、おそらく最良のフィンジ入門ディスクじゃないかなと思う。これを聴いた感想としては、後半に収められた小品集が良かった。具体的には、<3つのソリロクィ(=独白)>と<セヴァーン・ラプソディ>、そして<弦楽のためのロマンス>と<ヴァイオリン独奏と小管弦楽のためのイントロイット>である。冒頭部からいきなり惹きつける<ロマンス>や、先達ヴォーン=ウィリアムズを髣髴とさせるようなソロが聴かれる<イントロイット>もそれぞれに魅力的だが、私はその前の2曲がさらに気に入っている。
<3つのソリロクィ>は全曲通しても5分弱という、非常に小さな作品である。しかし、その第1曲『王の詩』などは、短いながらも本当に美しい曲だ。<セヴァーン・ラプソディ>は6分40秒ほどの曲なので、こちらは割とゆっくり楽しめる。セヴァーン(Severn)というのは、「イギリスのウェールズ中部から北東に流れ、イングランド西部を南流してブリストル湾に注ぐ川」のことであると英和辞典に出ていた。これは、後述するジョージ・バタワースの曲によく似た雰囲気を持つ抒情的な名品である。(※ただ面白いことに、フィンジ自身はその“バタワースっぽさ”が気に入らず、この曲を自分の作品目録から引っ込めてしまったのだそうだ。旺史社から出ている『イギリス音楽の復興』という本の254ページに、そのようなことが書かれている。へえ~、という感じである。同書によると、フィンジは自分の作品に対する評価が非常に厳しい人だったそうだ。性格的にも度を越した自己反省癖があって、周りの人たちはそんな彼の様子を見て随分と心配したものらしい。)
●フィンジ : チェロ協奏曲、<エクログ>、他 【ナクソス】
続いて買ったのが、この1枚。演奏しているのは上記のCDと同じメンバーで、ハワード・グリフィス&ノーザン・シンフォニアである。演奏本位で考えると、こちらのCDの方がやや上位に置けそうな気がする。<チェロ協奏曲>の第1楽章、あるいは最後に収められた<グランド・ファンタジアとトッカータ>などで強く感じるのだが、抒情美よりはダイナミックな表現の方にうま味を見せる指揮者の音楽的志向が、曲に合っているようなのだ。
しかし作品自体の魅力で言えば、このCDでは何と言っても、<ピアノと弦楽のためのエクログ>が一番であろう。ピアノ・ソロのしっとりとした語りから始まって、それがやがて弦楽合奏と絡みながら盛り上がり、最後は再び静かに終わるという設計の曲だ。この曲の両端部で聴かれる抒情的な美しさは、全く格別である。ただし、このナクソス盤の演奏よりももっとしっとりした感じの美しい名演が、将来きっと出て来るんじゃないかと思う。フィンジの作品については、別の演奏家との聴き比べがまだこれから必要であると感じる。
●G・バタワース : <青柳の堤>、<シュロップシャーの若者>、他
さて、ジョージ・バタワース(1885~1916)。第一次世界大戦に従軍して僅か31歳という若い命を散らしたこの作曲家も、歌曲や管弦楽曲などにいくつかの愛すべき名作を遺している。中でも、<青柳の堤>と<シュロップシャーの若者>は、とりわけよく知られた名曲と言えるだろう。この人の作品に触れたのはもう随分前のことなのだが、上述のフィンジからのつながりで、今回ついでに採りあげてみることにしたい。
<青柳の堤>は、のどかな田園の時間を小さく切り取って心のアルバムにしたためたような、美しい小品だ。優しい風と緑の木々が生み出す繊細な息吹が、聴く者の心を淡い夢のひと時に誘(いざな)う。<シュロップシャーの若者>については、まずアルフレッド・ハウスマンが書いた詩をもとにして6曲からなる歌曲集が書かれた。しかし一般的には、その後に書かれた管弦楽曲の方がよりよく知られているようだ。尤もこの両者にはやはり音楽的なリンケージがあって、歌曲集の第1曲『木々の中で最も愛おしきもの、桜が今』で聴かれる主要メロディがそのまま管弦楽版にも活用されている、というのが出だしからすぐに分かる。
