今回のトピックは、チャイコフスキーの<エフゲニ・オネーギン>。プーシキンの原作ともども、多くの人が様々に分析し、また様々に語ってきた名作である。今回は、数多く存在するオネーギン論の中から、私がこれまでに読んで興味深く感じた例をいくつか選んで並べてみたいと思う。
●<エフゲニ・オネーギン>の主役男女
―エフゲニ・オネーギン
タイトル役であるエフゲニ・オネーギンの人物像については、複数の資料を通じてほぼ共通したイメージを得ることが出来る。まず、彼がどのような種類の人間であったかということを端的に示す言葉として、“リシュニー・チェラヴィエク”というのがあるようだ。これは「余計者」、あるいは「無用人」といった感じに訳せるロシア語で、19世紀のロシアに存在した一部の人間たちを指しているもののようである。その具体的な人物像は、おおよそ以下のようなもの。
{ お金と地位、そして余暇も教養も十分にありながら、人生に理想を見出せず、打ち込める仕事もなく、無為徒食の日々を送る人物。 } (※M・エルムレルの指揮による1979年盤<エフゲニ・オネーギン>全曲LPに付いていた日本語解説より )
―タチヤーナ
オネーギンに恋をしてふられるが、ドラマの最後には立場が逆転し、言い寄る彼を振り払うことになるタチヤーナ。この作品のヒロインである彼女についての分析や評価も様々あるが、ここでは作曲家チャイコフスキー自身の言葉を採りあげておきたい。これは、第1幕の『手紙の場』で聞かれるタチヤーナのセリフを理解する上で、大きな手助けとなるものだ。
{ タチヤーナは、オネーギンの人柄を知って好きになったのではありません。そういうものを知る必要はなかったのです。彼が現れる前から既に、タチヤーナは自分自身の小説に出て来る主人公に恋していたのです。オネーギンはただ、現われさえすればよかったのです。彼女はすぐさま自分の理想の人の特徴をオネーギンに重ね合わせ、自らの熱狂的・ロマン的な空想の人物への愛を、生身のオネーギンに移し変えるのです。 } (※チャイコフスキーがタニェエフに宛てた1878年1月2日付の書簡より )
●「3つの抒情的情景」という肩書き
上の手紙の中でチャイコフスキーは、<エフゲニ・オネーギン>がオペラとしては成功しないであろうことを予見すると同時に、「抒情的情景」のような呼び名をこの作品に付けるつもりでいることも述べている。では、そうして付けられた「3つの抒情的情景」という肩書きには、どのような意味合いがあったのか。それを読み解く有力な手がかりの一つとして、『名作オペラ・ブックス25 エフゲニ・オネーギン』(音楽之友社)の9~30ページに掲載されたアッティラ・チャンパイ氏の論文「チャイコフスキーの3つの小悲劇」を挙げることが出来ると思う。同氏が展開している論旨によると、<エフゲニ・オネーギン>は、「それぞれ別々の主人公を持った3つのドラマの集合体」のように把握できるようだ。具体的に見ていくと、まず第1幕が「タチヤーナの悲劇」、続く第2幕が「レンスキーの悲劇」、そして最後の第3幕が「オネーギンの悲劇」ということになる。以下、同氏の論文を土台にして、私なりの言い方で各幕を要約してみることにしたい。
〔 第1幕 〕・・・タチヤーナの悲劇
第1幕の舞台は、タチヤーナを含む彼女の家族一同が暮らすお屋敷。開幕直後に聴かれる4人の女性たちによるアンサンブル、それに続く農民たちの合唱、さらに主役男女4人のアンサンブルに含まれる『レンスキーの愛の歌』といった部分は、いわゆる“色づけ要素”であり、第1幕の本質は、『手紙の場』を頂点とするタチヤーナのドラマである。なお、この第1幕の幕切れは彼女の失恋シーンになっているが、村娘たちの陽気な合唱をその背景に流すことによって、ヒロインの挫折感や孤独感を一層鮮烈に浮かび立たせているのが印象深い。
〔 第2幕 〕・・・レンスキーの悲劇
