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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

<エフゲニ・オネーギン>を巡って

2007年04月09日 | 作品を語る
今回のトピックは、チャイコフスキーの<エフゲニ・オネーギン>。プーシキンの原作ともども、多くの人が様々に分析し、また様々に語ってきた名作である。今回は、数多く存在するオネーギン論の中から、私がこれまでに読んで興味深く感じた例をいくつか選んで並べてみたいと思う。

●<エフゲニ・オネーギン>の主役男女

―エフゲニ・オネーギン

タイトル役であるエフゲニ・オネーギンの人物像については、複数の資料を通じてほぼ共通したイメージを得ることが出来る。まず、彼がどのような種類の人間であったかということを端的に示す言葉として、“リシュニー・チェラヴィエク”というのがあるようだ。これは「余計者」、あるいは「無用人」といった感じに訳せるロシア語で、19世紀のロシアに存在した一部の人間たちを指しているもののようである。その具体的な人物像は、おおよそ以下のようなもの。

{ お金と地位、そして余暇も教養も十分にありながら、人生に理想を見出せず、打ち込める仕事もなく、無為徒食の日々を送る人物。 } (※M・エルムレルの指揮による1979年盤<エフゲニ・オネーギン>全曲LPに付いていた日本語解説より )

―タチヤーナ

オネーギンに恋をしてふられるが、ドラマの最後には立場が逆転し、言い寄る彼を振り払うことになるタチヤーナ。この作品のヒロインである彼女についての分析や評価も様々あるが、ここでは作曲家チャイコフスキー自身の言葉を採りあげておきたい。これは、第1幕の『手紙の場』で聞かれるタチヤーナのセリフを理解する上で、大きな手助けとなるものだ。

{ タチヤーナは、オネーギンの人柄を知って好きになったのではありません。そういうものを知る必要はなかったのです。彼が現れる前から既に、タチヤーナは自分自身の小説に出て来る主人公に恋していたのです。オネーギンはただ、現われさえすればよかったのです。彼女はすぐさま自分の理想の人の特徴をオネーギンに重ね合わせ、自らの熱狂的・ロマン的な空想の人物への愛を、生身のオネーギンに移し変えるのです。 } (※チャイコフスキーがタニェエフに宛てた1878年1月2日付の書簡より )

●「3つの抒情的情景」という肩書き

上の手紙の中でチャイコフスキーは、<エフゲニ・オネーギン>がオペラとしては成功しないであろうことを予見すると同時に、「抒情的情景」のような呼び名をこの作品に付けるつもりでいることも述べている。では、そうして付けられた「3つの抒情的情景」という肩書きには、どのような意味合いがあったのか。それを読み解く有力な手がかりの一つとして、『名作オペラ・ブックス25 エフゲニ・オネーギン』(音楽之友社)の9~30ページに掲載されたアッティラ・チャンパイ氏の論文「チャイコフスキーの3つの小悲劇」を挙げることが出来ると思う。同氏が展開している論旨によると、<エフゲニ・オネーギン>は、「それぞれ別々の主人公を持った3つのドラマの集合体」のように把握できるようだ。具体的に見ていくと、まず第1幕が「タチヤーナの悲劇」、続く第2幕が「レンスキーの悲劇」、そして最後の第3幕が「オネーギンの悲劇」ということになる。以下、同氏の論文を土台にして、私なりの言い方で各幕を要約してみることにしたい。

〔 第1幕 〕・・・タチヤーナの悲劇

第1幕の舞台は、タチヤーナを含む彼女の家族一同が暮らすお屋敷。開幕直後に聴かれる4人の女性たちによるアンサンブル、それに続く農民たちの合唱、さらに主役男女4人のアンサンブルに含まれる『レンスキーの愛の歌』といった部分は、いわゆる“色づけ要素”であり、第1幕の本質は、『手紙の場』を頂点とするタチヤーナのドラマである。なお、この第1幕の幕切れは彼女の失恋シーンになっているが、村娘たちの陽気な合唱をその背景に流すことによって、ヒロインの挫折感や孤独感を一層鮮烈に浮かび立たせているのが印象深い。

〔 第2幕 〕・・・レンスキーの悲劇

冒頭で流れる音楽こそ第1幕から続くタチヤーナの恋のタスカー(=苦悩)を表すものと解釈出来るが、それに続く有名なワルツからはレンスキーのドラマとなる。まず前半は、パーティーのシーン。タチヤーナの妹であるオリガは、レンスキーが子供の頃からずっと恋してきた快活な女性だ。それを百も承知した上で、オネーギンは彼女を踊りに誘い、彼女もそれに乗る。これは、自分に対する人々の冷ややかな言葉を耳にしたオネーギンが、「レンスキーめ、つまらんところに俺を誘いやがって。よし、ちょっと仕返しにからかってやるか」と、いたずら心を起したためである。レンスキーは、オネーギンとオリガのダンスに激しく嫉妬し、怒りのヴォルテージを上昇させていく。そして、オリガと約束していたコティヨンの踊りまでもオネーギンに奪われた時、ついに彼は爆発し、オネーギンに決闘を挑む。(※チャンパイ氏の論文によると、たかが一晩のダンスを巡ってレンスキーがここまで激昂し、ついには決闘にまで事態が及んでしまったという背景には、彼がオネーギンに対して内心感じていたであろうコンプレックスと、了見の狭い田舎の社交界のプチブル的精神風土があったと分析できるようだ。)

第2幕の後半は、有名な決闘シーン。ある意味、この作品最大のハイライトと言ってもよい場面である。立会人のザレツキーらとともに、レンスキーはオネーギンを待つ。彼は自らの死を覚悟し、「過ぎ去った青春の日々よ」と有名なアリアを歌う。やがて、付添い人を一人連れてオネーギンが到着。決闘は、瞬時に決着がつく。雪原に鳴り響く銃声とともに倒れ、流れる血で雪を赤く染めながらレンスキーは絶命する。