これらの美しい作品について私がこれまでに聴いた演奏は、とりあえず2種類。まず、ウィリアム・ボウトンという人の指揮によるニンバス・レーベルのCD。続いて、グラント・レウェリンという人の指揮による国内盤のCD(L)である。この両CDを聴き比べてつくづく感じたのは、「こんなにもデリケートな曲になると、その生き死にが演奏によって大きく左右される」ということだ。
ボウトンの指揮による演奏は、<シュロップシャーの若者>が非常に素晴らしかった。音が精妙で、まるで羽二重のように柔らかい。大きく盛り上がる部分ではかなり力強い音を出すものの、音楽は決してわめかない。これは演奏時間にして10分ほどの小さな曲なのだが、美しい曲想を適確に歌い出すボウトン盤を聴いている間、心はしばし桃源郷である。一方、レウェリンの指揮による同曲の演奏は、若気の至りとでも言うのか、ボウトン盤に比べて明らかに精緻さに欠けており、フレージングなどの点でも魅力の乏しいものに思えた。
ところが、<青柳の堤>では状況が逆転する。ボウトンは例によって精妙な演奏を聴かせるのだが、こちらではそのスフマート画法のように音をけぶらせる不明瞭な輪郭線の描き方が、曲の姿も魅力も何だかよく分からないような感じにしてしまっていた。一方、ここでのレウェリンは素晴らしく、ヴォーン=ウィリアムズ風にくっきりした稜線を描く音作りによって曲が美しい姿を現し、とても感動的なものになっていた。<青柳の堤>は演奏時間にすれば6分そこそこの小さな曲なのだが、フルートのソロにハープが寄り添う後半の一場面には本当に泣かされた(※レウェリン盤 〔4:11〕から始まる部分)。つまり、これらの曲はちょっとした演奏の違いで、上に超の字がつくぐらいの名曲にもなり、また逆に、何だかよく分からない退屈な曲にもなってしまうのである。上述のフィンジ作品についてまだ聴き比べが必要だと私が感じるのは、このような理由からなのだ。
(※ところで、『シュロップシャーの若者』というハウスマンの英詩については、個人的にちょっと懐かしい思い出がある。この詩と初めて出会ったのは学校の授業ではなく、高校時代毎日家で熱心に聴いていたラジオ番組『百万人の英語』だった。今ふり返ると、旺文社が主催していた頃の同番組は、とても充実していた。月曜日のJ・B・ハリス先生、木曜日のトミー植松先生は不動のレギュラーで、他の曜日は定期的に担当者が入れ替わって色々な企画の番組をやっていた。毎週土曜日にやっていた長寿コーナー「サタデー・シアター」も、その一つ。私がもっと成長してからこれに出会っていたらどれほど多くの物を吸収できただろうと、今思うと残念でさえある。当時公開されて話題になっていた映画を紹介したり、シェイクスピアの作品を解説したり、英語の名作詩を読んだり、非常に格調高く、盛りだくさんの内容を持つ名番組だった。『シュロップシャーの若者』とも、そのサタデー・シアターで出会ったのだ。G・バタワースの音楽を耳にするのはずっとずっと後なわけだが、少し背伸びしていた高校時代の思い出と絡んで、私にとってはこの曲、ちょっとばかり特別なのである。)
(※最後に、どうでもいいような付け足し話。『百万人の英語』はその後スポンサーが変わり、そこから一気に卑俗化・低能化の道を突き進んだ。サタデー・シアターのように“退屈な”コーナーは、早々に打ち切られた。ハイディ何とかいう軽い男が出てきて、「違う、ちがーう。betterはね、ベターじゃなくて、ベラ~よ。はい、みんなで、ベ~ラ~」なんて指導をし始めた頃、私はこの番組に見切りをつけた。)