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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

フィンジとG・バタワースの作品

2007年02月11日 | 作品を語る
前回語った指揮者メリク=パシャイエフのフをしりとりして、今回の出だしはイギリスの作曲家ジェラルド・フィンジ(1901~1956)。この人の曲にも、昨年(2006年)初めて出会ったのだった。

●フィンジ : クラリネット協奏曲、<ソリロクィ>、他 【ナクソス】

わかる人に言わせれば、作曲家フィンジの本領は声楽作品の方にあるらしいのだが、一般的に入りやすいのはやはりオーケストラ曲だろう。中でも<クラリネット協奏曲>を前半に収めたこのCDは、おそらく最良のフィンジ入門ディスクじゃないかなと思う。これを聴いた感想としては、後半に収められた小品集が良かった。具体的には、<3つのソリロクィ(=独白)>と<セヴァーン・ラプソディ>、そして<弦楽のためのロマンス>と<ヴァイオリン独奏と小管弦楽のためのイントロイット>である。冒頭部からいきなり惹きつける<ロマンス>や、先達ヴォーン=ウィリアムズを髣髴とさせるようなソロが聴かれる<イントロイット>もそれぞれに魅力的だが、私はその前の2曲がさらに気に入っている。

<3つのソリロクィ>は全曲通しても5分弱という、非常に小さな作品である。しかし、その第1曲『王の詩』などは、短いながらも本当に美しい曲だ。<セヴァーン・ラプソディ>は6分40秒ほどの曲なので、こちらは割とゆっくり楽しめる。セヴァーン(Severn)というのは、「イギリスのウェールズ中部から北東に流れ、イングランド西部を南流してブリストル湾に注ぐ川」のことであると英和辞典に出ていた。これは、後述するジョージ・バタワースの曲によく似た雰囲気を持つ抒情的な名品である。(※ただ面白いことに、フィンジ自身はその“バタワースっぽさ”が気に入らず、この曲を自分の作品目録から引っ込めてしまったのだそうだ。旺史社から出ている『イギリス音楽の復興』という本の254ページに、そのようなことが書かれている。へえ~、という感じである。同書によると、フィンジは自分の作品に対する評価が非常に厳しい人だったそうだ。性格的にも度を越した自己反省癖があって、周りの人たちはそんな彼の様子を見て随分と心配したものらしい。)

●フィンジ : チェロ協奏曲、<エクログ>、他 【ナクソス】

続いて買ったのが、この1枚。演奏しているのは上記のCDと同じメンバーで、ハワード・グリフィス&ノーザン・シンフォニアである。演奏本位で考えると、こちらのCDの方がやや上位に置けそうな気がする。<チェロ協奏曲>の第1楽章、あるいは最後に収められた<グランド・ファンタジアとトッカータ>などで強く感じるのだが、抒情美よりはダイナミックな表現の方にうま味を見せる指揮者の音楽的志向が、曲に合っているようなのだ。

しかし作品自体の魅力で言えば、このCDでは何と言っても、<ピアノと弦楽のためのエクログ>が一番であろう。ピアノ・ソロのしっとりとした語りから始まって、それがやがて弦楽合奏と絡みながら盛り上がり、最後は再び静かに終わるという設計の曲だ。この曲の両端部で聴かれる抒情的な美しさは、全く格別である。ただし、このナクソス盤の演奏よりももっとしっとりした感じの美しい名演が、将来きっと出て来るんじゃないかと思う。フィンジの作品については、別の演奏家との聴き比べがまだこれから必要であると感じる。

●G・バタワース : <青柳の堤>、<シュロップシャーの若者>、他

さて、ジョージ・バタワース(1885~1916)。第一次世界大戦に従軍して僅か31歳という若い命を散らしたこの作曲家も、歌曲や管弦楽曲などにいくつかの愛すべき名作を遺している。中でも、<青柳の堤>と<シュロップシャーの若者>は、とりわけよく知られた名曲と言えるだろう。この人の作品に触れたのはもう随分前のことなのだが、上述のフィンジからのつながりで、今回ついでに採りあげてみることにしたい。

<青柳の堤>は、のどかな田園の時間を小さく切り取って心のアルバムにしたためたような、美しい小品だ。優しい風と緑の木々が生み出す繊細な息吹が、聴く者の心を淡い夢のひと時に誘(いざな)う。<シュロップシャーの若者>については、まずアルフレッド・ハウスマンが書いた詩をもとにして6曲からなる歌曲集が書かれた。しかし一般的には、その後に書かれた管弦楽曲の方がよりよく知られているようだ。尤もこの両者にはやはり音楽的なリンケージがあって、歌曲集の第1曲『木々の中で最も愛おしきもの、桜が今』で聴かれる主要メロディがそのまま管弦楽版にも活用されている、というのが出だしからすぐに分かる。