〔 第3幕 〕・・・オネーギンの悲劇

最後の第3幕に至ってようやく、タイトル役のオネーギンが実質的な主人公となる。第1幕では、タチヤーナから愛の手紙をもらった時、「私は結婚に向いた男ではないのです」とあっさり拒否したオネーギン。第2幕では、気まぐれでからかった親友レンスキーにまさかの決闘を挑まれ、不本意な撃ち合いで彼を殺すことになってしまったオネーギン。その傷心の出来事以来、さすらいの日々を送って帰ってきたという第3幕の冒頭。「旅さえも、退屈だった。そして、ここでも退屈だ」とこぼし、人々から遊離しているオネーギン。そんな彼が、この第3幕でついに少年のような恋心にときめく。グレーミン公の奥方となったタチヤーナの美しい姿にハッとし、さらに若妻への愛を熱っぽく語る老グレーミン公の言葉を聞いて、オネーギンの心に熱い炎が燃え始めたのである。彼はタチヤーナに猛然と恋のアタックをするが、彼女は、「あなたを愛しています。でも、運命はもう決まっているのです。私は夫と生きてゆきます」と、彼を振り払って去って行く。最後、オネーギンは一人ぼっちになって叫ぶ。「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」。

●「タスカー」の作曲家としてのチャイコフスキー

音楽之友社から出ている『オペラ・キャラクター解読事典』の188~194ページに、渋谷和邦氏による大変興味深い記事が載っている。それによると、<エフゲニ・オネーギン>を読み解くための大きなキーワードは、他の言語には訳しにくい「タスカー」というロシア語にありそうだというのである。当ブログで今回書いてきた文章のあちこちにタスカーという言葉を散りばめたのは、実はこのことに触れたいからであった。

{ タスカー(=憧れ)によって始まったタチヤーナの恋は、タスカー(=ふさぎの虫)の男オネーギンによって拒絶される。その後グレーミン公の妻となったタチヤーナに恋を感じたオネーギンだが、今度は逆に彼女から拒否され、「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」と叫ぶのである。 }

さらに渋谷氏は、歌劇<スペードの女王>の第3幕で聴かれるリーザのアリアにも言及し、「私の人生は喜びに満ち溢れていたのに、疲れ果ててしまった。・・・もう、私はだめです。タスカー(=憂鬱)が私を苦しめる」という歌詞に注目している。この歌に見られるタスカーという言葉は、どうやら作曲者自身が入れたものらしい。そして、チャイコフスキーが書いた器楽によるタスカーの音楽として、交響曲第6番<悲愴>の終楽章が最後に挙げられている。ひとり<オネーギン>に限らず、実はチャイコフスキー自身がタスカーに捕えられ、魅入られた人物であったのだ、というのが渋谷氏の論旨である。

★次回から、<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ。当ブログお得意の感想文シリーズだ。と言っても、この作品の場合、私はやたら大昔の録音ばかりを中心に聴いているので、トピックのタイトルとしては、「<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演」という感じになりそうである。
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ムソルグスキーの歌曲

2007年04月03日 | 作品を語る
前回まで語った歌劇<ホヴァンシチナ>からのつながりで、今回はムソルグスキーの歌曲をちょっと採りあげてみたいと思う。参照しているCDは、下記の3種である。

●『ムソルグスキー歌曲集』 (EMI 5 67993 2 )
【 B・クリストフ(B)、A・ラビンスキー(Pf)、G・ツィピーヌ(指) 】

●『ロシアの歌曲とオペラ・アリア集』 (EMI 5 62654 2)
【 G・ヴィシネフスカヤ(S)、M・ロストロポーヴィチ(Pf&指) 】

●『シャリアピン プリマ・ヴォーチェ』 (Nimbus NI 7823/4 )
【 F・シャリアピン(B)、※各種伴奏による2枚組の名唱集 】

―歌曲集《死の歌と踊り》

この作品には、オリジナルのピアノ伴奏版の他に、複数のオーケストラ伴奏版がある。バス歌手のボリス・クリストフが歌ったCDはグラズノフとR=コルサコフによる編曲版を使っていて、ソプラノのガリーナ・ヴィシネフスカヤが歌った方はショスタコーヴィチの編曲版を使っている。以下、この両者を聴き比べながら、各曲の内容や特徴等を見ていきたい。

(※この歌曲集は基本的に第1~3曲がバス向けで、第4曲のみドラマティック・テナー向けに書かれている。しかし、ソプラノのヴィシネフスカヤがこれを歌ったのにも、それなりの裏づけがある。彼女が書いた『ガリーナ自伝』【日本版・みすず書房】の294~296ページに、この歌曲集に対する思い入れや、彼女なりの楽曲解釈が述べられている。これは非常に興味深い内容を持つ物なので、ここでも適宜引用していきたいと思う。)

第1曲<子守唄>・・・ろうそくが揺らめく暗い部屋。病にうなされる子供に死神が忍び寄り、子守唄を歌って寝かしつける。母親はそれを追い払おうと必死に抵抗するが、ついに子供はこと切れる。

(※クリストフの歌を聴いていると、死神が自然に男のイメージとして聞こえてくる。一方ヴィシネフスカヤは、「ここで優しい子守唄を歌う死神は、愛情深い乳母の姿で現れている」と述べている。そして、その乳母の正体を知っている母親が必死に子守歌をやめさせようとしている場面がこの歌には描かれているのだ、というわけである。母親が、「お願いだから、もうやめて。子供の顔が青ざめて、息も弱くなっているわ」と訴えるのに対し、「それは良い兆候。この子の苦しみが間もなく終わるということだからね」と、死神がさりげなく応じる部分が怖い。)