冒頭で流れる音楽こそ第1幕から続くタチヤーナの恋のタスカー(=苦悩)を表すものと解釈出来るが、それに続く有名なワルツからはレンスキーのドラマとなる。まず前半は、パーティーのシーン。タチヤーナの妹であるオリガは、レンスキーが子供の頃からずっと恋してきた快活な女性だ。それを百も承知した上で、オネーギンは彼女を踊りに誘い、彼女もそれに乗る。これは、自分に対する人々の冷ややかな言葉を耳にしたオネーギンが、「レンスキーめ、つまらんところに俺を誘いやがって。よし、ちょっと仕返しにからかってやるか」と、いたずら心を起したためである。レンスキーは、オネーギンとオリガのダンスに激しく嫉妬し、怒りのヴォルテージを上昇させていく。そして、オリガと約束していたコティヨンの踊りまでもオネーギンに奪われた時、ついに彼は爆発し、オネーギンに決闘を挑む。(※チャンパイ氏の論文によると、たかが一晩のダンスを巡ってレンスキーがここまで激昂し、ついには決闘にまで事態が及んでしまったという背景には、彼がオネーギンに対して内心感じていたであろうコンプレックスと、了見の狭い田舎の社交界のプチブル的精神風土があったと分析できるようだ。)
第2幕の後半は、有名な決闘シーン。ある意味、この作品最大のハイライトと言ってもよい場面である。立会人のザレツキーらとともに、レンスキーはオネーギンを待つ。彼は自らの死を覚悟し、「過ぎ去った青春の日々よ」と有名なアリアを歌う。やがて、付添い人を一人連れてオネーギンが到着。決闘は、瞬時に決着がつく。雪原に鳴り響く銃声とともに倒れ、流れる血で雪を赤く染めながらレンスキーは絶命する。
〔 第3幕 〕・・・オネーギンの悲劇
最後の第3幕に至ってようやく、タイトル役のオネーギンが実質的な主人公となる。第1幕では、タチヤーナから愛の手紙をもらった時、「私は結婚に向いた男ではないのです」とあっさり拒否したオネーギン。第2幕では、気まぐれでからかった親友レンスキーにまさかの決闘を挑まれ、不本意な撃ち合いで彼を殺すことになってしまったオネーギン。その傷心の出来事以来、さすらいの日々を送って帰ってきたという第3幕の冒頭。「旅さえも、退屈だった。そして、ここでも退屈だ」とこぼし、人々から遊離しているオネーギン。そんな彼が、この第3幕でついに少年のような恋心にときめく。グレーミン公の奥方となったタチヤーナの美しい姿にハッとし、さらに若妻への愛を熱っぽく語る老グレーミン公の言葉を聞いて、オネーギンの心に熱い炎が燃え始めたのである。彼はタチヤーナに猛然と恋のアタックをするが、彼女は、「あなたを愛しています。でも、運命はもう決まっているのです。私は夫と生きてゆきます」と、彼を振り払って去って行く。最後、オネーギンは一人ぼっちになって叫ぶ。「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」。
●「タスカー」の作曲家としてのチャイコフスキー
音楽之友社から出ている『オペラ・キャラクター解読事典』の188~194ページに、渋谷和邦氏による大変興味深い記事が載っている。それによると、<エフゲニ・オネーギン>を読み解くための大きなキーワードは、他の言語には訳しにくい「タスカー」というロシア語にありそうだというのである。当ブログで今回書いてきた文章のあちこちにタスカーという言葉を散りばめたのは、実はこのことに触れたいからであった。
{ タスカー(=憧れ)によって始まったタチヤーナの恋は、タスカー(=ふさぎの虫)の男オネーギンによって拒絶される。その後グレーミン公の妻となったタチヤーナに恋を感じたオネーギンだが、今度は逆に彼女から拒否され、「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」と叫ぶのである。 }
さらに渋谷氏は、歌劇<スペードの女王>の第3幕で聴かれるリーザのアリアにも言及し、「私の人生は喜びに満ち溢れていたのに、疲れ果ててしまった。・・・もう、私はだめです。タスカー(=憂鬱)が私を苦しめる」という歌詞に注目している。この歌に見られるタスカーという言葉は、どうやら作曲者自身が入れたものらしい。そして、チャイコフスキーが書いた器楽によるタスカーの音楽として、交響曲第6番<悲愴>の終楽章が最後に挙げられている。ひとり<オネーギン>に限らず、実はチャイコフスキー自身がタスカーに捕えられ、魅入られた人物であったのだ、というのが渋谷氏の論旨である。
★次回から、<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ。当ブログお得意の感想文シリーズだ。と言っても、この作品の場合、私はやたら大昔の録音ばかりを中心に聴いているので、トピックのタイトルとしては、「<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演」という感じになりそうである。