これらの美しい作品について私がこれまでに聴いた演奏は、とりあえず2種類。まず、ウィリアム・ボウトンという人の指揮によるニンバス・レーベルのCD。続いて、グラント・レウェリンという人の指揮による国内盤のCD(L)である。この両CDを聴き比べてつくづく感じたのは、「こんなにもデリケートな曲になると、その生き死にが演奏によって大きく左右される」ということだ。

ボウトンの指揮による演奏は、<シュロップシャーの若者>が非常に素晴らしかった。音が精妙で、まるで羽二重のように柔らかい。大きく盛り上がる部分ではかなり力強い音を出すものの、音楽は決してわめかない。これは演奏時間にして10分ほどの小さな曲なのだが、美しい曲想を適確に歌い出すボウトン盤を聴いている間、心はしばし桃源郷である。一方、レウェリンの指揮による同曲の演奏は、若気の至りとでも言うのか、ボウトン盤に比べて明らかに精緻さに欠けており、フレージングなどの点でも魅力の乏しいものに思えた。

ところが、<青柳の堤>では状況が逆転する。ボウトンは例によって精妙な演奏を聴かせるのだが、こちらではそのスフマート画法のように音をけぶらせる不明瞭な輪郭線の描き方が、曲の姿も魅力も何だかよく分からないような感じにしてしまっていた。一方、ここでのレウェリンは素晴らしく、ヴォーン=ウィリアムズ風にくっきりした稜線を描く音作りによって曲が美しい姿を現し、とても感動的なものになっていた。<青柳の堤>は演奏時間にすれば6分そこそこの小さな曲なのだが、フルートのソロにハープが寄り添う後半の一場面には本当に泣かされた(※レウェリン盤 〔4:11〕から始まる部分)。つまり、これらの曲はちょっとした演奏の違いで、上に超の字がつくぐらいの名曲にもなり、また逆に、何だかよく分からない退屈な曲にもなってしまうのである。上述のフィンジ作品についてまだ聴き比べが必要だと私が感じるのは、このような理由からなのだ。

(※ところで、『シュロップシャーの若者』というハウスマンの英詩については、個人的にちょっと懐かしい思い出がある。この詩と初めて出会ったのは学校の授業ではなく、高校時代毎日家で熱心に聴いていたラジオ番組『百万人の英語』だった。今ふり返ると、旺文社が主催していた頃の同番組は、とても充実していた。月曜日のJ・B・ハリス先生、木曜日のトミー植松先生は不動のレギュラーで、他の曜日は定期的に担当者が入れ替わって色々な企画の番組をやっていた。毎週土曜日にやっていた長寿コーナー「サタデー・シアター」も、その一つ。私がもっと成長してからこれに出会っていたらどれほど多くの物を吸収できただろうと、今思うと残念でさえある。当時公開されて話題になっていた映画を紹介したり、シェイクスピアの作品を解説したり、英語の名作詩を読んだり、非常に格調高く、盛りだくさんの内容を持つ名番組だった。『シュロップシャーの若者』とも、そのサタデー・シアターで出会ったのだ。G・バタワースの音楽を耳にするのはずっとずっと後なわけだが、少し背伸びしていた高校時代の思い出と絡んで、私にとってはこの曲、ちょっとばかり特別なのである。)

(※最後に、どうでもいいような付け足し話。『百万人の英語』はその後スポンサーが変わり、そこから一気に卑俗化・低能化の道を突き進んだ。サタデー・シアターのように“退屈な”コーナーは、早々に打ち切られた。ハイディ何とかいう軽い男が出てきて、「違う、ちがーう。betterはね、ベターじゃなくて、ベラ~よ。はい、みんなで、ベ~ラ~」なんて指導をし始めた頃、私はこの番組に見切りをつけた。)
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ストロングの<オンディーヌ>と、カーペンターの<乳母車の冒険>

2007年01月05日 | 作品を語る
前回語った指揮者サバタの「バタ」から、イギリスの作曲家ジョージ・バタワースの名が思い浮かんだ。しかし、バタワースの曲を聴いたのはもう随分前のことになるので、今回の特番テーマには残念ながらそぐわない。じゃあどうしようかと、ひとしきり考えあぐねていたら、彼と同じファースト・ネームを持つアメリカ人の作曲家を一人思い出したのだった。ジョージ・テンプルトン・ストロング(1856~1948)である。実はこういう人がいることを知って、その作品のCDを買って聴いたのはつい昨年のことであった。「おお、これなら今回の特番にピッタリだ」と掌(たなごころ)をポンと打ち、このトピックが決定したという次第。

さて、G・T・ストロングという人、驚いたことにあのオンディーヌ(=ウンディーネ)を題材にした交響詩を書いていたらしい。ウンディーネと言えば当ブログでちょうど1年前、長いシリーズにして語っていた水の妖精である。その作品は1882~83年に作曲され、1939年に指揮者アンセルメの依頼によって改訂版が作られたとのこと。演奏時間はだいたい25分半ほどで、その大まかなプロットがCD添えつけの英文解説書に載っている。以下、順を追ってその流れを見ていこうと思う。