(※グラズノフとR=コルサコフによる編曲は、もっぱら低弦を主体とした伴奏。クリストフの声と歌唱が圧倒的なためか、あるいは録音バランスも関係してか、こちらのオーケストラ伴奏は幾分控えめな感じに聞こえる。一方ショスタコーヴィチは、低弦の他に各種の管楽器を加えて響きを充実させている。)

第2曲<セレナード>・・・静かな白夜の情景を描く音楽に続いて、病み衰えた少女の姿が浮かび出る。彼女は夜の静けさに耳を傾けながら、生きる喜びを求めている。そこに死神が現れ、彼女の家の窓辺でセレナードを歌う。「お前の青春は失われている。この私、名もなき騎士が、お前を解放してあげよう。お前は、私を魅惑する。そのしなやかな体、うっとりさせるおののき・・。私はお前を抱き、死にいざなおう。・・お前は、私のもの」。

(※夜の雰囲気を醸し出す管弦楽の巧みさについては、グラズノフ&R=コルサコフ版もショスタコーヴィチ版も、そんなに大きな差異はない。しかし、全体的な音のパレットは、ショスタコーヴィチ版の方が少しカラフルな感じ。死神の勝利宣言「お前は、私のものだ」に至るラスト・シーンでは、ドラムのビートが効果的に使われている。)

第3曲<トレパーク>・・・酒に酔った農夫のところに死神が現れ、トレパークの踊りに引き込む。吹雪の中で二人が踊る。やがて睡魔に襲われた農夫のために、死神が歌う。「森よ、黒雲よ、闇よ、・・・雪の羽毛で、幼児のように、しっかりとこの男を包んでやるのだ。眠れ、幸福なる農夫よ。夏が来て花が咲き、畑には日が照って、ツバメが飛び交う」。

(※冒頭の管弦楽が、吹雪の様子を巧みに描き出す。比べてみると、ショスタコーヴィチ版の方がやや立体感のある音響。やがてトレパーク舞曲のリズムで歌が進み、最後は、死にゆく農夫が見る暖かい日の幻影が浮かび出る。「この歌曲集を構成する4曲の中で、最も有名な作品」という評価があるためか、クリストフ盤ではこれを第1曲として歌っている。なお、ヴィシネフスカヤの解説によると、ここに出て来る死神は、「無鉄砲でだらしのない、農民の女」という姿をしているのだそうだ。彼女自身がその女を演じるように、たいそう劇的に歌っているのが聴きどころ。)

第4曲<司令官>・・・死神が馬にまたがった白骨の姿で現れ、戦場に横たわる兵士たちの死体を満足げに見て歩く。曲の前半は情景描写、後半は「死の歌」という構成。

(※すべてが静まり、夜霧の中にうめき声が響く。やがて月明かりの中に現れた死神が、戦場を乗り回す司令官のように、誇らしげに闊歩する。ここでショスタコーヴィチが行なった編曲は、ほとんど劇音楽かオペラ。スネア・ドラムが行進曲風のリズムを刻んで徐々に雰囲気を盛り上げた後、死神が出現するシーンで大音響のドカーン!これを初めて聴いたときは、本当にびっくりさせられた。)

(※この終曲ではクリストフもヴィシネフスカヤも力演を聴かせ、それぞれに素晴らしい。ところで、ヴィシネフスカヤがこの歌曲集を歌った記録として、たしか夫君ロストロポーヴィチのピアノ伴奏による物があったと思う。昔FMでそれを聴いたことがあって、実はそちらこそが圧倒的な歌唱だったと記憶しているのだが、もう古い話なので今はちょっと自信がない。なお、ショスタコーヴィチの編曲楽譜は、作曲家自身からヴィシネフスカヤに献呈されているようだ。「これだから、人生は生きる価値があるのだ」と、彼女が当時大感激した様子が、『ガリーナ自伝』日本版の301ページに書かれている。)

―歌曲<蚤(のみ)の歌>・・・悪魔メフィストが冷笑的に歌う。「昔、王様が蚤を飼った。王はその蚤のために豪華な服を作らせて与え、さらに大臣にまで任命し、仲間の蚤たちも出世させた。王妃も女官たちも、大変だ。蚤どもには我慢できないが、やつらに触ることも、つぶすことも出来ない。・・・ハーッハッハッハッ」。

ムソルグスキーの全歌曲の中で、おそらく最も有名な1曲。今回参照しているCDのクリストフも、さすがに見事。勿論、これは数多くのバス歌手たちによって歌われてきた名曲だから、私がまだ聴けずにいる音源の中に素晴らしい名唱が潜んでいる可能性も十分にある。と、そうは言いつつも、この歌はやはり伝説のフョードル・シャリアピンにとどめをさすのではないかな、という気もする。現在流布している2枚組のCD『シャリアピン プリマ・ヴォーチェ』(Nimbus盤)の中に、大歌手が遺した<蚤の歌>の名唱が2種類、しっかりと収められている。

具体的に並べてみると、1921年10月10日の録音と、1936年2月6日の録音である。どちらもこの歌手ならではの度外れた歌唱を楽しめるが、前者の21年物は少し生硬な感じがしなくもない。比べてみるならやはり後者、つまり'36年物の方が決定的な名唱と言ってよいだろう。ラスト近く、「王妃も女官たちも、蚤どもには耐えられない」と歌う部分でのかっ飛び加減がゴキゲンだし、最後に決める笑い声も豪快にして且つ音楽的。極めて完成度の高い歌唱である。