●<エフゲニ・オネーギン>の主役男女
―エフゲニ・オネーギン
タイトル役であるエフゲニ・オネーギンの人物像については、複数の資料を通じてほぼ共通したイメージを得ることが出来る。まず、彼がどのような種類の人間であったかということを端的に示す言葉として、“リシュニー・チェラヴィエク”というのがあるようだ。これは「余計者」、あるいは「無用人」といった感じに訳せるロシア語で、19世紀のロシアに存在した一部の人間たちを指しているもののようである。その具体的な人物像は、おおよそ以下のようなもの。
{ お金と地位、そして余暇も教養も十分にありながら、人生に理想を見出せず、打ち込める仕事もなく、無為徒食の日々を送る人物。 } (※M・エルムレルの指揮による1979年盤<エフゲニ・オネーギン>全曲LPに付いていた日本語解説より )
―タチヤーナ
オネーギンに恋をしてふられるが、ドラマの最後には立場が逆転し、言い寄る彼を振り払うことになるタチヤーナ。この作品のヒロインである彼女についての分析や評価も様々あるが、ここでは作曲家チャイコフスキー自身の言葉を採りあげておきたい。これは、第1幕の『手紙の場』で聞かれるタチヤーナのセリフを理解する上で、大きな手助けとなるものだ。
{ タチヤーナは、オネーギンの人柄を知って好きになったのではありません。そういうものを知る必要はなかったのです。彼が現れる前から既に、タチヤーナは自分自身の小説に出て来る主人公に恋していたのです。オネーギンはただ、現われさえすればよかったのです。彼女はすぐさま自分の理想の人の特徴をオネーギンに重ね合わせ、自らの熱狂的・ロマン的な空想の人物への愛を、生身のオネーギンに移し変えるのです。 } (※チャイコフスキーがタニェエフに宛てた1878年1月2日付の書簡より )
●「3つの抒情的情景」という肩書き
上の手紙の中でチャイコフスキーは、<エフゲニ・オネーギン>がオペラとしては成功しないであろうことを予見すると同時に、「抒情的情景」のような呼び名をこの作品に付けるつもりでいることも述べている。では、そうして付けられた「3つの抒情的情景」という肩書きには、どのような意味合いがあったのか。それを読み解く有力な手がかりの一つとして、『名作オペラ・ブックス25 エフゲニ・オネーギン』(音楽之友社)の9~30ページに掲載されたアッティラ・チャンパイ氏の論文「チャイコフスキーの3つの小悲劇」を挙げることが出来ると思う。同氏が展開している論旨によると、<エフゲニ・オネーギン>は、「それぞれ別々の主人公を持った3つのドラマの集合体」のように把握できるようだ。具体的に見ていくと、まず第1幕が「タチヤーナの悲劇」、続く第2幕が「レンスキーの悲劇」、そして最後の第3幕が「オネーギンの悲劇」ということになる。以下、同氏の論文を土台にして、私なりの言い方で各幕を要約してみることにしたい。
〔 第1幕 〕・・・タチヤーナの悲劇
第1幕の舞台は、タチヤーナを含む彼女の家族一同が暮らすお屋敷。開幕直後に聴かれる4人の女性たちによるアンサンブル、それに続く農民たちの合唱、さらに主役男女4人のアンサンブルに含まれる『レンスキーの愛の歌』といった部分は、いわゆる“色づけ要素”であり、第1幕の本質は、『手紙の場』を頂点とするタチヤーナのドラマである。なお、この第1幕の幕切れは彼女の失恋シーンになっているが、村娘たちの陽気な合唱をその背景に流すことによって、ヒロインの挫折感や孤独感を一層鮮烈に浮かび立たせているのが印象深い。
〔 第2幕 〕・・・レンスキーの悲劇