●ストロング : 交響詩<オンディーヌ>、他 (ナクソス盤)

仄暗い情趣を湛えた冒頭部は、老漁師夫婦とオンディーヌの静かな生活を描いたものらしい。〔1:58〕あたりから出て来るクラリネットのソロは、「愛に対するオンディーヌの憧れ」、そして「オンディーヌの水霊界への依存」を表しているそうだ。タイム・カウンターが3分半ぐらいのところで、“パン、パ パーン!”という力強いテーマがホルンで示されるが、これが騎士フルトブラントである。この部分、音楽がかなり勇ましく盛り上がる。5分半ぐらいから先の部分は、「オンディーヌ叔父キューレボルンとフルトブラントの葛藤」を描いているようだ。ここは次第にフルトブラントを象徴する金管が優勢になってきて、ついに騎士が勝利を収めることを示唆する。タイム・カウンターでは、〔11:49〕のあたり。

その後、オンディーヌとフルトブラントの結婚シーンに続く。しかし〔12:40〕あたりから、木管によるベルタルダのテーマが示され、そこから少しずつ様子が変わってくる。解説書によるとこのテーマは、「生き生きとして楽しげではあるが、どこか浮ついておしゃべりな女」というベルタルダの性格を表現しているようだ。また、フーケーの原作にはない展開だが、この曲のプロットには、「ベルタルダがフルトブラントを取り戻すため、彼に惚れ薬の入った飲み物を渡して飲ませる」という場面があるらしい。騎士のテーマとベルタルダのテーマが、ここで交錯する。

解説書によると、3人によるドナウ川の船旅の場面がその後続くらしいのだが、それはおそらく〔15:20〕あたりからではないかと思う。やがて、フルトブラントとオンディーヌの舟上での諍(いさか)いが始まり、音楽が少し激しくなってくる。タイム・カウンターで言えば、17分過ぎぐらいのところか。このあたりの音楽はまさに、19世紀ロマン派だ。18分を少し過ぎたあたりから、フルトブラントのテーマとそのトリオとしてベルタルダのテーマが交互に奏され、どうやらオンディーヌが負けたらしいことが分かる。

演奏時間が20分を過ぎたあたりから、曲はエピローグに入る。〔20:41〕のところで、ワグナーの<森のささやき>みたいな音楽が聞こえてくる。そして泉からオンディーヌが現われて、フルトブラントを死に誘(いざな)う場面となる。それまではいつも力強く吹かれていた金管のテーマが、ここでは弱く演奏される。〔22:47〕から聞かれる控えめな弦楽は、水の世界を表現しているのかもしれない。「水霊界で、二人の愛が成就した」ということを、この部分で表しているようだ。そして〔24:30〕のあたりから、曲はエンディング。冒頭の仄暗い音楽が再現され、「老いた漁師夫婦は、これからはずっと二人だけで生きていくことになる」という内容が描き出されて、全曲の終了。

―いやあ、こういう曲を書いていたアメリカ人がいたのだなあ。この新発見も、昨年・2006年度の大きな収穫の一つであった。では続いてもう一人、別のアメリカ人による“知られざる名曲”を一つ。

●カーペンター : 組曲<乳母車の冒険>、他 (ナクソス盤)

ジョン・オールデン・カーペンター(1876~1951)の代表的傑作<乳母車の冒険>(1914)を、私は大学時代にLPレコードで聴いた。ハワード・ハンソン&イーストマン・ロチェスター管によるマ-キュリー盤である。しかしまあ、随分古い話だ。そして昨年、ナクソスの廉価盤で同曲の新録音が出ているのを見つけ、ちょっと懐かしくなって買ってみた。ジョン・マクローリン・ウィリアムズ&ウクライナ国立響による演奏。これは買ってよかった、大正解である。

1.乳母車に乗って 2.お巡りさん 3.ハーディ・ガーディ 4.湖 5.犬 6.夢

第1曲『乳母車に乗って』は、主人公の赤ちゃんが乳母車に乗せられて、「さあ、お出かけ」という場面。後ろから車を押すのは、お世話係の乳母である。短い前奏に続いて作品の主要テーマが出て来るが、これが何とも可愛らしい。

第2曲『お巡りさん』には、乳母と会話する体の大きな警察官が登場。出だしがちょっと笑える。アメリカのTVによくある、30分のコメディ・ドラマ(=いわゆるsit-com、シチュエーション・コメディ)が始まる時の音楽みたいなのだ。その後も、のどかな情景が続く。この警官の目と歩き方が赤ちゃんに強い印象を与えていることが、カーペンター自身による作曲ノートに書かれている。

第3曲『ハーディ・ガーディ』は、手回しオルガンの楽しげな音が赤ちゃんを楽しませる場面。日本でも、どこかの遊園地で聞けそうな音楽が出て来る。有名なオペラやナポリ民謡の一節を、ピーヘロヘロとひょうきんに奏でるのが愉快だ。黒っぽい服を着た男女が交代しながらハンドルを回して音を聞かせ、赤ちゃんもすっかり上機嫌。最後は、さっきのお巡りさんがやって来てオルガン回しの男女を追い払ってしまうことになるのだが、赤ちゃんの心には、“禁じられた”楽しい音楽が鳴り続けるという展開。

第4曲『湖』は名曲!赤ちゃんを乗せた乳母車が開けた場所に出て、目の前に大きな湖が広がるという場面だ。この曲はもう、出だしから最高である。ゆらぐ大小の波、その波頭にきらめく陽光、水面(みなも)をわたる心地よい風、これらが見事に音で表現されている。何という平和なひと時、幸福のひと時!