―歌曲<小さな星よ、おまえはどこに>・・・「小さな星よ、お前はどこに?黒雲が光を覆い、私の喜びは失われた。美しい娘はどこに?私の愛する者は?黒雲が星を隠し、大地が冷たく娘を隠す」。

全部で52曲あるらしいムソルグスキーの歌曲の中でも、最も初期に属する作品。しかし、これは名曲である。ロシアの古代抒情歌を思わせる素朴なメロディが、聴く者の胸にじんわりと染み入って来る。クリストフ盤のトラック1でいきなり聴けるが、これがもう言葉にできないぐらいの素晴らしい名唱。いささか乱暴な言い方をしてしまえば、この最初の1曲を聴くだけでも、このCDを買う価値がある。


★次回予告。当ブログでは昨年来、グリンカ、R=コルサコフ、ボロディン、そしてムソルグスキーのオペラ作品を語ってきたので、その流れに乗って次回からはチャイコフスキーを一つ採りあげてみようと思う。あの名作、<エフゲニ・オネーギン>である。
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歌劇<ホヴァンシチナ>(3)

2007年03月28日 | 作品を語る
今回は、歌劇<ホヴァンシチナ>の最終回。第4幕と、最後の第5幕の内容。

〔第4幕〕

イワン・ホヴァンスキー邸の食事の間。蟄居(ちっきょ)しているホヴァンスキーを楽しませようと、女農奴たちが歌ったり踊ったりしてみせる。しかし、主人の気は晴れない。そこへゴリーツィン公の使者がやって来て、「避けがたい不幸が迫っている。よくよく気をつけてほしい」と、ホヴァンスキーに助言する。ホヴァンスキーはその警告を一笑に付し、それまで歌っていた女農奴たちを下がらせ、かわりにペルシャの女奴隷たちに踊りを始めるよう命ずる。

(※ここで披露される『ペルシャの女奴隷たちの踊り』は、おそらくこのオペラで聴かれるナンバーの中でも最も有名な物の一つだろう。エキゾティックなムードに溢れる名曲だ。映画版では、当時の人気バレリーナだったマイヤ・プリセツカヤが登場する。)

ペルシャ女たちの踊りが終わった時、シャクロヴィートゥイがホヴァンスキーのもとを訪れ、「皇女ソフィアが、緊急会議を召集しておられる。あなたがいなくては始まらないとのことだ」と伝える。おだてられてすっかり気をよくしたホヴァンスキーは正装して戸口に向かうが、そこでシャクロヴィートゥイと一緒に来ていた男にいきなり刺されて即死する。みじめに横たわるホヴァンスキーの死体の上にかがみ込みながら、シャクロヴィートゥイは嘲りの笑みを浮かべる。

場面変わって、モスクワ聖ワシーリ寺院前の広場。流刑地に送られるゴリーツィン公を、人々が見送る。マルファがドシフェイのもとに、貴族会議の決議を知らせに来る。「分離派教徒を、容赦なく打ち殺せ」。いよいよ殉教の時が近づいたと、ドシフェイは覚悟する。一方、相も変わらず身勝手なことをわめいているアンドレイに対して、マルファが応じる。「何も知らないのね。あなたの父は暗殺され、あなたもお尋ね者になっているのよ」。アンドレイは彼女の言葉を信じないが、やがて鎖につながれた銃兵隊員の行列がやってくるのを見て、愕然とする。そこでようやく事態を理解した彼は、助けてくれとマルファにすがりつく。彼女に導かれてアンドレイが去ったあと、銃兵隊員たちの断頭刑がいよいよ執行されることになる。しかし、そこへ皇帝の伝令ストレシネフ(T)がやって来て、「銃兵隊に、皇帝からの恩赦が出た」と伝える。

(※第4幕後半の展開は、史実をある程度知っていないと理解が難しい。映画版DVDに付いている解説パンフレットをもとにしてこの部分を読み解くなら、ここは皇女ソフィアがピョートル帝一派との政争に破れたという歴史的状況を表しているようだ。ソフィアは修道院に送られ、彼女の腹心シャクロヴィートゥイは処刑され、ゴリーツィン公は国外追放ということになるのだが、このオペラではその中の「ゴリーツィンの追放シーン」を描き出しているわけである。ちなみに、そこで流れる音楽は、マルファが第2幕の予言の中で歌っていた名旋律。)

(※銃兵隊の断頭刑がいよいよ行なわれようとする直前のシーンには、かなりの迫力がある。ここで聴かれる大合唱こそ、この第4幕後半最大の聴きどころと言ってよいだろう。映画版の演奏は、「うぐあぁーっ!」という女の悲鳴までが交錯し、何とも凄まじい。)

〔第5幕〕

松林の中にある隠れ修道院。意を決したドシフェイが、教徒たちに呼びかける。「我々には、ピョートル帝と争う力はない。・・・事は敗れたのだ。ここで屈服して信仰を捨てるよりは、皆で死を選ぼう」。殉教の喜びを歌いながら、分離派教徒たちが僧院に戻っていく。

一人残ったマルファは、「アンドレイを、私にお返しください」と神に祈る。そこへ姿を現したアンドレイに彼女は、「一緒に死にましょう」と語りかける。やがて、林の中から親衛隊のラッパが聞こえてくる。ドシフェイと教徒たちは白装束に身を包んで僧院から出て来ると、薪(たきぎ)の山を作り始める。そして教徒たちが全員集まったところで、薪に火がつけられる。燃え盛る炎が次第に彼らを包み、やって来た兵士たちが呆然とそれを見守る中、オペラ全曲の終了となる。