冒頭で流れる音楽こそ第1幕から続くタチヤーナの恋のタスカー(=苦悩)を表すものと解釈出来るが、それに続く有名なワルツからはレンスキーのドラマとなる。まず前半は、パーティーのシーン。タチヤーナの妹であるオリガは、レンスキーが子供の頃からずっと恋してきた快活な女性だ。それを百も承知した上で、オネーギンは彼女を踊りに誘い、彼女もそれに乗る。これは、自分に対する人々の冷ややかな言葉を耳にしたオネーギンが、「レンスキーめ、つまらんところに俺を誘いやがって。よし、ちょっと仕返しにからかってやるか」と、いたずら心を起したためである。レンスキーは、オネーギンとオリガのダンスに激しく嫉妬し、怒りのヴォルテージを上昇させていく。そして、オリガと約束していたコティヨンの踊りまでもオネーギンに奪われた時、ついに彼は爆発し、オネーギンに決闘を挑む。(※チャンパイ氏の論文によると、たかが一晩のダンスを巡ってレンスキーがここまで激昂し、ついには決闘にまで事態が及んでしまったという背景には、彼がオネーギンに対して内心感じていたであろうコンプレックスと、了見の狭い田舎の社交界のプチブル的精神風土があったと分析できるようだ。)
第2幕の後半は、有名な決闘シーン。ある意味、この作品最大のハイライトと言ってもよい場面である。立会人のザレツキーらとともに、レンスキーはオネーギンを待つ。彼は自らの死を覚悟し、「過ぎ去った青春の日々よ」と有名なアリアを歌う。やがて、付添い人を一人連れてオネーギンが到着。決闘は、瞬時に決着がつく。雪原に鳴り響く銃声とともに倒れ、流れる血で雪を赤く染めながらレンスキーは絶命する。
〔 第3幕 〕・・・オネーギンの悲劇
最後の第3幕に至ってようやく、タイトル役のオネーギンが実質的な主人公となる。第1幕では、タチヤーナから愛の手紙をもらった時、「私は結婚に向いた男ではないのです」とあっさり拒否したオネーギン。第2幕では、気まぐれでからかった親友レンスキーにまさかの決闘を挑まれ、不本意な撃ち合いで彼を殺すことになってしまったオネーギン。その傷心の出来事以来、さすらいの日々を送って帰ってきたという第3幕の冒頭。「旅さえも、退屈だった。そして、ここでも退屈だ」とこぼし、人々から遊離しているオネーギン。そんな彼が、この第3幕でついに少年のような恋心にときめく。グレーミン公の奥方となったタチヤーナの美しい姿にハッとし、さらに若妻への愛を熱っぽく語る老グレーミン公の言葉を聞いて、オネーギンの心に熱い炎が燃え始めたのである。彼はタチヤーナに猛然と恋のアタックをするが、彼女は、「あなたを愛しています。でも、運命はもう決まっているのです。私は夫と生きてゆきます」と、彼を振り払って去って行く。最後、オネーギンは一人ぼっちになって叫ぶ。「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」。
●「タスカー」の作曲家としてのチャイコフスキー
音楽之友社から出ている『オペラ・キャラクター解読事典』の188~194ページに、渋谷和邦氏による大変興味深い記事が載っている。それによると、<エフゲニ・オネーギン>を読み解くための大きなキーワードは、他の言語には訳しにくい「タスカー」というロシア語にありそうだというのである。当ブログで今回書いてきた文章のあちこちにタスカーという言葉を散りばめたのは、実はこのことに触れたいからであった。
{ タスカー(=憧れ)によって始まったタチヤーナの恋は、タスカー(=ふさぎの虫)の男オネーギンによって拒絶される。その後グレーミン公の妻となったタチヤーナに恋を感じたオネーギンだが、今度は逆に彼女から拒否され、「この恥、このタスカー(=苦しみ)、みじめな運命」と叫ぶのである。 }
さらに渋谷氏は、歌劇<スペードの女王>の第3幕で聴かれるリーザのアリアにも言及し、「私の人生は喜びに満ち溢れていたのに、疲れ果ててしまった。・・・もう、私はだめです。タスカー(=憂鬱)が私を苦しめる」という歌詞に注目している。この歌に見られるタスカーという言葉は、どうやら作曲者自身が入れたものらしい。そして、チャイコフスキーが書いた器楽によるタスカーの音楽として、交響曲第6番<悲愴>の終楽章が最後に挙げられている。ひとり<オネーギン>に限らず、実はチャイコフスキー自身がタスカーに捕えられ、魅入られた人物であったのだ、というのが渋谷氏の論旨である。
★次回から、<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ。当ブログお得意の感想文シリーズだ。と言っても、この作品の場合、私はやたら大昔の録音ばかりを中心に聴いているので、トピックのタイトルとしては、「<エフゲニ・オネーギン>の歴史的名演」という感じになりそうである。