第5曲『犬』は、姿も性格も様々な犬たちが次々と現れて、赤ちゃんを楽しませる場面。音楽的には、一種のスケルツォ楽章みたいな性格を持つ部分だ。せわしない弦の運動と、それに続く表情豊かな各種の管楽器が、犬たちの様子を巧みに表現する。

最後の第6曲『夢』がまた、名曲。第4曲の『湖』と並ぶか、あるいはそれ以上の逸品だ。いろいろな物を見聞きして気持ちがいっぱいになった赤ちゃんが、乳母車に心地よく揺られながら、すやすやと眠りに入る場面である。これは演奏時間にして7分20秒ほどの曲だが、コーダにさしかかる部分になると、聴きながら目頭が熱くなる(※ナクソス盤では、〔5:25〕からの部分)。これは本当に、安らぎと幸福感に満ちた美しい音楽である。またそれだけでなく、幼年期へのノスタルジーと小さき者への愛を、聴く人の心に優しく喚起する音楽でもある。チェレスタの音が、ここで最大の効果を発揮する。

ナクソス盤の指揮者J・M・ウィリアムズは細やかな表情をもって、各曲を美しく奏でている。色彩感の描出も見事だ。ウクライナ国立響も、心のこもった柔らかくて精妙な音を紡ぎ出す。特に、『湖』と『夢』の演奏は絶品。かつてのハンソン盤にも素朴な良さみたいなものはあったが、一段と優れた内容を持つ新録音の登場を心から喜びたい。名作<乳母車の冒険>との、学生時代以来の素晴らしき再会。これも、昨年度の大きな収穫の一つであった。

―さて、次回へのつなぎはまた、しりとり。「うばぐるま」の「ま」を受けて、昨年買ったマルコム・アーノルドの素敵なCDを元ネタにして、2人のイギリス系指揮者の名盤をいくつか語ってみることにしたいと思う。
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<ヒロシマ>、W・キラール、<至福>

2006年12月26日 | 作品を語る
今回は、年末年始特番の第2回。前回の別宮作品からの連想を出発点に、いくつか思いついた物を並べてみたい。

●大木正夫 : 交響曲第5番<ヒロシマ>、他 (ナクソス盤)

前回語った別宮貞雄の第4交響曲は終戦の夏を標題に掲げ、作曲者の心に大きな影響を与えた戦争がテーマとして語られていた。私が今年買って聴いたCDの中に、そこから連想される物が一つある。大木正夫の交響曲第5番<ヒロシマ>である。これは描いている対象が生半可でなく凄い物なので、全編にわたって重苦しい雰囲気が支配する暗い作品だ。

全曲を聴き通した感想としては、やはり最後の『悲歌』が、この作品の総決算になっているように思えた。「人類の良心の声」や、死んでいった少年少女へのレクイエムといったような肯定的ファクターと見なされる音楽素材と、戦争の脅威や原子爆弾といった否定的ファクターと見なされる物が、交互に現れてせめぎ合う。しかしそれらがアウフヘーベンして、より高次元の解決に向かうことは決してない。それどころか、後者の否定的ファクターの方が楽章全体を通して優勢にさえ聞こえるのだ。声楽を伴わない器楽のみで描かれたこの暗鬱な死の世界は、聴く者の頭(こうべ)を終始垂れ続けさせる。

●W・キラール : <ピアノ協奏曲>、<神の母>、他 (ナクソス盤)

今年CDを買って聴いた曲の中に、現代ポーランドの作曲家ヴォイチェフ・キラールによる<神の母>というのがあった。日本語の解説帯によると、これは平和への祈りというテーマで書かれたものらしい。上記の<ヒロシマ>からふと今連想されたのだが、正直言うと、この曲はあまり私にはピンと来なかった。そのCDではむしろ、併録された<ピアノ協奏曲>の方が面白かった。