(※第5幕のエンディングでショスタコーヴィチは、第1幕の前奏曲『モスクワ河の夜明け』を再び呼び起こして演奏するように編曲している。このアイデアは素晴らしい。もう20年以上も前の話になるが、歌劇<ホヴァンシチナ>がNHKのFMで紹介されたことがあった。演奏家の顔ぶれなど、その時の資料はもう全く残っていないのだが、とにかくそこで初めて、私はこのオペラの全曲を聴くことになった。当時は作品の内容について詳しく知らなかったので漠然と聞き流していたのだが、この長大なオペラが終わるラストのところで、あの『モスクワ河の夜明け』が聞こえてきたのである。そこで私は、何とも言えない感動を味わったのだった。「ああ、人間たちの小ざかしい争いなどとは関係なく、大自然はまた静かな朝を迎えるのだなあ」と、自然の悠久の営みに思いをはせてしまったのである。客観的に見れば、これはいささかピントはずれな感動の仕方であったろう。おそらくショスタコーヴィチ自身は、「新しいロシアの夜明けに、希望を託そう」という意図でこのような編曲を行なったのだと考えた方が、妥当なように思える。と、そうは言いつつも、私がかつて持っていたような感じ方も面白くていいんじゃないかな、という気が今でもしている。)

(※実は、『モスクワ河の夜明け』を全曲の最後に再び流すというショスタコーヴィチのアイデアには、作品の構造的観点から見ても興味深いものがある。映画版DVDで解説をお書きになっている一柳富美子氏のご指摘によると、歌劇<ホヴァンシチナ>には巧みに設計されたシンメトリー構造が見て取れるのだそうだ。シャクロヴィートゥイのアリアを中核とする第3幕を真ん中に置いて、登場人物の紹介を主とする第1、2幕と、悲劇が描かれる第4、5幕がセットになって対比を成している、というのがまず一つ。そしてさらに、第2幕と第4幕もちょうど鏡のように向かい合っているというのである。具体的な曲名で言えば、第2幕で歌われるマルファの『予言の歌』と第4幕の有名な『ペルシャの女奴隷たちの踊り』が好一対のペアになっているという図式だ。しかし、そのシンメトリー構造を成就させるには、第1幕と第5幕もしっかり向き合わねばならない。現実には未完のままムソルグスキーが世を去ってしまったため、それが果たされずに残念であったというのが一柳氏の論旨である。そのような感覚で見てみると、オペラ全曲の最後に第1幕の前奏曲を置くことは、そこにまた一つのシンメトリーを生み出す結果になっているのではないだろうか。その意味でも、ショスタコーヴィチの編曲には何か含蓄の深いものが感じられるのである。)

(※R=コルサコフが第5幕のエンディングに施した編曲は、それに比べるといささか物足りない。そこでは最後に親衛隊のマーチが勇ましく流れてきて、ちょっとあっさりしたような終わり方をしてしまうのだ。実はR=コルサコフは、前回語った第2幕を締めくくる曲として『モスクワ河の夜明け』を使っていたのである。貴族シャクロヴィートゥイがゴリーツィン邸に集まった一同のもとへやって来て、「皇帝は『ホヴァンシチナ』を徹底調査するよう、お命じになった」と伝えたシーン、あの第2幕のエンディングである。しかし、私の意見としては、このとっておきの名旋律をそんな途中で使うより、ショスタコーヴィチ版のように全曲の最後に置いた方がずっと効果的なのではないかと思う。)

(※最後に、付け足し話を一つ。1989年に行なわれたアバドのウィーン・ライヴには、その当時の最も新しい研究成果が採り入れられていた。それはR=コルサコフ版を用いた“軽い”終わり方でなかったのは勿論のこと、ショスタコーヴィチ版による“『モスクワ河の夜明け』に未来への希望をこめた”終わり方でもなかった。そのラストで聴かれたのは、分離派教徒たちの焼死を重々しく描き出す極めて深刻な音楽だった。アバドの指揮にロシア的な重厚さはなかったが、何とも異様な聴後感を残すエンディングであったことは、今でもよく覚えている。)

―以上で、歌劇<ホヴァンシチナ>は終了。次回は、R=コルサコフとショスタコーヴィチの編曲をあらためて比較できる有名な歌曲集《死の歌と踊り》を中心に、ムソルグスキーの歌曲にちょっと触れてみたい。
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歌劇<ホヴァンシチナ>(2)

2007年03月23日 | 作品を語る
前回の続きで、ムソルグスキーの歌劇<ホヴァンシチナ>の第2回。今回は、主要人物が全員顔を揃える第2幕と、いよいよ大きな事件が発生する第3幕の内容。

〔第2幕〕

政治的実力者であるゴリーツィン公(T)の邸。陳情に来ていた牧師ががっかりして帰るのと入れ替わりに、マルファがやって来る。占い師としての能力を持つ彼女は、“失脚と流刑”というゴリーツィンの悲劇的な未来を予言する。ショックを受けたゴリーツィンは彼女を邸から追い出した後、「あの女を、沼地のところで殺せ」と部下に命じる。

(※ここで初めて登場するゴリーツィン公は、このオペラが持つ政治闘争史という側面を如実に体現している人物だ。最初のシーンで彼が読んでいるのは皇女ソフィアからの思惑ありげな手紙であり、彼の邸に来ている牧師は、新しい教会建設を実現するための力添えを彼に陳情している。この人物の声はやや性格的なテノールで、<ボリス・ゴドゥノフ>に出て来るシュイスキー公と一脈相通ずるところがある。ちなみに、1950年のネボリシン盤では、ニカンドル・ハナイエフがこの役を歌っているようだ。「ああ、なるほど」という感じである。)