映画音楽の分野でも有名らしいキラールの作品については、実は何年か前に同じナクソス盤で、<エクソダス>や<アンジェラス>等を収めた1枚を買って聴いたことがあった。で、これがまあ、何と言うか、かなりアブナイ音楽。同一音型が執拗に繰り返されながら次第に盛り上がっていき、それが大音響に達した後もまだ終わらない、みたいな作風だった。ミニマル風のパターンがひたひたひたひた、ひたひたひたひたと迫りながら、じわじわ、じわじわ、粘っこくクレシェンドしていくのである。合唱と管弦楽にソプラノ独唱が加わる大作<アンジェラス>は特に強烈で、「うおおっ、そ、そこまでやっておきながら、まだ続くのかあっ」と、聴きながらのけぞらずにはいられなかった。具体的なタイミングで言えば、〔15:30〕のあたり。「あ、ここで終わりかな」などと思ったら、とんでもない。そこからまた、ひたひた、ひたひたと始まるのだ。w

今年聴いた<ピアノ協奏曲>も、そのような繰り返しパターンみたいな物が使われている点では共通している。が、上記のCDで聴かれたような異常性(?)は随分後退しているので、精神面での安全度は高い。w 第1楽章「アンダンテ・コン・モート」は、ピアノ独奏が微妙に表情を変えながら類似音型を繰り返し、オーケストラによる背景が映画音楽風のきれいなメロディを付け添えていくというパターン。これは非常に把握しやすく、また親しみやすい曲である。続く第2楽章「コラール」では、どこかの教会で聞かれそうなコラール主題が繰り返される。で、面白いのは、それを訥々(とつとつ)と弾くピアノが、何だかベートーヴェンの曲をやっているみたいに聞こえる点。第3楽章「トッカータ」は、派手に騒がしく盛り上げる曲。1997年に書かれたという比較的新しい作品だが、以上見てきた通り、何だか“ごった煮風”の構成になっている。(※ところで、この作曲家の名前だが、ナクソス盤CDでは「キラル」と表示されている。「キラール」と伸ばすのと、どちらがより原音に近いのだろう?)

●フランク : オラトリオ<至福>

昨日12月25日は、クリスマス。それにちなんで今回は、イエス・キリスト様がご登場になる作品で締めくくることにしたい。ベルギーの作曲家セザール・フランクと言えば、<交響曲>や<ヴァイオリン・ソナタ>等がとりわけ有名だが、自身が敬虔なカトリック教徒だったこともあって、彼は宗教的な声楽曲も相当数遺していたようだ。オラトリオ<至福>(1879年)も、その一つ。これは『プロローグ』と8つの『至福』から構成され、8人の独唱者と合唱団、そしてオルガン付きの管弦楽を要求する大がかりな作品である。

しかし、その大がかりな音楽とは対照的に、テキストの設計は至ってシンプルなものだ。まず人間の心に巣食う悪と善が前半で語られ、最後はイエス・キリストの言葉によって救われるというパターンを、各『至福』で毎度繰り返すのである。別にクリスチャンでも何でもない私の場合、単に「珍しい物が中古で見つかったから、ちょっと聴いてみるか」という程度の軽い気持ちでCDを買ったに過ぎないのだが、聴いてみて非常に気に入った曲が一つある。

『第3の至福』である。これは非常に良い。他の7曲とはいささか趣が異なって、この曲は音楽がかなり“オペラティック”に書かれているのだ。パターンは他の『至福』と同じで、まず前半で地上の苦しみが歌われる。ここでは孤児(Ms)、妻を失った夫(T)、息子を失った母(A)、夫を失った妻(S)といった人たちが、おのがじし苦しみや悲しみを歌う。それからいくつかの楽曲が展開した後、最後にイエス(Bar)が登場し、「悲しむ人は幸いである。その人は慰められるであろう」と語って聞かせるわけである。で、この『第3の至福』で凄いのは随所に出て来る合唱で、これが何とも迫力に満ちた楽想を壮大に歌い上げるのだ。このオペラ的表現、私は気に入った。ヒジョーに気に入った。フランクせんせー、やるじゃあーりませんか。w 

―さて次回へのつなぎは、久々にアルファベットのしりとり。<至福>のフランス語原題であるLes Beatitudesの最後のsを受けて、指揮者セルジュ・チェリビダッケ(Sergiu Celibidache)の古い録音を採りあげてみたい。それと、ついでにもう一人、名字に大文字のSがあるイタリアの指揮者ヴィクトール・デ・サバタ(Victor de Sabata)のコンサート音源も、ちょっと語ってみようかと思う。
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別宮貞雄の交響曲と『マタンゴ』

2006年12月20日 | 作品を語る
今回から、年末年始特番である。第1回はやはり日本人の作曲家から、ということで、交響曲と映画音楽の両分野にわたる別宮貞雄(べっく さだお)氏の作品について語るところから始めたい。

●別宮貞雄 : <交響曲第1&2番> (ナクソス盤)、他

別宮貞雄の交響曲というのは全部で5曲あるそうなのだが、私の場合は、かつて若杉弘&都響による<第3&4番>(1993年1月27日・サントリーホール・ライヴ フォンテック盤)をCDで聴いたのが最初になる。今回の特番で別宮氏の交響曲を採りあげた理由は、<第1&2番>を今年になって初めて、ナクソスのCDでじっくり聴いたからである。

<第1&2番>については、やはり最初の第1番(1961年)の方がとっつきやすい音楽に感じられた。まず、第1楽章の出だしが非常に良い。これを聴いた時、私は思わず、「○○石鹸がお送りする、奥様・愛の劇場」みたいな昼メロのテーマ音楽を連想してしまった。w つまり、それだけ分かりやすいということだ。片山杜秀氏の熱血(!)解説によると、この最初の楽章は、「あこがれ」をイメージしたものだそうである。なるほど・・。次の第2楽章は、「たたかい」。木琴がストラヴィンスキーの<火の鳥>みたいに活躍する、嵐みたいな音楽。続く第3楽章は、「なげき」。全体に陰鬱で重々しい雰囲気が漂う。このあたりも、分かりやすい展開。最後の第4楽章には、「・・・そしてまた」という標題がもともとあったらしい。ここでは、片山氏のいわゆる「ルーセル風の第1主題」が中心的役割を担っていて、これが勢いよく曲を盛り上げる。確かに、音楽がルーセルしている。コーダで再び、第1楽章の奥様・愛の劇場(?)が呼び戻されるのだが、これが即ち、「・・・そしてまた」という意味になるもののようだ。作曲者自身の言葉によると、「西洋近代の伝統的な交響曲形式の中に、私の気持ちをどのようにつぎ込めるかという試みだった」そうな。

しかし、次の第2番(1977/2004年)には、正直言って、お手上げ。昼メロ風のメロディの断片や木琴の活躍に、第1番との共通点がちょっとだけ感じられたものの、全体に把握困難な音楽だ。荒れる第1楽章、沈思黙考する第2楽章、パッサカリア風の第3楽章。しかし、どうもつかめない。別宮氏の言葉によると、「西洋19世紀風の音楽にとらわれず、自分の心によりぴったり合う響きを求め、厳しい音による3楽章にまとまったもの」だそうである。って、言われてもなあ・・。

作曲者自身が、「西洋19世紀風の音楽を避けようなどとは考えず、自由に思いのままに歌おうとした。第2番に対する反動とも云える物」と語る第3番(1984年)は、再び分かりやすい音楽になる。この交響曲には、シューマンの第1番やテオドラキスの第7番と同じく、<春>という標題が付いている。ホルンのソロと賑々しいファンファーレで始まる第1楽章「春の訪れ」、人々が浮かれる様を描く第3楽章「人は踊る」、それぞれにかなり具体的で理解しやすい。しかし、「花咲き、蝶は舞い・・・」という標題が添えられた第2楽章こそ、この曲の中でも最も親しみやすい部分と言えるだろう。いかにも春らしい、暖かいのどかさと平和な気分に満ち、木管が歌いだす鳥の声が彩りを添える。この雰囲気、実に良い。

<夏 1945年>と題された第4番(1991年)は、またヘヴィーな曲。テーマは、終戦の年の夏である。第1楽章の副題になっている「妄執・オブセッション」は、作曲家にとっての強迫観念であった戦争を示唆するものらしい。同一のリズム・パターンがしつこく張り付いたように繰り返され、いかにもオブセッションという言葉を具現化している音楽だ。第2楽章「苦闘・ストラグル」は、楽曲としては一種のスケルツォ的な性格を持っている。木琴の活躍がここでも聴かれる。最後の第3楽章「解放・リベレーション」は、解決の音楽。別宮氏いわく、「敗戦は破局であると同時に、解放の始まりでもあった」ということで、グレゴリオ聖歌の<レクイエム>を引用して犠牲者への追悼を行いつつ、最後は喜びの音楽で締めくくるという設計になっている。

残念ながら第5番はまだ聴く機会を得ていないのだが、上記の4作品について言えば、やはり第1番と第3番が比較的親しみやすいものに思える。

―ところで別宮貞雄氏は、東宝映画『マタンゴ』(1963年)の音楽も担当していた。放射能変異による恐怖のキノコ人間を描いたこの映画は、大映映画の『大魔神』第1作などと同じように、一部マニアの間でカルト的な人気を得ている作品だ。

と言っても、そこでの別宮氏は、伊福部先生のような存在感出しまくりのドロドロ音楽(?)は書いていない。東宝のロゴ・マークと一緒に出て来る冒頭の音楽こそ不気味ムードいっぱいだが、タイトル・テーマ曲になると、これが何とも意外。海に浮かぶヨットの画像を背景にして流れる音楽は、まるで当時の青春映画にでも使えたんじゃないかと思えるぐらい軽やかで楽しげなのである。だから一層、その後に始まるドラマのおどろおどろしさが引き立つという仕掛けなのかもしれない。

水野久美さんが演じるマミに手引きされて、土屋嘉男さん演じる笠井がついにマタンゴを口にする時に流れる音楽、あれなど一つの形にまとまった音楽作品と言えそうだ。マタンゴを食べながら笠井が見る幻影は、東京の夜のネオン街。どこかの怪しげな店で繰り広げられる、ステージ・ショーの女たちである。電子オルガンやサクソフォンなどが活用された、まあいかにも、という感じの音楽がその場面に付けられている。