(※マルファがゴリーツィン公の未来を占うシーンは、このオペラの大きな見せ所。彼女が『予言の歌』の後半で歌うメロディは、ムソルグスキーが書いた名旋律の中でも代表的な傑作の一つである。悲劇的な色調を帯びた暗い抒情美が、聴く者の胸に深く響く。映画版の占いシーンは、なかなかオカルト的に仕上げられていて楽しい。レオーノヴァも好演。ハイキンのキーロフ盤で歌っているプレオブラジェンスカヤも、豊かな声を活かしてこの場面を劇的に盛り上げている。)

ゴリーツィンのもとへイワン・ホヴァンスキーがやって来て、彼がとった門地廃止政策によって自分たちは大きな損害を受けたと文句を言う。この二人がやり合っているところへドシフェイが割って入り、「旧き良きロシアを、正しい信仰によって取り戻そう。改革を阻止せねば」と語る。しかし、旧いものが必ずしも良いとは考えないゴリーツィンは、ドシフェイに賛同しない。一方、ドシフェイの分離派教会に所属して彼らの力を利用したいホヴァンスキーは賛成の意を表するが、銃兵隊の日頃の蛮行について諌められる。

その彼らのもとに、マルファが逃げ込んでくる。「沼地のところで襲われました。でも、ピョートル帝の親衛隊が通りかかって、私を助けてくれたのです」。ここでゴリーツィン、ホヴァンスキー、そしてドシフェイの3人は、皇帝ピョートルの成長と存在の大きさに気付く。そこへ、皇女ソフィアの使いとして貴族のシャクロヴィートゥイが現われ、居合わせた一同に伝言をもたらす。「ホヴァンスキー親子が帝位を狙っているという密告書が、ピョートル帝のもとに届いた。皇帝は『ホヴァンシチナを、徹底調査せよ』と、お命じになった」。愕然とするホヴァンスキー。

(※オペラのタイトルであるホヴァンシチナという言葉を、このシャクロヴィートゥイのセリフの中で聞くことが出来る。これは、「ホヴァンスキーの奴ら」といったような侮蔑的ニュアンスを持った表現で、同時に彼らが企んでいる反乱をも意味するものと解釈できるそうだ。なお、今回参照しているハイキンのキーロフ盤は現在ナクソス・レーベルから出ているのだが、その日本語帯に表記された「ホヴァンシチーナ」という書き方は誤りで、「ホヴァーンシチナ」と前の方を伸ばすのがロシア語の発音からして正しいようである。)

(※この第2幕、及び最後の第5幕のエンディングには、R=コルサコフの編曲とショスタコーヴィチによる編曲との大きな違いがはっきり出てくる。その具体的な相違点と、それぞれの優劣を巡る解釈については、次回ストーリー全体の話が終わったところで改めて語ってみることにしたい。私の感ずるところ、ここは非常に大きなポイントである。)

〔第3幕〕

モスクワ河右岸にある銃兵隊の居住区。分離派教徒たちの合唱が響く。マルファがアンドレイへの想いをこめて民謡旋律の歌を歌う。「若い娘は、歩きまわった・・・」。それを耳にした老女スサンナが、「そういうのは、教義に反するよ」と、彼女をたしなめる。やがて、ホヴァンスキー邸から出てきたドシフェイがスサンナを去らせ、マルファと語り始める。マルファは、アンドレイとともに死ぬ決意が自分には出来ていると述べる。

(※映画版には、この第3幕で聞かれるはずのマルファの歌がない。おそらく映画としての時間制限のため、やむを得ずカットしたのだろう。しかし、その後に続くドシフェイとのやり取りともども、この部分が鑑賞できないのはちょっと残念である。一方ハイキンのCDでは、二人の名歌手による堂々たる歌唱が聴ける。プレオブラジェンスカヤは深みとスケール感のある歌を披露し、レイゼンは圧倒的な声を駆使した振幅の豊かな表現を聴かせる。)

やがて、貴族シャクロヴィートゥイが姿を見せ、有名なアリアを歌う。「不幸なロシアを、誰が救ってくれるのか。この悲惨な状態から救ってくれる皇帝を、我らに与えたまえ。・・・銃兵隊にだけは、ロシアが滅ぼされないように」。

(※オペラ全体のちょうど真ん中に位置する第3幕は、同時に、内容的な面でもこの作品の中核をなしている。その最大の根拠は、ここでシャクロヴィートゥイが歌う名アリアである。これは、彼が単なる策略家ではなく熱心な愛国者であることをも示した名曲だが、実はそれ以上に、祖国ロシアの不幸を憂える歌詞によって、ムソルグスキーが最も言いたかったことを表現しているものとも考えられるのだ。)

(※この名アリアについては、かつてシャリアピンがドシフェイ役を演じながら歌った歴史的事例がある。たしかに、ドシフェイがこれを歌ってもそんなに不自然ではなさそうである。この歌は優れたバス歌手によって歌われるのが望ましい、と考えられている面があるのかもしれない。そうすると、ハイキンのキーロフ盤でバスの声に近いドラマティック・バリトンがこれを歌っているのは、そのあたりの感覚が反映されたものではないかと推測出来るような気もする。その推理の当たり外れは別として、ハイキン盤で聴かれるイワン・シャスコフの歌唱は、非常に立派なものである。しばし息をつめながら聴き入ってしまうほどだ。この人を他の音源で聴いたことはないのだが、かなり優秀な歌手のように思える。)

(※一方、映画盤は、当アリアについて極めてユニークな措置をとっている。ハイ・バリトンのキプカロが演じるシャクロヴィートゥイにはこれを歌わせず、「民衆の指導者」という、この映画だけの“でっち上げキャラ”に歌わせているのだ。演じているのは、V・ネチパイロという名前のバス歌手だが、さすがに特別な役のためにわざわざ起用されただけのことはあって、彼は他の場面ともども見事な歌唱を聴かせている。当時のボリショイ劇場が誇った歌手陣の層の厚さみたいなものが、ここで改めて実感される。)

シャクロヴィートゥイのアリアに続いて、酔っ払った銃兵隊員たちの合唱、彼らをなじる妻たちの合唱、そして、その場を繕うクーシカの陽気な歌がにぎやかに続く。しかし、そこへ代書屋が駆け込んできて、「もう一つの銃兵隊居住区が、ピョートルの親衛隊と外人部隊によって全滅させられた」と、彼らに伝える。激しい衝撃を受けた隊員と妻たちは、隊長のホヴァンスキーに報復の戦いを促す。しかし、彼はそれに応じず、「各自家に帰って、運命が定まるのを待て」と指示する。

―この続き、第4幕と最後の第5幕については、次回・・・。

【2019年1月26日 おまけ】

イワン・シャスコフが歌うシャクロヴィートゥイのアリア。改めて、この人が最高だと思う。



【2019年3月5日 おまけ その2】

タマーラ・シニャフスカヤが歌う「マルファの予言の歌」

この名曲の動画はYouTubeに相当数載っているが、その中でも、(当ブログ主の感ずるところ)これがおそらく最高である。途中に入ってくるはずのゴリーツィン公の声がないことから、これは「アリア集」か何かを製作するためのセッション録音の一部だったものと思われる。声も歌唱も安定しており、完成度及び感銘度が極めて高い。聴きどころは、〔3:31〕から。「クニャージェ(公よ)」と呼びかけてから、ゴリーツィン公の悲惨な未来を予言する歌が始まる。なお、この動画は非常に大きな音でuploadされているので、再生機(PC等)の音量を普段の半分~3分の1ぐらいまで下げてから、再生クリックをしてほしい。音量注意である。

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歌劇<ホヴァンシチナ>(1)

2007年03月16日 | 作品を語る
ワルターの<大地の歌>をもって年末年始特番が先頃終了したので、ここからまた軌道を元に戻していきたい。R=コルサコフが編曲して仕上げた名作オペラのお話である。年末の区切りとなったボロディンの<イーゴリ公>に続いて、今回からムソルグスキーの歌劇<ホヴァンシチナ>を採りあげてみようと思う。このオペラにはLP時代から相当数の全曲盤が存在するが、当ブログで参照している演奏は以下の2点である。

●〔CD〕 B・ハイキン指揮キーロフ劇場管、他 (1946年)
【出演: フライドコフ、レイゼン、プレオブラジェンスカヤ、シャスコフ、他】

●〔映画版〕 E・スヴェトラーノフ指揮ボリショイ劇場管、他 (1959年)
【出演: クリフチェーニャ、レイゼン、レオーノヴァ、キプカロ、他】

(※実はこの2種とは別に、アバドのウィーン・ライヴ映像も随分前に鑑賞したことがある。しかし残念ながら、今はもう録画テープが手元にない。ギャウロフやブルチュラーゼが出演していたその音源については、これからの話の中で、何か思い出した時に触れるという形にしていきたい。)

歌劇<ホヴァンシチナ>は、17世紀の半ばから18世紀初頭にかけてのロシア史を題材にして、ムソルグスキー自身が台本から手がけた力作だったが、1881年に彼が他界したことによって未完のまま終わった。作曲者の死後、1882年から翌年にかけて、まずR=コルサコフが草稿を整理・加筆して完成させる。彼はムソルグスキーが遺したピアノ・スコアにオーケストレーションを施し、終幕の殉教シーンの音楽を付け加えた。その後1913年にパリやロンドンでこのオペラが初演された時には、R=コルサコフが削除していた草稿が救い出され、ラヴェルとストラヴィンスキーが編曲を加えた。そして1939年に原典版が出版されたのを機に、ショスタコーヴィチが改めてオーケストレーションを施した新版が作られ、それが1959年に出版された。とまあ、これは何とも錚々たるメンバーが関わってきた名作歌劇というわけだが、上記のハイキン盤ではR=コルサコフ版、映画ではショスタコーヴィチ版が使用されているようである。ちなみにアバドは、ショスタコーヴィチ版とストラヴィンスキー版を併用していた。以下、幕ごとの概要を見ながら、適宜コメントを入れていくことにしたい。

〔第1幕〕

有名な前奏曲『モスクワ河の夜明け』に続いて、舞台はモスクワ・赤の広場。銃兵隊の反乱が成功した翌日である。見張りの隊員クーシカ(T、またはB)が寝ぼけながら歌い、二人の歩哨が昨日の手柄話をしている。やがて、その銃兵隊のことを苦々しく思っている貴族のシャクロヴィートゥイ(Bar)が現れ、代書屋に皇帝宛の密告書を書かせる。「銃兵隊長のイワン・ホヴァンスキーが、息子のアンドレイを皇帝にしようとたくらんでいる」。

(※この開幕シーンから、いきなり重要人物が登場する。バリトン歌手が演じる貴族シャクロヴィートゥイだ。彼がどのように重要であるかは、これからの話の中で明らかになっていくが、ここではその声の種類についてコメントしておきたい。若きスヴェトラーノフの指揮による映画版ソフトでは、ハイ・バリトンのエフゲニ・キプカロが演じている。彼の白っぽい顔と鋭い目つきは、いかにも狡猾な策士といった役柄の雰囲気をよく出している。ちなみに、映画版とかなりキャストが共通している1950年録音のネボリシン盤では、アレクセイ・イワノフが同役を受け持っているようだ。現在活躍している歌手で言えば、セルゲイ・レイフェルクスがこのタイプに属するが、独特の甲高い響きをもったロシア系ハイ・バリトンは、こういう性格的な悪役によく似合う。)