(※ところで、この道のファンの間では常識になっている話だが、マタンゴは食べると本当に美味しいのだそうだ。素材は老舗の和菓子店に注文した「おしんこもち」で、それに当時の円谷組のスタッフが遊び心で砂糖やきな粉を混ぜて仕上げたものらしい。映画の中で土屋さんが、まるで綿菓子をほおばる子供のように幸せな顔をするのも、八代美紀さん演じる明子が、「せんせー、おいしいわあ」とうれしそうな顔をして見せるのも、どうやら演技だけではないようだ。 )

さて、映画『マタンゴ』が観る者に突きつけてくる問いかけは、「あなたなら飢えて死にますか?それとも、マタンゴを食べて化け物になってでも生き続けますか?」という二者択一である。考えたら結構ヘヴィーなテーマではあるのだが、そこがやっぱり東宝映画らしいというか、本多猪四郎監督らしいというか、そんなに陰惨な衝撃を残す作品にはなっていないように私には思える。水野久美さん演じるマミがキノコを食べても化け物にならず、逆に妖艶な美人に変わるという展開は本多監督のアイデアだったそうだ。お優しいこと。あるいは、福島正実氏の原作にはあったらしい、村井研二と相馬明子の激しい性行為シーンも映画の台本からはカットされている。「子供たちもきっと観に来るから」という配慮があったのだろうが、このあたりの健全志向がいかにも東宝映画らしい。

最後に一つ。この映画の音響効果として最も印象に残るものは何かと言ったら、それはもう、あのマタンゴたちの不気味な声であろう。子供がキャハキャハ、ケラケラと笑う声、大人がホッホッホッと笑う声、これらが加工されて素敵に気持ちの悪い効果音に仕上がっているのだ。その子供の声は確か、『ウルトラQ』の「悪魔っ子」で使われていたと思う。大人の声はもっと有名で、これはあのバルタン星人の声のルーツである。と、その前にケムール人。懐かしいなあ・・。(※『ウルトラQ』と言えば、あのテーマ曲を始めとする各種の背景音楽が非常に効果的だったが、それらを書いていた宮内国郎氏が先月11月の27日に亡くなられたそうだ。おそらく仏式の葬儀が行なわれたものと拝察し、ご冥福をお祈りしたい。)

―という訳でこの『マタンゴ』、ある世代の東宝映画ファンには、ちょっと思い入れのある作品なのであった。あれ、別宮センセーの話は?ま、いいや。フォーッホーッホーッホッ・・・。
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歌劇<イーゴリ公>(5)

2006年12月15日 | 作品を語る
ボロディンの歌劇<イーゴリ公>・第5回。今回は、最後の第4幕。

〔 第4幕 〕

戦によって荒れ果ててしまったプチヴリの町。ヤロスラヴナが一人佇(たたず)んで、悲しい思いを歌にする。「私はカッコウ鳥になって飛んで行き、カヤラ川に袖を浸そう。そして、我が夫の傷口を拭いてあげたい・・」。

(※このヤロスラヴナの歌の中で、夫のイーゴリ公がアリアの中で歌ったものと同じメロディが繰り返して聴かれるのが注目ポイント。これはひょっとしたら、遠く離れていても心が通い合っている夫婦の姿を表現しているのかも知れない。)

(※先にご紹介した森安達也氏の『イーゴリ遠征物語』によると、ここに出て来るカッコウ鳥というのは、実際にはカモメと解釈するのが妥当なようである。原語の「ゼグジツァ」は確かにカッコウと訳せる単語ではあるらしいのだが、ウクライナ地方の鳥類に関する研究成果から、実体はカモメであろうと推測出来るのだそうだ。ヤロスラヴナの言葉にある「カヤラ川に袖を浸す」という行動も、カモメの習性にこそ一致するものらしい。ちなみに同書によると、在原業平が歌に詠んだと伝えられる都鳥(みやこどり)も、その正体はユリカモメだそうである。)

(※森安氏の著作から得られる知識を、もう一つ。ヤロスラヴナというのは、「ヤロスラフの娘」という意味の言葉で、彼女本来のファースト・ネームはエフロシニヤというのだそうだ。イーゴリ公の後妻として嫁いだ時には、わずか16歳だったという。また、悪役である彼女の兄ガリツキー公も、本当の名前はウラジーミル・ヤロスラヴィチである。これは、「ヤロスラフの息子ウラジーミル」という意味だ。たまたま、主人公であるイーゴリ公の息子もウラジーミルという名前なので、混乱を避けるため当ブログではずっと、「ヤロスラヴナの兄ガリツキー」で通したのだった。ちなみに、イーゴリの息子ウラジーミルをロシア語流に言えば、ウラジーミル・イーゴレヴィチということになる。なお、このウラジーミルはヤロスラヴナの子ではなく、イーゴリ公と先妻の間に生まれた息子である。)