(※一方、1946年にキーロフで録音されたハイキン盤ではイワン・シャスコフというドラマティック・バリトンが当役を歌っている。この人の声は、同じ頃ボリショイで活躍していたアンドレイ・イワノフによく似ていて、声質はバスに近く、たいそう力強い響きを持ったものだ。同じバリトンでも、これだけ声が違うと役柄のイメージも随分違ったものになってくる。また回を改めて触れることにしたいが、バスに近い声のバリトン歌手がこの役を受け持つのにも、実はそれなりに意味がある。)

シャクロヴィートゥイが文書を手にして去った後、民衆がロシアの荒廃を嘆いて合唱する。やがて支持者達の歓呼に迎えられてイワン・ホヴァンスキー(B)が登場。彼はひとしきり演説をぶってから、取り巻きの者たちとモスクワ巡回へ出発する。そこから場面が変わって、ドイツ人娘のエンマ(S)が必死になって逃げてくるところ。追ってくるのは、彼女を我が物にしようとつけ狙うアンドレイ・ホヴァンスキー(T)である。このアンドレイに父親を殺され、婚約者と引き離されたエンマは頑として彼を拒否するが、ついに追い詰められる。そこへ、アンドレイのかつての恋人だった修道女マルファ(Ms)が現れ、エンマをかばう。

(※ここで登場するイワン・ホヴァンスキーは、一応このオペラの中心的な人物と見てよいだろう。旧いロシアを象徴するような役どころだ。映画版では名バス歌手アレクセイ・クリフチェーニャが演じているが、まさにドンピシャのはまり役。押し出しの良い風貌と、堂々たる歌唱。映像付きだから、お楽しみも倍増である。ちなみに、1950年に録音されたネボリシン盤でも、彼が同役を演じているようだ。ついでに挙げておくと、このクリフチェーニャが破戒僧ワルラームを演じた<ボリス・ゴドゥノフ>の映画版というのもあって、それがまた非常な逸品!こういう豪放磊落なキャラをやらせたらピカイチの人だったのだ。ハイキン盤で歌っているボリス・フライドコフという人も、まあそれなりに健闘してはいるものの、クリフチェーニャの名演にはとても及ばない。)

(※ホヴァンスキーの息子であるアンドレイは、上述の登場シーンからも察せられるとおり、はっきり言ってろくな男ではない。むしろ、彼とかつて恋仲だったという修道女マルファの方が重要な人物である。これはメゾ・ソプラノが担当する役だが、とても美しく聡明で、作曲家ムソルグスキーにとって理想の女性像であったという説もある。映画版ではK・レオーノヴァという人が演じている。他の音源でこの歌手を聴いたことがないので断言は出来ないが、かなりの実力派と見られる。ハイキンのキーロフ盤では、ソフィア・プレオブラジェンスカヤという長い苗字を持った歌手が歌っている。登場した当初はやや不安定な印象を与えるものの、曲が進むに連れて調子を上げてくる。非常に深みのある声を持った、スケールの大きな歌手だ。)

(※上記の筋書きの中にある「ロシアの荒廃を嘆く民衆の合唱」は、ハイキンのキーロフ盤には出てこない。これはおそらく、R=コルサコフがムソルグスキーの草稿から削除した箇所の一つだったのだろう。ショスタコーヴィチ版を使った映画の方ではこの合唱を聴くことが出来るが、悲しい情趣を湛えた美しい曲である。削除しては、もったいない。)

(※熱心なファンのために、参考資料を一つ。ボリス・ハイキンの指揮による<ホヴァンシチナ>全曲には、今回採りあげているキーロフ盤とは別に、ボリショイ劇場での録音もある。クリフチェーニャ、ピアフコ、アルヒーポワといった面々が出演しているもので、かつてビクターからLPレコードが発売されていた。ただし、これが現在CD化されているかどうかは不明。)

やがて、部下を従えたイワン・ホヴァンスキーがそこへ通りかかる。ホヴァンスキーは美貌のエンマを見て気に入り、「ワシの屋敷へ、この娘を連れ込め」と銃兵隊に命じる。それを阻止しようとするアンドレイとイワンが父子対立で険悪なムードになったところへ、分離派教徒の指導者ドシフェイ(B)が現れ、彼らを諌(いさ)める。ドシフェイはエンマを家に送ってやるようマルファに命じ、「ロシア正教の信仰を守り、真の神のために闘おうぞ」とホヴァンスキー父子、そして民衆に向かって説く。

(※ここで突然現れるドシフェイも、非常に重要な人物だ。混乱するロシアを憂い、強い信仰に生きる宗教的指導者である。「旧きロシアの教え」に執着する姿勢は異常なほどだが、ホヴァンスキーよりもずっと民主的な人物であり、その人徳ゆえに各方面からの信望も厚い。映画版、ハイキンのキーロフ盤、ともにマルク・レイゼンが同役を受け持っている。ネボリシン盤でも、彼が歌っているようだ。この役ばかりは、当時この人以外には考えられなかったのだろう。実際、どちらの音源でも、凄い貫禄の名演を堪能することができる。ただし映画版は、名歌手の姿を目で見られるという楽しみがある一方、映画としての収録時間の制限から、カットされてしまっている箇所も多い。)

(※以上、ご覧いただいた通り、第1幕は、「登場人物の顔見せと、それぞれのキャラクター紹介」という性格を強く持っている。そして、次の第2幕から登場するゴリーツィン公がこれに加わると、主要な人物が全員出揃うわけである。)

―この続き、第2幕以降の展開については、次回・・・。
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