「こんな姿になってしまったのは、グザーク汗にやられたからだ」と、プチヴリの人々がうなだれて行進していった後、ヤロスラヴナは遠くから2人の男が馬に乗って近づいてくるのを目にする。やがて、そのうちの一人が夫のイーゴリ公であると分かり、彼女は大喜び。そしてついに、夫婦は感激の再会を果たす。

敵に囚われたイーゴリ公のことをそれまでさんざんからかっていたスクラとエロシュカの2人も、イーゴリの帰還を知るや、態度をコロッと変える。「おーい、みんな喜べー!我らの公がお戻りだぞー」。お調子者2人にあきれる人々も、「まあ、うれしい出来事だから、こいつらも許してやろう」と寛容な言葉を送る。そして、イーゴリ公の帰還を喜ぶ人々の大合唱による華々しい終曲。

(※という訳で、イーゴリ公は無事に帰国し、愛する妻と再会することが出来た。めでたし、めでたし。ところで、一旦は断ったオヴルールの脱出計画を、その後どんないきさつでイーゴリが受け入れて実行することになったか、あるいは、彼らの脱出行にどんな“神と自然の御加護”があったか、そのあたりの説明はオペラにはないが、原典の『イーゴリ公遠征譚』の中ではしっかりと語られている。興味の向きは、ご一読を。)

―以上で、歌劇<イーゴリ公>は終了。お疲れ様。

(PS) ロシア国民楽派の2つの流れについて

今回は枠に余裕があるので、ちょっと知ったかぶりのお話、と言うか、本の受け売り話を一席。イタリアに学んだミハイル・グリンカ(1804~57)がロシア国民音楽の土台を作り、多くの作曲家がその後に続いたというのは周知の通り。歌劇<ルスランとリュドミラ>に強く感化され、自らルスラニストであることを明言していたR=コルサコフも勿論、その一人である。しかし近代ロシアの音楽史を語る際には、グリンカと並んでもう一人、その出発点となった人物として忘れてはならない作曲家がいる。

アレクサンドル・ダルゴムイシスキー(1813~69)である。グリンカがイタリアの流儀をもとにした作風で、アリアとレチタティーヴォをはっきり区分けしつつ、随所にロシア民謡等の民族素材を盛り込んだのに対し、ダルゴムイシスキーは全く別のスタイルを打ち立てた。それは、もっぱらレチタティーヴォを中心にドラマを運び、ロシア語の特徴から劇的内容まで、すべてを音楽の言葉に移し変えていくという手法である。このデクラメーション(=朗唱)様式は、後にムソルグスキーによって完成されることになる。さらに言えば、そのムソルグスキーに深く傾倒し、20世紀ソヴィエトの時代に衣鉢を継いだのが、あのショスタコーヴィチであった。

(※先頃当ブログで語ったR=コルサコフの歌劇<モーツァルトとサリエリ>が異色の作品に見えるのは、基本的にはグリンカの流儀を引き継いでいた作曲家が、その出来上がりの姿に於いて、ダルゴムイシスキーの様式に近づいたような物を書き上げることになったからである。)

ところで、そのダルゴムイシスキーの作品だが、私がこれまでに聴いたことがあるのは、ほんの数曲しかない。まず、<毛虫>などの歌曲がいくつか。これは、エフゲニ・ネステレンコ(B)の来日リサイタルがNHK-TVでオン・エアされた時に視聴したものだ。もう何年前になるのだろうか・・。後は、ドン・ジョヴァンニの物語を題材にした<石の客>の一部。これもやはり随分昔、確かFM放送で聴いたものだったと思う。しかし、それらの中で私に音楽的な感動を与えてくれたものは、残念ながら一つもなかった。彼の作品を理解するにはやはり、ロシア語の素養が必要なのだろう。

【 参考文献 】(※いずれも、音楽之友社)

『スタンダードオペラ鑑賞ブック 5 フランス&ロシアのオペラ』 ~124ページ

『オペラ・キャラクター解読事典』 ~186、187ページ  

★〔年末年始特番〕開始!

さて、次回からの予定について。R=コルサコフが補筆完成させた名作オペラの話をまだ続けてみよう、という考えはあるのだが、時期がこれから年末年始に入る。そこで、今やっているシリーズはちょっと休憩にして、これからしばらく、〔年末年始特番〕と銘打った特別記事のシリーズを“気ままに”書いていきたいと思う。

テーマを具体的に言えば、「今年(2006年度)買って聴いたCDの中で、特に印象に残った物」である。こういう話題は、今のような年末年始こそがチャンスだと思う。また、「厳密に言えば買ったのは去年だが、今年に入ってからじっくり聴いたCD」というのも、せっかくなので、この特番に含めて扱っていきたい。オペラ以外の話に普段なかなか触れられずにいるので、それらをまとめて採りあげることが出来るという意味でも、これは絶好のチャンスである。

次回はその第1回となるが、やはり最初は日本人の作曲家から始めてみることにしたい。
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